るは無作法の仕業なりという人あらん。されどあえて答う。かかる話を聞きかかる処を見てきてのちこれを人に語りたがらざる者果してありや。そのような沈黙にしてかつ慎み深き人は少なくも自分の友人の中にはあることなし。いわんやわが九百年前の先輩﹃今昔物語﹄のごときはその当時にありてすでに今は昔の話なりしに反しこれはこれ目前の出来事なり。たとえ敬虔の意と誠実の態度とにおいてはあえて彼を凌ぐことを得という能わざらんも人の耳を経ること多からず人の口と筆とを倩いたること甚だ僅なりし点においては彼の淡泊無邪気なる大納言殿かえって来たり聴くに値せり。近代の御伽百物語の徒に至りてはその志やすでに陋かつ決してその談の妄誕にあらざることを誓いえず。窃にもってこれと隣を比するを恥とせり。要するにこの書は現在の事実なり。単にこれのみをもってするも立派なる存在理由ありと信ず。ただ鏡石子は年わずかに二十四五自分もこれに十歳長ずるのみ。今の事業多き時代に生まれながら問題の大小をも弁えず、その力を用いるところ当を失えりという人あらば如何。明神の山の木兎のごとくあまりにその耳を尖らしあまりにその眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらば如何。はて是非もなし。この責任のみは自分が負わねばならぬなり。おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも
柳田国男
[#改ペ丨ジ]
︵下の数字は話の番号なり、ペ丨ジ数にはあらず︶
地勢一、五、六七、一一一
神の始二、六九、七四
里の神九八
カクラサマ七二︱七四
ゴンゲサマ一一〇
家の神一六
オクナイサマ一四、一五、七〇
オシラサマ六九
四五、四六
猿四七、四八
狼三六︱四二
熊四三
狐六〇、九四、一〇一
色々の鳥五一︱五三
花三三、五〇
小正月の行事一四、一〇二︱一〇五
雨風祭一〇九
昔々一一五︱一一八
歌謡一一九
[#改丁]
遠野郷は今の陸中上閉伊郡の西の半分、山々にて取り囲まれたる平地なり。新町村にては、遠野、土淵、附馬牛、松崎、青笹、上郷、小友、綾織、鱒沢、宮守、達曾部の一町十ヶ村に分かつ。近代或いは西閉伊郡とも称し、中古にはまた遠野保とも呼べり。今日郡役所のある遠野町はすなわち一郷の町場にして、南部家一万石の城下なり。城を横田城ともいう。この地へ行くには花巻の停車場にて汽車を下り、北上川を渡り、その川の支流猿ヶ石川の渓を伝いて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝えいう、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、その水猿ヶ石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき邑落をなせしなりと。されば谷川のこの猿ヶ石に落合うもの甚だ多く、俗に七内八崎ありと称す。内は沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり。○遠野郷のト丨はもとアイヌ語の湖という語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり。
遠野の町は南北の川の落合にあり。以前は七七十里とて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買の貨物を聚め、その市の日は馬千匹、人千人の賑わしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯という、北の方附馬牛の奥にあり。東の方には六角牛山立てり。石神という山は附馬牛と達曾部との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ないてこの高原に来たり、今の来内村の伊豆権現の社あるところに宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃にこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもう故に、遠野の女どもはその妬を畏れて今もこの山には遊ばずといえり。○この一里は小道すなわち坂東道なり、一里が五丁または六丁なり。
○タッソベもアイヌ語なるべし。岩手郡玉山村にも同じ大字あり。
○上郷村大字来内、ライナイもアイヌ語にてライは死のことナイは沢なり、水の静かなるよりの名か。
山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は今も七十余にて生存せり。この翁若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りていたり。顔の色きわめて白し。不敵の男なれば直に銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。そこに馳けつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。のちの験にせばやと思いてその髪をいささか切り取り、これを綰ねて懐に入れ、やがて家路に向いしに、道の程にて耐えがたく睡眠を催しければ、しばらく物蔭に立寄りてまどろみたり。その間夢と現との境のようなる時に、これも丈の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち睡は覚めたり。山男なるべしといえり。○土淵村大字栃内。
