遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部
男爵家の
鷹匠なり。町の人
綽名して
鳥御前という。早池峯、六角牛の木や石や、すべてその形状と
在処とを知れり。年取りてのち
茸採りにとて一人の
連とともに出でたり。この連の男というは水練の名人にて、
藁と
槌とを持ちて水の中に入り、
草鞋を作りて出てくるという評判の人なり。さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる
向山という山より、
綾織村の
続石とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山の
端より四五
間ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の
陰に
赭き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに
出逢いたり。彼らは鳥御前の近づくを見て、手を
拡げて押し戻すようなる手つきをなし制止したれども、それにも
構わず行きたるに女は男の胸に
縋るようにしたり。事のさまより真の人間にてはあるまじと思いながら、鳥御前はひょうきんな人なれば
戯れて
遣らんとて腰なる
切刃を抜き、打ちかかるようにしたれば、その色赭き男は足を
挙げて
蹴りたるかと思いしが、たちまちに前後を知らず。連なる男はこれを
探しまわりて谷底に気絶してあるを見つけ、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までに更になきことなり。おのれはこのために死ぬかも知れず、ほかの者には誰にもいうなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。家の者あまりにその死にようの不思議なればとて、
山臥のケンコウ院というに相談せしに、その答えには、山の神たちの遊べるところを邪魔したる故、その
祟をうけて死したるなりといえり。この人は伊能先生なども
知合なりき。今より十余年前の事なり。
昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早池峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り
麓近くなるころ、
丈の高き男の下より急ぎ足に昇りくるに逢えり。色は黒く
眼はきらきらとして、肩には麻かと思わるる古き
浅葱色の
風呂敷にて小さき包を負いたり。恐ろしかりしかども子供の中の一人、どこへ行くかと此方より声を掛けたるに、
小国さ行くと答う。この路は小国へ越ゆべき方角にはあらざれば、立ちとまり不審するほどに、行き過ぐると思うまもなく、はや見えずなりたり。山男よと口々に言いてみなみな遁げ帰りたりといえり。
これは和野の人菊池菊蔵という者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より来たる者なり。この妻親里へ行きたる間に、糸蔵という五六歳の男の
児病気になりたれば、
昼過ぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり。名に負う六角牛の峯続きなれば山路は樹深く、ことに遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウドになりて両方は
岨なり。日影はこの岨に隠れてあたりやや薄暗くなりたるころ、後の方より菊蔵と呼ぶ者あるに振り返りて見れば、
崖の上より下を
覗くものあり。顔は赭く眼の光りかがやけること前の話のごとし。お前の子はもう死んで居るぞという。この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはっと思いたりしが、はやその姿は見えず。急ぎ夜の中に妻を
伴ないて帰りたれば、果して子は死してありき。四五年前のことなり。
○ウドとは両側高く切込みたる路のことなり。東海道の諸国にてウタウ坂・謡坂などいうはすべてかくのごとき小さき切通しのことならん。
この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、
振舞われたる残りの
餅を
懐に入れて、愛宕山の
麓の林を過ぎしに、
象坪の藤七という
大酒呑にて彼と
仲善の友に行き逢えり。そこは林の中なれど少しく
芝原あるところなり。藤七はにこにことしてその芝原を
指し、ここで
相撲を取らぬかという。菊蔵これを諾し、二人草原にてしばらく遊びしが、この藤七いかにも弱く軽く自由に
抱えては投げらるる
故、面白きままに三番まで取りたり。藤七が曰く、今日はとてもかなわず、さあ行くべしとて別れたり。四五
間も行きてのち心づきたるにかの餅見えず。相撲場に戻りて探したれどなし。始めて狐ならんかと思いたれど、外聞を恥じて人にもいわざりしが、四五日ののち酒屋にて藤七に逢いその話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしものをと言いて、いよいよ狐と相撲を取りしこと露顕したり。されど菊蔵はなお他の人々には包み隠してありしが、昨年の正月の休みに人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれもじつはとこの話を白状し、大いに笑われたり。
○象坪は地名にしてかつ藤七の名字なり。象坪という地名のこと『石神問答』の中にてこれを研究したり。
