四十九
梅雨の中に一日カッと晴れた日があった。薄い灰色の中からあざやかな青い空が見えて、光線がみなぎるように青葉に照った。行田からの帰り途、長野の常行寺の前まで来ると、何かことがあるとみえて、山門の前には人が多く集まって、がやがやと話している。小学校の生徒の列も見えた。
青葉の中から白い旗がなびいた。
戦死者の葬式があるのだということがやがてわかった。清三は山門の中にはいってみた。白い旗には近衛歩兵第二連隊一等卒白井倉之助之霊と書いてあった。五月十日の戦いに、靉河の右岸で戦死したのだという。フロックコートを着た知事代理や、制服を着けた警部長や、羽織袴の村長などがみな会葬した。村の世話役があっちこっちに忙しそうにそこらを歩いている。
遺骨をおさめた棺は白い布で巻かれて本堂にすえられてあった。ちょうど主僧のお経がすんで知事代理が祭文を読むところであった。その太いさびた声が一しきり広い本堂に響きわたった。やがてそれに続いて小学校の校長の祭文がすむと、今度は戦死者の親友であったという教員が、奉書に書いた祭文を高く捧げて、ふるえるような声で読み始めた。その声は時々絶えてまた続いた。嗚咽する声があっちこっちから起こった。
柩が墓に運ばれる時、広場に集まった生徒は両側に列を正して、整然としてこれを見送った。それを見ると、清三はたまらなく悲しくなった。軍司令部といっしょに原杏花が出発する時、小学校の生徒が両側に整列して、万歳を唱えた。その時かれは「爾、幼き第二の国民よ、国家の将来はかかって汝らの双肩にあるのである。健在なれ、汝ら幼き第二の国民よ」と心中に絶叫したと書いてある。その時ほど熱い涙が胸に迫ったことはなかったと書いてある。清三も今そうした思いに胸がいっぱいになった。幼い第二の国民に柩を送られる一戦死者の霊――
砲煙のみなぎった野に最後の苦痛をあじわって冷たく横たわった一兵卒の姿と、こうした梅雨晴れのあざやかな故郷の日光のもとに悲しく営まれる葬式のさまとがいっしょになって清三の眼の前を通った。
「どうせ人は一度は死ぬんだ」
こう思ったかれの頬には涙がこぼれた。
かれはいつか寺を出て、例の街道を歩いていた。光線はキラキラした。青葉と青空の雲の影とが野の上にあった。
二三日前からしきりに報ぜられる壱岐沖の常陸丸遭難と得利寺における陸軍の戦捷とがくり返しくり返し思い出される。初瀬吉野宮古の沈没などをも考えて、「はたして最後の勝利を占めることができるだろうか」という不安の念も起こった。
野にとうご草があるのを見て、それをとった。そばにある名を知らぬ赤い草花は学校の花壇に植えようと思って、根から掘って紙に包み、汚れた手をみそはぎの茂る小川で洗った。ふと一昨日浦和のひで子から来た手紙を思い出して、考えはそれに移る。羽生に移転してからの新家庭に、そのあきらかな笑顔を得たならば、いかに幸福であろうと思った。かれはこのごろひで子を自分の家庭にひきつけて考えることが多くなった。
羽生町の入り口では、東武鉄道の線路人夫がしきりに開通工事に忙しがっていたが、そのそばの藁葺家には、色のさめた国旗がヒラヒラと日に光った。
五十
羽生に移転する前日の日記に、かれはこう書いた。
「二十六年故山を出でて、熊谷の桜に近く住むこと数年、三十三年にはここ忍沼のほとりに移りてより、また数年を出でずして蝸牛のそれのごとく、またも重からぬ殻を負ひて、利根河畔羽生に移らんとす。奇しきは運命のそれよ、おもしろきは人生のそれよ、回顧一番、笑って昔古びたる城下の緑を出でて去らんのみ。歴史の章はかくのごとく、またかくのごとくして改められん」
羽生の大通りをちょっと裏にはいったところにその貸屋があった。探してくれたのは荻生さんで、持主は二三年前まで、通りで商売をしていた五十ばかりの気のよさそうな人であった。下が六畳に四畳半、二階が六畳、前に小さな庭があって、そこに丈の低い柿の木が繁っていた。家賃が二円五十銭、敷金が三月分あるのだが、荻生さんのお友だちならそれはなくってもよいという。父親も得意回りのついでに寄ってみて、「まア、あれならいい!」と賛成した。
一週間の農繁休暇を利用して、いよいよ移転することになった。平生親しくした友だちは多くは離散して、その時町にいるものは、活版屋をしている沢田君ぐらいのものであった。清三はその往来した友の家々を暇乞いをして歩いた。北川の家には母親が一人いた。入り口ですまそうとするのを、「まアまアほんとうにお久しぶりでしたね」と無理に奥の座敷へと請された。美穂子については、「あれも今年は卒業するのですけれど、意気地がなくって、学校が勤まりますかどうですか」などと言った。移転のことを聞いては「まアまアお名残り惜しい、……けれどまア貴君の身体がおきまりになって、お引っ越しなさるんですから、結構ですねえ、お母さんもさぞお喜びでしょう。薫がおれば、お手伝いぐらいいたすんですけれど、あれもこの七月には戦地に参るそうですから……」それからそれと、戦争の話やら町の話やらが続いた。母親の眼には、蒼白い顔をした眼の濁った体のやせた清三の姿がうつった。忍沼のさびた水にはみぞかくしの花がところどころに白く見えた。加藤の家には母親も繁子も留守で、めずらしく父親がいた。上がって教育上の話などを一時間ばかりもした。羽生からいますこし近いところにいい口があったら、転任させてもらいたいということをも頼んだ。石川の店では、小僧が忙しそうに客に応対していた。そこへ番頭が向こうから自転車をきしらして帰って来て、ひらりと飛び下りた。沢田さんは真黒になって働きながら、「こっちのほうに来た時にはぜひ寄ってください」と言った。清三は最後に弟の墓を訪うた。祖父の墓は足利にある。祖母の墓は熊谷にある。こうして、ところどころに墓を残して行く一家族の漂泊的生活をかれは考えて黯然とした。一人他郷に残される弟はさびしかろうなどとも思った。あじさいの花は墓を明るくした。
道具とてもない一家の移転の準備は簡単であった。箪笥と戸棚とを薦でからげ、夜具を大きなさいみの風呂敷で包んだ。陶器はすべて壊れぬように、箪笥の衣類の中や蒲団の中などに入れた。最後に椿や南天の草花などを掘って、根を薦包みにして庭の一隅に置いた。
降るかと思った空は午前のうちに晴れた。荷物を満載した三台の引っ越し車はガラガラと町の大通りをきしって行く。ところどころで、母親と清三とが知人にでっくわして挨拶しているさまが浮き出すように見える。車の一番上に積まれた紙屑籠につめたランプのホヤがキラキラ光る。
長野の手前で、額が落ちかかりそうになったのを清三は直した。母親はにこにことうれしそうな顔色で、いろいろな話をしながら歩いて行く。熊谷から行田に移転した時の話も出る。
