「私は早速さっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは宅中うちじゅうで一番へやでした。本郷辺ほんごうへんに高等下宿といったふうの家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好いの様子を心得ていました。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。
 室の広さは八畳でした。とこの横にちがだながあって、えんと反対の側には一間いっけん押入おしいれが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向みなみむきの縁に明るい日がよく差しました。
 私は移った日に、その室のとこけられた花と、その横に立てけられたことを見ました。どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶せんちゃたしなむ父のそばで育ったので、からめいた趣味を小供こどものうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういうなまめかしい装飾をいつの間にか軽蔑けいべつする癖が付いていたのです。
 私の父が存生中ぞんしょうちゅうにあつめた道具類は、例の叔父おじのために滅茶滅茶めちゃめちゃにされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。それからそのうちで面白そうなものを四、五ふく裸にして行李こうりの底へ入れて来ました。私は移るやいなや、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いった琴と活花いけばなを見たので、急に勇気がなくなってしまいました。あとから聞いて始めてこの花が私に対するご馳走ちそうに活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。
 こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭をかすめて通るでしょう。移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気じゃきが予備的に私の自然を損なったためか、または私がまだ人慣ひとなれなかったためか、私は始めてそこのおじょうさんに会った時、へどもどした挨拶あいさつをしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
 私はそれまで未亡人びぼうじん風采ふうさいや態度からして、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君さいくんだからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、ことごとく打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性のにおいが新しく入って来ました。私はそれから床の正面にけてある花がいやでなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
 その花はまた規則正しくしおれるころになると活けえられるのです。琴も度々たびたびかぎの手に折れ曲がった筋違すじかいへやに運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖ほおづえを突きながら、その琴のを聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよくわからないのです。けれども余り込み入った手をかないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決してうまい方ではなかったのです。
 それでも臆面おくめんなく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方いけかたはいつ見ても同じ事でした。それから花瓶かへいもついぞ変ったためしがありませんでした。しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向いっこう肉声を聞かせないのです。うたわないのではありませんが、まるで内所話ないしょばなしでもするように小さな声しか出さないのです。しかもしかられると全く出なくなるのです。
 私は喜んでこの下手な活花をながめては、まずそうな琴のに耳を傾けました。


「私の気分は国を立つ時すでに厭世的えんせいてきになっていました。ひとは頼りにならないものだという観念が、その時骨の中までみ込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父おじだの叔母おばだの、その親戚しんせきだのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱ちんうつでした。鉛をんだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭くとがってしまったのです。
 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因げんいんになっているように思われます。金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい懐中ふところに余裕ができても、好んでそんな面倒な真似まねはしなかったでしょう。
 私は小石川こいしかわへ引き移ってからも、当分この緊張した気分にくつろぎを与える事ができませんでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻みまわしていました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私はうちのものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前にすわっていました。時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上にそそいでいたのです。おれは物をぬすまない巾着切きんちゃくきりみたようなものだ、私はこう考えて、自分がいやになる事さえあったのです。
 あなたはさだめて変に思うでしょう。その私がそこのおじょうさんをどうしてく余裕をもっているか。そのお嬢さんの下手な活花いけばなを、どうしてうれしがってながめる余裕があるか。同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというよりほかに仕方がないのです。解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ一言いちごん付け足しておきましょう。私は金に対して人類をうたぐったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だからひとから見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
 私は未亡人びぼうじんの事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、大人おとなしい男と評しました。それから勉強家だともめてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよくわかりませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚おうようかただといって、さも尊敬したらしい口のき方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と真面目まじめに説明してくれました。奥さんは始め私のような書生をうちへ置くつもりではなかったらしいのです。どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷ざしきを貸す料簡りょうけんで、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給がゆたかでなくって、やむをえず素人屋しろうとやに下宿するくらいの人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸にえがいたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといってめるのです。なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれは気性きしょうの問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女だけにそれを私の全体にし広げて、同じ言葉を応用しようとつとめるのです。


