六 飯びつ


「ご飯だよ。」
 翌朝次郎が、ぽつねんと人気ひとけのない座敷の縁に腰をかけて、庭石を見つめていた時に、台所の方から母の声がきこえた。しかし、彼は動かなかった。それは、その声が彼を呼んでいるようには聞えなかったし、かりに彼を呼んでいるとしても、そんな遠方からの呼び声に応じて出て行くのが変に思えたからである。
 やがて、家じゅうの者が茶の間に集まったらしく、話し声が賑やかになり、茶碗ちゃわんのふれる音や、鍋をかする音などが聞えて来た。
 次郎は、誰かが気づいて自分を呼びに来るのを、心待ちに待っていた。しかし、呼びに来ても、飛びついて行くようなふうは見せたくない、と思っていた。
 ところが、十分経っても、二十分経っても、誰も彼を呼びには来なかった。そして、そのうちに、恭一と俊三とは、すでに飯をすましたらしく、口端を手でこすりながら彼の方に走って来た。
「ご飯どうして食べない。」
 恭一は次郎のそばまで来るとたずねた。次郎は庭の方を見たきり、振り向こうともしなかった。
「ご飯たべない、ばかあ――」
 俊三の声である。次郎はそれでも默っていた。すると俊三は、ちょこちょこと寄って来て、うしろから片手を次郎の肩にかけ、その耳元で、
「馬鹿やあい。」
 と言った。次郎はいきなり右ひじで俊三を突きのけた。俊三はよろよろと縁をよろけて、敷居につまずき、座敷の畳の上に仰向けに倒れた。
 彼の泣き声は、家じゅうに響き渡った。
 お民が出て来て、恭一に言った。
「どうしたんだえ。」
「次郎ちゃんが突き倒したんだい。」
「次郎が? どうして?」
「僕知らないよ。」
 恭一は神経質らしく、お民と次郎とを見比べながら答えた。
 お民は、しばらく次郎をうしろからじっと睨めつけていたが、何と思ったのか、そのまま俊三を抱き起こして、茶の間の方に行ってしまった。
 恭一もすぐそのあとについた。
 次郎は、また一人でぽつねんと庭を眺めた。
 そのうちに、彼はゆうべの寝不足のため、うつらうつらし出した。そうしてとうとう縁側から地べたにすべり落ちてしまった。
 幸いに大した痛みを覚えなかった。彼は起き上ってあたりを見まわしたが、誰もいなかったので、安心した。そして、跣足はだしのまま植込をぬけて、隣との境になっている孟宗竹の藪に這入ると、そのままごろりと寝ころんだ。
 そこで彼は涼しい風に吹かれながら、ぐっすり眠った。眼がさめたのは昼過ぎだった。腹がげっそりと減っている。それに何よりも喉が乾いて堪えられないほどだ。
 彼は起き上ると、八方に眼を配りながら、座敷の縁に忍びよった。そして縁板に足のよごれをにじりつけてから、足音を立てないように茶の間の方に行った。
 そこには誰もいなかった。もう昼飯がすんだあとらしく、ちゃぶ台の上には薬罐やかん飯櫃おひつだけが残されていて、蠅が五、六匹しずかにとまっている。
 彼はあたりを見まわしてから、薬罐やかんから口づけに、冷えた渋茶をがぶがぶと飲んだ。それから飯櫃の蓋をとって、いきなりそのなかに手を突っこんだ。
「誰だい。」
 だしぬけに台所からお民の声がきこえた。次郎はびっくりして手を引いたが、その五本の指には飯が一握りつかまれていた。彼はあわててそれを口に押しこみながら、座敷の方に逃げ出そうとした。
 しかし、もうそれは遅かった。座敷の敷居をまたぐか、またがないかに、彼は襟首をお民につかまれていたのである。
「お前は、お前は……」
 お民の声は、怒りとも悲しみともつかぬ感情で、ふるえていた。
 それから次郎は、ちゃぶ台の前に引き据えられて、ながいことお民と対坐しなければならなかった。
「ここはお前の生まれた家なんだよ。」
 説教は、彼が昨夜来何度も聞かされた言葉で始まった。
「ここの家はね、こんな田舎に住んでいても、れっきとした士族なんだよ。」
 これも次郎が聞きあきるほど聞いた文句であった。もっとも士族が何だかは、今だにはっきりしない。
「士族の子ともあろうものが、何という情ない真似をするんだよ。……強情で食べないつもりなら、いっそ二日でも三日でも食べないでいたらいいじゃないの。ご飯時には寄りつかないで、竹藪の中に寝たりしているくせに、こっそり忍んで来て手づかみで食べるなんて、思っただけでも、このお母さんはぞっとするよ。」
 次郎は、まだ指先にくっついている飯粒を、どう始末していいかわからないで、もじもじと手を動かした。
「それ、その手をご覧、それを見たら、ちっとは自分でも恥ずかしい気がするだろう。」
 次郎は何と思ったか、ぴたりと手を動かすのをやめてしまった。
「お前はね……」
 と、急にお民の声がやさしくなった。
「丁度八月十五夜の月が出る頃に生まれたので、今にきっと恭一よりも俊三よりも偉くなるだろうって、お父さんはじめ、みんなでおっしゃっているんだよ。」