「こうして、たいした迷惑を人にもかけずに、昼間引っ越して行かれるのは、みんなお前のおかげだよ」などと言った。長野をはずれようとするところで、向こうから号外売りが景気よく鈴を鳴らして走って来た。清三は呼びとめて一枚買った。竹敷を出た上村艦隊が暴雨のために敵を逸して帰着したということが書いてある。車力は「残念ですなア。敵をにがしてしまって……常陸丸ではこの近辺で死んだ人がいくらもあるですぜ。佐間では三人まであるですぜ」などと話し合った。
ある豪農の塀の前では、平生引っ越し車などに見なれないので犬がほえた。榛の並木に沿った小川では、子供が泥だらけになって、さで網で雑魚をすくっている。繭売りの車がぞろぞろ通った。
新しい家では、今朝早く来た父親と、局を休んで手伝いに来てくれた荻生さんとが、バタバタ畳をたたいたり、雑巾がけをしたり、破れた障子をつくろったりしていた。大家さんは火鉢と茶道具とを運んで来て、にこにこ笑いながら、「何かいるものがありましたなら遠慮なくおっしゃい」と言って、禿頭に頬冠をして尻をまくった父親の姿を立って見ていた。それも十二時ごろにはたいてい片づいて、蕎麦屋からは蕎麦を持って来る。荻生さんは買って来た大福餅を竹の皮包みから出してほおばる。そこの小路にガタガタと車のはいる音がして、清三と母親の顔が見えた。
車力は縄をといて、荷物を庭口から縁側へと運び入れる。父親と荻生さんが先に立って箪笥や行李や戸棚や夜具を室内に運ぶ。長火鉢、箪笥の置き場所を、あれのこれのと考える。母親は襷がけになって、勝手道具を片づけていたが、そこに清三が外から来て、呼吸をきらして水を飲んだ。
母親は手をとどめて、じっと見て、
「どうしたの?」
「少し手伝ったら、呼吸がきれてしかたがない」
「お前は無理をしてはいけないよ。父さんがするから、あまり働かずにおおきよ」
このごろ、ことに弱くなった清三が、母親にはこのうえない心配の種であった。
やがてどうやらこうやらあたりが片づく。「こうしてみると、なかなか住心地がいい」と父親は長火鉢の前で茶を飲みながら言った。車力は庭の縁側に並んで、振舞われた蕎麦をズルズルすすった。
清三と荻生さんは二階に上がって話した。南と西北とがあいているので風通しがいい。それに裏の大家の庭には、栗だの、柿だの、木犀だの、百日紅だのが繁っている。青空に浮いた白い雲が日の光を帯びて、緑とともに光る。二人は足を投げ出して、のんきに話をしていると、そこに母親が茶をいれて持って来てくれる。大福餅を二人して食った。
夜は清三は二階に寝た。久しぶりで家庭の団欒の楽しさを味わったような気がする。雨戸を一枚あけたところから、緑をこしたすずしい夜風がはいって、蚊帳の青い影がかすかに動いた。かれはまんなかに広く蒲団を敷いて、闇の空にチラチラする星の影を見ながら寝た。母親が階段を上って来て、あけ放した雨戸をそッとしめて行ったのはもう知らなかった。
翌日は弥勒に出かけて、人夫を頼んで、書籍寝具などを運んで来た。二階の六畳を書斎にきめて、机は北向きに、書箱は壁につけて並べておいて、三尺の床は古い幅物をかけた。荻生さんが持って来てくれた菖蒲の花に千鳥草を交ぜて相馬焼きの花瓶にさした。「こうしてみると、学校の宿直室よりは、いくらいいかしれんね」と荻生さんはあたりを見回して言った。親しい友だちが同じ町に移転して来たので、なんとなくうれしそうににこにこしている。寺の本堂に寄宿しているころは、清三は荻生さんをただ情に篤い人、親切な友人と思っただけで、自分の志や学問を語る相手としてはつねに物足らなく思っていた。どうしてああ野心がないだろう。どうしてああ普通の平凡な世の中に安心していられるだろうと思っていた。時には自分とは人間の種類が違うのだとさえ思ったことがある。それが今ではまるで変わった。かれは日記に「荻生君はわが情の友なり、利害、道義もってこの間を犯し破るべからず」と書いた。また「かつてこの友を平凡に見しは、わが眼の発達せざりしためのみ。荻生君に比すれば、われははなはだ世間を知らず、人情を解せず、小畑加藤をこの友に比す、今にして初めて平凡の偉大なるを知る」と書いた。
前の足袋屋から天ぷら、大家から川魚の塩焼きを引っ越しの祝いとして重箱に入れてもらった。いずれも「あいそ」という鱗のあらい腹の側の紅い色をした魚で、今が利根川でとれる節だという。米屋、炭屋、薪屋なども通いを持って来た。父親は隣近所の組合を一軒一軒回って歩いた。清三は午後から二階の六畳に腹ばいになって、東京や行田や熊谷の友人たちに転居の端書を書いた。寺にも出かけて行ったが、ちょうど葬式で、和尚さんは忙しがっていたので、転居のことを知らせておいて帰って来た。
大家の主人はおもしろい話好きの人であった。店は息子に譲って、自分は家作を五軒ほど持って、老妻と二人で暮らしているというのんきな身分、釣と植木が大好きで、朝早く大きな麦稈帽子をかぶって、笭箵を下げて、釣竿を持って、霧の深い間から木槿の赤く白く見える垣の間の道を、てくてくと出かけて行く。そして日の暮れるころには、笭箵の中に金色をした鮒や鯉をゴチャゴチャ入れて帰って来る。店子はおりおり擂り鉢にみごとな鮒を入れてもらうことなどもある。釣に行かぬ時は、たいてい腰を曲げて盆栽や草花などを丹念にいじくっている。そうかといってべつにたいしたものがあるのでもない。楓に、欅に、檜に、蘇鉄ぐらいなものだが、それを内に入れたり出したりして、楽しみそうに眺めている。花壇にはいろいろ西洋種もまいて、天竺牡丹や遊蝶草などが咲いている。コスモスもだいぶ大きくなった。また時には、はだしになって垣の隅の畠を一生懸命に耕していることなどもあった。
農繁休暇はなおしばし続いた。一週間で授業を始めてみたが、麦刈り養蚕田植えなどがまだすっかり終わらぬので、出席生徒の数は三分の一にも満たなかった。で、いま一週間休暇をつづけることにする。清三は午後は二階の風通しのいいところでよく昼寝をした。あまり長く寝込んで西日に照らされて、汗をぐっしょりかいていることなどもあった。町も郊外もしばしの間はめずらしく、雨の降らぬ日には、たいてい画架をかついで写生に出かけた。警察のそばの道に沿った汚ない溝には白い小さい花がポチポチ咲いて、さびた水に夢見るような赤いねむの花がかすかにうつった。寺の門、町はずれから見たる日光群山、桑畑の鶏、路傍の吹き井、うどんひもかわと書いた大和障子などの写生がだんだんできた。
夜は大家の中庭の縁側に行って話した。戦争の話がいつも出る。二三日前荻生さんから借りた戦争画報を二三冊また借してやったが、それについてのいろいろの質問が出る。「どうももう旅順が取れそうなものですがなア」とさももどかしそうに主人は言って、「それにもう、陸軍のほうもよほど行ったんでしょう。第一軍は九連城を取ってから、ねっから進まんじゃありませんか。第二軍は蓋平からもうよほど行ったんですか」
