私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を
憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を
執っても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字などはとても使う気にならない。
私が先生と知り合いになったのは
鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという
端書を受け取ったので、私は多少の金を
工面して、出掛ける事にした。私は金の工面に
二、
三日を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と
経たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに
勧まない結婚を
強いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに
肝心の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は
固より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
学校の授業が始まるにはまだ
大分日数があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に
留まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の
息子で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって
一人ぼっちになった私は別に
恰好な宿を探す面倒ももたなかったのである。
宿は鎌倉でも
辺鄙な方角にあった。
玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い
畷を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
私は毎日海へはいりに出掛けた。古い
燻ぶり返った
藁葺の
間を通り抜けて
磯へ下りると、この
辺にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が
銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう
賑やかな景色の中に
裹まれて、砂の上に
寝そべってみたり、
膝頭を波に打たしてそこいらを
跳ね
廻るのは愉快であった。
私は実に先生をこの
雑沓の
間に見付け出したのである。その時海岸には
掛茶屋が二軒あった。私はふとした
機会からその一軒の方に行き
慣れていた。
長谷辺に大きな別荘を構えている人と違って、
各自に専有の
着換場を
拵えていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった
風なものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息する
外に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで
鹹はゆい
身体を清めたり、ここへ帽子や
傘を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ
一切を
脱ぎ
棄てる事にしていた。
私がその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった。私はその時反対に
濡れた
身体を風に吹かして水から上がって来た。二人の
間には目を
遮る幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が
放漫であったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を
伴れていたからである。
その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや
否や、すぐ私の注意を
惹いた。純粋の日本の
浴衣を着ていた彼は、それを
床几の上にすぽりと
放り出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。彼は我々の
穿く
猿股一つの
外何物も肌に着けていなかった。私にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に
由井が
浜まで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子を
眺めていた。私の
尻をおろした所は少し小高い丘の上で、そのすぐ
傍がホテルの裏口になっていたので、私の
凝としている
間に、
大分多くの男が塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と
股は出していなかった。女は
殊更肉を隠しがちであった。大抵は頭に
護謨製の
頭巾を
被って、
海老茶や
紺や
藍の色を波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の
眼には、猿股一つで済まして
皆なの前に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
彼はやがて自分の
傍を顧みて、そこにこごんでいる日本人に、
一言二言何かいった。その日本人は砂の上に落ちた
手拭を拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。
私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の
後姿を見守っていた。すると彼らは
真直に波の中に足を踏み込んだ。そうして
遠浅の
磯近くにわいわい騒いでいる
多人数の
間を通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ
身体を
拭いて着物を着て、さっさとどこへか行ってしまった。
彼らの出て行った
後、私はやはり元の
床几に腰をおろして
烟草を吹かしていた。その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなかった。しかしどうしてもいつどこで会った人か
想い出せずにしまった。
その時の私は
屈托がないというよりむしろ
無聊に苦しんでいた。それで
翌日もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ
掛茶屋まで出かけてみた。すると西洋人は来ないで先生一人
麦藁帽を
被ってやって来た。先生は
眼鏡をとって台の上に置いて、すぐ
手拭で頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が
昨日のように騒がしい
浴客の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその
後が追い掛けたくなった。私は浅い水を頭の上まで
跳かして相当の深さの所まで来て、そこから先生を
目標に
抜手を切った。すると先生は昨日と違って、一種の
弧線を
描いて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。それで私の目的はついに達せられなかった。私が
陸へ上がって
雫の垂れる手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。
私は次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した。けれども物をいい掛ける機会も、
挨拶をする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいくら
賑やかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその
後まるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
或る時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に
脱ぎ
棄てた
浴衣を着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向きになって、浴衣を二、三度
振った。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の
隙間から下へ落ちた。先生は
白絣の上へ
兵児帯を締めてから、眼鏡の
失くなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ
腰掛の下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
次の日私は先生の
後につづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。二
丁ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い
蒼い海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より
外になかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に
充ちた筋肉を動かして海の中で
躍り狂った。先生はまたぱたりと手足の運動を
已めて仰向けになったまま
浪の上に寝た。私もその
真似をした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促した。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の
路を浜辺へ引き返した。
私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
それから
中二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と
掛茶屋で出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ
大分長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に
極りが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の
境内にある別荘のような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も
解った。私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の
口癖だといって弁解した。私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう
鎌倉にいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり
交際をもたないのに、そういう外国人と
近付きになったのは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時
暗に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく
沈吟したあとで、「どうも君の顔には
見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。
私は月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は先生と別れる時に、「これから折々お
宅へ伺っても
宜ござんすか」と聞いた。先生は
単簡にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりでいたので、先生からもう少し
