その時の弟子の恰好かつかうは、まるで酒甕を転がしたやうだとでも申しませうか。何しろ手も足もむごたらしく折り曲げられて居りますから、動くのは唯首ばかりでございます。そこへ肥つた体中の血が、鎖に循環めぐりを止められたので、顔と云はず胴と云はず、一面に皮膚の色が赤み走つて参るではございませんか。が、良秀にはそれも格別気にならないと見えまして、その酒甕のやうな体のまはりを、あちこちと廻つて眺めながら、同じやうな写真の図を何枚となく描いて居ります。その間、縛られてゐる弟子の身が、どの位苦しかつたかと云ふ事は、何もわざ/\取り立てゝ申し上げるまでもございますまい。
 が、もし何事も起らなかつたと致しましたら、この苦しみは恐らくまだその上にも、つゞけられた事でございませう。幸(と申しますより、或は不幸にと申した方がよろしいかも知れません。)暫く致しますと、部屋の隅にある壺の蔭から、まるで黒い油のやうなものが、一すぢ細くうねりながら、流れ出して参りました。それが始の中は余程粘り気のあるものゝやうに、ゆつくり動いて居りましたが、だん/\滑らかに、すべり始めて、やがてちら/\光りながら、鼻の先まで流れ着いたのを眺めますと、弟子は思はず、息を引いて、
「蛇が――蛇が。」とわめきました。その時は全く体中の血が一時に凍るかと思つたと申しますが、それも無理はございません。蛇は実際もう少しで、鎖の食ひこんでゐる、頸の肉へその冷い舌の先を触れようとしてゐたのでございます。この思ひもよらない出来事には、いくら横道な良秀でも、ぎよつと致したのでございませう。慌てて画筆を投げ棄てながら、咄嗟に身をかがめたと思ふと、素早く蛇の尾をつかまへて、ぶらりと逆に吊り下げました。蛇は吊り下げられながらも、頭を上げて、きり/\と自分の体へ巻つきましたが、どうしてもあの男の手の所まではとどきません。
「おのれ故に、あつたら一筆ひとふで仕損しそんじたぞ。」
 良秀は忌々しさうにかう呟くと、蛇はその儘部屋の隅の壺の中へ抛りこんで、それからさも不承無承ふしようぶしように、弟子の体へかゝつてゐる鎖を解いてくれました。それも唯解いてくれたと云ふ丈で、肝腎の弟子の方へは、優しい言葉一つかけてはやりません。大方弟子が蛇に噛まれるよりも、写真の一筆を誤つたのが、業腹ごふはらだつたのでございませう。――後で聞きますと、この蛇もやはり姿を写す為にわざ/\あの男が飼つてゐたのださうでございます。
 これだけの事を御聞きになつたのでも、良秀の気違ひじみた、薄気味の悪い夢中になり方が、ほゞ御わかりになつた事でございませう。所が最後に一つ、今度はまだ十三四の弟子が、やはり地獄変の屏風の御かげで、云はゞ命にもかゝはりねない、恐ろしい目に出遇ひました。その弟子は生れつき色の白い女のやうな男でございましたが、或夜の事、何気なく師匠の部屋へ呼ばれて参りますと、良秀は燈台の火の下でてのひらに何やらなまぐさい肉をのせながら、見慣れない一羽の鳥を養つてゐるのでございます。大きさはまづ、世の常の猫ほどもございませうか。さう云へば、耳のやうに両方へつき出た羽毛と云ひ、琥珀こはくのやうな色をした、大きな円いまなこと云ひ、見た所も何となく猫に似て居りました。


 元来良秀と云ふ男は、何でも自分のしてゐる事にくちばしを入れられるのが大嫌ひで、先刻申し上げた蛇などもさうでございますが、自分の部屋の中に何があるか、一切さう云ふ事は弟子たちにも知らせた事がございません。でございますから、或時は机の上に髑髏されかうべがのつてゐたり、或時は又、しろがねの椀や蒔絵の高坏たかつきが並んでゐたり、その時描いてゐる画次第で、随分思ひもよらない物が出て居りました。が、ふだんはかやうな品を、一体どこにしまつて置くのか、それは又誰にもわからなかつたさうでございます。あの男が福徳の大神の冥助を受けてゐるなどゝ申す噂も、一つは確にさう云ふ事が起りになつてゐたのでございませう。
 そこで弟子は、机の上のその異様な鳥も、やはり地獄変の屏風を描くのに入用なのに違ひないと、かう独り考へながら、師匠の前へかしこまつて、「何か御用でございますか」と、恭々しく申しますと、良秀はまるでそれが聞えないやうに、あの赤い唇へ舌なめずりをして、
「どうだ。よく馴れてゐるではないか。」と、鳥の方へあごをやります。
「これは何と云ふものでございませう。私はついぞまだ、見た事がございませんが。」
 弟子はかう申しながら、この耳のある、猫のやうな鳥を、気味悪さうにじろじろ眺めますと、良秀は不相変あひかはらず何時もの嘲笑あざわらふやうな調子で、
「なに、見た事がない? 都育ちの人間はそれだから困る。これは二三日前に鞍馬の猟師がわしにくれた耳木兎みゝづくと云ふ鳥だ。唯、こんなに馴れてゐるのは、沢山あるまい。」