松崎の菊池某という今年四十三四の男、庭作りの
上手にて、山に入り草花を掘りてはわが庭に移し植え、形の面白き岩などは重きを
厭わず家に
担い帰るを常とせり。或る日少し気分重ければ家を出でて山に遊びしに、今までついに見たることなき美しき大岩を見つけたり。
平生の道楽なればこれを持ち帰らんと思い、持ち上げんとせしが非常に重し。あたかも人の立ちたる形して
丈もやがて人ほどあり。されどほしさのあまりこれを負い、我慢して十間ばかり歩みしが、気の遠くなるくらい重ければ怪しみをなし、
路の
旁にこれを立て少しくもたれかかるようにしたるに、そのまま石とともにすっと空中に
昇り行く
心地したり。雲より上になりたるように思いしがじつに明るく清きところにて、あたりにいろいろの花咲き、しかも
何処ともなく大勢の人声聞えたり。されど石はなおますます
昇り行き、ついには昇り切りたるか、何事も覚えぬようになりたり。その後時過ぎて心づきたる時は、やはり以前のごとく不思議の石にもたれたるままにてありき。この石を家の内へ持ち込みてはいかなることあらんも
測りがたしと、恐ろしくなりて遁げ帰りぬ。この石は今も同じところにあり。おりおりはこれを見て再びほしくなることありといえり。
遠野の町に
芳公馬鹿とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。この男の癖は路上にて木の切れ
塵などを拾い、これを
捻りてつくづくと見つめまたはこれを
嗅ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことしておりおりこれを嗅ぐなり。この男往来をあるきながら急に立ち
留り、石などを拾い上げてこれをあたりの人家に打ちつけ、けたたましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすればその晩か次の日か物を投げつけられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度となくあれば、のちにはその家々も注意して予防をなすといえども、ついに火事を
免れたる家は一軒もなしといえり。
飯豊の菊池
松之丞という人
傷寒を病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて
菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に
前下りに行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われず
快し。寺の門に近づくに人群集せり。
何故ならんと
訝りつつ門を入れば、
紅の
芥子の花咲き満ち、見渡すかぎりも知らず。いよいよ心持よし。この花の間に
亡くなりし父立てり。お前もきたのかという。これに何か返事をしながらなお行くに、以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。この時門の辺にて騒しくわが名を
喚ぶ者ありて、うるさきこと限りなけれど、よんどころなければ心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。親族の者寄り
集い水など打ちそそぎて
喚び
生かしたるなり。
路の傍に山の神、田の神、
塞の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。また早池峯山・六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し。
土淵村の助役北川清という人の家は字
火石にあり。代々の
山臥にて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ
婿に行きたるが、先年の
大海嘯に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子とともに
元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も
浪の打つ
渚なり。霧の
布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は
正しく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、
遥々と
船越村の方へ行く崎の
洞あるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は
可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情なくなりたれば
足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち
退きて、
小浦へ行く道の
山陰を
廻り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで
道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく
煩いたりといえり。
船越の漁夫何某。ある日仲間の者とともに
吉利吉里より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢う。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺に
来べき道理なければ、
必定化物ならんと思い定め、やにわに