 次郎は、これまでお浜が人の顔さえ見ると、よくそんなことを言っていたのを覚えている。そして彼は、そんな話が出ると、いつも内心得意になっていたが、母の口から今はじめてそれを聞かされて、急にそれがつまらないことのように思われ出した。同時に、彼は校番のむさ苦しい部屋が、無性むしょうに恋しくなって来た。
(偉くならなくてもいい。)
 そんな感じが、はっきりとではないが、彼の心を支配した。一人ぼっちで、しかも、どちらを向いても突きあたるような気持でいるのが、彼にはたまらなく嫌だったのである。
「お浜のところへは、もうどんな事があっても帰さないよ。それも、みんなお前に偉くなって貰いたいと思うからのことだよ。……このお母さんの心が、お前にわかるかい。」
 次郎には、もうお浜のところに帰れないということだけがわかった。
 彼は今更のように悲しくなって、思わず涙をぽたぽたと膝の上に落した。飯粒のついた指が、急いでそれを拭いた。
 お民は昨夜来はじめて次郎の涙を見て、それを自分の説教の効果だと信じた。そこで、簡単に説教のしめくくりをつけると、すぐ立ち上って、次郎のために椀と皿と箸を用意した。
 次郎の涙は容易にとまらなかった。彼は飯をかき込みながら、しきりに息ずすりした。袖口そでくちと手の甲が、涙と鼻汁とで、ぐしょぐしょに濡れた。お副食かずには小魚の煮たのをつけて貰ったが、泣きじゃくってうまくむしれなかったので、一寸箸をつけたぎりだった。それでも飯だけは四杯かえた。
 お民は、その間そばに坐って、次郎のために飯をよそってやった。
 それはむろん彼女の母としての愛情を示すためであった。しかし次郎の方から言うと、それはちっともありがたいことではなかった。なぜなら、もし彼女がそばにいなかったら、彼は四杯どころか、五杯でも六杯でも食べたであろうから。
 何よりも次郎の心を刺激したのは、恭一と俊三とが手をつないでやって来て、縁側から、珍しそうにその場の様子を眺めていたことであった。
「お前たちは、あっちに行っておいで。」
 お民は何度も二人をたしなめたが、二人は平気な顔をして、ちっとも動こうとはしなかった。飯が存分に食べられなかったのは、一つはそのためでもあったのである。
 飯がすむと、次郎はまたしばらくの間、母の説教をきいた。説教をきいている間に、涙がひとりでに乾いて、彼の心は妙に落ちついて来た。同時に、恭一と俊三とに対する憎悪の念が、冷たく彼の胸の底ににじむのを覚えた。

七 玉子焼


「次郎、また一人でそんな所にいるのかい。ほんとに、どうしたっていうんだね。早くこちらに来て、お父さんにご挨拶をするんですよ。」
 お民に、そう声をかけられた時には、次郎は、暮れかかった庭の木立の間を、一人でぶらつきまわっていたのであった。
 父の俊亮は、猿股一つになって、お民に蚊を追わせながら、座敷の縁で酒をのんでいた。そのそばには恭一も俊三も坐っていた。
 次郎にとっては、彼の父は、まだ何とも見当のつかない存在であった。というのは、父は、この村から三四里も離れたある町で小役人を勤めていて、土曜から日曜にかけてしか帰って来なかったので、次郎は里子時代に、めったに彼と顔をあわせる機会がなかったし、まして、彼に言葉をかけて貰った記憶などほとんどなかったからである。
 次郎は、しかし、父の顔つきだけは、いつとはなしに、はっきり覚えこんでいた。そして、その顔は、たしかに家じゅうの誰のよりも親しみやすい顔だった。むろん、お浜の亭主の勘作などにくらべると、ずっとやさしそうに思えたのである。
 で、次郎は、今日母から、
「夕方にはお父さんが帰っていらっしゃるんだよ。次郎がここに帰って来てから初めてだね。」
 と言われた時には、一刻も早く逢ってみたいような気になった。
 そして、いよいよ夕方になって、父を迎えるために、みんなが庭に打水を始めた時には、次郎は珍しく恭一のあとについて、柄杓ひしゃくで庭石に水をまいて歩いたりしたのだった。
 それでも、彼は、いざ父が帰ったと聞くと、妙に気おくれがして、みんなと一緒に玄関にとび出して行こうとはしなかった。それどころか、彼はその騒ぎの間に、一人でこっそり、庭の植込に這入りこんでしまったのである。そして、父が服を脱いだり、湯殿に入ったり、母がお膳の支度をして、それを座敷の縁側に運んだり、恭一と俊三とがはしゃぎ廻ったりしている様子を、じっとそこから覗いていた。
 しかし覗いているうちに、彼はだんだんつまらなくなって来た。もともと彼は、父に隠れる気など少しもなかったのだが、つい妙なはずみで、こんなことになってしまった。それに、困ったことには、誰も自分が見えないのを気にかけている様子がない。かといって、今更植込の中から、のこのこ出て行くのも変だ。彼は自分が庭にいるのを、何とかして皆に気づかせたいと思った。で、父がいよいよ晩酌ばんしゃくをはじめた頃に、わざと足音を立てて庭をうろつき出していたのである。
 彼は母に声をかけられたときには、しめたと思った。それなら、その声に応じてすぐ出て行くのかと思うと、そうでもなかった。母の言葉は彼が素直に出て行くには、少し強すぎたのである。
