山下智恵子様 みもとに
  ミナト・バスにて  友成ともなりトミ子より

 お手紙ありがとうよ。
 女車掌になりたいって言う貴女あなたの気もち、よくわかりましたわ。
 百姓の生活はつまらない。
 青空や雲を見てタメ息なんかしてはいけない。東京の方へ行く赤、青、白の筋の付いた汽車を見送ってボンヤリなんかしていたら、なおさらいけない。汗でも涙でも、うつむいて土の中に落して行かなければ、百姓仲間の裏切者みたいに両親や兄弟からにらまれる。土から生まれて、土まみれのボロを着て、真黒い、醜い土くれのようなお婆さんになって、土の中に帰るだけ……。
 ほんとうだわね。同情しますわ。
 ですけども女車掌になんか成っちゃ駄目よ。ほかの仕事はあたし知りませんけど、女車掌だけはホントウにダメなのよ。お百姓なんかよりもモットモットつまらない、そうしてモットモット恐ろしい、イヤな仕事なのよ。
 女車掌の運命なんてものは、往来に散らかっている紙キレよりもモットモット安っぽいものなのよ。女車掌になってみると、すぐにわかるわ。
 早い話が、お百姓の娘でいると、お婿さんは純真な村の青年の中から御両親が選んで下さるでしょ。都合よく行くと好きな人とも一緒になれるでしょう。
 ですけど女車掌になると、そんな幸福を最初からアキラメていなければならないのです。会社の重役さんとか、役員さんとか、自動車係りの巡査さんの言う事は、どんなにイヤな事でもおとなしく聞いて置かないと、直ぐに首になるのです。何とかカントかナンクセを付けて追い出されてしまうのです。私みたいに身よりタヨリのない孤児みなしごの女はなおさら、そうなのです。ですから賢い人はなるたけお白粉を塗らないようにして給料の上らないのは覚悟の前で、眼に立たないように、影にまわってばっかり働いているのです。その馬鹿馬鹿しい息苦しさったらないのですよ。
 そうして、そればっかりじゃないのよ。
 あたし御存じの通り親も兄弟もない孤児ですから、女給にでも交換手にでも何でもなれるんでしたけど、女運転手が勇カンでスタイルがいいと思って、そのお稽古のつもりで女車掌になったんですけど……望み通りに運転手になって、お金を儲けたって、それから先は何の目的もないんですからねえ。孝行をする親も、可愛がる弟もないんですからねえ。つまんないわ。毎日毎日、何の目的めあても楽しみもないカラッポの世の中を、切れるような風に吹かれたり、ゴミダラケの太陽に焼かれたりして、生命いのちがけで駈けずりまわるようなもんよ。酔ったお客にヒヤカサレたり、コワイ巡査に手を握られたり、キザな運転手に突っつかれたりするたんびに、心の底の底まで淋しくて、悲しくて、つまらなくなる商売よ。ウント速力を出した時、何かに行き当ってメチャメチャになってくれるといいと、ソンナ事ばっかし考えさせられる商売よ。
 ごめんなさいね。貴女のおためを思えばこそホントの事を言うんですから、怒らないで頂戴ね。そればっかしじゃないのよ。
 モットモット恐ろしい事があるのよ。
 この先に入れといた月川艶子つやこさんのお手紙を読んでちょうだい。文句をソックリその通りに写して置きましたから。
 この手紙は妾の大事な手紙です。恐ろしい殺人事件の秘密のショウコになるかも知れない手紙ですから、このまんま貴女に上げるわけに行かないのです。そのわけもお読みになればわかるわ。
 月川ツヤ子さんは妾の小学校の同級生なの。お父さんと一緒に浜松のベンキョウ・バス会社で、あたしと同じに女車掌をつとめている人よ。今年十九。身体からだは小さいけど、とてもシャンなの。妾と違って気の弱い親切な人。あたしの昔からの親友。字もモット上手なんですけど。

       月川ツヤ子さんの手紙

