その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。
私はむしろ先生の態度に
畏縮して、先へ進む気が起らなかったのである。
二人は市の
外れから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」といった。私は笑って帽子を
脱った。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと
疑った。その眼、その口、どこにも
厭世的の影は
射していなかった。
私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が
間々あったといわなければならない。先生の談話は時として
不得要領に終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸の
裏に残った。
無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと
解ってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」
「私は何にも隠してやしません」
「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で
纏め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を
悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
先生はあきれたといった
風に、私の顔を見た。
巻烟草を持っていたその手が少し
顫えた。
「あなたは大胆だ」
「ただ
真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を
訐いてもですか」
訐くという言葉が、突然恐ろしい
響きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に
坐っているのが、一人の
罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は
蒼かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の
因果で、人を
疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で
好いから、
他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が
増かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。
私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り及第した。卒業式の日、私は
黴臭くなった古い冬服を
行李の中から出して着た。式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない
厚羅紗の下に密封された自分の
身体を持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。
私は式が済むとすぐ帰って
裸体になった。下宿の二階の窓をあけて、
遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、
室の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
私はその晩先生の家へ
御馳走に招かれて行った。これはもし卒業したらその日の
晩餐はよそで
喰わずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
食卓は約束通り座敷の
縁近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い
糊の
硬い
卓布が美しくかつ清らかに電燈の光を
射返していた。先生のうちで
飯を食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、
箸や
茶碗が置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての
真白なものに限られていた。
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、
一層始めから色の着いたものを使うが
好い。白ければ純白でなくっちゃ」
こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に
整然と片付いていた。
無頓着な私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
「先生は
癇性ですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」と答えた事があった。それを
傍に聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に
馬鹿馬鹿しい
性分だ」といって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私には
解らなかった。奥さんにも
能く通じないらしかった。
その晩私は先生と向い合せに、例の白い
卓布の前に
坐った。奥さんは二人を左右に置いて、
独り庭の方を正面にして席を占めた。
「お目出とう」といって、先生が私のために
杯を上げてくれた。私はこの
盃に対してそれほど
嬉しい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの
源因であった。けれども先生のいい方も決して私の
嬉しさを
唆る
浮々した調子を帯びていなかった。先生は笑って
杯を上げた。私はその笑いのうちに、
些とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も
汲み取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。
奥さんは私に「結構ね。さぞお
父さんやお
母さんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
卒業証書の
在処は二人ともよく知らなかった。
飯になった時、奥さんは
傍に
坐っている
下女を次へ立たせて、自分で
給仕の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の
仕来りらしかった。始めの一、二回は
私も窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、
茶碗を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。
「お茶? ご
飯? ずいぶんよく食べるのね」
奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに
調戯われるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた
近頃大変
小食になったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと
水菓子を運ばせた。
「これは
宅で
拵えたのよ」
用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に
振舞うだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯
更えてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、
敷居際で背中を
障子に
靠たせていた。
私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという
目的もなかった。返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお
役人?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれが
善いか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと
解らないんだから、選択に困る訳だと思います」
「それもそうね。けれどもあなたは
必竟財産があるからそんな
呑気な事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
「
碌なかぶれ方をして下さらないのね」
先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの
躑躅の咲いている五月の初めを思い出した。あの時帰り
途に、先生が
昂奮した語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ
凄い言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、お
宅の財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、
宅へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」
先生は庭の方を向いて、澄まして
烟草を吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでも
宜いとして、あなたはこれから何か
為さらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」
「ごろごろばかりしていやしないさ」
先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。
私はその夜十時過ぎに先生の家を辞した。二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座を立つ前に私はちょっと
暇乞いの言葉を述べた。
「また当分お目にかかれませんから」
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月
頃になるでしょう」
「じゃずいぶんご
機嫌よう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた
絵端書でも送って上げましょう」
「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
「何まだ行くとも行かないとも
極めていやしないんです」
席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」と聞いた。私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。
「そんなに
容易く考えられる病気じゃありませんよ。
尿毒症が出ると、もう
駄目なんだから」
尿毒症という言葉も意味も私には
解らなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。
「本当に大事にしてお上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へ
廻るようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも
憶い出したのか、沈んだ調子でこういったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。
すると先生が突然奥さんの方を向いた。
「
静、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
「なぜ」
「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも
己の方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ
旦那が先で、
細君が後へ残るのが当り前のようになってるね」
「そう
極った訳でもないわ。けれども男の
方はどうしても、そら年が上でしょう」
「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね」
「あなたは特別よ」
「そうかね」
「だって丈夫なんですもの。ほとんど
煩った
例がないじゃありませんか。そりゃどうしたって私の方が先だわ」
「先かな」
「え、きっと先よ」
先生は私の顔を見た。私は笑った。
「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」
「どうするって……」
奥さんはそこで
口籠った。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分を
更えていた。
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。
老少不定っていうくらいだから」
奥さんはことさらに私の方を見て
笑談らしくこういった。
私は立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」と先生が聞いた。
先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、
固より私に判断のつくべき問題ではなかった。私はただ笑っていた。
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと
極った年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生のお
父さんやお母さんなんか、ほとんど
同じよ、あなた、亡くなったのが」
「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれを
遮った。
「そんな話はお
止しよ。つまらないから」
先生は手に持った
団扇をわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。
「
静、おれが死んだらこの
家をお前にやろう」
奥さんは笑い出した。
「ついでに地面も下さいよ」
「地面は
他のものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは
皆なお前にやるよ」
「どうも有難う。けれども横文字の本なんか
貰っても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ
何遍おっしゃるの。
後生だからもう
好い加減にして、おれが死んだらは
止して
頂戴。
縁喜でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんの
厭がる事をいわなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお
大事に」と奥さんがいった。
「また九月に」と先生がいった。
私は
挨拶をして
格子の外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした
木犀の
一株が、私の
行手を
塞ぐように、
夜陰のうちに枝を張っていた。私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に
被われているその
梢を見て、来たるべき秋の花と香を
想い浮べた。私は先生の
宅とこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。私が偶然その
樹の前に立って、再びこの宅の玄関を
跨ぐべき次の秋に思いを
馳せた時、今まで格子の間から
射していた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に
調える買物もあったし、ご
馳走を詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ
賑やかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな
男女がぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。彼は私を無理やりにある
酒場へ連れ込んだ。私はそこで
麦酒の泡のような彼の
気燄を聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。
私はその
翌日も暑さを
冒して、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変
臆劫に感ぜられた。私は電車の中で汗を
拭きながら、
他の時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない
田舎者を憎らしく思った。
私はこの
一夏を無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを
履行するに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を
丸善の二階で
潰す覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。
買物のうちで一番私を困らせたのは女の
半襟であった。小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上
価が
極めて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを
煩わさなかったかを悔いた。
私は
鞄を買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを
威嚇かすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに
一切の
土産ものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の
料簡が
解らないというよりも、その言葉が一種の
滑稽として訴えたのである。
私は
暇乞いをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の
到底故のような健康体になる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは
定めて心細いだろう、我々も子として
遺憾の
至りであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事を
想い浮べた。ことに二、三日前
晩食に呼ばれた時の会話を
憶い出した。
「どっちが先へ死ぬだろう」
私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと
判然分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより
外に仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。私は人間を
果敢ないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。