魚切庖丁を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てて死したり。しばらくの間は正体を現わさざれば
流石に心に懸り、
後の事を
連の者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に
脅かされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。さてはと
合点して再び以前の場所へ引き返してみれば、山にて殺したりし女は連の者が見ておる中についに一匹の
狐となりたりといえり。夢の野山を行くにこの獣の身を
傭うことありと見ゆ。
旅人
豊間根村を過ぎ、夜
更け疲れたれば、
知音の者の家に灯火の見ゆるを
幸に、入りて休息せんとせしに、よき時に
来合せたり、今夕死人あり、
留守の者なくていかにせんかと思いしところなり、しばらくの間頼むといいて主人は人を
喚びに行きたり。
迷惑千万なる話なれど是非もなく、
囲炉裡の側にて
煙草を吸いてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見れば
床の上にむくむくと起き直る。
胆潰れたれど心を
鎮め静かにあたりを
見廻すに、流し
元の水口の穴より狐のごとき物あり、
面をさし入れて
頻に死人の方を見つめていたり。さてこそと身を
潜め
窃かに家の外に出で、
背戸の方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ
後足を
爪立てていたり。
有合わせたる棒をもてこれを打ち殺したり。
○下閉伊郡豊間根村大字豊間根。
正月十五日の晩を
小正月という。
宵のほどは子供ら福の神と称して四五人群を作り、袋を持ちて人の家に行き、
明の方から福の神が舞い込んだと
唱えて餅を
貰う習慣あり。宵を過ぐればこの晩に限り人々決して戸の外に出づることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でて遊ぶと
言い伝えてあればなり。山口の字
丸古立におまさという今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。いかなるわけにてか唯一人にて福の神に出で、ところどころをあるきて遅くなり、
淋しき路を帰りしに、向うの方より
丈の高き男来てすれちがいたり。顔はすてきに赤く眼はかがやけり。袋を捨てて遁げ帰り大いに煩いたりといえり。
小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいう。童子をあまた引き連れてくるといえり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、
橇遊びをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりという者は少なし。
小正月の晩には行事
甚だ多し。
月見というは六つの
胡桃の
実を十二に割り
一時に
炉の火にくべて一時にこれを引き上げ、一列にして右より正月二月と数うるに、満月の夜晴なるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月には
直に黒くなり、風ある月にはフーフーと音をたてて火が
振うなり。何遍繰り返しても同じことなり。村中いずれの家にても同じ結果を得るは妙なり。翌日はこの事を語り合い、例えば八月の十五夜風とあらば、その
歳の稲の
苅入を急ぐなり。
○五穀の占、月の占多少のヴァリエテをもって諸国に行なわる。陰陽道に出でしものならん。
また
世中見というは、同じく小正月の晩に、いろいろの米にて餅をこしらえて鏡となし、同種の米を
膳の上に
平らに敷き、
鏡餅をその上に伏せ、
鍋を
被せ置きて翌朝これを見るなり。餅につきたる
米粒の多きものその年は豊作なりとして、早中晩の種類を択び定むるなり。
海岸の山田にては
蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりという。
見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年ごとに家の形などいささかも違うことなしといえり。
上郷村に河ぷちのうちという家あり。早瀬川の岸にあり。この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾いてありしに、見馴れぬ男来たり、木の葉とか何とかを娘にくれたり。
丈高く面
朱のようなる人なり。娘はこの日より
占の術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりといえり。
山の神の乗り移りたりとて占をなす人は所々にあり。
附馬牛村にもあり。本業は
木挽なり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神よりその術を得たりしのちは、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。その占いの法は世間の者とは全く異なり。何の書物をも見ず、頼みにきたる人と世間話をなし、その中にふと立ちて
常居の
中をあちこちとあるき出すと思うほどに、その人の顔は少しも見ずして心に浮びたることをいうなり。当らずということなし。例えばお前のウチの
