一九 校舎移転


 学校の校舎が古くて危険だという話は、町の人達の間に、大分前から話しあっていたが、やっとこの頃になって新築工事が始まった。場所は現在の校舎から三四丁も離れた川端であった。川には欄干らんかんのついた大きな板橋がかかっており、そのむこうにはこんもりと繁った杉林があった。その杉林を背景にして、新しい柱が、何本も何本も、真っ白に光って立ち並んでいくのを、子供たちは、毎日教室の窓から眺めて、胸を躍らせた。
「今度の学校はすばらしい。」
 休み時間になると、誰言うとなく、そんなことを言い出して、彼らはお互に感激にひたるのだった。
 次郎は、授業が終ると、きっと四五人の仲間と大工小屋にやって来て、仕事の運びを眺めたり木屑を玩具おもちゃにして遊んだりした。彼は自分たちの教室のことよりも、お浜たちの部屋がどの辺になるだろうかと、いつもそれを注意していた。そして何度も大工たちにそれをきいてみるのだったが、誰もろくに返事をしてくれる者がなかった。
 いよいよ落成したのは、その年の暮近くだった。次郎は、部屋という部屋を一わたり歩いてみたが、どの部屋もがらんとしていて、校番室がどれだか、まるで見当がつかなかった。土間につづいた三畳敷の部屋が、それだろうとも思ったが、それにしては少しせますぎた。その次に、もう一つかなりの広い畳敷があった。しかしそれは三畳敷とは壁で仕切ってあり、それに床の間がついていたりして、お浜たちの部屋にしては、少し立派すぎるように思えた。
 明日から冬休みが始まるという日に、三年以上の児童たちは、みんな居残って、旧校舎の道具を、新校舎に運びこむことになった。それは児童たちにとっては、このごろにない愉快な作業だった。霜どけの田圃たんぼ道を、黒板や、腰掛や、掃除道具などの行列が、かまびすしい話し声と共につづいていた。
 次郎は、腰掛を一つと箒を一本だけ運んでしまったらすぐかえってもいい、と先生に言われていた。しかし、彼は、それだけでは何だか物足りなく感じた。六年生などと一緒に、黒板か何か大きいものをかついで、もっとはしゃいでみたい気がした。で、彼は、自分の受持をすましたら、校番室の道具でもいくらか手伝ってやろうと考えていた。
 しかし、彼が新校舎から引返して来て校番室に這入ってみると、そこはもうがらんとしていて箒一本残っていなかった。そして、お浜かたった一人、気ぬけがしたように上り框に腰をかけて、自分の膝の上に頬杖をついていた。彼女は次郎の這入って来るのをぼんやり見ていたが、
「次郎ちゃん、もうおすみ?」
 と、力のない声で言った。
「ああ、すんだよ。これから乳母やのとこのを運ぶんだい。」
 次郎は、そう言いながら、あらためて部屋を見まわした。
「そう? でも、もう何もありませんのよ、ほら。」
 お浜は相変らず頬杖をついたまま、ほんの僅かだけ首を動かして、あたりを見た。
「早いなあ、乳母やは。」
「早いでしょう。」
「今日運んだんかい。」
「いいえ、もう昨日から。」
「昨日からなら、早いの当りまえだい。」
「そうね。」
「今度の学校、いいなあ。」
「ええ。いいわね。」
「乳母やの部屋はどこだい。僕探したんだけれど、わかんなかったよ。」
「そう? 探して下すって? でも、乳母やのいる部屋は、もうありませんのよ。」
「ない? 嘘言ってらあ。」
「本当よ。……あのねえ、次郎ちゃん、あたしたちは、もう学校の校番ではありませんの。」
「嘘だい。」
「嘘じゃありませんの。」
「だって、校番がいなくてもいいのかい。」
「これからは、小使さんだけになるんですって。」
「小使さんだけ? じゃ乳母やがそれをやるんかい。」
「いいえ、小使さんは女ではいけないんですって。」
「可笑しいなあ。じゃ爺さんがなったらいい。」
「爺さんも老人だから、やっぱりいけないんですって。」
「馬鹿にしてらあ。じゃ誰がなるの。」
「今日あちらに誰かいたでしょう。次郎ちゃん、逢わなくって?」
 次郎は、さっき新校舎の廊下を、忙しそうに走りまわっていた背の低い、小倉服を着た四十恰好の男を思いだして、あれが小使だなと思った。同時に、今まで楽しみにしていた新校舎が、急にのろわしいもののように思われ出した。
 彼は、もう一度、古い部屋の壁や天井を見まわした。長押なげしの下の壁の上塗うわぬりが以前から一ところ落ちていて、ちょうど俯伏うつぶせになった人間の顔の恰好をしていたのが、今日はいつもより大きく見える。鼠が騒ぐたびに、よく竹の棒を突き刺していた天井の節穴からは、すすぼけた蜘蛛の巣が下っている。彼は、そうしたものを見ているうちに、以前ここに寝泊りしていた頃のいろいろの記憶を呼びもどして、甘えたいような、淋しいような、変な気持になっていた。
 教室の方からは、先生や上級の児童たちが、大声で叫びかわしながら、がたぴしと物を動かしている音が、ひっきりなしに聞えて来る。
「爺さんはどこにいる?」
 次郎はお浜に寄りそって、腰を掛けながら訊ねた。
「もういませんわ。昨日皆で行ってしまったの。」
 次郎は、この二三日、お鶴が学校を休んでいたことを思い出した。
「どこへ行ったんだい。」
「遠いところ、……石炭を掘る山なの。……次郎ちゃんはそんなとこ行ったことないでしょう。」
「乳母やもそこに行くの?」
「ええ。……でも、……でも、ねえ次郎ちゃん、……」
 お浜は急に鼻をつまらした。
「乳母やは行かなくてもいいんだい。……僕んちに来ればいいんだい。……僕、父さんに……」
 次郎はそう言いかけて息ずすりした。
「次郎ちゃんは、そんなこと出来ると考えて? お母さんやお祖母さんが、きっといけないっておっしゃるわ。」
「…………」
「それに、ほら、こないだも次郎ちゃんは、お祖母さんに大変なことをなすったっていうじゃありませんか。」
「…………」
「ですから、そんなことお父さんにお願いしても、駄目ですわ。……それに次郎ちゃんは、もう乳母やなんかいなくても大丈夫でしょう。」
「だって、僕……」
「いけませんわ、そんな弱虫じゃあ。」
 お浜は急にいつものきつい声になって、おさえつけるように言った。
「違うよ。僕弱虫なんかじゃないよ。」
 次郎は弱虫と言われて興奮した。彼は、このごろ恭一や俊三に決して負けてなんかいないということを、お浜に話したかったが、どんなふうに話していいか、わからなかった。
「そう、弱虫なんかじゃありませんわね。ですから、乳母やも安心していますの。……でも、お祖母さんに乱暴なさるのはおよしなさいね。お父さんに怒られるといけませんから。」
「だって僕、お祖母さんは大嫌いだい。」
「でも、お祖母さんですもの、仕方がありませんわ。こないだのようなことをなさると、お父さんだって、默っちゃいらっしゃらないでしょう。」
「ううん? 父さん何も言わなかったよ。」
「そう? お母さんは?」
「母さんも、何も言わなかったよ。」
「ほんと?」
 お浜は不思議そうに訊ねた。
「ほんとうさ。このごろ母さんは、僕をあまりいじめなくなったんだい。」
「そう? それは次郎ちゃんがお利口におなりだからでしょう。」
 次郎はきまり悪そうな顔をしながら、
「こないだ絵本を買ってくれたよ。」
 お浜は、つい十日ばかり前に、正木のお祖母さんに、「お民もこのごろ少し考えが変って来たようだから、安心おし。」と言われたことを思いあわせて、いくらか明るい気持になった。
 そして、次郎の頭をなでながら、しばらく何か考えていたが、
「では、次郎ちゃん、もうお帰りなさいね。乳母やはこれから、正木のお祖母さんとこにうかがって、それからじき次郎ちゃんとこに行きますわ。お母さんがいいっておっしゃったら、今夜は一緒に寝ましょうね。」
 二人は手をつないで立ち上った。そして、校門を出ると、言い合わせたように立ち止って、校舎を見上げた。
 もうその時は、最後の運搬者たちが引きあげたあとで、物音一つしない古い校舎が、黄色い夕陽の中に、さむざむとしずまりかえっていた。

