時雄は例刻をてくてくと牛込矢来町の自宅に帰って来た。
渠は三日間、その
苦悶と戦った。渠は性として
惑溺することが出来ぬ或る一種の力を
有っている。この力の為めに支配されるのを常に口惜しく思っているのではあるが、それでもいつか負けて
了う。征服されて了う。これが為め渠はいつも運命の圏外に立って苦しい味を
嘗めさせられるが、世間からは正しい人、信頼するに足る人と信じられている。三日間の苦しい
煩悶、これでとにかく渠はその前途を見た。二人の間の関係は一段落を告げた。これからは、師としての責任を尽して、わが愛する女の幸福の為めを
謀るばかりだ。これはつらい、けれどつらいのが
人生だ! と思いながら帰って来た。
門をあけて入ると、細君が迎えに出た。残暑の日はまだ暑く、洋服の
下襦袢がびっしょり汗にぬれている。それを
糊のついた白地の
単衣に着替えて、茶の間の
火鉢の前に坐ると、細君はふと思い附いたように、
箪笥の上の一封の手紙を取出し、
「芳子さんから」
と言って渡した。
急いで封を切った。巻紙の厚いのを見ても、その事件に関しての用事に相違ない。時雄は熱心に読下した。
言文一致で、すらすらとこの上ない達筆。
先生――
実は御相談に上りたいと存じましたが、余り急でしたものでしたから、独断で実行致しました。
昨日四時に田中から電報が参りまして、六時に新橋の停車場に着くとのことですもの、私はどんなに驚きましたか知れません。
何事も無いのに出て来るような、そんな軽率な男でないと信じておりますだけに、一層
甚しく気を
揉みました。先生、許して下さい。私はその時刻に迎えに参りましたのです。
逢って聞きますと、私の
一伍一什を書いた手紙を見て、非常に心配して、もしこの事があった為め万一郷里に
伴れて帰られるようなことがあっては、自分が済まぬと言うので、学事をも捨てて出京して、先生にすっかりお打明申して、お
詫も申上げ、お情にも
縋って、万事円満に参るようにと、そういう目的で急に出て参ったとのことで御座います。それから、私は先生にお話し申した一伍一什、先生のお情深い言葉、将来までも私等二人の神聖な
真面目な恋の証人とも保護者ともなって下さるということを話しましたところ、非常に先生の御情に感激しまして、感謝の涙に暮れました次第で御座います。
田中は私の余りに
狼狽した手紙に非常に驚いたとみえまして、十分覚悟をして、万一破壊の暁にはと言った風なことも決心して参りましたので御座います。万一の時にはあの時
嵯峨に一緒に参った友人を証人にして、二人の間が決して
汚れた関係の無いことを弁明し、別れて後互に感じた二人の恋愛をも打明けて、先生にお縋り申して郷里の父母の方へも
逐一言って頂こうと決心して参りましたそうです。けれどこの間の私の無謀で郷里の父母の感情を破っている矢先、どうしてそんなことを申して
遣わされましょう。今は
少時沈黙して、お互に希望を持って、専心勉学に志し、いつか折を見て――
或は五年、十年の後かも知れません――打明けて願う方が得策だと存じまして、そういうことに致しました。先生のお話をも一切話して聞かせました。で、用事が済んだ上は帰した方が好いのですけれど、非常に疲れている様子を見ましては、さすがに直ちに引返すようにとも申兼ねました。(私の弱いのを御許し下さいまし)勉学中、実際問題に触れてはならぬとの先生の御教訓は身にしみて守るつもりで御座いますが、
一先、
旅籠屋に落着かせまして、折角出て来たものですから、一日位見物しておいでなさいと、つい申して了いました。どうか先生、お許し下さいまし。私共も激しい感情の中に、理性も御座いますから、京都でしたような、仮りにも常識を
外れた、他人から誤解されるようなことは致しません。誓って、決して致しません。末ながら奥様にも
宜しく申上げて下さいまし。
芳子
先生 御もと
この一通の手紙を読んでいる中、さまざまの感情が時雄の胸を火のように燃えて通った。その田中という二十一の青年が現にこの東京に来ている。芳子が迎えに行った。何をしたか解らん。この間言ったこともまるで
虚言かも知れぬ。この夏期の休暇に
須磨で落合った時から出来ていて、京都での行為もその望を満す為め、今度も恋しさに
堪え兼ねて女の後を追って上京したのかも知れん。手を握ったろう。胸と胸とが相触れたろう。人が見ていぬ旅籠屋の二階、何を為ているか解らぬ。汚れる汚れぬのも
刹那の間だ。こう思うと時雄は
堪らなくなった。「監督者の責任にも関する!」と腹の中で絶叫した。こうしてはおかれぬ、こういう自由を精神の定まらぬ女に与えておくことは出来ん。監督せんければならん、保護せんけりゃならん。私共は熱情もあるが理性がある! 私共とは何だ!
