どうか Kappa と発音して下さい。



 これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしやべる話である。彼はもう三十を越してゐるであらう。が、一見した所は如何にも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでも善い。彼は唯ぢつと両膝をかかへ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子をはめた窓の外には枯れ葉さへ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張つてゐた。)院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしやべりつづけた。尤も身ぶりはしなかつた訣ではない。彼はたとへば「驚いた」と言ふ時には急に顔をのけらせたりした。……
 僕はかう云ふ彼の話を可なり正確に写したつもりである。若し又誰か僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねて見るが善い。年よりも若い第二十三号はまづ丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を指さすであらう。それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであらう。最後に、――僕はこの話を終つた時の彼の顔色を覚えてゐる。彼は最後に身を起すが早いか、忽ち拳骨をふりまはしながら、誰にでもかう怒鳴りつけるであらう。――「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだらう。出て行け! この悪党めが!」


 三年前の夏のことです。僕は人並みにリユツク・サツクを背負ひ、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登らうとしました。穂高山へ登るのには御承知の通り梓川を溯る外はありません。僕は前に穂高山は勿論、槍ヶ岳にも登つてゐましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登つて行きました。朝霧下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたつても晴れる気色は見えません。のみならずかへつて深くなるのです。僕は一時間ばかり歩いた後、一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思ひました。けれども上高地へ引き返すにしても、兎に角霧の晴れるのを待つた上にしなければなりません。と云つて霧は一刻毎にずんずん深くなるばかりなのです。「ええ、一そ登つてしまへ。」――僕はかう考へましたから、梓川の谷を離れないやうに熊笹の中を分けて行きました。
 しかし僕の目を遮るものはやはり深い霧ばかりです。尤も時々霧の中から太い毛生欅ぶなもみの枝が青あをと葉を垂らしたのも見えなかつた訣ではありません。それから又放牧の馬や牛も突然僕の前へ顔を出しました。けれどもそれ等は見えたと思ふと、忽ち又濛々とした霧の中に隠れてしまふのです。そのうちに足もくたびれて来れば、腹もだんだん減りはじめる、――おまけに霧に濡れ透つた登山服や毛布なども並み大抵の重さではありません。僕はとうとう我を折りましたから、岩にせかれてゐる水の音を便りに梓川の谷へ下りることにしました。
 僕は水ぎはの岩に腰かけ、とりあへず食事にとりかかりました。コオンド・ビイフの缶を切つたり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――そんなことをしてゐるうちに彼是十分はたつたでせう。その間にどこまでも意地の悪い霧はいつかほのぼのと晴れかかりました。僕はパンを噛じりながら、ちよつと腕時計を覗いて見ました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円い腕時計の硝子の上へちらりと影を落したことです。僕は驚いてふり返りました。すると、――僕が河童と云ふものを見たのは実にこの時が始めてだつたのです。僕の後ろにある岩の上には画にある通りの河童が一匹、片手は白樺の幹を抱へ、片手は目の上にかざしたなり、珍らしさうに僕を見おろしてゐました。
 僕は呆つ気にとられたまま、暫くは身動きもしずにゐました。河童もやはり驚いたと見え、目の上の手さへ動かしません。そのうちに僕は飛び立つが早いか、岩の上の河童へ躍りかかりました。同時に又河童も逃げ出しました。いや、恐らくは逃げ出したのでせう。実はひらりと身をかはしたと思ふと、忽ちどこかへ消えてしまつたのです。僕は愈驚きながら、熊笹の中を見まはしました。すると河童は逃げ腰をしたなり、二三メエトル隔つた向うに僕を振り返つて見てゐるのです。それは不思議でも何でもありません。しかし僕に意外だつたのは河童の体の色のことです。岩の上に僕を見てゐた河童は一面に灰色を帯びてゐました。けれども今は体中すつかり緑いろに変つてゐるのです。僕は「畜生!」とおほ声を挙げ、もう一度河童へ飛びかかりました。河童が逃げ出したのは勿論です。それから僕は三十分ばかり、熊笹を突きぬけ、岩を飛び越え、遮二無二河童を追ひつづけました。