 友成トミ子さん
 ごぶさたしました。お変りありませんか。
 トツゼン変な事を書いてすみませんけど、私このごろある人に殺されそうな気がするのです。
 このごろ私のいる勉強乗合自動車会社に、新高にいたかって言う新しい運転手さんが来ましたの。それはナポレオンによく似た冷たい顔をした背の高い人です。運転がトテモ上手で、スタイルがよくて、骨身を惜しまず働くのでグングン昇給して行く人です。
 その人が来てから三か月目に、私をお嫁にくれって、私のお父さんに申し込みました。二週間ばかり前の事です。
 会社の工場に勤めている私のお父さんは、気が進まないけど、新高さんを可愛がっている会社の専務取締役の人が仲に立っているのでイヤとは言えないのだが、お前はドウかって尋ねられた時に、妾はすぐに承知してしまいました。新高さんなら前から嫌いじゃなかったんですからね。
 ごめんなさいね。あなたに御相談しないで承知してしまったこと。
 でも妾、最初ビックリしましたわ。どうして新高さんが、妾のような女を貰う気になったのだろうと思いましてね。
 新高という人はシンカラ無口の人らしいのです。待合室に来ても、ほかの運転手のように女車掌に甘ったるい事を言ったり、妙な眼付きをした事なんか一度もないのです。並んで腰かけている私たちを見向きもしないで、スパリスパリ煙草ばかり吹かしているのです。
 そうかと思うとダシヌケに、ヤンチャを言っているお客さんの子供を抱き上げて、頬擦りをしてキャッキャと笑わせたり、十銭で三つぐらいの一番高価たかいお蜜柑を一円ばかりも買って来て、黙って私たちにバラいたままプイッと外へ出て行ってしまったりしてトテモ気まぐれな人なのです。
 そうかと思うとまた運転台で、バットを吸い吸いモノスゴイ速力を出しながら、ステキに朗らかな澄み切った声で、
 エーエ。二度とオー惚れエーまいイ運転手のオ――畜生めエ――
 敷き逃げエ――したア――ままア――知らぬウ――顔オ――
 なんて歌って、満員のお客をゲラゲラ笑わしたりするのです。その癖、遊びに行った話はチットモ聞きません。いつもお金をポケットの中でジャラジャラ言わせているのですよ。ですから会社の重役さんがスッカリ信用してしまったらしいのです。
 私も男らしい固い人と思い込んで、何もかも言うなりになってしまったんです。そうして正式に結婚式を挙げるばかりになっていたのです。
 そうしたらね。きょう東京の青バスにいる妾の親友の松浦ミネ子さんからダシヌケにお手紙が来たのです。それがトテモびっくりする事だったのです。
「貴女の会社に新高竜夫って言う運転手が来たらダンゼン御用心なさい。
 新高竜夫って言う人は東京中の運転手の中でも一番男ぶりのいい、一番恐ろしい評判の悪い人です。
 新高って言う人は青バスにいるうちに幾人も幾人も女車掌を引っかけて内縁を結んで、その人にきると片端から殺して、何処かへ棄てて来るらしいんですって……。けれどもその遣り方が上手なので、まだ一度も疑われた事のない不思議な不思議な怖い怖い人なのです。こんなうわさが立っているのは、あたし達、女車掌の仲間だけらしいのです。
 それでもこの頃になって、警視庁の眼が、だんだん強く新高さんの近まわりに光り出したので、新高さんはコッソリ青バスをやめて、何処かへ行ってしまったのです。
 どこか田舎のバスへ落ちて行ったろうって言う噂ですから、貴女の会社へ来るような事でもあったらゼッタイに御用心なさい。
 よけいな事かも知れませんけど、心配ですから、ちょっとお知らせします」
 と言ったような意味の事が鉛筆で走り書きにしてある。そんな手紙が来たのです。
 妾ビックリしてしまいましたわ。