 彼は母の声をきくと、すぐ、くるりと座敷の方に背を向けて立木によりかかってしまった。
「次郎ちゃん、父ちゃんが帰ったようっ。」
 恭一が彼を呼んだ。
「父ちゃんが帰ったようっ。」
 俊三がそれをまねた。
 次郎は皆の視線を自分の背中に感じていよいよ動けなくなってしまった。
「すぐあれなんですもの。……全くどうしたらいいのか、私、わからなくなっちまいますわ。」
「なあに、今日は、はじめてなもんだから、きまり悪がってるんだよ。」
「そんなしおらしい子ですと、私ちっとも心配いたしませんけど、なかなかそんなじゃありませんわ。」
「やはり家になじまないからさ。そのうち、おいおいよくなるだろう。」
「そうでしょうか知ら。」
「何しろ、あれにとつては、この家はまるで他人の家も同然だろうからね。」
「そりゃ、そうですけれど。……でも、あんまりですもの、何かお浜に強く言って聞かされて来たんではないかと思いますの。」
「まさか。……かりに言って聞かされたにしても、あんな子供に、そう巧く芝居が打てるもんじゃない。」
「すると、あの子の性質なんでしょうか。」
「性質ということもあるまいが、自然ああなるんだね、これまでのいきさつから。」
「このままでいいのでしょうか。」
「いいこともあるまいが、当分仕方がないさ。」
「まあ、貴方はのんきですわ。あたし、一刻もじっとして居れない気がするんですのに。」
「そんなにやきもきするからなおいけないんだよ。」
「では、どうすればいいんですの。」
「つまり、教育しすぎないことだね。」
「だって、私には放ってなんか置けませんわ。第一あの子の将来を考えますと……」
「将来を考えるから、無理な教育をしないがいいと言うんだよ。」
「でも……そりゃ浅ましい真似をするんですよ。人が見ていない時に、お飯櫃に手を突っこんで、ご飯を食べたりして。」
「何もかも、もうしばらく眼をつぶるんだね。それよりか、差別待遇をしないように気をつけることだ」
「そんな御心配はいりませんわ。」
「形の上だけでは、どうなり公平にやっていても、何しろこんな事は気持が大切だからね。」
「気持って言いますと?」
「つまり親としての自然の愛情さ。」
「まあ貴方はそんなことを心配していらっしゃるの。次郎だって自分の腹を痛めた子じゃありませんか。」
「自分の子でも、乳を与えない子は親しみがうすいって言うじゃないか。」
「私には、そんなことありませんわ。そりゃ教育のない人のことでしょう。」
「そうか。……ところでお祖母さんはどうだね、あれに対して。」
「そりゃ、あの子を家に呼ぶのでさえ、こころよく思っていらっしゃらなかった位ですから……」
「女は何と言っても感情的だからね。」
「すると、私もお祖母さんと同じだとおっしゃるの。」
「お祖母さんとはいくらか違うだろうが……」
「いくらかですって?……貴方は私をそんなに不信用なすっていらっしゃるの。」
「そうむきになるなよ。あれに聞えても悪い。それよりか、もう一度呼んでみたらどうだね。」
「貴方の、公平なお声で呼んでみて下すったら、どう?」
「…………」
 次郎は全身の神経を耳に集中して、二人の話を聞こうとしたが、その大部分は聞きとれなかった。聞えてもその意味をはっきり掴むことは出来なかっただろう。しかし、彼は何かしら、父が自分に対して好意を寄せているような気がしてならなかった。彼は父が今にも声をかけてくれるかと、ひそかに待っていたが、駄目だった。
 で、彼はそっと向きをかえて座敷の方をうかがった。――もうその時には、日はとっぷりと暮れて、向こうから見られる心配がなかったのである。
 父は默りこくって酒を飲んでいる。
 母はそっぽを向いて、やけに団扇だけをばたばたさせている。
「恭一、お前次郎をつれて来い。」
 だしぬけに父の声が、大きく聞えた。
 恭一は、気味わるそうに、しばらく植込をすかしていたが、しぶしぶ立ち上って、次郎の方にやって来た。
「父さんが呼んでるよ。」
 恭一は次郎に近づくと、用心深くその手首をつかんで引っぱった。次郎は、恭一に手を握られるのを、あまり心よくは思わなかった。しかしこれ以上ぐすってみる勇気も持合わせなかったので、引っぱられるままに縁側から上って来た。
 お民はじろりと彼の顔を見ただけで、何とも言わなかった。次郎は自分の坐る場所がわからなくて、右の人差指を口に突っこみながら、しばらく柱のかげに立っていた。
「次郎、ここに坐れ。」
 俊亮は自分のお膳の前をした。その声の調子は乱暴だった。しかし次郎の耳には、少しも不愉快には響かなかった。彼はお民の眼をさけるように、遠まわりをして、指された場所に坐った。
 俊亮は、さかずきをあげながら、三人の子を一通り見較べた。どう見ても次郎の顔の造作が一番下等である。眼付や口元が、どこか猿に似ている。おまけに色が真っ黒で、頬ぺたには、斜に鼻汁の乾いたあとさえ見える。彼は一寸変な気がした。しかし、そのために次郎をいやがる気持には少しもなれなかった。むしろ、かわいそうだという気が、しみじみと彼の胸を流れた。彼はにこにこしながら、元気よく言った。
