長い冬の夜はまだ明けない。雷電峠と反対の湾の一角から長く突き出た造りぞこねの防波堤は大蛇だいじゃ亡骸むくろのようなまっ黒い姿を遠く海の面に横たえて、夜目にも白く見える波濤はとうきばが、小休おやみもなくその胴腹にいかかっている。砂浜にもやわれた百そう近い大和船は、へさきを沖のほうへ向けて、互いにしがみつきながら、長い帆柱を左右前後に振り立てている。そのそばに、さまざまの漁具と弁当のおひつとを持って集まって来た漁夫たちは、言葉少なに物を言いかわしながら、防波堤の上に建てられた組合の天気予報の信号灯を見やっている。暗いやみの中に、白と赤との二つの火が、夜鳥の目のようにと光っている。赤と白との二つの球は、危険警戒を標示する信号だ。船を出すには一番鳥いちばんどりが鳴きわたる時刻まで待ってからにしなければならぬ。町のほうは寝しずまって一つ見えない。それらのすべてをおおいくるめて凍った雲は幕のように空低くかかっている。音を立てないばかりに雲は山のほうから沖のほうへと絶え間なく走り続ける。みぎわまで雪に埋まった海岸には、見渡せる限り、白波が砕けて、風が――空気そのものをかっさらってしまいそうな激しい寒い風が雪に閉ざされた山を吹き、漁夫を吹き、海を吹きまくって、まっしぐらに水と空との閉じ目をめがけて突きぬけて行く。
 漁夫たちの群れから少し離れて、一団になったお内儀かみさんたちの背中から赤子の激しい泣き声が起こる。しばらくしてそれがしずまると、風の生み出す音の高い不思議な沈黙がまた天と地とにみなぎり満ちる。
 やや二時間もたったと思うころ、あや目も知れないやみの中から、硫黄いおうたけの山頂――右肩をそびやかして、左をなで肩にした――が雲の産んだ鬼子のように、空中に現われ出る。鈍い土がまだ振り向きもしないうちに、空はいち早くも暁の光を吸い初めたのだ。
 模範船(港内に四五そうあるのだが、船も大きいし、それに老練な漁夫が乗り込んでいて、他の船にかけ引き進退の合図をする)の船頭が頭をあつめて相談をし始める。どことも知れず、あの昼にはけうとい羽色を持ったからすの声が勇ましく聞こえだす。漁夫たちの群れもお内儀かみさんたちのかたまりも、石のような不動の沈黙から急に生き返って来る。
「出すべ」
 そのさざめきの間に、潮でび切った老船頭の幅の広い塩辛声しおからごえが高くこう響く。
 漁夫たちは力強い鈍さをもって、互いに今まで立ち尽くしていた所を歩み離れてめいめいの持ち場につく。お内儀さんたちは右に左におっとや兄や情人やを介抱して駆け歩く。今まで陶酔したようにたわいもなく波に揺られていた船のともには漁夫たちが膝頭ひざがしらまで水に浸って、わめき始める。ののしり騒ぐ声がひとしきり聞こえたと思うと、船はよんどころなさそうに、右に左に揺らぎながら、船首を高くもたげて波頭を切り開き切り開き、狂いあばれる波打ちぎわから離れて行く。最後の高いののしりの声とともに、今までの鈍さに似ず、あらゆる漁夫は、ましらのように船の上に飛び乗っている。ややともすると、へさきを岸に向けようとする船の中からは、長い竿さおが水の中に幾本も突き込まれる。船はやむを得ずまた立ち直って沖を目ざす。
 この出船の時の人々の気組み働きは、だれにでも激烈なアレッグロで終わる音楽の一片を思い起こさすだろう。がやがやと騒ぐ聴衆のような雲や波の擾乱じょうらんの中から、漁夫たちの鈍い Largo pianissimo とも言うべき運動が起こって、それが始めのうちは周囲の騒音の中に消されているけれども、だんだんとその運動は熱情的となり力づいて行って、霊を得たように、漁夫の乗り込んだ舟が波を切り波を切り、だんだんと早くなる一定のテンポを取って沖に乗り出して行くさまは、力強い楽手の手で思い存分大胆にかなでられる Allegro Molto を思い出させずにはおかぬだろう。すべてのものの緊張したそこには、いつでも音楽が生まれるものと見える。