 ですけども私、馬鹿正直なもんですから、この手紙をお父さんに見せないで、イキナリ新高さんに見せて遣ったのです。だって私モウ新高さんと関係が出来てしまったんですから、そうするのが当り前じゃないでしょうか。
 新高さんは青い顔をしてその手紙を読んでしまいました。そうしてクシャクシャに丸めて、火鉢に投げ込んで焼いてしまいました。
「馬鹿だな……お前は……コンナ事を人にシャベッたら承知しないぞ」
 と言って舌なめずりをしながら、ジロリと私を睨んだ新高さんの顔付きの恐ろしかったこと。顔の肉の下から骸骨がムキ出しに、ギョロッと出て来たかと思ったくらいスゴかったわよ。芝居でも活動でもアンナ怖いスゴい顔は見た事なかったわ。
 私はその時にシンカラふるえ上がってしまって、ミネ子さんのお手紙に書いてある事がウソか本当か尋ねる事が出来なくなりました。そうして新高さんの顔を見て涙をポロポロ流していたら、新高さんはニッコリ笑って私の肩をタタキました。
「アハハ。お前を殺そうてんじゃないよ。コンナ噂の手紙なんかホントにする奴があるもんか。馬鹿だな。お前は……」
 と優しく背中を撫でてくれたのです。その時に妾は何だか新高さんに殺されそうな感じがしてならなかったのですよ。でも新高さんなら殺されてもいいような気もちになったもんですから、そのまんま黙っているのです。
 この事はお父さんにも誰にも言わないつもりですけど、トミ子さんにだけ書いときますわ。
 ね。私の事を忘れないでね。
 私と新高さんとで楽しい家庭を持っても笑わないでね。心から祝福してね。さよなら。
浜松勉強バスにて  ツヤ子より

 これがツヤ子さんから来た最後の手紙だったのよ。
 ね。智恵子さん。この手紙を書いたツヤ子さんは、それから一週間も立たないうちに死んじゃったのよ。そうして博多でお葬式があったのよ。
 ツヤ子さんの遺骨を持ってお帰りになったお父さんのお話を聞いたら、ツヤ子さんはバス代用の新フォードに新高さんと一緒に乗って行くうちに、お客が満員になったので左側のステップに立っていなすったんですって。そうしたら暗闇の中で向うから来たトラックがライトを消さなかったので、新高さんのハンドルが急に左に寄り過ぎて、ツヤ子さんの身体が電柱にブツカッたって言うのよ。左の肩と、腕と、アバラの骨がグザグザになっていたんですってさあ。
 ドオオンて大きな音がしたって言う乗合のりあいのお客さんの話だったんですってさあ。ツヤ子さんのお父さんは「ツヤ子の運が悪いのです。あんな商売をさせたのが悪かったのです。トラックの番号は新高運転手が見といたそうですが、訴えても問題になりませんし、誰を怨むところもありません。タカの知れた女の子一匹です。広い世間の眼から見たら虫ケラ一匹のねうちも御座いますまい。それでもお客さんの生命に代ったのですから、私ももうトックに諦めております。会社からはその月の給料のほかに十円くれました。助かったお客様なんか見向きもしませんが、安いもんですなあ。よその人を敷いたのなら三百円ぐらい出しますが、葬式代にも足りません。もっとも、それぐらいに安く見積もらなきゃあ、若い人間をアンナに大勢、あぶない仕事には使われますまい」と言うていなさったわ。
 怖いわねえ。妾黄色いバラの花をドッサリ仏様に上げたわ。
 デモこの話を聞いた時に妾もうツクヅク女車掌がイヤになってしまったのよ。雲雀ひばりの鳴く田圃たんぼで、お父さんやお母さんのお手伝いをしていなさる智恵子さんが浦山うらやましくなったわ。
 わたしの言っている意味がおわかりになって?
 女車掌というものがドンナに嫌らしい、淋しい、恐ろしい、ツマラナイ運命を持っているものかおわかりになって?