「大きくなったなあ。体格はお前が一等だぞ。あすはお父さんが休みだから、大川につれて行ってやろう。泳げるかい。」
 次郎は、しかし、返事をしなかった。彼はこれまで、学校の近くの沢で、桶につかまって泳いだ経験しかなかったのである。
「父さん、僕も行くよ。」
「僕もよ。」
 恭一と俊三とが、はたから眼を輝やかして言った。しかし俊亮は、それには取りあわないで、次郎の方ばかり見ながら、
「次郎、どうだい、いやか、いやだったら大川は止してもいい。次郎は何が一番好きかな。明日は父さんは次郎の好きな通りにするんだから、何でも言ってごらん。」
 みんなの視線が一せいに次郎の顔に集まった。次郎はこの家に来てから、何かにつけ、みんなに見つめられるのが、何よりも嫌だったが、この時ばかりは、全く別の感じがした。彼は父に答えるまえに、先ず母と兄弟たちの顔を見まわした。そしてのびのびと育った子供ででもあるかのような自由さをもって、いかにも歎息するらしく言った。
「僕、まだ本当には泳げないんだがなあ。」
 すると、恭一が、
「大川には、浅いところもあるんだよ。僕たち、いつもそこでしじみをとるんだい。」
「ほんとだい。」と、俊三が膝を乗り出した。
「泳げなきゃ、父さんが泳がしてあげる。なあに、じきに覚えるよ。」
 と、俊亮がそれにつけ足した。
 お民はまだ默っていた。次郎はいくぶんそれが気がかりだったが、
「そんなら僕行くよ」と、さっきからの自由さを失わないで答えた。
 そして、自分の一言で、明日の計画にきまりがついた時に、彼はしばらくぶりで、お浜の家にいた頃のような気分を味わった。
 間もなく俊亮は盃を伏せて、軽くお茶漬をかきこんだ。そして庭下駄を突っかけると、体操のような真似をしながら、縁台のまわりを、ぐるぐる歩きまわった。
「もっとお涼みになる?」
 お民がやっと口をきいた。
「うむ、縁台に茣蓙ござを敷いてくれ。」
 お民が茣蓙を取りに奥に這入ると、恭一と俊三とはすぐそのあとを追った。次郎は、まだひとりで縁側に坐ったままでいたが、その時ふと彼の眼にしみついたのは、父のお膳に残された一切れの卵焼であった。
 おおよそ次郎にとって、卵焼ほどの珍味は世界になかった。そして、お浜の家での彼の経験から、彼は、よほどの場合でないと、そんな珍味は口にされないものだと信じていた。ところがこの家では、お祖母さんが離室はなれで、おりおり卵の壺焼をこさえては、おやつ代りに恭一と俊三とに与えている。現に、今日の昼過ぎにも、二人がそれを食べながら、離室を出て来るのに、次郎は廊下で出過でっくわしたのである。彼はその時、つとめて平気を装ったが、二人の口から、温かく伝わって来る卵焼の香気をがされた時には、自分だけをのけ者にしている祖母に対して、燃えるような憎悪を感じ、これから先、どんなことがあっても、離室の敷居はまたぐまい、と決心したほどであった。
 その卵焼が、今彼の眼の前に、誰にも顧みられないで、冷たく皿の中にころがっている。彼は何としても自分を制することが出来なかった。
 しかし、彼は手を伸ばす前に、先す茶の間の方を見た。母が出て来るにはまだちょっと間がありそうだった。それから、庭を歩きまわっている父を見た。父は丁度あちら向きになって歩き出したところである。
 彼はすばやく卵焼を掴んで、口の中に押しこんだ。
「次郎、星が飛んだぞ。ほら。」
 次郎は、だしぬけに父にそう言われて、飛び上るほどびっくりした。そして、父は何も知らないで遠くの空を見ているんだと解ってからも、思い切って卵焼を噛むことが出来なかった。
「うむ……」
 彼は返事とも質問ともつかない妙な声を出した。そして、急いで縁先にうつ伏しになって、下駄を探すような恰好をしながら、忙しく口を動かした。
 彼が下駄をはいて、父のそばに立った時には、彼はもうけろりとしていた。たった今、のどを通ったばかりの卵焼のあと味が、まだ幾分口の中に残っているのを楽しみながら、彼は神妙らしく、父が見ている空の方向に視線を注いだ。
 そこへお民が茣蓙を運んで来て、それを縁台に拡げた。俊亮はすぐ、ごろりとその上に寝て団扇を使いはじめた。お民もその端に腰をおろしながら言った。
「次郎も、みんなと一緒に、就寝やすんだらいいじゃないの。」
 次郎は不服らしい顔をした。すると俊亮が傍から言った。
「まだ眠くはないさ。早いんだから。」
「でも外の子はもう就寝みましたよ。」
「馬鹿に早いじゃないか。……次郎はもう少し父さんのそばで涼んでいけ。」
「まあ、大そう次郎がお気に入りですこと。……では、次郎ここに掛けて、父さんのお相手をなさい。」