板敷を取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡または刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が焼くるとかいうなり。帰りて掘りて見るに必ずあり。かかる例は指を屈するに
勝えず。
盆のころには雨風祭とて
藁にて人よりも大なる
人形を作り、道の
岐に送り行きて立つ。紙にて顔を
描き
瓜にて陰陽の形を作り添えなどす。虫祭の藁人形にはかかることはなくその形も小さし。雨風祭の折は一部落の中にて
頭屋を
択び定め、
里人集まりて酒を飲みてのち、一同
笛太鼓にてこれを道の辻まで送り行くなり。笛の中には
桐の木にて作りたるホラなどあり。これを高く吹く。さてその折の歌は「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」という。
○『東国輿地勝覧』によれば韓国にても厲壇を必ず城の北方に作ること見ゆ。ともに玄武神の信仰より来たれるなるべし。
ゴンゲサマというは、
神楽舞の組ごとに一つずつ備われる
木彫の像にして、
獅子頭とよく似て少しく
異なれり。甚だ
御利生のあるものなり。
新張の八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村字
五日市の神楽組のゴンゲサマと、かつて途中にて争いをなせしことあり。新張のゴンゲサマ負けて
片耳を失いたりとて今もなし。毎年村々を舞いてあるく故、これを見知らぬ者なし。ゴンゲサマの
霊験はことに
火伏にあり。右の八幡の神楽組かつて附馬牛村に行きて
日暮れ宿を取り兼ねしに、ある貧しき者の家にて
快くこれを
泊めて、五升
桝を伏せてその上にゴンゲサマを
座え置き、人々は
臥したりしに、夜中にがつがつと物を
噛む音のするに驚きて起きてみれば、
軒端に火の燃えつきてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上り飛び上りして火を
喰い消してありしなりと。子どもの頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を噛みてもらうことあり。
山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および
火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず
蓮台野という地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの
習ありき。老人はいたずらに死んで
了うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を
糊したり。そのために今も山口土淵辺にては
朝に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。
○ダンノハナは壇の塙なるべし。すなわち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭るための塚なりと信ず。蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』中にいえり。
ダンノハナは昔
館のありし時代に囚人を
斬りし場所なるべしという。地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンノハナは
大洞へ越ゆる丘の上にて
館址よりの続きなり。蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東はすなわちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷という。此所には
蝦夷屋敷という四角に
凹みたるところ多くあり。その
跡きわめて明白なり。あまた石器を出す。石器土器の出るところ山口に二ヶ所あり。他の一は
小字をホウリョウという。ここの土器と蓮台野の土器とは様式全然
殊なり。後者のは技巧いささかもなく、ホウリョウのは
模様なども
巧なり。
埴輪もここより出づ。また石斧石刀の類も出づ。蓮台野には
蝦夷銭とて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。これには単純なる
渦紋などの模様あり。字ホウリョウには丸玉・
管玉も出づ。ここの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料いろいろなり。ホウリョウの方は何の跡ということもなく、狭き
一町歩ほどの場所なり。星谷は底の
方今は田となれり。蝦夷屋敷はこの両側に連なりてありしなりという。このあたりに掘れば
祟ありという場所二ヶ所ほどあり。
○外の村々にても二所の地形および関係これに似たりという。
○星谷という地名も諸国にあり星を祭りしところなり。
○ホウリョウ権現は遠野をはじめ奥羽一円に祀らるる神なり。蛇の神なりという。名義を知らず。
和野にジョウヅカ森というところあり。象を埋めし場所なりといえり。此所だけには地震なしとて、近辺にては地震の折はジョウヅカ森へ遁げよと昔より言い伝えたり。これは確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀あり。塚の上には石あり。これを掘れば
祟ありという。
○ジョウズカは定塚、庄塚または塩塚などとかきて諸国にあまたあり。これも境の神を祀りしところにて地獄のショウツカの奪衣婆の話などと関係あること『石神問答』に詳にせり。また象坪などの象頭神とも関係あれば象の伝説は由なきにあらず、塚を森ということも東国の風なり。
