手套を
脱ぐ手ふと
休む
何やらむ
こころかすめし思ひ出のあり
いつしかに
情をいつはること知りぬ
髭を立てしもその頃なりけむ
朝の湯の
湯槽のふちにうなじ
載せ
ゆるく
息する物思ひかな
夏
来れば
うがひ薬の
病ある歯に
沁む朝のうれしかりけり
つくづくと手をながめつつ
おもひ
出でぬ
キスが
上手の女なりしが
さびしきは
色にしたしまぬ目のゆゑと
赤き花など買はせけるかな
新しき本を買ひ来て読む
夜半の
そのたのしさも
長くわすれぬ
旅七日
かへり
来ぬれば
わが窓の赤きインクの
染みもなつかし
古文書のなかに見いでし
よごれたる
吸取紙をなつかしむかな
手にためし雪の
融くるが
ここちよく
わが
寐飽きたる心には
沁む
薄れゆく
障子の
日影
そを見つつ
こころいつしか暗くなりゆく
ひやひやと
夜は薬の
香のにほふ
医者が住みたるあとの
家かな
窓硝子
塵と雨とに
曇りたる窓硝子にも
かなしみはあり
六年ほど
日毎日毎にかぶりたる
古き帽子も
棄てられぬかな
こころよく
春のねむりをむさぼれる
目にやはらかき庭の草かな
赤煉瓦遠くつづける
高塀の
むらさきに見えて
春の日ながし
春の雪
銀座の裏の三階の煉瓦
造に
やはらかに降る
よごれたる煉瓦の壁に
降りて
融け降りては融くる
春の雪かな
目を
病める
若き女の
倚りかかる
窓にしめやかに春の雨降る
あたらしき木のかをりなど
ただよへる
新開町の春の静けさ
春の
街
見よげに書ける
女名の
門札などを読みありくかな
そことなく
蜜柑の皮の焼くるごときにほひ残りて
夕となりぬ
にぎはしき若き女の
集会の
こゑ
聴き
倦みて
さびしくなりたり
何処やらに
若き女の死ぬごとき
悩ましさあり
春の
霙降る
コニャックの
酔ひのあとなる
やはらかき
このかなしみのすずろなるかな
白き
皿
拭きては
棚に
重ねゐる
酒場の
隅のかなしき女
乾きたる冬の
大路の
何処やらむ
石炭酸のにほひひそめり
赤赤と
入日うつれる
河ばたの酒場の窓の
白き顔かな
新しきサラドの
皿の
酢のかをり
こころに
沁みてかなしき
夕
空色の
罎より
山羊の乳をつぐ
手のふるひなどいとしかりけり
すがた見の
息のくもりに消されたる
酔ひうるみの
眸のかなしさ
ひとしきり静かになれる
ゆふぐれの
厨にのこるハムのにほひかな
ひややかに
罎のならべる
棚の前
歯せせる女を
かなしとも見き
やや長きキスを
交して別れ
来し
深夜の街の
遠き火事かな
病院の窓のゆふべの
ほの
白き顔にありたる
淡き
見覚え
何時なりしか
かの
大川の
遊船に
舞ひし女をおもひ
出にけり
用もなき
文など長く書きさして
ふと人こひし
街に
出てゆく
しめらへる
煙草を吸へば
おほよその
わが思ふことも
軽くしめれり
するどくも
夏の
来るを感じつつ
雨後の
小庭の土の
香を
嗅ぐ
すずしげに
飾り立てたる
硝子屋の前にながめし
夏の夜の月
君来るといふに
夙く起き
白シャツの
袖のよごれを気にする日かな
おちつかぬ我が弟の
このごろの
眼のうるみなどかなしかりけり
どこやらに
杭打つ音し
大桶をころがす音し
雪ふりいでぬ
人気なき
夜の事務室に
けたたましく
電話の
鈴の鳴りて止みたり
目さまして
ややありて耳に
入り
来る
真夜中すぎの話声かな
見てをれば時計とまれり
吸はるるごと
心はまたもさびしさに
行く
朝朝の
うがひの
料の
水薬の
罎がつめたき秋となりにけり
夷かに麦の青める
丘の根の
小径に赤き
小櫛ひろへり
裏山の
杉生のなかに
斑なる
日影這ひ
入る
秋のひるすぎ
港町
とろろと鳴きて輪を描く
鳶を
圧せる
潮ぐもりかな
小春日の
曇硝子にうつりたる
鳥影を見て
すずろに思ふ
ひとならび泳げるごとき
家家の
高低の
軒に
冬の日の舞ふ
京橋の
滝山町の
新聞社
灯ともる頃のいそがしさかな
よく
怒る人にてありしわが父の
日ごろ
怒らず
怒れと思ふ
あさ風が電車のなかに吹き
入れし
柳のひと葉
手にとりて見る
ゆゑもなく海が見たくて
海に来ぬ
こころ
傷みてたへがたき日に
たひらなる海につかれて
そむけたる
目をかきみだす赤き
帯かな
今日
逢ひし町の女の
どれもどれも
恋にやぶれて帰るごとき日
汽車の旅
とある
