二一

 右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読みふけりたり。少し変人という方なりき。きつねと親しくなりて家を富ます術を得んと思い立ち、まず庭の中に稲荷いなりほこらて、自身京にのぼりて正一位の神階をけて帰り、それよりは日々一枚の油揚あぶらげを欠かすことなく、手ずから社頭にそなえて拝をなせしに、のちには狐れて近づけどもげず。手を延ばしてその首をおさえなどしたりという。村にありし薬師の堂守どうもりは、わが仏様は何ものをもそなえざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ごりやくありと、たびたび笑いごとにしたりとなり。

二二

 佐々木氏の曾祖母そうそぼ年よりて死去せし時、かんに取りおさめ親族の者集まりきてその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。の間は火のやすことをむがところのふうなれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裡いろり両側りょうがわすわり、母人ははびとかたわら炭籠すみかごを置き、おりおり炭をぎてありしに、ふと裏口の方より足音してくる者あるを見れば、くなりし老女なり。平生へいぜい腰かがみて衣物きものすその引きずるを、三角に取り上げて前に縫いつけてありしが、まざまざとその通りにて、縞目しまめにも見覚みおぼえあり。あなやと思う間もなく、二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取すみとりにさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。母人は気丈きじょうの人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打ちしたる座敷の方へ近より行くと思うほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声にねむりさましただ打ち驚くばかりなりしといえり。
○マーテルリンクの『侵入者』を想い起こさしむ。

二三

 同じ人の二七日の逮夜たいやに、知音の者集まりて、夜くるまで念仏をとなえ立ち帰らんとする時、門口かどぐちの石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。そのうしろつき正しくくなりし人の通りなりき。これは数多あまたの人見たるゆえに誰も疑わず。いかなる執着しゅうじゃくのありしにや、ついに知る人はなかりしなり。

二四

 村々の旧家を大同だいどうというは、大同元年に甲斐国かいのくにより移り来たる家なればかくいうとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるにあらざるか。
○大同は大洞かも知れず、洞とは東北にて家門または族ということなり。『常陸国志ひたちのこくし』に例あり、ホラマエという語のちに見ゆ。

二五

 大同の祖先たちが、始めてこの地方に到着せしは、あたかもとしくれにて、春のいそぎの門松かどまつを、まだ片方かたほうはえ立てぬうちにはや元日になりたればとて、今もこの家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるままにて、標縄しめなわを引き渡すとのことなり。

二六

 柏崎の田圃たんぼのうちと称する阿倍氏はことに聞えたる旧家なり。この家の先代に彫刻にたくみなる人ありて、遠野一郷の神仏の像にはこの人の作りたる者多し。

二七

 早池峯はやちねより出でて東北の方宮古みやこの海に流れ入る川を閉伊川へいがわという。その流域はすなわち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今はいけはたという家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の原台はらだいふちというあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙をたくす。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手をたたけば宛名あてなの人いでべしとなり。この人け合いはしたれども路々みちみち心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部ろくぶに行きえり。この手紙を開きよみていわく、これを持ち行かばなんじの身に大なるわざわいあるべし。書きえて取らすべしとて更に別の手紙を与えたり。これを持ちて沼に行き教えのごとく手を叩きしに、果して若き女いでて手紙を受け取り、その礼なりとてきわめて小さき石臼いしうすをくれたり。米を一粒入れてまわせば下より黄金づ。この宝物たからものの力にてその家やや富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに自ら回りて、ついには朝ごとに主人がこの石臼に供えたりし水の、小さきくぼみの中にたまりてありし中へすべり入りて見えずなりたり。その水溜りはのちに小さき池になりて、今も家のかたわらにあり。家の名を池の端というもそのためなりという。
○この話に似たる物語西洋にもあり、偶合にや。

二八

 始めて早池峯に山路やまみちをつけたるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時は遠野の南部家入部にゅうぶの後のことなり。その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしと。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋かりごやを作りておりしころ、る日の上にもちをならべ焼きながら食いおりしに、小屋の外を通る者ありてしきりに中をうかがうさまなり。よく見れば大なる坊主なり。やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、ついにこらえねて手をさし延べて取りて食う。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与えしに、うれしげになお食いたり。餅みなになりたれば帰りぬ。次の日もまた来るならんと思い、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のようになれり。案のごとくその坊主きょうもきて、餅を取りて食うこと昨日のごとし。餅きてのちその白石をも同じように口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。のちに谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといえり。
○北上川の中古の大洪水に白髪水というがあり、白髪のうばあざむき餅に似たる焼石を食わせしたたりなりという。この話によく似たり。