 河童も亦足の早いことは決して猿などに劣りません。僕は夢中になつて追ひかける間に何度もその姿を見失はうとしました。のみならず足をすべらして転がつたことも度たびです。が、大きいとちの木が一本、太ぶとと枝を張つた下へ来ると、幸ひにも放牧の牛が一匹、河童の往く先へ立ち塞がりました。しかもそれは角の太い、目を血走らせた牡牛なのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴を挙げながら、一きは高い熊笹の中へもんどりを打つやうに飛び込みました。僕は、――僕も「しめた」と思ひましたから、いきなりそのあとへ追ひすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいてゐたのでせう。僕は滑かな河童の背中にやつと指先がさはつたと思ふと、忽ち深い闇の中へまつ逆さまに転げ落ちました。が、我々人間の心はかう云ふ危機一髪の際にも途方もないことを考へるものです。僕は「あつ」と思ふ拍子にあの上高地の温泉宿の側に「河童橋」と云ふ橋があるのを思ひ出しました。それから、――それから先のことは覚えてゐません。僕は唯目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失つてゐました。


 そのうちにやつと気がついて見ると、僕は仰向けに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれてゐました。のみならず太いくちばしの上に鼻眼鏡をかけた河童が一匹、僕の側へ跪きながら、僕の胸へ聴診器を当ててゐました。その河童は僕が目をあいたのを見ると、僕に「静かに」と云ふ手真似をし、それから誰か後ろにゐる河童へ Quax quax と声をかけました。するとどこからか河童が二匹、担架を持つて歩いて来ました。僕はこの担架にのせられたまま、大勢の河童の群がつた中を静かに何町か進んで行きました。僕の両側に並んでゐる町は少しも銀座通りと違ひありません。やはり毛生欅の並み木のかげにいろいろの店が日除けを並べ、その又並み木に挟まれた道を自動車が何台も走つてゐるのです。
 やがて僕を載せた担架は細い横町を曲つたと思ふと、或家の中へ舁ぎこまれました。それは後に知つた所によれば、あの鼻眼鏡をかけた河童の家、――チヤツクと云ふ医者の家だつたのです。チヤツクは僕を小綺麗なベツドの上へ寝かせました。それから何か透明な水薬を一杯飲ませました。僕はベツドの上に横たはたつたなり、チヤツクのするままになつてゐました。実際又僕の体は碌に身動きも出来ないほど、節々が痛んでゐたのですから。
 チヤツクは一日に二三度は必ず僕を診察に来ました。又三日に一度位は僕の最初に見かけた河童、――バツグと云ふ漁師も尋ねて来ました。河童は我々人間が河童のことを知つてゐるよりも遥かに人間のことを知つてゐます。それは我々人間が河童を捕獲することよりもずつと河童が人間を捕獲することが多い為でせう。捕獲と云ふのは当らないまでも、我々人間は僕の前にも度々河童の国へ来てゐるのです。のみならず一生河童の国に住んでゐたものも多かつたのです。なぜと言つて御覧なさい。僕等は唯河童ではない、人間であると云ふ特権の為に働かずに食つてゐられるのです。現にバツグの話によれば、或若い道路工夫などはやはり偶然この国へ来た後、雌の河童を妻にめとり、死ぬまで住んでゐたと云ふことです。尤もその又雌の河童はこの国第一の美人だつた上、夫の道路工夫を誤魔化すのにも妙を極めてゐたと云ふことです。
 僕は一週間ばかりたつた後、この国の法律の定める所により、「特別保護住民」としてチヤツクの隣に住むことになりました。僕の家は小さい割に如何にも瀟洒と出来上つてゐました。勿論この国の文明は我々人間の国の文明――少くとも日本の文明などと余り大差はありません。往来に面した客間の隅には小さいピアノが一台あり、それから又壁には額縁へ入れたエツテイングなども懸つてゐました。唯肝腎の家をはじめ、テエブルや椅子の寸法も河童の身長に合はせてありますから、子供の部屋に入れられたやうにそれだけは不便に思ひました。
 僕はいつも日暮れがたになると、この部屋にチヤツクやバツグを迎へ、河童の言葉を習ひました。いや、彼等ばかりではありません。特別保護住民だつた僕に誰も皆好奇心を持つてゐましたから、毎日血圧を調べて貰ひに、わざわざチヤツクを呼び寄せるゲエルと云ふ硝子会社の社長などもやはりこの部屋へ顔を出したものです。しかし最初の半月ほどの間に一番僕と親しくしたのはやはりあのバツグと云ふ漁夫だつたのです。
 或生暖かい日の暮です。僕はこの部屋のテエブルを中に漁夫のバツグと向ひ合つてゐました。するとバツグはどう思つたか、急に黙つてしまつた上、大きい目を一層大きくしてぢつと僕を見つめました。僕は勿論妙に思ひましたから、「Quax, Bag, quo quel quan?」と言ひました。これは日本語に翻訳すれば、「おい、バツグ、どうしたんだ?」と云ふことです。が、バツグは返事をしません。のみならずいきなり立ち上ると、べろりと舌を出したなり、丁度蛙のねるやうに飛びかかる気色さへ示しました。僕はいよ/\無気味になり、そつと椅子から立ち上ると、一足飛びに戸口へ飛び出さうとしました。丁度そこへ顔を出したのは幸ひにも医者のチヤツクです。
「こら、バツグ、何をしてゐるのだ?」
 チヤツクは鼻眼鏡をかけたまま、かう云ふバツグを睨みつけました。するとバツグは恐れ入つたと見え、何度も頭へ手をやりながら、かう言つてチヤツクにあやまるのです。
「どうもまことに相すみません。実はこの旦那の気味悪がるのが面白かつたものですから、つい調子に乗つて悪戯をしたのです。どうか旦那も堪忍して下さい。」