 呉々くれぐれも女車掌なんて止して頂戴。ね。
 サヨナラ。お身体をお大切にね。


 智恵子さん。大変よ。
 この前のお手紙に書いた新高運転手が来たのよ。妾たちのいるミナト・バス会社へ就職して来たの。そうして妾にプロポーズしたのよ。今度は私が殺される番よ。
 でも心配しないで頂戴。妾シッカリしているんですから。ナカナカ殺されやしないから……。
 新高運転手は東京の青バスが思わしくないから、勝手に暇を貰ってこっちへ来たって言うのよ。もうウソを言っているのよ。
 でもツヤ子さんを殺した新高運転手に違いないのよ。ナポレオンみたいな男らしい冷めたい顔をして黙りこくってセッセと働いているの。古いチューブと針金でフェンダーを作るのがトテモ上手よ。そうかと思うと上等のバナナを妾たちに配ったり、チューブを切り抜いた魚だのお馬だのをお客さんの赤チャンに遣ったりしてトテモ気マグレなのよ。みんな新高さん新高さんってチヤホヤしているんですけど、妾ソレと気が付いた時にゾッとしちゃったわ。
 それからツヤ子さんの仇敵かたきと思って、いつもジロジロ様子を見ていてやったわ。また、誰か殺しに来たに違いないと思って……。
 そうしたらね、妾がソンナ眼で見ているのを新高さんは何かしら感ちがいしたらしいの。博多発十一時の折尾行きの最終発を待合室で待っているうちに、お客が一人もいないので、いいチャンスと思ったのでしょう。新高さんは黄色いバラの花を一本持って入って来て、妾の手に握らせたの。妾ギクンとしちゃったわ。だってバラの花は死んだツヤ子さんの一番好きな花だったんですもの。
 妾が何かしら胸が一パイになりながら、ありがとうって言ったら、
「トミチャン。今夜、折尾の僕の下宿に来ないか」
 ってダシヌケに言うじゃないの。つめたい真面目な顔をしてね。女を口説くような眼付きじゃなかったわ。英雄的な男らしい眼付きだったわ。
 その眼付きを見たトタンに妾は決心しちゃったわ。喜び勇んで、
「ええ。行ってもいい」
 って言っちゃったわ。でもずいぶん息苦しかったわ。
 智恵子さん、ビックリしちゃ嫌よ。妾スッカリ新高さんが好きになっちゃったのよ。これこそホントに生命がけの恋よ。そうして、それと一緒にドウかしてツヤ子さんの仇敵を取って遣りたくなったのよ。新高さんを取っちめて、ヒイヒイあやまらせた揚句に、自殺させるかドウカしたら、どんなにか愉快だろうと思ってしまったのよ。
 コンナ風に文句に書いてみると、妾の言う事はムジュンしているでしょう。けれどもその時の気もちは、チットモムジュンしていなかったのよ。あの時ぐらい妾の胸が大きな希望で一パイになった事はなかったのよ。行く末に何の希望もないカラッポの妾の胸が、大きな、生き生きした幸福で一パイになったように思ったわ。
 妾は文字通りに喜び勇んで、新高さんの下宿に行ったの。そうして一から十まで新高さんの言うなりになって遣ったの。ちっとも恐ろしくなかったわ。新高さんもモウすっかりだまされて夢中になっていなすったわ。
 ソウ……妾、無茶かも知れないわ。でも無茶でもいいわ。今に見ていらっしゃい。妾の冒険が成功するか、しないか。
 そう思う時、妾の胸がドキドキするもので一パイになってしまうのよ。妾は今、妾の人生が破裂しそうなくらい張り切っているのよ。
 誰が何と言ったって妾は、この冒険に向ってマイ進するわ。
サヨナラ


 智恵子さん。
 女なんて弱いものね。
 妾、新高さんにスッカリ征服されちゃったの。この前のお手紙に書いたような冒険心が、いつの間にか弱って来たらしいの。