「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。自分の心が自分のすわっている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました。要するに奥さん始めうちのものが、ひがんだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。
 奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんなふうに取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、実際私を鷹揚おうようだと観察していたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で胡魔化ごまかされていたのかもわかりません。
 私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも笑談じょうだんをいうようになりました。茶を入れたからといって向うのへやへ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域がえたように感じました。それがために大切な勉強の時間をつぶされる事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には一向いっこう邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより閑人ひまじんでした。お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
 私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私のへやの前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室のふすまの影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そこへ来てちょっとまります。それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます。私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、はたで見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。ページの上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」と聞くのです。
 お嬢さんの部屋へやは茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は仕切しきりがあっても、ないと同じ事で、親子二人がったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。私が外から声を掛けると、「おはいんなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても滅多めったに返事をした事がありませんでした。
 時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこにすわって話し込むような場合もそのうちに出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安におかされて来るのです。そうして若い女とただ差向さしむかいで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はかえって平気でした。これが琴をさらうのに声さえろくに出せなかった[#「出せなかった」は底本では「出せなかったの」]あの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。それでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれがわかっていました。よく解るように振舞って見せる痕迹こんせきさえ明らかでした。


「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息ひといきするのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしそのころの私たちは大抵そんなものだったのです。
 奥さんは滅多めったに外出した事がありませんでした。たまにうちを留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子をく観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、る場合には、私に対してあんに警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。
 私は奥さんの態度をどっちかに片付かたづけてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。しかし叔父おじあざむかれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いをさしはさまずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかがいつわりだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私にはみ込めなかったのです。理由わけを考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字になすり付けて我慢した事もありました。必竟ひっきょう女だからああなのだ、女というものはどうせなものだ。私の考えは行きまればいつでもここへ落ちて来ました。
 それほど女を見縊みくびっていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私の理屈はその人の前に全く用をさないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、気高けだかい気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに両端りょうはじがあって、その高いはじには神聖な感じが働いて、低い端には性欲せいよくが動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点をつらまえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体からだでした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉のにおいを帯びていませんでした。
 私は母に対して反感をいだくと共に、子に対して恋愛の度をして行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それがたがちがいに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのをむのだと解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念のきざさなかった私は、その時らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。


「私は奥さんの態度を色々綜合そうごうして見て、私がここのうちで充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。ひとうたぐり始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、だまされるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。私はひとを信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。
 私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかったのです。私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうとつとめました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の国元の事情を知りたがるのです。私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない。帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました。私は話してい事をしたと思いました。私はうれしかったのです。
 私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。それからは私を自分の親戚みよりに当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の猜疑心さいぎしんがまた起って来ました。
 私が奥さんをうたぐり始めたのは、ごく些細ささいな事からでした。しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父おじと同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようとつとめるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾こうかつな策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々にがにがしい唇をみました。
 奥さんは最初から、無人ぶにんさむしいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私もそれをうそとは思いませんでした。懇意になって色々打ち明け話を聞いたあとでも、そこに間違まちがいはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大してゆたかだというほどではありませんでした。利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。
 私はまた警戒を加えました。けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を嘲笑ちょうしょうしました。馬鹿だなといって、自分をののしった事もあります。しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。私の煩悶はんもんは、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくってたまらなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。


「私は相変らず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした。眼の中へはいる活字は心の底までみ渡らないうちにけむのごとく消えて行くのです。私はその上無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、冥想めいそうふけってでもいるかのように、の友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合のい仮面を人が貸してくれたのを、かえって仕合しあわせとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に焦燥はしゃまわって彼らを驚かした事もあります。
 私の宿は人出入ひとでいりの少ないうちでした。親類も多くはないようでした。お嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが、きわめて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きませんでした。私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、うちの人に気兼きがねをするほどな男は一人もなかったのですから。そんなところになると、下宿人の私は主人あるじのようなもので、肝心かんじんのお嬢さんがかえって食客いそうろう位地いちにいたと同じ事です。
 しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければお嬢さんのへやで、突然男の声が聞こえるのです。その声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らないのです。そうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の昂奮こうふんを与えるのです。私はすわっていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのです。それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。坐っていてそんな事の知れようはずがありません。そうかといって、って行って障子しょうじを開けて見る訳にはなおいきません。私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。お嬢さんや奥さんの返事は、また極めて簡単でした。私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで追窮ついきゅうする勇気をもっていなかったのです。権利は無論もっていなかったのでしょう。私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を裏切うらぎりしている物欲しそうな顔付かおつきとを同時に彼らの前に示すのです。彼らは笑いました。それが嘲笑ちょうしょうの意味でなくって、好意から来たものか、また好意らしく見せるつもりなのか、私は即坐に解釈の余地を見出みいだし得ないほど落付おちつきを失ってしまうのです。そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、何遍なんべんも心のうちで繰り返すのです。
 私は自由な身体からだでした。たとい学校を中途でめようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこの何者と結婚しようが、だれとも相談する必要のない位地に立っていました。私は思い切って奥さんにお嬢さんをもらい受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました。けれどもそのたびごとに私は躊躇ちゅうちょして、口へはとうとう出さずにしまったのです。断られるのが恐ろしいからではありません。もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですから、そのくらいの勇気は出せば出せたのです。しかし私はおびき寄せられるのがいやでした。ひとの手に乗るのは何よりも業腹ごうはらでした。叔父おじだまされた私は、これから先どんな事があっても、人には欺されまいと決心したのです。