 僕はこの先を話す前にちよつと河童と云ふものを説明して置かなければなりません。河童は未だに実在するかどうかも疑問になつてゐる動物です。が、それは僕自身が彼等の間に住んでゐた以上、少しも疑ふ余地はない筈です。では又どう云ふ動物かと云へば、頭に短い毛のあるのは勿論、手足に水掻きのついてゐることも「水虎考略」などに出てゐるのと著しい違ひはありません。身長もざつと一メエトルを越えるか越えぬ位でせう。体重は医者のチヤツクによれば、二十ポンドから三十ポンドまで、――稀には五十何ポンド位の大河童もゐると言つてゐました。それから頭のまん中には楕円形の皿があり、その又皿は年齢により、だんだん固さを加へるやうです。現に年をとつたバツグの皿は若いチヤツクの皿などとは全然手ざはりも違ふのです。しかし一番不思議なのは河童の皮膚の色のことでせう。河童は我々人間のやうに一定の皮膚の色を持つてゐません。何でもその周囲の色と同じ色に変つてしまふ、――たとへば草の中にゐる時には草のやうに緑色に変り、岩の上にゐる時には岩のやうに灰色に変るのです。これは勿論河童に限らず、カメレオンにもあることです。或は河童は皮膚組織の上に何かカメレオンに近い所を持つてゐるのかも知れません。僕はこの事実を発見した時、西国の河童は緑色であり、東北の河童は赤いと云ふ民俗学上の記録を思ひ出しました。のみならずバツグを追ひかける時、突然どこへ行つたのか、見えなくなつたことを思ひ出しました。しかも河童は皮膚の下に余程厚い脂肪を持つてゐると見え、この地下の国の温度は比較的低いのにも関らず、(平均華氏五十度前後です。)着物と云ふものを知らずにゐるのです。勿論どの河童も目金をかけたり、巻煙草の箱を携へたり、金入れを持つたりはしてゐるのでせう。しかし河童はカンガルウのやうに腹に袋を持つてゐますから、それ等のものをしまふ時にも格別不便はしないのです。唯僕に可笑しかつたのは腰のまはりさへ蔽はないことです。僕は或時この習慣をなぜかとバツグに尋ねて見ました。するとバツグはのけぞつたまま、いつまでもげらげら笑つてゐました。おまけに「わたしはお前さんの隠してゐるのが可笑しい」と返事をしました。


 僕はだんだん河童の使ふ日常の言葉を覚えて来ました。従つて河童の風俗や習慣ものみこめるやうになつて来ました。その中でも一番不思議だつたのは河童は我々人間の真面目に思ふことを可笑しがる、同時に我々人間の可笑しがることを真面目に思ふ――かう云ふとんちんかんな習慣です。たとえば我々人間は正義とか人道とか云ふことを真面目に思ふ、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかへて笑ひ出すのです。つまり彼等の滑稽と云ふ観念は我々の滑稽と云ふ観念と全然標準を異にしてゐるのでせう。僕は或時医者のチヤツクと産児制限の話をしてゐました。するとチヤツクは大口をあいて、鼻眼鏡の落ちるほど笑ひ出しました。僕は勿論腹が立ちましたから、何が可笑しいかと詰問しました。何でもチヤツクの返答は大体かうだつたやうに覚えてゐます。尤も多少細かい所は間違つてゐるかも知れません。何しろまだその頃は僕も河童の使ふ言葉をすつかり理解してゐなかつたのですから。
「しかし両親の都合ばかり考へてゐるのは可笑しいですからね。どうも余り手前勝手ですからね。」
 その代りに人間から見れば、実際又河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕は暫くたつてから、バツグの細君のお産をする所をバツグの小屋へ見物に行きました。河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バツグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してかう言ひました。それからテエブルの上にあつた消毒用の水薬でうがひをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。
「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」
 バツグはこの返事を聞いた時、てれたやうに頭を掻いてゐました。が、そこにゐ合せた産婆は忽ち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほつとしたやうに太い息を洩らしました。同時に又今まで大きかつた腹は水素瓦斯を抜いた風船のやうにへたへたと縮んでしまひました。
 かう云ふ返事をする位ですから、河童の子供は生れるが早いか、勿論歩いたりしやべつたりするのです。何でもチヤツクの話では出産後二十六日目に神の有無に就いて講演をした子供もあつたとか云ふことです。尤もその子供は二月目には死んでしまつたと云ふことですが。
 お産の話をした次手ですから、僕がこの国へ来た三月目に偶然或街の角で見かけた、大きいポスタアの話をしませう。その大きいポスタアの下には喇叭を吹いてゐる河童だの剣を持つてゐる河童だのが十二三匹描いてありました。それから又上には河童の使ふ、丁度時計のゼンマイに似た螺旋文字らせんもじが一面に並べてありました。この螺旋文字を翻訳すると、大体かう云ふ意味になるのです。これも或は細かい所は間違つてゐるかも知れません。が、兎に角僕としては僕と一しよに歩いてゐた、ラツプと云ふ河童の学生が大声に読み上げてくれる言葉を一々ノオトにとつて置いたのです。

遺伝的義勇隊を募る!!!
健全なる男女の河童よ!!!
悪遺伝を撲滅する為に
不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!

