十四

 六月一日、今日成願寺じょうがんじに移る。こう日記にかれは書いた。荻生おぎゅう君が主僧といろいろ打ち合わせをしてくれたので、話は容易にまとまった。無人ぶにんで食事の世話まではしてあげることはできないが、うちにあるもので入り用なものはなんでもおつかいなさい。こう言って、主僧は机、火鉢、座蒲団、茶器などを貸してくれた。
 本堂の右と左に六畳の間があった。右のへやは日が当たって冬はいいが、夏は暑くってしかたがない。で、左の間を借りることにする。和尚おしょうさんは障子の合うのをあっちこっちからはずしてきてはめてくれる。かみさんはバケツを廊下に持ち出して畳を拭いてくれる。机を真中にすえて、持ってきた書箱ほんばこをわきに置いて、角火鉢に茶器をそろえると、それでりっぱな心地のよい書斎ができた。荻生君はちょうど郵便局がひまなので、同僚にあとを頼んでやってきて、庭にえた草などをむしった。清三が学校から退けて帰って来た時には、もうあたりはきれいになって、主僧と荻生君とは茶器をまんなかに、さも室の明るくなったのを楽しむというふうに笑って話をしていた。
「これはきれいになりましたな、まるで別の室のようになりましたな」
 こう言って清三はにこにこした。
「荻生さんが草を取ってくれたんですよ」
 主僧が笑いながら言うと、
「荻生君が? それは気の毒でしたねえ」
「いや、草を取って、庭をきれいにするということは趣味があるものですよ」と荻生君は言った。
 そこに餅菓子が竹の皮にはいったまま出してあった。これも荻生君のお土産みやげである。清三は、「これはご馳走ちそうですな」と言いながら、一つ、二つ、三つまでつまんで、むしゃむしゃと食った。弁当腹べんとうばらで、長い路を歩いて来たので、少なからずうえを覚えていたのである。
 その日の晩餐ばんさんは寺で調理してくれた。里芋とたけのこの煮付け、汁には、たけたウドが入れられてあった。主僧は自分の分もここに持って来させて、ビールを二本おごって、三人して団欒だんらんして食った。文学の話、人生問題の話、近所の話、小学校の話、主僧のお得意の禅の話も出た。庭に近く柱によった主僧の顔が白く夕暮れの空気に見えた。
 長い廊下に小僧が急ぎ足でこっちにやってくるのが見えたが、やがてはいって来て、一通の電報を主僧に渡した。
 急いで封を切って読み終わった主僧の顔色は変わった。
大島孤月おおしまこげつが死んだ!」
「孤月さんが――」
 二人もおどろきの目をみはった。
 大島孤月といえば、文学好きの人はたいてい知っていた。某書肆ぼうしょし女婿じょせいで、創作家としてよりも書肆の支配人としての勢力の大きな人であった。昨年の秋泰西漫遊たいせいまんゆうに出かけて、一月ほど前に帰朝した。送別会と歓迎会、その記事はいつも新聞紙上をにぎわした。雑誌にもいろいろなことが書いてあった。ここの主僧がまだ東京にいるころは、ことにこの人の世話になって、原稿を買ってもらったり、その家に置いてもらったりした。
「もう今日は行かれませんな」
「そう、馬車はありませんしな、車じゃたいへんですし……それに汽車に乗っても、あっちへ着いてから困るでしょう」
 主僧は考えて、
明日あしたにしましょうかな」
「明日でいいなら――明日朝の馬車で久喜くきまで行って、奥羽線おううせんの二番に乗るほうがいいですな」
「行田から吹上ふきあげのほうが便利じゃないでしょうか」
「いや、久喜のほうが便利です」
 と荻生君は言った。
 主僧はそれと心を定めたらしく、やがて、「人間というものはいつ死ぬかわかりませんな」と慨嘆がいたんして、
「ちょっと病気で病院にはいってるということは聞きましたけれど、死ぬなどとは夢にも思わなかったですよ。先生など幸福ではあるし、得意でもあるし、これからますます自分の懐抱かいほうを実行していかれる身なんですから」こう言って、自分の田舎寺に隠れた心の動機を考えて、主僧は黯然あんぜんとした。
「世の中は蝸牛角上かぎゅうかくじょうの争闘――私は東京にいるころには、つくづくそれがいやになったんですよ。人の弱点を利用したり、朋党ほうとうを作って人をおとしいれたり、一歩でも人の先に出よう出ようとのみあくせくしている。実にあさましく感じたですよ。世の中はいが好いじゃない、悪いが悪いじゃない、幸福が幸福じゃない。どんな人でもやっぱり人間は人間で、それ相応の安慰あんいと幸福とはある。それに価値もある。何も名誉をおって、一生をあくせく暮らすには当たらない。それよりも、人間としての理想のライフを送るほうがどれほど人間としてえらいかしれない。どんなに零落れいらくして死んでもそのほうが意味がありますからなア」
「ほんとうにそうですとも」
 清三は主僧の言葉に引き込まれるような気がした。
不幸福ふしあわせな人だった!」
 と主僧は思わず感激してひとごとのように言った。得意なる地位を知ってるだけそれだけ、その背景が悲しかった。平生へいぜい戯談じょうだんばかり言う男で、軽い皮肉をつねに人に浴びせかけた。まだ三十四五であったが、世の中の辛酸しんさんをなめつくして、その圭角けいかくがなくなって、心持ちは四十近い人のようであった。養子としての淋しい心の煩悶はんもんをも思いやった。「なんのかのと言って、誰もみな死んでしまうんですな……それを考えると、ほんとうにつまらない」主僧は深く動かされたような調子で言った。
 こんなことでその夜は一室の空気がなんとなく低い悲哀につつまれた。やがて主僧は庫裡くりに引き上げたが、清三と荻生君との話も理に落ちてしまって、いつものように快活に語ることができなかった。
 二人は暗い洋燈らんぷに対して久しく黙した。
 翌日主僧は早く出かけた。
 清三は大島孤月の病死と葬儀とについての記事をそれから毎日々々新聞紙上で見た。かれはそのたびごとにいろいろな思いにうたれた。その人の作には感心してはおらぬが、出版者としての勢力が文壇に及ぼす関係などを想像してみたり、自分の崇拝すうはいしている明星一派の不遇などをそれにくらべて考えてみたりした。時には、「とにかく不幸福ふしあわせといっても死んでこうして新聞に書かれれば光栄である」などと考えて、音ももなく生まれてきて死んでいく普通の多数の人々の上をも思いやった。その間に雨が降ったり風が吹いたりした。雨の降る日には本堂の四面の新緑がことにあざやかに見えて、庫裡くりの高い屋根にかけたトタンのといからビショビショ雨滴あまだれの落ちるのを見た。風の吹く日には、裏の林がざわざわ鳴って、なんだか海近くにでも住んでいるように思われた。弁当は朝に晩に、馬車継立所ばしゃつぎたてしょのそばの米ずしという小さな飲食店から赤いメリンスの帯をしめた十三四の娘が運んで来た。行田の家からもやがて夜具や机や書箱ほんばこなどをとどけてよこした。