 船はもう一個の敏活な生き物だ。船べりからは百足虫むかでのようにの足を出し、ともからは鯨のようにかじの尾を出して、あの物悲しい北国特有な漁夫のかけ声に励まされながら、まっ暗に襲いかかる波のをしのぎ分けて、沖へ沖へと岸を遠ざかって行く。海岸にひとかたまりになって船を見送る女たちの群れはもう命のない黒い石ころのようにしか見えない。漁夫たちは艪をこぎながら、帆綱を整えながら、浸水あかをくみ出しながら、その黒い石ころと、模範船の艫から一字を引いて怪火かいかのように流れる炭火の火の子とをながめやる。長い鉄の火箸ひばしに火の起こった炭をはさんで高くあげると、それが風を食って盛んに火の子を飛ばすのだ。すべての船は始終それを目あてにして進退をしなければならない。炭火が一つあげられた時には、天候の悪くなるしるしと見て船をめ、二つあげられた時には安全になった印として再び進まねばならぬのだ。暁闇ぎょうあんを、物々しく立ち騒ぐ風と波との中に、海面低く火花を散らしながら青い炎を放って、燃え上がり燃えかすれるその光は、幾百人の漁夫たちの命を勝手に支配する運命の手だ。その光が運命の物すごさをもって海上に長く尾を引きながら消えて行く。
 どこからともなく海鳥の群れが、白く長い翼に羽音を立てて風を切りながら、船の上に現われて来る。ねこのような声で小さく呼びかわすこの海の砂漠さばくの漂浪者は、さっと落として来て波に腹をなでさすかと思うと、翼を返して高く舞い上がり、ややしばらく風に逆らってじっとこたえてから、思い直したように打ち連れて、小気味よく風に流されて行く。その白い羽根がある瞬間には明るく、ある瞬間には暗く見えだすと、長い北国の夜もようやく明け離れて行こうとするのだ。夜のやみは暗く濃く沖のほうに追いつめられて、東の空には黎明れいめいの新しい光が雲を破り始める。物すさまじい朝焼けだ。あやまって海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右の肩だけを波の上に現わしている、その肩のような雷電峠の絶巓ぜってんをなでたりたたいたりして叢立むらだち急ぐ嵐雲あらしぐもは、炉に投げ入れられた紫のような光に燃えて、山ふところの雪までも透明な藤色ふじいろに染めてしまう。それにしても明け方のこの暖かい光の色に比べて、なんという寒い空の風だ。長い夜のために冷え切った地球は、今そのいちばん冷たい呼吸を呼吸しているのだ。
 私は君を忘れてはならない。もう港を出離れて木の葉のように小さくなった船の中で、君は配縄はいなわの用意をしながら、恐ろしいまでに荘厳そうごんなこの日の序幕をながめているのだ。君の父上は舵座かじざにあぐらをかいて、時々晴雨計を見やりながら、変化のはげしいそのころの天気模様を考えている。海の中から生まれて来たような老漁夫の、しわにたたまれた鋭い眼は、雲一片のしるしをさえ見落とすまいと注意しながら、顔には木彫のような深い落ち付きを見せている。君の兄上は、凍って自由にならない手のひらを腰のあたりの荒布にこすりつけて熱を呼び起こしながら、帆綱を握って、風の向きと早さに応じて帆を立て直している。雇われた二人の漁夫は二人の漁夫で、二尋ふたひろ置きに本縄ほんなわから下がった針にをつけるのにせわしい。海の上を見渡すと、港を出てからに散らばって、朝の光に白い帆をかがやかした船という船は、等しく沖を目がけて波を切り開いて走りながら、君の船と同様な仕事にいそしんでいるのだ。
 夜が明け離れると海風と陸風との変わり目が来て、さすがに荒れがちな北国の冬の海の上もしばらくは穏やかになる。やがて瀬は達せられる。君らは水の色を一目見たばかりで、海中に突き入った陸地と海そのもののさかいとも言うべき瀬がどう走っているかをすぐ見て取る事ができる。