濃かな言葉を予期して
掛ったのである。それでこの物足りない返事が少し私の自信を
傷めた。
私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に
揺かされるたびに、もっと前へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのか
解らなかった。それが先生の亡くなった
今日になって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の
素気ない
挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。
傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから
止せという警告を与えたのである。
他の懐かしみに応じない先生は、
他を
軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。
私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の
日数があるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日と
経つうちに、
鎌倉にいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に
彩られる大都会の空気が、記憶の復活に伴う強い
刺戟と共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の
弛みができてきた。私は何だか不足な顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の
室の中を
見廻した。私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
始めて先生の
宅を訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。晴れた空が身に
沁み込むように感ぜられる
好い
日和であった。その日も先生は留守であった。鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも
大抵宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、
理由もない不満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。
下女の顔を見て少し
躊躇してそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた
内へはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
私はその人から
鄭寧に先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると
雑司ヶ谷の墓地にある
或る仏へ花を
手向けに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。私は
会釈して外へ出た。
賑かな町の方へ一
丁ほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ
踵を
回らした。
私は墓地の手前にある
苗畠の左側からはいって、両方に
楓を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。するとその
端れに見える
茶店の中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の
眼鏡の
縁が日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
先生は同じ言葉を二
遍繰り返した。その言葉は
森閑とした昼の
中に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも
応えられなくなった。
「私の
後を
跟けて来たのですか。どうして……」
先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の
中には
判然いえないような一種の曇りがあった。
私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「
誰の墓へ参りに行ったか、
妻がその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」
先生はようやく
得心したらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで
解らなかった。
先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。
依撒伯拉何々の墓だの、
神僕ロギンの墓だのという
傍に、
一切衆生悉有仏生と書いた
塔婆などが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と
彫り付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦笑した。
先生はこれらの墓標が現わす
人種々の様式に対して、私ほどに
滑稽もアイロニーも認めてないらしかった。私が丸い
墓石だの細長い
御影の
碑だのを指して、しきりにかれこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ
真面目に考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
墓地の区切り目に、大きな
銀杏が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い
梢を見上げて、「もう少しすると、
綺麗ですよ。この木がすっかり
黄葉して、ここいらの地面は
金色の落葉で
埋まるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。
向うの方で
凸凹の地面をならして新墓地を作っている男が、
鍬の手を休めて私たちを見ていた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
これからどこへ行くという
目的のない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生はいつもより口数を
利かなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行った。
「すぐお
宅へお帰りですか」
「ええ別に寄る所もありませんから」
二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
「いいえ」
「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」
「いいえ」
先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一
町ほど歩いた
後で、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
「お友達のお墓へ
毎月お参りをなさるんですか」
「そうです」
先生はその日これ以外を語らなかった。
私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う
度数が重なるにつれて、私はますます
繁く先生の玄関へ足を運んだ。
けれども先生の私に対する態度は初めて
挨拶をした時も、懇意になったその
後も、あまり変りはなかった。先生は
何時も静かであった。ある時は静か過ぎて
淋しいくらいであった。私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が
後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、
馬鹿げていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた
嬉しく思っている。人間を愛し
得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の
懐に
入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。
今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が
射すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその曇りを先生の
眉間に認めたのは、
雑司ヶ谷の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一時の
結滞に過ぎなかった。私の心は五分と
経たないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、
小春の尽きるに
間のない
或る晩の事であった。
先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた
銀杏の
大樹を
眼の前に
想い浮かべた。勘定してみると、先生が
毎月例として墓参に行く日が、それからちょうど三日目に当っていた。その三日目は私の課業が
午で
終える楽な日であった。私は先生に向かってこういった。
「先生
雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ
空坊主にはならないでしょう」
先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった。
「今度お
墓参りにいらっしゃる時にお
伴をしても
宜ござんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなすったらちょうど
好いじゃありませんか」
先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、どこまでも
墓参と散歩を切り離そうとする
風に見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。
「じゃお墓参りでも
好いからいっしょに
伴れて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の
眉がちょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも
嫌悪とも
畏怖とも片付けられない
微かな不安らしいものであった。私は
忽ち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、
他といっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の
妻さえまだ伴れて行った事がないのです」
私は不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその
宅へ
出入りをするのではなかった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ
尊むべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい
交際ができたのだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を
繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。それだから
尊いのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい
眼で研究されるのを絶えず恐れていたのである。