山口村の吉兵衛という家の主人、根子立という山に入り、笹を苅りて束となし担ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心づきて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児を負いたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。きわめてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。児を結いつけたる紐は藤の蔓にて、着たる衣類は世の常の縞物なれど、裾のあたりぼろぼろに破れたるを、いろいろの木の葉などを添えて綴りたり。足は地に着くとも覚えず。事もなげに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方へか行き過ぎたり。この人はその折の怖ろしさより煩い始めて、久しく病みてありしが、近きころ亡せたり。○土淵村大字山口、吉兵衛は代々の通称なればこの主人もまた吉兵衛ならん。
遠野郷より海岸の田ノ浜、吉利吉里などへ越ゆるには、昔より笛吹峠という山路あり。山口村より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢うより、誰もみな怖ろしがりて次第に往来も稀になりしかば、ついに別の路を境木峠という方に開き、和山を馬次場として今は此方ばかりを越ゆるようになれり。二里以上の迂路なり。○山口は六角牛に登る山口なれば村の名となれるなり。
遠野郷にては豪農のことを今でも長者という。青笹村大字糠前の長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某という猟師、或る日山に入りて一人の女に遭う。怖ろしくなりてこれを撃たんとせしに、何おじではないか、ぶつなという。驚きてよく見れば彼の長者がまな娘なり。何故にこんな処にはおるぞと問えば、或る物に取られて今はその妻となれり。子もあまた生みたれど、すべて夫が食い尽して一人此のごとくあり。おのれはこの地に一生涯を送ることなるべし。人にも言うな。御身も危うければ疾く帰れというままに、その在所をも問い明らめずして遁げ還れりという。○糠の前は糠の森の前にある村なり、糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森・糠塚多くあり。
上郷村の民家の娘、栗を拾いに山に入りたるまま帰り来たらず。家の者は死したるならんと思い、女のしたる枕を形代として葬式を執行い、さて二三年を過ぎたり。しかるにその村の者猟をして五葉山の腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽いかかりて岩窟のようになれるところにて、図らずこの女に逢いたり。互いに打ち驚き、いかにしてかかる山にはおるかと問えば、女の曰く、山に入りて恐ろしき人にさらわれ、こんなところに来たるなり。遁げて帰らんと思えど些の隙もなしとのことなり。その人はいかなる人かと問うに、自分には並の人間と見ゆれど、ただ丈きわめて高く眼の色少し凄しと思わる。子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子にはあらずといいて食うにや殺すにや、みないずれへか持ち去りてしまうなりという。まことに我々と同じ人間かと押し返して問えば、衣類なども世の常なれど、ただ眼の色少しちがえり。一市間に一度か二度、同じようなる人四五人集まりきて、何事か話をなし、やがて何方へか出て行くなり。食物など外より持ち来たるを見れば町へも出ることならん。かく言ううちにも今にそこへ帰って来るかも知れずという故、猟師も怖ろしくなりて帰りたりといえり。二十年ばかりも以前のことかと思わる。○一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間はすなわち五日のことなり。
黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸というところの民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという。 菊池弥之助という老人は若きころ駄賃を業とせり。笛の名人にて夜通しに馬を追いて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜に、あまたの仲間の者とともに浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取り出して吹きすさみつつ、大谷地というところの上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺の林しげく、その下は葦など生じ湿りたる沢なり。この時谷の底より何者か高き声にて面白いぞ丨と呼ばわる者あり。一同ことごとく色を失い遁げ走りたりといえり。○ヤチはアイヌ語にて湿地の義なり、内地に多くある地名なり。またヤツともヤトともヤともいう。
この男ある奥山に入り、茸を採るとて小屋を掛け宿りてありしに、深夜に遠きところにてきゃ丨という女の叫び声聞え胸を轟かしたることあり。里へ帰りて見れば、その同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その息子のために殺されてありき。 この女というは母一人子一人の家なりしに、嫁と姑との仲悪しくなり、嫁はしばしば親里へ行きて帰り来ざることあり。その日は嫁は家にありて打ち臥しておりしに、昼のころになり突然と倅のいうには、ガガはとても生かしては置かれぬ、今日はきっと殺すべしとて、大なる草苅鎌を取り出し、ごしごしと磨ぎ始めたり。そのありさまさらに戯言とも見えざれば、母はさまざまに事を分けて詫びたれども少しも聴かず。嫁も起き出でて泣きながら諫めたれど、露従う色もなく、やがて母が遁れ出でんとする様子あるを見て、前後の戸口をことごとく鎖したり。