二九

 鶏頭山けいとうざんは早池峯の前面に立てる峻峯しゅんぽうなり。ふもとの里にてはまた前薬師まえやくしともいう。天狗てんぐ住めりとて、早池峯に登る者も決してこの山はけず。山口のハネトという家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。きわめて無法者にて、まさかりにて草をかまにて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞ふるまいのみ多かりし人なり。或る時人とかけをして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、その岩の上に大男三人いたり。前にあまたの金銀をひろげたり。この男の近よるを見て、気色けしきばみて振り返る、その眼の光きわめて恐ろし。早池峯に登りたるがみちに迷いて来たるなりと言えば、しからば送りてるべしとてさきに立ち、ふもと近きところまで来たり、眼をふさげと言うままに、暫時そこに立ちている間に、たちまち異人は見えずなりたりという。

三〇

 小国おぐに村の何某という男、或る日早池峯に竹をりに行きしに、地竹じだけのおびただしく茂りたる中に、大なる男一人寝ていたるを見たり。地竹にて編みたる三尺ばかりの草履ぞうりぎてあり。あおして大なるいびきをかきてありき。
○下閉伊郡小国村大字小国。
○地竹は深山に生ずる低き竹なり。

三一

 遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。

三二

 千晩せんばだけは山中にぬまあり。この谷は物すごくなまぐさのするところにて、この山に入り帰りたる者はまことにすくなし。昔何の隼人はやとという猟師あり。その子孫今もあり。白き鹿を見てこれを追いこの谷に千晩こもりたれば山の名とす。その白鹿撃たれて遁げ、次の山まで行きて片肢かたあし折れたり。その山を今片羽山かたはやまという。さてまた前なる山へきてついに死したり。その地を死助しすけという。死助権現しすけごんげんとてまつれるはこの白鹿なりという。
宛然えんぜんとして古風土記をよむがごとし。

三三

 白望しろみの山に行きてとまれば、深夜にあたりの薄明うすあかるくなることあり。秋のころきのこを採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。また谷のあなたにて大木をり倒す音、歌の声などきこゆることあり。この山の大さははかるべからず。五月にかやを苅りに行くとき、遠く望めばきりの花の咲きちたる山あり。あたかもむらさきの雲のたなびけるがごとし。されどもついにそのあたりに近づくことあたわず。かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金のといと金のしゃくとを見たり。持ち帰らんとするにきわめて重く、かまにて片端かたはしけずり取らんとしたれどそれもかなわず。またんと思いて樹の皮を白くししおりとしたりしが、次の日人々とともに行きてこれを求めたれど、ついにその木のありかをも見出しえずしてやみたり。

三四

 白望の山続きに離森はなれもりというところあり。その小字こあざに長者屋敷というは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。或る夜その小屋の垂菰たれごもをかかげて、内をうかがう者を見たり。髪を長く二つに分けてれたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。

三五

 佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿やどりし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るように思われたり。待てちゃアと二声ばかりばわりたるを聞けりとぞ。

三六

 猿の経立ふったち御犬おいぬの経立は恐ろしきものなり。御犬おいぬとはおおかみのことなり。山口の村に近きふた石山いしやまは岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々ところどころの岩の上に御犬うずくまりてあり。やがて首をしたよりしあぐるようにしてかわるがわるえたり。正面より見ればまれての馬の子ほどに見ゆ。うしろから見れば存外ぞんがい小さしといえり。御犬のうなる声ほど物凄ものすごく恐ろしきものはなし。

三七

 境木峠さかいげとうげ和山峠わやまとうげとの間にて、昔は駄賃馬だちんばう者、しばしば狼に逢いたりき。馬方うまかたらは夜行には、たいてい十人ばかりもむれをなし、その一人がく馬は一端綱ひとはづなとてたいてい五六七ぴきまでなれば、常に四五十匹の馬の数なり。ある時二三百ばかりの狼追い来たり、その足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、そのめぐりに火を焼きてこれを防ぎたり。されどなおその火を躍り越えて入り来るにより、ついには馬のつなきこれをめぐらせしに、おとしあななどなりとや思いけん、それよりのちは中に飛び入らず。遠くよりかこみて夜のあけるまで吠えてありきとぞ。

三八

 小友おとも村の旧家の主人にて今も生存せる某爺なにがしじいという人、町より帰りにしきりに御犬のゆるを聞きて、酒に酔いたればおのれもまたその声をまねたりしに、狼も吠えながらあとより来るようなり。恐ろしくなりて急ぎ家に帰り入り、門の戸をかたとざしてひそみたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる声やまず。夜明よあけて見れば、馬屋の土台どだいの下を掘り穿うがちて中に入り、馬の七頭ありしをことごとく食い殺していたり。この家はそのころより産やや傾きたりとのことなり。

三九

 佐々木君幼きころ、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されてもなきにや、そこよりはまだ湯気ゆげ立てり。祖父の曰く、これは狼が食いたるなり。この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見ておるに相違なければ、取ることができぬといえり。