 僕は勿論その時にもそんなことの行はれないことをラツプに話して聞かせました。するとラツプばかりではない、ポスタアの近所にゐた河童はことごとくげらげら笑ひ出しました。
「行はれない? だつてあなたの話ではあなたがたもやはり我々のやうに行つてゐると思ひますがね。あなたは令息が女中に惚れたり、令嬢が運転手に惚れたりするのは何の為だと思つてゐるのです? あれは皆無意識的に悪遺伝を撲滅してゐるのですよ。第一この間あなたの話したあなたがた人間の義勇隊よりも、――一本の鉄道を奪ふ為に互に殺し合ふ義勇隊ですね、――ああ云ふ義勇隊に比べれば、ずつと僕たちの義勇隊は高尚ではないかと思ひますがね。」
 ラツプは真面目にかう言ひながら、しかも太い腹だけは可笑しさうに絶えず浪立たせてゐました。が、僕は笑ふどころか、慌てて或河童をつかまへようとしました。それは僕の油断を見すまし、その河童が僕の万年筆を盗んだことに気がついたからです。しかし皮膚の滑かな河童は容易に我々には掴まりません。その河童もぬらりと辷り抜けるが早いか一散に逃げ出してしまひました。丁度蚊のやうに痩せた体を倒れるかと思ふ位のめらせながら。


 僕はこのラツプと云ふ河童にバツグにも劣らぬ世話になりました。が、その中でも忘れられないのはトツクと云ふ河童に紹介されたことです。トツクは河童仲間の詩人です。詩人が髪を長くしてゐることは我々人間と変りません。僕は時々トツクの家へ退屈しのぎに遊びに行きました。トツクはいつも狭い部屋に高山植物の鉢植ゑを並べ、詩を書いたり煙草をのんだり、如何にも気楽さうに暮らしてゐました。その又部屋の隅には雌の河童が一匹、(トツクは自由恋愛家ですから、細君と云ふものは持たないのです。)編み物か何かをしてゐました。トツクは僕の顔を見ると、いつも微笑してかう言ふのです。(尤も河童の微笑するのは余り好いものではありません。少くとも僕は最初のうちは寧ろ無気味に感じたものです。)
「やあ、よく来たね。まあ、その椅子にかけ給へ。」
 トツクはよく河童の生活だの河童の芸術だのの話をしました。トツクの信ずる所によれば、当り前の河童の生活位、莫迦げてゐるものはありません。親子夫婦兄弟などと云ふのはことごとく互に苦しめ合ふことを唯一の楽しみにして暮らしてゐるのです。殊に家族制度と云ふものは莫迦げてゐる以上にも莫迦げてゐるのです。トツクは或時窓の外を指さし、「見給へ。あの莫迦げさ加減を!」と吐き出すやうに言ひました。窓の外の往来にはまだ年の若い河童が一匹、両親らしい河童を始め、七八匹の雌雄の河童を頸のまはりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いてゐました。しかし僕は年の若い河童の犠牲的精神に感心しましたから、反つてその健気さを褒め立てました。
「ふん、君はこの国でも市民になる資格を持つてゐる。……時に君は社会主義者かね?」
 僕は勿論 qua(これは河童の使ふ言葉では「然り」と云ふ意味を現すのです。)と答へました。
「では百人の凡人の為に甘んじて一人の天才を犠牲にすることも顧みない筈だ。」
「では君は何主義者だ? 誰かトツク君の信条は無政府主義だと言つてゐたが、……」
「僕か? 僕は超人(直訳すれば超河童です。)だ。」
 トツクは昂然と言ひ放ちました。かう云ふトツクは芸術の上にも独特な考へを持つてゐます。トツクの信ずる所によれば、芸術は何ものの支配をも受けない、芸術の為の芸術である、従つて芸術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬと云ふのです。尤もこれは必しもトツク一匹の意見ではありません。トツクの仲間の詩人たちは大抵同意見を持つてゐるやうです。現に僕はトツクと一しよに度たび超人倶楽部へ遊びに行きました。超人倶楽部に集まつて来るのは詩人、小説家、戯曲家、批評家、画家、音楽家、彫刻家、芸術上の素人等です。しかしいづれも超人です。彼等は電燈の明るいサロンにいつも快活に話し合つてゐました。のみならず時には得々と彼等の超人ぶりを示し合つてゐました。たとへば或彫刻家などは大きい鬼羊歯おにしだの鉢植ゑの間に年の若い河童をつかまへながら、頻に男色を弄んでゐました。又或雌の小説家などはテエブルの上に立ち上つたなり、アブサントを六十本飲んで見せました。尤もこれは六十本目にテエブルの下へ転げ落ちるが早いか、忽ち往生してしまひましたが。
 僕は或月の好い晩、詩人のトツクと肘を組んだまま、超人倶楽部から帰つて来ました。トツクはいつになく沈みこんで一ことも口を利かずにゐました。そのうちに僕等はかげのさした、小さい窓の前を通りかかりました。その又窓の向うには夫婦らしい雌雄の河童が二匹、三匹の子供の河童と一しよに晩餐のテエブルに向つてゐるのです。するとトツクはため息をしながら、突然かう僕に話しかけました。
「僕は超人的恋愛家だと思つてゐるがね、ああ云ふ家庭の容子を見ると、やはり羨しさを感じるんだよ。」
「しかしそれはどう考へても、矛盾してゐるとは思はないかね?」
 けれどもトツクは月明りの下にぢつと腕を組んだまま、あの小さい窓の向うを、――平和な五匹の河童たちの晩餐のテエブルを見守つてゐました。それから暫くしてかう答へました。
「あすこにある玉子焼は何と言つても、恋愛などよりも衛生的だからね。」