二〇 旧校舎


 その晩、お浜が別れを告げに来た時には、本田の一家も、流石にしんみりとなった。ふだん彼女の顔を見るのも嫌いだったお祖母さんまでが、みんなと調子を合わせて、十一時近くまで起きていた。そして、俊亮やお民が、お浜に二三日泊っていくようにすすめると自分もはたから口を出して、
「次郎もかわいそうだから、是非そうしておくれ。」とか、
「お正月も、もう近いことだし、どうせそれまでゆっくりしたらどうだね。」
 とか言って、いやにちやほやした。お浜は心の中で、
(ふふん、そのご挨拶の気持も、どうせ明日まではつづくまい。)
 と考えながらも、流石にいつもよりはずっと楽な気分になって、腰を落ちつけた。そして、すすめられるままに、一晩だけ、泊っていくことにした。
 次郎とお浜は、同じ蒲団の中にねたが、二人とも、容易に寝つかれなかった。眠ったかと思うと、すぐ眼をさまして、何度も冷たい夜具の中で、かたく抱きあった。
 しかし、翌朝次郎が眼を覚ました時には、お浜はもう寝床の中にはいなかった。次郎ははね起きて、家じゅうを探しまわったが、彼女の姿はどこにも見えなかった。彼は、昨夜彼女が風呂敷包を持って来ていたことを思い出して、そのありかを探してみたが、やはりそれも見つからなかった。
 彼はかなりうろたえた。しかし、誰にもお浜のことをたずねてみようとはしなかった。人に秘密にしていたものを失くした時のように、一人でそわそわと、家じゅうを歩きまわっていた。みんなは、彼のそうした様子を見ながら、わざとのように口をきかなかった。
 朝飯をすますと、彼はすぐ戸外に飛び出して、仲間を集めた。そして、いつものように戦争ごっこを始めたが、何となく気乗りがしなかった。「進め」の号令をかけて、仲間を前進さしておきながら、自分だけは、ぽかんと道の真ん中に突っ立っていたりした。
「面白くないなあ。」
 とうとう仲間の一人が不平を言い出した。
「学校に行ってみようや。」
 他の一人が提議した。みんながすぐそれに、賛成した。
「前へ進め!」
 次郎はすぐ、彼らを二列縦隊に並べて、号令をかけた。彼はみんなの先顔に立って、今度は非常に元気よく歩き出した。
 むろん、他の子供たちは新校舎の方に行くつもりでいた。ところが、次郎は、別れ道のところまでくると、道を左にとって、旧校舎の方に行こうとした。
「どこへ行くんだい?」
「こっちだい。」
 みんなは列をくずして、がやがや言い出した。それからしばらくの間、彼らと次郎との間に論戦が交された。彼らは、あんな破れかかった学校なんかつまらない、と言った。次郎は、空家になった校舎の中であばれるのは面白い、と言った。議論は容易に決しなかった。
「僕一人で行かあ。」
 とうとう次郎は怒り出して、さっさと一人で旧校舎の方に歩き出した。するとみんなもしぶしぶそのあとについた。
 ところで、空家になった校舎の中で、存分にあばれまわることは、彼らの予期しなかった新しい楽しみだった。第一、床板の反響が、異様に彼らの耳を刺激した。壁の破れ目に、棒を突っこんでこじ上げると、大きな壁土がくずれ落ちて、砲撃の瞬間を思わせるような感じを与えるのも彼らの興奮の種だった。彼らは、ついに、むりやりに数枚の床板をはずして、そこを塹壕ざんごうになぞらえ、校庭から沢山の小石を拾って来て、それを弾丸にした。小石が土壁にあたると土煙が立ち、板壁にあたると、からからと音を立てた。墓地や鎮守の杜でやる戦争ごっことちがって、次から次へと、眼の前に惨澹さんたんたる破壊のあとが現れるので、彼らはいよいよ興奮した。
 次郎は、しかし、彼らが興奮すればするほど、淋しくなった。彼は、間もなく、自分の思いつきを後悔した。そんて、仲間が石投げに夢中になっている間に、一人でこっそり校番室に這入りこんで、昨日お浜が腰をおろしていたあたりに、悄然と腰をおろした。
 小石はおりおり、校番室の隣の部屋にもがらがらと音を立てて、ころげて来た。そのたびに、彼は胸の底を何かで突っつかれるような痛みを感じた。
(この部屋だけは荒らさせたくない。)
 彼は、急に、仲間のすべてを敵にまわして、自分一人で校番室を守ってでもいるような、悲壮な気分になった。
「わあっ!」
 突撃がはじまったらしく、廊下を狂暴に走りまわる音がきこえた。しかし、間もなく誰かが叫んだ。
「おい! 次郎ちゃんがいないぞ。」
「ほんとだ。どうしたんだろう。」
「戦死したんか。」
「馬鹿いえ。」
「弾丸を取りに行ったんだろう。」
「そうかも知れん。」
「おうい、次郎ちゃん!」
「じーろーちゃん!」
 みんなが声をそろえて叫んだ。次郎は、しかし、彼らに答える代りに、そっと床下にもぐりこんで、息を殺した。
 かなり永い間、次郎の捜索が続けられた。最後に、みんながどやどやと校番室に這入って来た。
「いないや。」
「馬鹿にしてらあ。」
「もう次郎ちゃんなんかと遊ぶもんか。」
「そうだい。」
「怪我したんじゃないだろうな。」
「そんなことあるもんか。」
「帰ろうや、つまんない。」
「馬鹿言ってらあ、これから、新しい学校に行くんだい。」
「そうだ、次郎ちゃんも、もう行ってるかも知れんぞ。」
「そうかも知れん。早く行こうよ。」
「行こう。」
「行こう。」
 みんなが去ったあと、次郎は、荒らされきった校舎の中を、青い顔をして、一人であちらこちらと歩きまわった。廊下にころがっている小石が、時たま彼の足さきにふれて、納骨堂で骨がれあうような冷たい音を立てた。壁の破れ目から、うっすらとした冬の陽が、射したり消えたりするのも、たまらなく淋しかった。
(乳母やは、もういない。)
 彼は、ふと立ち停って、しみじみとそう思った。とたんに、彼の眼から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