 新高さんも毎日毎日妾を可愛がるのが楽しみになって来たらしいの。世帯の事だの、まだ生まれもしない赤ん坊の事ばかり妾に話すの……妾はソンナ時に黙っているんですけど、これから先ドレぐらい続くかわからない長い長い新高さんとの同棲生活のコースが、希望も何もない灰色にズーッと続いているのが見えて来たの。昔の通りの平凡なトミ子の心に……それがただ人妻となっただけのトミ子の心に帰りそうになって来たの。妾が大切に大切に隠していたツヤ子さんの手紙を焼いてしまおうかと思った事が何度あるかわからないの。
 新高さんを殺す気なんか爪の垢ほどもなくなっちゃったのよ。智恵子さんに笑われても仕方がないわ。
 いったいこれはどうした事なんでしょう。妾の一生はこのまんまで平々ボンボンのままおしまいになるのでしょうか。新高さんと一緒になった最初の時のアノ張千切はちきれるようなモノスゴイ希望はいったい何処へ行ってしまったのでしょう。
 妾はコンナつもりで結婚したはずじゃなかったのよ。妾はこのまんまパンクしたタイヤみたいになって、何処までも何処までも転がって行かなければならないのでしょうか。
 店の先にブラ下がっている派手なメリンスのキレが眼に付いて眼に付いて仕様がなくなったのよ。赤ん坊の着物にはドンナのがいいかと思ってね。
 どうぞどうぞ笑って頂戴。人生なんてコンナものかも知れないわ。


 大変な事が起ったのよ。智恵子さん。あたし、くなったツヤ子さんとおんなじお手紙を貴女に書くわ。
 あたし近いうちに殺されそうなの。
 新高さんが妾のバスケットの中からツヤ子さんの手紙を発見したらしいのよ。新高さんはソンナ事をオクビにも出さないんですけどね。何だか心の底にヨソヨソしい処が出来て来たようなの。そのクセ妾を可愛がる事は前よりもズット強くなったから変じゃないの。おれ達は幸福だ、幸福だってこの頃、急に言い出したからおかしいじゃないの。何かわけがあると思わずにはいられないのよ。まだ一緒になってから一週間も経たないのにさあ。
 そればっかりじゃないの。きのうコンナ事があったの。夜の九時の折尾行きに乗って行く途中の事なのよ。
 妾たちのミナト・バスでもバス代りに一九三二年型のシボレーのオープンを使っているの。そのシボレーの折尾行きが例の通り満員しちゃったので、妾がステップに立って、新高さんが運転して行くうちに、妾はフッと気が付いて、筥崎はこざきの踏切を出ると直ぐにダンマリで後部リーヤのスペヤタイヤの横にまわって、荷物を乗せるデッキの上に立っていたの。
 夜の九時頃よ。小雨が降って真暗だったわ。
 そうしたら多々羅の村中の狭い処で、向うからバスが来たと思うと、急にスピードをかけた新高さんが、ハンドルをものすごくグーッと左に取って、道傍の電柱にスレスレに走り抜けて行ったの。万一妾がモトの通り前の左側のステップに立っていたらキット払い落されてぐたぐたにタタキ付けられたに違いないのよ。
 妾ゾオッとしちゃったわ。ツヤ子さんの手紙を見られた事が、その時にハッキリとわかったのよ。わかり過ぎて髪の毛一本一本が逆立ちしたくらいだったわ。
 そうしたら新高さんはまた、間もなく松崎の広い下り坂で、鉄砲玉のようなスピードになった時、向うから来た自転車を除けるふりをしいしいギューッと左に取って、車体の左側を、あぶなく松の樹にコスリ付けながら飛ばして行ったの。その時に妾はまたハッキリと新高さんが妾を殺そうとしている事を感じたのよ。
 けれども、ちっとも手応えがない上に、妾がウンともスンとも言わないもんですから、新高さんは不思議に思ったらしいの。香椎かしいの踏切の前に来ると運転台から、
「オーイ。トミちゃん」
 と呼ぶじゃないの。
「ハアイ」
 て妾、後部から出来るだけ朗らかな声で返事して遣ったら直ぐに、
「……馬鹿ア……前へ来ないかア……汽車を見てくれい。十時一分の上りが来る頃だあ」