 帆がおろされる。勢いで走りつづける船足は、かじのために右なり左なりに向け直される。同時に浮標うきの付いた配縄はいなわの一端が氷のような波の中にざぶんざぶんと投げこまれる。二十五町から三十町に余る長さをもった縄全体が、海上に長々と横たえられるまでには、朝早くから始めても、日が子午線近く来るまでかからねばならないのだ。君らの船はにあやつられて、横波を食いながら進んで行く。ざぶり‥‥ざぶり‥‥寒気のために比重の高くなった海の水は、凍りかかった油のような重さで、物すごいインドあいの底のほうに、雲間を漏れる日光で鈍く光る配縄のをのみ込んで行く。
 今まで花のような模様を描いて、海面のところどころに日光を恵んでいた空が、急にと薄曇ると、どこからともなく時雨しぐれのようなあられが降って来て海面を泡立あわだたす。船と船とは、見る見る薄いのりのような青白いまくに隔てられる。君の周囲には小さな白い粒がかわき切った音を立てて、あわただしく船板を打つ。君は小ざかしい邪魔者から毛糸の襟巻えりまきで包んだ顔をそむけながら、配縄を丹念におろし続ける。
 すっと空が明るくなる。あられはどこかへ行ってしまった。そしてまっさおな海面に、漁船は陰になりひなたになり、堅い輪郭を描いて、波にもまれながらさびしく漂っている。
 きげん買いな天気は、一日のうちに幾度となくこうした顔のしかめ方をする。そして日が西に回るに従ってこのふきげんは募って行くばかりだ。
 寒暑をかまっていられない漁夫たちも吹きざらしの寒さにはひるまずにはいられない。配縄はいなわを投げ終わると、身ぶるいしながら五人の男は、舵座かじざにおこされた焜炉こんろの火のまわりに慕い寄って、大きなおひつから握り飯をわしづかみにつかみ出して食いむさぼる。港を出る時には一かたまりになっていた友船も、今は木の葉のように小さく互い互いからかけ隔たって、心細い弱々しそうな姿を、はてもなく露領に続く海原うなばらのここかしこに漂わせている。三里の余も離れた陸地は高い山々の半腹から上だけを水の上に見せて、降り積んだ雪が、日を受けた所は銀のように、雲の陰になった所は鉛のように、妙に険しい輪郭を描いている。
 漁夫たちは口を食物で頬張ほおばらせながら、きのうのりょうのありさまや、きょうの予想やらをいかにも地味な口調で語り合っている。そういう時に君だけは自分が彼らの間に不思議な異邦人である事に気づく。同じをあやつり、同じ帆綱をあつかいながら、なんという悲しい心のへだたりだろう。押しつぶしてしまおうと幾度試みても、すぐあとからまくしかかって来る芸術に対する執着をどうすることもできなかった。
 とはいえ、飛行機の将校にすらなろうという人の少ない世の中に、生きては人の冒険心をそそっていかにも雄々しい頼みがいある男と見え、死んでは万人にその英雄的な最後を惜しみ仰がれ、遺族まで生活の保障を与えられる飛行将校にすらなろうという人の少ない世の中に、荒れても晴れても毎日毎日、一命を投げてかかって、緊張し切った終日の労働に、玉の緒でき上げたような飯を食って一生を過ごして行かねばならぬ漁夫の生活、それにはいささかも遊戯的な余裕がないだけに、命とかけがえの真実な仕事であるだけに、言葉には現わし得ないほど尊さと厳粛さとを持っている。ましてや彼らがこの目ざましいけなげな生活を、やむを得ぬ、苦しい、しかし当然な正しい生活として、誇りもなく、矯飾きょうしょくもなく、不平もなく、素直に受け取り、くびきにかかった輓牛ひきうしのような柔順な忍耐と覚悟とをもって、勇ましく迎え入れている、その姿を見ると、君は人間の運命のはかなさと美しさとに同時に胸をしめ上げられる。
 こんな事を思うにつけて、君の心の目にはまざまざと難破船の痛ましい光景が浮かび出る。君はやはり舵座かじざにすわって他の漁夫と同様に握り飯を食ってはいるが、いつのまにか人々の会話からは遠のいて、物思わしげに黙りこくってしまう。そして果てしもなく回想の迷路をたどって歩く。


 それはある年の三月に、君が遭遇したにがい経験の一つだ。模範船からすぐ引き上げろという信号がかかったので、今までも気づかいながら仕事を続けていた漁船は、打ち込み打ち込む波濤はとうと戦いながら配縄はいなわをたくし上げにかかったけれども、吹き始めた暴風は一秒ごとに募るばかりで、船頭はやむなく配縄を切って捨てさせなければならなくなった。
