「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を
騙すような
不埒なものに学資を送る事はできないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを
私に見せました。Kはまたそれと前後して実家から受け取った
書翰も見せました。これにも前に劣らないほど厳しい
詰責の言葉がありました。
養家先へ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、こっちでも
一切構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それとも
他に妥協の道を講じて、依然養家に
留まるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうかしなければならないのは、月々に必要な学資でした。
私はその点についてKに何か
考えがあるのかと尋ねました。Kは
夜学校の教師でもするつもりだと答えました。その時分は今に比べると、
存外世の中が
寛ろいでいましたから、内職の口はあなたが考えるほど
払底でもなかったのです。私はKがそれで充分やって行けるだろうと考えました。しかし私には私の責任があります。Kが養家の希望に
背いて、自分の行きたい道を行こうとした時、賛成したものは私です。私はそうかといって手を
拱いでいる訳にゆきません。私はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを
跳ね付けました。彼の性格からいって、自活の方が友達の保護の
下に立つより
遥に快よく思われたのでしょう。彼は大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。私は私の責任を
完うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思う通りにさせて、私は手を引きました。
Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。しかし時間を
惜しむ彼にとって、この仕事がどのくらい
辛かったかは想像するまでもない事です。彼は今まで通り勉強の手をちっとも
緩めずに、新しい荷を
背負って猛進したのです。私は彼の健康を
気遣いました。しかし
剛気な彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。
同時に彼と養家との関係は、段々こん
絡がって来ました。時間に余裕のなくなった彼は、前のように私と話す機会を奪われたので、私はついにその
顛末を詳しく聞かずにしまいましたが、解決のますます困難になってゆく事だけは承知していました。人が仲に入って調停を試みた事も知っていました。その人は手紙でKに帰国を
促したのですが、Kは到底
駄目だといって、応じませんでした。この
剛情なところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども、向うから見れば剛情でしょう。そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、実家の
怒りも買うようになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の
効果もありませんでした。私の手紙は
一言の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。私も腹が立ちました。今までも
行掛り上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。
最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったのです。その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉でいえば、まあ
勘当なのでしょう。あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈していました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに
継母に育てられた結果とも見る事ができるようです。もし彼の実の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまで
隔たりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。彼の父はいうまでもなく
僧侶でした。けれども義理堅い点において、むしろ
武士に似たところがありはしないかと疑われます。
「Kの事件が一段落ついた
後で、
私は彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子に行った先は、この人の親類に当るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。
手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。姉が心配しているから、なるべく早く返事を
貰いたいという依頼も付け加えてありました。Kは寺を
嗣いだ兄よりも、
他家へ縁づいたこの姉を好いていました。彼らはみんな一つ腹から生れた
姉弟ですけれども、この姉とKとの間には
大分年歯の差があったのです。それでKの
小供の時分には、
継母よりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。
私はKに手紙を見せました。Kは何ともいいませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の書状が二、三度来たという事を打ち明けました。Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやったのだそうです。運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたために、いくらKに同情があっても、物質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。
私はKと同じような返事を彼の義兄
宛で出しました。その
中に、万一の場合には私がどうでもするから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。これは
固より私の
一存でした。Kの
行先を心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、私を
軽蔑したとより
外に取りようのない彼の実家や
養家に対する意地もあったのです。
Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の
中頃になるまで、約一年半の間、彼は独力で
己れを支えていったのです。ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。それには無論養家を出る出ないの
蒼蠅い問題も手伝っていたでしょう。彼は段々
感傷的になって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で
背負って立っているような事をいいます。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に
横たわる
光明が、次第に彼の眼を
