あとがき


 私は、これまでに、何冊かの本を書いたが、もし、一生のうちに一冊だけしか本が書けないものだとしたら、私は恐らくその一冊にこの「次郎物語」を選んだであろう。それほど私はこの本が書いてみたかったし、書いて置かなければならないような気がしていたのである。
 なぜか、とむきになってたずねられると、答えに困る。困るというのは答えられないからではない。答えたくないからである。答はこの物語の中に書いてあることだけでもう十分だし、それ以上に何か言えば、それは理窟になって、私の気持からは、かなり遠いものになってしまうからである。
 ただ次のことだけは言っておいてもいいように思う。それは、もし私が、子供をもった親たちを集めて、何か話をしなければならない場合があるとしたら、私は話をする代りに、默ってこの物語を差し出したい気になるだろう、ということである。
 ところで、この物語が、まだ原稿のままだった頃、幾人かの知人にそれを読んでもらったら、その一人は、読んで行くうちに、「これは愉快だ。」と言って、しばしば哄笑こうしょうした。私は淋しかった。他の一人は「これは君の自叙伝なのか。」と、根掘り葉掘り、詮議せんぎしはじめた。私は苦笑するよりほかなかった。更に他の一人は、「次郎は変質者だね。」と言った。これには私はかなり考えさせられた。そして、もしも次郎が、その人の言うとおり、変質者として描かれているならば、彼を広く一般の親たちに引きあわせるのは、大して意味のないことだと思いはじめたのである。
 で、その後、私は何回となく原稿を読みかえしてみた。しかし、私自身には、次郎が変質者であるとは、どうしても思えなかった。次郎は、誰が何と言おうと、他の多くの子供たちと同様に、食物をほしがり、大人の愛をほしがる子供に過ぎないのである。ただ、他の子供たちにくらべて、いくぶん勝気な点があるかも知れないが、それとても病的だというほどではない。もし彼に、何かそうした病的な点が発見されるとすれば、それは、すべての子供が、否、すべての人間が、本能的に求めている最も大切なものを、拒んではならない人によって拒まれているからだ、というの外ない。世の中には、どんな健全な人間をでも、一見変質者らしく振舞わせる二つの大きな原因があるが、その一つは食物の飢餓であり、もう一つは愛の飢餓である。――そう私は私自身で次郎を弁護したい。そして、彼を多くの親たちに引きあわせることは、やはり決して無駄ではないと思うのである。

     *

 この物語の原稿を見た知人の中には「君は、その年になって小説を書きはじめたのか。」と、私の顔を穴のあくほど見つめながらたずねた人がある。私には、それが驚歎の言葉のように聞えたし、また非難の言葉のようにも聞えた。
 若いころ、ちょっぴり詩や歌をひねり、その後二十年間も地方をまわって学校教育に没頭し、五十近くになってから東京にまい戻って、尓来じらい十年間、社会教育方面の仕事のために、南船北馬している私である。その私が、今更小説に野心を持ち出したとしたら、なるほど驚歎にも値するだろうし、また無論非難されるのが当然であろう。ところで、実をいうと、私自身としては、小説を書く気でこの本を書いたのではないのである。万一にも、この物語の形式が、小説というものの規準に合しているとすれば、なるほど私は小説を書いたことになるだろう。しかし、私にとっては、それが小説になっているか否かは全く問題ではない。私は、ただ、私の書きたいことをそれにふさわしい形式で表現してみたいと思っただけなのである。それに、元来私は、何かの規準を設けて、小説と小説でないものとを区別しようとする考えを、全く無用だとさえ思っている。だから、私が小説に野心があるとか、ないとか、或いは、私の書いたものが小説になっているとか、いないとかいう理由で、私をほめたり、くさしたりする人があっても、それは私にとって全くかかわりのないことなのである。
 私の願いは、私の書いたものを、一人でも多く読んでもらいたいということだけである。私は、この本を世の親たちに読んでもらいたいばかりでなく、また児童相手の教育者や、児童心理の研究者にも読んでもらいたい。そして、もし文芸作家、乃至文芸批評家に読んでもらって、私の表現技術が、この物語の内容に適当であるか否かについて教えてもらうことが出来れば、それこそ望外の仕合わせである。

  昭和十六年二月十日
著者