「またはあぜにこ海さ捨てるだ」
と君の父上は心から嘆息してつぶやきながら君に命じて配縄はいなわを切ってしまった。
 海の上はただ狂いれる風と雪と波ばかりだ。縦横に吹きまく風が、思いのままに海をひっぱたくので、つるし上げられるように高まった三角波が互いに競って取っ組み合うと、取っ組み合っただけの波はたちまちまっ白なあわの山に変じて、そのいただきが風にちぎられながら、すさまじい勢いで目あてもなく倒れかかる。目も向けられないような濃い雪の群れは、波を追ったり波からのがれたり、さながら風の怒りをいどむ小悪魔のように、面憎つらにくく舞いながら右往左往に飛びはねる。吹き落として来た雪のは、大きな霧のになって、海とすれすれに波の上を矢よりも早く飛び過ぎて行く。
 雪と浸水あかとでのりよりもすべる船板の上を君ははうようにしてへさきのほうへにじり寄り、左の手に友綱の鉄環かなわと握って腰をえながら、右手に磁石をかまえて、大声で船の進路を後ろに伝える。二人の漁夫は大竿おおざおを風上になったふなべりから二本突き出して、動かないように結びつける。船の顛覆てんぷくを少しなりとも防ごうためだ。君の兄上は帆綱を握って、舵座かじざにいる父上の合図どおりに帆の上げ下げを誤るまいと一心になっている。そしてその間にもなしに打ち込む浸水あかを急がしくんでは舷から捨てている。命がけに呼びかわす互い互いの声は妙にうわずって、風に半分がた消されながら、それでも五人の耳には物すごくも心強くも響いて来る。
「おも舵っ」
「右にかわすだってえば」
「右だ‥‥右だぞっ」
「帆綱をしめろやっ」
「友船は見えねえかよう、いたらやーい」
 どう吹こうとためらっていたような疾風がやがて方向を定めると、これまでただもなく立ち騒いでいたらしく見える三角波は、だんだんと丘陵のような紆濤うねりに変わって行った。言葉どおりに水平に吹雪ふぶく雪の中を、後ろのほうから、見上げるような大きな水の堆積たいせきが、想像も及ばない早さでひた押しに押して来る。
「来たぞーっ」
 緊張し切った五人の心はまたさらに恐ろしい緊張を加えた。まぶしいほど早かった船足が急によどんで、後ろに吸い寄せられて、ともが薄気味悪く持ち上がって、船中に置かれた品物ががらがらと音をたてて前にのめり、人々も何かに取りついて腰のすわりを定めなおさなければならなくなった瞬間に、船はひとあおりあおって、物すごい不動から、奈落ならくの底までもとすさまじい勢いで波の背をすべり下った。同時に耳に余る大きな音を立てて、紆濤うねり屏風倒びょうぶだおしに倒れかえる。わきかえるようなあわの混乱の中に船をもまれながら行く手を見ると、いったんこわれた波はすぐまた物すごい丘陵に立ちかえって、目の前の空を高くしきりながら、見る見る悪夢のように遠ざかって行く。
 安堵あんどの息をつくすきも与えず、後ろを見ればまた紆濤うねりだ。水の山だ。その時、
「あぶねえ」

というけたたましい声を同時に君は聞いた。そして同時に野獣の敏感さをもって身構えしながら後ろを振り向いた。根もとから折れて横倒しに倒れかかる帆柱と、急に命を失ったようにしわになってたたまる帆布と、その陰から、飛び出しそうに目をむいて、大きく口をあけた君の兄上の顔とが映った。
 君は咄嗟とっさに身をかわして、頭から打ってかかろうとする帆柱から身をかばった。人々は騒ぎ立ってを構えようとひしめいた。けれども無二無三な船足の動揺には打ち勝てなかった。帆の自由である限りは金輪際こんりんざい船を顛覆てんぷくさせないだけの自信を持った人たちも、帆を奪い取られては途方に暮れないではいられなかった。船足のとまった船ではもうかじもきかない。船は波の動揺のまにまに勝手放題に荒れ狂った。