 かう云ひながらあの男は、おもむろに手をあげて、丁度餌を食べてしまつた耳木兎の背中の毛を、そつと下から撫で上げました。するとその途端でございます。鳥は急に鋭い声で、短く一声啼いたと思ふと、忽ち机の上から飛び上つて、両脚の爪を張りながら、いきなり弟子の顔へとびかゝりました。もしその時、弟子が袖をかざして、慌てゝ顔を隠さなかつたなら、きつともうきずの一つや二つは負はされて居りましたらう。あつと云ひながら、その袖を振つて、逐ひ払はうとする所を、耳木兎はかさにかかつて、嘴を鳴らしながら、又一突き――弟子は師匠の前も忘れて、立つては防ぎ、坐つては逐ひ、思はず狭い部屋の中を、あちらこちらと逃げ惑ひました。怪鳥けてうも元よりそれにつれて、高く低くかけりながら、隙さへあれば驀地まつしぐらに眼を目がけて飛んで来ます。その度にばさ/\と、凄じく翼を鳴すのが、落葉の匂だか、滝の水沫しぶきとも或は又猿酒のゑたいきれだか何やら怪しげなものゝけはひを誘つて、気味の悪さと云つたらございません。さう云へばその弟子も、うす暗い油火の光さへおぼろげな月明りかと思はれて、師匠の部屋がその儘遠い山奥の、妖気に閉された谷のやうな、心細い気がしたとか申したさうでございます。
 しかし弟子が恐しかつたのは、何も耳木兎に襲はれると云ふ、その事ばかりではございません。いや、それよりも一層身の毛がよだつたのは、師匠の良秀がその騒ぎを冷然と眺めながら、徐に紙をべ筆をねぶつて、女のやうな少年が異形な鳥にさいなまれる、物凄い有様を写してゐた事でございます。弟子は一目それを見ますと、忽ち云ひやうのない恐ろしさにおびやかされて、実際一時は師匠の為に、殺されるのではないかとさへ、思つたと申して居りました。


 実際師匠に殺されると云ふ事も、全くないとは申されません。現にその晩わざわざ弟子を呼びよせたのでさへ、実は耳木兎をけしかけて、弟子の逃げまはる有様を写さうと云ふ魂胆らしかつたのでございます。でございますから、弟子は、師匠の容子を一目見るが早いか、思はず両袖に頭を隠しながら、自分にも何と云つたかわからないやうな悲鳴をあげて、その儘部屋の隅の遣戸やりどの裾へ、居すくまつてしまひました。とその拍子に、良秀も何やら慌てたやうな声をあげて、立上つた気色でございましたが、忽ち耳木兎の羽音が一層前よりもはげしくなつて、物の倒れる音や破れる音が、けたゝましく聞えるではございませんか。これには弟子も二度、度を失つて、思はず隠してゐた頭を上げて見ますと、部屋の中は何時かまつ暗になつてゐて、師匠の弟子たちを呼び立てる声が、その中で苛立しさうにして居ります。
 やがて弟子の一人が、遠くの方で返事をして、それから灯をかざしながら、急いでやつて参りましたが、その煤臭すゝくさあかりで眺めますと、結燈台ゆひとうだいが倒れたので、床も畳も一面に油だらけになつた所へ、さつきの耳木兎が片方の翼ばかり、苦しさうにはためかしながら、転げまはつてゐるのでございます。良秀は机の向うで半ば体を起した儘、流石に呆気あつけにとられたやうな顔をして、何やら人にはわからない事を、ぶつ/\呟いて居りました。――それも無理ではございません。あの耳木兎の体には、まつ黒な蛇が一匹、頸から片方の翼へかけて、きりきりと捲きついてゐるのでございます。大方これは弟子が居すくまる拍子に、そこにあつた壺をひつくり返して、その中の蛇が這ひ出したのを、耳木兎がなまじひに掴みかゝらうとしたばかりに、とう/\かう云ふ大騒ぎが始まつたのでございませう。二人の弟子は互に眼と眼とを見合せて、暫くは唯、この不思議な光景をぼんやり眺めて居りましたが、やがて師匠に黙礼をして、こそ/\部屋へ引き下つてしまひました。蛇と耳木兎とがその後どうなつたか、それは誰も知つてゐるものはございません。――
 かう云ふたぐひの事は、その外まだ、幾つとなくございました。前には申し落しましたが、地獄変の屏風を描けと云ふ御沙汰があつたのは、秋の初でございますから、それ以来冬の末まで、良秀の弟子たちは、絶えず師匠の怪しげな振舞におびやかされてゐた訳でございます。が、その冬の末に良秀は何か屏風の画で、自由にならない事が出来たのでございませう、それまでよりは、一層容子も陰気になり、物云ひも目に見えて、荒々しくなつて参りました。と同時に又屏風の画も、下画が八分通り出来上つた儘、更にはかどる模様はございません。いや、どうかすると今までに描いた所さへ、塗り消してもしまひ兼ねない気色なのでございます。