 て言い言いスピードを落したの。妾はモウ一度朗らかに、
「ハアイ」
 って返事しいしい前の踏切に馳け出して、
「汽車オーライ」
 って両手を上げたの。あそこは家の蔭から急に鉄道踏切に乗り上げるばっかりじゃない。午後八時過は踏切番がいないので、慣れないトラックが二、三度引っかけられた事のあるトテモあぶない処なのよ。新高さんはチャント汽車の時間表を知っていて、御自慢のナルダンの腕時計[#「ナルダンの腕時計」はママ]を見い見い運転して来て、大丈夫と思ったら、妾が「オーライ」と車の中から言っただけで一気に突き抜ける処なのよ。それにこの時に限って御念入りにスピードを落して妾を呼ぶんですから妾、おかしくなっちゃったわ。
 香椎でお客が三人降りたので、妾はビッショリ濡れたまままた、運転台に新高さんと並んで坐ったのよ。けども新高さんは別に何も言わなかったわ。ただ、
「寒かったろう」
 とタッタ一言、低い声で言った切りステキなスピードを出して、香椎から一時間足らずのうちに折尾に着いたの。そうして二人してボデーを洗う間、一言も言わないまんまで家へ帰って、やはり黙りこくって二人でお酒を飲む間じゅう、睨み合いみたいになっていたの。新高さんは、いつも無口なんですけど、この時ばっかりは特別に、何ともカンとも言えない変な工合だったのよ。
 そうしたら新高さんがイヨイヨ寝る段になったら、お酒がまわったせいもあるでしょう。ダシヌケにいろんな冗談を言い出したの。それは無口の新高さんに全く似合わない冗談だったの。下は乞食こじきから、一番上は将軍様までいろんな階級の人のラブシーンを、新派や歌舞伎のいろんな俳優の声色こわいろを使ってやったりするの。それは上手で面白かってよ。新高さんにあんな芸当があるとは思わなかったわ。ですから妾も思わず釣込まれて、腹をかかえて笑ってしまったのよ。
 けれども、それがまた、今朝になってみたら、何もかも空っぽになったような気がするの。人間の気持って妙なものね。こうして一日、仕事を休まして貰って、まだ降っている嵐模様の雨越しに、向家の屋根のペンペン草だの、ずっと向うに並んで揺れているポプラの並木だの、下り列車から吹き散って行く黒い烟だのを見ていると、それがみんな妾の運命みたいに思われて来て、考えても考えても考え切れない、淋しい淋しい気持になって来るの。
 すぐ眼の下のトタンの屋根をバタバタとたたいて行く雨の音を聞いていると、ツイ眼の中に熱い涙が一パイ溜まって、死ぬほどつまらない、張合いのない気持になってしまうの。こんな情ない、悲しい妾の気持は智恵子さんに訴えるほかないわ。何とかしなければならないと思いながら、どうにもならないじゃないの。
 妾、タッタ今、死んだツヤ子さんの形見の手紙を焼いたばかりのところなの。ツヤ子さんのアノ恐ろしい手紙を焼きたいばっかりに今日一日休まして貰ったようなもんよ。
 何もかも運命よ。
 運命にまかせるよりほかに仕方がないわ。神様なんてこの世にないんですから。
 智恵子さん。ミジメなトミ子のために泣いてちょうだい。


 智恵子さんありがとうよ。
 妾がコンスイしているうちに、お見舞に来て下すったんですってね。綺麗な花を沢山たくさんにありがとう。まだ妾の枕元に咲きほこっていますわ。感謝しますわ。
 あたし、あれから一週間というもの何も知らなかったのよ。高い熱のためにウンウン言っていたんですって。頭のマン中の骨が割れて、それが悪くなりかけて出た熱なんですって。七針とか縫ったのをまたほどいて、洗い直したんですって。
 どうして助かったんだか妾にもハッキリわからないのよ。でもこの頃になって、一人で起きたり坐ったり出来るようになったら、すこしずつ思い出して来たようよ。