 かれは寺から町の大通おおどおりに真直まっすぐに出て、うどんひもかわと障子に書いた汚ない飲食店のかどを裏通りにはいって、細い煙筒えんとつに白い薄い煙のあがる碓氷社うすいしゃ分工場ぶんこうじょう養蚕所ようさんじょや、怪しげな軒燈がすとうの出ている料理屋の前などを通って、それから用水の橋のたもとへといつも出る。時には大越おおごえに通う馬車がおりよくそこにいて、安くまけて乗せてもらって行くことなどもあった。
 五六日して主僧は東京から帰って来た。葬儀の模様は新聞で見て知っていたが、くわしく聞いて、さらにあざやかにそのさまをまえに見るような気がした。文壇の大家小家はことごとく雨をついてその葬式について行ったという。雨がザンザン降って、新緑の中に造花生花のさまざまの色彩がさながら絵のような対照コントラストをなしたという。ことに、寺の本堂が狭かったので、中にはいれなかった人々は、じゃがさや絹張りの蝙蝠傘こうもりがさ雨滴あまだれのビショビショ落ちるひさしのところにさしかけて立っていた。読経どきょうは長かった。それがすむと形のごとき焼香があって、やがて棺は裏の墓地へと運ばれる。墓地への路には新しいむしろが敷きつめられて、そこを白無垢しろむくや羽織袴が雨にぬれてったり来たりする。小説の某大家は柱によって、悲しそうな顔をしている。生前最も親しかった某画家は羽織を雨にめちゃめちゃにして、あっちこっちと周旋しゅうせんして歩いている。「君、実際、感に打たれましたよ。苦労をしぬいて、ようやく得意の境遇になって、これから多少志もとげようという時に当たって何が来たかと思うと、死!」こう若い和尚おしょうさんは話した。
「名誉をおって、都会のちりにまみれたって、しかたがありませんな……どんなに得意になったって、死が一度来れば、人々から一滴の涙をそそがれるばかりじゃありませんか。死んでからいくら涙をそそがれたってしかたがない!」
 主僧の眉はあがっていた。
 その夜は遅くまで、清三はいろいろなことを考えた。「名誉」「得意の境遇」それをかれは眼の前に仰いでいる。若い心はただそれのみにあこがれている。けれど今宵こよいはなんだかその希望と野心の上に一つの新しい解決を得たように思われる。かれはとじの切れた藤村の「若菜集」を出してみふけった。
 本堂には如来様にょらいさま寂然じゃくねんとしていた。

       十五

 裏の林の中によしえた湿地しっちがあって、もといけであった水の名残りが黒くびて光っている。六月の末には、剖葦よしきりがどこからともなくそこへ来て鳴いた。
 寺では慰みにかいこった。庫裡くりの八畳の一間は棚や、むしろでいっぱいになって、温度を計るための寒暖計が柱にかけられてあった。かみさんが白い手拭いをかぶって、朝に夕に裏の畑に桑を摘みに行く。雨の降る日には、その晴れ間を待って和尚おしょうさんもいっしょになって桑摘みの手伝いをしてやる。ぬれた緑の葉は勝手の広い板の間に山のように積まれる。それを小僧が一枚々々拭いていると、和尚さんはそばで桑切り庖丁で丹念に細くきざむ。
 蚕の上簇あがりかけるころになると、町はにわかに活気を帯びてくる。平生は火の消えたように静かな裏通りにも、まゆ買い入れ所などというヒラヒラした紙が張られて、近在から売りに来る人々が多く集まった。頬鬚ほおひげの生えた角帯の仲買いの四十男がはかりではかって、それからむしろへと、その白い美しい繭をあけた。相場は日ごとに変わった。銅貨や銀貨をじゃらじゃらと音させて、景気よく金を払ってやった。料理店では三味線の音が昼から聞こえた。
 ある日曜日であった。郁治が土曜日の晩から来て泊まっていた。「行田文学」の初号ができて持ってきたので、昨夜から文学の話が盛んにでた。ところが、ちょうど十時過ぎ、山門さんもん鋪石道しきいしみちにガラガラと車の音がした。ついぞ今まで車のはいって来たことなどはないので、不思議に思って、清三が本堂の障子をあけてみると、白い羅紗らしゃの背広にイタリアンストロウの夏帽子をかぶったふとった男と白がかった夏外套がいとうをはおった背の高い男とが庫裡の入り口に車をつけて、今しもおりようとするところであった。やがて小僧がとり次ぐと、和尚さんの姿がそこに出て来た。久濶きゅうかつの友に訪われた喜びが、声やら言葉やら態度やらにあらわれて見えた。
 やがてその客は東京から来た知名の文学者で、一人は原杏花はらきょうか、一人は相原健二あいはらけんじという有名な「太陽」の記者だということがわかった。いずれも主僧が東京にいたころの友だちである。
 清三のへやは中庭の庭樹ていじゅを隔てて、庫裡の座敷に対していたので、客と主僧との談話はなしているさまがあきらかに見えた。緑の葉の間に白い羅紗らしゃの夏服がちらちらしたり、おりおり声高こわだかく快活に笑う声がしたりする。その洋服や笑い声は若い青年にとってこの上もない羨望の種であった。
「原っていう人はあんな肥った人かねえ。あれであんなやさしいことを書くとは思わなかった」
 郁治はこう言って笑った。
 勝手へ行ってみると、かみさんと小僧とはご馳走の支度したくに忙しそうにしていた。和尚さんも時々出て来ていろいろ指揮をする。米ずしの若い衆は岡持おかもちに鯉のあらいを持って来る。通りの酒屋は貧乏徳利を下げて来る。小僧はかまどの下と据風呂すえぶろの釜とに火を燃しつける。活気はめずらしくがらんとした台所に満ちわたった。
 酒はやがて始まった。だんだん話し声が高くなってきた。和尚さんもいつもに似ぬ元気な声を出して愉快そうに笑った。
 正午近くになるとだいぶ酔ったらしく、笑う声がたえず聞こえた。縁側からかわやへ行く客の顔は火のように赤かった。やがて和尚さんのまずい詩吟が出たかと思うと、今度は琵琶歌びわうたかとも思われるような一種の朗らかな吟声が聞こえた。
 若い人たちはつれだって町に出かけた。ふところに金はないが、月末勘定の米ずしに行けば、酒の一二本はいつも飲むことはできた。その場末の飲食店の奥の六畳には、衣服やら小児こども襁褓むつきやらがいっぱいに散らかされてあったが、それをかみさんが急いで片づけてくれた。古箪笥ふるだんす行李こうりなどのあるそばで狭い猫の額のような庭に対して、なまりぶしの堅い煮付けでかれらは酒を飲んだり飯を食ったりした。
 帰りに、荻生君を郵便局に訪ねてみるということになったが、こんなに赤い顔で、町の大通りは歩けないというので、桑のしげった麦のなかば刈られた裏通りの田圃たんぼを行った。荻生君は熊谷に行っていなかった。二人は引きかえして野を歩いた。小川には青いが浮いて、小さな雑魚ざこがスイスイ泳いでいた。
 寺に帰ると、座敷ではまだ酒を飲んでいた。騒ぐ声が嵐のように聞こえる。せいの高いほうが和尚さんの手を引っ張って、どこへかつれて行こうとする。洋服の原があとから押す。和尚さんはいつか僧衣ころもを着せられている。「まア、いいよ、いいよ、君らがそんなに望むなら、お経ぐらい読むさ、その代わり君らが木魚をたたかなくってはいかんぜ!」
