「
左右して、
婦人が、
励ますように、
賺すようにして勧めると、
白痴は首を曲げてかの
臍を
弄びながら唄った。
木曽の御嶽山は夏でも寒い、
袷遣りたや足袋添えて。
(よく知っておりましょう、)と
婦人は聞き澄して
莞爾する。
不思議や、唄った時の
白痴の声はこの話をお聞きなさるお前様はもとよりじゃが、
私も推量したとは
月鼈雲泥、天地の相違、
節廻し、あげさげ、
呼吸の続くところから、第一その清らかな涼しい声という者は、
到底この少年の
咽喉から出たものではない。まず
前の世のこの
白痴の身が、
冥土から管でそのふくれた腹へ通わして
寄越すほどに聞えましたよ。
私は
畏って聞き果てると、膝に手をついたッきりどうしても顔を上げてそこな
男女を見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤして、はらはらと
落涙した。
婦人は目早く見つけたそうで、
(おや、
貴僧、どうかなさいましたか。)
急にものもいわれなんだが
漸々、
(はい、なあに、変ったことでもござりませぬ、
私も嬢様のことは別にお
尋ね申しませんから、
貴女も何にも問うては下さりますな。)
と
仔細は語らずただ思い入ってそう言うたが、実は以前から様子でも知れる、
金釵玉簪をかざし、
蝶衣を
纏うて、
珠履を
穿たば、
正に
驪山に入って、
相抱くべき
豊肥妖艶の人が、その男に対する取廻しの優しさ、
隔なさ、
深切さに、
人事ながら
嬉しくて、思わず涙が流れたのじゃ。
すると人の腹の中を読みかねるような
婦人ではない、たちまち様子を
悟ったかして、
(
貴僧はほんとうにお優しい。)といって、
得も
謂われぬ色を目に
湛えて、じっと見た。
私も
首を
低れた、むこうでも
差俯向く。
いや、
行燈がまた薄暗くなって参ったようじゃが、恐らくこりゃ
白痴のせいじゃて。
その時よ。
座が白けて、しばらく言葉が
途絶えたうちに所在がないので、唄うたいの
太夫、
退屈をしたとみえて、顔の前の
行燈を吸い込むような
大欠伸をしたから。
身動きをしてな、
(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)とよたよた体を
持扱うわい。
(眠うなったのかい、もうお寝か。)といったが
坐り直ってふと気がついたように
四辺を
眗した。
戸外はあたかも真昼のよう、月の光は
開け
拡げた
家の
内へはらはらとさして、
紫陽花の色も
鮮麗に
蒼かった。
(
貴僧ももうお休みなさいますか。)
(はい、ご
厄介にあいなりまする。)
(まあ、いま
宿を寝かします、おゆっくりなさいましな。
戸外へは近うござんすが、夏は広い方が
結句宜うございましょう、
私どもは
納戸へ
臥せりますから、
貴僧はここへお広くお
寛ぎがようござんす、ちょいと待って。)といいかけてつッと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた、余り身のこなしが
活溌であったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま
項へ
崩れた。
鬢をおさえて戸につかまって、
戸外を
透したが、
独言をした。
(おやおやさっきの
騒ぎで
櫛を落したそうな。)
いかさま馬の腹を
潜った時じゃ。」
この折から下の
廊下に
跫音がして、
静に
大跨に
歩行いたのが、
寂としているからよく。
やがて
小用を
達した様子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、
手水鉢へ
柄杓の
響。
「おお、
積った、積った。」と
呟いたのは、
旅籠屋の亭主の声である。
「ほほう、この
若狭の
商人はどこかへ泊ったと見える、何か
愉快い夢でも見ているかな。」
「どうぞその後を、それから。」と聞く身には他事をいううちが
牴牾しく、
膠もなく続きを
促した。
「さて、夜も
更けました、」といって
旅僧はまた
語出した。
「たいてい推量もなさるであろうが、いかに
草臥れておっても申上げたような
深山の
孤家で、眠られるものではない、それに少し気になって、はじめの内
私を寝かさなかった事もあるし、目は
冴えて、まじまじしていたが、さすがに、
疲が
酷いから、
心は少しぼんやりして来た、何しろ夜の白むのが
待遠でならぬ。
そこではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたっぷり
経ったものをと、
怪しんだが、やがて気が付いて、こういう処じゃ山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。