四〇

 草の長さ三寸あれば狼は身を隠すといえり。草木そうもくの色の移り行くにつれて、狼の毛の色も季節きせつごとに変りて行くものなり。

四一

 和野の佐々木嘉兵衛、或る年境木越さかいげごえ大谷地おおやちへ狩にゆきたり。死助しすけの方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り尽し山もあらわなり。むこうの峯より何百とも知れぬ狼此方へれて走りくるを見て恐ろしさに堪えず、樹のこずえのぼりてありしに、その樹の下をおびただしき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。そのころより遠野郷には狼甚だ少なくなれりとのことなり。

四二

 六角牛ろっこうし山のふもとにオバヤ、板小屋などいうところあり。広き萱山かややまなり。村々よりりに行く。ある年の秋飯豊村いいでむらの者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち帰りしに、その日より狼の飯豊衆いいでしの馬をおそうことやまず。ほかの村々の人馬にはいささかも害をなさず。飯豊衆相談して狼狩をなす。その中には相撲すもうを取り平生へいぜい力自慢ちからじまんの者あり。さて野にでて見るに、おすの狼は遠くにおりてたらず。めす狼一つ鉄という男に飛びかかりたるを、ワッポロを脱ぎてうでに巻き、やにわにその狼の口の中に突き込みしに、狼これをむ。なお強く突き入れながら人をぶに、誰も誰もおそれて近よらず。その間に鉄の腕は狼の腹まではいり、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨をくだきたり。狼はその場にて死したれども、鉄もかつがれて帰りほどなく死したり。
ワッポロは上羽織のことなり。

四三

 一昨年の『遠野新聞』にもこの記事を載せたり。上郷かみごう村の熊という男、友人とともに雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、手分てわけしてその跡をもとめ、自分は峯の方を行きしに、とある岩のかげより大なる熊此方を見る。矢頃やごろあまりに近かりしかば、銃をすてて熊にかかえつき雪の上をころびて、谷へ下る。つれの男これを救わんと思えども力及ばず。やがて谷川に落ち入りて、人の熊したになり水に沈みたりしかば、そのひまに獣の熊を打ち取りぬ。水にもおぼれず、つめの傷は数ヶ所受けたれども命にさわることはなかりき。

四四

 六角牛の峯続きにて、橋野はしのという村の上なる山に金坑きんこうあり。この鉱山のために炭を焼きて生計とする者、これも笛の上手じょうずにて、ある日ひるあいだ小屋こやにおり、仰向あおむき寝転ねころびて笛を吹きてありしに、小屋の口なる垂菰たれごもをかかぐる者あり。驚きて見れば猿の経立ふったちなり。恐ろしくて起き直りたれば、おもむろに彼方かなたへ走り行きぬ。
○上閉伊郡栗橋村大字橋野。

四五

 猿の経立ふったちはよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂まつやにを毛にり砂をその上につけておる故、毛皮けがわよろいのごとく鉄砲のたまとおらず。

四六

 栃内村の林崎はやしざきに住む何某という男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、これをまことの鹿なりと思いしか、地竹じだけを手にてけながら、大なる口をあけ嶺の方よりくだり来たれり。胆潰きもつぶれて笛を吹きやめたれば、やがてれて谷の方へ走り行きたり。
オキとは鹿笛のことなり。

四七

 この地方にて子供をおどす言葉ことばに、六角牛の猿の経立が来るぞということ常の事なり。この山には猿多し。緒挊おがせたきを見に行けば、がけの樹のこずえにあまたおり、人を見ればげながら木のなどをなげうちて行くなり。

四八

 仙人峠せんにんとうげにもあまた猿おりて行人にたわむれ石を打ちつけなどす。

四九

 仙人峠は登り十五里くだり十五里あり。その中ほどに仙人の像を祀りたる堂あり。この堂のかべには旅人がこの山中にて遭いたる不思議の出来事を書きしるすこと昔よりのならいなり。例えば、我は越後の者なるが、何月何日の夜、この山路やまみちにて若き女の髪をれたるに逢えり。こちらを見てにこと笑いたりというたぐいなり。またこの所にて猿に悪戯いたずらをせられたりとか、三人の盗賊に逢えりというようなる事をもしるせり。
○この一里も小道なり。

五〇

 死助しすけの山にカッコ花あり。遠野郷にても珍しという花なり。五月閑古鳥かんこどりくころ、女や子どもこれをりに山へ行く。の中にけて置けば紫色むらさきいろになる。酸漿ほおずきのように吹きて遊ぶなり。この花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。