 その癖、屏風の何が自由にならないのだか、それは誰にもわかりません。又、誰もわからうとしたものもございますまい。前のいろ/\な出来事に懲りてゐる弟子たちは、まるで虎狼と一つをりにでもゐるやうな心もちで、その後師匠の身のまはりへは、成る可く近づかない算段をして居りましたから。


 従つてその間の事に就いては、別に取り立てゝ申し上げる程の御話もございません。もし強ひて申し上げると致しましたら、それはあの強情な老爺おやぢが、何故なぜか妙に涙もろくなつて、人のゐない所では時々独りで泣いてゐたと云ふ御話位なものでございませう。殊に或日、何かの用で弟子の一人が、庭先へ参りました時なぞは廊下に立つてぼんやり春の近い空を眺めてゐる師匠の眼が、涙で一ぱいになつてゐたさうでございます。弟子はそれを見ますと、反つてこちらが恥しいやうな気がしたので、黙つてこそ/\引き返したと申す事でございますが、五趣生死ごしゆしやうじの図を描く為には、道ばたの屍骸さへ写したと云ふ、傲慢なあの男が、屏風の画が思ふやうに描けない位の事で、子供らしく泣き出すなどと申すのは、随分異なものでございませんか。
 所が一方良秀がこのやうに、まるで正気の人間とは思はれない程夢中になつて、屏風の絵を描いて居ります中に、又一方ではあの娘が、何故かだん/\気鬱になつて、私どもにさへ涙を堪へてゐる容子が、眼に立つて参りました。それが元来愁顔うれひがほの、色の白い、つゝましやかな女だけに、かうなると何だか睫毛まつげが重くなつて、眼のまはりにくまがかゝつたやうな、余計寂しい気が致すのでございます。初はやれ父思ひのせゐだの、やれ恋煩ひをしてゐるからだの、いろ/\臆測を致したものがございますが、中頃から、なにあれは大殿様が御意に従はせようとしていらつしやるのだと云ふ評判が立ち始めて、それからは誰も忘れた様に、ぱつたりあの娘の噂をしなくなつて了ひました。
 丁度その頃の事でございませう。或夜、かうけてから、私が独り御廊下を通りかゝりますと、あの猿の良秀がいきなりどこからか飛んで参りまして、私の袴の裾を頻りにひつぱるのでございます、確、もう梅の匂でも致しさうな、うすい月の光のさしてゐる、暖い夜でございましたが、其明りですかして見ますと、猿はまつ白な歯をむき出しながら、鼻の先へ皺をよせて、気が違はないばかりにけたゝましく啼き立てゝゐるではございませんか。私は気味の悪いのが三分と、新しい袴をひつぱられる腹立たしさが七分とで、最初は猿を蹴放して、その儘通りすぎようかとも思ひましたが、又思ひ返して見ますと、前にこの猿を折檻して、若殿様の御不興を受けたさむらひの例もございます。それに猿の振舞が、どうも唯事とは思はれません。そこでとう/\私も思ひ切つて、そのひつぱる方へ五六間歩くともなく歩いて参りました。
 すると御廊下が一曲り曲つて、夜目にもうす白い御池の水が枝ぶりのやさしい松の向うにひろ/″\と見渡せる、丁度そこ迄参つた時の事でございます。どこか近くの部屋の中で人の争つてゐるらしいけはひが、あわたゞしく、又妙にひつそりと私の耳を脅しました。あたりはどこもしんと静まり返つて、月明りとももやともつかないものゝ中で、魚の跳る音がする外は、話し声一つ聞えません。そこへこの物音でございますから。私は思はず立止つて、もし狼藉者らうぜきものでゞもあつたなら、目にもの見せてくれようと、そつとその遣戸の外へ、息をひそめながら身をよせました。


 所が猿は私のやり方がまだるかつたのでございませう。良秀はさもさももどかしさうに、二三度私の足のまはりを駈けまはつたと思ひますと、まるでのどを絞められたやうな声で啼きながら、いきなり私の肩のあたりへ一足飛に飛び上りました。私は思はずうなじを反らせて、その爪にかけられまいとする、猿は又水干すゐかんの袖にかじりついて、私の体からすべり落ちまいとする、――その拍子に、私はわれ知らず二足三足よろめいて、その遣り戸へ後ざまに、したゝか私の体を打ちつけました。かうなつてはもう一刻も躊躇してゐる場合ではございません。私は矢庭に遣り戸を開け放して、月明りのとどかない奥の方へ跳りこまうと致しました。が、その時私の眼をさへぎつたものは――いや、それよりももつと私は、同時にその部屋の中から、弾かれたやうに駈け出さうとした女の方に驚かされました。女は出合頭に危く私に衝き当らうとして、その儘外へ転び出ましたが、何故なぜかそこへ膝をついて、息を切らしながら私の顔を、何か恐ろしいものでも見るやうに、をのゝき/\見上げてゐるのでございます。