 何でもこの前に貴女にお手紙書いてから間もなくの事よ。いつもの通り新高さんと妾のバッテリでシボレーに乗って、博多から折尾へ行く途中十時半チョット前と思う頃、香椎の踏切にかかったの。ヒドイ吹き降りで一人もお客のない晩だったわ。二百二十日か二十一日の晩でしたからね。
 踏切にかかる少し前で、左側の松と百姓家の間から上り列車の長い長いアカリがグングン走って来るのが見えたんですけど、妾は平気で、
「……汽車アオーラアーイ」
 って長く引っぱって叫んだようよ。
 なぜソンナに恐ろしい嘘言うそをついたのか、その時の気持がどうしてもわからないんですけど、真暗な雨風の中をすごいスピードで走る自動車の中で、すっかり憂鬱になっていた妾が、新高さんと一緒に死んだ方がいいような気持になっていたせいでしょう。
 その列車は熊本とか鹿児島とかから出た臨時列車で、満州に行く団体の人を一パイに乗せていたんですって。ちょうど博多発、上り十時一分の終列車が通り過ぎたばかりの処でしたから、十一時の下り列車ばかりを用心していた新高さんは、妾の言う事を本当にしたんでしょう。思い切りスピードを出して踏切を突切って国道沿いに右手へ急カーブを切ろうとしたの。そのテイルのデッキに列車のライフ・ガードが引っかかって、逆トンボ返りにハネ飛ばされて、タイヤを上にしてどての下へ落ちていたって言う話よ。
 新高さんは、厚い硝子の破片が脇腹の中へ刺さってモグリ込んだために、手当てが間に合わなかったんですって。列車の後部車掌の加古川さんて言う人が馳け付けて来て、背後うしろから抱き起した時に、ウッスリ眼を開いて、息苦しい声で、
「シマッタ。ヤラレタ……ツヤ子の怨みだ……畜生……ツヤ子だ、ツヤ子だ、ツヤ子だ」
 って言った切りコトキレたって言う話よ。その後部車掌の加古川さんがワザワザ妾を見舞いに来て話して下すったの。
 そのお話を聞いた時に、妾は思わずニッコリ笑っちゃったわ。身体からだ中の血がスウーと暖かくなって、今にもかけ出せそうな元気で一パイになってしまったわ。新高さんはツヤ子さんの仇敵かたきを妾に取られた事をハッキリとわかって死んだんですからね。
 そう思うと妾は、涙がアトカラアトカラ流れて困っちゃったわ。何も知らない加古川さんと看護婦さんが、スッカリ同情しちゃってね。いろいろ慰めて下すったんですけど何もなりゃしないわ。妾は神様に感謝して喜んで泣いているのに、悲しんではいけない、身体にさわる障るって言うんですもの。妾その時にツクヅク思ったわ。女なんて滅多に慰めて遣るもんじゃないって。何を泣いているか知れたもんじゃないんですからね。
 その車掌さんと看護婦さんの話を聞くと、妾はメチャメチャになったボデーの下に伏せられて、顔をシッカリと両手で隠して、手足をマン丸く縮めていたので、みんな感心したって言う話よ。キット衝突する前から、そうしていたのでしょう。
 昨日臨床訊問て言うのがあったのよ。警察だの裁判所の人らしいイカツイ顔をした人が五、六人妾の寝台の廻りを取り巻いていろんな事を質問するの。ずいぶん怖かったわ。
 妾が大きな声でストップって言ったけど新高さんが構わずに踏切を突切ったって言ったら、皆うなずいていたわ。新高さんのイツモの運転ぶりを知っていたのでしょう。香椎の踏切には自動信号機が是非とも必要だなんて話合っていたわ。
 新高さんと内縁関係があるという話だが、ホントウかってひげの生えた人が聞いたから、妾、ありますって言ってやったの。顔も何も赤くならなかったと思うわ。皆顔を見合わせて笑っていたようよ。そうしたら四十ぐらいの刑事巡査らしい、色の黒い骸骨みたいな男が、くぼんだ眼を大きくギョロギョロさせながら、