二一 土台石


 お浜の一家からは、その後、到着を報じたくちゃくちゃの葉書が、年内に一通と、年が明けて十日も経ったころ、次郎にてたお鶴の年賀状が来たきり、何の音沙汰もなかった。
 年賀状は、真紅まっかな朝日と、金いろの雲と、真青まっさおな松とを、俗っぽく刷り出した絵葉書であったが、次郎は、何よりもそれを大切にして、いつも雑嚢ざつのうの中にしまいこんでいた。
 そのうちに学年が変って、彼は四年に進級した。そして、新しい校舎からは、木の香がそろそろとうせていった。同時に、お浜たちに関するいろいろの記憶も、次第に彼の頭の中でぼやけはじめた。
 旧校舎のあとには、永いこと、土台石がそのままに残されていた、その白ちゃけた膚を、雑草の中から覗かせていた。次郎はそれを見ると、泣きたいような懐しさを覚えた。彼は、学校の帰りなどに、仲間たちの眼を忍んでは、よく一人でそこに出かけて行った。
 ある日、彼が例のとおり、土台石の一つに腰をおろして、お鶴から来た年賀状を雑嚢から取り出し、じっとそれに見入っていると、いつの間にか、仲間たちが彼の背後に忍びよって来た。
「次郎ちゃん、何してんだい。」
 次郎は、だしぬけに声をかけられて、どぎまぎした。そして、なにか悪いものでも隠すように急いで絵葉書を雑嚢の中に押しこみながら、彼らの方にふり向いた。
「ほんとに何してんだい。」
 仲間の一人が、いやに真面目な顔をして、もう一度訊ねた。
「この石が動かせるかい。」
 次郎はまごつきながらも、とっさにそんな照れかくしを言うことが出来た。そして、言ってしまうと、不思議に彼のいつもの横着さが甦って来た。
「何だい、こんな石ぐらい。」
 仲間の一人がそう言って、すぐ石に手をかけた。石は、しかし、容易に動かなかった。するとみんなが一緒になって、えいえいと声をかけながら、それをゆすぶり始めた。まもなく、石の周囲に僅かばかりの隙間が出来て、もつれた絹糸を水に浸して叩きつけたような草の根が、真っ白に光って見え出した。
 次郎は、大事なものを壊されるような気がして、いらいらしながら、それを見ていたが、
「馬鹿! みんなでやるんなら、動くの、当りまえだい。」
 と、いきなり彼らを呶鳴りつけた。
「なあんだい、一人でやるんかい。」
 みんなは手を放した。
「当り前だい。僕だって一人でやってみたんだい。」
「何くそっ。」
 最初に石に手をかけた仲間が、また一人でゆすぶり始めた。が、一人ではどうしても動かなかった。
「よせやい。動くもんかい。」
 次郎はそう言って雑嚢を肩にかけると、さっさと一人で帰りかけた。
「馬鹿にしてらあ。」
 仲間達は、不平そうな顔をして、しばらくそこに立っていたが、次郎がふり向いても見ないので、彼らも仕方なしに、ぞろぞろと動き出した。
 だが、土台石も、夏が近まるとすっかり取り払われて、敷地は間もなく水田に変った。そして今では、どこいらに校舎があったのかさえ、見当がつかなくなってしまっている。
 お鶴からの年賀状だけは、その後も大事に雑嚢の中にしまいこまれていたが、手垢がついたりするにつれて、それも次第に次郎の興味をかなくなり、いつとはなしに、彼の雑嚢の中から影をひそめてしまった。
 お浜に関する思い出の種が、こうしてつぎつぎに消えていくことは、ある意味では、次郎の心を落ちつかせた。しかし、彼が最も親しんで来た一つの世界の完全な消滅が、彼の性格に何の影響も与えないですむわけはなかった。立木を抜かれた土堤のように、彼の心は、その一角から次第に崩れ出して、一つの大きな空洞を作ってしまった。その空洞は、わけもなく彼を淋しがらせた。そしてその淋しさをまぎらすには、もう戦争ごっこや何かでは間にあわなかった。彼は、ともすると、一人で物を考えこんだ。そして、そろそろと物をあきらめることを知るようになった。それが一層彼の性質を陰気にした。
 しかも彼は、こうした心の変化の最中に、不思議なほど続けざまに人間の臨終というものに出っくわしたのである。六月には正木の伯母が死んだ。九月には従兄弟の辰男が死んだ。そして十一月には本田のお祖父さんが死んだ。
 伯母は、昼間の明るい部屋の中で息を引きとったが、その臨終に大きく見開いた眼と、その蝋細工のような皮膚の色とは、気味わるく次郎の頭に焼きついた。辰男は急病で死んだため、顔の相好そうごうに大した変化を見せなかったが、自分と同い年で、従兄弟たちの中でも一番親しい遊び相手であったということが、次郎の感傷をそそった。しかし、彼の心に最も大きな影響を与えたのは、何と言っても、本田のお祖父さんの臨終であった。