 それが良秀の娘だつたことは、何もわざ/\申し上げるまでもございますまい。が、その晩のあの女は、まるで人間が違つたやうに、生々いき/\と私の眼に映りました。眼は大きくかゞやいて居ります。頬も赤く燃えて居りましたらう。そこへしどけなく乱れた袴やうちぎが、何時もの幼さとは打つて変つたなまめかしささへも添へてをります。これが実際あの弱々しい、何事にも控へ目勝な良秀の娘でございませうか。――私は遣り戸に身を支へて、この月明りの中にゐる美しい娘の姿を眺めながら、慌しく遠のいて行くもう一人の足音を、指させるものゝやうに指さして、誰ですと静に眼で尋ねました。
 すると娘は唇を噛みながら、黙つて首をふりました。その容子が如何にも亦、口惜くやしさうなのでございます。
 そこで私は身をかゞめながら、娘の耳へ口をつけるやうにして、今度は「誰です」と小声で尋ねました。が、娘はやはり首を振つたばかりで、何とも返事を致しません。いや、それと同時に長い睫毛まつげの先へ、涙を一ぱいためながら、前よりもかたく唇を噛みしめてゐるのでございます。
 性得しやうとくおろかな私には、分りすぎてゐる程分つてゐる事の外は、生憎あいにく何一つ呑みこめません。でございますから、私はことばのかけやうも知らないで、暫くは唯、娘の胸の動悸に耳を澄ませるやうな心もちで、ぢつとそこに立ちすくんで居りました。尤もこれは一つには、何故かこの上問ひたゞすのが悪いやうな、気咎めが致したからでもございます。――
 それがどの位続いたか、わかりません。が、やがて明け放した遣り戸を閉しながら少しは上気のめたらしい娘の方を見返つて、「もう曹司へ御帰りなさい」と出来る丈やさしく申しました。さうして私も自分ながら、何か見てはならないものを見たやうな、不安な心もちに脅されて、誰にともなく恥しい思ひをしながら、そつと元来た方へ歩き出しました。所が十歩と歩かない中に、誰か又私の袴の裾を、後から恐る/\、引き止めるではございませんか。私は驚いて、振り向きました。あなた方はそれが何だつたと思召します?
 見るとそれは私の足もとにあの猿の良秀が、人間のやうに両手をついて、黄金の鈴を鳴しながら、何度となく丁寧に頭を下げてゐるのでございました。


 するとその晩の出来事があつてから、半月ばかり後の事でございます。或日良秀は突然御邸へ参りまして、大殿様へぢきの御眼通りを願ひました。卑しい身分のものでございますが、日頃から格別御意に入つてゐたからでございませう。誰にでも容易に御会ひになつた事のない大殿様が、その日も快く御承知になつて、早速御前近くへ御召しになりました。あの男は例の通り、香染めの狩衣にえた烏帽子を頂いて、何時もよりは一層気むづかしさうな顔をしながら、恭しく御前へ平伏致しましたが、やがてしはがれた声で申しますには
「兼ね/″\御云ひつけになりました地獄変の屏風でございますが、私も日夜に丹誠をぬきんでて、筆を執りました甲斐が見えまして、もはやあらましは出来上つたのも同前でございまする。」
「それは目出度い。予も満足ぢや。」
 しかしかう仰有おつしやる大殿様の御声には、何故なぜか妙に力の無い、張合のぬけた所がございました。
「いえ、それが一向目出度くはござりませぬ。」良秀は、稍腹立しさうな容子で、ぢつと眼を伏せながら、「あらましは出来上りましたが、唯一つ、今以て私には描けぬ所がございまする。」
「なに、描けぬ所がある?」
「さやうでございまする。私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。よし描けても、得心が参りませぬ。それでは描けぬも同じ事でございませぬか。」
 これを御聞きになると、大殿様の御顔には、嘲るやうな御微笑が浮びました。
「では地獄変の屏風を描かうとすれば、地獄を見なければなるまいな。」
「さやうでござりまする。が、私は先年大火事がございました時に、炎熱地獄の猛火まうくわにもまがふ火の手を、眼のあたりに眺めました。「よぢり不動」の火焔を描きましたのも、実はあの火事に遇つたからでございまする。御前もあの絵は御承知でございませう。」
「しかし罪人はどうぢや。獄卒は見た事があるまいな。」大殿様はまるで良秀の申す事が御耳にはいらなかつたやうな御容子で、かう畳みかけて御尋ねになりました。
「私はくろがねくさりいましめられたものを見た事がございまする。怪鳥に悩まされるものゝ姿も、つぶさに写しとりました。されば罪人の呵責かしやくに苦しむ様も知らぬと申されませぬ。又獄卒は――」と云つて、良秀は気味の悪い苦笑を洩しながら、「又獄卒は、夢現ゆめうつゝに何度となく、私の眼に映りました。或は牛頭ごづ、或は馬頭めづ、或は三面六臂さんめんろつぴの鬼の形が、音のせぬ手を拍き、声の出ぬ口を開いて、私をさいなみに参りますのは、殆ど毎日毎夜のことと申してもよろしうございませう。――私の描かうとして描けぬのは、そのやうなものではございませぬ。」