清三は新聞や雑誌で、得た知識で、第一軍第二軍が近いうちに連絡して遼陽のクロパトキン将軍の本営に迫る話をして聞かした。旅順の方面については、海陸ともにひしひしと押し寄せて、敵はもう袋の鼠になってしまったから、こっちのほうは遼陽よりも早く片づくはずである。「来月の十五日ぐらいまでにはきっと取れるッて校長なども言うんです。私はいま少し遅くなるかもしれないと思いますけれど、なにしろもうじきですな」などと清三は言って聞かせた。
「なにしろ、日本は小さいけれども、挙国一致ですからかないませんやな。どんな百姓でも、無知な人間でも、戦争ッていえば一生懸命ですからな……天子様も国民の後援があって、さぞ御心丈夫でいらっしゃるでしょう」と感嘆したような調子で言って、「日本は昔からお武士でできた国ですからなア!」
大家はまた釣の話をして聞かせることがあった。清三が胃腸を悩んでいるとかいうのを聞いて、「どうです、一ついっしょに出かけてみませんか。そういう病気には、気が落ち着いてごくいいですがな」こんなことを言って誘った。その場所はここから一里ぐらい行ったところで、田のところどころに掘切がある。そこには葦荻が人をかくすぐらいに深く生い茂っている。鮒や鯉やたなごなどのたくさんいるのといないのとがある。そのいるところを大家さんはよく知っていた。
二人で話している縁側の上に、中老の品のいい細君は、岐阜提灯をつるしてくれた。
時には母親と荻生さんと三人つれだって町を歩くこともあった。今年は「から梅雨」で、雨が少なかった。六月の中ごろにすでに寒暖計が八十九度まであがったことがあった。七月にはいってから、にわかに暑さが激しく、田舎町の夜には、縁台を店先に出して、白地の浴衣をくっきりと闇に見せて、団扇をバタバタさせている群れがそこにもここにも見えた。母親は買い物をする町の店に熟していないので、そうした夜の散歩には、荻生さんがここが乾物屋、ここが荒物屋、呉服屋ではこの家が一番かたいなどと教えてくれた。下駄屋の店には、中年のかみさんが下駄の鼻緒の並んだ中に白い顔を見せてすわっていた。鍛冶屋にはランプが薄暗くついて、奥では話し声が聞こえていた。水のような月が白い雲に隠れたりあらわれたりして、そのたびごとにもつれた三つの影が街道にうつったり消えたりする。
用水の橋の上は涼しかった。納涼に出た人々がぞろぞろ通る。冬や春は川底に味噌漉のこわれや、バケツの捨てたのや、陶器の欠片などが汚なく殺風景に見えているのだが、このごろは水がいっぱいにみなぎり流れて、それに月の光や、橋のそばに店を出している氷屋の提灯の灯影がチラチラとうつる、流れる水の影が淡く暗く見える。向こうの料理店から、三絃の音が聞こえた。
三人は氷店に休んで行くこともある。母親は帰りに、八百屋に寄って、茄子や白瓜などを買う。局の前で、清三は母親を先に帰して、荻生さんの室で十時過ぎまで話して行くことなどもあった。
五十一
七月十五日の日記にかれはこう書いた。
「杜国亡びてクルーゲル今また歿す。瑞西の山中に肺に斃れたるかれの遺体は、故郷のかれが妻の側に葬らるべし。英雄の末路、言は陳腐なれど、事実はつねに新たなり。英雄クルーゲル元トランスヴァール共和国大統領ホウル・クルーゲル歿す。歴史はつねにかくのごとし」
五十二
医師はやっぱり胃腸だと言った。けれど薬はねっから効がなかった。咳がたえず出た。体がだるくってしかたがなかった。ことに、熱が時々出るのにいちばん困った。朝は病気が直ったと思うほどいつも気持ちがいいが、午後からはきっと熱が出る。やむなく発汗剤をのむと、汗がびっしょりと出て、その心持ちの悪いことひととおりでない。顔には血の気がなくなって、肌がいやに黄ばんで見える。かれはいく度も蒼白い手を返して見た。
「お前ほんとうにどうかしたのじゃないかね。しっかりした医師にかかってみるほうがいいんじゃないかね」
母親は心配そうにかれの顔を見た。
学校はやがて始まった。暑中休暇まではまだ半月ほどある。それに七時の授業始めなので、朝が忙しかった。母親は四時には遅くも起きて竃の下を焼きつけた。清三は薬瓶と弁当とをかかえて、例の道をてくてくと歩いて通った。一里半の通いなれた路――それにもかれはいちじるしい疲労を覚えるほどその体は弱くなっていた。それに、このごろでは滋養品をなるたけ多く取る必要があるので、毎日牛乳二合、鶏卵を五個、その他肉類をも食った。移転の借金をまだ返さぬのに、毎日こうして少なからざる金がかかるので、かれの財布はつねにからであった。馬車に乗りたくも、そんな余裕はなかった。
五十三
八阪神社の祭礼はにぎやかであった。当年は不景気でもあり、国家多事の際でもあるので、山車も屋台もできなかったが、それでも近在から人が出て、紅い半襟や浅黄の袖口やメリンスの帯などがぞろぞろと町を通った。こういう人たちは、氷店に寄ったり、瓜店の前で庖丁で皮をむいてもらって立ち食いをしたり、よせ切れの集まった呉服屋の前に長い間立ってあれのこれのといじくり回したりした。大きな朱塗の獅子は町の若者にかつがれて、家から家へと悪魔をはらって騒がしくねり歩いた。清三が火鉢のそばにいると、そばの小路に、わいしょわいしょという騒がしい懸け声がして、突然獅子がはいって来た。草鞋をはいた若者は、なんの会釈もなく、そのままずかずかと畳の上にあがって、
「やあ!」
と大きな獅子の口をあげて、そのまま勝手もとに出て行った。
母親は紙に包んだおひねりを獅子の口に入れた。一人息子のために、悪魔を払いたまえ! と心に念じながら……。
五十四
母親は二階の床の間に、燃ゆるような撫子と薄紫のあざみとまっ白なおかとらのおと黄いろいこがねおぐるまとを交ぜて生けた。時には窓のところにじっと立って、夕暮れの雲の色を見ていることもあった。そのやせた後ろ姿を清三は悲しいようなさびしいような心地でじっと見守った。
父親は二階の格子を取りはずしてくれた。光線は流るるように一室にみなぎりわたった。窓の下には足長蜂が巣を醸してブンブン飛んでいた。大家の庭樹のかげには一本の若竹が伸びて、それに朝風夕風がたおやかに当たって通った。
五十五
五月六日には体量十二貫五百目、このごろ郵便局でかかってみると、単衣のままで十貫六百目、荻生さんは十三貫三百目。
ある日、田原ひで子が学校に来て手紙を小使に頼んでおいて行った。手紙の中には、手ずから折った黄いろい野菊の花が封じ込んであった。「野の菊は妾の愛する花、師の君よ、師の君よ、この花をうつくしと思ひたまはずや」と書いてあった。