二二 カステラ


 お祖父さんは、胃癌いがんを病んで永らく離室に寝ていたが、死ぬ十日はかり前から、ぼつぼつ親類の人たちが集まって、代り番こに徹夜をやりはじめた。その中には、次郎がはじめて見るような人たちも五六人いたが、とりわけ次郎の注意をひいたのは、何かというと念仏ばかり唱える老人たちであった。お祖父さんは、そういう人たちに特別な親しみを覚えていたらしく、いつも彼らを自分の枕元に引きつけて、いろいろと話をしたがった。
「もう間もなくじゃ。……明日か明後日にはお迎えが来るじゃろう。……お別れじゃな、いよいよ。」
 お祖父さんは、ある日ふとそう言って、みんなの顔を一わたり見まわした。みんなは、顔を見合わせたきり默っていた。するとお祖母さんが、
「なむあみだぶ、なむあみだぶ。」と、念仏をとなえた。
 例の老人たちがすぐそれに和した。お祖父さんも、口の中でそれを唱えながら眼をつぶったが、しばらくすると、また眼を開いて、
「俊亮、きょうは家の見納めがしたい。……未練かな。」
 俊亮は、その意味がのみこめなくて、みんなの顔を見まわした。
「未練かな。」
 と、お祖父さんは、もう一度そう言って、しずかに眼をとじた。
「どうなさろうというんです?」
 俊亮は病人の顔を覗きこんだ。
「戸板、……戸板をもって来い、わけはない。」
 病人の眼がまたかすかに開いた。
 みんなはすぐその意味がわかった。で、正月に餅を並べる時の大きな戸板が、間もなく納屋から運びこまれた。そして病人を敷蒲団ごとその上にのせると、みんなでそれを抱えて、そろそろと家じゅうをまわり歩いた。
 次郎は、恭一や俊三と一緒に、その後について廻ったが、人数の多いわりに、いやに静粛だった。みしりみしり畳をふむ音と、おりおり老人たちの口から洩れる念仏の声とが、陰気な調和を保って、次郎の耳にしみた。
 仏間に這入ると、すでに、新しい蝋燭ろうそくに火がともされていて、仏壇が燦爛さんらんと光っていた。念仏の声が急に繁くなった。次郎は、いつぞやそこでお祖母さんを転がした時のことをふと思い浮べたが、念仏の声に圧せられて、その思い出もすぐ消えてしまった。
 お祖父さんは、どの部屋に這入っても、うなずくような恰好をしてみせた。次郎は、これまで自分に大して交渉のなかったお祖父さんのそうした表情を珍しく思った。そして、それが何となくなつかしいもののようにすら思えて来た。
 二階を除いて、部屋という部屋は、ほとんど一巡された。そして、再び離れの病室に落ちつくまでには、おおかた小半時もかかった。
 病人は疲れてすぐ眠った。傾きかけた日が障子を照らして、室内はいやに明るかった。病人が眠ったのを見ると、みんなはぞろぞろと部屋を出て、あとには俊亮とお祖母さんと次郎とだけが残った。
 次郎は不思議にお祖父さんの顔から眼を放したくなかった。そのくぼんだ眼と、突き出た頬骨と、一寸あまりにも延びた黄色い顎鬚あごひげとが、静かな遠いところへ彼を引っぱっていくように思えたのである。
「次郎は賢いね。」
 お祖母さんは、病人の足をさすってやりながら言った。
 次郎は、お相母さんにこんな口をかれると、きっとそのあとに、いやな仕事を言いつかるのを知っていたので、いつもなら、すぐ反感を抱くところだったが、今日は不思議に何とも感じなかった。そして、相変らず默って、お祖父さんの顔ばかり見つめていた。お祖母さんも、それっきり、念仏を唱えるだけで何とも言わなかった。
 すると今度は俊亮が、
「次郎お菓子が食べたけりゃ、あそこに沢山ある。」
 と、違棚の方に眼をやりながら言った。そこには見舞の菓子折がいくつも重ねてあった。
「もう口をあけたのが無いんだよ。……今度新しいのをあけたら、恭ちゃんや俊ちゃんと一緒にあげるから、我慢おし。」
 お祖母さんが、はたから、ずるそうな眼をして次郎を見ながら言った。
 次郎は急に不愉快になった。さっき「賢い」と言われたのまでが、皮肉に感じられて仕方がなかった。で、父に気を兼ねながらも、ぷいと部屋を出てしまった。
 彼は、すぐその足で、二階にかけ上って、冷たい畳の上に寝ころんだ。
 畳の上には、柿の枯葉が一枚舞いこんでいた。彼は祖母に対して、彼がこれまで感じていたのとは、ちがった反感を覚え出した。それは、今までのような乱暴をしただけでは治まりのつきそうもない、いやに陰欝いんうつな反感だった。そうした反感の原因が、祖母の言葉にあったのか、それを言った時と場所とが悪かったためなのか、それとも、彼の気持がこのごろ沈んでいたせいなのか、それは誰にも判断が出来ない。とにかく、彼は、今までにない、いやな気分になって、永いこと天井を見つめていた。
 部屋はいつの間にかうす暗くなって来た。
 お祖父さんの顔がはっきり浮かんで来る。ちっとも恐くはない。つづいてお祖母さんの顔が見える。彼は思わずこぶしを握って、はね起きそうな姿勢しせいになったが、すぐまたぐったりとなった。
 しばらくすると、久しく思い出さなかったお浜たちの顔が、つぎつぎに浮かんで来る。不思議なことには、お浜や、弥作爺さんや、お鶴の顔よりも、眉の太い勘作や、やぶにらみのお兼などのきらいな顔の方が、はっきり思い出される。それでも彼は、遠い以前の校番室の夜の団欒だんらんを回想して、いくぶん心が落着いて来た。
 が、それもほんの暫くだった。足にさわる畳の冷えが、また彼を現実の世界に引きもどした。彼は自分が現在何処にいるかをはっきり意識すると、淋しさと腹立たしさとのために、じっとしてはいられなくなって、ごろごろと畳の上にころがり始めた。
(僕は本当にこの家の子だろうか。)
 ふと、そんな疑問が湧いて来た。すると、無性にお浜がなつかしくなって、涙がとめどなく流れた。すっかり暗くなった頃、俊亮が手燭てしょくをともして二階に上って来た。彼はしばらく立ったまま次郎の様子を見ていたが、
「次郎、そんな真似はよせ。風邪を引くぞ。……ほら、いいものを持って来た。一人で好きなだけ食べたらさっさと降りて来るんだぞ。」
 手燭てしょくを畳の上に置きながら、そう言って、何か重いものを次郎の背中の近くにほうり出した。そして、そのまま下に降りて行ってしまった。
 次郎は、動きたくなかった。しかし、知らん顔をしているのも、父にすまないような気がしたので、父が梯子段はしごだんを降りきった頃に、ともかく起き上って、父が置いていったものを見た。それは新しい菓子折だった。そっとふたをとってみると、中にはまだ三分の二ほどのカステラが残っていた。それにナイフが一本入れてあった。
 次郎はむしろあっけにとられた。甘いものが箱ごと自分の自由になるというようなことは、彼の経験の世界から、あまりにもかけ離れたことだったのである。彼は少し気味わるくさえ感じた。そしてちょっと父の心を疑ってみた。が、彼は急いでそれを打消した。それは、さっきの父の言葉が、いつもの快活な親しみのある調子をもって、彼の心によみがえって来たからである。
 彼は急に食慾をそそられた。で、彼はすぐカステラにナイフを入れはじめた。むろんそう沢山食べるつもりではなかった。しかし、食べているうちにやめられなくなって、何度もナイフを入れた。
 そのうちに、彼は、あんまり慾ばって食べたら父に軽蔑されはしないだろうか、と心配し出した。見ると残りがちょうど箱の半分ほどになっている。切口がでこぼこで非常に体裁がわるい。彼はそれを直すために、もう一度うすく切りとって、それを食べた。そしてナイフを箱の隅に入れ、蓋をした。
(やっぱり、僕は父さんの子だ。)
 彼はその時しみじみとそう思った。しかしまた、彼は考えた。
(だが、どうして僕にだけ次郎なんていう名をつけたんだろう。恭ちゃんはお祖父さんの名から、俊ちゃんは父さんの名からとってつけてあるんだのに。)
 尤も、この疑問は、これまでにもたびたび彼の心に浮かんでいたことなので、少しれっこになっていたせいか、さほどに気にはかからなかった。そして、いつとはなしに、彼は、カステラの箱をこのままここに置いたものか、それとも階下に持って行ったものかと、しきりにそのことを考えていた。
 そのうちに、ふと、階下で人々のざわめく気配がし出した。
 次郎は、はっとして、カステラの箱を小脇に抱えるなり、階段を降りて、大急ぎで離室はなれの方に行った。離室は人の頭で真っ黒だった。大ていの人は立ったまま病人を見つめていた。次郎がその間をくぐるようにして前に出た時には、ちょうど医者が注射を終ったところであった。
「大丈夫でしょう、ここ一二日は。……しかし今日のような御無理をなすっちゃいけませんね。」
 と、医者は俊亮の耳元に口をよせて、ささやくように言った。
「よほど静かにやったつもりですが、……」
「どんなに静かでも、これほどの御病人を動かしたんでは、たまりませんよ。」
 間もなく医者は出て行った。みんなも安心したように、ぞろぞろとそのあとにつづいた。部屋には、家の者全部と念仏好きの老人たちだけが残った。
 次郎は、その時まで、まだ突っ立ったままでいたが、急にあたりががらんとなったので、自分もそこに坐ろうとした。そのはずみに、彼は自分がカステラの箱を抱えていることに気がついて、急に狼狽ろうばいした。
「次郎、お前何を抱えているんだね。」
 と、お民が先ずそれを見つけて言った。みんなの視線が次郎に集まった。するとお祖母さんが、
「おや、カステラの箱じゃないのかい。さっきお茶の間においたのが急に見えなくなったと思ったら、まあ呆れた子だね。」
 声はひくかったが、毒々しい調子だった。
「なあに、私か次郎にやったんです。……次郎、まだ残ってるなら、恭一や俊三にもわけてやれ。まさか、みんなは食えなかったんだろう。」
 俊亮はにこりともしないで言った。
 変にそぐわない空気が部屋じゅうを支配した。次郎は箱を恭一の前に置いて、父のそばに坐った。彼の心は妙にりきんでいた。
 永いこと沈默が続いた。そのうちに、次郎の眼は、次第に病人の顔に吸いつけられたが、まだ心のどこかでは祖母と母とを見つめていた。