 それには大殿様も、流石に御驚きになつたでございませう。暫くは唯苛立いらだたしさうに、良秀の顔を睨めて御出になりましたが、やがて眉を険しく御動かしになりながら、
「では何が描けぬと申すのぢや。」と打捨るやうに仰有いました。


「私は屏風の唯中に、檳榔毛びらうげの車が一輛空から落ちて来る所を描かうと思つて居りまする。」良秀はかう云つて、始めて鋭く大殿様の御顔を眺めました。あの男は画の事と云ふと、気違ひ同様になるとは聞いて居りましたが、その時の眼のくばりには確にさやうな恐ろしさがあつたやうでございます。
「その車の中には、一人のあでやかな上﨟が、猛火の中に黒髪を乱しながら、悶え苦しんでゐるのでございまする。顔は煙にむせびながら、眉をひそめて、空ざまに車蓋やかたを仰いで居りませう。手は下簾したすだれを引きちぎつて、降りかゝる火の粉の雨を防がうとしてゐるかも知れませぬ。さうしてそのまはりには、怪しげな鷙鳥が十羽となく、二十羽となく、くちばしを鳴らして紛々と飛びめぐつてゐるのでございまする。――あゝ、それが、その牛車の中の上﨟が、どうしても私には描けませぬ。」
「さうして――どうぢや。」
 大殿様はどう云ふ訳か、妙に悦ばしさうな御気色で、かう良秀を御促しになりました。が、良秀は例の赤い唇を熱でも出た時のやうに震はせながら、夢を見てゐるのかと思ふ調子で、
「それが私には描けませぬ。」と、もう一度繰返しましたが、突然噛みつくやうな勢ひになつて、
「どうか檳榔毛の車を一輛、私の見てゐる前で、火をかけて頂きたうございまする。さうしてもし出来まするならば――」
 大殿様は御顔を暗くなすつたと思ふと、突然けたたましく御笑ひになりました。さうしてその御笑ひ声に息をつまらせながら、仰有いますには、
「おゝ、万事その方が申す通りに致して遣はさう。出来る出来ぬの詮議は無益むやくの沙汰ぢや。」
 私はその御言を伺ひますと、虫の知らせか、何となく凄じい気が致しました。実際又大殿様の御容子も、御口の端には白く泡がたまつて居りますし、御眉のあたりにはびく/\といなづまが走つて居りますし、まるで良秀のもの狂ひに御染みなすつたのかと思ふ程、唯ならなかつたのでございます。それがちよいと言を御切りになると、すぐ又何かがぜたやうな勢ひで、止め度なく喉を鳴らして御笑ひになりながら、
「檳榔毛の車にも火をかけよう。又その中にはあでやかな女を一人、上﨟のよそほひをさせて乗せて遣はさう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が、悶え死をする――それを描かうと思ひついたのは、流石に天下第一の絵師ぢや。褒めてとらす。おゝ、褒めてとらすぞ。」
 大殿様の御言葉を聞きますと、良秀は急に色を失つてあへぐやうに唯、唇ばかり動して居りましたが、やがて体中の筋が緩んだやうに、べたりと畳へ両手をつくと、
「難有い仕合でございまする。」と、聞えるか聞えないかわからない程低い声で、丁寧に御礼を申し上げました。これは大方自分の考へてゐた目ろみの恐ろしさが、大殿様の御言葉につれてあり/\と目の前へ浮んで来たからでございませうか。私は一生の中に唯一度、この時だけは良秀が、気の毒な人間に思はれました。


 それから二三日した夜の事でございます。大殿様は御約束通り、良秀を御召しになつて、檳榔毛の車の焼ける所を、目近く見せて御やりになりました。尤もこれは堀河の御邸であつた事ではございません。俗に雪解ゆきげの御所と云ふ、昔大殿様の妹君がいらしつた洛外の山荘で、御焼きになつたのでございます。
 この雪解の御所と申しますのは、久しくどなたも御住ひにはならなかつた所で、広い御庭も荒れ放題荒れ果てて居りましたが、大方この人気のない御容子を拝見した者の当推量でございませう。こゝで御歿おなくなりになつた妹君の御身の上にも、兎角の噂が立ちまして、中には又月のない夜毎々々に、今でも怪しい御袴おんはかまの緋の色が、地にもつかず御廊下を歩むなどと云ふ取沙汰を致すものもございました。――それも無理ではございません。昼でさへ寂しいこの御所は、一度日が暮れたとなりますと、みづの音が一際ひときは陰に響いて、星明りに飛ぶ五位鷺も、怪形けぎやうの物かと思ふ程、気味が悪いのでございますから。