便用に行きたしといえば、おのれみずから外より便器を持ち来たりてこれへせよという。夕方にもなりしかば母もついにあきらめて、大なる囲炉裡の側にうずくまりただ泣きていたり。倅はよくよく磨ぎたる大鎌を手にして近より来たり、まず左の肩口を目がけて薙ぐようにすれば、鎌の刃先炉の上の火棚に引っかかりて よく斬れず。その時に母は深山の奥にて弥之助が聞きつけしようなる叫び声を立てたり。二度目には右の肩より切り下げたるが、これにてもなお死絶えずしてあるところへ、里人ら驚きて馳せつけ倅を取り抑え直に警察官を呼びて渡したり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕えられ引き立てられて行くを見て、滝のように血の流るる中より、おのれは恨も抱かずに死ぬるなれば、孫四郎は宥したまわれという。これを聞きて心を動かさぬ者はなかりき。孫四郎は途中にてもその鎌を振り上げて巡査を追い廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里にあり。○ガガは方言にて母ということなり。
土淵村山口に新田乙蔵という老人あり。村の人は乙爺という。今は九十に近く病みてまさに死なんとす。年頃遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖のようにいえど、あまり臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。処々の館の主の伝記、家々の盛衰、昔よりこの郷に行われし歌の数々を始めとして、深山の伝説またはその奥に住める人々の物語など、この老人最もよく知れり。○惜むべし、乙爺は明治四十二年の夏の始めになくなりたり。
この老人は数十年の間山の中に独りにて住みし人なり。よき家柄なれど、若きころ財産を傾け失いてより、世の中に思いを絶ち、峠の上に小屋を掛け、甘酒を往来の人に売りて活計とす。駄賃の徒はこの翁を父親のように思いて、親しみたり。少しく収入の余あれば、町に下りきて酒を飲む。赤毛布にて作りたる半纏を着て、赤き頭巾を被り、酔えば、町の中を躍りて帰るに巡査もとがめず。いよいよ老衰して後、旧里に帰りあわれなる暮しをなせり。子供はすべて北海道へ行き、翁ただ一人なり。 部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマという神を祀る。その家をば大同という。この神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布の真中に穴を明け、これを上より通して衣裳とす。正月の十五日には小字中の人々この家に集まり来たりてこれを祭る。またオシラサマという神あり。この神の像もまた同じようにして造り設け、これも正月の十五日に里人集まりてこれを祭る。その式には白粉を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳一帖の室あり。この部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭う。枕を反すなどは常のことなり。或いは誰かに抱き起こされ、または室より突き出さるることもあり。およそ静かに眠ることを許さぬなり。○オシラサマは双神なり。アイヌの中にもこの神あること﹃蝦夷風俗彙聞﹄に見ゆ。
○羽後苅和野の町にて市の神の神体なる陰陽の神に正月十五日白粉を
塗りて祭ることあり。これと似たる例なり。
オクナイサマを祭れば幸多し。土淵村大字柏崎の長者阿部氏、村にては田圃の家という。この家にて或る年田植の人手足らず、明日は空も怪しきに、わずかばかりの田を植え残すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方よりともなく丈低き小僧一人来たりて、おのれも手伝い申さんというに任せて働かせて置きしに、午飯時に飯を食わせんとて尋ねたれど見えず。やがて再び帰りきて終日、代を掻きよく働きてくれしかば、その日に植えはてたり。どこの人かは知らぬが、晩にはきて物を食いたまえと誘いしが、日暮れてまたその影見えず。家に帰りて見れば、縁側に小さき泥の足跡あまたありて、だんだんに座敷に入り、オクナイサマの神棚のところに止りてありしかば、さてはと思いてその扉を開き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由。 コンセサマを祭れる家も少なからず。この神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石または木にて男の物を作りて捧ぐるなり。今はおいおいとその事少なくなれり。 旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という人の家にては、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これは正しく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。しばらくの間坐りて居ればやがてまた頻に鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり。○ザシキワラシは座敷童衆なり。この神のこと﹃石神問答﹄中にも記事あり。
ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にて此方へ来たる。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。これから何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左