暑中休暇前一二日の出勤は、かれにとってことにつらかった。その初めの日は帰途に驟雨に会い、あとの一日は朝から雨が横さまに降った。かれは授業時間の間々を宿直室に休息せねばならぬほど困憊していた。それに今月の月給だけでは、薬代、牛乳代などが払えぬので、校長に無理に頼んで三円だけつごうしてもらった。
旅順陥落の賭に負けたからとて、校長は鶏卵を十五個くれたが、それは実は病気見舞いのつもりであったらしい。教員たちは、「もうなんのかのと言っても旅順はじきに相違ないから、その時には休暇中でも、ぜひ学校に集まって、万歳を唱えることにしよう」などと言っていた。清三は八月の月給を月の二十一日にもらいたいということをあらかじめ校長に頼んで、馬車に乗ってかろうじて帰って来た。
暑中休暇中には、どうしても快復させたいという考えで、清三は医師を変えてみる気になった。こんどの医師は親切で評判な人であった。診察の結果では、どうもよくわからぬが、十二指腸かもしれないから、一週間ばかりたって大便の試験をしてみようと言った。肺病ではないかときくと、そういう兆候は今のところでは見えませんと言った。今のところという言葉を清三は気にした。
五十六
滋養物を取らなければならぬので、銭もないのに、いろいろなものを買って食った。鯉、鮒、鰻、牛肉、鶏肉――ある時はごいさぎを売りに来たのを十五銭に負けさせて買った。嘴は浅緑色、羽は暗褐色に淡褐色の斑点、長い足は美しい浅緑色をしていた。それをあらくつぶして、骨をトントンと音させてたたいた。それにすらかれは疲労を覚えた。
泥鰌も百匁ぐらいずつ買って、猫にかかられぬように桶に重石をしてゴチャゴチャ入れておいた。十尾ぐらいずつを自分でさいて、鶏卵を引いて煮て食った。寺の後ろにはこの十月から開通する東武鉄道の停車場ができて、大工がしきりに鉋や手斧の音を立てているが、清三は気分のいい夕方などには、てくてく出かけて行って、ぽつねんとして立ってそれを見ていることがある。時には向こうの野まで行って花をさがして来ることもある。えのころ、おひしば、ひよどりそう、おとぎりそう、こまつなぎ、なでしこなどがあった。
新聞にはそのころ大石橋の戦闘詳報が載っていた。遼東! 遼陽! という文字が至るところに見えた。ある日、母親は急性の胃に侵されて、裁縫を休んで寝ていた。物を食うとすぐもどした。そして吃逆も激しく出た。土用のあけた日で、秋風の立ったのがどことなく木の葉のそよぎに見える。座敷にさし入る日光から考えて、太陽も少しは南に回ったようだなどと清三は思った。そこに郁治がひょっくり高等師範の制帽をかぶった姿を見せた。この間うちから帰省していて、いずれ近いうちに新居を訪問したいなどという端書をよこしたが、今日は加須まで用事があってやって来たから、ふと来る気になって訪ねたという。郁治は清三のやせ衰えた姿に少なからず驚かされた。それに顔色の悪いのがことに目立った。
親しかった二人は、夕日の光線のさしこんだ二階の一間に相対してすわった。相変わらず親しげな調子であるが、言葉は容易に深く触れようとはしなかった。時々話がとだえて黙っていることなどもあった。
「小畑はこの間日光に植物採集に出かけて行ったよ」
こんなことを言って、郁治はとだえがちなる話をつづけた。
清三は、「君、帰ったら、ファザーに一つ頼んでみてくれたまえな。どうもこう体が弱っては、一里半の通勤はずいぶんつらいから、この町か、近在かにどこか転任の口はないだろうかッて……。弥勒ももうずいぶん古参だから、居心地は悪くはないけれど、いかにしても遠いからね、君」
こう言って転任運動を頼んだ。
夕餐には昨夜猫に取られた泥鰌の残りを清三が自分でさいてご馳走した。母親が寝ているので、父親が水を汲んだり米をたいたり漬け物を出したりした。
郁治は見かねてよほど帰ろうとしたが、あっちこっちを歩いて疲れているので、一夜泊めてもらって行くことにした。
「郁さんがせっかくおいでくだすったのに、あいにく私がこんなふうで、何もご馳走もできなくって、ほんとうに申しわけがない」
しげしげと母親は郁治の顔を見て、
「郁さんのように、家のも丈夫だといいのだけれど……どうも弱くってしかたがないんですよ。……それに郁さんなぞは。学校を卒業さえすれば、どんなにもりっぱになれるんだから、母さんももう安心なものだけれど……」
しみじみとした調子で言った。
美穂子の話が出たのは、二人が蚊帳の中にはいって寝てからであった。学校を出るまではお互いに結婚はしないが、親と親との口約束はもうすんだということを郁治は話した。
「それはおめでたい」
と清三がまじめに言うと、
「約束をきめておくなんて、君、つまらぬことだよ」
「どうして?」
「だッて、お互いに弱点が見えたりなんかして、中途でいやになることがないとも限らないからね」
「そんなことはいかんよ、君」
「だッてしかたがないさ、そういう気にならんとも限らんから」
「そんなふまじめなことを言ってはいかんよ、君たちのように前から気心も知れば、お互いの理想も知っているのだから、苦情の起こりっこはありゃしないよ。僕なども同じ仲間だから、君らの幸福なのを心から祈るよ、美穂子さんにも久しく会わないけれど、僕がそう言ったッて言ってくれたまえ」
いつもの軽い言葉とは聞かれぬほどまじめなので、
「うむ、そう言うよ」と郁治も言った。
蚊帳の外のランプに照らされた清三の顔は蒼白かった。咳がたえず出た。熱が少し出てきたと言って、枕もとに持って来ておいた水で頓服剤を飲んだ。二人の胸には、中学校時代、「行田文学」時代のことが思い出されたが、しかも二人とも何ごとをも語らなかった。郁治の胸にははなやかな将来が浮かんだ。「不幸な友!」という同情の心も起こった。
あまり咳が出るので、背をたたいてやりながら、
「どうもいかんね」
「うむ、治らなくって困る」
汗が寝衣をとおした。
「石川はどうした?」
と、しばらくしてから、清三がきいた。
「つい、この間、東京から帰って来た」と郁治は言って、「あまり道楽をするものだから、家でも困って、今度足どめに、いよいよ嫁さんが来るそうだ」
「どこから?」
「なんでも川越の財産家で跡見女学校にいた女だそうだ。容色望みという条件でさがしたんだから、きっと別嬪さんに違いないよ」
「先生も変わったね?」
「ほんとうに変わった。雑誌をやってる時分とはまるで違う」
それから同窓の友だちの話がいろいろ出た。窓からは涼しい風がはいる……。
翌朝、郁治が眼をさましたころには、清三は階下で父親を手伝って勝手もとをしていた。いまさらながら、友の衰弱したのを郁治は見た。小畑に聞いたが、これほどとは思わなかった。朝の膳には味噌汁に鶏卵が落としてあった。清三は牛乳一合にパンを少し食った。二人は二階にまたすわってみたが、もうこれといって話もなかった。
