扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋の扉と同じ色恰好をした扉が、左右に五つずつ、向い合って並んでいる。その廊下の突当りの薄暗い壁のくぼみの中に、やはり私の部屋の窓と同じような鉄格子と鉄網かなあみで厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが、今朝早くの真夜中に……ブウンンンとうなって、私の眼を醒まさした時計であろう。どこから手を入れて螺旋ねじをかけるのか解らないが、旧式な唐草模様の付いた、物々しい恰好の長針と短針が、六時四分を指し示しつつ、カックカックと巨大な真鍮の振子球ふりこだまを揺り動かしているのが、何だか、そんな刑罰を受けて、そんな事を繰り返させられている人間のように見えた。その時計に向って左側が私の部屋になっていて、扉の横に打ち付けられた、長さ一尺ばかりの白ペンキ塗の標札には、ゴジック式の黒い文字で「精、東、第一病棟」と小さく「第七号室」とその下に大きく書いてある。患者の名札は無い。
 私は二人の看護婦に手を引かれるまにまに、その時計に背中を向けて歩き出した。そうして間もなく明るい外廊下に出ると、正面に青ペンキ塗、二階建の木造西洋館があらわれた。その廊下の左右は赤い血のような豆菊や、白い夢のようなコスモスや、紅と黄色の奇妙な内臓の形をした鶏頭けいとうが咲き乱れている真白い砂地で、その又むこうは左右とも、深緑色の松林になっている。その松林の上を行く薄雲に、朝日の光りがホンノリと照りかかって、どこからともない遠い浪の音が、静かに静かに漂って来る気持ちのよさ……。
「……ああ……今は秋だな」
 と私は思った。冷やかに流るる新鮮な空気を、腹一パイに吸い込んでホッとしたが、そんな景色を見まわして、立ち止まる間もなく二人の看護婦は、グングン私の両手を引っぱって、向うの青い洋館の中の、暗い廊下に連れ込んだ。そうして右手の取付とっつきの部屋の前まで来ると、そこに今一人待っていた看護婦が扉を開いて、私たちと一緒に内部なかに這入った。
 その部屋はかなり大きい、明るい浴室であった。向うの窓際に在る石造いしづくり浴槽ゆぶねから湧出す水蒸気が三方の硝子ガラス窓一面にキラキラとしたたり流れていた。その中で三人の頬ぺたの赤い看護婦たちが、三人とも揃いのマン丸い赤い腕と、赤い脚を高々とマクリ出すと、イキナリ私を引っ捉えてクルクルと丸裸体まるはだかにして、浴槽ゆぶねの中に追い込んだ。そうしてい加減、暖たまったところで立ち上るとすぐに、私を流し場の板片いたぎれの上に引っぱり出して、前後左右から冷めたい石鹸シャボンとスポンジを押し付けながら、遠慮会釈もなくゴシゴシとコスリ廻した。それからダシヌケに私の頭を押え付けると、ハダカの石鹸をコスリ付けて泡沫あわを山のように盛り上げながら、女とは思えない乱暴さで無茶苦茶に引っ掻きまわしたあとから、断りもなしにザブザブと熱い湯を引っかけて、眼も口も開けられないようにしてしまうと、又も、有無うむを云わさず私の両手を引っ立てて、
「コチラですよ」
 と金切声で命令しながら、モウ一度、浴槽ゆぶねの中へ追い込んだ。そのやり方の乱暴なこと……もしかしたら今朝ほど私に食事を持って来て、非道ひどい目に会わされた看護婦が、三人のうちまじっていて、復讐かたきを取っているのではないかと思われる位であったが、なおよく気を付けてみると、それが、毎日毎日キ印を扱い慣れている扱いぶりのようにも思えるので、私はスッカリ悲観させられてしまった。
 けれどもそのおしまいがけに、長く伸びた手足の爪をってもらって、竹柄たけえのブラシと塩で口の中を掃除して、モウ一度暖たまってから、新しいタオルで身体からだ中をぬぐい上げて、新しい黄色い櫛で頭をゴシゴシと掻き上げてもらうと、流石さすがに生れ変ったような気持になってしまった。こんなにサッパリした確かな気持になっているのに、どうして自分の過去を思い出さないのだろうかと思うと、不思議で仕様がないくらい、いい気持になってしまった。
「これとお着換なさい」
 と一人の看護婦が云ったので、ふり返ってみると、板張りの上に脱いでおいた、今までの患者服は、どこへか消え失せてしまって、代りに浅黄色の大きな風呂敷包みが置いてある。結び目を解くと、白いボール箱に入れた大学生の制服と、制帽、霜降りのオーバーと、メリヤスの襯衣シャツ、ズボン、茶色の半靴下、新聞紙に包んだ編上靴あみあげくつなぞ……そうしてその一番上に置いてある小さな革のサックを開くと銀色に光る小さな腕時計まで出て来た。
 私はそんなものを怪しむ間もなく、一つ一つに看護婦から受取って身に着けたが、そのついでに気を附けてみると、そんな品物のどれにも、私の所持品である事をあらわす頭文字のようなものは見当らなかった。しかし、そのどれもこれもは、殆ど仕立卸したておろしと同様にチャンとした折目が附いている上に、身体をゆすぶってみると、さながらに昔馴染むかしなじみでもあるかのようにシックリと着心地がいい。ただ上衣の詰襟つめえりの新しいカラが心持ち詰まっているように思われるだけで、真新しい角帽、ピカピカ光る編上靴、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボンの寸法までも、ピッタリと合っているのには驚いた。あんまり不思議なので上衣のポケットに両手を突込んでみると、右手には新しい四ツ折のハンカチと鼻紙、左手には幾何いくら這入っているかわからないが、やわらかに膨らんだ小さな蟇口がまぐちさわった。
 私は又も狐につままれたようになった。どこかに鏡はないか知らんと、キョロキョロそこいらを見まわしたが、生憎あいにく破片かけららしいものすら見当らぬ。その私の顔をやはりキョロキョロした眼付きで見返り見返り三人の看護婦が扉を開けて出て行った。
 するとその看護婦と入れ違いに若林博士が、鴨居よりも高い頭を下げながら、ノッソリと這入って来た。私の服装を検査するかのように、一わたり見上げ見下すと、黙って私を部屋の隅に連れて行って、向い合った壁の中途に引っかけてある、洗いざらしの浴衣ゆかたを取りけた。その下から現われたものは、思いがけない一面の、巨大おおきな姿見鏡であった。
 私は思わず背後うしろによろめいた。……その中に映っている私自身の年恰好が、あんまり若いのに驚いたからであった。
 今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の鬚武者ひげむしゃで、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入れをしてもらったにしても、てのひらで撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。
 眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと二十歳はたちかそこいらの青二才としか見えない。額の丸い、あごの薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。制服がなければ中学生と思われるかも知れない。こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。
 その時に背後うしろから若林博士が、催促をするように声をかけた。
「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」
 私はかむりかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷めたい唾液つばをグッとみ込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、色々な不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっと判明わかった。若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まず私に、私の過去の姿を引合わせて見せたのだ。つまり若林博士は、私の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿に私を復旧してから、突然に私の眼の前に突付けて、昔の事を思い出させようとしているのに違いなかった。……成る程これなら間違いはない。たしかに私の過去の記念物に相違ない。……ほかの事は全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、私自身の思い出の姿……。
 しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながらむくいられなかった。初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにも拘わらず、私は元の通り何一つ思い出す事が出来なかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような……馬鹿にされたような……空恐ろしいような……何ともいえない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭きうなだれていたのであった。
 その私の顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細らしく点頭うなずいた。
「……御尤ごもっともです。以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられるようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れませぬ……では、こちらへお出でなさい。次の方法を試みてみますから……。今度は、きっと思い出されるでしょう……」
 私は新らしい編上靴を穿いた足首と、膝頭ひざがしらこわばらせつつ、若林博士の背後に跟随くっついて、鶏頭けいとうの咲いた廊下を引返して行った。そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコツとノックをした。それから大きな真鍮しんちゅう把手ノッブを引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十位の附添人らしい婆さんが出て来て、叮嚀に一礼した。その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、
「只今、よくおやすみになっております」
 と慎しやかに報告しつつ、私たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。
 若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして内部なかに這入った。片手で私の手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせつつ、向うの壁の根方ねかたに横たえてある、鉄の寝台に近付いた。そうしてそこで、私の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔を、毛ムクジャラの指でソッと指し示しながら、ジロリと私を振り返った。
 私は両手で帽子のひさしをシッカリと握り締めた。自分の眼を疑って、二三度パチパチとまばたきをした。
 ……それ程に美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。
 その少女は艶々つやつやしたおびただしい髪毛かみのけを、黒い、大きな花弁はなびらのような、奇妙な恰好に結んだのを白いタオルで包んだ枕の上に蓬々ぼうぼうと乱していた。肌にはツイ私が今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい繃帯ほうたいで包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、私を悩まし苦しめたのは、たしかにこの少女であったろう。むろん、そこいらの壁には、私が今朝ほど想像したような凄惨な、血のにじんだ痕跡を一つも発見する事が出来なかったが、それにしても、あれ程の物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三日月眉、長い濃い睫毛まつげ、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった二重顎ふたえあごまで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。……否。その時の私はホントウにそう疑いつつ、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。
 すると……その私の眼の前で、不思議とも何とも形容の出来ない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り初めたのであった。
 新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、で包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛を正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。しかも、その細長い眉や、濃い睫毛や、クローバ型の小さな唇の輪廓りんかくのすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていた頬の色が、何となくさびしい薔薇ばら色に移り変って行くだけであったが、それだけの事でありながら、たった今まで十七八に見えていた、あどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人かと思われる、気品の高い表情に変って来た。そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の神々こうごうしいこと……。
 私は又も、自分の眼を疑いはじめた。けれども、眼をこすることは愚か、呼吸いきも出来ないような気持になって、なおもまたたき一つせずに、見惚みとれていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。それが見る見るうちに大きい露のたまになって、長い睫毛にまつわって、キラキラと光って、あなやと思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、かすかにふるえながら動き出して、夢のように淡い言葉が、切れ切れに洩れ出した。
「……お姉さま……お姉さま……すみませんすみません。……あたしは……あたしは心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。お姉様の大事な大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんな事に……ああ……済みません済みません……どうぞ……どうぞ……許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」
 それは、そのふるえわななく唇の動き方で、やっと推察が出来たかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。けれども、その涙は、あとからあとから新らしく湧き出して、長い睫毛の間を左右のめじりへ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした両鬢りょうびんの、すきとおるようなぎわへ消え込んで行くのであった。
 しかし、その涙はやがて止まった。そうして左右の頬に沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くにつれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、健康すこやかな、十七八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。……僅かな夢の間に五六年も年を取って悲しんだ。そうして又、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがてなごやかな微笑さえ浮かみ出たのであった。
 私は又も心の底から、ホ――ッと長い溜め息をさせられた。そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと背後うしろをふり返った。
 私の背後に突立った若林博士は、最前さっきからの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。しかし内心は非常に緊張しているらしい事が、その蝋石ろうせきのように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッとめて、今までとはまるで違った、ひびきの無い声を出した。
「……この方の……お名前を……御存じですか」
