(あなたまだ八里あまりでございますよ。)
(そのほかに別に泊めてくれますうちもないのでしょうか。)
(それはございません。)といいながらたたきもしないですずしい目でわしの顔をつくづく見ていた。
(いえもう何でございます、実はこの先一町行け、そうすれば上段のへやに寝かして一晩あおいでいてそれで功徳くどくのためにする家があるとうけたまわりましても、全くのところ一足も歩行あるけますのではございません、どこの物置ものおきでも馬小屋のすみでもよいのでございますから後生ごしょうでございます。)とさっき馬がいなないたのは此家ここより外にはないと思ったから言った。
 婦人おんなはしばらく考えていたが、ふとわきを向いて布のふくろを取って、ひざのあたりに置いたおけの中へざらざらと一幅ひとはば、水をこぼすようにあけてふちをおさえて、手ですくって俯向うつむいて見たが、
(ああ、お泊め申しましょう、ちょうどいてあげますほどお米もございますから、それに夏のことで、山家は冷えましても夜のものにご不自由もござんすまい。さあ、ともかくもあなた、お上り遊ばして。)
 というと言葉の切れぬ先にどっかと腰を落した。婦人おんなはつと身を起して立って来て、
(お坊様、それでござんすがちょっとお断り申しておかねばなりません。)
 はっきりいわれたのでわしはびくびくもので、
(はい、はい。)
(いいえ、別のことじゃござんせぬが、わたしくせとして都の話を聞くのがやまいでございます、口にふたをしておいでなさいましても無理やりに聞こうといたしますが、あなた忘れてもその時聞かして下さいますな、ようござんすかい、私は無理におたずね申します、あなたはどうしてもお話しなさいませぬ、それを是非にと申しましてもっておっしゃらないようにきっと念を入れておきますよ。)
 と仔細しさいありげなことをいった。
 山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人おんなの言葉とは思うたが保つにむずかしいかいでもなし、わしはただうなずくばかり。
(はい、よろしゅうございます、何事もおっしゃりつけはそむきますまい。)
 婦人おんな言下ごんか打解うちとけて、
(さあさあきたのうございますが早くこちらへ、おくつろぎなさいまし、そうしてお洗足せんそくを上げましょうかえ。)
(いえ、それには及びませぬ、雑巾ぞうきんをお貸し下さいまし。ああ、それからもしそのお雑巾次手ついでにずッぷりおしぼんなすって下さるとたすかります、途中とちゅうで大変な目にいましたので体を打棄うっちゃりりたいほど気味が悪うございますので、一ツ背中をこうと存じますが、恐入おそれいりますな。)
(そう、あせにおなりなさいました、さぞまあ、お暑うござんしたでしょう、お待ちなさいまし、旅籠はたごへお着き遊ばして湯にお入りなさいますのが、旅するお方には何よりご馳走ちそうだと申しますね、湯どころか、お茶さえろくにおもてなしもいたされませんが、あの、この裏のがけを下りますと、綺麗きれいながれがございますからいっそそれへいらっしゃッてお流しがよろしゅうございましょう。)
 聞いただけでも飛んでも行きたい。
(ええ、それは何より結構でございますな。)
(さあ、それではご案内申しましょう、どれ、ちょうど私も米をぎに参ります。)とくだんおけ小脇こわきかかえて、縁側えんがわから、藁草履わらぞうり穿いて出たが、かがんで板縁いたえんの下をのぞいて、引出したのは一足の古下駄げたで、かちりとあわしてほこりはたいてそろえてくれた。
(お穿きなさいまし、草鞋わらじはここにお置きなすって、)
 わしは手をあげて、一礼して、
(恐入ります、これはどうも、)
(お泊め申すとなりましたら、あの、他生たしょうえんとやらでござんす、あなたご遠慮を遊ばしますなよ。)まず恐しく調子がいいじゃて。」


「(さあ、私にいてこちらへ、)と件の米磨桶こめとぎおけ引抱ひっかかえて手拭てぬぐいを細い帯にはさんで立った。
 髪はふっさりとするのをたばねてな、くしをはさんでかんざしめている、その姿のさというてはなかった。
 わしも手早く草鞋をいたから、早速古下駄を頂戴ちょうだいして、縁から立つ時ちょいと見ると、それ例の白痴殿ばかどのじゃ。
 同じくわしかたをじろりと見たっけよ、舌不足したたらず饒舌しゃべるような、にもつかぬ声を出して、
ねえや、こえ、こえ。)といいながらだるそうに手を持上げてその蓬々ぼうぼうと生えた天窓あたまでた。
(坊さま、坊さま?)
