二十六

一月一日。(三十五年)
これは三年の前、小畑とゆうなるうたしるさんとくわだててつづりたるが、その白きままにて今日まで捨てられたるを取り出でて、今年の日記書きて行く。
□去年、それもまだ昨日、ついに世のかくてかかるよと思ひ定めては、またも胸の乱れて口やかましくなさけとくすべも知らず。草深き里に一人住み、一人みずから高うせんにかじ。かくては意気なしと友の笑はんも知らねど、とてもかからねばならぬわが世の運命、それにさからはん勇なきにはさらさらあらねど、二十余年めぐみ深き母の歎きに、ままよ二年三年はかくてありともくやしからじと思へばこそよ。さてかく行かんとする今年の日記よ、言はじ、ただ世にかしこかれよ、ただ平和なれよ。ついにただ無言なれよ。
□恋はついに苦しきもの、われ今またこれを捨つるもくやしからじ。加藤のそれ、かれの心事しんじふところに剣をかくすを知らぬにあらねど、争はんはさすがにうしろめたく、さらばとてかれもまたかかる人とは思ひ捨てんこそ世にかしこかるべし。
□今日始めて熊谷の小畑に手紙出す。
二日。
昨夜鈴木にて一夜幼き昔を語りあかす。
□ああわれをして少年少女を愛せしめよ。またもかくての世に神はさちを幼きものにのみ下したまへり、ああわれをして幼きものを愛せしめよ。
□ Art ! それやなんなるぞ、とてもあさましき恋に争はんとにはあらじと思へば、時にいふがごとき冷静も乱れんも知れじを、ああなどて好ましからぬ思ひの添ふぞ、はかなきことなるかな。ああついに終にかくてかかるなり。
□夕方西にくれないほそき雲棚引たなびき、のぼるほど、うす紫より終に淡墨うすずみに、下に秩父の山黒々とうつくしけれど、そは光あり力あるそれにはあらで、冬の雲は寒く寂しき、たとへんに恋にやぶれ、世に捨てられて終に冷えたるある者の心のごときか。
三日。
昼より風出でてこずえることしきりなり、冬の野は寒きかな、すさあらしのすさまじきかな。人の世を寒しと見て野に立てば、さてはいづれに行かん。夕べの迷ひにまたも神に「救へ」と呼ばんの願ひなきにあらず。
四日。
夕方、沢田来る。加藤われらをすすめて北川にかるた取りに行く。かれやなんらの友情も知らぬもの、友を売りてわが利を得んとするものか。また例の「君の望むことにてわが力にてできべき限りにおいて言へ」を言ふ。われ曰く「なし」と。このげんはたして、かれの心よりの言葉か。
五日。
たま/\学友会の大会に招かれて行く。すなはち立ちて、「集会において時間の約を守るべきこと」につきてぶ。かくのごとき会合において演壇に立ちしは初めてなれば心少しくためらひなきにあらざりしが、思ひしより冷静をもってをはりたり。余興として小燕林こえんりんの講談あり。
六日。
加藤と雪子と鈴木君の妹の君とかるた取る。
□夜、戸の外に西風寒く吹く。ああわれはこの力弱き腕を自己を、高きに進ますすら容易ならざるに、なほも一人の母と一人の父とのために走らざるべからざるか、さもあらばあれ、冷酷なる運命の道にすさむ嵐をしてそのままに荒しめよ。われに思ふ所あり、なんぞみだりになんじ渦中かちゅうに落ち入らんや。
 松は男の立ち姿
 意地にゃまけまい、ふけふけ嵐、
 枝は折れよと根は折れぬ(正直正太夫しょうじきしょうだゆう
□このごろのこがらしに、さては南の森陰に、弟の弱きむくろはいかにあるらん。心のみにて今日も訪はず。かくて明日みょうにちは東に行く身なり。
七日。
羽生の寺に帰る。
心にはかくと思ひ定めたれど、さすがに冬枯れの野は淋しきかな。
□○子よ、御身おんみは今はたいかにおはすや。笑止やわれはなほ御身をへり。さはれ、ああさはれとてもかかる世ならばわれはただ一人恋うて一人泣くべきに、何とて御身をわずらはすべきぞ。
主の僧ととろろ食うて親しく語る。夜、寒し。
九日。
今朝けさ、この冬、この年の初雪を見る。
夜、荻生君来たり、わがために炭と菓子とをもたらす。冷やかなる人の世に友の心の温かさよ。願はくばわれをして友に誠ならしめよ。(夜十時半記)
□十日より二十日まで
この間十日余り一日、思ひは乱れて寺へも帰らず。かくていんの願ひにはあらねど、さすが人並ひとなみかしこく悟りたるものを、さらでも尚とやせんかくやすらんのまどひ、はては神にすがらん力もなくて、人とも多くは言はじな、語らじなと思へば、いとものうくて、日ごろ親しき友にふみかんもや、行田へ行かんもいとふにはあらねどまたものうく、かくて絵もかけず詩も出でず、この十日は一人過ぎぬ。
□土曜日に荻生君来たり一夜を語る。じょう深く心小さき友!