 第一の紆濤うねり、第二の紆濤、第三の紆濤には天運が船を顛覆からかばってくれた。しかし特別に大きな第四の紆濤を見た時、船中の人々は観念しなければならなかった。
 雪のために薄くぼかされたまっ黒な大きな山、その頂からは、火が燃え立つように、ちらりちらり白い波頭なみがしらが立っては消え、消えては立ちして、瞬間ごとに高さを増して行った。吹き荒れる風すらがそのためにさえぎりとめられて、船の周囲には気味の悪い静かさが満ち広がった。それを見るにつけても波の反対の側をひた押しに押す風の激しさ強さが思いやられた。ともを波のほうへ向ける事も得しないで、力なく漂う船の前まで来ると、波の山は、いきなり、獲物に襲いかかる猛獣のように思いきり背延びをした。と思うと、波頭は吹きつける風にそりを打ってどうとくずれこんだ。
 と思ったその時おそく、君らはもうまっ白なあわに五体を引きちぎられるほどもまれながら、船底を上にして顛覆てんぷくした船体にしがみつこうともがいていた。見ると君の目の届く所には、君の兄上が頭からずぶぬれになって、ぬるぬると手がかりのないふなべりに手をあてがってはすべり、手をあてがってはすべりしていた。君は大声を揚げて何か言った。兄上も大声を揚げて何か言ってるらしかった。しかしお互いに大きな口をあくのが見えるだけで、声は少しも聞こえて来ない。
 割合に小さな波があとからあとから押し寄せて来て、船を揺り上げたり押しおろしたりした。そのたびごとに君たちは船との縁を絶たれて、水の中に漂わねばならなかった。そして君は、着込んだ厚衣あつししんまで水が透って鉄のように重いのにもかかわらず、一心不乱に動かす手足と同じほどのせわしさで、目と鼻ぐらいの近さに押し迫った死からのがれ出る道を考えた。心の上澄うわずみは妙におどおどとあわてている割合に、心の底は不思議に気味悪く落ちついていた。それは君自身にすら物すごいほどだった。空といい、海といい、船といい、君の思案といい、一つとして目あてなく動揺しないものはない中に、君の心の底だけが悪落ち付きに落ち付いて、「死にはしないぞ」とときめ込んでいるのがかえって薄気味悪かった。それは「死ぬのがいやだ」「生きていたい」「生きる余席の有る限りはどうあっても生きなければならぬ」「死にはしないぞ」という本能の論理的結論であったのだ。この恐ろしい盲目な生の事実が、そしてその結論だけが、目を見すえたように、君の心の底に落ち付き払っていたのだった。
 君はこの物すごい無気味な衝動に駆り立てられながら、水船なりにも顛覆した船を裏返す努力に力を尽くした。残る四人の心も君と変わりはないと見えて、険しい困苦と戦いながら、四人とも君のいるふなべりのほうへ集まって来た。そして申し合わしたように、いっしょに力を合わせて、船の胴腹にはい上がるようにしたので、船は一方にかしぎ始めた。
「それ今ひと息だぞっ」
 君の父上がしぼり切った生命を声にしたように叫んだ。一同はまた懸命な力をこめた。
 おりよく――全くおりよく、天運だ――その時船の横面よこつらに大きな波が浴びせこんで来たので、片方だけに人の重りの加わった船はと裏返った。舷までひたひたと水に埋もれながらもとにかく船は真向きになって水の面に浮かび出た。船が裏返る拍子に五人は五人ながら、と氷のような海の中にもぐり込みながら、急に勢いづいて船の上に飛び上がろうとした。しかし着込んだ衣服は思うざまぬれ透っていて、ややともすれば人々を波の中に吸い込もうとした。それが一方の舷に取りついて力をこめればまた顛覆てんぷくするにきまっている。生死の瀬戸ぎわにはまり込んでいる人々の本能は恐ろしいほど敏捷びんしょうな働きをする。五人の中の二人は咄嗟とっさに反対の舷に回った。そして互いに顔を見合わせながら、一度にと声をかけ合わせて半身を舷に乗り上げた。足のほうを船底に吸い寄せられながらも、半身を水から救い出した人々の顔に現われたなんとも言えない緊張した表情――それを君は忘れる事ができない。次の瞬間にはと声をあげて男泣きに泣くか、それとも我れを忘れて狂うように笑うか、どちらかをしそうな表情――それを君は忘れる事ができない。