五一

 山にはさまざまの鳥めど、最もさびしき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中よなかく。浜の大槌おおづちより駄賃附だちんづけの者など峠を越え来たれば、はるかに谷底にてその声を聞くといえり。昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子としたしみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまでさがしあるきしが、これを見つくることをえずして、ついにこの鳥になりたりという。オットーン、オットーンというはおっとのことなり。末の方かすれてあわれなる鳴声なきごえなり。

五二

 馬追鳥うまおいどり時鳥ほととぎすに似てすこし大きく、はねの色は赤に茶をび、肩には馬のつなのようなるしまあり。胸のあたりにクツゴコ(口籠)のようなるかたあり。これもる長者が家の奉公人、山へ馬をはなしに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがついにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野におる馬を追う声なり。年により馬追鳥さとにきて啼くことあるは飢饉ききんの前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。
クツゴコは馬の口にめる網の袋なり。

五三

 郭公かっこう時鳥ほととぎすとは昔ありし姉妹あねいもとなり。郭公は姉なるがある時いもを掘りて焼き、そのまわりのかたきところを自ら食い、中のやわらかなるところを妹に与えたりしを、妹は姉の食うぶんは一層うまかるべしと想いて、庖丁ほうちょうにてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところということなり。妹さてはよきところをのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりという。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡もりおか辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くという。
○この芋は馬鈴薯ばれいしょのことなり。

五四

 閉伊川へいがわながれにはふち多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近きところに、川井かわいという村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、おのを水中におとしたり。主人の物なれば淵に入りてこれをさぐりしに、水の底に入るままに物音聞ゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘はたを織りていたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまわらんという時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我がこのところにあることを人にいうな。その礼としてはその方身上しんしょうくなり、奉公をせずともすむようにしてらんといいたり。そのためなるか否かは知らず、その後胴引どうびきなどいう博奕ばくちに不思議に勝ちつづけて金溜かねたまり、ほどなく奉公をやめ家に引き込みてちゅうぐらいの農民になりたれど、この男はくに物忘れして、この娘のいいしことも心づかずしてありしに、或る日同じ淵のほとりぎて町へ行くとて、ふと前の事を思い出し、ともなえる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてそのうわさは近郷に伝わりぬ。その頃より男は家産再びかたむき、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思いしにや、その淵に何荷なんがともなく熱湯をそそぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。
○下閉伊郡川井村大字川井、川井はもちろん川合の義なるべし。

五五

 川には川童かっぱ多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端かわばたうちにて、二代まで続けて川童の子をはらみたる者あり。生れし子はきざみて一升樽いっしょうだるに入れ、土中にうずめたり。そのかたちきわめて醜怪なるものなりき。女の婿むこの里は新張にいばり村の何某とて、これも川端の家なり。その主人ひとにその始終しじゅうを語れり。かの家の者一同ある日はたけに行きて夕方に帰らんとするに、女川のみぎわうずくまりてにこにこと笑いてあり。次の日はひるの休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者夜々よるよるかようといううわさ立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附だちんづけに行きたる留守るすをのみうかがいたりしが、のちには婿むこたるよるさえくるようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐かいもなく、婿の母も行きて娘のかたわらたりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、或る者のいうには、馬槽うまふねに水をたたえその中にてまば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。その子は手に水掻みずかきあり。この娘の母もまたかつて川童の子を産みしことありという。二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。この家も如法にょほうの豪家にて何の某という士族なり。村会議員をしたることもあり。

五六

 上郷村の何某の家にても川童らしき物の子をみたることあり。たしかなる証とてはなけれど、身内みうち真赤まっかにして口大きく、まことにいやな子なりき。いまわしければてんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきという。
○道ちがえは道の二つに別かるるところすなわち追分おいわけなり。

五七

 川の岸のすなの上には川童の足跡あしあとというものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指おやゆびは離れて人間の手のあとに似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという。

五八

 小烏瀬川こがらせがわ姥子淵おばこふちの辺に、新屋しんやうちといういえあり。ある日ふちへ馬をひやしに行き、馬曳うまひきの子はほかへ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられてうまやの前に来たり、馬槽うまふねおおわれてありき。家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんかゆるさんかと評議せしが、結局今後こんごは村中の馬に悪戯いたずらをせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢あいざわの滝の淵に住めりという。
○この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何の故にか。

五九

 ほかの地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童はつらいろあかきなり。佐々木氏の曾祖母そうそぼおさなかりしころ友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃くるみの木の間より、真赤まっかなる顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。

六〇

 和野わの村の嘉兵衛爺かへえじい雉子小屋きじごやに入りて雉子を待ちしにきつねしばしば出でて雉子を追う。あまりにくければこれを撃たんと思いねらいたるに、狐は此方を向きて何ともなげなる顔してあり。さて引金ひきがねを引きたれども火うつらず。胸騒むなさわぎして銃を検せしに、筒口つつぐちより手元てもとのところまでいつのまにかことごとく土をつめてありたり。