□加藤は恋にひ、小畑はみずから好んで俗に入る。この間、かれの手紙に曰く「好んで詩人となるなかれ、好んで俗物となるなかれ」と。ああさても好んでしかも詩人となり得ず、さらばとて俗物となり得ず。はてはまどひのとやかくと、熱き情のふと消え行くらんやう覚えて、失意より沈黙へ、沈黙より冷静に、かくて苦笑に止まらん願ひ、とはにと言はじ、かくてしばしよと思へば悲しくもあらじ。さはれ木枯吹きすさむ夜半よわさいわいおおき友の多くを思ひては、またもこの里のさすがにさびしきかな、ままよ万事かからんのみ、奮励ふんれいばんび出でんかの思ひなきにあらねど、また静かにわが身の運命を思へば……、ああしばしはかくてありなん。
乱るる心を静むるのは幼き者と絵と詩と音楽と。
近き数日、黙々として多く語らず、一人思ひ思ふ。………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
 こういうふうにかれの日記は続いた。昨年の春ごろにくらべて、心の調子、筆の調子がいちじるしく消極的になったのをかれも気がつかずにはいられなかった。時には昨年の日記帳をひもといて読んでみることなどもあるが、そこには諧謔かいぎゃくもあれば洒落しゃれもある。笑いの影がいたるところに認められる。今とくらべて、世の中の実際を知らぬだけそれだけのんきであった。
 消極的にすべてから――恋から、世から、友情から、家庭からまったく離れてしまおうと思うほどその心は傷ついていた。寺の本堂の一はかれにはあまりに寂しかった。それに二里らずのみちを朝に夕べに通うのはめんどうくさい。かれは放浪ほうろうする人々のように、宿直べやに寝たり、村の酒屋に行って泊まったり、時には寺に帰って寝たりした。自炊がものういので、弁当をそこここで取って食った。駄菓子などで午餐ひるめしをすましておくことなどもある。本堂の一間に荻生さんが行ってみると、あるじはたいてい留守で、机の上にはちりが積もったまま、古い新声と明星とがあたりに散らばったままになっている。和尚おしょうさんは、「林君、どうしたんですか、あまり久しく帰って来ませんが……学校に何か忙しいことでもあるんですかねえ」と言った。荻生さんが心配して忙しい郵便事務のすきをみて、わざわざ弥勒みろくまで出かけて行くと、清三はべつに変わったようなところもなく、いつも無性ぶしょうにしている髪もきれいに刈り込んで、にこにこして出て来た。「どうもこの寒いのに、朝早く起きて通うのが辛いものだからねえ、君、ここで小使といっしょに寝ていれば、小供がぞろぞろやってくる時分までゆっくりと寝ていられるものだから」などと言った。八畳の一間で、長押なげしの釘には古袴ふるばかまだの三尺帯だのがかけてある。机には生徒の作文の朱で直しかけたのと、かれがこのごろ始めた水彩画の写生しかけたのとが置いてあった。教授が終わって校長や同僚が帰ってから、清三は自分で出かけて菓子を買って来て二人で食った。かれは茶を飲みながら二三枚写生したまずい水彩画を出して友に示した。学校の門と、垣で夕日のさし残ったところと、暮靄ぼあいの中に富士の薄く出ているところと、それに生徒の顔の写生が一枚あった。荻生さんは手に取って、ジッと見入って、「君もなかなか器用ですねえ」と感心した。清三はこのごろ集めた譜のついた新しい歌曲をオルガンに合わせてひいてみせた。
 冬はいよいよ寒くなった。昼の雨は夜のみぞれとなって、あくれば校庭は一面の雪、早く来た生徒は雪達磨ゆきだるまをこしらえたり雪合戦ゆきがっせんをしたりしてさわいでいる。美しく晴れた軒には雀がやかましく百囀ももさえずりをしている。雪の来たあとの道路は泥濘でいねいが連日かわかず、高い足駄あしだもどうかすると埋まって取られてしまうことなどもある。乗合馬車は屋根のおおいまではねを上げて通った。
 机の前の障子しょうじにさし残る冬の日影は少なくとも清三の心を沈静させた。なるようにしかならんという状態から、やがて「自己のつくすだけをつくしていさぎよく運命に従おう」という心の状態になった。嘆息ためいきと涙とのあとに、静かなさびしいしかし甘い安静が来た。みぞれの降る夜半よわに、「夜は寒みあられたばしる音しきりさゆる寝覚ねざめを(母いかならん)」と歌って家の母のなさけを思ったり、「さむきさびしき夜半の床も、さはれ心静かなれば、さすがに苦しからじ」と日記に書いてみずからひとり慰めたりした。またある時は、「思うことなくて暮らさばや、わが世の昨日はさちなきにもあらず、さちありしにもあらず」と書いた。またある日の日記には、「昨夜、一個の老鼠ろうそ係蹄わなにかかる。哀れなる者よ。なんじも運命のしもとをまぬがれ得ぬ不運児か。ひそかにたすけ得させべくばたすけも得さすべきを、われも汝をかくすべきえにし持つ人間なればぞ、哀れなるものよ、むしろ汝は夜ごとの餌に迷ふよりは、かくてこのままこの係蹄わなに終われ。哀れなるものよ」と書いてあった。日曜日を羽生の寺にも行田の家にも行かず、「今日は日曜日、またしても一日をかくてここに過ごさんと一人朝は遅くまでいねたり」と書いて宿直室に過ごした。