山口のダンノハナは今は共同墓地なり。岡の頂上にうつ木を
栽えめぐらしその口は東方に向かいて
門口めきたるところあり。その中ほどに大なる青石あり。かつて一たびその下を掘りたる者ありしが、何ものをも発見せず。のち再びこれを試みし者は大なる
瓶あるを見たり。村の老人たち大いに
叱りければ、またもとのままになし置きたり。
館の主の墓なるべしという。此所に近き館の名はボンシャサの館という。いくつかの山を掘り割りて水を引き、三重四重に堀を取り
廻らせり。寺屋敷・
砥石森などいう地名あり。井の跡とて
石垣残れり。山口孫左衛門の祖先ここに住めりという。『
遠野古事記』に
詳かなり。
御伽話のことを
昔々という。ヤマハハの話最も多くあり。ヤマハハは
山姥のことなるべし。その一つ二つを次に記すべし。
昔々あるところにトトとガガとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰がきても戸を明けるなと戒しめ、
鍵を掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみていたりしに、
真昼間に戸を叩きてここを開けと呼ぶ者あり。開かずば
蹴破るぞと
嚇す
故に、是非なく戸を明けたれば入りきたるはヤマハハなり。炉の
横座に
蹈みはたかりて火にあたり、飯をたきて食わせよという。その言葉に従い
膳を支度してヤマハハに食わせ、その間に家を遁げ出したるに、ヤマハハは飯を食い終りて娘を追い来たり、おいおいにその
間近く今にも
背に手の
触るるばかりになりし時、山の
蔭にて
柴を苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、
隠してくれよと頼み、苅り置きたる柴の中に隠れたり。ヤマハハ尋ね来たりて、どこに隠れたかと柴の
束をのけんとして柴を
抱えたるまま山より
滑り落ちたり。その
隙にここを
遁れてまた
萱を苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅り置きたる萱の中に隠れたり。ヤマハハはまた尋ね来たりて、どこに隠れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱えたるまま山より滑り落ちたり。その隙にまたここを遁れ出でて大きなる沼の岸に出でたり。これよりは行くべき
方もなければ、沼の岸の大木の梢に
昇りいたり。ヤマハハはどけえ行ったとて
遁がすものかとて、沼の水に娘の影の
映れるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。この間に再び此所を走り出で、一つの
笹小屋のあるを見つけ、中に入りて見れば若き女いたり。此にも同じことを告げて石の
唐櫃のありし中へ隠してもらいたるところへ、ヤマハハまた飛び来たり娘のありかを問えども隠して知らずと答えたれば、いんね来ぬはずはない、人くさい香がするものという。それは今
雀を
炙って食った
故なるべしと言えば、ヤマハハも
納得してそんなら少し
寝ん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言いて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。家の女はこれに
鍵を
下し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハハに連れて来られたる者なればともどもにこれを殺して里へ帰らんとて、
錐を
紅く焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハハはかくとも知らず、ただ
二十日鼠がきたと言えり。それより湯を
煮立てて
焼錐の穴より
注ぎ込みて、ついにそのヤマハハを殺し二人ともに親々の家に帰りたり。昔々の話の終りはいずれもコレデドンドハレという語をもって結ぶなり。
昔々これもあるところにトトとガガと、娘の嫁に行く支度を買いに町へ出で行くとて戸を
鎖し、誰がきても明けるなよ、はアと答えたれば出でたり。昼のころヤマハハ来たりて娘を取りて食い、娘の皮を
被り娘になりておる。夕方二人の親帰りて、おりこひめこ居たかと門の口より呼べば、あ、いたます、早かったなしと答え、
二親は買い来たりしいろいろの支度の物を見せて娘の
悦ぶ顔を見たり。次の日
夜の明けたる時、家の鶏
羽ばたきして、
糠屋の
隅ッ
子見ろじゃ、けけろと
啼く。はて
常に変りたる鶏の啼きようかなと
二親は思いたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハハのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするときまた鶏啼く。その声は、おりこひめこを載せなえでヤマハハのせた、けけろと
聞ゆ。これを繰り返して歌いしかば、二親も始めて心づき、ヤマハハを馬より引き
下して殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまた
有りたり。
○糠屋は物おきなり。
紅皿欠皿の話も遠野郷に
行なわる。ただ欠皿の方はその名をヌカボという。ヌカボは
空穂のことなり。
継母に
悪まれたれど神の
恵ありて、ついに長者の妻となるという話なり。エピソードにはいろいろの美しき
絵様あり。
折あらば詳しく書き記すべし。