何故私とは書かぬ、何故複数を用いた? 時雄の胸は
嵐のように乱れた。着いたのは昨日の六時、姉の家に行って聞き
糺せば昨夜何時頃に帰ったか解るが、今日はどうした、今はどうしている?
細君の心を尽した
晩餐の
膳には、
鮪の新鮮な刺身に、
青紫蘇の薬味を添えた
冷豆腐、それを味う余裕もないが、
一盃は一盃と
盞を重ねた。
細君は末の児を寝かして、火鉢の前に来て坐ったが、芳子の手紙の夫の傍にあるのに眼を附けて、
「芳子さん、何て言って来たのです?」
時雄は黙って手紙を投げて
遣った、細君はそれを受取りながら、夫の顔をじろりと見て、暴風の前に来る雲行の甚だ急なのを知った。
細君は手紙を読終って巻きかえしながら、
「出て来たのですね」
「うむ」
「ずっと東京に居るんでしょうか」
「手紙に書いてあるじゃないか、すぐ帰すッて……」
「帰るでしょうか」
「そんなこと誰が知るものか」
夫の語気が
烈しいので、細君は口を
噤んで了った。
少時経ってから、
「だから、本当に
厭さ、若い娘の身で、小説家になるなんぞッて、望む本人も本人なら、よこす親達も親達ですからね」
「でも、お前は安心したろう」と言おうとしたが、それは
止して、
「まア、そんなことはどうでも好いさ、どうせお前達には解らんのだから……それよりも酌でもしたらどうだ」
温順な細君は徳利を取上げて、京焼の
盃に波々と注ぐ。
時雄は
頻りに酒を
呷った。酒でなければこの
鬱を遣るに堪えぬといわぬばかりに。三本目に、妻は心配して、
「この頃はどうか為ましたね」
「何故?」
「酔ってばかりいるじゃありませんか」
「酔うということがどうかしたのか」
「そうでしょう、何か気に懸ることがあるからでしょう。芳子さんのことなどはどうでも好いじゃありませんか」
「馬鹿!」
と時雄は一
喝した。
細君はそれにも懲りずに、
「だって、余り飲んでは毒ですよ、もう好い加減になさい、また
手水場にでも入って寝ると、
貴郎は大きいから、私と、お鶴(下女)の手ぐらいではどうにもなりやしませんからさ」
「まア、好いからもう一本」
で、もう一本を半分位飲んだ。もう酔は余程廻ったらしい。顔の色は
赤銅色に染って眼が少しく据っていた。急に立上って、
「おい、帯を出せ!」
「
何処へいらっしゃる」
「三番町まで行って来る」
「姉の処?」
「うむ」
「およしなさいよ、
危ないから」
「何アに大丈夫だ、人の娘を預って監督せずに
投遣にしてはおかれん。男がこの東京に来て一緒に歩いたり何かしているのを見ぬ振をしてはおかれん。田川(姉の家の姓)に預けておいても不安心だから、今日、行って、早かったら、芳子を家に連れて来る。二階を掃除しておけ」
「家に置くんですか、また……」
「
勿論」
細君は容易に帯と着物とを出そうともせぬので、
「よし、よし、着物を出さんのなら、これで好い」と、白地の
単衣に
唐縮緬の汚れた
へこ帯、帽子も
被らずに、そのままに急いで戸外へ出た。「今出しますから……本当に困って了う」という細君の声が後に聞えた。
夏の日はもう暮れ懸っていた。矢来の酒井の森には
烏の声が
喧しく聞える。どの家でも夕飯が済んで、門口に若い娘の白い顔も見える。ボールを投げている少年もある。官吏らしい
鰌髭の紳士が
庇髪の若い細君を
伴れて、
神楽坂に散歩に出懸けるのにも幾組か
邂逅した。時雄は
激昂した心と泥酔した身体とに
烈しく漂わされて、
四辺に見ゆるものが皆な別の世界のもののように思われた。両側の家も動くよう、地も脚の下に陥るよう、天も頭の上に
蔽い