 郁治も桜井も小畑も高等師範の入学試験を受けるために浦和に行ったという知らせがあった。孝明天皇祭の日を久しぶりで行田に帰ってみると、話相手になるような友だちはもう一人もいなかった。雪子は例のしらじらしい態度でかれを迎えた。かれはむしろ快活な無邪気なしげ子をなつかしく思うようになった。帰る時、母親は昨日からたんせいして煮てあったふなのかんろ煮を折りに入れて持たせてよこした。
 このごろはまったく世に離れて一人暮らした。新聞もめったには手にしたことはない。第五師団の分捕問題ぶんどりもんだい、青森第三連隊の雪中行軍凍死問題せっちゅうこうぐんとうしもんだい鉱毒事件こうどくじけん、二号活字は一面と二面とに毎日見える。平生へいぜいならば、新聞を忠実に注意して見るかれのこととて、いろいろと話の種にしたり日記をつけておいたりするのであるが、このごろはそんなことはどうでもよかった。人が話して聞かせても、「そうですか」と言って相手にもならなかった。愛読していた涙香るいこうの「巌窟王がんくつおう」も中途でよしてしまった。学校の庭の後ろには、竹藪たけやぶが五十坪ほどあって、夕日がいつもその葉をこして宿直室にさしこんで来るが、ある夜、その向こうの百姓家から「福は内、鬼は外」と叫ぶおやじの声がもれて聞こえた。「あ、今日は節分かしらん」と思って、清三は新聞の正月の絵付録日記を出してみた。それほどかれは世事せじにうとく暮らした。
 毎日四時過ぎになると、前の銭湯の板木はんぎの音が、静かな寒い茅葺かやぶき屋根の多い田舎の街道に響いた。
 羽生の和尚おしょうさんと酒を飲んで、
「どうです、一つ社会を風靡ふうびするようなことをやろうじゃありませんか。なんでもいいですから」
 こんなことを言うかと思うと、「自分はどんな事業をするにしても、社会の改良でも思想界の救済でも、それは何をするにしても、人間として生きている上は生きられるだけの物質は得なければならない。そしてそれはなるべく自分が社会につくした仕事の報酬として受けたいと自分は思う。それには自分は小学校の教員からだんだん進んで中学程度の教員になろうか。それとも自分はこの高き美しき小学教員の生涯を以て満足しようか」などと考えることもある。一方には多くの友だちのようにはなばなしく世の中に出て行きたいとは思うが、また一方では小学教員をたっとい神聖なものにして、少年少女の無邪気な伴侶はんりょとして一生を送るほうが理想的な生活だとも思った。友に離れ、恋に離れ、社会に離れて、わざとこの孤独な生活に生きようというような反抗的な考えも起こった。
 ある日校長が言うた。「どうです。そうして毎日宿直室に泊まっているくらいなら、寺から荷物を持って来て、ここに自炊なりなんなりしているようにしたら……。そうすれば、私のほうでもわざわざ宿直を置かないでいいし、君にも間代まだいが出なくって経済になる。第一、二里の道を通うという労力がはぶける」羽生の和尚さんもこの間行った時、「いったいどうなさるんです、こうあけていらしっては間代を頂戴するのもお気の毒だし……それに、冬は通うのにずいぶん大変ですからなア」と言った。清三は寺に寄宿するころの心地と今の心地といちじるしく違ってきたことを考えずにはいられなかった。そのころからくらべると、希望も目的も感情もまったく違ってきた。「行田文学」も廃刊した。文学に集まった友の群れも離散りさんした。かれ自身にしても、文学書類を読むよりも、絵画の写生をしたり、音楽の譜の本を集めてオルガンを鳴らしてみたりすることが多くなった。それに、行田にもそうたびたびは行きたくなくなった。かれは月の中ごろに蒲団ふとんと本箱とを羽生の寺から運んで来た。

       二十七

喜平きへいさんな、とんでもねえこんだッてなア」
「ほんにさア、今朝行く時、おらアでっくわしただアよ、網イ持って行くから、この寒いのに日振ひぶりに行くけえ、ご苦労なこっちゃなアッて挨拶しただアよ。わからねえもんただよなア」
「どうしてまアそんなことになったんだんべい?」
「ほんにさ、あすこは掘切ほっきりで、なんでもねえところだがなア」
「いったいどこだな」
「そら、あの西の勘三さんの田ン中の掘切でねていたんだッてよ。泥深い中にからだ半分はんぶん突っささったまま、首イこうたれてつめたくなったんだッてよ」
「あっけねえこんだなア」
「今日ははア、御賽日おさいにちだッてに。これもはア、そういう縁を持って生まれて来たんだんべい」
「わしらもはア、このはるア、日振ひぶりなんぞはよすべいよ」
 湯気ゆげこもったせまい銭湯の中で、村の人々はこうしたうわさをした。喜平というのは、村はずれの小屋に住んでいる、五十ばかりのおやじで、雑魚ざこどじょうを捕えては、それを売って、その日その日の口をぬらしていた。毎日のように汚ないふうをして、古いつくろった網をかついで、川やら掘切ほっきりやらに出かけて行った。途中で学校の先生や村役場の人などにでっくわすと、いつもていねいに辞儀じぎをした。それが今日掘切の中でこごえて死んでいたという。清三は湯につかりながら、村の人々のさまざまにうわさし合うのを聞いていた。こうして生まれて生きて死んで行く人をこうして噂し合っている村の人々のことを考えずにはいられなかった。古網ふるあみを張ったまま、泥の中にこごえた体を立てて死んでいたおやじのさまをも想像した。ぼうとした湯気の中に水槽みずおけに落ちる水の音が聞こえた。

