むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい
桃の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は
大地の底の
黄泉の国にさえ及んでいた。何でも天地
開闢の
頃おい、
伊弉諾の
尊は
黄最津平阪に
八つの
雷を
却けるため、桃の
実を
礫に打ったという、――その
神代の桃の実はこの木の枝になっていたのである。
この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は
真紅の
衣蓋に
黄金の
流蘇を垂らしたようである。実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は
核のあるところに美しい
赤児を一人ずつ、おのずから
孕んでいたことである。
むかし、むかし、大むかし、この木は
山谷を
掩った枝に、
累々と実を
綴ったまま、静かに日の光りに浴していた。一万年に一度結んだ実は一千年の間は地へ落ちない。しかしある寂しい朝、運命は一羽の
八咫鴉になり、さっとその枝へおろして来た。と思うともう赤みのさした、小さい実を一つ
啄み落した。実は
雲霧の立ち
昇る中に
遥か下の谷川へ落ちた。谷川は
勿論峯々の間に白い
水煙をなびかせながら、人間のいる国へ流れていたのである。
この
赤児を
孕んだ実は深い山の奥を離れた
後、どういう人の手に拾われたか?――それはいまさら話すまでもあるまい。谷川の末にはお
婆さんが一人、
日本中の子供の知っている通り、
柴刈りに行ったお
爺さんの着物か何かを洗っていたのである。……
桃から生れた
桃太郎は
鬼が
島の
征伐を思い立った。思い立った
訣はなぜかというと、彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいである。その話を聞いた老人夫婦は内心この
腕白ものに
愛想をつかしていた時だったから、一刻も早く追い出したさに
旗とか
太刀とか
陣羽織とか、出陣の
支度に
入用のものは云うなり次第に持たせることにした。のみならず途中の
兵糧には、これも桃太郎の
註文通り、
黍団子さえこしらえてやったのである。
桃太郎は意気
揚々と鬼が島征伐の
途に
上った。すると大きい
野良犬が一匹、
饑えた眼を光らせながら、こう桃太郎へ声をかけた。
「桃太郎さん。桃太郎さん。お腰に下げたのは何でございます?」
「これは
日本一の黍団子だ。」
桃太郎は得意そうに返事をした。勿論実際は日本一かどうか、そんなことは彼にも
怪しかったのである。けれども犬は黍団子と聞くと、たちまち彼の側へ歩み寄った。
「一つ下さい。お
伴しましょう。」
桃太郎は
咄嗟に
算盤を取った。
「一つはやられぬ。半分やろう。」
犬はしばらく
強情に、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を
撤回しない。こうなればあらゆる商売のように、
所詮持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。犬もとうとう
嘆息しながら、黍団子を半分貰う代りに、桃太郎の
伴をすることになった。
桃太郎はその
後犬のほかにも、やはり黍団子の半分を
餌食に、
猿や
雉を
家来にした。しかし彼等は残念ながら、あまり
仲の
好い間がらではない。丈夫な
牙を持った犬は
意気地のない猿を
莫迦にする。黍団子の
勘定に
素早い猿はもっともらしい雉を莫迦にする。地震学などにも通じた雉は頭の
鈍い犬を莫迦にする。――こういういがみ合いを続けていたから、桃太郎は彼等を家来にした後も、一通り骨の折れることではなかった。
その上猿は腹が張ると、たちまち不服を
唱え出した。どうも黍団子の半分くらいでは、鬼が島征伐の伴をするのも考え物だといい出したのである。すると犬は
吠えたけりながら、いきなり猿を
噛み殺そうとした。もし雉がとめなかったとすれば、猿は
蟹の
仇打ちを待たず、この時もう死んでいたかも知れない。しかし雉は犬をなだめながら猿に主従の道徳を教え、桃太郎の命に従えと云った。それでも猿は路ばたの木の上に犬の襲撃を避けた後だったから、容易に雉の言葉を聞き入れなかった。その猿をとうとう
得心させたのは確かに桃太郎の手腕である。桃太郎は猿を見上げたまま、日の丸の
扇を使い使いわざと冷かにいい放した。
「よしよし、では伴をするな。その代り鬼が島を征伐しても
宝物は一つも分けてやらないぞ。」
欲の深い猿は
円い
眼をした。
「宝物? へええ、鬼が島には宝物があるのですか?」
「あるどころではない。何でも好きなものの振り出せる
打出の
小槌という宝物さえある。」
「ではその打出の小槌から、幾つもまた打出の小槌を振り出せば、一度に何でも手にはいる
訣ですね。それは耳よりな話です。どうかわたしもつれて行って下さい。」
桃太郎はもう一度彼等を伴に、鬼が島征伐の
途を急いだ。
鬼が島は絶海の孤島だった。が、世間の思っているように岩山ばかりだった
訣ではない。実は
椰子の
聳えたり、
極楽鳥の
囀ったりする、美しい
天然の
楽土だった。こういう楽土に
生を
享けた鬼は勿論平和を愛していた。いや、鬼というものは元来我々人間よりも
享楽的に出来上った種族らしい。
瘤取りの話に出て来る鬼は一晩中踊りを踊っている。
一寸法師[#ルビの「いっすんぼうし」は底本では「いっすんぽうし」]の話に出てくる鬼も一身の危険を顧みず、
物詣での姫君に見とれていたらしい。なるほど
大江山の
酒顛童子や
羅生門の
茨木童子は
稀代の悪人のように思われている。しかし茨木童子などは我々の銀座を愛するように
朱雀大路を愛する余り、時々そっと羅生門へ姿を
露わしたのではないであろうか? 酒顛童子も大江山の
岩屋に酒ばかり飲んでいたのは確かである。その
女人を奪って行ったというのは――
真偽はしばらく問わないにもしろ、女人自身のいう所に過ぎない。女人自身のいう所をことごとく真実と認めるのは、――わたしはこの二十年来、こういう疑問を抱いている。あの
頼光や
四天王はいずれも多少気違いじみた女性
崇拝家ではなかったであろうか?