遠野郷の
獅子踊に古くより用いたる歌の曲あり。村により人によりて少しずつの相異あれど、自分の聞きたるは次のごとし。百年あまり以前の筆写なり。
○獅子踊はさまでこの地方に古きものにあらず。中代これを輸入せしものなることを人よく知れり。
一 まゐり来て此橋を見申せや、いかなもをざは蹈みそめたやら、わだるがくかいざるもの
一 此御馬場を見申せや、杉原七里大門まで
一 まゐり来て此もんを見申せや、ひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白かねの門
一 門の戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい
○
一 まゐり来てこの御本堂を見申せや、いかな大工は建てたやら
一 建てた御人は御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺也
一 小島ではひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白金の門
一 白金の門戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい
一 八つ棟ぢくりにひわだぶきの、上におひたるから松
一 から松のみぎり左に涌くいぢみ、汲めども呑めどもつきひざるもの
一 あさ日さすよう日かゞやく大寺也、さくら色のちごは百人
一 天からおづるちよ硯水、まつて立たれる
一 まゐり来てこの御台所見申せや、め釜を釜に釜は十六
一 十六の釜で御代たく時は、四十八の馬で朝草苅る
一 其馬で朝草にききやう小萱を苅りまぜて、花でかゞやく馬屋なり
一 かゞやく中のかげ駒は、せたいあがれを足がきする
○
一 此庭に歌のぞうじはありと聞く、あしびながらも心はづかし
一 われ/\はきによならひしけふあすぶ、そつ事ごめんなり
一 しやうぢ申せや限なし、一礼申して立てや友だつ
一 まゐり来てこの桝を見申せや、四方四角桝形の庭也
一 まゐり来て此宿を見申せや、人のなさげの宿と申
一 参り来て此お町を見申せや、竪町十五里横七里、△△出羽にまよおな友たつ
○出羽の字もじつは不明なり。
一 まゐり来てこのけんだん様を見申せや、御町間中にはたを立前
一 まいは立町油町
一 けんだん殿は二かい座敷に昼寝すて、銭を枕に金の手遊
一 参り来てこの御札見申せば、おすがいろぢきあるまじき札
一 高き処は城と申し、ひくき処は城下と申す也
一 まゐり来てこの橋を見申せば、こ金の辻に白金のはし
一 まゐり来てこの御堂見申せや、四方四面くさび一本
一 扇とりすゞ取り、上さ参らばりそうある物
○すゞは数珠、りそうは利生か。
一 こりばすらに小金のたる木に、水のせ懸るぐしになみたち
○こりばすら文字不分明。
一 此庭に歌の上ずはありと聞く、歌へながらも心はづかし
一 おんげんべりこおらいべり、山と花ござ是の御庭へさらゝすかれ
○雲繝縁、高麗縁なり。
一 まぎゑの台に玉のさかすきよりすゑて、是の御庭へ直し置く
一 十七はちやうすひやけ御手にもぢをすやく廻や御庭かゝやく
一 この御酒一つ引受たもるなら、命長くじめうさかよる
一 さかなには鯛もすゞきもござれ共、おどにきこいしからのかるうめ
一 正ぢ申や限なし、一礼申て立や友たつ、京
一 仲だぢ入れよや仲入れろ、仲たづなけれや庭はすんげない
一 すかの子は生れておりれや山めぐる、我等も
廻る庭めぐる
○すかの子は鹿の子なり。遠野の獅子踊の面は鹿のようなり。
一 これの御庭におい柱の立つときは、ちのみがき若くなるもの
○ちのみがきは鹿の角磨きなるべし。
一 松島の松をそだてゝ見どすれば、松にからするちたのえせもの
○ちたは蔦。
一 松島の松にからまるちたの葉も、えんが
無れやぶろりふぐれる
一 京で九貫のから絵のびよぼ、三よへにさらりたてまはす
○びよぼは屏風なり。三よへは三四重か、この歌最もおもしろし。
一 仲たぢ入れろや仲入れろ、仲立なけれや庭すんげなえ
○めず
ぐりは鹿の
妻択びなるべし。
一 鹿の子は生れおりれや山廻る、我らもめぐる庭を廻るな
一
女鹿たづねていかんとして
白山の御山かすみかゝる
○して、字は〆てとあり。不明
一 うるすやな風はかすみを吹き払て、今こそ女鹿あけてたちねる
○うるすやなは嬉しやななり。
一 何と女鹿はかくれてもひと村すゝきあけてたつねる
一 笹のこのはの女鹿子は、何とかくてもおひき出さる
一 女鹿大鹿ふりを見ろ、鹿の心みやこなるもの
一 奥のみ山の大鹿はことすはじめておどりでき
候
一 女鹿とらてあうがれて心ぢくすくをろ鹿かな
一 松島の松をそだてゝ見とすれば松にからまるちたのえせもの
一 松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぞろりふぐれる
一 沖のと
中の浜す鳥、ゆらりこがれるそろりたつ物
一 なげくさを如何御人は御出あつた、出た御人は心ありがたい
一 この
代を
如何な大工は御
指しあた、四つ
角て宝遊ばし
一 この御酒を如何な御酒だと
思し
召す、おどに聞いしが
菊の酒
一
此銭を如何な銭たと思し召す、伊勢お八まち銭
熊野参の
遣ひあまりか
一 此紙を如何な紙と思し召す、はりまだんぜかかしま紙か、おりめにそたひ遊はし
○播磨檀紙にや。
一 あふぎのお所いぢくなり、あふぎの御所三内の宮、内てすめるはかなめなり
、おりめにそたかさなる
○いぢくなりはいずこなるなり。三内の字不明。仮にかくよめり。
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