       二十八

 授業もすみ、同僚もおおかた帰って、校長と二人で宿直室で話していると、そこに、雑魚ざっこ売りがやって来た。
「旦那、ふなをやすく買わんけい」
 障子しょうじをあけると、にこにこした爺が、笭箵びくをそこに置いて立っていた。
「鮒はいらんなア」
「やすく負けておくで、買ってくんなせい」
 校長さんは清三をかえりみて、「君はいりませんか、やすけりゃ少し買って甘露煮かんろににしておくといいがね」と言った。で、二人は縁側に出てみた。
 二つの笭箵びくには、五寸ぐらいから三寸ぐらいの鮒が金色こんじきの腹を光らせてゴチャゴチャしている。
「少し小さいな」
 と校長さんは言った。
 「小さいどころか、甘露煮にするにはこのくらいがだアな。それに、板倉いたくらで取れたんだで、骨はやわらけい」
 種類としてはたちのいいふななのを校長はすぐ見てとった。利根川とねがわを渡って一里、そこに板倉沼というのがある。沼のほとりに雷電らいでんを祭った神社がある。そこらあたりは利根川の河床かわぞこよりも低い卑湿地ひしっちで、小さい沼が一面にあった。上州じょうしゅうから来る鮒や雑魚ざっこのうまいのは、ここらでも評判だ。
「幾がけだね?」
「七なら高くはねえと思うんだが」
「七は高い!」
「目方をよくしておくだで七で買ってくんなせい」
「五ぐらいならいいが」
「五なんてそんな値はねえだ。じゃいま半分引くべい」
 清三は校長さんの物を買うのに上手なのを笑って見ていた。六がけで話がまって、小使がそこにおけばちとを運んで来た。ピンとするほどはかりをまけた鮒はヒクヒクとあぎとを動かしている。おやじはやがて[#「やがて」は底本では「やがで」]ぜにを受け取って軽くなった笭箵びくをかついで帰って行く。
「やすい、やすい。これを煮ておきゃ、君、十日もありますよ」
 こう言って校長さんは、鮒の中でも大きいのを一尾つかんで、「どうも、上州の鮒はいい、コケがまるでこっちで取れたのとは違うんですからな」と言って清三に示した。半分に分けて、小桶に入れて、小使が校長さんの家に持って行った。
 その日はふなの料理に暮れた。俎板まないたの上でコケを取って、金串かなぐしにそれをさして、囲爐裏いろりに火を起こして焼いた。小使はそのそばでせっせと草鞋わらじを造っている。一ぴきで金串がまったくめられるような大きなのも二つ三つはあった。薄くこげるくらいに焼いて、それをわらにさした。
「ずいぶんあるもんだね」と数えてみて、「十九くしある」
「やすかっただ、校長さん負けさせる名人だ。これくらいの鮒で六っていう値があるもんかな」
 小使はそばから言った。
 試みに煮てみようと言うので、五串ばかり小鍋に入れて、焜爐こんろにかけた。寝る時あじわってみたが骨はまだかたかった。
 自炊生活は清三にとって、けっきょく気楽でもあり経済でもあった。多くは豆腐と油揚げと乾鮭からざけとで日を送った。鮒の甘露煮は二度目に煮た時から成功した。砂糖をあまり使い過ぎたので、分けてやった小使は「林さんの甘露煮は菓子を食うようだア」と言った。生徒は時々萩の餅やアンビ餅などを持って来てくれる。もろこしと糯米もちごめで製したという餡餅あんころなどをも持って来てくれる。どうかして勉強したい。田舎いなかにいて勉強するのも東京に出て勉強するのも心持ち一つで同じことだ。学費を親から出してもらう友だちにも負けぬように学問したいと思って、心理学や倫理学などをせっせと読んだが、余儀なき依頼で、高等の生徒に英語を教えてやったのが始まりで、だんだんナショナルの一や二を持っておそわりに来るものが多くなって、のちには、こうひまをつぶされてはならないと思いながら、夜はたいてい宿直室に生徒が集まるようになった。
 二月の末には梅が咲きめた。障子をあけると、竹藪たけやぶの中に花が見えて、風につれていい匂いがする。
 一日あるひ、かれは机に向かって、
ひなはさびしきこの里に
  さきてでにし白梅や、
いだきてただ一人
  低くしらぶる春の歌、
 と歌って、それを手帳に書いた。淋しい思いが脈々として胸にのぼった。ふとそばに古い中学世界に梅の絵に鄙少女ひなおとめを描いた絵葉書のあるのを発見した。かれはそれを手に取ってその歌を書いて、「都を知らぬ鄙少女」としょして、さてそれを浦和の美穂子のもとに送ろうと思った。けれど監督の厳重な寄宿舎のことを思ってよした。ふと美穂子の姉にいく子というのがあって、音楽が好きで、その身も二三度手紙をやり取りしたことがあるのを思い出して、譜をつけてそこにやることにした。
 かれは夕暮れなど校庭を歩きながら、この自作の歌を低い声で歌った、「低くしらぶる春の歌」と歌うと、つくづく自分のさびしいはかない境遇が眼の前に浮かび出すような気がして涙が流れた。