「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物をこしらえろといいました。私は実際田舎いなかで織った木綿もめんものしかもっていなかったのです。そのころの学生はいとはいった着物を肌に着けませんでした。私の友達に横浜よこはま商人あきんどなにかで、うちはなかなか派出はでに暮しているものがありましたが、そこへある時羽二重はぶたえ胴着どうぎが配達で届いた事があります。するとみんながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、折角せっかくの胴着を行李こうりの底へほうり込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着にしらみがたかりました。友達はちょうどさいわいとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津ねづの大きな泥溝どぶの中へててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の所作しょさながめていましたが、私の胸のどこにも勿体もったいないという気は少しも起りませんでした。
 その頃から見ると私も大分だいぶ大人になっていました。けれどもまだ自分で余所行よそゆきの着物を拵えるというほどの分別ふんべつは出なかったのです。私は卒業してひげを生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。それで奥さんに書物はるが着物は要らないといいました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。買った本をみんな読むのかと聞くのです。私の買うもののうちには字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありながら、ページさえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口実のもとに、お嬢さんの気に入るような帯か反物たんものを買ってやりたかったのです。それで万事を奥さんに依頼しました。
 奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩きまわる習慣をもっていなかったものです。その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少躊躇ちゅうちょしましたが、思い切って出掛けました。
 お嬢さんは大層着飾っていました。地体じたいが色の白いくせに、白粉おしろいを豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。
 三人は日本橋にほんばしへ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったよりひまがかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々反物たんものをお嬢さんの肩から胸へたててておいて、私に二、三歩遠退とおのいて見てくれろというのです。私はそのたびごとに、それは駄目だめだとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。
 こんな事で時間がかかって帰りは夕飯ゆうめしの時刻になりました。奥さんは私に対するお礼に何かご馳走ちそうするといって、木原店きはらだなという寄席よせのある狭い横丁よこちょうへ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせるうちも狭いものでした。このへんの地理を一向いっこう心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。
 我々はってうちへ帰りました。その翌日あくるひは日曜でしたから、私は終日へやうちに閉じこもっていました。月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調戯からかわれました。いつさいを迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君さいくんは非常に美人だといってめるのです。私は三人づれで日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。


「私はうちへ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかし定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんなふうにして、女から気を引いて見られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその時自分の考えている通りを直截ちょくせつに打ち明けてしまえば好かったかも知れません。しかし私にはもう狐疑こぎという薩張さっぱりしないかたまりがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいとまりました。そうして話の角度を故意に少しらしました。
 私は肝心かんじんの自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分だいぶ重きを置いているらしく見えました。めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それからお嬢さんよりほかに子供がないのも、容易に手離したがらない源因げんいんになっていました。嫁にやるか、むこを取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
 話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は機会をいっしたと同様の結果におちいってしまいました。私は自分について、ついに一言いちごんも口を開く事ができませんでした。私はい加減なところで話を切り上げて、自分のへやへ帰ろうとしました。
 さっきまでそばにいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その後姿うしろすがたを見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にしてすわっていました。その戸棚の一しゃくばかりいている隙間すきまから、お嬢さんは何か引き出してひざの上へ置いてながめているらしかったのです。私の眼はその隙間のはじに、一昨日おととい買った反物たんものを見付け出しました。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
 私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければわからないほど不意でした。それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然はっきりした時、私はなるべくゆっくらな方がいいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。
 奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男がり込まなければならない事になりました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化をきたしています。もしその男が私の生活の行路こうろを横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男をうち引張ひっぱって来たのです。無論奥さんの許諾きょだくも必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。ところが奥さんはせといいました。私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私のいと思うところをいて断行してしまいました。