その時は早や、夜がものに
譬えると谷の底じゃ、
白痴がだらしのない
寐息も聞えなくなると、たちまち戸の外にものの
気勢がしてきた。
獣の跫音のようで、さまで遠くの方から
歩行いて来たのではないよう、猿も、
蟇も、居る処と、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。
しばらくすると今そやつが正面の戸に
近いたなと思ったのが、羊の鳴声になる。
私はその方を
枕にしていたのじゃから、つまり
枕頭の
戸外じゃな。しばらくすると、
右手のかの紫陽花が咲いていたその花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。
むささびか知らぬがきッきッといって屋の
棟へ、やがておよそ小山ほどあろうと
気取られるのが胸を
圧すほどに
近いて来て、牛が鳴いた、遠くの
彼方からひたひたと
小刻に
駈けて来るのは、二本足に
草鞋を
穿いた獣と思われた、いやさまざまにむらむらと
家のぐるりを取巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には
囁いているのがある。あたかも何よ、それ
畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一枚、
魑魅魍魎というのであろうか、ざわざわと木の葉が
戦ぐ
気色だった。
息を
凝すと、納戸で、
(うむ、)といって長く
呼吸を引いて
一声、
魘れたのは
婦人じゃ。
(今夜はお客様があるよ。)と叫んだ。
(お客様があるじゃないか。)
としばらく経って二度目のははっきりと
清しい声。
極めて
低声で、
(お客様があるよ。)といって寝返る音がした、
更に寝返る音がした。
戸の外のものの
気勢は
動揺を造るがごとく、ぐらぐらと家が
揺いた。
私は
陀羅尼を
呪した。
若不順我呪 悩乱説法者
頭破作七分 如阿梨樹枝
如殺父母罪 亦如厭油殃
斗秤欺誑人 調達破僧罪
犯此法師者 当獲如是殃
と一心不乱、さっと木の葉を
捲いて風が
南へ吹いたが、たちまち
静り返った、夫婦が
閨もひッそりした。」
「翌日また
正午頃、里近く、滝のある処で、
昨日馬を売りに行った
親仁の帰りに
逢うた。
ちょうど
私が修行に出るのを
止して
孤家に引返して、
婦人と
一所に
生涯を送ろうと思っていたところで。
実を申すとここへ来る途中でもその事ばかり考える、蛇の橋も
幸になし、
蛭の林もなかったが、道が
難渋なにつけても、汗が流れて心持が悪いにつけても、
今更行脚もつまらない。
紫の
袈裟をかけて、
七堂伽藍に住んだところで何ほどのこともあるまい、
活仏様じゃというて、わあわあ拝まれれば人いきれで胸が悪くなるばかりか。
ちとお話もいかがじゃから、さっきはことを分けていいませなんだが、
昨夜も
白痴を
寐かしつけると、
婦人がまた炉のある処へやって来て、世の中へ苦労をしに出ようより、夏は涼しく、冬は暖い、この
流に一所に
私の
傍においでなさいというてくれるし、まだまだそればかりでは自分に魔が
魅したようじゃけれども、ここに我身で我身に
言訳が出来るというのは、しきりに
婦人が
不便でならぬ、
深山の
孤家に
白痴の
伽をして言葉も通ぜず、日を
経るに従うてものをいうことさえ忘れるような気がするというは何たる事!
殊に
今朝も
東雲に
袂を振り切って別れようとすると、お
名残惜しや、かような処にこうやって
老朽ちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで
白桃の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え、といって
悄れながら、なお
深切に、道はただこの谷川の流れに沿うて行きさえすれば、どれほど遠くても里に出らるる、目の下近く水が
躍って、滝になって落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるように、と気をつけて、
孤家の見えなくなった
辺で、
指しをしてくれた。
その手と手を
取交すには及ばずとも、
傍につき
添って、朝夕の
話対手、
蕈の汁でご
膳を食べたり、
私が
榾を
焚いて、
婦人が
鍋をかけて、
私が
木の
実を拾って、
婦人が皮を
剥いて、それから
障子の内と外で、話をしたり、笑ったり、それから谷川で二人して、その時の
婦人が
裸体になって
私が背中へ
呼吸が
通って、
微妙な
薫の花びらに
暖に包まれたら、そのまま命が失せてもいい!