遠退いて行くようにも思って、いらいらするのです。学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に
上るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの
鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の
焦慮り方はまた普通に比べると
遥かに
甚しかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが
専一だと考えました。
私は彼に向って、余計な仕事をするのは
止せといいました。そうして当分
身体を楽にして、遊ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。
剛情なKの事ですから、容易に私のいう事などは聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際いい出して見ると、思ったよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで
酔興です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に
罹っているくらいなのです。私は仕方がないから、彼に向って
至極同感であるような様子を見せました。自分もそういう点に向って、人生を進むつもりだったとついには明言しました。(もっともこれは私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかったのです。Kの説を聞いていると、段々そういうところに釣り込まれて来るくらい、彼には力があったのですから)。最後に私はKといっしょに住んで、いっしょに向上の
路を
辿って行きたいと
発議しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に
跪く事をあえてしたのです。そうして
漸との事で彼を私の家に連れて来ました。
「私の座敷には控えの
間というような四畳が付属していました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには、ぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見ると、
至極不便な
室でした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有にして置く考えだったのですが、Kは狭苦しくっても一人でいる方が
好いといって、自分でそっちのほうを
択んだのです。
前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべくなら
止した方が
好いというのです。私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、世話は焼けないでも、気心の知れない人は
厭だと答えるのです。それでは今
厄介になっている私だって同じ事ではないかと
詰ると、私の気心は初めからよく分っていると弁解して
已まないのです。私は苦笑しました。すると奥さんはまた理屈の方向を
更えます。そんな人を連れて来るのは、私のために悪いから
止せといい直します。なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。
実をいうと私だって
強いてKといっしょにいる必要はなかったのです。けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受け取る時に
躊躇するだろうと思ったのです。彼はそれほど独立心の強い男でした。だから私は彼を私の
宅へ置いて、
二人前の食料を彼の知らない
間にそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。しかし私はKの経済問題について、
一言も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
私はただKの健康について
云々しました。一人で置くとますます人間が
偏屈になるばかりだからといいました。それに付け足して、Kが
養家と
折合の悪かった事や、実家と離れてしまった事や、色々話して聞かせました。私は
溺れかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移してやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと、奥さんにもお嬢さんにも頼みました。私はここまで来て
漸々奥さんを説き伏せたのです。しかし私から何にも聞かないKは、この
顛末をまるで知らずにいました。私もかえってそれを満足に思って、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。
奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や
何かをしてくれました。すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――Kが相変らずむっちりした様子をしているにもかかわらず。
私がKに向って新しい
住居の心持はどうだと聞いた時に、彼はただ
一言悪くないといっただけでした。私からいわせれば悪くないどころではないのです。彼の今までいた所は北向きの湿っぽい
臭いのする汚い
室でした。
食物も室
相応に粗末でした。私の家へ引き移った彼は、
幽谷から
喬木に移った趣があったくらいです。それをさほどに思う
気色を見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、一つは彼の主張からも出ているのです。仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの
贅沢をいうのをあたかも不道徳のように考えていました。なまじい昔の高僧だとか
聖徒だとかの
伝を読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。肉を
鞭撻すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。
私はなるべく彼に
逆らわない方針を取りました。私は氷を
日向へ出して
溶かす工夫をしたのです。今に
融けて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。
「私は奥さんからそういう
風に取り扱われた結果、段々快活になって来たのです。それを自覚していたから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。Kと私とが性格の上において、
大分相違のある事は、長く
交際って来た私によく
解っていましたけれども、私の神経がこの家庭に入ってから多少
角が取れたごとく、Kの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたのです。
Kは私より強い決心を有している男でした。勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。その上持って生れた頭の
質が私よりもずっとよかったのです。
後では専門が違いましたから何ともいえませんが、同じ級にいる
間は、中学でも高等学校でも、Kの方が常に上席を占めていました。私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。けれども私が