 実際又河童の恋愛は我々人間の恋愛とは余程趣を異にしてゐます。雌の河童はこれぞと云ふ雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童を捉へるのに如何なる手段も顧みません。一番正直な雌の河童は遮二無二雄の河童を追ひかけるのです。現に僕は気違ひのやうに雄の河童を追ひかけてゐる雌の河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若い雌の河童は勿論、その河童の両親や兄弟まで一しよになつて追ひかけるのです。雄の河童こそ見じめです。何しろさんざん逃げまはつた揚句、運好くつかまらずにすんだとしても、二三箇月は床についてしまふのですから。僕は或時僕の家にトツクの詩集を読んでゐました。するとそこへ駈けこんで来たのはあのラツプと云ふ学生です。ラツプは僕の家へ転げこむと、床の上へ倒れたなり、息も切れ切れにかう言ふのです。
「大変だ! とうとう僕は抱きつかれてしまつた!」
 僕は咄嗟とつさに詩集を投げ出し、戸口の錠をおろしてしまひました。しかし鍵穴から覗いて見ると、硫黄の粉末を顔に塗つた、背の低い雌の河童が一匹、まだ戸口にうろついてゐるのです。ラツプはその日から何週間か僕の床の上に寝てゐました。のみならずいつかラツプの嘴はすつかり腐つて落ちてしまひました。
 尤も又時には雌の河童を一生懸命に追ひかける雄の河童もないわけではありません。しかしそれもほんたうの所は追ひかけずにはゐられないやうに雌の河童が仕向けるのです。僕はやはり気違ひのやうに雌の河童を追ひかけてゐる雄の河童も見かけました。雌の河童は逃げて行くうちにも、時々わざと立ち止まつて見たり、四つん這ひになつたりして見せるのです。おまけに丁度好い時分になると、さもがつかりしたやうに楽々とつかまつてしまふのです。僕の見かけた雄の河童は雌の河童を抱いたなり、暫くそこに転がつてゐました。が、やつと起き上つたのを見ると、失望と云ふか、後悔と云ふか、兎に角何とも形容出来ない、気の毒な顔をしてゐました。しかしそれはまだ好いのです。これも僕の見かけた中に小さい雄の河童が一匹、雌の河童を追ひかけてゐました。雌の河童は例の通り、誘惑的遁走をしてゐるのです。するとそこへ向うの街から大きい雄の河童が一匹、鼻息を鳴らせて歩いて来ました。雌の河童は何かの拍子にふとこの河童を見ると、「大変です! 助けて下さい! あの河童はわたしを殺さうとするのです!」と金切り声を出して叫びました。勿論大きい雄の河童は忽ち小さい河童をつかまへ、往来のまん中へねぢ伏せました。小さい河童は水掻きのある手に二三度空を掴んだなり、とうとう死んでしまひました。けれどももうその時には雌の河童はにやにやしながら、大きい河童の頸つ玉へしつかりしがみついてしまつてゐたのです。
 僕の知つてゐた雄の河童は誰も皆言ひ合はせたやうに雌の河童に追ひかけられました。勿論妻子を持つてゐるバツグでもやはり追ひかけられたのです。のみならず二三度はつかまつたのです。唯マツグと云ふ哲学者だけは(これはあのトツクと云ふ詩人の隣にゐる河童です。)一度もつかまつたことはありません。これは一つにはマツグ位、醜い河童も少ない為でせう。しかし又一つにはマツグだけは余り往来へ顔を出さずに家にばかりゐる為です。僕はこのマツグの家へも時々話しに出かけました。マツグはいつも薄暗い部屋に七色の色硝子のランタアンをともし、脚の高い机に向ひながら、厚い本ばかり読んでゐるのです。僕は或時かう云ふマツグと河童の恋愛を論じ合ひました。
「なぜ政府は雌の河童が雄の河童を追ひかけるのをもつと厳重に取り締らないのです?」
「それは一つには官吏の中に雌の河童の少ない為ですよ。雌の河童は雄の河童よりも一層嫉妬心は強いものですからね。雌の河童の官吏さへ殖ゑれば、きつと今よりも雄の河童は追ひかけられずに暮せるでせう。しかしその効力も知れたものですね。なぜと言つて御覧なさい。官吏同志でも雌の河童は雄の河童を追ひかけますからね。」
「ぢやあなたのやうに暮してゐるのは一番幸福な訣ですね。」
 するとマツグは椅子を離れ、僕の両手を握つたまま、ため息と一しよにかう言ひました。
「あなたは我々河童ではありませんから、おわかりにならないのも尤もです。しかしわたしもどうかすると、あの恐ろしい雌の河童に追ひかけられたい気も起るのですよ。」


 僕は又詩人のトツクと度たび音楽会へも出かけました。が、未だに忘れられないのは三度目に聴きに行つた音楽会のことです。尤も会場の容子などは余り日本と変つてゐません。やはりだんだんせり上つた席に雌雄の河童が三四百匹、いづれもプログラムを手にしながら、一心に耳を澄ませてゐるのです。僕はこの三度目の音楽会の時にはトツクやトツクの雌の河童の外にも哲学者のマツグと一しよになり、一番前の席に坐つてゐました。するとセロの独奏が終つた後、妙に目の細い河童が一匹、無造作に譜本を抱へたまま、壇の上へ上つて来ました。この河童はプログラムの教へる通り、名高いクラバツクと云ふ作曲家です。プログラムの教へる通り、――いや、プログラムを見るまでもありません。クラバツクはトツクが属してゐる超人倶楽部の会員ですから、僕も亦顔だけは知つてゐるのです。