 私は今一度、少女の寝顔を振り返った。あたりをはばかるように、ヒッソリと頭を振った。
 ……イイエ……チットモ……。
 という風に……。すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声でささやいた。
「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」
 私はそう云う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きくまばたきをして見せた。
 ……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう……
 といわんばかりに……。
 すると、私がそうした瞬間に、又も云い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、私を凝視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。極めて荘重な足取で、半歩ほど前に進み出て、あたかも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつ私を見下した。暗示的な、ゆるやかな口調で云った。
「……それでは……申します。この方は、あなたのタッタ一人のお従妹いとこさんで、あなたと許嫁いいなずけの間柄になっておられる方ですよ」
「……アッ……」
 と私は驚きの声を呑んだ。ひたいを押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。
「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」
「……さよう、世にもまれな美しいお方です。しかし間違い御座いませぬ。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりました貴方あなたの、たった一人のお従妹さんです。その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日まで斯様かようにお気の毒な生活をしておられますので……」
「……………………」
「……ですから……このお方と貴方のお二人を無事に退院されまするように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正木先生から御委托を受けました私の、最後の重大な責任となっているので御座います」
 若林博士の口調は、私を威圧するかのようにゆるやかに、つ荘重であった。
 しかし私はもとの通り、狐につままれたように眼をみはりつつ、寝台の上を振り返るばかりであった。……見た事もない天女のような少女を、だしぬけに、お前のものだといって指さされたその気味の悪さ……疑わしさ……そうして、その何とも知れない馬鹿らしさ……。
「……僕の……たった一人の従妹……でも……今……姉さんと云ったのは……」
「あれは夢を見ていられるのです。……今申します通りこの令嬢には最初から御同胞ごきょうだいがおいでにならない、タッタ一人のお嬢さんなのですが……しかし、この令嬢の一千年前の祖先に当る婦人には、一人のお姉さんがられたという事実が記録に残っております。それを直接のお姉さんとして只今、夢に見ておられますので……」
「……どうして……そんな事が……おわかりに……なるのですか……」
 といううちに私は声を震わした。若林博士の顔を見上げながらジリジリと後退あとずさりせずにはおられなかった。若林博士の頭脳あたまが急に疑わしくなって来たので……他人の見ている夢の内容を、ほかから見て云い当てるなぞいう事は、魔法使いよりほかに出来る筈がない……して推理も想像も超越した……人間の力では到底、測り知る事の出来ない一千年も前の奇怪な事実を、平気で、スラスラと説明しているその無気味さ……若林博士は最初から当り前の人間ではない。事によると私と同様に、この精神病院に収容されている一種特別の患者の一人ではないか知らんと疑われ出したので……。
 けれども若林博士は、ちっとも不思議な顔をしていなかった。依然として科学者らしい、何でもない口調で答えた。依然として響の無い、切れ切れの声で……。
「……それは……この令嬢が、眼をさましておられる間にも、そんな事を云ったり、たりしておられるから判明わかるのです。……この髪の奇妙ない方を御覧なさい。この結髪のし方は、この令嬢の一千年ぜんの御先祖が居られた時代の、夫を持った婦人の髪の恰好で、時々御自身に結い換えられるのです……つまりこの令嬢は、只今でも、清浄無垢の処女でおられるのですが、しかし、御自身で、かような髪の形に結い変えておられる間は、この令嬢の精神生活の全体が、一千年前の御先祖であった或る既婚婦人の習慣とか、記憶とか、性格とかいうものに立返っておられる証拠と認められますので、むろんその時には、眼付から、身体からだのこなしまでも、処女らしいところが全然見当らなくなります。年齢としごろまでも見違えるくらい成熟された、優雅みやびやかな若夫人の姿に見えて来るのです。……もっとも、そのような夢を忘れておいでになる間は、附添人の結うがまにまに、一般の患者と同様のグルグルまきにしておられるのですが……」
 私はいた口がふさがらなかった。その神秘的な髪の恰好と、若林博士の荘重な顔付きとを惘々然ぼうぼうぜんと見比べない訳に行かなかった。
「……では……では……兄さんと云ったのは……」
「それは矢張やはり貴方の、一千年ぜんの御先祖に当るお方の事なのです。その時のお姉様の御主人となっておられた貴方の御先祖……すなわち、この令嬢の一千年前の義理の兄さんであった貴方と、同棲しておられる情景ありさまを、現在夢に見ておられるのです」
「……そ……そんな浅ましい……不倫な……」
 と叫びかけて、私はハッと息を詰めた。若林博士がゆるやかに動かした青白い手に制せられつつ……。
「シッ……静かに……貴方が今にも御自分のお名前を思い出されますれば、何もかも……」
 と云いさして若林博士もピッタリと口をつぐんだ。二人とも同時に寝台の上の少女をかえりみた。けれども最早もう、遅かった。
 私達の声が、少女の耳に這入ったらしい。その小さい、紅い唇をムズムズと動かしながら、ソッと眼を見開いて、ちょうどその真横に立っている私の顔を見ると、パチリパチリと大きく二三度まばたきをした。そうしてその二重瞼の眼を一瞬間キラキラと光らしたと思うと、何かしら非常に驚いたと見えて、その頬の色が見る見る真白になって来た。その潤んだ黒い瞳が、大きく大きく、殆んどこの世のものとは思われぬ程の美しさにまで輝やきあらわれて来た。それにれて頬の色がにわかに、耳元までもパッと燃え立ったと思ううちに、
「……アッ……お兄さまッ……どうしてここにッ……」
 と魂消たまぎるように叫びつつ身を起した。素跣足すはだしのまま寝台から飛び降りて、すそもあらわに私にすがり付こうとした。
 私は仰天した。無意識のうちにその手を払いけた。思わず二三歩飛び退いてにらみ付けた……スッカリ面喰ってしまいながら……。
 ……すると、その瞬間に少女も立ち止まった。両手をさし伸べたまま電気に打たれたように固くなった。顔色が真青になって、唇の色まで無くなった……と見るうちに、眼を一パイに見開いて、私の顔を凝視みつめながら、よろよろと、うしろに退さがって寝台の上に両手をいた。唇をワナワナと震わせて、なおも一心に私の顔を見た。
 それから少女は若林博士の顔と、部屋の中の様子を恐る恐る見廻わしていた……が、そのうちに、その両方の眼にキラキラと光る涙を一パイに溜めた。グッタリとうなだれて、石の床の上に崩折くずおれ座りつつ、白い患者服のそでを顔に当てたと思うと、ワッと声を立てながら、寝台の上に泣き伏してしまった。
 私はいよいよ面喰った。顔中一パイに湧き出した汗を拭いつつ、シャれた声でシャクリ上げシャクリ上げ泣く少女の背中と、若林博士の顔とを見比べた。
 若林博士は……しかし顔の筋肉すじ一つ動かさなかった。呆然となっている私の顔を、冷やかに見返しながら、悠々と少女に近付いて腰をかがめた。耳に口を当てるようにして問うた。
「思い出されましたか。この方のお名前を……そうして貴女あなたのお名前も……」

 この言葉を聞いた時、少女よりも私の方が驚かされた。……さてはこの少女も私と同様に、夢中遊行状態から醒めかけた「自我忘失状態」に陥っているのか……そうして若林博士は、現在、私にかけているのと同じ実験を、この少女にも試みているのか……と思いつつ、耳の穴がシイ――ンと鳴るほど緊張して少女の返事を期待した。
 けれども少女は返事をしなかった。ただ、ちょっとの、泣き止んで、寝台に顔を一層深く埋めながら、頭を左右に振っただけであった。