     *

 お祖父さんがいよいよいけなくなったのは、それから三日目の夜だった。次郎たちはもう寝ていたが、起されてやっと臨終の間にあった。念仏の声が入り乱れている中で、彼も、鳥の羽根で御祖父さんの唇をしめしてやった。
「御臨終です。」
 医者の声は低かったが、みんなの耳によくとおった。次郎は、半ば開いたお祖父さんの眼をじっと見つめながら、死が何を意味するかを、子供心に考えていた。彼はその場の光景を恐ろしいとも悲しいとも感じなかった。ただ、死ねば何もかも終るんだ、ということだけが、はっきり彼の頭に理解された。
 最初に声をあげて泣き出したのは、お祖母さんだった。誰も彼もが、その声に誘われて鼻をすすった。
「三日前から、もう自分の臨終を知って、家の中まで見廻るなんて、何という落ちついた仏様でしょう。」
 お祖母さんは、声をふるわせながら、そう言って、仏のまぶたをさすった。
「ほんとうに。」
「ほんとうに。」
 お祖母さんに合槌をうつ声が、そこここから聞えた。そして、また一しきり念仏の声が室内に流れた。
 次郎は、しかし、やはり悲しい気分にはなれなかった。
(お祖母さんは、きっとまたそのうちにカステラのことを思い出すだろう。)
 彼はそんなことを考えていた。しかしそれは決して、お祖母さんに対する皮肉や何かではなかった。「死ねば何もかも終る」という彼の考えが、「死ななければ何一つおしまいにはならない」という考えに移っていったまでのことだったのである。