鬼は熱帯的風景の
中に
琴を
弾いたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったり、
頗る
安穏に暮らしていた。そのまた鬼の妻や娘も
機を織ったり、酒を
醸したり、
蘭の花束を
拵えたり、我々人間の妻や娘と少しも変らずに暮らしていた。殊にもう髪の白い、
牙の
脱けた鬼の母はいつも孫の
守りをしながら、我々人間の恐ろしさを話して聞かせなどしていたものである。――
「お前たちも
悪戯をすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものは
角の
生えない、
生白い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に
鉛の
粉をなすっているのだよ。それだけならばまだ
好いのだがね。男でも女でも同じように、
譃はいうし、欲は深いし、
焼餅は焼くし、
己惚は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、
泥棒はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」
桃太郎はこういう罪のない鬼に建国以来の恐ろしさを与えた。鬼は
金棒を忘れたなり、「人間が来たぞ」と叫びながら、
亭々と
聳えた
椰子の間を
右往左往に逃げ
惑った。
「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
桃太郎は桃の
旗を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、
犬猿雉の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の
好い
家来ではなかったかも知れない。が、
饑えた動物ほど、忠勇
無双の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ
一噛みに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い
嘴に鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を
絞殺す前に、必ず
凌辱を
恣にした。……
あらゆる罪悪の行われた
後、とうとう鬼の
酋長は、命をとりとめた数人の鬼と、桃太郎の前に
降参した。桃太郎の得意は思うべしである。鬼が島はもう
昨日のように、
極楽鳥の
囀る楽土ではない。
椰子の林は至るところに鬼の
死骸を
撒き散らしている。桃太郎はやはり旗を片手に、三匹の
家来を従えたまま、
平蜘蛛のようになった鬼の酋長へ
厳かにこういい渡した。
「では格別の
憐愍により、
貴様たちの命は
赦してやる。その代りに鬼が島の
宝物は一つも残らず
献上するのだぞ。」
「はい、献上致します。」
「なおそのほかに貴様の子供を
人質のためにさし出すのだぞ。」
「それも承知致しました。」
鬼の酋長はもう一度
額を土へすりつけた後、恐る恐る桃太郎へ質問した。
「わたくしどもはあなた様に何か
無礼でも致したため、
御征伐を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと
合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお
明し下さる
訣には参りますまいか?」
桃太郎は
悠然と
頷いた。
「
日本一[#ルビの「にっぽんいち」は底本では「にっぼんいち」]の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し
抱えた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお
三かたをお召し抱えなすったのはどういう
訣でございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、
黍団子をやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
鬼の酋長は驚いたように、三尺ほど
後へ飛び
下ると、いよいよまた
丁寧にお
時儀をした。
日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物の車を引かせながら、
得々と故郷へ
凱旋した。――これだけはもう
日本中の子供のとうに知っている話である。しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送った
訣ではない。鬼の子供は
一人前になると番人の雉を
噛み殺した上、たちまち鬼が島へ
逐電した。のみならず鬼が島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の
屋形へ火をつけたり、桃太郎の
寝首をかこうとした。何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという
噂である。桃太郎はこういう
重ね
重ねの不幸に
嘆息を
洩らさずにはいられなかった。
「どうも鬼というものの
執念の深いのには困ったものだ。」
「やっと命を助けて頂いた御主人の
大恩さえ忘れるとは
怪しからぬ奴等でございます。」
犬も桃太郎の
渋面を見ると、
口惜しそうにいつも
唸ったものである。
その間も寂しい鬼が島の
磯には、美しい熱帯の
月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、
椰子の実に爆弾を仕こんでいた。
優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに
茶碗ほどの目の玉を
赫かせながら。……
人間の知らない山の奥に
雲霧を破った桃の木は
今日もなお昔のように、
累々と無数の
実をつけている。勿論桃太郎を
孕んでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい
八咫鴉は今度はいつこの木の
梢へもう一度姿を
露わすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。……
(大正十三年六月)