「……それではこの方が、貴方とお許嫁いいなずけになっておられた、あのお兄さまということだけは記憶おぼえておいでになるのですね」
 少女はうなずいた。そうして前よりも一層はげしい、高い声で泣き出した。
 それは、何も知らずに聞いていても、まことに悲痛を極めた、はらわたを絞るような声であった。自分の恋人の名前を思い出す事が出来ないために、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうして折角せっかくその相手にめぐり合って縋り付こうとしても、素気そっけなく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し初めているらしい少女の、身も世もあられぬ歎きの声であった。
 男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、おなじ苦しみを体験させられている私は、心の底までそのれ果てた泣声に惹き付けられてしまった。今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは全然まるで違った……否あの時よりも数層倍した、息苦しい立場におとしいれられてしまったのであった。この少女の顔も名前も、依然として思い出す事が出来ないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければまらないほど痛々しい少女の泣声と、そのいじらしい背面うしろ姿が、白い寝床の上に泣伏して、わななき狂うのを、どうする事も出来ないのが、全く私一人の責任であるかのような心苦しさに苛責さいなまれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになった位であった。
 けれども若林博士は、そうした私の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。
「……さ……さ……落ち付いて……おちついて……もうきに思い出されます。この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでになるのです。しかし、もう間もなく思い出されます。そうしたら直ぐに貴女にお教えになるでしょう。そうして御一緒に退院なさるでしょう。……さ……静かにおやすみなさい。時期の来るのをお待ちなさい。それは決して遠いことではありませんから……」
 こう云い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。……驚いて、弱って、暗涙あんるいを拭い拭い立ちすくんでいる私の手を引いて、サッサと扉の外に出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。廊下の向うの方で、鶏頭の花をいじっている附添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何かしら躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。
 耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。その歔欷すすり上げる呼吸の切れ目切れ目に、附添の婆さんが何か云い聞かせている気はいである。
 人造石の床の上に突立った私は、深い溜息を一つホーッときながら気を落ち付けた。とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。
……今の今まで私が夢にも想像し得なかったばかりか、恐らく世間の人々も人形以外には見た事のないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、私と壁一重ひとえを隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。
……しかもその美少女は、私のタッタ一人の従妹いとこで、私と許嫁の間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお婿むこさんであった私」というようなと同棲している夢を見ている。
……のみならずその夢から醒めて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。
……それを私から払いけられたために、床の上へ崩折くずおれて、はらわたを絞るほど歎き悲しんでいる……
 というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。
 けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急におしにでもなったかのように、ピッタリと口をつぐんでしまった。そうして冷たい、青白い眼付きで、チラリと私を一瞥しただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手で胴衣チョッキのポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出して、てのひらの上に載せた。それからその左の手頸に、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈搏を計り初めたのであった。
 身体からだの悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。しかし、それにしても、そうしている若林博士の態度には、今の今まで、あれ程に緊張していた気持が、あとかたも残っていなかった。その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷淡さが、あらわれていた。小さな眼を幽霊のように伏せて、白い唇を横一文字に閉じて、左手の脈搏の上の中指を、強く押えたり、ゆるめたりしている姿を見ると、あたかもタッタ今、隣りの部屋で見せ付けられた、不可思議な出来事に対する私の昂奮を、そうした態度で押え付けようとしているかのように見えた。……事もあろうに過去と現在と未来と……夢と現実とをゴッチャにした、変妙奇怪な世界で、二重三重の恋にもだえている少女……想像の出来ないほど不義不倫な……この上もなく清浄純真な……同時に処女とも人妻ともつかず、正気ともキチガイとも区別されない……実在不可能とも形容すべき絶世の美少女を「お前の従妹で、同時に許嫁だ」と云って紹介するばかりでなく、その証拠を現在、眼の前に見せ付けておきながら、そうした途方もない事実に対する私の質問を、故意に避けようとしているかのように見えたのであった。
 だから私は、どうしていいかわからない不満さを感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのであった。
 ……しかも……私が、何だかこの博士から鹿にされているような気持を感じたのは、実に、そのうつむいた瞬間であった。
 何故という事は解らないけれども若林博士は、私の頭がどうかなっているのに付け込んで、人がビックリするような作り話を持かけて、根も葉もない事を信じさせようと試みているのじゃないか知らん。そうして何かしら学問上の実験に使おうとしているのではあるまいか……というような疑いが、チラリと頭の中に湧き起ると、見る見るその疑いが真実でなければならないように感じられて、頭の中一パイに拡がって来たのであった。
 何も知らない私をつかまえて、思いもかけぬ大学生に扮装させたり、美しい少女を許嫁だなぞと云って紹介ひきあわせたり、いろいろ苦心しているところを見るとドウモ可怪おかしいようである。この服や帽子は、私が夢うつつになっているうちに、私の身体からだに合せて仕立てたものではないかしらん。又、あの少女というのも、この病院に収容されている色情狂か何かで、誰を見ても、あんな変テコな素振りをするのじゃないかしらん。この病院も、九州帝国大学ではないのかもしれぬ。ことによると、眼の前に突立っている若林博士も、何かしらエタイのわからない掴ませもので、何かの理由で脳味噌を蒸発させるかどうかしている私を、どこからか引っぱって来て、或る一つの勿体もったいらしい錯覚におとしいれて、何かの役に立てようとしているのではないかしらん。そうでもなければ、私自身の許嫁だという、あんな美しい娘に出会いながら、私が何一つ昔の事を思い出さない筈はない。なつかしいとか、嬉しいとか……何とかいう気持を、感じない筈はない。
 ……そうだ、私はたしかに一パイ喰わされかけていたのだ。