 このごろ、友だちから手紙の来るのも少なくなった。熊谷の小畑にも、この間行った時、処世上の意見が合わないので、議論をしたが、それからだいぶうとうとしく暮らした。郁治から来る手紙には美穂子のことがきっと書いてあるので、返事を書く気にもならなかった。それに引きかえて、弥勒みろくの人々にはだいぶ懇意になった。このころでは、どこのいえに行っても、先生先生と立てられぬところはない。それに、同僚の中でも、師範校出のきざな意地の悪い教員が加須かぞに行ってしまったので、気のおける人がなくなって、学校の空気がしっくり自分に合って来た。
 物日ものびの休みにも、日曜日にも、たいてい宿直室でくらした。利根川を越えて一里ばかり、高取たかとりというところに天満宮があって、三月初旬の大祭には、近在から境内けいだい立錐りっすいの地もないほど人々が参詣した。清三も昔一度行ってみたことがある。見世物、露店ろてん――鰐口わにぐちの音がたえず聞こえた。ことに、手習てならいが上手になるようにと親がよく子供をつれて行くので、その日は毎年学校が休みになる。午後清三が宿直室で手紙を書いていると、参詣に行った生徒が二組三組寄って行った。

       二十九

 発戸ほっとには機屋はたやがたくさんあった。いちごとに百たん以上町に持って出る家がすくなくとも七八軒はある。もちろん機屋といっても軒をつらねて部落をなしているわけではない。ちょっと見ると、普通の農家とはあまり違っていない。蠶豆そらまめ莢豌豆さやえんどうの畑がまわりを取り巻いていて、夏は茄子なすび胡瓜きゅうりがそこら一面にできる。玉蜀黍とうもろこし広葉ひろばもガサガサと風になびく。
 けれど家の中にはいると、様子がだいぶ違う、藍瓶あいがめが幾つとなく入り口の向こうにあって、そこに染工職人がせっせと糸を染めている。白い糸が山のように積んであると、そのそばでやとにんがしきりにそれをり分けている。反物たんものを入れる大きな戸棚も見える。
 前の広庭には高い物干し竿が幾列いくならびにも順序よく並んでいて、朝から紺糸こんいとがずらりとそこに干しつらねられる。糸を座繰ざぐりの音が驟雨しゅううのようにあっちこっちからにぎやかに聞こえる。
 機屋のまわりには、賃機ちんばたを織る音がさかんにした。
 あたりの村落のしんとしているのに引きかえて、ここには活気が充ちていた。金持ちも多かった。他郷からはいって来た若い男女もずいぶんあった。
 発戸ほっとは風儀の悪い村と近所から言われている。埼玉新報の三面だねにもきっとこの村のことが毎月一つや二つは出る。機屋はたやの亭主が女工を片端かたはしからかんして牢屋ろうやに入れられた話もあれば、利根川にのぞんだがけから、越後えちごの女と上州じょうしゅうの男とが情死しんじゅうをしたことなどもある。街道に接して、だるま屋も二三軒はあった。
 八月が来ると、盛んな盆踊ぼんおどりが毎晩そこで開かれた。学校に宿直していると、その踊る音が手にとるように講堂の硝子がらすにひびいてはっきりと聞こえる。十一時を過ぎても容易にやみそうな気勢けはいもない。昨年の九月、清三が宿直に当たった時は、ちょうど月のさえた夜で、垣には虫の声が雨のように聞こえていた。「発戸の盆踊りはそれは盛んですが、林さん、まだ行ってみたことがないんですか。それじゃぜひ一度出かけてみなくってはいけませんな……けれど、林さんのような色男はよほど注意しないといけませんぜ、そでぐらいちぎられてしまいますからな」と訓導の杉田が笑いながら言った。しかし清三は行ってみようとも思わなかった。ただそのおもしろそうな音が夜ふけまで聞こえるのを耳にしたばかりであった。
 そのほかにも、発戸ほっとのことについて、清三の聞いたことはいくらもあった。一二年前まではここに男ぶりのいい教員などが宿直をしていると、発戸の女は群れをなして、ずかずかと庭からはいって来て、ずうずうしく話をしていくことなどもあったという。それから生徒を見ても、発戸の風儀の悪いのはわかった。同じ行儀の悪いのでもそこから来る生徒は他とは違っていた。野卑やひな歌を口ぐせに教場で歌って水を満たした茶碗を持って立たせられる子などもあった。
 春になって、野にすみれが咲くころになると、清三は散歩を始めた。古ぼけた茶色の帽子をかぶった背のすらりとしたやせぎすな姿はそこにもここにも見えた。百姓は学校の若い先生が野川の橋の上に立って、ぼんやりと夕焼けの雲を見ているのを見たこともあるし、朝早く役場の向こうの道を歩いているのに出会うこともあった。役場の小使と立ち話をしていることもあれば、畠にいる人々と挨拶あいさつしていることもある。時には、学校の女生徒を、二三人つれて、林の中で花をませて花束を作らせたりなんかしていることなどもある。
 弥勒野みろくのの林のかどで、夕暮れの空を写生していると、
「やア、先生だ、先生だ!」
「先生が何か書いてらア」
「やア画をいてるんだ!」
「あの雲を描いてるんだぜ」
 などと近所の生徒がぞろぞろとそのまわりに集まって来る。
「うまいなア、先生は」
「それは当たり前よ、先生じゃねえか」
「あああれがあの雲だ」
「その下のがあのうちだ」