 和尚さんも少なからず酔っていた。
「よし、よし、木魚はおれがたたく」
 と雑誌記者は言った。
 三人はよりつよられつして、足もと危く、長い廊下を本堂へとやって来る。庫裡くりからはかみさんと小僧とが顔を出して笑ってその酔態すいたいを見ている。三人は廊下から本堂にはいろうとしたが、階段のところでつまずいて、将棋倒しょうぎだおしにころころと折りかさなって倒れた。笑う声が盛んにした。
 雑誌記者はつちをとって木魚をたたいた。ポクポクポクポク、なかなかその調子がいい。和尚さんも原という文学者もそれを見て、「これはうまい、たたいたことがあるとみえるな」と笑った。雑誌記者は木魚をたたきながら、「それはそうとも、これで寺の小僧を三年したんだから」こう言って、トラヤアヤアヤアヤアとお経を読む真似まねをした。
「和尚――お経を読まなくっちゃいかんじゃないか」
 こんなことを言ってなおしきりに木魚をたたいた。
 主僧と原とは如来様にょらいさまの前に立ったり、古い位牌いはいの前にたたずんだりして、いろいろな話をした。歴代の寺僧の大きな位牌のまんなかに、むずかしい顔をした本寺ほんじ中興ちゅうこうの僧の木像がすえてあった。それは恐ろしくむき出すような眼をしていた。和尚さんはその僧のことについて語った。本堂を再建さいこんしたことや、その本堂が先代の時に焼けてしまったことや、この人の弟子に越前の永平寺えいへいじへ行った人があったことなどを話した。メリンスの敷き物の上にかねがのせられてあって、そのそばに、頭のはげた賓頭顱尊者びんずるそんじゃがあった。原は鐘をカンカンと鳴らしてみた。
 雑誌記者から読経どきょうをしいられるので、和尚さんはすきをみて庫裡のほうへげて行ってしまった。酔った二人は木魚と鐘とをやけにたたいて笑った。
 ドタドタとけたたましい音をさせて、やがて二人は廊下から庫裡へ行ってしまった。あとで、六畳にいる若い友だちは笑った。
「文学者なんていうものは存外のんきな無邪気なものだねえ」
 清三はこういうと、
「想像していたのとはまるで違うね」
 若い人々には、かねがねその名を聞いて想像していた文学者や雑誌記者がこうした子供らしい真似をしようとは思いもかけなかった。しかしこうしたことをする心持ちや生活は、かれらには十分にはわからぬながらもうらやましかった。
 東京の客は一夜泊まって、翌日の正午、降りしきる雨をついて乗合馬車で久喜くきに向かって立った。はかまをぬらして清三が学校から帰って来て、火種ひだねをもらおうと庫裡にはいってみると、主僧はさびしそうにぽつねんとひとり机にすわって書を見ていた。
 剖葦よしきりはしきりに鳴いた。梅雨つゆの中にも、時々晴れた日があって、あざやかなみどりの空がねずみ色の雲のうちから見えることもある。美しい光線がみなぎるように裏の林にさしわたると、緑葉がよみがえったように新しい色彩をあたりに見せる。芭蕉の広葉は風にふるえて、山門の壁のところには蜥蜴とかげが日に光ってちょろちょろしている。前の棟割むねわり長屋では、垣から垣へ物干竿をつらねて、汚ない襤褸ぼろをならべて干した。栗の花は多く地に落ちて、泥にまみれて、汚なく人にまれている。蚊はもう夕暮れには軒に音を立てるほど集まって来て、夜は蚊遣かやり火のけむりが家々からなびいた。清三は一円五十銭で、一人寝の綿蚊帳がやを買って来て、机をその中に入れて、ランプを台の上にのせて外に出して、その中で毎夜遅くまでほんを読んだ。自分のまわりには――日ごとによせられる友だちの手紙には、一つとして将来の学問の準備について言って来ないものはない。高等師範に志しているものは親友の郁治を始めとして、三四人はあるし、小島は高等学校の入学試験をうけるのでこのごろは忙しく暮らしていると言って来るし、北川は士官学校にはいる準備のために九月には東京に出ると言っているし、誰とて遊んでいるものはなかった。清三もこれに励まされて、いろいろなしょを読んだ。主僧に頼んで、英語を教えてもらったり、その書庫ほんばこの中から論理学や哲学史などを借りたりした。机のまわりには、文芸倶楽部や明星や太陽があるかと思うと、学校教授法や通俗心理学や新地理学や、代数幾何の書などが置かれてある。主僧が早稲田に通うころ読んだというシェークスピアのロメオやテニソンのエノックアーデンなどもその中に交っていた。
 若いあこがれ心は果てしがなかった。瞬間ごとによく変わった。明星をよむと、渋谷の詩人の境遇を思い、文芸倶楽部をよむと、長い小説を巻頭に載せる大家を思い、友人の手紙を見ると、しかるべき官立学校に入学の計画がしてみたくなる。時には、主僧にプラトンの「アイデア」を質問してプラトニックラヴなどということを考えてみることもあった。「行田文学」にやる新体詩も、その狭い暑苦しい蚊帳かやの中で、外のランプの光があおい影をすかしてチラチラする机の上で書いた。
 学校の校長は、検定試験を受けることをつねにすすめた。「資格さえあれば、月給もまだ上げてあげることができる。どうです、林さん、わけがないから、やっておきなさい!」と言った。
 このごろでは二週間ぐらい行田に帰らずにいることがある。母が待っているだろうとは思うが、ふところが冷やかであったり、二里半を歩いて行くのがたいぎであったり、それよりも少しでも勉強しようと思ったりして、つねに寺の本堂の一間に土曜日曜を過ごした。しかしこれといって、勉強らしい勉強をもしなかった。土曜日には小畑が熊谷からきて泊まって行った。郁治が三日ぐらい続けて泊まって行くこともあった。それに、荻生君は毎日のようにやって来た。学校から帰ってみると、あっちこっちをけっぱなして顔の上に団扇うちわをのせて、いい心地をして昼寝をしていることもある。かれは郵便局のひまな時をねらって、同僚にあとを頼んで、なんぞといっては、よく寺に遊びに来た。
 若い二人はよく菓子を買って来て、茶をいれて飲んだ。くず餅、あんころ、すあまなどが好物で、月給のおりた時には、清三はきっと郵便局に寄って、荻生君を誘って、かどの菓子屋で餅菓子を買って来る。三度に一度は、「和尚おしょうさん、菓子はいかが」と庫裡くりに主僧を呼びに来る。清三の財布に金のない時には荻生君が出す。荻生君にもない時には、「和尚さんはなはだすみませんが、二三日のうちにおかえししますから、五十銭ほど貸してください」などと言って清三が借りる。不在に主僧がそのへやに行ってみると、竹の皮に食いあましの餅菓子が二つ三つ残って、それにいっぱいにありがたかっていることなどもあった。