「Lied――Craback」(この国のプログラムも大抵は独逸語ドイツごを並べてゐました。)
 クラバツクは盛んな拍手の中にちよつと我々へ一礼した後、静にピアノの前へ歩み寄りました。それからやはり無造作に自作のリイドを弾きはじめました。クラバツクはトツクの言葉によれば、この国の生んだ音楽家中、前後に比類のない天才ださうです。僕はクラバツクの音楽は勿論、その又余技の抒情詩にも興味を持つてゐましたから、大きい弓なりのピアノの音に熱心に耳を傾けてゐました。トツクやマツグも恍惚うつとりとしてゐたことは或は僕よりも勝つてゐたでせう。が、あの美しい(少くとも河童たちの話によれば)雌の河童だけはしつかりプログラムを握つたなり、時々さも苛ら立たしさうに長い舌をべろべろ出してゐました。これはマツグの話によれば、何でも彼是十年前にクラバツクを掴まへそこなつたものですから、未だにこの音楽家を目の敵にしてゐるのだとか云ふことです。
 クラバツクは全身に情熱をこめ、戦ふやうにピアノを弾きつづけました。すると突然会場の中に神鳴りのやうに響渡つたのは「演奏禁止」と云ふ声です。僕はこの声にびつくりし、思はず後をふり返りました。声の主は紛れもない、一番後の席にゐる身の丈抜群の巡査です。巡査は僕がふり向いた時、悠然と腰をおろしたまま、もう一度前よりもおほ声に「演奏禁止」と怒鳴りました。それから、――
 それから先は大混乱です。「警官横暴!」「クラバツク、弾け! 弾け!」「莫迦!」「畜生!」「ひつこめ!」「負けるな!」――かう云ふ声の湧き上つた中に椅子は倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけに誰が投げるのか、サイダアの空罎や石ころや噛ぢりかけの胡瓜さへ降つて来るのです。僕は呆つ気にとられましたから、トツクにその理由を尋ねようとしました。が、トツクも興奮したと見え、椅子の上に突つ立ちながら、「クラバツク、弾け! 弾け!」と喚きつづけてゐます。のみならずトツクの雌の河童もいつの間に敵意を忘れたのか、「警官横暴」と叫んでゐることは少しもトツクに変りません。僕はやむを得ずマツグに向かひ、「どうしたのです?」と尋ねて見ました。
「これですか? これはこの国ではよくあることですよ。元来画だの文芸だのは……」
 マツグは何か飛んで来る度にちよつと頸を縮めながら、不相変静に説明しました。
「元来画だの文芸だのは誰の目にも何を表はしてゐるかは兎に角ちやんとわかる筈ですから、この国では決して発売禁止や展覧禁止は行はれません。その代りにあるのが演奏禁止です。何しろ音楽と云ふものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。」
「しかしあの巡査は耳があるのですか?」
「さあ、それは疑問ですね。多分今の旋律を聞いてゐるうちに細君と一しよに寝てゐる時の心臓の鼓動でも思ひ出したのでせう。」
 かう云ふ間にも大騒ぎは愈盛んになるばかりです。クラバツクはピアノに向つたまま、傲然と我々をふり返つてゐました。が、いくら傲然としてゐても、いろいろのものの飛んで来るのはよけない訣に行きません。従つてつまり二三秒置きに折角の態度も変つた訣です。しかし兎に角大体としては大音楽家の威厳を保ちながら、細い目を凄まじくかがやかせてゐました。僕は――僕も勿論危険を避ける為にトツクを小楯にとつてゐたものです。が、やはり好奇心に駆られ、熱心にマツグと話しつづけました。
「そんな検閲は乱暴ぢやありませんか?」
「何、どの国の検閲よりも却つて進歩してゐる位ですよ。たとへば日本を御覧なさい。現につひ一月ばかり前にも、……」
 丁度かう言ひかけた途端です。マツグは生憎脳天に空罎が落ちたものですから、quack(これは唯間投詞です)と一声叫んだぎり、とうとう気を失つてしまひました。


 僕は硝子会社の社長のゲエルに不思議にも好意を持つてゐました。ゲエルは資本家中の資本家です。恐らくはこの国の河童の中でも、ゲエルほど大きい腹をした河童は一匹もゐなかつたのに違ひありません。しかし茘枝れいしに似た細君や胡瓜に似た子供を左右にしながら、安楽椅子に坐つてゐる所は殆ど幸福そのものです。僕は時々裁判官のペツプや医者のチヤツクにつれられてゲエル家の晩餐へ出かけました。又ゲエルの紹介状を持つてゲエルやゲエルの友人たちが多少の関係を持つてゐるいろいろの工場も見て歩きました。そのいろいろの工場の中でも殊に僕に面白かつたのは書籍製造会社の工場です。僕は年の若い河童の技師とこの工場の中へはいり、水力電気を動力にした、大きい機械を眺めた時、今更のやうに河童の国の機械工業の進歩に驚嘆しました。何でもそこでは一年間に七百万部の本を製造するさうです。が、僕を驚かしたのは本の部数ではありません。それだけの本を製造するのに少しも手数のかからないことです。何しろこの国では本を造るのに唯機械の漏斗形ろうとがたの口へ紙とインクと灰色をした粉末とを入れるだけなのですから。それ等の原料は機械の中へはいると、殆ど五分とたたないうちに菊版、四六版、菊半截版などの無数の本になつて出て来るのです。僕はたきのやうに流れ落ちるいろいろの本を眺めながら、反り身になつた河童の技師にその灰色の粉末は何と云ふものかと尋ねて見ました。すると技師は黒光りに光つた機械の前に佇んだまま、つまらなさうにかう返事をしました。