強いてKを私の
宅へ
引っ
張って来た時には、私の方がよく事理を
弁えていると信じていました。私にいわせると、彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。これはとくにあなたのために付け足しておきたいのですから聞いて下さい。肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の
刺戟で、発達もするし、破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分はもちろん
傍のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。
粥ばかり食っていると、それ以上の堅いものを
消化す力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。だから何でも食う
稽古をしておけと医者はいうのです。けれどもこれはただ慣れるという意味ではなかろうと思います。次第に刺戟を増すに従って、次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくてはなりますまい。もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみればすぐ
解る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全くここに気が付いていなかったのです。ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと
極めていたらしいのです。
艱苦を繰り返せば、繰り返すというだけの
功徳で、その艱苦が気にかからなくなる時機に
邂逅えるものと信じ切っていたらしいのです。
私はKを説くときに、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。しかしいえばきっと反抗されるに
極っていました。また昔の人の例などを、
引合に持って来るに違いないと思いました。そうなれば私だって、その人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。それを
首肯ってくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまでゆくと容易に
後へは返りません。なお先へ出ます。そうして、口で先へ出た通りを、行為で実現しに
掛ります。彼はこうなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壊しつつ進みます。結果から見れば、彼はただ自己の成功を打ち砕く意味において、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。彼の
気性をよく知った私はついに何ともいう事ができなかったのです。その上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱に
罹っていたように思われたのです。よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。私は彼と
喧嘩をする事は恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感に
堪えなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのはなお
厭でした。それで私は彼が
宅へ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。
「私は
蔭へ
廻って、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼に
祟っているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、彼の心には
錆が出ていたとしか、私には思われなかったのです。
奥さんは取り付き
把のない人だといって笑っていました。お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。では持って
来ようというと、
要らないと断るそうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだといったぎり応対をしないのだそうです。私はただ苦笑している訳にもゆきません。気の毒だから、何とかいってその場を取り
繕っておかなければ済まなくなります。もっともそれは春の事ですから、
強いて火にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。
それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように
力めました。Kと私が話している所へ
家の人を呼ぶとか、または家の人と私が一つ
室に落ち合った所へ、Kを引っ張り出すとか、どっちでもその場合に応じた方法をとって、彼らを接近させようとしたのです。もちろんKはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと
起って室の外へ出ました。またある時はいくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。Kはあんな
無駄話をしてどこが面白いというのです。私はただ笑っていました。しかし心の
中では、Kがそのために私を
軽蔑していることがよく
解りました。
私はある意味から見て実際彼の軽蔑に
価していたかも知れません。彼の眼の着け所は私より
遥かに高いところにあったともいわれるでしょう。私もそれを
否みはしません。しかし眼だけ高くって、
外が釣り合わないのは手もなく
不具です。私は何を
措いても、この際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。いくら彼の頭が偉い人の
影像で
埋まっていても、彼自身が偉くなってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性の
傍に彼を
坐らせる方法を講じたのです。そうしてそこから出る空気に彼を
曝した上、
錆び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
この試みは次第に成功しました。初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに
纏まって
来出しました。彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。彼はある日私に向って、女はそう
軽蔑すべきものでないというような事をいいました。Kははじめ女からも、私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての
男女を一様に観察していたのです。私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。彼はもっともだと答えました。私はその時お嬢さんの事で、多少夢中になっている
頃でしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。しかし裏面の消息は彼には
一口も打ち明けませんでした。
今まで書物で城壁をきずいてその中に立て
籠っていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。二人も満足の様子でした。