 次郎は最初遠慮がちに縁台に腰を下したが、間もなく父と三四寸の間隔をおいて、自分もごろりと横になった。彼はなぜか、父の真っ白な、ふっくらした裸に、自分の体をくっつけてみたくなった。彼の汗ばんだ体は、蚊にさされたところを掻くような恰好をしながら、じりじりと父にくっついて行った。
「汚ないっ。」
 俊亮はだしぬけに、びっくりするような声で呶鳴りながら、はね起きた。――彼は鷹揚おうようでなさけ深い性質に似合わす、一面神経質で潔癖なところがあり、他人の家で畳に手をついたりすると、帰ってから、何度も手を洗わないではいられない性質だった。
「どうなすったの。」
 さっきから、それとなく次郎の様子を見守っていたお民が、いやに落ちついて訊ねた。
「次郎のべとべとする体が、だしぬけにさわったもんだから、びっくりしたんだよ。」
 と、俊亮は、次郎にさわられた横腹のあたりを、団扇の先でしきりに撫でている。
 次郎は、変に淋しい気がした。彼は寝ころんだまま、じっと眼を据えて父を見た。すると、お民が言った。
「まあ、貴方にも呆れてしまいますわ。」
「何が……」
「かりにも、自分の子が汚ないなんて。」
「汚ないものは、汚ないさ。」
「それでも親としての愛情がおありですの。」
「何を言ってるんだ。それとこれとは違うじゃないか。馬鹿な。」
「男の親というものは、それだから困りますわ。いやに可愛がっていらっしゃるかと思うと、すぐそのあとで、子供の心を傷つけておしまいになるんですもの。」
「つまらん理窟を言うな。」
「貴方こそ屁理窟ばかりおっしゃってるんじゃありませんか。」
「いつ俺が屁理窟を言った。」
「ついさっきも、形よりは気持が大切だなんておっしゃったくせに。」
「それが屁理窟かい。」
「屁理窟ですわ。寄り添って来る自分の子を、汚ないなんて呶鳴りつけるような方が、そんなことおっしゃるんではね。」
「うむ……でも、俺には策略さくりゃくがないんだ。」
「おや、では私には策略があるとでもおっしゃるの。」
「あるかも知れないね。……しかし、俺はお前のことを言おうとしているんじゃない。」
 お民は歯噛みをするように、口をきりっと結んで、しばらく默っていたが、
「貴方は、策略さえ使わなければ、子供に対してどんなことを言ったり仕たりしてもいいとおっしゃるの。」
「心に本当の愛情さえあればね。」
「その愛情が貴方のはまるであてになりませんわ。」
「そうかね。だが、こんな話はあとにしよう。この子の前でこんなことを言いあうのは、よろしくない。お互の権威を落すばかりだからね。」
 お民は白い眼をして、ちらりと次郎を見たが、そのまま默ってしまった。俊亮は縁台をおりながら、
「それよりも、寝る前にもう一度行水をしたいんだが、湯があるかね。」
「風呂にまだ沢山残っていますわ。」
「そうか。――おい、次郎、お前も一緒に来い。父さんが綺麗に洗ってやる。」
 次郎は、聞いていて、何が何やらさっぱり解らなかった。ただ母が、自分のために父に対して抗議を申しこんだことだけが、たしかだった。かといって、彼はそのために父よりも母を好きになるというわけにはいかなかった。最初父に「汚ない」とどなられた時には、落胆もし、不平にも思ったが、二人の言いあいを聞いているうちに、やっぱり父の方に何か知ら温かいものがあるように感じた。で、父に「一緒に来い」と言われると、彼は何もかも打ち忘れて、はね起きる気になった。
 彼の心は、しかし、はね起きると同時にぴんと引きしまった。というのは、その時お民が縁側を上って行って、お膳をしまいかけたからである。
 次郎は卵焼のことが心配だった。もし母に気づかれたら、と思うと、彼は身動きすら出来なくなった。彼は、突っ立ってじっとお民の様子に注意した。
「おやっ。」
 お民は小声でそう叫ぶと、けげんそうに振り返って次郎の方を見た。次郎はしまったと思ったが、すぐそ知らぬ顔をして、眼をそらした。
「貴方、卵焼を残していらしったんでしょう。」
「うむ、残していたようだ。」
「それ、どうかなすったの。」
「どうもせんよ。」
「次郎におやりになったんではないでしょうね。」
「いいや……」
「どうも変ですわ。」
「卵焼ぐらい、どうだっていいじゃないか。」
 俊亮はちょっと首をかしげて次郎の顔を覗きながら言った。
「よかあありませんわ。」
 お民は冷やかにそう言って、また庭に下りた。
 そして、つかつかと次郎の前まで歩いて来ると、いきなりその両肩をつかんで、縁台に引きすえた。
「お前は、お前は、……こないだもあれほど言って聞かしておいたのに。……」
 お民は息を途切らしながら言った。
 次郎は、母に詰問されたら、父もそばにいることだし、素直すなおに白状してしまおうと思っていたところだった。しかし、こう始めから決めてかかられると、妙に反抗したくなった。彼は眼をえてまともに母を見返した。
「まあ、この子は。……貴方、この押しづよい顔をご覧なさい。これでも貴方は放っといていいとおっしゃるんですか。」
 お民の唇はわなわなとふるえていた。
 俊亮は、困った顔をして、しばらく二人を見較べていたが、