冠さるように感じた。元からさ程強い酒量でないのに、
無闇にぐいぐいと
呷ったので、一時に酔が発したのであろう。ふと
露西亜の
賤民の酒に酔って路傍に倒れて寝ているのを思い出した。そしてある友人と露西亜の人間はこれだから
豪い、
惑溺するなら
飽まで惑溺せんければ駄目だと言ったことを思いだした。馬鹿な! 恋に師弟の別があって堪るものかと口へ出して言った。
中根坂を上って、士官学校の裏門から佐内坂の上まで来た頃は、日はもうとっぷりと暮れた。白地の
浴衣がぞろぞろと通る。
煙草屋の前に若い細君が出ている。氷屋の
暖簾が涼しそうに夕風に
靡く。時雄はこの夏の夜景を
朧げに眼には見ながら、電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅い
溝に落ちて
膝頭をついたり、職工
体の男に、「
酔漢奴! しっかり歩け!」と
罵られたりした。急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて、市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく
寂寞としていた。大きい古い
欅の樹と松の樹とが蔽い冠さって、左の
隅に
珊瑚樹の大きいのが
繁っていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、
突如その珊瑚樹の蔭に身を
躱して、その根本の地上に身を
横えた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に
嫉妬の念に
駆られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。
初めて恋するような熱烈な情は無論なかった。盲目にその運命に従うと
謂うよりは、
寧ろ
冷かにその運命を批判した。熱い主観の情と冷めたい客観の批判とが
絡り合せた糸のように固く結び着けられて、一種異様の心の状態を呈した。
悲しい、実に痛切に悲しい。この悲哀は
華やかな青春の悲哀でもなく、単に男女の恋の上の悲哀でもなく、人生の
最奥に
秘んでいるある大きな悲哀だ。行く水の流、咲く花の
凋落、この自然の底に
蟠れる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほど
儚い
情ないものはない。
汪然として涙は時雄の
鬚面を伝った。
ふとある事が胸に
上った。時雄は立上って歩き出した。もう全く夜になった。境内の処々に立てられた
硝子燈は光を放って、その表面の常夜燈という三字がはっきり見える。この常夜燈という三字、これを見てかれは胸を
衝いた。この三字をかれは
曽て深い
懊悩を以て見たことは無いだろうか。今の細君が大きい
桃割に結って、このすぐ下の家に娘で居た時、
渠はその
微かな琴の
音の
髣髴をだに得たいと思ってよくこの八幡の高台に登った。かの女を得なければ
寧そ南洋の植民地に漂泊しようというほどの熱烈な心を
抱いて、
華表、長い
石階、社殿、俳句の
懸行燈、この常夜燈の三字にはよく見入って物を思ったものだ。その下には依然たる家屋、電車の
轟こそおりおり
寂寞を破って通るが、その妻の実家の窓には昔と同じように、明かに燈の光が輝いていた。何たる節操なき心ぞ、
僅かに八年の年月を
閲したばかりであるのに、こうも変ろうとは誰が思おう。その桃割姿を