 すべてこうした懸命な努力は、降りしきる雪と、荒れ狂う水と、海面をこすって飛ぶ雲とで表わされる自然の憤怒ふんぬの中で行なわれたのだ。怒った自然の前には、人間はちりひとひらにも及ばない。人間などという存在は全く無視されている。それにも係わらず君たちは頑固がんこに自分たちの存在を主張した。雪も風も波も君たちを考えにいれてはいないのに、君たちはしいてもそれらに君たちを考えさせようとした。
 ふなべりを乗り越して奔馬のような波頭がつぎつぎにすり抜けて行く。それに腰まで浸しながら、君たちは船の中に取り残された得物をなんでもかまわず取り上げて、それを働かしながら、死からのがるべき一路を切り開こうとした。ある者はを拾いあてた。あるものは船板を、あるものは水柄杓みずびしゃくを、あるものは長いの柄を、何ものにも換えがたい武器のように握っていた。そして舷から身を乗り出して、子供がするように、水をいだり、浸水あかをかき出したりした。
 吹き落ちる気配けはいも見えないあらしは、果てもなく海上を吹きまくる。目に見える限りはただ波頭ばかりだ。犬のような敏捷すばやさで方角をぎ慣れている漁夫たちも、今は東西の定めようがない。東西南北は一つのはちの中ですりまぜたように渾沌こんとんとしてしまった。
 薄い暗黒。天からともなく地からともなくわき起こる大叫喚。ほかにはなんにもない。
「死にはしないぞ」――そんなになってからも、君の心の底は妙に落ち着いて、薄気味悪くこの一事を思いつづけた。
 君のそばには一人の若い漁夫がいたが、その右の顳顬こめかみのへんから生々しい色の血が幾条にもなって流れていた。それだけが君の目に映った。「死にはしないぞ」――それを見るにつけても、君はまたしみじみとそう思った。
 こういう必死な努力が何分続いたのか、何時間続いたのか、時間というものの無くなってしまったこの世界では少しもわからない。しかしながらとにかく君が何ものもれ得ない心の中に、疲労という感じを覚えだして、これは困った事になったと思ったころだった、突然一人の漁夫が意味のわからない言葉を大きな声で叫んだのは。今まででも五人が五人ながら始終何か互いに叫び続けていたのだったが、この叫び声は不思議にきわ立ってみんなの耳に響いた。
 残る四人は思わず言い合わせたようにその漁夫のほうを向いて、その漁夫が目をつけているほうへ視線をたどって行った。
 船! ‥‥船!
 濃い吹雪ふぶきの幕のあなたに、さだかには見えないが、波のそびらに乗って四十五度くらいの角度に船首を下に向けながら、帆をいっぱいに開いて、矢よりも早く走って行く一そうの船!
 それを見ると何かが君の胸をと下からつき上げて来た。君は思わずすすり泣きでもしたいような心持ちになった。何はさておいても君たちはその船を目がけて助けを求めながら近寄って行かねばならぬはずだった。余の人たちも君と同様、確かに何物かを目の前に認めたらしく、奇怪な叫び声を立てた漁夫が、目を大きく開いて見つめているあたりを等しく見つめていた。そのくせ一人として自分らの船をそっちのほうへ向けようとしているらしい者はなかった。それをいぶかる君自身すら、心がただわくわくと感傷的になりまさるばかりで、急いで働かすべき手はかえってえてしまっていた。
 白い帆をいっぱいに開いたその船は、依然として船首を下に向けたまま、矢のように走って行く。降りしきる吹雪ふぶきを隔てた事だから、乗り組みの人の数もとは見えないし、水の上に割合に高く現われている船の胴も、木の色というよりは白堊はくあのような生白さに見えていた。そして不思議な事には、波の腹に乗っても波の背に乗っても、へさきは依然として下に向いたままである。風の強弱に応じて帆を上げ下げする様子もない。いつまでも目の前に見えながら、四十五度くらいに船首を下向きにしたまま、矢よりも早く走って行く。