「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供こどもの時からの仲好なかよしでした。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは真宗しんしゅうの坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生れた地方は大変本願寺派ほんがんじはの勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんはほかのものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃としごろになったとすると、檀家だんかのものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんのふところから出るのではありません。そんな訳で真宗寺しんしゅうでらは大抵有福ゆうふくでした。
 Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談がまとまったものかどうか、そこも私には分りません。とにかくKは医者のうちへ養子に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。私は教場きょうじょうで先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。
 Kの養子先もかなりな財産家でした。Kはそこから学資をもらって東京へ出て来たのです。出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。その時分は一つへやによく二人も三人も机を並べて寝起ねおきしたものです。Kと私も二人で同じにいました。山で生捕いけどられた動物が、おりの中で抱き合いながら、外をにらめるようなものでしたろう。二人は東京と東京の人をおそれました。それでいて六畳のの中では、天下を睥睨へいげいするような事をいっていたのです。
 しかし我々は真面目まじめでした。我々は実際偉くなるつもりでいたのです。ことにKは強かったのです。寺に生れた彼は、常に精進しょうじんという言葉を使いました。そうして彼の行為動作はことごとくこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬いけいしていました。
 Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、わかりません。ともかくも彼は普通の坊さんよりははるかに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。元来Kの養家ようかでは彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母をあざむくと同じ事ではないかとなじりました。大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この漠然ばくぜんとした言葉がたっとく響いたのです。よし解らないにしても気高けだかい心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする意気組いきぐみいやしいところの見えるはずはありません。私はKの説に賛成しました。私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。一図いちずな彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知していたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当しとうになるくらいな語気で私は賛成したのです。


「Kとわたくしは同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。
 最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。駒込こまごめのある寺の一間ひとまを借りて勉強するのだといっていました。私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼ははたして大観音おおがんのんそばの汚い寺の中にこもっていました。彼の座敷は本堂のすぐ傍の狭いへやでしたが、彼はそこで自分の思う通りに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。私はその時彼の生活の段々坊さんらしくなって行くのを認めたように思います。彼は手頸てくび珠数じゅずを懸けていました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する真似まねをして見せました。彼はこうして日に何遍なんべんも珠数の輪を勘定するらしかったのです。ただしその意味は私にはわかりません。円い輪になっているものを一粒ずつ数えてゆけば、どこまで数えていっても終局はありません。Kはどんな所でどんな心持がして、爪繰つまぐる手を留めたでしょう。つまらない事ですが、私はよくそれを思うのです。
 私はまた彼の室に聖書を見ました。私はそれまでにおきょうの名を度々たびたび彼の口から聞いた覚えがありますが、基督教キリストきょうについては、問われた事も答えられたためしもなかったのですから、ちょっと驚きました。私はその理由わけたずねずにはいられませんでした。Kは理由はないといいました。これほど人の有難ありがたがる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。その上彼は機会があったら、『コーラン』も読んでみるつもりだといいました。彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。
 二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。帰っても専門の事は何にもいわなかったものとみえます。うちでもまたそこに気が付かなかったのです。あなたは学校教育を受けた人だから、こういう消息をよく解しているでしょうが、世間は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、驚くべく無知なものです。我々に何でもない事が一向いっこう外部へは通じていません。我々はまた比較的内部の空気ばかり吸っているので、校内の事は細大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖があります。Kはその点にかけて、私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔でまた戻って来ました。国を立つ時は私もいっしょでしたから、汽車へ乗るやいなやすぐどうだったとKに問いました。Kはどうでもなかったと答えたのです。
 三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。私はその時Kに帰国を勧めましたが、Kは応じませんでした。そう毎年まいとしうちへ帰って何をするのだというのです。彼はまた踏みとどまって勉強するつもりらしかったのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、いかに波瀾はらんに富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽欝ゆううつと孤独のさびしさとを一つ胸にいだいて、九月にってまたKにいました。すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。彼は私の知らないうちに、養家先ようかさきへ手紙を出して、こっちから自分のいつわりを白状してしまったのです。彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。今更いまさら仕方がないから、お前の好きなものをやるよりほかみちはあるまいと、向うにいわせるつもりもあったのでしょうか。とにかく大学へ入ってまでも養父母をあざむき通す気はなかったらしいのです。また欺こうとしても、そう長く続くものではないと見抜いたのかも知れません。