 梅雨つゆの間は二里の泥濘どろみちが辛かった。風のある日には吹きさらしの平野へいげんのならい、糸のような雨が下から上に降って、新調の夏羽織もはかまもしどろにぬれた。のちにはたいてい時間を計って行って、十銭に負けてもらって乗合馬車に乗った。ある日、その女も同じ馬車に乗って発戸河岸ほっとがしかどまで行った。その女というのは、一月ほど前から、町のはずれの四辻よつつじでよく出会った女で、やはり小学校に勤める女教員らしかった。廂髪ひさしがみ菫色すみれいろの袴をはいて海老茶えびちゃのメリンスの風呂敷包みをかかえていた。その四辻には庚申塚こうしんづかが立っていた。この間郁治といっしょに弥勒みろくに行く時にも例のごとくその女に会った。
「どうしてああいう素振そぶりをするのか僕にはわからんねえ」と清三が笑いながら言うと、「しっかりしなくっちゃいかんよ、君」と郁治は声をあげて笑った。その時、どこに勤めるのだろうという評判をしたが、馬車にいっしょに乗り合わせて、発戸ほっとにある井泉村いずみむらの小学校に勤める人だということがわかった。色の白い鼻のたかい十九ぐらいの女であった。
 雨の盛んに降る時には、学校の宿直室に泊まることもあった。学校に出てから、もう三月にもなるのでだいぶ教師なれがして、郡視学に参観されても赤い顔をするような初心うぶなところもとれ、年長の生徒にばかにされるようなこともなくなった。行田や熊谷の小学校には、校長と教員との間にずいぶんはげしい暗闘があるとかねて聞いていたが、弥勒のような田舎いなかの学校には、そうしたむずかしいこともなかった。師範出の杉田というのがいやにいばるのがしゃくにさわるが、自分は彼奴等きゃつらのように校長になるのをゆい一の目的に一生小学校に勤めている人間とは種類が違うのだと思うと、べつにヤキモキする必要もなかった。校長もどっちかといえば、気が小さく神経過敏に過ぎるのがいやだが、しかしがいして温良な君子で、わる気というようなところは少しもなかった。関さんは例の通りの好人物、大島さんは話し好きの合い口――清三にとってこの小学校はあまりいごこちの悪いほうではなかった。
 清三は一人でよくオルガンをひいた。型の小さい安いオルガンで、音もそうたいしてよくはなかったが、みずから好奇ものずきに歌などを作って、覚束おぼつかない音楽の知識で、譜を合わせてみたりなんかする。藤村詩集にある「海辺の曲」という譜のついた歌はよく調子に乗った。それから若菜集の中の好きな句を選んで譜をつけてひいてもみた。梅雨つゆの降りしきる夕暮れの田舎道、小さなしんとした学校の窓から、そうしたさまざまの歌がたえず聞こえたが、しかし耳を傾けて行く旅客もなかった。
 清三の教えるへやの窓からは、羽生から大越おおごえに通う街道が見えた。雨にぬれて汚ないぬのを四面にれた乗合馬車がおりおり喇叭らっぱを鳴らしてガラガラと通る。田舎娘が赤い蹴出けだしを出して、メリンスの帯の後ろ姿を見せて番傘をさして通って行く。晴れた日には、番台を頭の上にのせて太鼓をたたいて行くあめ屋、夫婦づれで編笠あみがさをかぶって脚絆きゃはんをつけて歩いて行くホウカイぶし、七色の護謨風船ごむふうせんを飛ばして売って歩くおやじ、時には美しく着飾った近所の豪家の娘なども通った。県庁の役人が車を五六台並べて通って行った時には、先生も生徒もみんな授業をよそにして、その威勢のいいのにみとれていた。
 清三の父親は、どうかすると、商売のつごうで、この近所まで来ることがある。しま単衣ひとえに古びた透綾すきやの夏羽織を着て、なかばはげた頭には帽子もかむらず、小使部屋からこっそりはいってきて、「清三はいましたか」と聞いた。初めはさすがにこうした父親を同僚に見られるのを恥ずかしく思ったが、のちにはなれて、それほどいやとも思わなくなった。近所に用事が残っているというので、清三は寺に帰るのをやめて、親子いっしょに煎餅蒲団せんべいぶとんにくるまって宿直室に寝ることなどもあった。
 その時はきっと二人して手拭いを下げて前の洗湯に行く。小川屋から例の娘が弁当をこしらえて持って来る。食事がすむと、親子は友だちのようにむつまじく話した。家の困る話なども出た。ありもせぬ財布から五十銭借りられて行くことなどもある。
 七月にはいっても雨は続いて降った。晴れ間には日がかっと照って、ねずみ色の雲の絶え間からみどりの空が見える。畑には里芋の葉が大きくなり、玉蜀黍とうもろこしの広葉がガサガサと風になびいた。熊谷の小島は一高の入学試験を受けに東京に出かけたが、時々絵葉書で状況を報じた。英語がむずかしかったことなどをも知らせて来た。郵便脚夫きゃくふは毎日雨にぬれて山門から本堂にやって来る。若い心にはどのようなことでもおもしろい種になるので、あっちこっちから葉書や手紙が三四通は必ず届いた。かつ!――と一字書いた端書はがきがあるかと思うと、蕎麦屋そばやで酒を飲んで席上で書いた熊谷の友だちの連名の手紙などもある。石川からは、相変わらずの明星攻撃、文壇照魔鏡ぶんだんしょうまきょうという渋谷の詩人夫妻の私行をあばいた冊子さっしをわざと送り届けてよこした。中にも郁治から来たのが一番多かった。恋の悩みは片時かたときもかれをして心を静かならしめることができなかった。郁治はある時は希望に輝き、ある時は絶望にもだえ、ある時は自己の心の影を追って、こうも思いああも思った。清三の心もそれにつれて動揺せざるを得なかった。自己の失恋の苦痛を包むためには、友の恋に対する同情の文句がおのずから誇大的にならざるを得なかった。――独りもだゆるの悲哀は美しきかな、君が思ひに泣かぬことはあらじ――わざと和文調に書いて、末に、「この子もと罪のきづなのわなは知らず迷うて来しを捕はれの鳩」という歌を書きなどした。浦和の学校にいる美穂子の写真が机の抽斗ひきだしの奥にしまってあった。雪子といま一人きよ子という学校友だちと三人してうつした手札形で、美穂子は腰かけて花を持っていた。それを雪子のアルバムからもらおうとした時、雪子は、「それはいけませんよ。変なふうに写っているんですもの」と言って容易にそれをくれると言わなかった。雪子は被皮ひふを着て、物に驚いたような頓狂とんきょうな顔をしていた。それに引きかえて、美穂子は明るい眼と眉とをはっきりと見せて、愛嬌あいきょうのある微笑びしょう口元くちもとにたたえていた。清三は読書につかれた時など、おりおりそれを出して見る。雪子と美穂子とをくらべてみることもある。このごろでは雪子のことを考えることも多くなった。その時はきっと「なぜああしらじらしい、とりすましたふうをしているんだろう、いま少し打ち解けてみせてもよさそうなものだ」と思う。郁治の手紙は小さい文箱ふばこにしまっておいた。
 前の土曜日には、久しぶりで行田に帰った。小畑が熊谷からやって来るという便たよりがあったが、運わるく日曜が激しい吹き降りなので、郁治と二人といから雨滴あまだれが滝のように落ちる暗い窓の下で暮らした。