「Kと
私は同じ科におりながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速がありました。私の方が早ければ、ただ彼の
空室を通り抜けるだけですが、遅いと簡単な
挨拶をして自分の部屋へはいるのを例にしていました。Kはいつもの眼を書物からはなして、
襖を開ける私をちょっと見ます。そうしてきっと今帰ったのかといいます。私は何も答えないで
点頭く事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。
ある日私は
神田に用があって、帰りがいつもよりずっと
後れました。私は急ぎ足に門前まで来て、
格子をがらりと開けました。それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。声は
慥かにKの
室から出たと思いました。玄関から
真直に行けば、茶の間、お嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という
間取なのですから、どこで誰の声がしたくらいは、久しく
厄介になっている私にはよく分るのです。私はすぐ格子を締めました。するとお嬢さんの声もすぐ
已みました。私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで
手数のかかる
編上を
穿いていたのですが、――私がこごんでその
靴紐を解いているうち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。私は変に思いました。ことによると、私の
疳違かも知れないと考えたのです。しかし私がいつもの通りKの室を抜けようとして、襖を開けると、そこに二人はちゃんと
坐っていました。Kは例の通り今帰ったかといいました。お嬢さんも「お帰り」と坐ったままで挨拶しました。私には気のせいかその簡単な挨拶が少し
硬いように聞こえました。どこかで自然を踏み
外しているような調子として、私の
鼓膜に響いたのです。私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひっそりしていたから聞いて見ただけの事です。
奥さんははたして留守でした。
下女も奥さんといっしょに出たのでした。だから
家に残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。私はちょっと首を傾けました。今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、
宅を空けた
例はまだなかったのですから。私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。お嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女が嫌いでした。若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さんも下らない事によく笑いたがる女でした。しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐ
不断の表情に帰りました。急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと
真面目に答えました。下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。私は沈黙しました。
私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。やがて
晩食の食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女が
膳を運んで来てくれたのですが、それがいつの間にか崩れて、
飯時には向うへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。Kが新しく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取り扱わせる事に
極めました。その代り私は薄い板で造った足の
畳み込める
華奢な食卓を奥さんに
寄附しました。今ではどこの
宅でも使っているようですが、その
頃そんな卓の周囲に並んで飯を食う家族はほとんどなかったのです。私はわざわざ
御茶の
水の家具屋へ行って、私の工夫通りにそれを造り
上げさせたのです。
私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に
肴屋が来なかったので、私たちに食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。なるほど客を置いている以上、それももっともな事だと私が考えた時、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。しかし今度は奥さんに
叱られてすぐ
已めました。
「一週間ばかりして
私はまたKとお嬢さんがいっしょに話している
室を通り抜けました。その時お嬢さんは私の顔を見るや
否や笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったのでしょう。それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰ったかと声を掛ける事ができなくなりました。お嬢さんはすぐ
障子を開けて茶の間へ入ったようでした。
夕飯の時、お嬢さんは私を変な人だといいました。私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまいました。ただ奥さんが
睨めるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。
私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は
伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと
廻ってまた
富坂の下へ出ました。散歩としては短い方ではありませんでしたが、その
間に話した事は
極めて少なかったのです。性質からいうと、Kは私よりも無口な男でした。私も多弁な方ではなかったのです。しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に
仕掛けてみました。私の問題はおもに二人の下宿している家族についてでした。私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか知りたかったのです。ところが彼は海のものとも山のものとも
見分けの付かないような返事ばかりするのです。しかもその返事は要領を得ないくせに、極めて簡単でした。彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の方に多くの注意を払っているように見えました。もっともそれは二学年目の試験が目の前に
逼っている
頃でしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。
我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう
後一年だといって奥さんは喜んでくれました。そういう奥さんの
唯一の