丸髷姿にして、楽しく暮したその生活がどうしてこういう荒涼たる生活に変って、どうしてこういう新しい恋を感ずるようになったか。時雄は我ながら時の力の恐ろしいのを痛切に胸に覚えた。けれどその胸にある現在の事実は不思議にも何等の動揺をも受けなかった。
「矛盾でもなんでも
為方がない、その矛盾、その無節操、これが事実だから為方がない、事実! 事実!」
と時雄は胸の中に繰返した。
時雄は堪え難い自然の力の圧迫に圧せられたもののように、再び傍のロハ台に長い身を横えた。ふと見ると、
赤銅のような色をした
光芒の無い大きな月が、お
濠の松の上に音も無く昇っていた。その色、その
状、その姿がいかにも
侘しい。その侘しさがその身の今の侘しさによく
適っていると時雄は思って、また堪え難い哀愁がその胸に
漲り渡った。
酔は既に
醒めた。夜露は置始めた。
土手三番町の家の前に来た。
覗いてみたが、芳子の室に燈火の光が見えぬ。まだ帰って来ぬとみえる。時雄の胸はまた燃えた。この夜、この暗い夜に恋しい男と二人! 何をしているか解らぬ。こういう常識を欠いた行為を
敢てして、神聖なる恋とは何事? 汚れたる行為の無いのを弁明するとは何事?
すぐ家に入ろうとしたが、まだ当人が帰っておらぬのに上っても為方が無いと思って、その前を
真直に通り抜けた。女と
摩違う
度に、芳子ではないかと顔を覗きつつ歩いた。土手の上、松の木蔭、街道の曲り角、往来の人に怪まるるまで
彼方此方を
徘徊した。もう九時、十時に近い。いかに夏の夜であるからと言って、そう遅くまで出歩いている
筈が無い。もう帰ったに相違ないと思って、引返して姉の家に行ったが、矢張りまだ帰っていない。
時雄は家に入った。
奥の六畳に通るや否、
「芳さんはどうしました?」
その答より何より、姉は時雄の着物に
夥しく泥の着いているのに驚いて、
「まア、どうしたんです、時雄さん」
明かな
洋燈の光で見ると、なるほど、白地の
浴衣に、肩、
膝、腰の
嫌いなく、
夥しい
泥痕!
「何アに、
其処でちょっと転んだものだから」
「だッて、肩まで
粘いているじゃありませんか。また、酔ッぱらったんでしょう」
「何アに……」
と時雄は
強いて笑ってまぎらした。
さて時を移さず、
「芳さん、何処に行ったんです」
「今朝、ちょっと中野の方にお友達と散歩に行って来ると行って出たきりですがね、もう帰って来るでしょう。何か用?」
「え、少し……」と言って、「昨日は帰りは遅かったですか」
「いいえ、お友達を新橋に迎えに行くんだって、四時過に出かけて、八時頃に帰って来ましたよ」
時雄の顔を見て、
「どうかしたのですの?」
「何アに……けれどねえ姉さん」と時雄の声は改まった。「実は姉さんにおまかせしておいても、この間の京都のようなことが又あると困るですから、芳子を私の家において、十分監督しようと思うんですがね」
「そう、それは
好いですよ。本当に芳子さんはああいうしっかり者だから、私みたいな無教育のものでは……」
「いや、そういう訳でも無いですがね。余り自由にさせ過ぎても、
却って当人の為にならんですから、一つ家に置いて、十分監督してみようと思うんです」
「それが好いですよ。本当に、芳子さんにもね……何処と悪いことのない、発明な、利口な、今の世には珍らしい方ですけれど、一つ悪いことがあってね、男の友達と平気で夜歩いたりなんかするんですからね。それさえ止すと好いんだけれどとよく言うのですの。すると芳子さんはまた小母さんの旧弊が始まったって、笑っているんだもの。いつかなぞも余り男と一緒に歩いたり何かするものだから、