 次の土曜日には、羽生の小学校に朝から講習会があった。校長と大島と関と清三と四人して出かけることになる。大きな講堂には、近在の小学校の校長やら訓導やらが大勢集まって、浦和の師範から来た肥った赤いネクタイの教授が、児童心理学の初歩の講演をしたり、尋常一年生の実地教授をしてみせたりした。教員たちは数列に並んで鳴りを静めて謹聴きんちょうしている。志多見したみという所の校長は県の教育界でも有名な老教員だが、銀のような白いひげをなでながら、切口上きりこうじょうで、義務とでも思っているような質問をした。肥った教授は顔に微笑をたたえて、一々ていねいにその質問に答える。十一時近く、それがすむと、今度は郁治の父親や水谷というむずかしいので評判な郡視学が、教授法についての意見やら、教員の心得についての演説やらをした。梅雨つゆは二三日前からあがって、暑い日影ひかげはキラキラと校庭に照りつけた。扇の音がパタパタとそこにも、ここにも聞こえる。女教員の白地に菫色すみれいろの袴が眼にたって、額には汗が見えた。成願寺の森の中の蘆荻ろてきはもう人の肩を没するほどに高くなって、剖葦よしきりが時を得顔えがおにかしましく鳴く。
 講習会の終わったのはもう十二時に近かった。詰襟つめえりの服を着けた、白縞しろじまの袴に透綾すきやの羽織を着たさまざまの教員連が、校庭から門の方へぞろぞろ出て行く。校庭には有志の寄付した標本用の樹木や草花がその名と寄付者の名とを記した札をつけられてまばらに植えられてある。石榴ざくろの花が火の燃えるように赤く咲いているのが誰の眼にもついた。木には黄楊つげしいひのき、花には石竹、朝顔、遊蝶花ゆうちょうかはぎ女郎花おみなえしなどがあった。寺の林には蝉が鳴いた。
「湯屋で、一日遊ぶようなところができたって言うじゃありませんか、林さん、行ってみましたか」校門を出る時、校長はこう言った。
「そうですねえ、広告があっちこっちに張ってありましたねえ、何か浪花節なにわぶしがあるって言うじゃありませんか」
 大島さんも言った。
 上町かみまちの鶴の湯にそういうもよおしがあるのを清三も聞いて知っていた。夏の間、二階を明けっ放して、一日湯にはいったり昼寝でもしたりして遊んで行かれるようにしてある。氷も菓子も麦酒びいる饂飩うどんも売る。ちょっとした昼飯ぐらいは食わせる準備したくもできている。浪花節も昼一度夜一度あるという。この二三日梅雨つゆがあがって暑くなったので非常に客があると聞いた。主僧は昨日出かけて半日遊んで来て、
「どうせ、田舎のことだから、ろくなことはできはしないけれど、ちょっと遊びに行くにはいい。貞公ていこう、うまい金儲かねもうけを考えたもんだ」と前の地主に話していた。
「どうです、林さんに一つ案内してもらおうじゃありませんか。ちょうど昼時分で、腹もいている……」
 校長はこう言って同僚を誘った。みんな賛成した。
 上町かみまちの鶴の湯はにぎやかであった。赤いメリンスの帯をしめた田舎娘が出たりはいったりした。あっちこっちからおくったがいっぱいに下げてあって、ていさんへという大きな字がそこにもここにも見えた。氷見世こおりみせには客が七八人もいて、この家のかみさんがたすきをかけて、汗をだらだら流して、せっせと氷をかいている。
 先生たちは二階に通った。幸いにして客はまだ多くなかった。近在の婆さんづれが一組、温泉にでも来たつもりで、ゆもじ一つになって、別のへやにごろごろしていた。八畳の広間には、まんなかに浪花節を語る高座こうざができていて、そこにも紙やぬのがヒラヒラなびいた。室は風通しがよかった。奥の四畳半の畳は汚ないが、青田が見通しになっているので、四人はそこに陣取った。
 一風呂はいって、汗を流して来るころには、午飯ひるめしの支度がもうできていた。赤いたすきをかけたうちの娘が茶湯台ちゃぶだいを運んで来た。さかなはナマリブシの固い煮付けと胡瓜きゅうりもみと鶏卵にささげの汁とであった。しかし人々にとっては、これでも結構なご馳走であった。校長は洋服の上衣もチョッキもネクタイもすっかり取って汚れ目の見える肌襦袢はだじゅばん一つになって、さも心地のよさそうな様子であぐらをかいていたが、
「みんなたいらに、あぐらをかきたまえ。関君、どうです、服で窮屈きゅうくつにしていてはしかたがない」こう言って笑って、「私が一つビールをおごりましょう。たまには愉快に話すのもようござんすから」
 やがてビールが命ぜられる。
ねえさん、氷をブッカキにして持って来てくださいな」
 娘はかしこまって下りて行く。校長が関さんのコップにつごうとすると、かれは手でコップのふたをした。
「一杯飲みたまえ、一杯ぐらい飲んだってどうもなりやしないから」
「いいえ。もうほんとうにたくさんです。酒を飲むと、あとが苦しくって……」
 とコップをわきにやる。
「関君はほんとうにだめですよ」
 と、言って、大島さんはなみなみとついだ自分の麦酒びいるを一呼吸いきに飲む。
弱卒じゃくそつは困りますな」
 こう言って校長は自分のになみなみといだ。泡が山をなしてこぼれかけるので、あわてて口をつけて吸った。娘がそこにブッカキをどんぶりに入れて持って来た。みんなが一つずつ手でつまんで麦酒びいるの中に入れる。酒を飲まぬ関さんも大きいのを一つ取って、口の中にほおばる。やがて校長の顔も大島さんの顔もみごとに赤くなる。
「講習会なんてだめなものですな」
 校長の気焔きえんがそろそろ出始めた。
 大島さんがこれに相槌あいづちをうった。各小学校の評判や年功加俸ねんこうかほうの話などが出る。郡視学の融通ゆうづうのきかない失策談が一座を笑わせた。けれど清三にとっては、これらの物語は耳にも心にも遠かった。年齢としが違うからとはいえ、こうした境遇にこうして安んじている人々の気が知れなかった。かれは将来の希望にのみ生きている快活な友だちと、これらの人たちとの間に横たわっている大きなみぞを考えてみた。
「まごまごしていれば、自分もこうなってしまうんだ!」
 この考えはすでにいく度となくかれの頭を悩ました。これを考えると、いつも胸が痛くなる。いてもたってもいられないような気がする。小さい家庭の係累けいるいなどのためにこの若い燃ゆる心を犠牲にするには忍びないと思う。この間も郁治と論じた。「えらい人はえらくなるがいい。世の中には百姓もあれば、郵便脚夫もある。巡査もあれば下駄の歯入はいれ屋もある。えらくならんから生きていられないということはない。人生はわれわれの考えているようなせっぱつまったものではない。もっと楽に平和に渡って行かれるものだ。うそと思うなら、世の中を見たまえ。世の中を……」こう言って清三は友の巧名心をばくした。けれどその言葉の陰にはまるでこれと正反対の心がかくれていた。それだけかれは激していた。かれは泣きたかった。
 それを今思い出した。「自分も世の中の多くの人のように、暢気のんきなことを言って暮らして行くようになるのか」と思って、校長の平凡な赤い顔を見た。
 つい麦酒びいるを五六杯あおった。