 黙って筆を運ばせていると、勝手なことを言ってしゃべっている。どうしてあんなうまく書けるのかと疑うかのように、じっと先生の顔をのぞきこむ子などもあった。翌日学校に行くと、その生徒たちはめずらしいことを見て知っているというふうにそれを他の生徒に吹聴ふいちょうした。「先生、昨日書いてた絵を見せてください!」などと言った。
 清三はだんだん近所のことにくわしくなった。林の奥に思いもかけぬ一軒家があることも知った。豪農の家のかしの垣の向こうにやなぎの生えた小川があって、そこに高等二年生で一番できる女生徒の家があることをも知った。その家には草の茂った井戸があって桔※はねつるべ[#「槹」の「白」に代えて「自」、168-11]がかかっていた。ちょうどその時その娘はそこに出ていた。「お前の家はここだね」と言って通り抜けようとすると、「おっかさん、先生が通るよ!」と言った。母親は小川で後ろ向きになってせっせと何か物を洗っていた。加須かぞに通う街道には畠があったり森があったりはんの並木があったりした。ある時ならの林の中に色のこいすみれが咲いていたのを発見して、それを根ごしにして取って来てはちに植えて机の上に置いた。村をはずれると、街道は平坦へいたん田圃たんぼの中に通じて、白い塵埃ちりほこりがかすかな風にあがるのが見えた。機回はたまわりの車やつかれた旅客などがおりおり通った。
 ある夜、学校の前の半鐘が激しく鳴った。竹藪の向こうに出て見ると、空がぼんやり赤くなっている。やがてその火事は手古林てこばやしであったことがわかった。翌々日の散歩に、ふと気がつくと、清三はその焼けた家屋の前に立っているのを発見した。この間焼けたのはこの家だなとかれは思った。それは村道に接した一軒家で、わらでかこった小屋けがもうその隅にできていた。焼けあとには灰や焼け残りの柱などが散らばっていて、井戸側の半分焼けた流しもとでは、たすきをした女がしきりに膳椀ぜんわんを洗っている。小屋掛けの中からは村の人が出たりはいったりしている。かれは平和な田舎に忽然こつねんとして起こった事件を考えながら歩いた。一夜の不意のできごとのために、一家の運命に大きな頓座とんざを来たすべきことなどをも思いやらぬわけにはいかなかった。金銭のとうとい田舎では新たに一軒の家屋を建てるためにもある個人の一生を激しい労働についやさねばならぬのである。かれはただただ功名に熱し学問に熱していた熊谷や行田の友人たちをこうしたハードライフを送る人々にくらべて考えてみた。続いて日ごとに新聞紙上にあらわれるえらい人々のライフをも描いてみた。豪い人にはそれはなりたい、りっぱな生活を送りたい。しかし平凡に生活している人もいくらもある。一家の幸福――弱い母の幸福を犠牲にしてまでも、功名におもむかなくってはならぬこともない。むしろ自分は平凡なる生活に甘んずる。こう考えながらかれは歩いた。
 寒い日にからだを泥の中につきさしてこごえ死んだおやじ掘切ほっきりにも行ってみたことがある。そこにはあしかやとが新芽を出して、かわずが音を立てて水に飛び込んだ。森の中には荒れはてたやしろがあったり、林のかどからは富士がよく見えたり、田に蓮華草れんげそうが敷いたようにみごとに咲いていたりした。それにこうして住んでみると、聞くともなしに村のいろいろな話が耳にはいる。家事を苦にして用水に身を投げた女の話、旅人りょじんにだまされて林の中にり込まれて強姦ごうかんされた村の子守りの話、三人組の強盗が抜刀ばっとう上村かみむらの豪農の家にはいって、主人と細君とをしばり上げて金を奪って行った話、まゆ仲買なかがいの男と酌婦しゃくふ情死しんじゅうした話など、聞けば聞くほど平和だと思った村にも辛い悲しいライフがあるのを発見した。地主と小作人との関係、富者と貧者のはなはだしい懸隔けんかく、清い理想的の生活をして自然のおだやかなふところに抱かれていると思った田舎もやっぱり争闘のちまた利欲りよくの世であるということがだんだんわかってきた。
 それに、田舎は存外猥褻わいせつ淫靡いんびで不潔であるということもわかってきた。人々の噂話うわさばなしにもそんなことが多い。やれ、どこの娘はどうしたとか、どこのかみさんはどこの誰と不義をしているとか、誰はどこにこっそりめかけをかこっておくとか、女のことで夫婦喧嘩が絶えないとか、そういうことがたえず耳を打つ。それに、そうした噂がまんざら虚偽うそでないという証拠しょうこも時には眼にもうつった。
 かれは一日あるひ、また利根川のほとりに生徒をつれて行ったが、その夜、次のような新体詩を作って日記に書いた。
松原遠く日は暮れて
  利根のながれのゆるやかに
ながめ淋しき村里の
  ここに一年ひととせかりのいお
はかなき恋も世も捨てて
  願ひもなくてただ一人
さびしく歌ふわがうたを
  あはれと聞かんすべもがな