 ……こう気が付いて来るに連れて、今まで私の頭の中一パイにコダワっていた疑問だの、迷いだの、驚ろきだのいうものが、みるみるうちにスースーと頭の中から蒸発して行った。そうして私の頭の中は、いつの間にか又、もとの木阿弥もくあみのガンガラガンに立ち帰って行ったのであった。何等の責任も、心配もない……。
 けれども、それに連れて、私自身が全くの一人ポッチになって、何となくタヨリないような、モノ淋しいような気分に襲われかけて来たので、私は今一度、細い溜息をしいしい顔を上げた。すると若林博士も、ちょうど脈搏の診察を終ったところらしく、左掌ひだりての上の懐中時計を、やおらもとのポケットの中に落し込みながら、今朝、一番最初に会った時の通りの叮嚀な態度に帰った。
「いかがです。お疲れになりませんか」
 私は又も少々面喰らわせられた、あんまり何でもなさそうな若林博士の態度を通じて、いよいよ馬鹿にされている気持を感じながらも、つとめて何でもなさそうにうなずいた。
「いいえ。ちっとも……」
「……あ……それでは、あなたの過去の御経歴を思い出して頂く試験を、もっと続けてもよろしいですね」
 私は今一度、何でもなくうなずいた。どうでもなれ……という気持で……。それを見ると若林博士も調子を合わせてうなずいた。
「それでは只今から、この九大精神病科本館の教授室……先程申しました正木敬之まさきけいし先生が、御臨終の当日までられました部屋に御案内いたしましょう。そこに陳列してあります、あなたの過去の記念物を御覧になっておいでになるうちには、必ずや貴方の御一身に関する奇怪な謎が順々に解けて行きまして、最後には立派に、あなたの過去の御記憶の全部を御回復になることと信じます。そうして貴方と、あの令嬢にからまる怪奇を極めた事件の真相をも、一時に氷解させて下さる事と思いますから……」
 若林博士のこうした言葉には、鉄よりも固い確信と共に、何等かの意味深い暗示が含まれているかのように響いた。
 しかし私は、そんな事には無頓着なまま、頭を今一つ下げた。……どこへでも連れて行くがいい。どうせ、なるようにしかならないのだから……というような投げやりな気持で……。同時に今度はドンナ不思議なものを持出して来るか……といったような、多少の好奇心にも駈られながら……。
 すると若林博士も満足げにうなずいた。
「……では……こちらへどうぞ……」

 九州帝国大学、医学部、精神病科本館というのは、最前の浴場を含んだ青ペンキぬり、二階建の木造洋館であった。
 その中央まんなかを貫く長い廊下を、今しがた来た花畑添いの外廊下づたいに、一直線に引返して、向う側に行抜けると、監獄の入口かと思われる物々しい、鉄張りの扉に行き当った……と思ううちにその扉は、どこからかこっちを覗いているらしい番人の手でゴロゴロと一方に引き開いて、二人は暗い、ガランとした玄関に出た。
 その玄関の扉はピッタリと閉め切ってあったが多分まだ朝が早いせいであったろう。その扉の上の明窓あかりまどから洩れ込んで来る、仄青ほのあおい光線をたよりに、両側に二つ並んでいる急な階段の向って左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になって、右側に「実験室」とか「図書室」とかいう木札をかけた、いくつもの室が並んでいる。その廊下の突当りに「出入厳禁……医学部長」と筆太に書いた白紙を貼り附けた茶褐色の扉が見えた。
 先に立った若林博士は、内ポケットから大きな木札の付いた鍵を出してその扉を開いた。背後うしろを振り返って私を招き入れると、謹しみ返った態度で外套がいとうを脱いで、扉のすぐ横の壁に取付けてある帽子掛にかけた。だから私もそれにならって、霜降しもふりのオーバーと角帽をかけ並べた。私たちの靴の痕跡あとが、そのまま床に残ったところを見ると、部屋中が薄いホコリにおおわれているらしい。
 それはステキに広い、明るい部屋であった。北と、西と、南の三方に、四ツずつ並んだ十二の窓の中で、北と西の八ツの窓は一面に、濃緑色の松の枝でおおわれているが、南側に並んだ四ツの窓は、何もさえぎるものが無いので、青い青い朝の空の光りが、程近い浪の音と一所に、洪水のようにまぶしく流れ込んでいる。その中に並んで突立っている若林博士の、非常に細長いモーニング姿と、チョコナンとした私の制服姿とは、そのままに一種の奇妙な対照をあらわして、何となく現実世界から離れた、遠い処に来ているような感じがした。
 その時に若林博士は、その細長い右手をあげて、部屋の中をグルリと指さしまわした。同時に、高い処から出る弱々しい声が、部屋の隅々に、ゆるやかな余韻を作った。
「この部屋は元来、この精神病科教室の図書室と、標本室とを兼ねたものでしたが、その図書や標本と申しますのは、いずれもこの精神病科の前々主任教授をつとめていられました斎藤寿八さいとうじゅはち先生が、苦心をして集められました精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこの病院に居りました患者の製作品、もしくは身の上に関係した物品書類なぞで、中には世界の学界に誇るに足るものがすくなくありませぬ。ところがその斎藤先生が他界されましたのち、本年の二月に、正木先生が主任教授となって着任されますと、この部屋の方が明るくて良いというので、こちらの東側の半分を埋めていた図書文献の類を全部、今までの教授室に移して、その跡を御覧の通り、御自分の居間に改造してあのような美事な煖炉ストーブまで取付けられたものです。しかも、それが総長の許可も受けず、正規のとどけも出さないまま、自分勝手にされたものであることが判明しましたので、本部の塚江事務官が大きに狼狽しまして、大急ぎで届書とどけしょを出して正規の手続きをしてもらうように、言葉をひくうして頼みに来たものだそうですが、その時に正木先生は、用向きの返事は一つもしないまま、済ましてこんな事を云われたそうです。
「なあに……そんなに心配するがものはないよ。ちょっと標本の位置を並べ換えたダケの事なんだからね。総長にそう云っといてくれ給え……というのはコンナ理由わけなんだ。聞き給え。……何を隠そう、かく云う吾輩わがはい自身の事なんだが、おかげでこうして大学校の先生に納まりは納まったものの、正直のところ、考えまわしてみると吾輩は、一種の研究狂、兼誇大妄想狂に相違ないんだからね。そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分に在るという事実を、自分自身でチャント診断しているんだ。……しかしそうかといって今更、自分自身で名乗を上げて自分の受持の病室に入院する訳にも行かないからね。とりあえずこんな参考材料と一所いっしょに、自分自身の脳髄を、生きた標本として陳列してみたくなったダケの事なんだ。……むろん内科や外科なぞいう処ではコンナ必要がないかも知れないが、精神病科に限っては、その主任教授の脳髄も研究材料の一つとして取扱わなければならぬ……徹底的の研究を遂げておかねばならぬ……というのが吾輩一流の学術研究態度なんだから仕方がない。この標本室を作った斎藤先生も、むろん地下で双手を挙げて賛成して御座ると思うんだがね……」
 と云って大笑されましたので、流石さすが老練の塚江事務官もけむまかれたまま引退ひきさがったものだそうです」
 こうした若林博士の説明は、極めて平調にスラスラと述べられたのであったが、しかしそれでも私の度胆どぎもを抜くのには充分であった。今までは形容詞ばかりで聞いていた正木博士の頭脳のホントウの素破すばらしさが、こうした何でもない諧謔かいぎゃくの中からマザマザと輝やき現われるのを感じた一刹那せつなに、私は思わずゾッとさせられたのであった。世間一般が大切だいじがる常識とか、規則とかいうものを遥かに超越しているばかりでなく、冗談半分とはいいながら、自分自身をキチガイの標本ぐらいにしか考えていない気持を通じて、大学全体、否、世界中の学者たちを馬鹿にし切っている、そのアタマの透明さ……その皮肉の辛辣しんらつ、偉大さが、私にわかり過ぎるほどハッキリとわかったので、私は唯呆然としていた口がふさがらなくなるばかりであった。
 しかし若林博士は、例によって、そうした私の驚きとは無関係に言葉を続けて行った。