 青い田の中を蝙蝠傘こうもりがさをさした人が通る、それは町の裏通りで、そこには路にそって里川が流れ、川楊かわやなぎがこんもり茂っている。森にはせみの鳴き声がかまびすしく聞こえた。
 一時間たつと、三人はみんな倒れてしまった。校長は肱枕ひじまくらをして足を縮めていびきをかいているし、大島さんは仰向あおむけに胸をあらわに足をのばしているし、清三は赤い顔をして頭を畳につけていた。ひとり関さんは退屈そうに、次の広間に行ってビラなどを見た。
 三時過ぎに、清三が寺に帰って来ると、荻生君は風通かぜとおしのよい本堂の板敷きに心地よさそうに昼寝をしている。
 午後の日影に剖葦よしきりがしきりに鳴いた。

       十六

 暑いある日の午後、白絣しろがすりはかまという清三の学校帰りの姿が羽生のひさしの長い町に見えた。今日月給が全部おりて、ふところの財布が重かった。いま少し前、郵便局に寄って、荻生君に借りた五十銭を返し、途中で買って来たくず餅を出して、二人で茶を飲み飲み楽しそうに食った。「どうも、これも長々ありがとう」と言って、二月ほど前から借りていた鳥打とりうち帽を取って返した。
「まだいいよ、君」
「でも、今日夏帽子を買うから」
「買うまでかぶっていたまえ、おかしいよ」
「なアに、すぐそこで買うから」
「足元を見られて高く売りつけられるよ」
「なアに大丈夫だ」
 で、日のカンカン照りつける町の通りを清三は帽子もかぶらずに歩いた。通りに硝子がらす戸をあけ放した西洋雑貨商があって、毛糸や麦稈むぎわら帽子が並べてある。
 清三は麦稈帽子をいくつか出させて見せてもらった。十六というのがちょうどかれの頭に合った。一円九十銭というのを六十銭に負けさせて買った。町の通りに新しい麦稈帽子がきわだって日にかがやいた。

       十七

 美穂子は暑中休暇で帰って来た。
 その家へ行く路には夏草が深く茂っていた。里川の水はあおくみなぎって流れている。あし緑葉みどりばに日影がさした。
 家の入り口には、肌襦袢はだじゅばんや腰巻や浴衣ゆかた物干竿ものほしざおに干しつらねてある。郁治は清三とつれだって行った。
 美穂子は白絣しろがすりを着ていた。帯は白茶と鴬茶うぐいすちゃの腹合わせをしていた。顔は少し肥えて、頬のあたりがふっくりと肉づいた。髪は例の庇髪ひさしがみって、白いリボンがよく似合った。
 ビールの空罎あきびんに入れられた麦湯が古い井字形せいじがたの井戸に細い綱でつるして冷やされてあった。井戸側には大きな葉の草がゴチャゴチャえている。流しには菖蒲しょうぶかやなどが一面にしげって、釣瓶つるべの水をこぼすたびにしぶきがそれにかかる。二三日前までは老母が夕べごとにそこに出て、米かし桶の白い水を流すのがつねであったが、娘が帰って来てからは、その色白の顔がいつもはっきりと薄暮はくぼの空気に見えるようになった。そのころには奥で父親のうたいがいつも聞こえた。
 美穂子は細い綱をスルスルとたぐった。ビールのびんがやがて手に来る。わえた綱を解いて、それを勝手へ持って来て、土瓶に移して、コップ三つと、砂糖を入れた硝子器うつわとを盆にのせて、兄の話している座敷へ持って行く。
「なんにも、ご馳走はございませんけど、……これは一日井戸につけておいたんですから、お砂糖でも入れて召し上がって……」
 麦湯は氷のように冷えていた。郁治も清三も二三杯お代わりをして飲んだ。美穂子は兄のそばにすわって、遠慮なしにいろいろな話をした。
「寄宿生活はずいぶんたいへんでしょう」
 清三はこうきくと、
「えゝえゝ、ずいぶんにぎやかですよ。ほかの女学校などと違って、監督がむずかしいのですけど、それでもやっぱり……」
「女学校の寄宿舎なんて、それはたいへんなものさ。話で聞いてもずいぶん愛想あいそがつきるよ」と北川は笑って、「やっぱり、男の寄宿とそうたいして違いはないんだね」
「まさか兄さん」
 と美穂子は笑った。
 そのへやには西日がさした。松の影が庭から縁側に移った。垣の外を荷車の通る音がする。
 この春と同じように、二人の友だちは家への帰途を黙って歩いた。言いたいことは郁治の胸にも清三の胸にも山ほどある。しかし二人ともそれに触れようとしなかった。城址しろあとびた沼に赤い夕日がさして、ヤンマがあしこずえに一疋、二疋、三疋までとまっている。子児こどもが長いもち竿ざおを持って、田の中に腰までつかって、おつるみの蜻蛉とんぼをさしていた。
 石橋近くに来た時、
「今年は夏休みをどうする……どこかへ行くかね?」
 郁治は突然こうたずねた。
「まだ、考えていないけれど、ことによると、日光か妙義に行こうと思うんだ。君は?」
「僕はそんな余裕はない。この夏は英語をいま少し勉強しなくっちゃならんから」
 美穂子がこの夏休暇をここに過ごすということがなんの理由もなしに清三の胸に浮かんで、ねたましいような辛い心地がした。
 今夜は父母の家に寝て、翌朝早く帰ろうと思った。現に、郁治にもそう言った。けれど路のかどで郁治と別れると、急に、ここにいるのがたまらなくいやになって、足元から鳥の立つように母親を驚かして帰途についた。明朝郁治がやって来て驚くであろうという一種復仇ふっきゅうの快感と、束縛せられている力からまぬがれ得たという念と、たとえがたいさびしい心細い感とを抱いて、かれはその長い夕暮れの街道をたどった。
 寺に帰った時は日が暮れてからもう一時間ぐらいたった。和尚おしょうさんは庫裡くりの六畳の長火鉢のあるところで酒を飲んでいたが、つねに似ず元気で、「まア一杯おやんなさい」とさかずきをさして、冷やっこをべつに皿に分けて取ってくれた。今まで聞かなかった主僧の幼いころの話が出る。九歳の時、この寺の小僧によこされて、それから七八年の辛抱、その艱難かんなんは一通りでなかった。玄関のそばの二畳にいて、この成願寺の住職になることをこのうえもない希望のように思っていた。今でも成願寺住職実円じつえんと書いた落書きがよく見ると残っている。主僧は酔って「衆寮しゅうりょうかべ」というついこのごろ作った新体詩を歌って聞かせた。
「どうです、君も何か一つ書いてみませんか」
 こう言って和尚さんはすすめた。
 清三の胸はこうした言葉にも動かされるほど今宵は感激していた。何か一つ書いてみよう。かれはエルテルを書いてその実際の苦痛を忘れたゲエテのことなどを思い出した。自分には才能という才能もない。学問という学問もない。友だちのように順序正しく修業をする境遇にもいない。人なみにしていては、とてもだめである。かれは感情を披瀝ひれきする詩人としてよりほかに光明を認め得るものはないと思った。
「一つ運だめしをやろう。この暑中休暇に全力をあげてみよう。自分の才能を試みてみよう」