 すると婦人おんなが、しもぶくれな顔にえくぼを刻んで、三ツばかりはきはきと続けて頷いた。
 少年はうむといったが、ぐたりとしてまたへそをくりくりくり。
 わしは余り気の毒さに顔も上げられないでそっと盗むようにして見ると、婦人おんなは何事も別に気にけてはおらぬ様子、そのまま後へいて出ようとする時、紫陽花あじさいの花のかげからぬいと出た一名の親仁おやじがある。
 背戸せどから廻って来たらしい、草鞋を穿いたなりで、胴乱どうらん根付ねつけ紐長ひもながにぶらりとげ、銜煙管くわえぎせるをしながら並んで立停たちどまった。
和尚おしょう様おいでなさい。)
 婦人おんなはそなたを振向いて、
(おじ様どうでござんした。)
(さればさの、頓馬とんまで間の抜けたというのはあのことかい。根ッから早やきつねでなければ乗せ得そうにもないやつじゃが、そこはおらが口じゃ、うまく仲人なこうどして、二月ふたつき三月みつきはお嬢様じょうさまがご不自由のねえように、翌日あすはものにしてうんとここへかつぎ込みます。)
(お頼み申しますよ。)
(承知、承知、おお、嬢様どこさ行かっしゃる。)
(崖の水までちょいと。)
(若い坊様連れて川へ落っこちさっしゃるな、おらここに眼張がんばって待っとるに、)と横様よこざまに縁にのさり。
貴僧あなた、あんなことを申しますよ。)と顔を見て微笑ほほえんだ。
(一人で参りましょう、)とわき退くと、親仁おやじはくっくっと笑って、
(はははは、さあ、早くいってござらっせえ。)
(おじ様、今日はお前、めずらしいお客がお二方ござんした、こういう時はあとからまた見えようも知れません、次郎さんばかりでは来た者が弱んなさろう、わたしが帰るまでそこに休んでいておくれでないか。)
(いいともの。)といいかけて、親仁おやじは少年のそばへにじり寄って、鉄挺かなてこを見たようなこぶしで、背中をどんとくらわした、白痴ばかの腹はだぶりとして、べそをかくような口つきで、にやりと笑う。
 わしはぞっとしておもてを背けたが、婦人おんな何気なにげないていであった。
 親仁おやじは大口を開いて、
(留守におらがこの亭主を盗むぞよ。)
(はい、ならば手柄てがらでござんす、さあ、貴僧あなた参りましょうか。)
 背後うしろから親仁が見るように思ったが、導かるるままにかべについて、かの紫陽花のある方ではない。
 やがて背戸と思う処で左に馬小屋を見た、ことことという音は羽目はめるのであろう、もうその辺から薄暗くなって来る。
貴僧あなた、ここから下りるのでございます、すべりはいたしませぬが、道がひどうございますからおしずかに、)という。」


「そこから下りるのだと思われる、松の木の細くッて度外れに背の高い、ひょろひょろしたおよそ五六間上までは小枝一ツもないのがある。その中をくぐったが、あおぐとこずえに出て白い、月の形はここでも別にかわりは無かった、浮世うきよはどこにあるか十三夜で。
 先へ立った婦人おんなの姿が目さきを放れたから、松のみきつかまってのぞくと、つい下に居た。
 仰向あおむいて、
(急に低くなりますから気をつけて。こりゃ貴僧あなたには足駄あしだでは無理でございましたかしら、よろしくば草履ぞうりとお取交とりかえ申しましょう。)
 立後たちおくれたのを歩行悩あるきなやんだと察した様子、何がさて転げ落ちても早く行ってひるあかを落したさ。
(何、いけませんければ跣足はだしになります分のこと、どうぞお構いなく、嬢様にご心配をかけては済みません。)
(あれ、嬢様ですって、)とやや調子を高めて、艶麗あでやかに笑った。
(はい、ただいまあの爺様じいさんが、さよう申しましたように存じますが、夫人おくさまでございますか。)