野中の停車場の
夏草の
香のなつかしかりき
朝まだき
やっと
間に
合ひし
初秋の
旅出の汽車の
堅き
麺麭かな
かの旅の夜汽車の窓に
おもひたる
我がゆくすゑのかなしかりしかな
ふと見れば
とある林の停車場の時計とまれり
雨の
夜の汽車
わかれ
来て
燈火小暗き夜の汽車の窓に
弄ぶ
青き
林檎よ
いつも
来る
この
酒肆のかなしさよ
ゆふ日
赤赤と酒に
射し
入る
白き
蓮沼に咲くごとく
かなしみが
酔ひのあひだにはっきりと浮く
壁ごしに
若き女の泣くをきく
旅の宿屋の秋の
蚊帳かな
取りいでし
去年の
袷の
なつかしきにほひ身に
沁む
初秋の朝
気にしたる左の
膝の痛みなど
いつか
癒りて
秋の風吹く
売り売りて
手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る
夏の末かな
ゆゑもなく
憎みし友と
いつしかに親しくなりて
秋の暮れゆく
赤紙の表紙
手擦れし
国禁の
書を
行李の底にさがす日
売ることを差し
止められし
本の著者に
路にて会へる秋の朝かな
今日よりは
我も酒など
呷らむと思へる日より
秋の風吹く
大海の
その
片隅につらなれる
島島の上に
秋の風吹く
うるみたる目と
目の下の
黒子のみ
いつも目につく友の妻かな
いつ見ても
毛糸の玉をころがして
韈を
編む女なりしが
葡萄色の
長椅子の上に眠りたる猫ほの
白き
秋のゆふぐれ
ほそぼそと
其処ら
此処らに虫の鳴く
昼の野に来て読む手紙かな
夜おそく戸を
繰りをれば
白きもの庭を走れり
犬にやあらむ
夜の二時の窓の
硝子を
うす
紅く
染めて音なき火事の色かな
あはれなる恋かなと
ひとり
呟きて
夜半の
火桶に
炭添へにけり
真白なるラムプの
笠に
手をあてて
寒き夜にする物思ひかな
水のごと
身体をひたすかなしみに
葱の
香などのまじれる
夕
時ありて
猫のまねなどして笑ふ
三十路の友のひとり
住みかな
気弱なる
斥候のごとく
おそれつつ
深夜の街を一人散歩す
皮膚がみな耳にてありき
しんとして眠れる
街の
重き靴音
夜おそく停車場に
入り
立ち
坐り
やがて
出でゆきぬ
帽なき男
気がつけば
しっとりと夜霧
下りて
居り
ながくも街をさまよへるかな
若しあらば
煙草恵めと
寄りて
来る
あとなし
人と深夜に語る
曠野より帰るごとくに
帰り
来ぬ
東京の
夜をひとりあゆみて
銀行の窓の下なる
舗石の
霜にこぼれし
青インクかな
ちょんちょんと
とある
小藪に
頬白の遊ぶを眺む
雪の
野の
路
十月の朝の空気に
あたらしく
息
吸ひそめし
赤坊のあり
十月の産病院の
しめりたる
長き廊下のゆきかへりかな
むらさきの
袖垂れて
空を見上げゐる
支那人ありき
公園の午後
孩児の手ざはりのごとき
思ひあり
公園に来てひとり
歩めば
ひさしぶりに公園に来て
友に会ひ
堅く手握り
口疾に語る
公園の
木の
間に
小鳥あそべるを
ながめてしばし
憩ひけるかな
晴れし日の公園に来て
あゆみつつ
わがこのごろの
衰へを知る
思出のかのキスかとも
おどろきぬ
プラタヌの葉の散りて
触れしを
公園の
隅のベンチに
二度ばかり見かけし男
このごろ見えず
公園のかなしみよ
君の
嫁ぎてより
すでに
七月来しこともなし
公園のとある
木蔭の
捨椅子に
思ひあまりて
身をば寄せたる
忘られぬ顔なりしかな
今日
街に
捕吏にひかれて
笑める男は
マチ
擦れば
二尺ばかりの明るさの
中をよぎれる白き
蛾のあり
目をとぢて
口笛かすかに吹きてみぬ
寐られぬ夜の窓にもたれて
わが友は
今日も母なき子を負ひて
かの
城址にさまよへるかな
夜おそく
つとめ先よりかへり
来て
今死にしてふ
児を
抱けるかな
二三こゑ
いまはのきはに
微かにも泣きしといふに
なみだ
誘はる
真白なる大根の根の
肥ゆる頃
うまれて
やがて死にし
児のあり
おそ秋の空気を
三尺四方ばかり
吸ひてわが児の死にゆきしかな
死にし児の
胸に注射の針を刺す
医者の手もとにあつまる心
底知れぬ
謎に
対ひてあるごとし
死児のひたひに
またも手をやる
かなしみのつよくいたらぬ
さびしさよ
わが児のからだ
冷えてゆけども
かなしくも
夜明くるまでは残りゐぬ
息きれし児の
肌のぬくもり