 かれは時々こうしたセンチメンタルな心になったが、しかしこれはその心の状態のすべてではなかった。村の若い者が夜遅くなってから、栗橋の川向こうの四里もある中田まで、女郎買いに行く話などをもおもしろがって聞いた。大越おおごえから通う老訓導は、酒でものむと洒脱しゃだつな口ぶりで、そこから近いその遊廓ゆうかくの話をして聞かせることがある。群馬埼玉の二県はかつて廃娼論はいしょうろんの盛んであった土地なので、その管内にはだるまばかり発達して、遊廓がない。足利の福井は遠いし、佐野のあら町は不便だし、ここらから若者が出かけるには、茨城県の古河こが中田なかだかに行くよりほかしかたがない。中田には大越まで乗合馬車の便がある。大越から土手の上を二里ほど行って、利根の渡しをわたれば中田はすぐである。「店があれでも五六軒はありますかなア。昔、奥州街道が栄えた時分には、あれでもなかなかにぎやかなものでしたが、今ではだめですよ。私など、若い時にはそれはよく出かけたものですなア。利根川の渡しをいつも夕方に渡って行くんだが、夕焼けの雲が水にうつって、それはおもしろかったのですよ」と老訓導は笑って語った。
 時には、
「今の若い者はどうもかた過ぎる。学問をするから、どうしてもそんなことはばかばかしくってする気になれんのかしれんが、海老茶えびちゃとか庇髪ひさしがみとかに関係をつけると、あとではのっぴきならんことが起こって、身の破滅になることもある。それに、一人でほんばかり読んでいるのは、若い者にはしですよ、神経衰弱になったり、華厳けごんに飛び込んだりするのはそのためだと言うじゃありませんか。青瓢箪あおびょうたんのような顔をしている青年ばかりこしらえちゃ、学問ができて思想が高尚になったって、なんの役にもたたん、ちと若い者は浩然こうぜんの気を養うぐらいの元気がなくっちゃいけませんなア」
 などという。
 清三が書籍ほんばかり見て、あおい顔をして、一人さびしそうにして宿直室にいると、「あんまり勉強すると、肺病が出ますぜ、少し遊ぶほうがいい。学校の先生だッて、同じ人間だ。そう道徳倫理で束縛そくばくされては生命がつづかん」こう言って笑った。校長が師範学校から出た当座、まだ今の細君ができない時分、川越でひどい酌婦にかかって、それがばれそうになって転校した話や、ついこの間までいた師範出の教員が小川屋の娘に気があって、毎晩張りに行った話などをして聞かせたのもやはり、この老訓導であった。宿直室に来てから、清三はいろいろな実際を見せられたり聞かせられたりした。中学校の学窓や親の家や友だちのサアクルや世離れた寺の本堂などで知ることのできないことをだんだん知った。
 発戸ほっとのほうに散歩をしだしたのは、田植え唄が野に聞こえるころからであった。花が散ってやがて若葉が新しい色彩を村にみなぎらした。路のかどはたを織っている女の前に立って村の若者が何かしゃべっていると、女は知らん顔でせっせとおさを運んでいる。はた屋の前には機回りの車が一二台置いてあって、物干しに並べてかけた紺糸が初夏の美しい日に照らされている。あいの匂いがどこからともなくプンとして来る。竹藪の陰からやさしい唄がかすかに聞こえる。
 加須かぞ街道方面とはまったく違った感じをかれに与えた。むこうはしんとしている。人気ひとけにとぼしい。娘などもあまり通らない。がいして活気にとぼしいが、こちらはどの家にもこの家にも糸を繰る音と機を織る音とがひっきりなしに聞こえる。村から離れて、田圃たんぼの中に、飲食店が一軒あって夕方など通ると、若い者が二三人きっと酒を飲んでいる。亭主はだらしないふうで、それを相手にむだ話をしている。かかあは汚ない鼻たらしの子供を叱っている。
 発戸ほっとの右に下村君したむらぎみつつみ名村なむらなどという小字こあざがあった、藁葺屋根わらぶきやねあしたの星のように散らばっているが、ここでは利根川は少し北にかたよって流れているので、土手に行くまでにかなりある。土手にはやはり発戸河岸がしのようにところどころに赤松が生えていた。しの竹も茂っていた。朝露のしとどに置いた草原の中にあざみやら撫子なでしこやらが咲いた。
 土手の上をのんきそうに散歩しているかれの姿をあたりの人々はつねに見た。松原の中にはいって、草をしいて、喪心そうしんした人のように、前に白帆のしずかに動いて行くのを見ていることもある。「学校の先生さん、いやに蒼い顔しているだア。女さア欲しくなったんだんべい」と土手下の元気なばばあが言った。機織り女の中にも、清三の男ぶりのいいのに大騒ぎをして、その通るのを待ち受けて出て見るものもある。下村君したむらぎみの村落にはいろうとするところに、大和障子やまとしょうじを半分あけて、せっせと終日機を織っている女がある。丸顔の、眼のぱっちりした、まゆの切れのいい十八九の娘であった。清三はわざわざ回り道していつもそこを通った。見かえる清三の顔を娘も見かえした。
 ある時こういうことがあった。土手の松原から発戸のほうに下りようとすると、向こうからはた織り女が三人ほどやって来た。清三はなんの気もなしに近寄って行くと、女どもはげたげた笑っている。一人の女が他の一人を突つくと、一人はまた他の一人を突っついた。清三は不思議なことをしていると思ったばかりで、同じ調子で、ステッキを振りながら歩いて行った。坂には両側からしげったならの若葉が美しく夕日に光ってチラチラした。通りすがる時、女どもは路をよけて、笑いたいのをしいて押さえたというような顔をして、男を見ている、からかう気だなということが始めてわかったが、しかしべつだん悪い気もしなかった。侮辱ぶじょくされたとも気まりが悪いとも思わなかった。むしろこっちからも相手になってからかってやろうかと思うくらいに心の調子が軽かった。通り過ぎて一二間行ったと思うと、女どもはげたげた笑った。清三がふり返ると一番年かさの女がお出でお出でをして笑っている。こっちでも笑って見せると、ずうずうしく二歩ふたあし三歩みあし近寄って来て、