 丁度その夜はやはり月のない、まつ暗な晩でございましたが、大殿油おほとのあぶらの灯影で眺めますと、縁に近く座を御占めになつた大殿様は、浅黄の直衣なほしに濃い紫の浮紋の指貫さしぬきを御召しになつて、白地の錦の縁をとつた円座わらふだに、高々とあぐらを組んでいらつしやいました。その前後左右に御側の者どもが五六人、恭しく居並んで居りましたのは、別に取り立てて申し上げるまでもございますまい。が、中に一人、眼だつて事ありげに見えたのは、先年陸奥みちのくの戦ひに餓ゑて人の肉を食つて以来、鹿の生角いきづのさへ裂くやうになつたと云ふ強力がうりきの侍が、下に腹巻を着こんだ容子で、太刀を鴎尻かもめじりらせながら、御縁の下にいかめしくつくばつてゐた事でございます。――それが皆、夜風になびく灯の光で、或は明るく或は暗く、殆ど夢現ゆめうつゝを分たない気色で、何故かもの凄く見え渡つて居りました。
 その上に又、御庭に引き据ゑた檳榔毛の車が、高い車蓋やかたにのつしりとやみを抑へて、牛はつけず黒いながえを斜にしぢへかけながら、金物かなもの黄金きんを星のやうに、ちらちら光らせてゐるのを眺めますと、春とは云ふものゝ何となく肌寒い気が致します。尤もその車の内は、浮線綾のふちをとつた青い簾が、重く封じこめて居りますから、はこには何がはいつてゐるか判りません。さうしてそのまはりには仕丁たちが、手ん手に燃えさかる松明まつを執つて、煙が御縁の方へ靡くのを気にしながら、仔細しさいらしく控へて居ります。
 当の良秀はやゝ離れて、丁度御縁の真向に、ひざまづいて居りましたが、これは何時もの香染めらしい狩衣にえた揉烏帽子を頂いて、星空の重みに圧されたかと思ふ位、何時もよりは猶小さく、見すぼらしげに見えました。その後に又一人、同じやうな烏帽子狩衣のうづくまつたのは、多分召し連れた弟子の一人ででもございませうか。それが丁度二人とも、遠いうす暗がりの中に蹲つて居りますので、私のゐた御縁の下からは、狩衣の色さへ定かにはわかりません。


 時刻は彼是真夜中にも近かつたでございませう。林泉をつゝんだ暗がひつそりと声を呑んで、一同のする息を窺つてゐると思ふ中には、唯かすかな夜風の渡る音がして、松明の煙がその度に煤臭い匂を送つて参ります。大殿様は暫く黙つて、この不思議な景色をぢつと眺めていらつしやいましたが、やがて膝を御進めになりますと、
「良秀、」と、鋭く御呼びかけになりました。
 良秀は何やら御返事を致したやうでございますが、私の耳には唯、唸るやうな声しか聞えて参りません。
「良秀。今宵はその方の望み通り、車に火をかけて見せて遣はさう。」
 大殿様はかう仰有つて、御側の者たちの方をながに御覧になりました。その時何か大殿様と御側の誰彼との間には、意味ありげな微笑が交されたやうにも見うけましたが、これは或は私の気のせゐかも分りません。すると良秀はおそおそる頭を挙げて御縁の上を仰いだらしうございますが、やはり何も申し上げずに控へて居ります。
「よう見い。それは予が日頃乗る車ぢや。その方も覚えがあらう。――予はその車にこれから火をかけて、目のあたりに炎熱地獄を現ぜさせる心算つもりぢやが。」
 大殿様は又言を御止めになつて、御側の者たちにめくばせをなさいました。それから急に苦々しい御調子で、「その内には罪人の女房が一人、いましめた儘、乗せてある。されば車に火をかけたら、必定その女めは肉を焼き骨を焦して、四苦八苦の最期を遂げるであらう。その方が屏風を仕上げるには、又とないよい手本ぢや。雪のやうな肌が燃えたゞれるのを見のがすな。黒髪が火の粉になつて、舞ひ上るさまもよう見て置け。」
 大殿様は三度口を御噤おつぐみになりましたが、何を御思ひになつたのか、今度は唯肩を揺つて、声も立てずに御笑ひなさりながら、
「末代までもない観物ぢや。予もここで見物しよう。それ/\、みすを揚げて、良秀に中の女を見せて遣さぬか。」
 おほせを聞くと仕丁の一人は、片手に松明まつの火を高くかざしながら、つか/\と車に近づくと、矢庭に片手をさし伸ばして、簾をさらりと揚げて見せました。けたゝましく音を立てて燃える松明の光は、一しきり赤くゆらぎながら、忽ち狭いはこの中を鮮かに照し出しましたが、?とこの上にむごたらしく、鎖にかけられた女房は――あゝ、誰か見違へを致しませう。きらびやかなぬひのある桜の唐衣からぎぬにすべらかし黒髪が艶やかに垂れて、うちかたむいた黄金の釵子さいしも美しく輝いて見えましたが、身なりこそ違へ、小造りな体つきは、色の白いうなじのあたりは、さうしてあの寂しい位つゝましやかな横顔は、良秀の娘に相違ございません。私は危く叫び声を立てようと致しました。