角の交番でね、不審にしてね、
角袖巡査が家の前に立っていたことがあったと云いますよ。それはそんなことは無いんだから、構いはしませんけどもね……」
「それはいつのことです?」
「昨年の暮でしたかね」
「どうもハイカラ過ぎて困る」と時雄は言ったが、時計の針の既に十時半の処を指すのを見て、「それにしてもどうしたんだろう。若い身空で、こう遅くまで一人で出て歩くと言うのは?」
「もう帰って来ますよ」
「こんなことは幾度もあるんですか」
「いいえ、
滅多にありはしませんよ。夏の夜だから、まだ宵の口位に思って歩いているんですよ」
姉は話しながら
裁縫の針を止めぬのである。前に
鴨脚の大きい
裁物板が据えられて、
彩絹の
裁片や糸や
鋏やが順序なく
四面に乱れている。女物の美しい色に、
洋燈の光が明かに照り渡った。九月中旬の夜は
更けて、
稍々肌寒く、裏の土手下を甲武の貨物汽車がすさまじい地響を立てて通る。
下駄の音がする
度に、今度こそは! 今度こそは! と待渡ったが、十一時が打って間もなく、小きざみな、軽い
後歯の音が静かな夜を遠く響いて来た。
「今度のこそ、芳子さんですよ」
と姉は言った。
果してその足音が家の入口の前に留って、がらがらと
格子が開く。
「芳子さん?」
「ええ」
と
艶やかな声がする。
玄関から
丈の高い
庇髪の美しい姿がすっと入って来たが、
「あら、まア、先生!」
と声を立てた。その声には
驚愕と当惑の調子が十分に
籠っていた。
「大変遅くなって……」と言って、座敷と居間との間の
閾の処に来て、半ば坐って、ちらりと電光のように時雄の
顔色を
窺ったが、すぐ紫の
袱紗に何か包んだものを出して、黙って姉の方に
押遣った。
「何ですか……お
土産? いつもお気の毒ね?」
「いいえ、私も召上るんですもの」
と芳子は快活に言った。そして次の間へ行こうとしたのを、無理に
洋燈の明るい
眩しい居間の
一隅に坐らせた。美しい姿、当世流の
庇髪、派手なネルにオリイヴ色の夏帯を形よく
緊めて、少し
斜に坐った艶やかさ。時雄はその姿と相対して、一種
状すべからざる満足を胸に感じ、今までの
煩悶と苦痛とを半ば忘れて了った。有力な敵があっても、その恋人をだに占領すれば、それで心の安まるのは恋する者の常態である。
「大変に遅くなって了って……」
いかにも
遣瀬ないというように
微かに弁解した。
「中野へ散歩に行ったッて?」
時雄は突如として問うた。
「ええ……」芳子は時雄の顔色をまたちらりと見た。
姉は茶を
淹れる。土産の包を開くと、姉の好きな好きなシュウクリーム。これはマアお
旨しいと姉の声。で、
暫く一座はそれに気を取られた。
少時してから、芳子が、
「先生、私の帰るのを待っていて下さったの?」
「ええ、ええ、一時間半位待ったのよ」
と姉が
傍から言った。
で、その話が出て、都合さえよくば今夜からでも――荷物は後からでも好いから――一緒に
伴れて行く積りで来たということを話した。芳子は下を向いて、
点頭いて聞いていた。無論、その胸には一種の圧迫を感じたに相違ないけれど、芳子の心にしては、絶対に信頼して――今回の恋のことにも全心を挙げて同情してくれた師の家に行って住むことは別に
甚しい苦痛でも無かった。
寧ろ以前からこの昔風の家に同居しているのを不快に思って、出来るならば、初めのように先生の家にと願っていたのであるから、今の場合でなければ、かえって
大に喜んだのであろうに……
時雄は一刻も早くその恋人のことを
聞糺したかった。今、その男は
何処にいる?