郁治が帰る時に、
「それじゃ学校の話、一つ運動してみてくれたまえ」
清三はくり返して頼んだ。
母親の病気ははかばかしくなかった。三度々々食物も満足に咽喉に通らなかった。父親が商売に出たあとでは、清三がお粥をこしらえたり、好きなものを通りに出て買って来てやったりする。また父親と縁側に東京仕入れの瓜を二つ三つ桶に浮かせて、皮を厚くむいて二人してうまそうに食っていることもある。そういう時には清三は皿に瓜のさいたのを二片三片入れて、食う食わぬにかかわらず、まず母親の寝ている枕もとに置いた。母子の情合いは病んでからいっそう厚くなったように思われた。どうかすると、清三の顔をじっと見て、母親が涙をこぼしていることもあった。清三はまた清三で、めったに床についたことのない母親の長い病気を気にして医師にかかることをうるさく勧めると、「お前の薬代さえたいへんなのに、私までかかっては、それこそしかたがない。私のはもう治るよ、明日は起きるよ」と母親は言った。
二階の一間は新聞が飛ぶほど風が吹き通すこともあれば、裏の木の上に夕月が美しくかかって見えることもあった。けれど東がふさがっているので、朝日にはつねに縁遠く清三は暮らした。朝の眺めとしては、早起きをした時北窓の雲に朝日が燃えるようにてりはえるのを見るくらいなものであった。
弥勒野はこのごろは草花がいつも盛りであった。清三は関さんに手紙を書いた。「このごろは座敷の運動のみにて、野に遠ざかり居り候へば、草花の盛りも見ず、遺憾に候。弥勒野、才塚野、君の採集にはさぞめづらしき花を加へたまひしならん。秋海棠今歳は花少なく、朝顔もかはり種なく、さびしく暮らし居り候」
毎日二三回ずつの下痢、胃はつねに激しき渇きを覚えた。動かずにじっとしていれば、健康の人といくらも変わらぬほどに気分がよいが、労働すれば、すぐ疲れて力がなくなる。医師は一週間目に大便の試験をしたが、十二指腸虫は一疋もいず、ベン虫の卵が一つあったばかりであった。けれどこれは寄生虫でないから害はない。ふつう健康体にもよくいる虫だと医師はのんきなことを言った。母親の病気はまだすっかり治らなかった。もうかれこれ十一二日目になる。按摩を頼んでもませてみたり、ご祈祷を近所の人がやって来て上げてくれたりした。ついでに清三もこのご祈祷を上げてもらった。
清三はこのころから夜が眠られなくて困った。いよいよ不眠性の容易ならざる病状が迫ってきたことを医師はようやく気がつき始めた。旅順の海戦――彼我の勝敗の決した記憶すべき十日の海戦の詳報のしきりに出るころであった。アドミラル、トオゴーの勇ましい名が、世界の新聞雑誌に記載せらるるころであった。
医師はある日やって来て、あわてて言った。「どうも永久的衰弱ですからなア」こう言ってすぐ言葉を続けて、「あまり無理をしてはいけません。第一、少しよくなっても、一里半も学校に通ってはいけません。一年ぐらい海岸にでも行っているといいですがな」
それから葡萄酒を飲用することを勧めた。
五十七
医師の言葉を書いて、ぜひ九月の学期までに近い所に転任したいが、君に一任してよきや、みずから運動すべきやと郁治のもとに書いてやると、折りかえして返事が来て、視学に直接に手紙をやれ、羽生の校長にも聞いてみろ、自分もそのうち出かけて運動してやると書いてあった。
だんだん秋風が立ち始めた。大家で飼っておいたくさひばりが夕暮れになるといつもいい声を立てて鳴いた。床柱の薔薇の一輪揷し、それよりも簀戸をすかして見える朝顔の花が友禅染めのように美しかった。
一日、午後四時ごろの暑い日影を受けて、例の街道を弥勒に行く車があった。それには清三が乗っていた。月の俸給を受け取るためにわざわざ出かけて来たのであった。学校はがらんとして、小使もいなかった。関さんも、昨日浦和に行ったとて不在であった。
宿直室にはなかば夕日がさしとおった。テニスをやるものもないとみえて、網もラッケットも縁側の隅にいたずらに束ねられてある。事務室の硯箱の蓋には塵埃が白く、椅子は卓の上に載せて片づけられたままになっている。影を長く校庭にひいた清三のやせはてた姿は、しずかに廊下をたどって行った。
教室にはいってみた。ボールドには、授業の最後の時間に数学を教えた数字がそのままになっている。[#ここから横書き]12+15=27[#ここで横書き終わり]と書いてある。チョークもその時置いたままになっている。ここで生徒を相手に笑ったり怒ったり不愉快に思ったりしたことを清三は思い出した。東京に行く友だちをうらやみ、人しれぬ失恋の苦しみにもだえた自分が、まるで他人でもあるかのようにはっきりと見える。色の白い、肉づきのいい、赤い長襦袢を着た女も思い出された。
オルガンが講堂の一隅に塵埃に白くなって置かれてあった。何か久しぶりで鳴らしてみようと思ったが、ただ思っただけで、手をくだす気になれなかった。
やがて小使が帰って来た。かれもちょっと見ぬ間に、清三のいたく衰弱したのにびっくりした。
じろじろと不気味そうに見て、
「どうも病気がよくねえかね?」
「どうもいかんから、近いところに転任したいと思っているよ……今度の学期にはもう来られないかもしれない。長い間、おなじみになったが、どうもしかたがない……」
「それまでには治るべいかな」
「どうもむずかしい――」
清三は嘆息をした。
小川屋にはもう娘はいなかった。この春、加須の荒物屋に嫁いて行った。おばあさんが茶を運んで来た。
すぐ目につけて、
「林さんなア、どうかしたかね」
「どうも病気が治らなくって困る」
「それア困るだね」
しみじみと同情したような言葉で言った。夕飯は粥にしてもらって、久しぶりでさいの煮つけを取って食った。庭には鶏頭が夕日に赤かった。かれは柱によりかかりながら野を過ぎて行く色ある夕べの雲を見た。
五十八
転任については、郁治も来て運動してくれた。町の高等も尋常も聞いてみたが、欠員がなかった。弥勒の校長からは、「不本意ではあるが、病気なればしかたがない、いいように取り計らうから安心したまえ」と言って来た。けれど他から見ては、もう教員ができるような体ではなかった。
ある日、荻生さんが、母親に、
「どうも今度の病気は用心しないといけないって医師が言いましたよ。どうも肺という徴候はないようだが、ただの胃腸とも違うようなところがあると言ってました。なんにしても足に腫気がきたのはよくないですな……医師の見立てが違っているのかもしれませんから、行田の原田につれて行って見せたらどうです? 先生は学士ですし、評判がいいほうですから」
そして、そういうつもりがあるなら、自分が一日局を休んでつれて行ってやってもいいと言った。
「どうも、ご親切に……お礼の申し上げようもない」