 かれは和尚さんから、種々の詩集や小説を借りることにした。翌日学校から帰って来ると、和尚さんは東京の文壇に顔を出しているころ集めた本をなにかと持って来て貸してくれた。国民小説という赤い表紙の四六版の本の中には、「地震」と「うき世の波」と「悪因縁あくいんえん」という三編がある。それがおもしろいから読めと和尚さんは言った。「むさし野」という本もそのうちにあった。かれは「むさし野」に読みふけった。
 七月はしだいに終わりに近づいた。暑さは日に日に加わった。久しく会わなかった発戸ほっとの小学校の女教員に例の庚申塚こうしんづかかどでまた二三度邂逅かいこうした。白地の単衣ひとえものに白のリボン、涼しそうななりをして、微笑ほほえみを傾けて通って行った。その微笑の意味が清三にはどうしてもわからなかった。学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。暑い夏を葡萄棚ぶどうだなの下に寝て暮らそうという人もある。浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用しに行こうとくわだてているものもある、月の初めから正午ひるぎりになっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。それに用のないものも、ひるから帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。清三は日課点の調べにあきて、風呂敷包みの中から「むさし野」を出して清新な趣味にかっした人のように熱心に読んだ。「忘れ得ぬ人々」に書いた作者の感慨、武蔵野の郊外をザッと降って通る林の時雨しぐれ水車みずぐるまの月に光る橋のほとりに下宿した若い教員、それらはすべて自分の感じによく似ていた。かれはおりおり本を伏せて、頭脳あたまを流れて来る感興にふけらざるを得なかった。
 三十日の学課は一時間で終わった。生徒を集めたテーブルの前で、「皆さんは暑中休暇を有益に使わなければなりません。あまりに遊び過ごすと、せっかくこれまで教わったことをみんな忘れてしまいますから、毎日一度ずつは、本を出してお復習さらえをなさい。それから父さん母さんに世話をやかしてはいけません。桃や梨や西瓜すいかなどをたくさん食べてはいけません。暑いところを遊んで来て、そういうものをたくさんに食べますと、おなかをこわすばかりではありません。恐ろしい病気にかかって、夏休みがすんで、学校に来たくッても来られないようになります。よく遊び、よく学び、よく勉めよ。本にもそう書いてありましょう。九月の初めに、ここで先生といっしょになる時には、誰が一番先生の言うことをよく守ったか、それを先生は今から見ております」こう言って、清三は生徒に別れの礼をさせた。お下げにった女生徒と鼻をらした男生徒とがぞろぞろと下駄箱のほうに先を争って出て行った、いずれの教室にも同じような言葉がくり返される。女教員はすみれ色のはかまをはっきりと廊下に見せて、一二、一二をやりながら、そこまで来て解散した。校庭には九連草れんそうの赤いのが日に照らされて咲いていた。紫陽花あじさいの花もあった。

       十八

 暑中休暇はいたずらに過ぎた。自己の才能に対する新しい試みもみごとに失敗した。思いは燃えても筆はこれにともなわなかった。五日ののちにはかれは断念して筆を捨てた。
 寺にいてもおもしろくない。行田に帰っても、狭い家は暑く不愉快である。それに、美穂子が帰っているだけそれだけ、そこにいるのが苦痛であった。かれは一人で赤城あかぎから妙義に遊んだ。
 旅から帰って来たのは八月の末であった。その時、美穂子は、すでに浦和の寄宿舎に帰っていた。行田から羽生、羽生から弥勒みろくという平凡な生活はまた始まった。

       十九

 学校には新しいオルガンが一台ってあった。初めての日はちょうど日曜日で、校長も大島さんも来なかった。その夜は宿直室にさびしく寝た。盂蘭盆うらぼんを過ぎたあとの夜は美しく晴れて、天の川があきらかに空によこたわっている。垣にはスイッチョが鳴いて、村の子供らのそれをさがす提灯ちょうちんがそこにもここにも見える。日中は暑いが、夜は露が草の葉に置いて、人の話声がどこからともなく聞こえた。
 初めの十日間は授業は八時から十時、次の十日間は十二時まで、それから間もなく午後二時の退校となる。もうそのころは秋の気はあたりに満ちて、雨の降る日など単衣ひとえ一枚では冷やかに感じられた。物思うかれの身に月日は早くたった。
 高等学校の入学試験を受けに行った小島は第四に合格して、月の初めに金沢へ行ったといううわさを聞いたが、得意の文句を並べた絵葉書はやがてそこから届いた。その地にあるけん六公園の写真はかれの好奇心をひくに十分であった。友の成功を祝した手紙を書く時、かれは机に打っ伏して自己の不運に泣かざるを得なかった。
 本堂の机の上には乱れ髪、落梅集らくばいしゅう、むさし野、和尚おしょうさんが早稲田に通うころよんだというエノックアーデンの薄い本がのせられてあった。かれは、「ひびきりんりん」という故郷を去るの歌をつねに好んで吟誦ぎんしょうした。その調子には言うに言われぬ悲哀がこもった。庫裡くりの玄関の前に、春は芍薬しゃくやくの咲く小さい花壇があったが、そこにそのころ秋海棠しゅうかいどうの絵のようにかすかにくれないを見せている。中庭の萩は今を盛りに咲き乱れた。
 夜ごとの月はしだいにあきらかになった。墓地と畠とを縁取へりどったはんの並木が黒く空に見えて、大きないもの葉にはキラキラと露が光った。
 夕飯のあとに、清三は墓地を歩いてみることなどもあった。新墓にいつかの垣に紅白の木槿もくげが咲いて、あかい小さい蜻蛉とんぼがたくさん集まって飛んでいる。卒塔婆そとばの新しいのに、和尚さんが例の禿筆ちびふでをとったのがあちこちに立っている。土饅頭の上に茶碗が水を満たして置いてあって、線香のともったあとの白い灰がありありと残って見えた。花立てにはみそ萩や女郎花おみなえしなどが供えられてある。古い墓も無縁の墓もかなり多かった。一隅かたすみには行き倒れや乞食の死んだのを埋葬したところもあった。清三は時には好奇ものずきに碑の文などを読んでみることがある。仙台で生まれて、維新の時には国事に奔走ほんそうして、明治になってからここに来て、病院を建てて、土地の者に慈父のように思われたという人の石碑せきひもあった。製糸工場の最初の経営者の墓は、花崗石みかげいしの立派なもので、寄付金をした有志の姓名は、金文字で、高い墓石にりつけられてあった。それから日清のえきにこの近在の村から出征して、旅順りょじゅんで戦死した一等卒の墓もあった。