何時京都に帰るか? これは時雄に取っては実に重大な問題であった。けれど何も知らぬ姉の前で、打明けて問う訳にも行かぬので、この夜は露ほどもそのことを口に出さなかった。一座は平凡な物語に
更けた。
今夜にもと時雄の言出したのを、だって、もう十二時だ、明日にした方が
宜かろうとの姉の注意。で、時雄は一人で牛込に帰ろうとしたが、どうも不安心で為方がないような気がしたので、夜の更けたのを口実に、姉の家に泊って、明朝早く一緒に行くことにした。
芳子は八畳に、時雄は六畳に姉と床を並べて寝た。やがて姉の小さい
鼾が聞えた。時計は一時をカンと鳴った。八畳では寝つかれぬと覚しく、おりおり高い
長大息の
気勢がする。甲武の貨物列車が
凄じい地響を立てて、この深夜を
独り通る。時雄も久しく眠られなかった。
翌朝時雄は芳子を自宅に伴った。二人になるより早く、時雄は昨日の消息を知ろうと思ったけれど、芳子が
低頭勝に
悄然として後について来るのを見ると、何となく
可哀そうになって、胸に
苛々する思を畳みながら、黙して歩いた。
佐内坂を登り
了ると、人通りが少くなった。時雄はふと振返って、「それでどうしたの?」と突如として
訊ねた。
「え?」
反問した芳子は顔を曇らせた。
「昨日の話さ、まだ居るのかね」
「今夜の六時の急行で帰ります」
「それじゃ送って行かなくってはいけないじゃないか」
「いいえ、もう好いんですの」
これで話は途絶えて、二人は黙って歩いた。
矢来町の時雄の宅、今まで物置にしておいた二階の三畳と六畳、これを
綺麗に掃除して、芳子の
住居とした。久しく物置――子供の遊び場にしておいたので、
塵埃が山のように積っていたが、
箒をかけ
雑巾をかけ、雨のしみの附いた破れた障子を
貼り更えると、こうも変るものかと思われるほど明るくなって、裏の酒井の
墓塋の大樹の
繁茂が心地よき
空翠をその一室に
漲らした。隣家の
葡萄棚、打捨てて手を入れようともせぬ庭の雑草の中に美人草の美しく交って咲いているのも今更に目につく。時雄はさる画家の描いた朝顔の
幅を選んで床に懸け、
懸花瓶には
後れ
咲の
薔薇の花を
揷した。
午頃に荷物が着いて、大きな
支那鞄、
柳行李、信玄袋、本箱、机、夜具、これを二階に運ぶのには中々骨が折れる。時雄はこの手伝いに一日社を休むべく余儀なくされたのである。
机を南の窓の下、本箱をその左に、上に鏡やら
紅皿やら
罎やらを順序よく並べた。押入の一方には支那鞄、柳行李、
更紗の
蒲団夜具の一組を他の一方に入れようとした時、女の
移香が鼻を
撲ったので、時雄は変な気になった。
午後二時頃には一室が
一先ず
整頓した。
「どうです、
此処も居心は悪くないでしょう」時雄は得意そうに笑って、「此処に居て、まア
緩くり勉強するです。本当に実際問題に触れてつまらなく苦労したって為方がないですからねえ」
「え……」と芳子は頭を垂れた。
「後で詳しく聞きましょうが、今の
中は二人共じっとして勉強していなくては、為方がないですからね」
「え……」と言って、芳子は顔を挙げて、「それで先生、私達もそう思って、今はお互に勉強して、将来に希望を持って、親の
許諾をも得たいと存じておりますの!」
「それが好いです。今、余り騒ぐと、人にも親にも誤解されて了って、折角の真面目な希望も遂げられなくなりますから」
「ですから、ね、先生、私は一心になって勉強しようと思いますの。田中もそう申しておりました。それから、先生に是非お目にかかってお礼を申上げなければ済まないと申しておりましたけれど……よく申上げてくれッて……」