二三 蝗の首


 由夫と竜一とは、学用品を入れた雑嚢を路に放り出して、いなごの首取り競争をはじめている。蝗を捕えては、それを着物の襟にみつかせて、急に胴を引っぱると、首だけがすぽりと抜けて襟に残る。それはいかにも残酷な遊びなのである。
「僕、もう五疋だぜ。」
 と、由夫がにやにやしながら言う。
「僕だって、すぐ五疋だい。」
 竜一は額に汗をにじませて、少しあせっている。
「早く十疋になった方が勝だぜ。」
「うむ、よし。」
「僕が勝ったら、何をくれる?」
「ナイフをやらあ。」
「じゃ、僕負けたら色鉛筆をやる。」
「ようし、……ほら五疋。……あっ、畜生、またはずしちゃった。こいつ、うまく噛みつかないなあ。」
 竜一はそう言って、握っていた蝗を気短かに地べたに投げつけた。
「ほら、僕、もう六疋だぜ。」
 と、由夫はますます落ちついている。
「くそ! 負けるもんか。」
 竜一は顔を真赤にして新しく蝗をつかまえにかかった。
 由夫は村長の次男坊、竜一は医者の末っ子である。隣同士なせいで、よく一緒になって遊びはするが、両家の間に変な競争意識があって、それが自然二人にも影響しているためなのか、心からは親しんでいない。性格から言っても、竜一は単純で、無器用ぶきようで、よくおだてに乗る子であるのに、由夫は、ませた、小智恵のきく子で、どうかすると、遠まわしに竜一の親たちの陰口をきいたりする。賭事かけごとではむろん由夫がうわ手である。今日も、彼は、竜一をうまくおだてて、蝗の首取り競争を始めたところなのである。
 そこへ次郎が、ぼとぼとと草履を引きずりながら通りかかった。彼はこの頃、仲間たちとあまり遊ばない。学校の帰りにも大ていは一人である。
「おい、次郎ちゃん、見ててくれ、僕、勝ってみせるから。」
 と、由夫が彼を呼びとめた。
 次郎は、これまで自分にも経験のある遊びではあったが、首だけになった蝗が、いくつもいくつも、二人の着物の襟にくっついているのを見ると、あまりいい気持はしなかった。生物いきものの命を取ることが、このごろの彼の気持に、何となくぴったりしなくなっていたのである。
 彼は、しかし立ちどまって、しばらく二人の様子を眺めていた。
 竜一は、次郎に見られていると思うと、いよいよあせって、無理に蝗を襟におしつけた。蝗は、しかし、そのためにかえって噛みつかない。
「竜ちゃん、僕、もう八疋だぜ。」と、由夫は、横目で次郎を見ながら言う。
 次郎はふだんから嫌いな由夫が、いやに落ちついて、竜一をじらしているのを見ると、むかむかし出した。
「竜ちゃん、よせ、そんなこと、つまんないや。」
 彼は由夫の計画をぶちこわしにかかった。
「いやだい、もうすぐ追いつくんだい。」
 竜一は、しかし、かえってむきになるだけだった。
「よしたら、竜ちゃんが負けだぞ。」
 由夫はずるそうに念を押した。彼はもうその時、九疋目を噛みつかせていたのである。
「そら、九疋。……もうあと一疋だい。」
 そう言って、彼は蝗の胴を引っぱった。胴はすぐちぎれた。そしてあとには、寒天のような白い肉がぽっちりと陽に光って、青い首の下に垂れさがっていた。
 とたんに、次郎の心はとなった。彼は、ふと亡くなったお祖父さんの顔を思い出したのである。しかし、それもほんの一瞬であった。次の瞬間には、彼はもう由夫の胸に猛然と飛びついて、蝗の首を残らず払い落してしまっていた。
「馬鹿野郎、何をしやがるんだい。」
 由夫はよろめきながら拳を握って振り上げた。しかし、その姿勢はむしろ守勢的で、眼だけがいたちのように光っていた。
「竜ちゃん、帰ろう。」
 次郎は、平気な顔をして竜一の方を向いて言った。
 竜一は、まだその時まで、蝗を一疋手に握ったまま、ぽかんとして二人を見ていたが、次郎にそう言われると、すぐそれをなげすてて、
「僕んところに遊びに行く?」
「うむ、行くよ。」
 二人はすぐあるき出した。あるきながら、竜一は、自分の胸にくっついている蝗の首をはらい落した。
「覚えてろ! 竜ちゃんも覚えてろ!」
 由夫は無念そうに二人を見送りながら、何度も叫んだ。