「夫婦心中じゃないか」
 って言ったの。そうして白い歯をむき出して笑ったから妾ギョットしちゃったわ。でも妾、頑固に頭を振ったもんだから、間もなくみんな帰って行ったわよ。
 刑事なんて案外アタマのいいものね。その刑事の顔を思い出してもドキンとするわ。
 妾、神様に感謝しているのよ。ヤケクソの妾が一緒に死ぬつもりでオーライって言ったのに、新高だけ殺して、妾だけ助けて下すったんですもの。
 あたし頭の怪我がなおったらまた、ミナト・バスへ出て女車掌をつとめるわ。そうして今度こそ一生止めないわ。そうして女運転手になるわ。日本一の女運転手に……。妾これは神様の命令だと思っているの。
 結婚なんか一生しないわ。妾は最早もう、女の一生の分ぐらい何もかもわかっちゃったんですからね。新高さんが生き返って来ない限り、ほかの男の人には用はないつもりよ。
 新高さんの事がその時の新聞に大きく出ていたわ。「恐るべき色魔の殺人リレー」って言う標題でね。死んだ新高運転手は、東京の青バスを出てから後ズットお尋ね者になっていた女殺しの嫌疑者だった事が、死んだアトからわかったんですって。そうして新高は東京でも一度トラックと正面衝突をして、コチラの女の助手が即死したのに、自分だけ不思議に助かった事があるが、その時の説明のし方がよかったお蔭で無事に放免された経験の持ち主である。だから今度もホントウは内縁関係の女車掌と一緒に自動車を汽車にかして、自分だけ飛び降りるつもりだったかも知れないって書いてあったわ。智恵子さんも多分、お読みになったでしょう。
 アレみんなウソよ。新聞社と警察の作り事よ。妾に同情し過ぎているのよ。会社でも大層、妾の身の上に同情しているそうよ。おかしいわね。
 でも妾、平気よ。世の中ってソンナもんよ。神様の裁判だけが正しいのよ。
 ですから、あたし智恵子さんだけにホントの事をお知らせするわ。
 これから後ドンナ事があっても女車掌なんかになっちゃ駄目よ。
 妾みたいな女になっちゃダメよ。


 智恵子さん。貴女に最後のお手紙を上げますわ。
 あたしこのお手紙を出した後で、何処かへ行って自殺しますの。死骸は誰にも見せないようにしたいのですから、どうぞ探さないで下さい。
 すみませんけど新高さんと妾の写真も、着物も、貯金の帳面も、印形も、世帯道具や何やかやも、みんな一まとめにして、貴女のアテ名で送り出して置きました。
 どうぞ貧しい人達に分けて上げて下さい。
 小学校に寄付して下すってもいいわ。小さなオルガンぐらい買うだけあるでしょう。
 あの色の黒い骸骨みたいな刑事さんの言葉はやっぱりホントウだったのです。今やっとわかりました。
 妾は新高さんと夫婦心中をしてみたかったのです。そうして出来るなら自分だけ生き残ってみたかったのです。
 そうして、それがその通りになったのです。
 ですから妾はホントウを言うと夫殺しだったのです。けれども新高はツヤ子さんの怨みの一念に取り殺されたと思って死んだのでしょう。妾のシワザとは夢にも思わないままだったのでしょう。新高はやっぱり妾を心から愛していたのでしょう。
 そう気が付いた妾はモウいても立ってもいられません。
 そればかりじゃないのです。妾のお腹に新高の赤ちゃんが出来ていたのです。それがこの頃になって、新高さんの事を思い出すタンビに心臓の下の方でビクリビクリと躍り出すのです。この児が生まれたら妾どうしましょう。
 妾は、妾と一緒に呪咀のろわれたこの児も殺してしまいます。
 妾は夫殺しの吾児殺しです。
 貴女にだけ白状して死にますわ。許して下さい。ミジメなトミ子の一生涯のお願いです。
 女車掌なんかになってはいけません。――さよなら――