「……ところで、貴方あなたをこの部屋にお伴いたしました目的と申しますのは他事ほかでも御座いませぬ。只今も階下したの七号室で、ちょっとお話いたしました通り、何よりもまず第一に、かように一パイに並んでおります標本や、参考品の中で、どの品が最も深く、貴方の御注意を惹くかという事を、試験させて頂きたいのです。これは人間の潜在意識……すなわち普通の方法では思い出す事の出来ない、深い処に在る記憶を探り出す一つの方法で御座いますが、しかもその潜在意識というものは、いつも、本人に気付かれないままに常住不断の活躍をして、その人間を根強く支配している事実が、既に数限りなく証明されているのですから、貴方の潜在意識の中に封じ込められている、貴方の過去の御記憶も同様に、きっとこの部屋の中のどこかに陳列して在る、あなたの過去の記念物の処へ、貴方を導き近づけて、それに関する御記憶を、鮮やかに喚び起すに違いないと考えられるので御座います。……正木先生はかつて、バルカン半島を御旅行中に、その地方特有のイスメラと称する女祈祷師からこの方法を伝授されまして、度々の実験に成功されたそうですが……もちろん万が一にも、あなたが最前の令嬢と、何等の関係も無い、赤の他人でおいでになると致しますれば、この実験は、絶対に成功しない筈で御座います。何故かと申しますと、貴方の過去の御記憶を喚び起すべき記念物は、この部屋の中に一つも無い訳ですから……ですから何でも構いませぬ、この部屋の中で、お眼に止まるものに就て順々に御質問なすって御覧なさい。あなた御自身が、精神病に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればそのうちに、やがて何かしら一つの品物について、電光のように思い当られるところが出来て参りましょう。それが貴方の過去の御記憶を喚び起す最初のヒントになりますので、それから先は恐らく一瀉千里いっしゃせんりに、貴方の過去の御記憶の全部を思い出される事に相成りましょう」
 若林博士のこうした言葉は、やはり極めて無造作に、スラスラと流れ出たのであった。
 あたかも大人が小児こどもに云って聞かせるような、手軽い、親切な気持ちをこめて……しかし、それを聞いているうちに私は、今朝からまだ一度も経験しなかった新らしい戦慄が、心の底から湧き起って来るのを、押え付ける事が出来なくなった。
 私が先刻さっきから感じていた……何もかも出鱈目でたらめではないか……といったような、あらゆる疑いの気持は、若林博士の説明を聞いているうちに、ドン底から引っくり返されてしまったのであった。
 若林博士は流石さすがに権威ある法医学者であった。私を真実に彼女の恋人と認めているにしても、決して無理押し付けに、そう思わせようとしているのではなかった。最も公明正大な、且つ、最も遠まわしな科学的の方法によって、一分一厘の隙間すきまもなく私の心理を取り囲んで、私自身の手で直接に、私自身を彼女の恋人として指ささせようとしている。その確信の底深さ……その計劃の冷静さ……周到さ……。
 ……それならば先刻さっきから見たり聞いたりした色々な出来事は、やっぱり真実ほんとうに、私の身の上に関係した事だったのか知らん。そうしてあの少女は、やはり私の正当な従妹いとこで、同時に許嫁いいなずけだったのか知らん……。
 ……もしそうとすれば私は、いやでもおうでも彼女のために、私自身の過去の記念物を、この部屋の中から探し出してやらねばならぬ責任が在ることになる。そうして私は、それによって過去の記憶を喚び起して、彼女の狂乱を救うべく運命づけられつつ、今、ここに突立っている事になる。
 ……ああ。「自分の過去」を「狂人きちがい病院の標本室」の中から探し出さねばならぬとは……絶対に初対面としか思えない絶世の美少女が、自分の許嫁でなければならなかった証拠を「精神病研究用の参考品」の中から発見しなければならぬとは……何という奇妙な私の立場であろう。何という恥かしい……恐ろしい……そうして不可解な運命であろう。
 こんな風に考えが変って来た私は、われ知らずひたいにニジミ出る汗を、ポケットの新しいハンカチで拭いながら、今一度部屋の内部なかを恐る恐る見廻しはじめた。思いもかけない過去の私が、ツイ鼻の先に隠れていはしまいかという、世にも気味の悪い想像を、心の奥深くおののかせ、縮みこませつつ、今一度オズオズと部屋の中を見まわしたのであった。

 部屋の中央から南北に区切った西側は、普通の板張で、標本らしいものが一パイに並んだ硝子ガラス戸棚の行列が立塞たちふさがっているが、反対に東側の半分の床は、薄いホコリを冠った一面のリノリウム張りになっていて、その中央に幅四五尺、長さ二けんぐらいに見える大卓子テーブルが、中程を二つの肘掛廻転椅子に挟まれながら横たわっている。その大卓子の表面に張詰めてある緑色の羅紗らしゃは、やはり薄いホコリをかぶったまま、南側の窓からさし込む光線をまぶしく反射して、この部屋の厳粛味を一層、高潮させているかのようである。又、その緑色の反射の中央にカンバス張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の綴込とじこみらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが、勿体らしくキチンと置き並べてあるが、その上から卓子の表面と同様の灰色のホコリが一面におおかぶさっているのを見ると、何でも余程以前から誰も手を触れないまま置き放しにしてあるものらしい。しかもその前には瀬戸物の赤い達磨だるまの灰落しが一個、やはり灰色のホコリを被ったまま置き放しにしてあるが、それが、その書類に背中を向けながら、毛だらけの腕を頭の上に組んで、大きな口を開きながら、永遠の欠伸あくびを続けているのが、何だか故意わざと、そうした位置に置いてあるかのようで、妙に私の気にかかるのであった。
 その赤い達磨だるまの真正面にき立っている東側の壁面かべは一面に、塗上げてから間もないらしい爽かな卵色で、中央に人間一人が楽にかがまれる位の大暖炉ストーブが取付けられて、黒塗の四角い蓋がしてある。その真上には差渡し二尺以上もあろうかと思われる丸型の大時計が懸かっているが、セコンドの音も何も聞えないままに今の時間……七時四十二分を示しているところを見ると、多分、電気仕掛か何かになっているのであろう。その向って右には大きな油絵の金縁額面、又、左側には黒い枠に囲まれた大きな引伸し写真の肖像と、カレンダーが懸かっている。その又肖像写真の左側には今一つ、隣りの部屋に通ずるらしい扉が見えるが、それ等のすべてが、清々すがすがしい朝の光りの中に、あるいまぶしく、又はクッキリと照し出されて、大学教授の居室らしい、厳粛な静寂しじまを作っている光景を眺めまわしているうちに、私は自から襟を正したい気持ちになって来た。
 事実……私はこの時に、ある崇高なインスピレーションに打たれた感じがした。最前から持っていたような一種のなげやりな気持ちや、彼女の運命に対する好奇心なぞいうものは、どこへか消え失せてしまって……何事も天命のまま……というような神聖な気分に充たされつつ詰襟のカラを両手で直した。それから、やはり神秘的な運命の手によって導かれる行者のような気持ちでソロソロと前に進み出て、参考品を陳列した戸棚の行列の中へ歩み入った。
 私はまず一番明るい南側の窓に近く並んでいる戸棚に近付いて行ったが、その窓に面した硝子戸の中には、色々な奇妙な書類や、掛軸のようなものが、一々簡単な説明を書いた紙を貼付けられて並んでいた。若林博士の説明によると、そんなものは皆「私の頭も、これ位に治癒なおりましたから、どうぞ退院させて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛に提出されたものばかり……という話であった。
――歯齦はぐきの血で描いたお雛様ひなさまの掛軸――(女子大学卒業生作)
――火星征伐の建白書――(小学教員提出)
――唐詩選五言絶句「竹里館ちくりかん隷書れいしょ――(無学文盲の農夫が発病後、曾祖父に当る漢法医の潜在意識を隔世的に再現、揮毫きごうせしもの)
――大英百科全書の数十ページを暗記筆記した西洋半紙数十枚――(高文試験に失格せし大学生提出)
――「カチューシャ可愛や別れのらさ」という同一文句の繰返しばかりで埋めた学生用ノート・ブックの数十冊――(大芸術家を以て任ずる失職活動俳優の自称「創作」)
――紙で作った懐中日時計――(老理髪師製作)
――竹片たけきれで赤煉瓦に彫刻した聖母像――(天主教を信ずる小学校長製作)
――鼻糞で固めた観音像、硝子ガラス箱入り――(曹洞宗布教師作)
 私は、あんまりミジメな、痛々しいものばかりが次から次に出て来るので、その一列の全部を見てしまわないうちに、思わず顔を反向そむけて通り抜けようとしたが、その時にフト、その戸棚の一番おしまいの、硝子戸の壊れている片隅に、ほかの陳列品から少し離れて、妙なものが置いてあるのを発見した。それは最初には硝子が破れているお蔭でヤット眼に止まった程度の、眼に立たない品物であったが、しかし、よく見れば見る程、奇妙な陳列物であった。
 それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の綴込つづりこみで、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れよごれてボロボロになりかけている。硝子の破れ目から怪我けがをしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとにあかインキの一頁大の亜剌比亜アラビア数字で、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴと番号が打ってある。その一番上の一冊の半分千切れた第一頁をめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にしてある。

  巻頭歌
胎児よ胎児よ何故躍る 母親の
     心がわかっておそろしいのか

 その次のページに黒インキのゴジック体で『ドグラ・マグラ』と標題が書いてあるが、作者の名前は無い。
 一番最初の第一行が……ブウウ――ンンン……ンンンン……という片仮名の行列から初まっているようであるが、最終の一行が、やはり……ブウウ――ンンン……ンンンン……という同じ片仮名の行列で終っているところを見ると、全部一続きの小説みたような物ではないかと思われる。何となく人を馬鹿にしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。
「……これは何ですか先生……このドグラ・マグラというのは……」
 若林博士は今までになく気軽そうに、私の背後うしろからうなずいた。
「ハイ。それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを表現あらわした珍奇な、面白い製作の一つです。当科ここの主任の正木先生が亡くなられますと間もなく、やはりこの附属病室に収容されております一人の若い大学生の患者が、一気呵成かせいに書上げて、私の手許に提出したものですが……」
「若い大学生が……」
「そうです」
「……ハア……やはり退院さしてくれといったような意味で、自分の頭の確かな事を証明するために書いたものですか」
「イヤ。そこのところが、まだハッキリ致しませぬので、実は判断に苦しんでいるのですが、要するにこの内容と申しますのは、正木先生と、かく申す私とをモデルにして、書いた一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」
「……超常識的な科学物語……先生と正木博士をモデルにした……」
「さようで……」
「論文じゃないのですか……」
「……さようで……その辺が、やはり何とも申上げかねますので……一体に精神病者の文章は理屈ばったものが多いものだそうですが、この製作だけは一種特別で御座います。つまり全部が一貫した学術論文のようにも見えまするし、今までに類例の無い形式と内容の探偵小説といったような読後感も致します。そうかと思うと単に、正木先生と私どもの頭脳を嘲笑し、飜弄するために書いた無意味な漫文とも考えられるという、実に奇怪極まる文章で、しかも、その中に盛込まれている事実的な内容がまた非常に変っておりまして科学趣味、猟奇趣味、色情表現エロチシズム、探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味なぞというものが、全篇の隅々まで百パーセントに重なり合っているという極めて眩惑的な構想で、落付いて読んでみますと流石さすがに、精神異常者でなければトテモ書けないと思われるような気味の悪い妖気が全篇に横溢おういつしております。……もちろん火星征伐の建白なぞとは全然、性質をことにした、精神科学上研究価値の高いものと認められましたところから、とりあえずここに保管してもらっているのですが、恐らくこの部屋の中でも……否。世界中の精神病学界でも、一番珍奇な参考品ではないかと考えているのですが……」
 若林博士は私にこの原稿を読ませたいらしく、次第に能弁に説明し初めた。その熱心振りが異様だったので私は思わず眼をパチパチさせた。
「ヘエ。そんなに若いキチガイが、そんなに複雑な、むずかしい筋道を、どうして考え出したのでしょう」
「……それは斯様かような訳です。その若い学生は尋常一年生から高等学校を卒業して、当大学に入学するまで、ズッと首席で一貫して来た秀才なのですが、非常な探偵小説好きで、将来の探偵小説は心理学と、精神分析と、精神科学方面に在りと信じました結果、精神に異状を呈しましたものらしく、自分自身で或る幻覚錯覚にとらわれた一つの驚くべき惨劇を演出しました。そうしてこの精神病科病室に収容されると間もなく、自分自身をモデルにした一つの戦慄的な物語を書いてみたくなったものらしいのです。……しかもその小説の構想は前に申しました通り極めて複雑、精密なものでありますにも拘わらず、大体の本筋というのは驚ろくべき簡単なものなのです。つまりその青年が、正木先生と私とのために、この病室に幽閉とじこめられて、想像も及ばない恐ろしい精神科学の実験を受けている苦しみを詳細に描写したものに過ぎないのですが」
「……ヘエ。先生にはソンナ記憶おぼえが、お在りになるのですか」
 若林博士の眼の下に、最前の通りの皮肉な、淋しい微笑のしわが寄った。それが窓から来る逆光線を受けて、白く、ピクピクと輝いた。
「そんな事は絶対に御座いませぬ」
「それじゃ全部が出鱈目でたらめなのですね」
「ところが書いてある事実を見ますと、トテモ出鱈目とは思えない記述ばかりが出て来るのです」
「ヘエ。妙ですね。そんな事があり得るでしょうか」
「さあ……実はその点でも判断に迷っているのですが……読んで御覧になれば、おわかりになりますが……」
「イヤ。読まなくてもいいですが、内容は面白いですか」
「さあ……その点もチョット説明に苦しみますが、少くとも専門家にとっては面白いという形容では追付おいつかない位、深刻な興味を感ずる内容らしいですねえ。専門家でなくとも精神病とか、脳髄とかいうものについて、多少共に科学的な興味や、神秘的な趣味を持っている人々にとっては非常な魅力の対象になるらしいのです。現に当大学の専門家諸氏の中でも、これを読んだものは最小限、二三回は読み直させられているようです。そうして、やっと全体の機構がわかると同時に、自分の脳髄が発狂しそうになっている事に気が付いたと云っております。甚しいのになるとこの原稿を読んでから、精神病の研究がイヤになって、私の受持っております法医学部へ転じて来た者が一人、それからモウ一人はやはりこの原稿を読んでから自分の脳髄の作用に信用がけなくなったから自殺すると云って鉄道往生をした者が一人居る位です」
「ヘエ。何だかモノスゴイ話ですね。正気の人間がキチガイに顔負けしたんですね。よっぽどキチガイじみた事が書いてあるんですね」
「……ところが、その内容の描写が極めて冷静で、理路整然としている事は普通の論文や小説以上なのです。しかも、その見た事や聞いた事に対する、精神異状者特有の記憶力の素晴しさには、私も今更ながら感心させられておりますので、只今御覧になりました『大英百科全書の暗記筆記』なぞの遠く及ぶところでは御座いませぬ。……それから今一つ、今も申します通り、その構想の不可思議さが又、普通人の所謂いわゆる、推理とか想像とかを超越しておりまして、読んでいるうちにこちらの頭が、いつの間にか一種異様、幻覚錯覚、倒錯観念に捲き込まれそうになるのです。その意味で、斯様かような標題を附けたものであろうと考えられるのですが……」
「……じゃ……このドグラ・マグラという標題は本人が附けたのですね」
「さようで……まことに奇妙な標題ですが……」
「……どういう意味なんですか……このドグラ・マグラという言葉のホントウの意味は……日本語なのですか、それとも……」