母親の声は涙に曇った。
弥勒に俸給を取りに行った翌日あたりから、脚部大腿部にかけておびただしく腫気が出た。足も今までの足とは思えぬほどに甲がふくれた。それに、陰嚢もその影響を受けて、起ち居にもだんだん不自由を感じて来る、医師は罨法剤と睾丸帯とを与えた。
蘇鉄の実を煎じて飲ませたり、ご祈祷を枕もとであげてもらったり、不動岡の不動様の御符をいただかせたり、いやしくも効験があると人の教えてくれたものは、どんなことでもしてみたが、効がなかった。秋風が立つにつれて、容体の悪いのが目に立った。
やがて盂蘭盆がきた。町の大通りには草市が立って、苧殻や藺蓆やみそ萩や草花が並べられて、在郷から出て来た百姓の娘たちがぞろぞろ通った。寺の和尚さんは紫の衣を着て、小僧をつれて、忙しそうに町を歩いて行った。茄子や白瓜や胡瓜でこしらえた牛や馬、その尻尾には畠から取って来た玉蜀黍の赤い毛を使った。どこの家でも苧殻[#「苧殻」は底本では「績殻」]で杉の葉を編んで、仏壇を飾って、代々の位牌を掃除して、萩の餅やら団子やら新里芋やら玉蜀黍やら梨やらを供えた。
女の児は新しい衣を着て、いそいそとしてあっちこっちに遊んでいた。
十三日の夜には迎え火が家々でたかれる。通りは警察がやかましいので、昔のように大仕掛けな焚火をするものもないが、少し裏町にはいると、薪を高く積んで火を燃している家などもあった。まわりに集まった子供らはおもしろがってそれを飛んだりまたいだりする。清三の家では、その日父親が古河に行ってまだ帰って来なかったので、母親は一人でさびしそうに入り口にうずくまって、苧[#「苧」は底本では「績」]がらを集めて形ばかりの迎え火をした。大家の入り口にはいま少し前焚いた火の残りが赤く闇に見える。
軒には昨年の盆に清三が手ずから書いた菊の絵の燈籠がさげてある。清三は便所に通うのに不便なので、四五日前から、床を下の六畳に移した。
風にゆらぐ盆燈籠をかれはじっと見ていた。大家の軒の風鈴の鳴る音がかすかに聞こえる。仏壇には灯がついていて、蓮の葉の上に供えた団子だの、茄子や白瓜でつくった牛馬だの、真鍮の花立てにさしたみそ萩などが額縁に入れた絵のように見える。明るい仏壇の中はなんだか別の世界でもあるかのように清三には思われた。
母親がそこへはいって来て、
「病気でないと、政一(弟の名)のところにもお参りに行ってもらうんだけれど……今年は花も上げてくれる人もないッてさびしがっているだろう」
「ほんとうにさ……」
「父さんがつごうがよければ行ってもらいたいと思っていたんだけれど……」
「ほんとうに、遠くなって淋しがっているだろう」
清三は亡くなった弟をしみじみ思った。
「明日あたり私がお参りに行こうかと思っているけれど……」
「ナアに、治ってから行くからいいさ」
しばらく黙った。
母子の胸には今月の払いのことがつかえている。薬代、牛乳――それだけでもかなり多い。今月は父親のかせぎがねっからだめだった上に、母親も病気で毎月ほど裁縫をしなかった。先ほど、医師から勘定書きを書生が持って来たのを母親は申しわけなさそうにことわっていた。
「なアに、父さんが帰って来れば、どうにかなるから、心配せずにおいでよ」
と母親はその時言った。
父親が帰って来てもだめなことを清三は知っている。
「病気さえしなけりゃなア!」
と清三は突然言った。
やがて言葉をついで、「こんな病気にかかりさえしなけりゃ、今年はちっとは母さんにも楽をさせられたのになア!」
母親はオドオドして、
「そんなことを思わないほうがいいよ。それより養生して!」
「ナアに、こんな病気に負けておりゃせんから、母さん。心配しないほうがいいよ。今死んでは、生まれて来たかいがありゃしない」
「ほんとうともねえ、お前」
「世の中というものは思いのままにならないもんだ!」
言葉は強かったが、一種の哀愁は仏壇の灯のみ明るい一室に充ちわたった。
* * * * *
隣近所では病人が日増しに悪くなるのを知った。医師が毎日鞄を下げてやって来る。荻生さんが心配そうな顔をしてちょいちょい裏からはいって来る。一週間前までは、蒼白にやせはてた顔をして、頭髪をぼうぼうさせて、そこらをぶらぶらしている病人の姿を人々はよく見かけたが、このごろでは、もうどっと床について、枕を高く、やせこけて、螽斯のようになった手を蒲団の外になげだすようにして寝ているのが垣の間から見える。井戸端などで母親に容体を聞くと、「どうも少しでもいいほうに向かってくれるといいのですけれど……」と言って、さもさも心配にたえぬような顔をした。
肺病だろうということは誰も皆前から想像していた。「どうも咳嗽の出るのが変だと思ってました」と隣りの足袋屋の細君が言った。「どうも肺病だッてな、あの若いのに気の毒だなア。話好きなおもしろい人だのに……」と大家の主人も老妻に言った。「一人息子をあれまで育てて、これからかかろうという矢先にそんな悪い病気に取っつかれては……」と老妻はしみじみと同情した。あっちこっちから見舞いを持って行くものなどもだんだん多くなる。大家の主人がある日一日釣って来た鮒を摺り鉢に入れて持って行ってやると、めずらしがッて、病人はわざわざ起きて来て見た。それから梨を持って来るものもあれば林檎を持って来るものもある。中には五十銭銀貨を一つ包んで来るものもあった。
転任のむずかしいこと、たとえ転任ができても、この体では毎日の出勤はおぼつかないということがしだいに病人にもわかってきた。かれは郁治にあてて、病気で休んでいれば何か月間俸給がおりるかということを父の郡視学に聞いてもらうように手紙を書いた。やがてその返事が来て埼玉県令十号の十三条に六十日の病気欠席は全俸(願書診断書付き)その以後二か月半俸としてあることを報じて来た。
五十九
行田の町の中ほどに西洋造りのペンキ塗りのきわだって目につく家があった。陶器の標札には医学士原田龍太郎とあざやかに見えて、門にかけた原田医院という看板はもう古くなっていた。
午前十時ごろの晴れた日影は硝子をとおした診察室の白いカアテンを明るく照らした。
診察が終わって、そこから父親と荻生さんとにたすけられて出て来たのは、二三日来ますます衰弱した清三であった。荻生さんが万一を期して、ヤイヤイ言ってつれて来た親切は徒労に帰した。医師は父親と友とに絶望的宣告を与えたようなものであった。
荻生さんが懇意なので、別室できくと、
「いま少し早くどうかすることができそうなものだった」
医師はこう言った。
「やっぱり、肺でしょうか」
「肺ですな……もう両方とも悪くなっている!」