 この墓地とはまったく離れて、裏の林の奥に、丸い墓石が数多く並んでいる。これは歴代の寺の住職の墓である。杉の古樹こじゅの陰にささやらならやらが茂って、土はつねにじめじめとしていた。晴れた日には、夕方の光線がななめに林にさしとおって、向こうに広い野の空がそれとのぞかれた。雨の日には、こずえから雨滴あまだれがボタボタ落ちて、苔蘚こけの生えた坊主の頭顱あたまのような墓石はかは泣くように見られた。ここの和尚さんもやがてはこの中にはいるのだなどと清三は考えた。肥った背の高いかみさんと田舎いなかの寺に埋めておくのは惜しいような学問のある和尚さんとが、こうした淋しい平凡な生活を送っているのも、考えると不思議なような気がする。ふと、二三日前のことを思い出して、かれは微笑した。かれは日記に軽い調子で、
「夕方知らずして、しゅの坊が Wife とともに湯の小さきに親しみて(?)入れるを見て、突然のことに気の毒にもまた面喰めんくらはされつ」と書いたのを思い出した。湯殿は庫裡くりの入り口からはいられるようになっていた。和尚さんは二月ばかり前に、葬儀に用いる棒や板などのたくさん本堂にあったのを利用して大工を雇って来て、そこに格好の湯殿を作って、丸い風呂を据えて湯を立てた。けむりが勝手から庫裡までなびいた。その日は火をもらおうと思って、茶の間へ行ってみると、そこには誰もいないで、笑い声が湯殿のほうから聞こえた。何気なしに行ってのぞいてみると、夫妻は小さい据風呂すえふろに目白のし合いのようにしてはいっている。主僧は平気で笑って、「これはえらいところを見られましたな」と言った。清三にはこの滑稽な事実が、単に滑稽な事実ではなくって、それを通して主僧の生活の状態と夫妻の間柄とがいっそうあきらかに見えたような気がした。こうして無意味に――若い時の希望も何もかも捨ててしまって、ただ目の前の運命に服従して、さて年を過ごして、歴代の住職の墓の中に! 清三は自分の運命に引きくらべてみた。
 時には一葉舟ひとはぶねの詩人を学んで、「雲」の研究をしてみようなどと思いたつこともあった。信濃しなのの高原に見るような複雑した雲の変化を見ることはできなかったが、ひろい関東平野を縁取ふちどった山々から起こる雲の色彩にはすぐれたものが多かった。裏に出ると、浅間のけむりが正面に見えて、その左に妙義がちょっと頭を出していて、それから荒船あらふねの連山、北甘楽きたかんらの連山、秩父の連山が波濤はとうのように連なりわたった。両神山ふたかみやま古城址こじょうしのような形をした肩のところに夕日は落ちて、いつもそこからいろいろな雲がわきあがった。右には赤城から日光連山がをなして続いた。秩父の雲の明色の多いのに引きかえて、日光の雲は暗色あんしょくが多かった、かれは青田を越えて、向こうのはんの並木のあたりまで行った。野良のらの仕事を終わって帰る百姓は、いつも白地の単衣ひとえを着て頭の髪を長くした成願寺の教員さんが手帳を持ちながらぶらぶら歩いて行くのに邂逅でっくわして挨拶をした。時には田のあぜにたたずんで何かしきりに手帳に書きつけているのを見たこともあった。清三の手帳には日付と時刻とその時々に起こったさまざまの雲の状態と色彩と、時につれて変化して行く暮雲ぼうんのさまとがだんだんくわしく記された。
「平原の雲の研究」という文をかれは書き始めた。
 彼岸の中日ちゅうにちには、その原稿がもうたいていできかかっていた。その日は本堂の如来様にはめずらしく蝋燭ろうそくがともされて、和尚さんが朝のうち一時間ほど、紫の衣に錦襴きんらん袈裟けさをかけて読経どきょうをした。庭の金木犀きんもくせいは風につれてなつかしい匂いを古びた寺のへやに送る。参詣者は朝からやってきて、駒下駄の音がカラコロと長い鋪石しきいし道に聞こえた。墓にもうずる人々は、まず本堂に上がって如来様を拝み、庫裡に回って、そこに出してある火鉢で線香に火をつけ、草の茂った井戸から水を汲んで、手桶を下げて墓へ行った。寺では二三日前から日傭ひよう取りを入れて掃除をしておいたので、墓地はきれいになっていて、いつものようにしきみの枯葉や犬のくそなどが散らかっていなかった。参詣するもののうちには、町の豪家の美しい少女もいれば、島田に結った白粉のなかばはげた田舎娘もあった。清三はかみさんからもらった萩の餅に腹をふくらし、涼しい風に吹かれながら午睡ひるねをした。ゆめうつつの中にも鐘の音、駒下駄こまげたの音、人の語り合う声などがたえず聞こえた。
 結願けちがんの日から雨がしとしとと降った。さびしい今年の秋が来た。
 かれのこのごろの日記には、こんなことが書いてある。
十月一日。
去月きょげつ二十八日より不着ふちゃくの新聞今日一度に来る。夜、善綱氏ぜんこうし(小僧)に算術教ふ。エノックアーデン二十ページのところまで進む。このごろ日脚ひあし西に入り易く、四時過ぎに学校をで、五時半に羽生に着けば日まったく暮る。夜、九時、湯に行く。秋の夜の御堂みどうに友のなみだひややかなり。
二日。晴。
れし木犀もくせいの香やうやく衰へ、裏の栗林に百舌鳥もずなきしきる。今日より九時始業、米ずしより夜油を買ふ。
三日。
モロコシ畑の夕日に群れて飛ぶあきつ赤し、熊谷の小畑おばたに手紙出す、夕波の絵かきそへて。
四日。晴。
久しく晴れたる空は夜に入りて雨となりぬ。裏の林に、秋雨あきさめの葉うつ音しずか。故郷の夢見る。
五日。土曜日。
雨をつきて行田に帰る。
六日。
一日を楽しき家庭に暮らす。小畑と小島に手紙出す。夜、細雨さいう静かなり。
七日。
朝早く行く。稲、黄いろく色づき、野の朝の雨ななめなり。夜は学校にとまる。
八日。
雨はげしく井戸端の柳の糸乱る。今宵も学校にとまる。
九日。
早く帰る。秋雨やうやく晴れて、夕方の雲風に動くこと早く夕日金色こんじきの色弱し。木犀もくせいの衰へたるにおいかすかに匂ふ。夜、新聞を見、行田への荷物包む。星かくれて、銀杏いちょうの実落つること繁し。栗の林に野分のわきたちて、庫裡くりの奥庭に一葉ちるもさびしく、風の音にコホロギの声寒し。
十日。
朝、行田に蚊帳かやを送り、夕方着物を受け取る。小畑より久しぶりにて同情の手紙を得たり。曰く「この秋の君の心! 思へばありしことども思ひ偲ばる。『去年こぞ冬の、今年の春!』といふ君が言葉にも千万無量の感湧きでて、心は遠く成願寺のあたり」云々。夜、星清くすんで南に低く飛ぶもの二つ、小畑に返事を書く。曰く、「愚痴ぐちはもうやめた。言ふまい、語るまい、一人にて泣き、一人にてもだえん。」
 清三はこのごろの日記の去年の冬、今年の春にくらべて、いかにその調子が変わったかを考えざるを得なかった。去年の冬はまだ世の中はこうしたものだとは知らなかった。美しいはでやかな希望も前途に輝いていた。歌留多かるたを取っても、ボールを投げてもおもしろかった。親しい友だちの胸に利己のさびしい影を認めるほど眼も心もさめておらなかった。卒業の喜び、初めて世に出ずる希望――その花やかな影はたちまち消えて、秋は来た、さびしい秋は来た。裏の林にみ割れた栗のいがが見えて、晴れた夜は野分がそこからさびしく立った。長い廊下の縁は足の裏に冷やかに、本堂のそばの高い梧桐あおぎりからは雨滴あまだれが泣くように落ちた。