(何にしても貴僧あなたには叔母おばさんくらいな年紀としですよ。まあ、お早くいらっしゃい、草履もようござんすけれど、とげがささりますといけません、それにじくじく湿れていてお気味が悪うございましょうから。)と向うむきでいいながら衣服きもの片褄かたつまをぐいとあげた。真白なのがやみまぎれ、歩行あるくとしもが消えて行くような。
 ずんずんずんずんと道を下りる、かたわらのくさむらから、のさのさと出たのはひきで。
(あれ、気味が悪いよ。)というと婦人おんな背後うしろへ高々とかかとを上げて向うへ飛んだ。
(お客様がいらっしゃるではないかね、人の足になんかからまって、贅沢ぜいたくじゃあないか、お前達は虫を吸っていればたくさんだよ。
 貴僧あなたずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。こう云う処ですからあんなものまで人なつかしゅうございます、いやじゃないかね、お前達と友達をみたようではずかしい、あれいけませんよ。)
 蟇はのさのさとまた草を分けて入った、婦人おんなはむこうへずいと。
(さあこの上へ乗るんです、土が柔かでえますから地面は歩行あるかれません。)
 いかにも大木のたおれたのが草がくれにその幹をあらわしている、乗ると足駄穿あしだばき差支さしつかえがない、丸木だけれどもおそろしく太いので、もっともこれを渡り果てるとたちまちながれの音が耳にげきした、それまでにはよほどのあいだ
 仰いで見ると松のはもう影も見えない、十三夜の月はずっと低うなったが、今下りた山のいただきに半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知られぬ。
貴僧あなた、こちらへ。)
 といった婦人おんなはもう一息、目の下に立って待っていた。
 そこは早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかってここによどみを作っている、川幅は一けんばかり、水にのぞめば音はさまでにもないが、美しさは玉を解いて流したよう、かえって遠くの方ですさまじく岩にくだけるひびきがする。
 向う岸はまた一座の山のすそで、頂の方は真暗まっくらだが、山のからその山腹を射る月の光に照し出されたあたりからは大石小石、栄螺さざえのようなの、六尺角に切出したの、つるぎのようなのやら、まりの形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きく水にひたったのはただ小山のよう。」


「(いい塩梅あんばいに今日は水がふえておりますから、中へ入りませんでもこの上でようございます。)と甲をひたして爪先つまさきかがめながら、雪のような素足で石のばんの上に立っていた。
 自分達が立ったかわは、かえってこっちの山の裾が水に迫って、ちょうど切穴の形になって、そこへこの石をめたようなあつらえ。川上も下流も見えぬが、向うのあの岩山、九十九折つづらおりのような形、流は五尺、三尺、一間ばかりずつ上流の方がだんだん遠く、飛々とびとびに岩をかがったように隠見いんけんして、いずれも月光を浴びた、銀のよろいの姿、のあたり近いのはゆるぎ糸をさばくがごとく真白にひるがえって。
(結構な流れでございますな。)
(はい、この水は源がたきでございます、この山を旅するお方はな大風のような音をどこかで聞きます。貴僧あなたはこちらへいらっしゃる道でお心着きはなさいませんかい。)
 さればこそ山蛭やまびる大藪おおやぶへ入ろうという少し前からその音を。
(あれは林へ風の当るのではございませんので?)