二四 乱闘


 ひえびえと薬の匂いのする薬局の廊下をとおって、突きあたりの土蔵の階段を上ると、そこが子供部屋になっている。一方の壁には何段にも棚が取りつけてあって、絵本や、玩具が、一ぱいのせてある。すこし暗いが、わりに涼しい。
 次郎は竜一とよくこの部屋で遊ぶ。このごろ彼の遊び相手は、ほとんど竜一だけだと言ってもいいくらいだが、それは竜一に親しみがあるからというよりも、むしろこの部屋が好きだからである。戸外での乱暴な遊びの代りに、本を読んだり、絵を描いたりすることに興味を覚え出した彼にとっては、この部屋が一番しっくりする。いろいろの面白い本が読めるうえに、何となく自由で、心から落ちつけるのである。それに、竜一の姉の春子――去年女学校を出て、看護婦がわりに父の手助けをしている――が、おりおりこの部屋にやって来て、二人の相手になってくれるのが、何より嬉しい。春子を見ると、彼は、いつも、自分にもこんな姉があればいいな、と思うのである。
 二人は部屋に這入ると、すぐ、棚からめいめいに好きなものを引きずり出して遊びはじめた。
 竜一は少しきっぽい性質で、一つの遊びをそう永く続けようとはしない。次郎もこの部屋でだけは、大てい竜一の言いなりになって遊ぶのである。で、間もなく、部屋一ぱいに、いろんなものが散らかった。
「まあ、やっと今朝、きれいにしてあげたばかりだのに。」
 と、梯子段から、春子が白いふっくらした顔を出した。
「姉ちゃん、今日、おやつない?」
 竜一は姉の顔を見ると、すぐにたべ物をねだった。
「おやつなんか、あるもんですか、こんなに散らかして。」
 春子は眉を八の字によせて竜一を睨んだが、本気で怒っているようなふうには、ちっとも見えなかった。
 次郎は、こんなふうに姉に叱られている竜一が、うらやましかった。
「ぶつよ、おやつ持ってこなきゃあ。」
 竜一は、絵本をぐるぐると巻いて、振り上げた。
「姉ちゃんをぶったりしたら、次郎ちゃんに笑われるわよ。……さあ、お部屋をもっときれいになさい。そしたら、おやつ上げるわ。」
 春子はそう言って、自分で散らかったものを片づけはじめた。
 次郎は、すぐにもそれを手伝いたかった。しかし何だかきまりが悪くて、半ば腰を上げたまま、竜一の顔ばかり見ていた。
「次郎ちゃんはいい子ね。手伝って下さるでしょう?」
 春子にそう言われると、次郎は、もうぐずぐずしては居れなくなった。彼はいそいそと、玩具やら、春子が重ねてくれた絵本やらを、棚に運んだ。部屋ば間もなくきれいに片づいた。
「ありがと、次郎ちゃん。では、いいものをあげましょうね、お坐り。」
 春子は、半巾ハンカチで口のまわりの汗を拭き拭き、部屋の真ん中にぺったり坐った。
「なあに、姉ちゃん。」と、それまで仏頂面をして突っ立っていた竜一が、春子にしなだれかかって、その白い頸に手をかけた。
「まあ、暑いわよ。いやね。竜ちゃんは。お手伝いもしないで。」
 春子は、口では意地悪く叱りながら、すぐ袂に手を突っこんで、小さな紙の袋を出した。袋には、飴玉が十ばかりはいっていた。三人は、一つずつそれを口にほうりこんで、しばらく默りこんだ。
 窓先の青桐に日がかげって、家の中がいやに静かである。次郎は、まもなく帰らなければならない、と思うと、急に物淋しい気分になった。
「次郎ちゃんは、今日、由ちゃんとどうかしたんじゃない?」
 ふいに春子が真面目な顔をして、二人の顔を見くらべた。
「ううん、何でもないさ。」
 と、竜一が飴玉を口の中でころがしながら答えた。次郎は默っていた。
「でも、さっきから少し変なのよ。」
「どうして?」
「竹ちゃんや、鉄ちゃんが、何度も裏口から覗いて、次郎ちゃんはまだいるかってきくの。何でも、由ちゃんが次郎ちゃんの帰りを待ってて、いじめるんだってさ。」
「由ちゃんなんか、何だい。僕、あべこべにいじめてやるよ。」
 次郎は急に立ち上った。飴玉は、まだ彼の口の中で半分ほども溶けていなかったが、彼はそれをがりがりと噛み砕いた。
「およしよ。由ちゃんはずるいから、お友達を何人もかたらっているらしいのよ。」
「卑怯だなあ。僕、負けるもんか。」
「そうだい。次郎ちゃんは強いんだい。僕、見に行ってやらあ。」
 竜一までが立ち上った。
「およしったら、喧嘩なんかつまらないわ。……次郎ちゃん、ゆっくりしておいで。竜ちゃんと一緒に、夕飯をご馳走してあげるわ。」
 次郎はまだこの家で飯をばれたことがなかった。子供にとって他人の家の食卓というものは、大きな魅力をもっているものだが、とりわけ次郎にとっては、そうであった。彼のいきり立った気分が、春子にそう言われて、急にやわらぎかけた。しかし、すぐ坐りこむのも何だか恥ずかしかったので、彼は立ったままもじもじしていた。
「ね、いいでしょう、お母さんにおねがいしとくわ。」
「次郎ちゃん、ご飯たべていけよ。由ちゃんをなぐるのは、明日でもいいや。」
 竜一も、友達を自分の家の食卓に迎える楽しさに胸を躍らせながら、次郎の手を引っぱった。
「明日になれば、由ちゃんだって、もう喧嘩なんかしたくなくなるわ。だから、今日は外に出ないことよ。なんなら、泊っていってもいいわ。」
 次郎は由夫のことなんか、もうどうでもいいような気になって、すっかり落ちついてしまった。
 夕飯は、茶の間の涼しい広縁ひろえんで、大勢と一緒だった。漆塗うるしぬり餉台ちゃぶだいが馬鹿に広くて、鏡のように光っているのが、先ず次郎の眼についた。金縁の眼鏡をかけた竜一の父が、ちょうど彼の真うしろに、一人だけ膳についていたが、次郎は、たえず背中をみつめられているような気がして、窮屈だった。しかし、春子が何かと気を配って彼の世話を焼いてくれるのが、たまらなく嬉しかった。彼は、正木の家でのように、自由にたらふく食うことは出来なかったが、何かしら、これまでに知らなかった食卓のうるおいというものを、子供心に感ずることが出来た。
 夕食を終えると、竜一と次郎とは、裸になって、庭に出してある縁台の上で、腕押しをはじめた。腕押しでは、竜一は次郎の敵ではなかった。次郎は一度くらい負けてやってもいいと思ったが、竜一の方がすぐやめてしまった。竜一は別に残念そうでもなかった。そして、
「一番星見つけた。」
 と、だしぬけに、西の空を指して叫んだ。そこには金星が鮮かに光っていた。
 それから二人は、縁台に仰向けに寝転んで、じっと大空に見入った。そして新しい星を見つけるたびに、やんやとはしゃいだ。次郎はそのあいだにも、春子が早くやって来ればいいのに、と思っていた。
 空が螺鈿らでんちりばめたようになったころ、やっと春子がやって来た。次郎は、彼女が縁台に腰をかけた時、ほのかに化粧の匂いが闇を伝って来るのを感じた。
「蚊がつくわ。」
 そう言って、彼女は、持っていた団扇で二人をあおいだ。次郎は、ていては悪いような気がして、斜めに体を起した。
「次郎ちゃん、帰りたくなったら、誰か送って行ってあげるわ。」
 次郎は、春子が、来るとすぐそんなことを言い出したので、がっかりした。しかし、帰りたくないとは言いかねて、默って縁台を下りた。
「それとも、泊って行く? お母さんに叱られやしない?」
「僕帰るよ。」
 次郎はそう答えるより外なかった。
「じゃ、誰かに送らせるわ。」
 春子は、次郎の予期に反して、あっさりとしていた。
「一人でいいんだい。」
「いけないわ、由ちゃんの仲間が、まだそこいらに見張っているかも知れないのよ。あの子はしつっこいから。」
「僕、負けはしないよ。」
「勝ったって、負けたって、喧嘩する人、大嫌いだわ。」
「大嫌い」という言葉が、次郎の頭に強く響いた。しかし、送って貰って、由夫に卑怯だと思われるのもいやだった。
「次郎ちゃん、泊っていけよ。」
 竜一が起きあがって言った。次郎は春子の顔をうかがいながら、默って立っていた。
「でも、お母さんに叱られやしない。」
 春子は念を押した。
「叱られはしないけど。……」
 次郎は竜一がもっと何とか言ってくれるのを期待しながら、あいまいな返事をした。
 ちょうどその時だった。二、三間先の庭の生籬いけがきが、だしぬけにざわざわと音を立ててれだした。誰か外の方から揺すぶったらしい。
 三人は一せいにその方に眼をやった。
「だあれ?」
 春子が声をかけた。しかし、それっきりしんとして物音がしない。
「犬かしら。」
 彼女は立ち上って、二三歩生籬に近づきながら呟いた。
「人間だよ。」
 生籬の外からおどけたような子供の声が聞えた。つづいて四五人の子供が、わざとらしく高笑いした。
 そのあと、急に生籬の外がそうぞうしくなった。
「里っ子、ちびっ子、よういよい。ちびっ子、じろっ子、よういよい。」
 この辺の盆踊りの節をまねて、そう唄いながら、子供たちは生籬の外で足拍子を踏んだ。
「まあ憎らしい。……次郎ちゃん、我慢するのよ。」
 春子は、生籬の方を向いたまま、右手をうしろの方で振って、次郎をなだめるような恰好をした。が、もうその時には、次郎は縁台の近くにはいなかった。彼は裸のまま、いつの間にか門の方へ廻って、子供たちの群におそいかかっていたのである。
 生籬の外では、忽ち大乱闘だいらんとうが始まった。
「わあっ。」
 という子供の悲鳴。捧切のふれ合う音。折り重なった黒い人影。
「誰か早く来て!」
 春子は金切声をあげた。
 竜一の家の人たちが飛び出して、みんなを取鎮とりしずめた時には、次郎は四五人の子供たちによってさんざんに棒切れで撲られているところだった。しかし、不思議にも、悲鳴をあげていたのは彼ではなかった。彼は自分の体の下に、しっかりと一人の子供をおさえつけて、その頬ぺたを、両手でがむしゃらにつかんでいたのである。一人の子供というのは、いうまでもなく由夫であった。由夫の顔は、次郎の爪で、さんざんに引っかかれていた。
 しかし次郎の傷は一層ひどかった。彼の裸の体は、方々紫色に腫れ上っていた。ことに後頭部にはかなり大きな裂傷れっしょうがあって、血が背中や胸にいくすじも流れていた。彼が明るい電燈の下に、歯を食いしばった姿を表した時には、春子をはじめ、みんなが顔色を真っ青にしたほどだった。
 傷は竜一の父に二針ほど縫って貰った。春子は繃帯ほうたいをかけてやりながら、半ば独言ひとりごとのように言った。
「私、お母さんにすまないわ。傷が治るまで次郎ちゃんをお預りしようかしら。」
 次郎はそれを聞くと、眼を輝やかした。しかし、まだ繃帯を結び終らぬうちに、廊下にあわただしい足音がして、母のお民が診察室に顔を現した。そして次郎は間もなくつれて行かれた。