 その時でございます。私と向ひあつてゐた侍はあわたゞしく身を起して、柄頭つかがしらを片手に抑へながら、きつと良秀の方を睨みました。それに驚いて眺めますと、あの男はこの景色に、半ば正気を失つたのでございませう。今まで下にうづくまつてゐたのが、急に飛び立つたと思ひますと、両手を前へ伸した儘、車の方へ思はず知らず走りかゝらうと致しました。唯生憎前にも申しました通り、遠い影の中に居りますので、顔貌かほかたちははつきりと分りません。しかしさう思つたのはほんの一瞬間で、色を失つた良秀の顔は、いや、まるで何か目に見えない力が、宙へ吊り上げたやうな良秀の姿は、忽ちうす暗がりを切り抜いてあり/\と眼前へ浮び上りました。娘を乗せた檳榔毛の車が、この時、「火をかけい」と云ふ大殿様の御言と共に、仕丁たちが投げる松明の火を浴びて炎々と燃え上つたのでございます。


 火は見る/\中に、車蓋やかたをつゝみました。ひさしについた紫の流蘇ふさが、煽られたやうにさつと靡くと、その下から濛々と夜目にも白い煙が渦を巻いて、或はすだれ、或は袖、或はむね金物かなものが、一時に砕けて飛んだかと思ふ程、火の粉が雨のやうに舞ひ上る――その凄じさと云つたらございません。いや、それよりもめらめらと舌を吐いて袖格子そでがうしからみながら、半空なかぞらまでも立ち昇る烈々とした炎の色は、まるで日輪が地に落ちて、天火てんくわほとばしつたやうだとでも申しませうか。前に危く叫ばうとした私も、今は全くたましひを消して、唯茫然と口を開きながら、この恐ろしい光景を見守るより外はございませんでした。しかし親の良秀は――
 良秀のその時の顔つきは、今でも私は忘れません。思はず知らず車の方へ駆け寄らうとしたあの男は、火が燃え上ると同時に、足を止めて、やはり手をさし伸した儘、食ひ入るばかりの眼つきをして、車をつゝむ焔煙を吸ひつけられたやうに眺めて居りましたが、満身に浴びた火の光で、皺だらけな醜い顔は、髭の先までもよく見えます。が、その大きく見開いた眼の中と云ひ、引き歪めた唇のあたりと云ひ、或は又絶えず引きつてゐる頬の肉のふるへと云ひ、良秀の心に交々こも/″\往来する恐れと悲しみと驚きとは、歴々と顔に描かれました。首をねられる前の盗人でも、乃至は十王の庁へ引き出された、十逆五悪の罪人でも、あゝまで苦しさうな顔を致しますまい。これには流石にあの強力がうりきの侍でさへ、思はず色を変へて、畏る/\大殿様の御顔を仰ぎました。
 が、大殿様はかたく唇を御噛みになりながら、時々気味悪く御笑ひになつて、眼も放さずぢつと車の方を御見つめになつていらつしやいます。さうしてその車の中には――あゝ、私はその時、その車にどんな娘の姿を眺めたか、それを詳しく申し上げる勇気は、到底あらうとも思はれません。あの煙にむせんで仰向あふむけた顔の白さ、焔をはらつてふり乱れた髪の長さ、それから又見る間に火と変つて行く、桜の唐衣からぎぬの美しさ、――何と云ふむごたらしい景色でございましたらう。殊に夜風が一下ひとおろしして、煙が向うへ靡いた時、赤い上に金粉をいたやうな、焔の中から浮き上つて、髪を口に噛みながら、いましめの鎖も切れるばかり身悶えをした有様は、地獄の業苦を目のあたりへ写し出したかと疑はれて、私始め強力の侍までおのづと身の毛がよだちました。
 するとその夜風が又一渡り、御庭の木々の梢にさつと通ふ――と誰でも、思ひましたらう。さう云ふ音が暗い空を、どことも知らず走つたと思ふと、忽ち何か黒いものが、地にもつかず宙にも飛ばず、まりのやうに躍りながら、御所の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一文字にとびこみました。さうして朱塗のやうな袖格子が、ばら/\と焼け落ちる中に、のけつた娘の肩を抱いて、きぬを裂くやうな鋭い声を、何とも云へず苦しさうに、長く煙の外へ飛ばせました。続いて又、二声三声――私たちは我知らず、あつと同音に叫びました。壁代かべしろのやうな焔を後にして、娘の肩にすがつてゐるのは、堀河の御邸に繋いであつた、あの良秀と諢名あだなのある、猿だつたのでございますから。その猿が何処をどうしてこの御所まで、忍んで来たか、それは勿論誰にもわかりません。が、日頃可愛がつてくれた娘なればこそ、猿も一しよに火の中へはひつたのでございませう。


 が、猿の姿が見えたのは、ほんの一瞬間でございました。金梨子地きんなしぢのやうな火の粉が一しきり、ぱつと空へ上つたかと思ふ中に、猿は元より娘の姿も、黒煙の底に隠されて、御庭のまん中には唯、一輛の火の車がすさまじい音を立てながら、たぎつてゐるばかりでございます。いや、火の車と云ふよりも、或は火の柱と云つた方が、あの星空を衝いて煮え返る、恐ろしい火焔の有様にはふさはしいかも知れません。
 その火の柱を前にして、凝り固まつたやうに立つてゐる良秀は、――何と云ふ不思議な事でございませう。あのさつきまで地獄の責苦せめくに悩んでゐたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、たゝずんでゐるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映つてゐないやうなのでございます。唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――さう云ふ景色に見えました。
 しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しさうに眺めてゐた、そればかりではございません。その時の良秀には、何故か人間とは思はれない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげなおごそかさがございました。でございますから不意の火の手に驚いて、啼き騒ぎながら飛びまはる数の知れない夜鳥でさへ、気のせゐか良秀の揉烏帽子のまはりへは、近づかなかつたやうでございます。恐らくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、円光の如く懸つてゐる、不可思議な威厳が見えたのでございませう。
 鳥でさへさうでございます。まして私たちは仕丁までも、皆息をひそめながら、身の内も震へるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて、まるで開眼の仏でも見るやうに、眼も離さず、良秀を見つめました。空一面に鳴り渡る車の火と、それに魂を奪はれて、立ちすくんでゐる良秀と――何と云ふ荘厳、何と云ふ歓喜でございませう。が、その中でたつた、御縁の上の大殿様だけは、まるで別人かと思はれる程、御顔の色も青ざめて、口元に泡を御ためになりながら、紫の指貫さしぬきの膝を両手にしつかり御つかみになつて、丁度喉の渇いた獣のやうにあへぎつゞけていらつしやいました。……


 その夜雪解の御所で、大殿様が車を御焼きになつた事は、誰の口からともなく世上へ洩れましたが、それに就いては随分いろ/\な批判を致すものも居つたやうでございます。まづ第一に何故なぜ大殿様が良秀の娘を御焼き殺しなすつたか、――これは、かなはぬ恋の恨みからなすつたのだと云ふ噂が、一番多うございました。が、大殿様の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描かうとする絵師根性のよこしまなのを懲らす御心算おつもりだつたのに相違ございません。現に私は、大殿様が御口づからさう仰有おつしやるのを伺つた事さへございます。
 それからあの良秀が、目前で娘を焼き殺されながら、それでも屏風の画を描きたいと云ふその木石のやうな心もちが、やはり何かとあげつらはれたやうでございます。中にはあの男をのゝしつて、画の為には親子の情愛も忘れてしまふ、人面獣心の曲者くせものだなどと申すものもございました。あの横川よがはの僧都様などは、かう云ふ考へに味方をなすつた御一人で、「如何に一芸一能に秀でやうとも、人として五常をわきまへねば、地獄に堕ちる外はない」などと、よく仰有つたものでございます。
 所がその後一月ばかりつて、愈々地獄変の屏風が出来上りますと良秀は早速それを御邸へ持つて出て、恭しく大殿様の御覧に供へました。丁度その時は僧都様も御居合はせになりましたが、屏風の画を一目御覧になりますと、流石にあの一帖の天地に吹きすさんでゐる火の嵐の恐しさに御驚きなすつたのでございませう。それまでは苦い顔をなさりながら、良秀の方をじろ/\睨めつけていらしつたのが、思はず知らず膝を打つて、「出かし居つた」と仰有いました。この言を御聞きになつて、大殿様が苦笑なすつた時の御容子も、未だに私は忘れません。
 それ以来あの男を悪く云ふものは、少くとも御邸の中だけでは、殆ど一人もゐなくなりました。誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思つてゐるにせよ、不思議におごそかな心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦艱だいくげんを如実に感じるからでもございませうか。
 しかしさうなつた時分には、良秀はもうこの世に無い人の数にはいつて居りました。それも屏風の出来上つた次の夜に、自分の部屋のはりへ縄をかけて、くびれ死んだのでございます。一人娘を先立てたあの男は、恐らく安閑として生きながらへるのに堪へなかつたのでございませう。屍骸は今でもあの男の家の跡に埋まつて居ります。尤も小さなしるしの石は、その後何十年かの雨風あめかぜさらされて、とうの昔誰の墓とも知れないやうに、苔蒸こけむしてゐるにちがひございません。
――大正七年四月――