「お民、お前の気持はよくわかる。だが今夜は俺に任しとけ。……次郎、さあ寝る前に、もう一度行水だ。父さんについて来い。」
 そう言って彼は次郎の手を掴むと、引きずるようにして、庭からすぐ湯殿の方へ行った。
 湯殿に這入ってから、俊亮はごしごし次郎の体をこするだけで、まるで口を利かなかった。次郎は、すると、妙に悲しみがこみ上げて来た。そしてとうとう息ずすりを始めた。
 すると俊亮が言った。
「泣かんでもいい。だが、これから人が見ていないところでは、どんなにひもじくても物を食うな。その代り、人の見ている所でなら、遠慮せずにたらふく食うがいい。ねだりたいものがあったら、誰にでも思い切ってねだるんだ。いいか、父さんは意気地なしが大嫌いなんだぜ。」
 その夜、次郎は父のそばに寝た。無論寝小便も出なかったし、蚊にも刺されなかった。また、夜どおし父に足をもたせかけたりしたが、決して呶鳴られるようなことがなかった。彼はこの家に来て、はじめて本当の快い眠りをとることが出来たのである。

八 水泳


 翌日、俊亮は、早めに昼食をすますと、恭一と次郎をつれて大川に行った。ちょうど干潮時で、暗褐色の砂洲が晴れ渡った青空の下にひろびろと現れていた。
 三人は、やかましく行々子よしきりの鳴いている蘆間あしまをくぐって、砂洲に出た。そして、しばらく蜆を拾ったり、穴を掘ったりして遊んだ。
 次郎は、のびのびした気分になって、砂の上に大の字なりにた。
 温かい砂の底からしみ出て来る水の感触が、何ともいえない好い気持である。きらきらと光って眼の上を飛んでいく蜻蛉とんぼまでが、今日は珍しい世界のもののように思える。
 彼はうっとりとなって、一心に青空を見つめた。するとそこに、ぼうっと黒ずんだ小さな影のようなものが現れた。お玉杓子の恰好をしている。それがすうっと空を動いては、どこかで消える。眼を据えるとまた現れる。彼は幾度となくその影を逐った。逐っているうちに、いつの間にか夢のようにお鶴の顔が浮き出して来た。
 彼は眼をつぶった。すると、お浜、お兼、勘作と、つぎからつぎへ、校番室の暗い部屋で親しんだ人達の顔が思い出されて来た。彼は、甘いような悲しいような気分にすっかりひたり切って、そばに父や兄がいることさえ忘れてしまった。
「さあ、これから泳ぐんだ。」
 俊亮は立ち上って砂の上に四股しこを踏んだ。
「恭一は、もう随分泳げるだろうね。」
「まだ少しだよ。」
「父さんが見てやる。泳いでごらん。」
 恭一は、用心深そうに、そろそろ深みに這入って行った。そして、水が乳首の辺まで来たところで、彼は浅い方に向かってほんの一間ばかり、犬かきをやって見せた。
 次郎は熱心にそれを見つめていた。
「うむ、大ぶ上手になった……さあ今度は次郎だ。」
 次郎は、父の顔と水を見くらべながら、ちょっと尻ごみした。
「大丈夫だ。父さんが抱いてやる。」
 俊亮は、自分の両腕の上に次郎を腹這いさせて、ぐいぐいと深みにつれて行った。恐怖と安心とが、ごっちゃになって次郎の心を支配した。
「いいか、そうれ。……足をしっかり動かすんだ。手だけじゃいかん。……うむ。そうそう。……おっと、そう頭をもたげちゃ駄目だ。ちっとぐらい水をのんだって、死にゃせん。」
 俊亮はめっちゃくちゃに跳上る飛沫ひまつを、顔一ぱいに浴びながら、そろそろと次郎の体を前進させてやった。次郎は一所懸命だった。そして非常に愉快でもあった。
 しかし、その愉快さは長くはつづかなかった。それは、俊亮がだしぬけに、彼の両手を次郎の腹からはずしてしまったからである。
 次郎は、はっと思った瞬間に、顔を空に向けたが、もう間にあわなかった。彼はがぶりと水を飲んだ。鼻の奥から頭のしんにかけて、酸っぱいものがしみ込むような痛みを感じた。それからあと、彼は全く死物狂いだった。
 しかし、その死物狂いは、ほんの一秒か二秒ですんだ。そこは彼の腰の辺までしかない深さのところで、彼はすぐひとりで立ち上ることが出来たからである。
「わっはっはっ、苦しかったか。」
 俊亮が、すぐうしろで大きく笑った。次郎は声をあげて泣きたかったが、父の笑い声をきくと泣けなくなった。で、げえげえ水を吐き出したり、鼻汁をこすったりして、しばらくごまかしていた。
「沈むと思った時に、口をあいて顔を上げたりしちゃいかん。思い切って、息を止めてもぐるんだ。いいか次郎。ほら、父さんがやってみせる。」
 俊亮は顔を水に突っこんで、そのでぶでぶした真っ白な体を、蛙のように浮かして見せた。
「どうだい。」
 と、彼は顔をあげて、それを両手でつるりと撫でながら、
「じっとしていりゃ、ひとりでに浮くだろう。浮いたら今度は手足を動かしてみるんだ。顔をあげるのは一等おしまいだよ。……どうだい、もう一度やってみるか。」
 次郎は、流石さすがにすぐ「うん」とは言わなかった。そして、父から五六間もはなれた、ごく浅いところに行って、ひとりで頻りに顔を水に突っこみはじめた。俊亮は砂に腰をおろして、にこにこ笑いながら、それを眺めていた。