私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の
宅へ行くようになった。私の足が段々
繁くなった時のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお
邪魔なんですか」
「邪魔だとはいいません」
なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の
極めて狭い事を知っていた。先生の元の同級生などで、その
頃東京にいるものはほとんど二人か三人しかないという事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは
皆な私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。
「私は
淋しい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは
幾歳ですか」といった。
この問答は私にとってすこぶる
不得要領のものであったが、私はその時
底まで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と
経たないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出るや
否や笑い出した。
「また来ましたね」といった。
「ええ来ました」といって自分も笑った。
私は
外の人からこういわれたらきっと
癪に
触ったろうと思う。しかし先生にこういわれた時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
「私は
淋しい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに
打つかりたいのでしょう……」
「私はちっとも
淋しくはありません」
「若いうちほど
淋しいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の
宅へ来るのですか」
ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ
淋しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその淋しさを
根元から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは
外の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
先生はこういって淋しい笑い方をした。
幸いにして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の
私は、この予言の
中に含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その
内いつの間にか先生の食卓で
飯を食うようになった。自然の結果奥さんとも口を
利かなければならないようになった。
普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが
源因かどうかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り
除ければ、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいという
外に何の感じも残っていない。
ある時私は先生の
宅で酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て
傍で
酌をしてくれた。先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の
呑み干した
盃を差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた
後、迷惑そうにそれを受け取った。奥さんは
綺麗な
眉を寄せて、私の半分ばかり
注いで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと先生の間に
下のような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は
滅多にないのにね」
「お前は
嫌いだからさ。しかし
稀には飲むといいよ。
好い心持になるよ」
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご
愉快そうね、少しご
酒を召し上がると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
「今夜はいかがです」
「今夜は
好い心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がると
宜ござんすよ」
「そうはいかない」
「召し上がって下さいよ。その方が
淋しくなくって好いから」
先生の
宅は夫婦と
下女だけであった。行くたびに
大抵はひそりとしていた。高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。
或る
時は宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ
蒼蠅いもののように考えていた。
「一人
貰ってやろうか」と先生がいった。
「
貰ッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまで
経ったってできっこないよ」と先生がいった。
奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。
私の知る限り先生と奥さんとは、仲の
好い夫婦の
一対であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論
解らなかったけれども、座敷で私と
対坐している時、先生は何かのついでに、
下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は
静といった)。先生は「おい静」といつでも
襖の方を振り向いた。その呼びかたが私には
優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も
甚だ素直であった。ときたまご
馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の
間に
描き出されるようであった。
先生は時々奥さんを
伴れて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は
箱根から貰った
絵端書をまだ持っている。
日光へ行った時は
紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外があった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも
言逆いらしかった。先生の宅は玄関の次がすぐ座敷になっているので、
格子の前に立っていた私の耳にその
言逆いの調子だけはほぼ分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先生よりも低い
音なので、誰だか
判然しなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いているようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。
妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも
呑み込む能力を失ってしまった。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下から私を誘った。
先刻帯の間へ
包んだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私は帰ったなりまだ
袴を着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
その晩私は先生といっしょに
麦酒を飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は
駄目です」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
私の腹の中には始終
先刻の事が
引っ
懸っていた。
肴の骨が
咽喉に刺さった時のように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、
止した方が
好かろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」
私は何の答えもし得なかった。
「実は
先刻妻と少し
喧嘩をしてね。それで
下らない神経を
昂奮させてしまったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一
丁も二丁もつづいた。その
後で突然先生が口を
利き出した。
「悪い事をした。怒って出たから
妻はさぞ心配をしているだろう。考えると女は
可哀そうなものですね。
私の妻などは私より
外にまるで頼りにするものがないんだから」
先生の言葉はちょっとそこで
途切れたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し
滑稽だが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
「
中位に見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。
先生の
宅へ帰るには私の下宿のつい
傍を通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお
宅の前までお
伴しましょうか」といった。先生は
忽ち手で私を
遮った。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、
妻君のために」
先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその
後も長い間この「妻君のために」という言葉を忘れなかった。
先生と奥さんの間に起った
波瀾が、大したものでない事はこれでも
解った。それがまた
滅多に起る現象でなかった事も、その後絶えず
出入りをして来た私にはほぼ推察ができた。それどころか先生はある時こんな感想すら私に
洩らした。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。
妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の
一対であるべきはずです」
私は今前後の
行き
掛りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、
判然いう事ができない。けれども先生の態度の
真面目であったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。私は心の
中で
疑らざるを得なかった。けれどもその疑いは一時限りどこかへ
葬られてしまった。
私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人
差向いで話をする機会に出合った。先生はその日
横浜を
出帆する汽船に乗って外国へ行くべき友人を
新橋へ送りに行って留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその
頃の習慣であった。私はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する
礼義としてその日突然起った出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。