「……さあ……それにつきましても私は迷わされましたもので、要するにこの一文は、標題から内容に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれているものとしか考えられませぬ。……と申します理由は外でも御座いませぬ。この原稿を読み終りました私が、その内容の不思議さに眩惑されました結果、もしやこの標題の中に、この不思議な謎語なぞを解決する鍵が隠されているのではないか。このドグラ・マグラというのは、そうした意味の隠語ではあるまいかと考えましたからで御座います。……ところが、これを書きました本人の青年患者は、この原稿を僅か一週間ばかりの間に、精神病者特有の精力を発揮しまして、不眠不休で書上げてしまいますと、流石さすがに疲れたと見えまして、夜も昼もなくグウグウと眠るようになりましたために、この標題の意味を尋ねる事が、当分の間、出来なくなってしまいました。……といって斯様かような不思議な言葉は、字典や何かには一つも発見出来ませぬし、語源等もむろんハッキリ致しませぬので、私は一時、行き詰まってしまいましたが、そのうちに又、はからず面白い事に気付きました。元来この九州地方には『ゲレン』とか『ハライソ』とか『バンコ』『ドンタク』『テレンパレン』なぞいうような旧欧羅巴ヨーロッパ系統のなまり言葉が、方言として多数に残っているようですから、あるいは、そんなものの一種ではあるまいかと考え付きましたので、そのような方言を専門に研究している篤志家の手で、色々と取調べてもらいますと、やっとわかりました。……このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは切支丹伴天連キリシタンバテレンの使う幻魔術のことをいった長崎地方の方言だそうで、只今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。語源、系統なんぞは、まだ判明致しませぬが、いて訳しますれば今の幻魔術もしくは『堂廻目眩どうめぐりめぐらみ』『戸惑面喰とまどいめんくらい』という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話ですが、いずれにしましてもそのような意味の全部を引っくるめたような言葉には相違御座いません。……つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説式な、同時にドコドコまでもノンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために、斯様な名前を附けたものであろうと考えられます」
「……脳髄の地獄……ドグラ・マグラ……まだよく解かりませぬが……つまりドンナ事なのですか」
「……それはこの原稿の中に記述されている事柄をお話し致しましたら、幾分、御想像がつきましょう。……すなわちこのドグラ・マグラ物語の中に記述しるされております問題というものは皆、一つ残らず、常識で否定出来ない、わかり易い、興味の深い事柄でありますと同時に、常識以上の常識、科学以上の科学ともいうべき深遠な真理の現われを基礎とした事実ばかりで御座います。たとえば、
……「精神病院はこの世のいき地獄」という事実を痛切に唄いあらわした阿呆陀羅経あほだらきょうの文句……
……「世界の人間は一人残らず精神病者」という事実を立証する精神科学者の談話筆記……
……胎児を主人公とする万有進化の大悪夢に関する学術論文……
……「脳髄は一種の電話交換局に過ぎない」と喝破した精神病患者の演説記録……
……冗談半分に書いたような遺言書……
……唐時代の名工が描いた死美人の腐敗画像……
……その腐敗美人の生前に生写しともいうべき現代の美少女に恋い慕われた一人の美青年が、無意識のうちに犯した残虐、不倫、見るに堪えない傷害、殺人事件の調査書類……
 ……そのようなものが、様々の不可解な出来事と一緒に、本筋と何の関係もないような姿で、百色眼鏡のように回転し現われて来るのですが、読んだ後で気が付いてみますと、それが皆、一言一句、極めて重要な本筋の記述そのものになっておりますので……のみならず、そうした幻魔作用ドグラ・マグラの印象をその一番冒頭になっている真夜中の、タッタ一つの時計の音から初めまして、次から次へといかけて行きますと、いつの間にか又、一番最初に聞いた真夜中のタッタ一つの時計の音の記憶に立帰って参りますので……それは、ちょうど真に迫った地獄のパノラマ絵を、一方から一方へ見まわして行くように、おんなじ恐ろしさや気味悪さを、同じ順序で思い出しつつ、いつまでもいつまでも繰返して行くばかり……逃れ出す隙間がどこにも見当りませぬ。……というのは、それ等の出来事の一切合財が、とりも直さず、只一点の時計の音を、或る真夜中に聞いた精神病者が、ハッとした一瞬間に見た夢に過ぎない。しかも、その一瞬間に見た夢の内容が、実際は二十何時間の長さに感じられたので、これを学理的に説明すると、最初と、最終の二つの時計の音は、真実のところ、同じ時計の、同じ唯一つの時鐘じしょうの音であり得る……という事が、そのドグラ・マグラの全体によって立証されている精神科学上の真理によって証明され得る……という……それ程左様さようにこのドグラ・マグラの内容は玄妙、不可思議に出来上っておるので御座います。……論より証拠……読んで御覧になれば、すぐにおわかりになる事ですが……」
 といううちに若林博士は進み寄って一番上の一冊を取上げかけた。
 しかし私は慌てて押し止めた。
「イヤ。モウ結構です」
 と云ううちに両手を烈しく左右に振った。若林博士の説明を聞いただけで、最早もはや私のアタマが「ドグラ・マグラ」にかかってしまいそうな気がしたので……同時に……
……どうせキチガイの書いたものなら結局無意味なものにきまっている。「百科全書の丸暗記」と「カチューシャ可愛や」と「火星征伐」をゴッチャにした程度のシロモノに過ぎないのであろう。……現在の私が直面しているドグラ・マグラだけでも沢山なのに、他人のドグラ・マグラまでも背負い込まされて、この上にヘンテコな気持にでもなっては大変だ。……こんな話は最早もはや、これっきり忘れてしまうに限る……。
 ……と思ったので、ポケットに両手を突込みながら頭を強く左右に振った。そうして戸棚の出外ではずれの窓際に歩み寄ると、そこいらに貼り並べて在る写真だの、一覧表みたようなものを見まわしながら、引続いて若林博士の説明を求めて行った。それは……
――精神病者の発病前後に於ける表情の比較写真――
――同じく発病前後に於ける食物と排泄物の分析比較表――
 といったような珍らしい研究に属するものから……
――幻覚錯覚に基く絵画――
――ヒステリー婦人の痙攣けいれん、発作が現わす怪姿態、写真各種――
――各種の精神病に於ける患者の扮装、仮装写真、種類別――
 なぞいう、痛々しい種類のもの等々であったが、そんなものが三方の壁から、戸棚の横腹まで、一面に、ゴチャゴチャと貼りぜてある光景は、一種特別のグロテスクな展覧会を見るようであった。又その先に並んだ数層の硝子戸棚の中に陳列して在るものは……
――並外れて巨大な脳髄と、小さな脳髄と、普通の脳髄との比較(巨大な方は普通の分の二倍、小さい方の三倍ぐらいの容積。いずれもフォルマリン漬)――
――色情狂、殺人狂、中風患者、一寸法師等々々の精神異状者の脳髄のフォルマリン漬(いずれも肥大、萎縮、出血、又は黴毒ばいどくに犯された個所の明瞭なもの)――
――精神病で滅亡した家の宝物になっていた応挙おうきょ筆の幽霊画像――
――ぐとその家の主人が発狂するという村正むらまさの短刀――
――精神病者が人魚の骨と信じて売り歩いていた鯨骨の数片――
――同じく精神病者が一家を毒殺する目的の下にせんじていた金銀の黒猫の頭――
――同じく精神病者が自分で斬り棄てた左手の五指と、それに使用した藁切庖丁わらきりほうちょう――
――寝台から逆様さかさまに飛降りて自殺した患者の亀裂した頭蓋骨――
――女房に擬して愛撫した枕と毛布製の人形――
――手品を使うと称して、嚥下のみくだした真鍮煙管しんちゅうきせる――
――素手すでで引裂いた錻力板ブリキいた――
――女患者が捻じ曲げた檻房の鉄柵――
 ……といったようなモノスゴイ品物が、やはり狂人の作った優美な、精巧な編物や、造花や、刺繍ししゅうなぞと一緒に押し合いへし合い並んでいるのであった。
 私は、そんな物の中で、どれが自分に関係の在るものだろうとヒヤヒヤしながら、若林博士の説明を聞いて行った。こんな飛んでもないものの中の、どれか一つでも、私に関係の在るものだったらどうしようと、心配しいしいのぞきまわって行ったが、幸か不幸か、それらしい感じを受けたものは一つも無いようであった。かえって、そんなものの中に含まれている、精神病者特有のアカラサマな意志や感情が、一つ一つにヒシヒシと私の神経に迫って来て、一種、形容の出来ない痛々しい、心苦しい気持ちになっただけであった。
 私はそうした気持ちを一所懸命に我慢しいしい一種の責任観念みたようなものに囚われながら戸棚の中を覗いて行ったが、そのうちにヤットの思いで一通り見てしまって、以前の大卓子テーブルの片脇に出て来ると、思わずホッと安心の溜息をした。又もニジミ出して来る額の生汗なまあせをハンカチで拭いた。そうして急に靴のかかとで半回転をして西の方に背中を向けた。
 ……同時に部屋の中の品物が全部、右から左へグルリと半回転して、右手の入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大卓子テーブル越しに、私の真正面まですべって来てピッタリと停止した。さながらにその額面と向い合うべく、私が運命附けられていたかのように……。
 私は前こごみになっていた身体からだをグッと引き伸ばした。そうして改めて、長い長い深呼吸をしいしい、その古ぼけた油絵具の、黄色と、茶色と、薄ぼやけた緑色の配合に見惚みとれた。