(いえ、たれでもそう申します、あの森から三里ばかり傍道わきみちへ入りました処に大滝があるのでございます、それはそれは日本一だそうですが、みちけわしゅうござんすので、十人に一人参ったものはございません。その滝がれましたと申しまして、ちょうど今から十三年前、おそろしい洪水おおみずがございました、こんな高い処まで川の底になりましてね、ふもとの村も山も家も残らず流れてしまいました。このかみほらも、はじめは二十軒ばかりあったのでござんす、この流れもその時から出来ました、ご覧なさいましな、この通り皆な石が流れたのでございますよ。)
 婦人おんなはいつかもう米をしらげ果てて、衣紋えもんの乱れた、乳のはしもほの見ゆる、ふくらかな胸をそらして立った、鼻高く口を結んで目を恍惚うっとりと上を向いて頂を仰いだが、月はなお半腹のその累々るいるいたるいわおを照すばかり。
(今でもこうやって見ますとこわいようでございます。)と屈んでうでの処を洗っていると。
(あれ、貴僧あなた、そんな行儀ぎょうぎのいいことをしていらしってはおめしれます、気味が悪うございますよ、すっぱり裸体はだかになってお洗いなさいまし、私が流して上げましょう。)
(いえ、)
(いえじゃあござんせぬ、それ、それ、お法衣ころもそでひたるではありませんか、)というと突然いきなり背後うしろから帯に手をかけて、身悶みもだえをして縮むのを、邪慳じゃけんらしくすっぱりいで取った。
 わし師匠ししょうきびしかったし、経を読む身体からだじゃ、はださえ脱いだことはついぞ覚えぬ。しかも婦人おんなの前、蝸牛まいまいつぶろが城を明け渡したようで、口をくさえ、まして手足のあがきも出来ず、背中を円くして、ひざを合せて、縮かまると、婦人おんなは脱がした法衣ころもかたわらの枝へふわりとかけた。
(お召はこうやっておきましょう、さあおせなを、あれさ、じっとして。お嬢様とおっしゃって下さいましたお礼に、叔母さんが世話を焼くのでござんす、お人の悪い。)といって片袖を前歯で引上げ、玉のような二の腕をあからさまに背中に乗せたが、じっと見て、
(まあ、)
(どうかいたしておりますか。)
あざのようになって、一面に。)
(ええ、それでございます、ひどい目にいました。)
 思い出してもぞッとするて。」


婦人おんなは驚いた顔をして、
(それでは森の中で、大変でございますこと。旅をする人が、飛騨ひだの山では蛭が降るというのはあすこでござんす。貴僧あなたは抜道をご存じないから正面まともに蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。お生命いのち冥加みょうがなくらい、馬でも牛でも吸い殺すのでございますもの。しかしうずくようにおかゆいのでござんしょうね。)
(ただいまではもう痛みますばかりになりました。)
(それではこんなものでこすりましてはやわらかいお肌が擦剥すりむけましょう。)というと手が綿のようにさわった。
 それから両方の肩から、背、横腹、いしき、さらさら水をかけてはさすってくれる。
 それがさ、骨に通って冷たいかというとそうではなかった。暑い時分じゃが、理窟りくつをいうとこうではあるまい、わしの血がいたせいか、婦人おんな温気ぬくみか、手で洗ってくれる水がいい工合ぐあいに身に染みる、もっともたちい水は柔かじゃそうな。
 その心地ここちもいわれなさで、眠気ねむけがさしたでもあるまいが、うとうとする様子で、きずの痛みがなくなって気が遠くなって、ひたとくっついている婦人おんなの身体で、わしは花びらの中へ包まれたような工合。
 山家やまがの者には肖合にあわぬ、都にもまれな器量はいうにおよばぬが弱々しそうな風采ふうじゃ、背中を流すうちにもはッはッと内証ないしょ呼吸いきがはずむから、もう断ろう断ろうと思いながら、例の恍惚うっとりで、気はつきながら洗わした。
 その上、山の気か、女のにおいか、ほんのりと佳いかおりがする、わし背後うしろでつく息じゃろうと思った。」
 上人しょうにんはちょっと句切って、
「いや、お前様お手近じゃ、そのあかりき立ってもらいたい、暗いとしからぬ話じゃ、ここらから一番野面のづらやっつけよう。」
 まくらを並べた上人の姿もおぼろげにあかりは暗くなっていた、早速燈心とうしんを明くすると、上人は微笑ほほえみながら続けたのである。
「さあ、そうやっていつの間にやらうつつとも無しに、こう、その不思議な、結構な薫のするあったかい花の中へ柔かに包まれて、足、腰、手、肩、えりから次第しだい天窓あたままで一面にかぶったから吃驚びっくり、石に尻餅しりもちいて、足を水の中に投げ出したから落ちたと思うとたんに、女の手が背後うしろから肩越しに胸をおさえたのでしっかりつかまった。