「いや……」
時雄は芳子の言葉の中に、「私共」と複数を
遣うのと、もう公然
許嫁の約束でもしたかのように言うのとを不快に思った。まだ、十九か二十の妙齢の処女が、こうした言葉を口にするのを怪しんだ。時雄は時代の
推移ったのを今更のように感じた。当世の女学生
気質のいかに自分等の恋した時代の処女気質と異っているかを思った。
勿論、この女学生気質を時雄は主義の上、趣味の上から喜んで見ていたのは事実である。昔のような教育を受けては、到底今の明治の男子の妻としては立って行かれぬ。女子も立たねばならぬ、意志の力を十分に養わねばならぬとはかれの持論である。この持論をかれは芳子に向っても
尠からず鼓吹した。けれどこの新派のハイカラの実行を見てはさすがに
眉を
顰めずにはいられなかった。
男からは
国府津の消印で帰途に
就いたという
端書が着いて翌日三番町の姉の家から届けて来た。居間の二階には芳子が居て、呼べば直ぐ返事をして下りて来る。食事には三度三度膳を並べて
団欒して食う。夜は明るい
洋燈を取巻いて、
賑わしく面白く語り合う。靴下は編んでくれる。美しい笑顔を絶えず見せる。時雄は芳子を全く占領して、とにかく安心もし満足もした。細君も芳子に恋人があるのを知ってから、危険の念、不安の念を全く去った。
芳子は恋人に別れるのが
辛かった。成ろうことなら一緒に東京に居て、時々顔をも見、言葉をも交えたかった。けれど今の際それは出来難いことを知っていた。二年、三年、男が同志社を卒業するまでは、たまさかの
雁の
音信をたよりに、一心不乱に勉強しなければならぬと思った。で、午後からは、以前の如く
麹町の某英学塾に通い、時雄も小石川の社に通った。
時雄は夜などおりおり芳子を自分の書斎に呼んで、文学の話、小説の話、それから恋の話をすることがある。そして芳子の為めにその将来の注意を与えた。その時の態度は公平で、率直で、同情に富んでいて、決して泥酔して
厠に寝たり、地上に横たわったりした人とは思われない。さればと言って、時雄はわざとそういう態度にするのではない、女に
対っている
刹那――その愛した女の歓心を得るには、いかなる犠牲も甚だ高価に過ぎなかった。
で、芳子は師を信頼した。時期が来て、父母にこの恋を告ぐる時、旧思想と新思想と衝突するようなことがあっても、この恵深い師の承認を得さえすればそれで沢山だとまで思った。
九月は十月になった。さびしい風が裏の森を鳴らして、空の色は深く
碧く、日の光は
透通った空気に
射渡って、夕の影が濃くあたりを
隈どるようになった。取り残した
芋の葉に雨は終日
降頻って、
八百屋の店には
松茸が並べられた。垣の虫の声は露に衰えて、庭の
桐の葉も
脆くも落ちた。午前の中の一時間、九時より十時までを、ツルゲネーフの小説の解釈、芳子は師のかがやく眼の下に、机に
斜に坐って、「オン、ゼ、イブ」の長い長い物語に耳を傾けた。エレネの感情に
烈しく意志の強い性格と、その悲しい悲壮なる末路とは
如何にかの女を動かしたか。芳子はエレネの恋物語を自分に引くらべて、その身を小説の中に置いた。恋の運命、恋すべき人に恋する機会がなく、思いも懸けぬ人にその一生を任した運命、実際芳子の当時の心情そのままであった。須磨の浜で、ゆくりなく受取った
百合の花の一葉の端書、それがこうした運命になろうとは夢にも思い知らなかったのである。
雨の森、闇の森、月の森に向って、芳子はさまざまにその事を思った。京都の夜汽車、
嵯峨の月、