誇りとも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になっていたのです。Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました。Kはお嬢さんが学問以外に
稽古している
縫針だの琴だの
活花だのを、まるで眼中に置いていないようでした。私は彼の
迂闊を笑ってやりました。そうして女の価値はそんな所にあるものでないという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。彼は別段
反駁もしませんでした。その代りなるほどという様子も見せませんでした。私にはそこが愉快でした。彼のふんといったような調子が、依然として女を
軽蔑しているように見えたからです。女の代表者として私の知っているお嬢さんを、物の
数とも思っていないらしかったからです。今から回顧すると、私のKに対する
嫉妬は、その時にもう充分
萌していたのです。
私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。Kは行きたくないような
口振を見せました。無論彼は自分の自由意志でどこへも行ける
身体ではありませんが、私が誘いさえすれば、またどこへ行っても
差支えない身体だったのです。私はなぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました。彼は理由も何にもないというのです。
宅で書物を読んだ方が自分の勝手だというのです。私が避暑地へ行って涼しい所で勉強した方が、身体のためだと主張すると、それなら私一人行ったらよかろうというのです。しかし私はK一人をここに残して行く気にはなれないのです。私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り
好い心持ではなかったのです。私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を悪くするのかといわれればそれまでです。私は馬鹿に違いないのです。
果しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲へ入りました。二人はとうとういっしょに
房州へ行く事になりました。
「Kはあまり旅へ出ない男でした。
私にも
房州は始めてでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか
保田とかいいました。今ではどんなに変っているか知りませんが、その
頃はひどい漁村でした。
第一どこもかしこも
腥いのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを
擦り
剥くのです。
拳のような大きな石が打ち寄せる波に
揉まれて、始終ごろごろしているのです。
私はすぐ
厭になりました。しかしKは
好いとも悪いともいいません。少なくとも
顔付だけは平気なものでした。そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに
怪我をしない事はなかったのです。私はとうとう彼を説き伏せて、そこから
富浦に行きました。富浦からまた
那古に移りました。すべてこの沿岸はその時分から
重に学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど
手頃の海水浴場だったのです。Kと私はよく海岸の岩の上に
坐って、遠い海の色や、近い水の底を
眺めました。岩の上から
見下す水は、また特別に
綺麗なものでした。赤い色だの
藍の色だの、普通
市場に
上らないような色をした
小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。
私はそこに坐って、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。私にはそれが考えに
耽っているのか、景色に
見惚れているのか、もしくは好きな想像を
描いているのか、全く
解らなかったのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。Kは何もしていないと
一口答えるだけでした。私は自分の
傍にこうじっとして坐っているものが、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。それだけならまだいいのですが、時にはKの方でも私と同じような希望を
抱いて岩の上に坐っているのではないかしらと
忽然疑い出すのです。すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。私は不意に立ち
上ります。そうして遠慮のない大きな声を出して
怒鳴ります。
纏まった詩だの歌だのを面白そうに
吟ずるような
手緩い事はできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。ある時私は突然彼の
襟頸を後ろからぐいと
攫みました。こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうど
好い、やってくれと答えました。私はすぐ首筋を
抑えた手を放しました。
Kの神経衰弱はこの時もう
大分よくなっていたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になって来ていたのです。私は自分より落ち付いているKを見て、
羨ましがりました。また憎らしがりました。彼はどうしても私に取り合う
気色を見せなかったからです。私にはそれが一種の自信のごとく映りました。しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。私の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を
明らめたがりました。彼は学問なり事業なりについて、これから自分の進んで行くべき前途の
光明を再び取り返した心持になったのだろうか。単にそれだけならば、Kと私との利害に何の衝突の起る訳はないのです。私はかえって世話のし
甲斐があったのを
嬉しく思うくらいなものです。けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許す事ができなくなるのです。不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している
素振に全く気が付いていないように見えました。無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでしたけれども。Kは元来そういう点にかけると
鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざ
宅へ連れて来たのです。
「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれはその時に始まった訳でもなかったのです。旅に出ない前から、私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会をつらまえる事も、その機会を作り出す事も、私の
手際では
旨くゆかなかったのです。今から思うと、その頃私の周囲にいた人間はみんな妙でした。女に関して立ち入った話などをするものは一人もありませんでした。中には話す
種をもたないのも
大分いたでしょうが、たといもっていても黙っているのが普通のようでした。比較的自由な空気を呼吸している今のあなたがたから見たら、定めし変に思われるでしょう。それが
道学の
余習なのか、または一種のはにかみなのか、判断はあなたの理解に任せておきます。