貴僧あなた、おそばに居て汗臭あせくそうはござんせぬかい、とんだ暑がりなんでございますから、こうやっておりましてもこんなでございますよ。)という胸にある手を取ったのを、あわてて放して棒のように立った。
(失礼、)
(いいえ誰も見ておりはしませんよ。)とすまして言う、婦人おんなもいつの間にか衣服きものを脱いで全身を練絹ねりぎぬのようにあらわしていたのじゃ。
 何とおどろくまいことか。
(こんなに太っておりますから、もうおはずかしいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も来てはこうやって汗を流します、この水がございませんかったらどういたしましょう、貴僧あなた、お手拭てぬぐい。)といってしぼったのを寄越よこした。
(それでおみ足をおきなさいまし。)
 いつの間にか、体はちゃんと拭いてあった、お話し申すもおそれ多いが、はははははは。」


「なるほど見たところ、衣服きものを着た時の姿とはちごうてししつきの豊な、ふっくりとしたはだえ
(さっき小屋へ入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体中にかかって気味が悪うござんす。ちょうどようございますから私も体を拭きましょう。)
 と姉弟きょうだい内端話うちわばなしをするような調子。手をあげて黒髪をおさえながらわきの下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、ただこれ雪のようなのをかかる霊水で清めた、こういう女の汗は薄紅うすくれないになって流れよう。
 ちょいちょいとくしを入れて、
(まあ、女がこんなお転婆てんばをいたしまして、川へおっこちたらどうしましょう、川下かわしもへ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね。)
白桃しろももの花だと思います。)とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。
 すると、さもうれしそうに莞爾にっこりしてその時だけは初々ういういしゅう年紀としも七ツ八ツ若やぐばかり、処女きむすめはじふくんで下を向いた。
 わしはそのまま目をらしたが、その一段の婦人おんなの姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向う岸のしぶき[#「さんずい+散」、U+6F75、140-10]れて黒い、なめらかな大きな石へ蒼味あおみを帯びて透通すきとおって映るように見えた。
 するとね、夜目で判然はっきりとは目にらなんだが地体じたい何でも洞穴ほらあながあるとみえる。ひらひらと、こちらからもひらひらと、ものの鳥ほどはあろうという大蝙蝠おおこうもりが目をさえぎった。
(あれ、いけないよ、お客様があるじゃないかね。)
 不意を打たれたように叫んで身悶みもだえをしたのは婦人おんな
(どうかなさいましたか、)もうちゃんと法衣ころもを着たから気丈夫きじょうぶたずねる。
(いいえ、)
 といったばかりできまりが悪そうに、くるりと後向うしろむきになった。
 その時小犬ほどな鼠色ねずみいろ小坊主こぼうずが、ちょこちょことやって来て、あなやと思うと、がけから横に宙をひょいと、背後うしろから婦人おんなの背中へぴったり。
 裸体はだかの立姿は腰から消えたようになって、だきついたものがある。
畜生ちくしょう、お客様が見えないかい。)
 と声にいかりを帯びたが、
(お前達は生意気なまいきだよ、)と激しくいいさま、腋の下からのぞこうとしたくだんの動物の天窓あたま振返ふりかえりさまにくらわしたで。
 キッキッというて奇声を放った、件の小坊主はそのまま後飛うしろとびにまた宙を飛んで、今まで法衣ころもをかけておいた、枝のさきへ長い手でつるさがったと思うと、くるりと釣瓶覆つるべがえしに上へ乗って、それなりさらさらと木登きのぼりをしたのは、何とさるじゃあるまいか。
 枝から枝を伝うと見えて、見上げるように高い木の、やがてこずえまで、かさかさがさり。
 まばらに葉の中をすかして月は山のを放れた、その梢のあたり。
 婦人おんなはものにねたよう、今の悪戯いたずら、いや、毎々、ひき蝙蝠こうもりと、お猿で三度じゃ。
 その悪戯にいた機嫌きげんそこねた形、あまり子供がはしゃぎ過ぎると、若い母様おふくろにはてある図じゃ。
 本当に怒り出す。
 といった風情ふぜい面倒臭めんどうくさそうに衣服きものを着ていたから、わしは何にも問わずに小さくなって黙ってひかえた。」