膳所に遊んだ時には湖水に夕日が美しく射渡って、旅館の中庭に、
萩が絵のように咲乱れていた。その二日の遊は実に夢のようであったと思った。続いてまだその人を恋せぬ前のこと、須磨の海水浴、故郷の山の中の月、病気にならぬ以前、
殊にその時の
煩悶を考えると、
頬がおのずから
赧くなった。
空想から空想、その空想はいつか長い手紙となって京都に行った。京都からも
殆ど隔日のように厚い厚い封書が届いた。書いても書いても尽くされぬ二人の情――余りその文通の
頻繁なのに時雄は芳子の不在を
窺って、監督という口実の下にその良心を抑えて、こっそり机の
抽出やら
文箱やらをさがした。捜し出した二三通の男の手紙を走り読みに読んだ。
恋人のするような甘ったるい言葉は到る処に満ちていた。けれど時雄はそれ以上にある秘密を捜し出そうと苦心した。
接吻の
痕、性慾の痕が何処かに
顕われておりはせぬか。神聖なる恋以上に二人の間は進歩しておりはせぬか、けれど手紙にも解らぬのは恋のまことの消息であった。
一カ月は過ぎた。
ところが、ある日、時雄は芳子に宛てた一通の端書を受取った。英語で書いてある端書であった。何気なく読むと、一月ほどの生活費は準備して行く、あとは東京で衣食の職業が見附かるかどうかという意味、京都田中としてあった。時雄は胸を
轟かした。平和は一時にして破れた。
晩餐後、芳子はその事を問われたのである。
芳子は困ったという風で、「先生、本当に困って
了ったんですの。田中が東京に出て来ると云うのですもの、私は二度、三度まで止めて遣ったんですけれど、何だか、宗教に従事して、虚偽に生活してることが、今度の動機で、すっかり
厭になって了ったとか何とかで、どうしても東京に出て来るッて言うんですよ」
「東京に来て、何をするつもりなんだ?」
「文学を遣りたいと――」
「文学? 文学ッて、何だ。小説を書こうと言うのか」
「え、そうでしょう……」
「馬鹿な!」
と時雄は一
喝した。
「本当に困って了うんですの」
「
貴嬢はそんなことを勧めたんじゃないか」
「いいえ」と烈しく首を振って、「私はそんなこと……私は今の場合困るから、せめて同志社だけでも卒業してくれッて、この間初めに申して来た時に
達って止めて遣ったんですけれど……もうすっかり独断でそうして了ったんですッて。今更取かえしがつかぬようになって了ったんですッて」
「どうして?」
「神戸の信者で、神戸の教会の為めに、田中に学資を出してくれている
神津という人があるのですの。その人に、田中が宗教は自分には出来ぬから、将来文学で立とうと思う。どうか東京に出してくれと言って遣ったんですの。すると大層怒って、それならもう構わぬ、勝手にしろと言われて、すっかり支度をしてしまったんですって、本当に困って了いますの」
「馬鹿な!」
と言ったが、「今一度留めて遣んなさい。小説で立とうなんて思ったッて、とても駄目だ、全く空想だ、空想の極端だ。それに、田中が
此方に出て来ていては、貴嬢の監督上、私が非常に困る。貴嬢の世話も出来んようになるから、
厳しく止めて遣んなさい!」
芳子は
愈〻困ったという風で、「止めてはやりますけれど、手紙が行違いになるかも知れませんから」
「行違い? それじゃもう来るのか」
時雄は眼を
睜った。
「今来た手紙に、もう手紙をよこしてくれても行違いになるからと言ってよこしたんですから」
「今来た手紙ッて、さっきの端書の又後に来たのか」
芳子は
点頭いた。
「困ったね。だから若い空想家は駄目だと言うんだ」
平和は再び
攪乱さるることとなった。