 最初の間、次郎の息は三秒とはつづかなかったが、だんだんやっているうちに、それが五秒となり、七秒となり、とうとう十秒ぐらいまで続くようになった。
「父さん、僕一人でやってみるから、見ていてよ。」
 そう言って彼は、へそぐらいの深さのところまでゆくと、蛙のように四肢をひろげて、体を浮かす工夫をした。無論父ほどはうまくゆかなかったが、二三回でどうなり浮くだけの自信は出来たらしかった。それからあと、彼はしきりに手足を動かしたり、顔を水面にあげたりする工夫をやり出した。
 俊亮は、背中が真赤にやけるのも忘れて、三四十分間ほども、それを見まもっていた。
 次郎は、しかし、結局顔をあげて泳げるまでにはなれなかった。それでも、顔を浸したままだと、一息に二間近くも進めるようになった。
「次郎、もう止せ。今日はそれでいい。この次には、きっと恭一よりうまく泳げるぞ。」
 俊亮は、次郎の物凄いねばりに、少なからず驚きながら、そう言って彼を制した。
 次郎は止すのがいささか不平だった。しかし、父が恭一をつれてさっさと土堤の方へ歩き出したのを見ると、彼も仕方なしにそのあとにいた。

     *

 夕方の食卓には、珍しく家じゅうの顔が揃った。いつもは離室に膳を運ばせることにしている老夫婦までが、ひさびさでこちらに出かけて来た。この二人に俊亮夫婦、子供三人、それにお糸婆さんと直吉を合わせて都合九人が、風通しのいい茶の間に集まって、にぎやかに食事をはじめた。
 食事中に俊亮は、今日の次郎の水泳ぶりを大袈裟げさ吹聴ふいちょうした。そして最後に、
「今日のようだと、次郎は何をやっても人に負けるこっちゃない。」
 そう言って愉快そうに次郎を顧みた。次郎は話の途中から、すっかり興奮しながらも、みんなのそれに対する受答えがどんなふうだか、知りたかった。彼は肴の骨をしゃぶりながら、始終盗むようにみんなの顔を見まわしていた。しかし彼は、予期に反して、誰からも彼の満足するような言葉を聞くことが出来なかった。
 お祖父さんは、始めから終りまで、無表情な顔をして「ほう、ほう」と言っているだけだった。お祖母さんは、たえず何かほかの話をしかけては、みんなの注意をかきみだした。お民は最後まで熱心に耳を傾けてはいたが、話が進むにつれて、むしろ不機嫌な顔つきになった。直吉は、次郎が水を呑んだ話のところで吹き出したきりだった。ただお糸婆さんだけが、
「まあ、次郎ちゃん、お偉いですね。」
 と言った。しかし、それも次郎の耳には、ほんの口先だけ俊亮にあいづちをうったものとしか聞えなかった。
 夕飯がすむと、間もなく俊亮は町にかえる支度をはじめた。
 次郎は妙に心が落ちつかなかった。で、すぐ表に飛び出して、父が出て来るのを三四町さきの曲り角にしゃがんで待っていた。日がちょうど落ちたばかりで、道はまだ十分に明るかった。
 父の自転車が、ごとごとと砂利道をころがって来るのを見ると、彼は立ち上って、
「父ちゃん!」と呼んだ。
「何だ、お前こんなところにいたのか。」
 俊亮は自転車をおりて、次郎の顔を無造作に撫でながら、
「もう六つ寝ると、また帰って来る。ひとりで大川に行くんじゃないぞ。父ちゃんがつれて行ってやるからな。」
 次郎は、ここで父を待っていたのが無駄ではなかったような気がして、嬉しかった。そして、父が再び自転車に乗って走って行く姿を、立ったまま永いこと見つめていた。

九 雑のう


 夏が過ぎた。次郎がこの家に来てから、まだやっと一ヵ月そこそこである。しかし、彼はだいぶ新しい生活に慣れて来た。
 慣れて来たといっても、それは決して、彼の気持が愉快に落ちついて来た、という意味ではない。
 彼は、絶えず用心深く家の人たちの動静をうかがった。また彼らの言葉のはしばしから、すばしこくその心を読むことに努めた。その点では、彼は来た当座よりも、ずっと卑怯になったように思える。
 しかし、また考えようでは、恐ろしく大胆になったとも言える。彼は、露見の恐れがないという自信さえつけは、しゃあしゃあと嘘もつき、思い切っていたずらもやった。もっとも、盗み食いだけは、どんなにいい機会に恵まれても、湯殿での父の言葉を覚えていて、断じてやらないことにした。――彼は、父だけは欺いてはならないような気がしていたのである。
 時として彼は、母や祖母の前で、ことさら殊勝なことを言ったり、したりしてみせた。無論そんなことで、母や祖母が、心から自分に対して好意を寄せるようになるだろう、とは期待していなかった。しかし彼らを油断させる何かの足しにはなると思ったのである。
 もし、周到な用意をもって、大胆に事を行うということが、それだけで人間の徳の一つであるならば、彼は、こうした生活の中で、すばらしい事上錬磨をやっていたことになる。しかし、策略だけの生活から、必然的に育つものの一つに残忍性というものがあるのだ!