Kと私は何でも話し合える中でした。
偶には愛とか恋とかいう問題も、口に
上らないではありませんでしたが、いつでも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。それも
滅多には話題にならなかったのです。大抵は書物の話と学問の話と、未来の事業と、抱負と、修養の話ぐらいで持ち切っていたのです。いくら親しくってもこう堅くなった日には、突然調子を
崩せるものではありません。二人はただ堅いなりに親しくなるだけです。私はお嬢さんの事をKに打ち明けようと思い立ってから、
何遍歯がゆい不快に悩まされたか知れません。私はKの頭のどこか一カ所を突き破って、そこから柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。
あなたがたから見て
笑止千万な事もその時の私には実際大困難だったのです。私は旅先でも
宅にいた時と同じように
卑怯でした。私は始終機会を捕える気でKを観察していながら、変に高踏的な彼の態度をどうする事もできなかったのです。私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒い
漆で
重く塗り固められたのも同然でした。私の
注ぎ懸けようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、
悉く
弾き返されてしまうのです。
或る時はあまりKの様子が強くて高いので、私はかえって安心した事もあります。そうして自分の疑いを腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kに
詫びました。詫びながら自分が非常に下等な人間のように見えて、急に
厭な心持になるのです。しかし
少時すると、以前の疑いがまた逆戻りをして、強く打ち返して来ます。すべてが疑いから割り出されるのですから、すべてが私には不利益でした。
容貌もKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。どこか
間が抜けていて、それでどこかに
確かりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。
学力になれば専門こそ違いますが、私は無論Kの敵でないと自覚していました。――すべて向うの
好いところだけがこう一度に
眼先へ散らつき出すと、ちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
Kは落ち付かない私の様子を見て、
厭ならひとまず東京へ帰ってもいいといったのですが、そういわれると、私は急に帰りたくなくなりました。実はKを東京へ帰したくなかったのかも知れません。二人は
房州の鼻を
廻って向う側へ出ました。我々は暑い日に
射られながら、苦しい思いをして、
上総のそこ
一里に
騙されながら、うんうん歩きました。私にはそうして歩いている意味がまるで
解らなかったくらいです。私は
冗談半分Kにそういいました。するとKは足があるから歩くのだと答えました。そうして暑くなると、海に入って行こうといって、どこでも構わず
潮へ
漬りました。その
後をまた強い日で照り付けられるのですから、
身体が
倦怠くてぐたぐたになりました。
「こんな
風にして歩いていると、暑さと疲労とで自然
身体の調子が狂って来るものです。もっとも病気とは違います。急に
他の身体の中へ、自分の霊魂が
宿替をしたような気分になるのです。
私は
平生の通りKと口を
利きながら、どこかで平生の心持と離れるようになりました。彼に対する親しみも憎しみも、
旅中限りという特別な性質を
帯びる風になったのです。つまり二人は暑さのため、
潮のため、また歩行のため、在来と異なった新しい関係に入る事ができたのでしょう。その時の我々はあたかも道づれになった
行商のようなものでした。いくら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。
我々はこの調子でとうとう
銚子まで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今に忘れる事ができないのです。まだ房州を離れない前、二人は
小湊という所で、
鯛の
浦を見物しました。もう
年数もよほど
経っていますし、それに私にはそれほど興味のない事ですから、
判然とは覚えていませんが、何でもそこは
日蓮の生れた村だとかいう話でした。日蓮の生れた日に、鯛が二
尾磯に打ち上げられていたとかいう
言伝えになっているのです。それ以来村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至ったのだから、浦には鯛が沢山いるのです。我々は小舟を
傭って、その鯛をわざわざ見に出掛けたのです。
その時私はただ
一図に波を見ていました。そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。しかしKは私ほどそれに興味をもち得なかったものとみえます。彼は鯛よりもかえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。ちょうどそこに
誕生寺という寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう、立派な
伽藍でした。Kはその寺に行って
住持に会ってみるといい出しました。実をいうと、我々はずいぶん変な
服装をしていたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、
菅笠を買って
被っていました。着物は
固より双方とも
垢じみた上に汗で
臭くなっていました。私は坊さんなどに会うのは
止そうといいました。Kは
強情だから聞きません。
厭なら私だけ外に待っていろというのです。私は仕方がないからいっしょに玄関にかかりましたが、心のうちではきっと断られるに違いないと思っていました。ところが坊さんというものは案外
丁寧なもので、広い立派な座敷へ私たちを通して、すぐ会ってくれました。その時分の私はKと
大分考えが違っていましたから、坊さんとKの談話にそれほど耳を傾ける気も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いていたようです。日蓮は
草日蓮といわれるくらいで、
草書が大変上手であったと坊さんがいった時、字の
拙いKは、何だ下らないという顔をしたのを私はまだ覚えています。Kはそんな事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。坊さんがその点でKを満足させたかどうかは疑問ですが、彼は寺の
境内を出ると、しきりに私に向って日蓮の事を
云々し出しました。私は暑くて
草臥れて、それどころではありませんでしたから、ただ口の先で
好い加減な
挨拶をしていました。それも面倒になってしまいには全く黙ってしまったのです。
たしかその
翌る晩の事だと思いますが、二人は宿へ着いて
飯を食って、もう寝ようという少し前になってから、急にむずかしい問題を論じ合い出しました。Kは
昨日自分の方から話しかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だといって、何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。ところが私の胸にはお嬢さんの事が
蟠っていますから、彼の
侮蔑に近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。私は私で弁解を始めたのです。