「これですか? これは驢馬の脳髄ですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざつと粉末にしただけのものです。時価は一とん二三銭ですがね。」
 勿論かう云ふ工業上の奇蹟は書籍製造会社にばかり起つてゐる訣ではありません。絵画製造会社にも、音楽製造会社にも、同じやうに起つてゐるのです。実際又ゲエルの話によれば、この国では平均一箇月に七八百種の機械が新案され、何でもずんずん人手を待たずに大量生産が行はれるさうです。従つて又職工の解雇されるのも四五万匹を下らないさうです。その癖まだこの国では毎朝新聞を読んでゐても、一度も罷業と云ふ字に出会ひません。僕はこれを妙に思ひましたから、或時又ペツプやチヤツクとゲエル家の晩餐に招かれた機会にこのことをなぜかと尋ねて見ました。
「それはみんな食つてしまふのですよ。」
 食後の葉巻を啣へたゲエルは如何にも無造作にかう言ひました。しかし「食つてしまふ」と云ふのは何のことだかわかりません。すると鼻眼金をかけたチヤツクは僕の不審を察したと見え、横あひから説明を加へてくれました。
「その職工をみんな殺してしまつて、肉を食料に使ふのです。ここにある新聞を御覧なさい。今月は丁度六万四千七百六十九匹の職工が解雇されましたから、それだけ肉の値段も下つた訣ですよ。」
「職工は黙つて殺されるのですか?」
「それは騒いでも仕かたはありません。職工屠殺法があるのですから。」
 これは山桃の鉢植ゑを後に苦い顔をしてゐたペツプの言葉です。僕は勿論不快を感じました。しかし主人公のゲエルは勿論、ペツプやチヤツクもそんなことは当然と思つてゐるらしいのです。現にチヤツクは笑ひながら、嘲るやうに僕に話しかけました。
「つまり餓死したり自殺したりする手数を国家的に省略してやるのですね。ちよつと有毒瓦斯を嗅がせるだけですから、大した苦痛はありませんよ。」
「けれどもその肉を食ふと云ふのは、…………」
「常談を言つてはいけません。あのマツグに聞かせたら、さぞ大笑ひに笑ふでせう。あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になつてゐるではありませんか? 職工の肉を食ふことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ。」
 かう云ふ問答を聞いてゐたゲエルは手近いテエブルの上にあつたサンド・ウイツチの皿を勧めながら、恬然てんぜんと僕にかう言ひました。
「どうです? 一つとりませんか? これも職工の肉ですがね。」
 僕は勿論辟易しました。いや、そればかりではありません。ペツプやチヤツクの笑ひ声を後にゲエル家の客間を飛び出しました。それは丁度家々の空に星明りも見えない荒れ模様の夜です。僕はその闇の中を僕の住居へ帰りながら、のべつ幕なしに嘔吐へどを吐きました。夜目にも白じらと流れる嘔吐を。


 しかし硝子会社の社長のゲエルは人懐こい河童だつたのに違ひありません。僕は度たびゲエルと一しよにゲエルの属してゐる倶楽部へ行き、愉快に一晩を暮らしました。それは一つにはその倶楽部はトツクの属してゐる超人倶楽部よりも遥かに居心の善かつた為です。のみならず又ゲエルの話は哲学者のマツグの話のやうに深みを持つてゐなかつたにせよ、僕には全然新らしい世界を、――広い世界を覗かせました。ゲエルは、いつもの純金の匙に珈琲カツフエの茶碗をかきまはしながら、快活にいろいろの話をしたものです。
 何でも或霧の深い晩、僕は冬薔薇を盛つた花瓶を中にゲエルの話を聞いてゐました。それは確か部屋全体は勿論、椅子やテエブルも白い上に細い金の縁をとつたセセツシヨン風の部屋だつたやうに覚えてゐます。ゲエルはふだんよりも得意さうに顔中に微笑をみなぎらせたまま、丁度その頃天下を取つてゐた Quorax 党内閣のことなどを話しました。クオラツクスと云ふ言葉は唯意味のない間投詞ですから、「おや」とでも訳す外はありません。が、兎に角何よりも先に「河童全体の利益」と云ふことを標榜してゐた政党だつたのです。
「クオラツクス党を支配してゐるものは名高い政治家のロツペです。『正直は最良の外交である』とはビスマルクの言つた言葉でせう。しかしロツペは正直を内治の上にも及ぼしてゐるのです。……」
「けれどもロツペの演説は……」
「まあ、わたしの言ふことをお聞きなさい。あの演説は勿論悉く譃です。が、譃と云ふことは誰でも知つてゐますから、畢竟ひつきやう正直と変らないでせう、それを一概に譃と云ふのはあなたがただけの偏見ですよ。我々河童はあなたがたのやうに、……しかしそれはどうでもよろしい。わたしの話したいのはロツペのことです。ロツペはクオラツクス党を支配してゐる、その又ロツペを支配してゐるものは Pou-Fou 新聞の(この『プウ・フウ』と云ふ言葉もやはり意味のない間投詞です。若し強いて訳すれば、『ああ』とでも云ふ外はありません。)社長のクイクイです。が、クイクイも彼自身の主人と云ふ訣には行きません。クイクイを支配してゐるものはあなたの前にゐるゲエルです。」
「けれども――これは失礼かも知れませんけれども、プウ・フウ新聞は労働者の味かたをする新聞でせう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けてゐると云ふのは、……」