「学校の先生さん!」
 一人が言うと、
「林さん!」
「いい男の林さん!」
 と続いて言った。名まで知っているのを清三は驚いた。
「いい男の林さん」もかれには、いちじるしく意外であった。曲がり角でふり返って見ると、女どもは坂の上の路にかたまって、こちらを見ていた。
 川向こうの上州の赤岩付近では、女の風儀の悪いのは非常で、学校の教員は独身ではつとまらないという話を思い出した。なんでもそこでは、先生が独身で下宿などをしてると、夏の夜など五人も六人も押しかけて行って、無理やりにつれ出してしまうという。しかたがないから、夜はかぎをかけておく。こうそこにつとめていた人が話した。かれは心にほほえみながら歩いた。
 だるまやもそこに一二軒はあった。昼間はいやにあおい顔をした女がだらしのないふうをして店に出ているが、夜になると、それがみんなおつくりをして、見違ったようにきれいな女になって、客を対手あいてにキャッキャッと騒いでいる。だんだん夏が来て、その店の前のたなの下には縁台が置かれて、夕顔の花が薄暮はくぼの中にはっきりときわだって見える。
貴郎あなた、どうしたんですよ、このごろは」
「だッてしかたがない、忙しいからナア」
「ちゃんとたねは上がってるよ、そんなこと言ったッて」
「種があるなら上げるさ」
「憎らしい、ほんとうに浮気者!」
 ピシャリと女が男の肩を打った。
「痛い! ばかめ」
 と男が打ちかえそうとする。女は打たれまいとする。男の手と女の腕とが互いにからみあう。女はからだを斜めにして、足を縁台の外に伸ばすと、赤い蹴出けだしと白いもものあたりとが見えた。
 清三はそうしたそばを見ぬようにして通った。
 夜はことに驚かれた。みちのほとりに若い男女がいく組みとなく立ち話をしている。闇には、白地の浴衣ゆかたがそこにもここにも見える。笑う声があっちこっちにした。
 今年の夏休みがやがて来た。小畑と郁治とは高等師範の入学試験に合格して、この九月からは東京に行くことにきまった。桜井は浅草の工業学校に入学した。その合格の知らせが来たのは五月ごろであったが、かれは心の煩悶はんもんをなるたけ表面に出さぬようにして、落ち着いた平凡なふつうの祝い状を三人に出しておいた。六月に、行田に行った時に、ちょっと郁治に会ったが、もう以前のような親しみはなかった。会えば、さすがに君僕で隠すところなく話すが、別れていれば思い出すことがすくなく、したがって、訪問もめったにしなかった。
 美穂子にも一度会った。ほおのあたりがえて、眼にはやさしい表情があった。けれど清三の心はもうそれがために動かされるほどその影がこくうつっておらなかった。ただ、見知みししの女のように挨拶あいさつして通った。やがて八月の中ごろになって郁治は東京に行った。石川もこのごろは病気で鎌倉に行っている。熊谷の友だちで残っているものは、学校にいるころもそう懇意こんいにしていなかった人々ばかりだ。清三もつまらぬから、どこか旅でもしてみようかと思った。けれど母親の苦しい家計を見かねて五円渡してしまったので、財布にはもういくらも残っていない。近所の山にも行かれそうにもない。で、月の二十日には、どうせ狭い暑いうちに寝てるよりは学校の風通しのよい宿直室のほうがいいと思って、弥勒みろくへと帰って来た。途中で、久しぶりで成願寺に寄ってみると、和尚おしょうさんは昼寝をしていた。
 風通しのよい十畳で話した。和尚さんはビールなどを出してチヤホヤした。ふと、そこに廂髪ひさしがみって、紫色の銘仙めいせん矢絣やがすりを着て、白足袋をはいた十六ぐらいの美しい色の白い娘が出て来た。
 帰りに荻生さんに会って聞くと、
「あれは、君、和尚さんのめいだよ。夏休みに東京から来てるんだよ。どうも、田舎いなかの土臭い中に育った娘とは違うねえ。どこかハイカラのところがあるねえ」
 こう言って笑った。荻生さんはいぜんとしてもとの荻生さんで、町の菓子屋から餅菓子を買って来てご馳走した。郵便事務の暑い忙しいなかで、暑中休暇もなしに、不平も言わずに、生活している。友だちのズンズン出て行くのをうらやもうともしない。清三の心持ちでは、荻生さんのようなあきらめのよい運命に従順な人は及びがたいとは思うが、しかしなんとなくあきたらないような気がする。楽しみもなく道楽もなくよくああして生きていられると思う。その日、「どうです、あまりつまらない。一つ料理屋へでも行って、女でも相手にして酒でも飲もうじゃありませんか」と言うと、「酒を飲んだッてつまらない」と言って賛成しなかった。清三は暑い木陰のないほこり道を不満足な心持ちを抱いて学校に帰って来た。