荻生さんはどうすることもできなかった。眼眩がしてそこに立っていられぬ病人をほとんどかかえるようにして車に乗せた。「車に乗せてつれて来るのはちとひどかったね」と言った医師の言葉を思い出して、「医師をよんでは車代がたいへんだから……五円ではあがらないから、私が車に乗せてつれて行ってあげる」と言ったことを悔いた。
その二里の街道には、やはり旅商人が通ったり、機回りの車が通ったり、自転車が走ったりしていた。尻をまくって赤い腰巻を出して歩いて行く田舎娘もあった。もう秋風が野に立って、背景をつくった森や藁葺屋根や遠い秩父の山々があざやかにはっきり見える。豊熟した稲は涼しい風になびきわたった。
幌をかけた車はしずかに街道をきしって行った。
七色の風船玉を売って歩く老爺のまわりには、村の子供がたかっていた。
六十
寺の和尚さんが鶏卵の折りを持って見舞いに来た。
和尚さんもしばらく会わぬ間に、こうも衰弱したかとびっくりした。
わざと戦争の話などをする。
「旅順がどうも取れないですな」
「どうしてこう長びくんでしょう」
「ステッセルも一生懸命だとみえますな。まだ兵力が足りなくって第八師団も今度旅順に向かって発つという噂ですな」
「第九に第十二に、第一に……、それじゃこれで四個師団……」
「どうもあそこを早く取ってしまわないんではしかたがないんでしょう」
「なかなか頑強だ!」
と言って、病人は咳嗽をした。
やがて、
「遼陽のほうは?」
「あっちのほうが早いかもしれないッていうことですよ。第一軍はもう楡樹林子を占領して遼陽から十里のところに行ってますし、第二軍は海城を占領して、それからもっと先に出ているようですし……」
「ほんとうに丈夫なら、戦争にでも行くんだがなア」
と清三は慨嘆して、「国家のために勇ましい血を流している人もあるし、千載の一遇、国家存亡の時にでっくわして、廟堂の上に立って天下とともに憂いている政治家もあるのに……こうしてろくろくとして病気で寝てるのはじつに情ない。和尚さん、人間もさまざまですな」
「ほんとうですな」
和尚さんも笑ってみせた。
しばらくして、
「原さんから便りがありますか?」
「え、もう帰って来ます。先生も海城で病気にかかって、病院に一月もいたそうで……来月の初めには帰って来るはずです」
「それじゃ遼陽は見ずに……」
「え」
衰弱した割合いには長く話した。寺にいる時分の話なども出た。
その翌日は弥勒の校長さんが見舞いにやって来た。
「こんなになってしまいました」
と細い手を出して見せた。
「学校のほうはいいようにしておきますから、心配せずにおいでなさい、欠席届けさえ出しておくと、二月は俸給がおりるんですから」
校長さんはこう言った。
戦争の話が出ると、
「おそくも、休暇中には旅順が取れると思ったですけれどなア。よほどむずかしいとみえますな。このごろじゃ容易に取れないなんて、悲観説が多いじゃないですか。常陸丸にいろいろ必要な材料が積んであったそうですな」
こんなことを言った。
二三日して、今度は関さんが来た。女郎花と薄とを持って来てくれた。弥勒の野からとったのであると言った。母親は金盥に水を入れて、とりあえずそれを病人の枕もとに置いた。清三はうれしそうな顔をしてそれを見た。
関さんはやがて風呂敷包みから、紙に包んだ二つの見舞いの金を出した。一つには金七円、生徒一同よりとしてあった。一つは金五円、下に教員連の名前がずらりと並べて書いてあった。
六十一
遼陽の戦争はやがて始まった。国民の心はすべて満州の野に向かって注がれた。深い沈黙の中にかえって無限の期待と無限の不安とが認められる。神経質になった人々の心はちょっとした号外売りの鈴の音にもすぐ驚かされるほどたかぶっていた。そうしている間にも一日は一日とたつ。鞍山站から一押しと思った首山堡が容易に取れない。第一軍も思ったように出ることができない。雨になるか風になるかわからぬうちに、また一日二日と過ぎた。――その不安の情が九月一日の首山堡占領の二号活字でたちまちにしてとかれたと思うと、今度は欝積した歓呼の声が遼陽占領の喜ばしい報につれて、すさまじい勢いで日本全国にみなぎりわたった。
遼陽占領! 遼陽占領! その声はどんなに暗い汚ない巷路にも、どんな深い山奥のあばら家にも、どんなあら海の中の一孤島にも聞こえた。号外売りの鈴の音は一時間といわずに全国に新しいくわしい報をもたらして行く。どこの家でもその話がくり返される、その激しかった戦いのさまがいろいろに色彩をつけて語り合わされる。太子河の軍橋を焼いて退却した敵将クロパトキンは、第一軍の追撃に会ってまったく包囲されてしまったという虚報さえ一時は信用された。
全都国旗をもって埋まるという記事があった。人民の万歳の声が宮城の奥まで聞こえたということが書いてあった。夜は提灯行列が日比谷公園から上野公園まで続いて、桜田門付近馬場先門付近はほとんど人で埋めらるるくらいであったという。京橋日本橋の大通りには、数万燭の電燈が昼のように輝きわたって、花電車が通るたびに万歳の声が終夜聞こえたという。
清三はもう十分に起き上がることができなかった。容体は日一日に悪くなった。昨日は便所からはうようにしてかろうじて床にはいった。でも、その枕もとには、国民新聞と東京朝日新聞とが置かれてあって、やせこけて骨立った手が時々それを取り上げて見る。
遼陽の占領が始めて知れた時、かれは限りない喜びを顔にたたえて、
「母さん! 遼陽が取れた!」
とさもさもうれしそうに言った。
それからいろいろな話を母親にしてきかせた。二千何人という死傷者の話をもしてきかせた。戦争の話をする時は、病気などは忘れたようであった。蒼白いやせた顔にもほのかに血が上った。医師が来て、新聞などは読まないほうがいいと言った。病人自身にしても、細かい活字をたどるのはずいぶん難儀であった。手に取っても五分と持っていられない。疲れてじきそばに置いてしまった。時には半分読みかけた頁を、鬚の生えたやせた顔の上に落として、しばらくじっとしていることなどもある。
日本が初めて欧州の強国を相手にした曠古の戦争、世界の歴史にも数えられるような大きな戦争――そのはなばなしい国民の一員と生まれて来て、その名誉ある戦争に加わることもできず、その万分の一を国に報いることもできず、その喜びの情を人並みに万歳の声にあらわすことすらもできずに、こうした不運な病いの床に横たわって、国民の歓呼の声をよそに聞いていると思った時、清三の眼には涙があふれた。
屍となって野に横たわる苦痛、その身になったら、名誉でもなんでもないだろう。父母が恋しいだろう。祖国が恋しいだろう。故郷が恋しいだろう。しかしそれらの人たちも私よりは幸福だ――こうして希望もなしに病の床に横たわっているよりは……。こう思って、清三ははるかに満州のさびしい平野に横たわった同胞を思った。
六十二
枕もとにすわった医師の姿がくっきりと見えた。