二五 姉ちゃん


 次郎の頭に巻かれた繃帯は、学校じゅうの注目のしょう点になった。誰もそれを彼の敗北のしるしだと思う者はなかった。このごろ少し落目になっていた彼の勇名は、そのため完全に復活した。上級の子供たちまでが、学校の往き帰りに、彼にびるようなふうがあった。由夫とその仲間たちは、いつもびくびくして彼を避けることに苦心した。
 次郎は、しかし、みんなのそうした様子には、まるで無頓着むとんちゃくなような顔をしていた。彼はともすると、むっつりして、ひとりで何か考えこんだ。それが子供達を一そう気味悪がらせた。
「打ちどころが悪ければ、死ぬところだったね。」
 彼は、事件のあとで、いろんな人にそう言われたのを、おりおり思い出す。しかし彼は、そう聞いても死ぬのが怖いという気にはちっともなれない。生籬の根もとに、血まみれになってぐったりと倒れている自分の姿を想像してみても、さして痛切な感じが起るのでもない。死ぬなんて何でもないことだ、というような気がする。
 だが、彼は、自分の死骸を想像すると同時に、きっと、その死骸を取り巻いている多くの人々を想像する。すると、彼の心は決して平静であることが出来ない。それは、そのなかに、父や、母や、祖母や、春子などの顔が、さまざまのちがった表情をして現れて来るからである。祖母の顔を想像すると、彼は、何くそ、死ぬものか、という気になる。父や春子の顔を想像すると、哀れっぽい甘い感じになって、死ぬことを幸福だとさえ思う。
(ところで、母さんはどんな顔をするだろう。)
 彼はいつも、一生懸命で母の表情を想像してみるのだが、どういうものか、ほかの人たちの顔ほど、はっきり浮かんで来ない。そして、時とすると、母の顔が、ひょいとお浜の顔に変ったりする。無論それは非常にぼやけている。しかしお浜の顔が浮かんで来ると、しみじみと死んではならないという気になる。そして、想像の世界から急に現実の自分にかえって、お浜の思い出にふけるのである。
 だが、お浜の記憶は、もう何といってもうっすらとしている。そして寂しい。そんな時に、彼の心を明るいところにつれもどしてくれるのは、いつも竜一である。竜一は、別に次郎の気持を知っているわけではなく、むろん自分で彼をどうしようというのでもないが、学校の休み時間などに次郎が一人でいるのを見つけると、すぐそばに寄って来る。すると次郎はすぐ、春子に繃帯を取りかえて貰う時の喜びをひとりでに思い出して、明るい気分になるのである。
 その繃帯も、しかし、十日ほどで必要がなくなった。春子は、その日絆創膏ばんそうこうを貼りながら、いかにも嬉しそうに言った。
「やっと、さばさばしたわね。暑苦しかったでしょう。……もうこれからあんな馬鹿な真似はしないことよ。」
 しかし、次郎は、たった一つの楽しみをもぎ取られたような気がして、変に淋しかった。
「姉ちゃん。」
 と、はたで付替つけかえを見ていた竜一が言った。
「学校では、みんなが次郎ちゃんを怖がるんだよ。僕、次郎ちゃんと仲がいいもんだから、僕まで威張れらあ。」
「まあ、いやな竜ちゃん。」
 春子は吹き出しそうな顔をして、そう言ったが、急に真面目になって、
「次郎ちゃんは、お友達に怖がられるのがお好き?」
 次郎は、春子に真正面からそう問われて、うろたえた。そして、つまらないことを言い出した竜一を、心のうちでうらんだ。
「竜ちゃん、嘘言ってらあ、誰も怖がってなんか、いやしないじゃないか。」
 彼はむきになって打消しにかかった。
「嘘なもんか。ほら、昨日だって、次郎ちゃんが行くと、みんな鬼ごっこをやめて、逃げちゃったじゃないか。」
「いけないわ、そんなじゃあ。」
 と、春子は、絆創膏をり終って、じっと次郎の顔を斜め後から見下した。
 次郎は何とか弁解しようと思ったが、どう言っていいのか解らなくて、椅子にかけたままもじもじしていた。すると、いきなり春子の手が、うしろから彼の肩をつかんだ。
「次郎ちゃん、お願いだからいい子になってね。いいでしょう、ね、ね。」
 春子の頬が息づまるように、次郎の頬にせまって来た。次郎は柔かな光のうずに巻きこまれるような気がして、ぼうっとなった。そして、嬉しいとも悲しいともつかぬ涙が、ぽたぽたと彼の膝に落ちた。
「乳母やさんが聞いたら、どんなに心配するが知れないわ。」
 春子の声が、彼の耳許でふるえるようにささやいた。
 次郎は、それを聞くと、いきなり椅子からすべって春子に抱きついた。
「僕、悪かっよ。僕……僕……」
 彼は、顔を春子の胸にうずめて、泣き声をおさえた。春子は次郎の頭をなでながら、
「そう? 解ってくれて? じゃもういいわ。」
「なあんだ、つまんないなあ。姉ちゃん生意気だい、次郎ちゃんを叱ったりするんだもの。」
 と、竜一は口を尖らしながら、それでも何だか訳がわからなそうな顔をして、立っていた。
「そうね、ほんとに悪かったわね。……じゃ、二人でお二階へ行ってらっしゃい。いいものあげるから。」
 竜一はすぐ次郎の手を引っぱった。次郎は一方の手で涙を押さえながら、まるで、ずっと年上の人にでも手を引かれているかのように、竜一のあとについて、二階に行った。

     *

 傷が治ってからも、彼は毎日のように竜一の家に遊びに行った。
 そのうちに、次郎は竜一にならって、春子を「姉ちゃん」と呼ぶようになってしまった。最初にそう呼ぶ機会を捉えるためには、次郎は一方ならぬ苦心をした。三人で何か取り合いっこをして、大はしゃぎにはしゃいでいる最中、竜一が、
「姉ちゃん、いけないや。」
 と言ったのを、そのまま自分も真似てみたのが始まりだった。真似てみて、次郎は顔を真赧まっかにした。しかし、春子も竜一も、まるで気がつかなかったふうだったので、彼は勇気を得、それから盛んに、「姉ちゃん」を連発した。そして、その日は、とうとう二人にそれを気づかれずにすんでしまった。
「あら、いつから次郎ちゃんは、あたしを姉ちゃんって呼ぶようになったの。」
 そう言って、春子が不思議がったのは、それから随分たってからのことであった。