 として気がつくと、その船はいつのまにか水から離れていた。波頭から三段も上と思われるあたりを船はかしいだまま矢よりも早く走っている。君の頭はとしてすくみ上がってしまった。同時に船はだんだん大きくぼやけて行った。いつのまにかその胴体は消えてなくなって、ただまっ白い帆だけが矢よりも早く動いて行くのが見やられるばかりだ。と思うまもなくその白い大きな帆さえが、降りしきる雪の中に薄れて行って、やがてはかき消すように見えなくなってしまった。
 怒濤どとう白沫しらあわ。さっさっと降りしきる雪。目をかすめて飛びかわす雲の霧。自然の大叫喚‥‥そのまっただ中にたよりなくもみさいなまれる君たちの小さな水船‥‥やっぱりそれだけだった。
 生死の間にさまよって、疲れながらも緊張し切った神経に起こる幻覚ハルシネーションだったのだと気がつくと、君は急に一種の薄気味悪さを感じて、力を一度にもぎ取られるように思った。
 さきほど奇怪な叫び声を立てたその若い漁夫は、やがて眠るようにおとなしく気を失って、ひょろひょろとよろめくと見る間に、くずれるように胴の間にぶっ倒れてしまった。
 漁夫たちは何か魔でもさしたように思わず極度の不安を目に現わして互いに顔を見合わせた。
「死にはしないぞ」
 不思議な事にはそのぶっ倒れた男を見るにつけて、また漁夫たちの不安げな様子を見るにつけて、君は懲りずまに薄気味悪くそう思いつづけた。
 君たちがほんとうに一そうの友船と出くわしたまでには、どれほどの時間がたっていたろう。しかしとにかく運命は君たちには無関心ではなかったと見える。急に十倍も力を回復したように見えた漁夫たちが、必死になって君たちの船とその船とをつなぎ合わせ、半分がた凍ってしまった帆を形ばかりに張り上げて、風の追うままに船を走らせた時には、なんとも言えない幸福な感謝の心が、おさえてもおさえてもむらむらと胸の先にこみ上げて来た。
 着く所に着いてから思い存分の手当をするからしばらく我慢してくれと心の中にわびるように言いながら、君は若い漁夫を卒倒したまま胴の間の片すみに抱きよせて、すぐ自分の仕事にかかった。
 やがて行く手の波の上にと雷電峠の突角が現われ出した。山脚やまあしは海の中に、山頂は雲の中に、山腹は雪の中にもみにもまれながら、決して動かないものが始めて君たちの前に現われたのだ。それを見つけた時の漁夫たちの心の勇み‥‥魚が水にあったような、野獣が山に放たれたような、太陽が西を見つけ出したようなその喜び‥‥船の中の人たちは思わず足爪立つまだてんばかりに総立ちになった。人々の心までが総立ちになった。
「峠が見えたぞ‥‥北に取れやかじを‥‥隠れ岩さ乗り上げんな‥‥雪崩なだれにも打たせんなよう‥‥」
 そう言う声がに人々の口からわめかれた。それにしても船はひどく流されていたものだ。雷電峠から五里も離れた瀬にいたものが、いつのまにかこんな所に来ているのだ。見る見る風と波とに押しやられて船は吸い付けられるように、吹雪ふぶきの間からまっ黒に天までそそり立つ断崕だんがいに近寄って行くのを、漁夫たちはそうはさせまいと、帆をたて直し、を押して、横波を食わせながら船を北へと向けて行った。
 陸地に近づくと波はなお怒る。たてがみを風になびかしてれる野馬のように、波頭は波の穂になり、波の穂は飛沫ひまつになり、飛沫はになり、は霧になり、霧はまたまっ白い波になって、息もつかせずあとからあとからと山すそに襲いかかって行く。山すその岩壁に打ちつけた波は、煮えくりかえった熱湯をぶちつけたように、湯げのような白沫しらあわを五丈も六丈も高く飛ばして、りを打ちながら海の中にとくずれ込む。