 次郎は、毎日庭に出ては、意味もなく木の芽をみつぶした。花壇の草花にしゃあしゃあと小便をひっかけた。蜻蛉とんぼを着物にかみつかせては、その首を引っこ抜いた。蛙を見つけては、がさず踏み潰した。蛇が蛙を呑むのを、舌なめずって最後まで見まもり、呑んでしまったところをすぐその場で叩き殺した。隣の猫をとらえて、たらいをかぶせ、その上に煉瓦を三つ四つ積みあげて、一晩じゅう忘れていた。
 尤も、人間に対してだけは、彼は、それほどあからさまに残忍性を発揮することが出来なかった。というのは俊三以外の人間で、彼の手籠てごめになる人間は一人もいなかったし、俊三にしても、うっかり手を出すと、すぐに母に言いつけられるにきまっていたからである。
 ところで、兄の恭一に対してだけは、どうしてもじっとしておれない事情があった。
 恭一は九月になるとすぐ学校に通い出した。彼はもう二年生だったのである。このことは次郎に抑え切れない嫉妬心を起こさした。
(恭一は、毎日お浜に逢って、頭を撫でて貰ったり、やさしい言葉をかけて貰ったりしているのだ。)
 そう思うと、次郎の頭はかっとなる。何とかして、恭一が学校に行くのを邪魔してみたいものだと思う。
 ある晩、とうとう彼は一計を案じ出した。
 翌朝起きるとすぐ、彼は、恭一の学用品を入れた雑嚢ざつのうを抱えて、こっそり便所に行った。そして、大便をすますついでに、それを壺の中に放りこんでしまったのである。
 放りこむまでは、彼は冒険家が味わうような一種の興奮を覚えていた。しかし雑嚢がどしんと壺の中に落ちた瞬間、彼は取りかえしのつかないことをしてしまったと思った。そして、時がたつにつれて、発覚の心配がひしひしと彼の胸に食い入って来た。
 彼は胸の底に、かつて経験したことのない一種の心細さを覚えた。
 彼は、恭一が朝飯を食っている間に、一枚の古新聞紙をふところにして便所につづく廊下を何度もうろうろした。そして、あたりに気を配りながら、もう一度中に這入って、懐から新聞紙を取り出し、それを拡げて雑嚢の上に落した。
 それからあと、彼は落ちつき払って朝飯を食った。朝飯がすむと、裏の小屋に行って、直吉がまきを割っているのを、面白そうに眺めていた。
 ものの三十分も経ったころ、だしぬけに、母屋の方から恭一の泣き叫ぶ声がきこえて来た。お民の鋭い声がそれにまじった。つづいてお糸婆さんが、あたふたと裏口からこちらに走って来るのが見えた。
「どうしたんかね、次郎ちゃん。」と直吉が言った。
「どうしたんかね。」と、次郎も同じことを言いながら、袖口で鼻をこすった。それから、散らかった薪を拾っては、すでに隅の方に整理されている薪の上に積みはじめた。
「恭さんの学校道具を知りませんかな、次郎ちゃん。」
 と、お糸婆さんが、小屋の入口から、せきこんで声をかけた。
「知らんよ。」
 と、次郎は、薪を積むのに忙しい、といったふうを装った。
「恭さんは、ちゃんといつもの所に置いたと言いますがな。」
「僕知らんよ。」
「知っとるなら知っとると、早く言って下さらんと、学校が遅うなりますがな。」
「僕知らんよ。」
「ほんとに知らんかな。」
「知らんよ。」
「そんならそれでいいから、とにかく、お母さんとこまでお出でなさいな。」
「やぁだい。」
「でも、お母さんが呼んどりますよ。」
 次郎はそう言われるのが一番いやだった。彼は、母の命令に対して正面からそむくだけの勇気がまだどうしても出なかっただけに、一層いやだったのである。
 彼は、しかし、仕方なしに、しぶしぶお糸婆さんに手を引かれながら、母屋おもやの方に行った。子供部屋では、お民が気違いのように、そこいらじゅうを引っかきまわして、雑嚢を探していた。
 そのそばで、恭一は足をはだけて、泣きじゃくっていた。
 お民は、次郎の顔を見るなり、例によって高飛車たかびしゃにどなりつけた。
「次郎、早くお出し、どこへかくしたんだね。」
 次郎は、しかし、そうなるとかえって落ちついた。彼は徹頭徹尾とぼけ返って、「僕知らないよ」をりかえした。
 捜索そうさくは、座敷や、茶の間や、台所にまで拡がっていった。しかし、幸いなことに、便所の中まで探して見ようとする者は、誰もいなかった。
 証拠があがらない限りは次郎の勝利である。嫌疑けんぎがいかほど濃厚であろうと、それはかれの知ったことではない。
 時間は刻一刻と経った。彼はますます落ちついた。
 そして恭一は、本がなくては嫌だと言って、とうとうその日学校を休んでしまったのである。
 騒ぎがひととおり片づいてからも、重くるしい空気が永いこと家の中に漂った。
 お民は次郎の顔さえ見ると、ぐっと睨めつけた。そして、幾度となく離室に行ったり、台所に行ったりして、お祖母さんやお糸婆さんと、ひそひそ立ち話をした。恭一は、泣っ面をしながら、たえずその尻を追いまわしていた。
 次郎は、なるだけお民に近寄らない工夫をした。しかし、それとなくみんなの動静を窺うことを怠らなかった。とりわけ便所に出入りする人たちの顔つきに気をつけた。そしておりおりいやに狎々しい声で、恭一に話しかけたりした。
 夕食のあと、お民はもう一度念を押すように言った。
「次郎、ほんとうにお前知らないのかい。」
「僕知らないよ。」
 それから間もなく、お民は恭一をつれて何処かに出かけて行った。次郎はそれで万事けりがついたような気になって、ほっとした。同時に彼は、自分の計画が案外うまくいったのを内心得意に思った。
 尤も、その得意も、ほんの当日限りのものでしかなかった。というのは、その翌日から、恭一は新しい雑嚢に新しい学用品を入れて、いつものとおり嬉しそうに学校に出て行くことになったからである。
 しかも、数日の後には、次郎は、下肥しもごえを汲んでいた直吉の頓狂とんきょうな叫び声で、大まごつきをしなければならなかった。
「あっ。あった、あった。奥さん。坊ちゃんの雑嚢がありましたよ。」
 みんなは直吉の叫び声で、総立ちになって縁側に出た。
 直吉は、肥柄杓こえびしゃくの先に、どろどろのしずくの垂れている雑嚢をぶら下げて立っていた。
 次郎はそれを見ると、すばやく表の方に飛び出した。咄嗟とっさの場合、さすがの彼も、そうすることが彼の罪状の自白を意味するということには、まるで気がつかなかったのである。
 万事は明瞭になった。次郎は、その日じゅう何処かに身をかくしていたが、暮方になっておずおずと裏口から帰って来た。
 お民や、お祖母さんが、その晩彼をどう待遇したか、また彼がどんな態度で彼らに反抗したかは、読者の想像にまかせる。ただ、この事件以来、彼がこれまでより一層大胆になり、且つ細心になったことだけは、たしかである。