父親はそれに向かって黙然としていた。母親は顔をおおって、たえずすすりあげた。
室のまんなかにつったランプは、心が出過ぎてホヤがなかば黒くなっていた。室には陰深の気が充ちわたって、あたりがしんとした。鬚を長く、頬骨が立って、眼をなかば開いた清三の死に顔は、薄暗いランプの光の中におぼろげに見えた。
医師の注射はもう効がなかった。
母親のすすりあげる声がしきりに聞こえる。
そこに、戸口にけたたましい足音がして、白地の絣を着た荻生さんの姿があわただしくはいって来たが、ずかずかと医師と父親との間に割り込んですわって、
「林君! ……林君! もう、とうとうだめでしたか!」
こう言った荻生さんの頬を涙はホロホロと伝った。
母親はまたすすりあげた。
遼陽占領の祭りで、町では先ほどから提灯行列がいくたびとなくにぎやかに通った。どこの家の軒にも鎮守の提灯が並んでつけてあって、国旗が闇にもそれと見える。二三日前から今日占領の祭りをするという広告をあっちこっちに張り出したので、近在からも提灯行列の群れがいく組となくやって来た。荻生さんは危篤の報を得て、その国旗と提灯と雑踏の中を、人を突き退けるようにして飛んで来た。一時間ほど前には清三はその行列の万歳の声を聞いて、「今日は遼陽占領の祭りだね」と言って、そのにぎやかな声に耳を傾けていた……。
今、またその行列が通る。万歳を唱える声がにぎやかに聞こえる。やがて暇を告げた医師は、ちょうどそこに酸漿提灯を篠竹の先につけた一群れの行列が、子供や若者に取り巻かれてわいわい通って行くのに会った。
「万歳! 日本帝国万歳」
六十三
昼間では葬式の費用がかかるというので、その翌日、夜の十一時にこっそり成願寺に葬ることにした。
荻生さんは父親をたすけてなにかれと奔走した。町役場にも行けば、桶屋に行って棺をあつらえてもやった。和尚さんは戦地から原杏花が帰るのを迎えに東京に行ってあいにく不在なので、清三が本堂に寄宿しているころ、よく数学を教えてやった小僧さんがお経を読むこととなった。近所の法類からしかるべき導師を頼むほどの御布施が出せなかったのである。
夜は星が聰しげにかがやいていた。垣には虫の声が雨のように聞こえる。椿の葉には露がおいて、大家の高窓からもれたランプの光線がキラキラ光った。木の黒い影と家屋の黒い影とが重なり合った。
棺が小路を出るころには、町ではもう起きている家はなかった。組合のものが三人、大家のあるじ、それに父親に荻生さんとがあとについた。提灯が一つ造り花も生花もない列をさびしげに照らして、警察の角から、例の溝に沿った道を寺へと進んだ。
溝のさびた水が動いて行く提灯の光にかすかに見えた。おおいかぶさった木の葉裏が明るく照らされたり消えたりした。路傍の草にも、畠にも、藪にも虫の音はたえず聞こえる。一行は歩むにつれてバタバタと足音を立てる。誰も口をきくものはなかった。
寺の本堂は明け放されて、如来様の前に供えられた裸蝋燭の夜風にチラチラするのが遠くから見えた。やがて棺はかつき上げられて、読経が始まった。
丈の低い小僧はそれでも僧衣を着て、払子を持った。一行の携えて来た提灯は灯をつけられたまま、人々の並んだ後ろの障子の桟に引っかけられてある。広い本堂は蝋燭の立てられてあるにかかわらずなんとなく薄暗かった。父親の禿頭と荻生さんの白地の単衣がかすかにその中にすかされて見える。読経の声には重々しいところがなかった。いやにさえ走ったような調子であった。鉦がけたたましい音を立てて鳴る。
「ここでこうして林君のおとむらいをしようとは夢にも思いがけなかった」
荻生さんは菓子の竹皮包みを懐に入れてよく昼寝にここに来たころのことを思い出して、こう心の中に言った。
式がすんで、階段から父親がおりると、そこに寺のかみさんが立っていて、
「このたびはまア……とんでもないことで……それにお悔みにもまだ上がりもいたしませんで……あいにく宿で留守なものですから」
と、きれぎれの挨拶をした。
夜はもう薄ら寒かった。単衣一枚では肌がなんとなくヒヤヒヤする。棺はやがて人足にかつがれて、墓地へと運ばれて行く。
選ばれたのは、畠と寺とを劃った榛の木に近いところであった。ひょろ長い並木の影が夜の闇の中にかすかにそれと指さされる。垣の外にいたずらにのびた桑の広葉がガサガサと夜風になびく。
穴は型のごとく掘ってあった。赤土と水が出て、あたりは踏み立てられぬほど路がわるかった。組合の男はいち早く草履を踏み込んで、買いたての白足袋を散々にしたと言っている。穴掘り男は頭髪まで赤土だらけにしながら、「どうも水が多くって、かい出してもかい出しても出て来るので、困ったちゃねえだ!」などと言った。
父親は提灯を振りかざして、穴をのぞいてみた。穴の底の赤く濁った水が提灯にチラチラうつった。
荻生さんものぞいてみた。
やがて棺が穴に下ろされる。土塊のバタバタと棺に当たる音がする。時の間に墓は築かれて小僧の僧衣姿が黒くその前に立ったと思うと、例の調子はずれの読経が始まった。暗い闇の中の提灯は、木槿垣を背にして立った荻生さんの蒼白い顔と父親の禿頭とそのほかの群れのまるく並んでいるのをかすかに照らした。
六十四
一年ほどして、そこに自然石の石碑が建てられた。表には林清三君之墓、下に辱知有志と刻んであった。荻生さんと郁治とが奔走して建てたので、その醵金者の中には美穂子も雪子もしげ子もあった。
一人息子を失った母親は一時はほとんど生きがいもないようにまで思ったが、しかしそう悔んで嘆いてばかりもいられなかった。かれらは老いてもなお独り働いて食わなければならなかった。母親は息子の死んだ六畳でせっせと裁縫の針を動かした。父親の禿頭はやはりその街道におりおり見られた。
墓にはたえず花が手向けられた。花好きの母親はその節ごとに花を携えて来てはつねにその前に供えた。荻生さんも羽生の局に勤めている間はよく墓参りをした。ある秋の日、和尚さんは、廂髪に結って、矢絣の紬に海老茶の袴をはいた女学生ふうの娘が、野菊や山菊など一束にしたのを持って、寺の庫裡に手桶を借りに来て、手ずから前の水草の茂った井戸で水を汲んで、林さんの墓のありかを聞いて、その前で人目も忘れて久しく泣いていたということをかみさんから聞いた。
「どこの娘だか」
などとその時かみさんが言った。
ところがそれから二年ほどして、その墓参りをした娘が羽生の小学校の女教員をしているという話を聞いた。
「あの娘は林さんが弥勒で教えた生徒だとサ」とかみさんはどこかで聞いて来て和尚さんに話した。
秋の末になると、いつも赤城おろしが吹きわたって、寺の裏の森は潮のように鳴った。その森のそばを足利まで連絡した東武鉄道の汽車が朝に夕べにすさまじい響きを立てて通った。