 その猛烈な力を感じてか、断崕だんがいの出鼻に降り積もって、徐々に斜面をすべり下って来ていた積雪が、地面とのえんから離れて、すさまじい地響きとともに、何百丈の高さから一気になだれ落ちる。いただきを離れた時には一握りの銀末に過ぎない。それが見る見る大きさを増して、隕星いんせいのように白い尾を長く引きながら、音も立てずにまっしぐらに落として来る。あなやと思う間にそれは何十里にもわたる水晶の大簾おおすだれだ。ど、ど、どどどしーん‥‥さあーっ‥‥。広い海面が目の前でまっ白な平野になる。山のような五百重いおえの大波はたちまちおい退けられてさざなみ一つ立たない。どっとそこを目がけて狂風が四方から吹き起こる‥‥その物すさまじさ。
 君たちの船は悪鬼におい迫られたようにおびえながら、懸命に東北へとかじを取る。磁石のような陸地の吸引力からようよう自由になる事のできた船は、また揺れ動く波の山と戦わねばならぬ。
 それでも岩内の港が波の間に隠れたり見えたりし始めると、漁夫たちの力は急に五倍にも十倍にもなった。今までの人数の二倍も乗っているように船は動いた。岸から打ち上げる目標の烽火のろしが紫だって暗黒な空の中でとはじけると、鬖々さんさんとして火花を散らしながらやみの中に消えて行く。それを目がけて漁夫たちは有る限りのを黙ったままでひたぎに漕いだ。その不思議な沈黙が、互いに呼びかわすむごたらしい叫び声よりもかえって力強く人々の胸に響いた。
 船が波の上に乗った時には、波打ちぎわに集まって何か騒ぎ立てている群衆が見やられるまでになった。やがてあらしの間にも大砲のような音が船まで聞こえて来た。と思うと救助縄きゅうじょなわが空をかけるへびのように曲がりくねりながら、船から二三段隔たった水の中にと落ちた。漁夫たちはそのほうへ船を向けようとひしめいた。第二の爆声が聞こえた。縄はあやまたず船に届いた。
 二三人の漁夫がよろけころびながらその縄のほうへ駆け寄った。
 音は聞こえずに烽火のろしの火花は間を置いて怪火のようにはるかの空にぱっと咲いてはすぐ散って行く。
 船は縄に引かれてぐんぐん陸のほうへ近寄って行く。水底が浅くなったために無二無三に乱れ立ち騒ぐ波濤はとうの中を、互いにしがみ合った二そうの船は、半分がた水の中をくぐりながら、半死のありさまで進んで行った。
 君は始めて気がついたように年老いた君の父上のほうを振り返って見た。父上はひざから下を水に浸して舵座かじざにすわったまま、と君を見つめていた。今まで絶えず君と君の兄上とを見つめていたのだ。そう思うと君はなんとも言えない骨肉の愛着にきびしく捕えられてしまった。君の目には不覚にも熱い涙が浮かんで来た。君の父上はそれを見た。
「あなたが助かってよござんした」
「お前が助かってよかった」
 両人の目には咄嗟とっさの間にも互いに親しみをこめてこう言い合った。そしてこのうれしい言葉を語る目から互い互いの目は離れようとしなかった。そうしたままでしばらく過ぎた。
 君は満足しきってまた働き始めた。もう目の前には岩内の町が、きたなく貧しいながらに、君にとってはなつかしい岩内の町が、新しく生まれ出たままのように立ちつらなっていた。水難救済会の制服を着た人たちが、右往左往に駆け回るありさまもまざまざと目に映った。
 なんとも言えない勇ましい新しい力――上げ潮のように、腹のどん底からむらむらとわき出して来る新しい力を感じて、君は「さあ来い」と言わんばかりに、をひしげるほど押しつかんだ。そして矢声をかけながらぎ始めた。涙があとからあとからと君のほおを伝って流れた。
 おしのように今まで黙っていたほかの漁夫たちの口からも、やにわに勇ましいかけ声があふれ出て、君の声に応じた。艪はのように波を切り破って激しく働いた。
 岸の人たちが呼びおこす声が君たちの耳にもはいるまでになった。と思うと君はだんだん夢の中に引き込まれるようなした感じに襲われて来た。
 君はもう一度君の父上のほうを見た。父上は舵座にすわっている。しかしその姿は前のように君になんらの迫った感じをひき起こさせなかった。
 やがて船底にと砂の触れる音が伝わった。船は滞りなく君が生まれ君が育てられたその土の上に引き上げられた。
「死にはしなかったぞ」
と君は思った。同時に君の目の前は見る見るまっ暗になった。‥‥君はそのあとを知らない。