「プウ・フウ新聞の記者たちは勿論労働者の味かたです。しかし記者たちを支配するものはクイクイの外はありますまい。しかもクイクイはこのゲエルの後援を受けずにはゐられないのです。」
 ゲエルは不相変微笑しながら、純金の匙をおもちやにしてゐます。僕はかう云ふゲエルを見ると、ゲエル自身を憎むよりも、プウ・フウ新聞の記者たちに同情の起るのを感じました。するとゲエルは僕の無言に忽ちこの同情を感じたと見え、大きい腹を膨ませてかう言ふのです。
「何、プウ・フウ新聞の記者たちも全部労働者の味かたではありませんよ。少くとも我々河童と云ふものは誰の味かたをするよりも先に我々自身の味かたをしますからね。……しかし更に厄介なことにはこのゲエル自身さへやはり他人の支配を受けてゐるのです。あなたはそれを誰だと思ひますか? それはわたしの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。」
 ゲエルはおほ声に笑ひました。
「それは寧ろ仕合せでせう。」
「兎に角わたしは満足してゐます。しかしこれもあなたの前だけに、――河童でないあなたの前だけに手放しで吹聴出来るのです。」
「するとつまりクオラツクス内閣はゲエル夫人が支配してゐるのですね。」
「さあ、さうも言はれますかね。……しかし七年前の戦争などは確かに或雌の河童の為に始まつたものに違ひありません。」
「戦争? この国にも戦争はあつたのですか?」
「ありましたとも。将来もいつあるかわかりません。何しろ隣国のある限りは、……」
 僕は実際この時始めて河童の国も国家的に孤立してゐないことを知りました。ゲエルの説明する所によれば、河童はいつもかはうそを仮設敵にしてゐると云ふことです。しかも獺は河童に負けない軍備を具へてゐると云ふことです。僕はこの獺を相手に河童の戦争した話に少からず興味を感じました。(何しろ河童の強敵に獺のゐるなどと云ふことは「水虎考略」の著者は勿論、「山島民譚集」の著者柳田国男さんさへ知らずにゐたらしい新事実ですから。)
「あの戦争の起る前には勿論両国とも油断せずにぢつと相手を窺つてゐました。と云ふのはどちらも同じやうに相手を恐怖してゐたからです。そこへこの国にゐた獺が一匹、或河童の夫婦を訪問しました。その又雌の河童と云ふのは亭主を殺すつもりでゐたのです。何しろ亭主は道楽者でしたからね。おまけに生命保険のついてゐたことも多少の誘惑になつたかも知れません。」
「あなたはその夫婦を御存じですか?」
「ええ、――いや、雄の河童だけは知つてゐます。わたしの妻などはこの河童を悪人のやうに言つてゐますがね。しかしわたしに言はせれば、悪人よりも寧ろ雌の河童に掴まることを恐れてゐる被害妄想の多い狂人です。……そこでその雌の河童は亭主のココアの茶碗の中へ青化加里を入れて置いたのです。それを又どう間違へたか、客の獺に飲ませてしまつたのです。獺は勿論死んでしまひました。それから……」
「それから戦争になつたのですか?」
「ええ、生憎その獺は勲章を持つてゐたものですからね。」
「戦争はどちらの勝になつたのですか?」
「勿論この国の勝になつたのです。三十六万九千五百匹の河童たちはその為に健気にも戦死しました。しかし敵国に比べれば、その位の損害は何ともありません。この国にある毛皮と云ふ毛皮は大抵獺の毛皮です。わたしもあの戦争の時には硝子を製造する外にも石炭殻を戦地へ送りました。」
「石炭殻を何にするのですか?」
「勿論食糧にするのです。我々河童は腹さへ減れば、何でも食ふにきまつてゐますからね。」
「それは――どうか怒らずに下さい。それは戦地にゐる河童たちには……我々の国では醜聞ですがね。」
「この国でも醜聞には違ひありません。しかしわたし自身かう言つてゐれば、誰も醜聞にはしないものです。哲学者のマツグも言つてゐるでせう。『汝の悪は汝自ら言へ。悪はおのづから消滅すべし。』……しかもわたしは利益の外にも愛国心に燃え立つてゐたのですからね。」
 丁度そこへはひつて来たのはこの倶楽部の給仕です。給仕はゲエルにお時宜をした後、朗読でもするやうにかう言ひました。
「お宅のお隣に火事がございます。」
「火――火事!」
 ゲエルは驚いて立ち上りました。僕も立ち上つたのは勿論です。が、給仕は落ち着き払つて次の言葉をつけ加へました。
「しかしもう消し止めました。」
 ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑ひに近い表情をしました。僕はかう云ふ顔を見ると、いつかこの硝子会社の社長を憎んでゐたことに気づきました。が、ゲエルはもう今では大資本家でも何でもない唯の河童になつて立つてゐるのです。僕は花瓶の中の冬薔薇の花を抜き、ゲエルの手へ渡しました。
「しかし火事は消えたと云つても、奥さんはさぞお驚きでせう。さあ、これを持つてお帰りなさい。」
「難有う。」
 ゲエルは僕の手を握りました。それから急ににやりと笑ひ、小声にかう僕に話しかけました。
「隣はわたしの家作ですからね。火災保険の金だけはとれるのですよ。」
 僕はこの時のゲエルの微笑を――軽蔑することも出来なければ、憎悪することも出来ないゲエルの微笑を未だにありありと覚えてゐます。