滝の水を見るにつけても
耐え
難いのはその事であった、いや、
冷汗が流れますて。
その上、もう気がたるみ、
筋が
弛んで、
早や
歩行くのに
飽きが来て、喜ばねばならぬ人家が近づいたのも、たかがよくされて口の
臭い
婆さんに渋茶を
振舞われるのが関の山と、里へ入るのも
厭になったから、石の上へ
膝を
懸けた、ちょうど目の下にある滝じゃった、これがさ、
後に聞くと
女夫滝と言うそうで。
真中にまず
鰐鮫が口をあいたような先のとがった黒い
大巌が
突出ていると、上から流れて来るさっと
瀬の早い谷川が、これに当って
両に
岐れて、およそ四丈ばかりの滝になってどっと落ちて、また
暗碧に
白布を織って矢を射るように里へ出るのじゃが、その巌にせかれた方は六尺ばかり、これは川の
一幅を
裂いて糸も乱れず、一方は幅が狭い、三尺くらい、この下には雑多な岩が並ぶとみえて、ちらちらちらちらと玉の
簾を百千に
砕いたよう、
件の
鰐鮫の巌に、すれつ、
縋れつ。」
「ただ
一筋でも巌を越して
男滝に
縋りつこうとする形、それでも中を
隔てられて末までは
雫も通わぬので、
揉まれ、揺られて
具さに
辛苦を
嘗めるという
風情、この方は姿も
窶れ
容も細って、流るる音さえ別様に、泣くか、
怨むかとも思われるが、あわれにも優しい
女滝じゃ。
男滝の方はうらはらで、石を砕き、地を
貫く
勢、堂々たる
有様じゃ、これが二つ
件の巌に当って左右に分れて二筋となって落ちるのが身に
浸みて、女滝の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を
震わすようで、岸に居てさえ体がわななく、肉が
跳る。ましてこの
水上は、
昨日孤家の
婦人と水を浴びた処と思うと、気のせいかその女滝の中に絵のようなかの
婦人の姿が
歴々、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思うとまた浮いて、
千筋に乱るる水とともにその
膚が
粉に砕けて、
花片が散込むような。あなやと思うと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も
全き姿となって、浮いつ沈みつ、ぱッと刻まれ、あッと見る間にまたあらわれる。
私は
耐らず
真逆に滝の中へ飛込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。気がつくと男滝の方はどうどうと
地響打たせて。
山彦を呼んで
轟いて流れている。ああその力をもってなぜ救わぬ、
儘よ!
滝に身を投げて死のうより、
旧の
孤家へ引返せ。
汚らわしい欲のあればこそこうなった上に
躊躇するわ、その顔を見て声を聞けば、かれら夫婦が
同衾するのに
枕を並べて
差支えぬ、それでも汗になって修行をして、坊主で果てるよりはよほどのましじゃと、
思切って戻ろうとして、石を放れて身を起した、
背後から一ツ背中を
叩いて、
(やあ、ご
坊様。)といわれたから、時が時なり、心も心、
後暗いので
喫驚して見ると、
閻王の
使ではない、これが
親仁。
馬は売ったか、身軽になって、小さな包みを肩にかけて、手に一
尾の
鯉の、
鱗は
金色なる、
溌剌として尾の動きそうな、
鮮しい、その
丈三尺ばかりなのを、
顋に
藁を通して、ぶらりと提げていた。何んにも言わず急にものもいわれないで
瞻ると、
親仁はじっと顔を見たよ。そうしてにやにやと、また一通りの笑い方ではないて、
薄気味の悪い
北叟笑をして、
(何をしてござる、ご修行の身が、このくらいの
暑で、岸に休んでいさっしゃる分ではあんめえ、
一生懸命に
歩行かっしゃりや、
昨夜の
泊からここまではたった五里、もう里へ行って地蔵様を拝まっしゃる時刻じゃ。
何じゃの、
己が嬢様に
念が
懸って
煩悩が起きたのじゃの。うんにゃ、
秘さっしゃるな、おらが目は赤くッても、白いか黒いかはちゃんと見える。
地体並のものならば、嬢様の手が
触ってあの水を
振舞われて、今まで人間でいようはずがない。
牛か馬か、猿か、
蟇か、
蝙蝠か、何にせい飛んだか
跳ねたかせねばならぬ。谷川から上って来さしった時、手足も顔も人じゃから、おらあ
魂消たくらい、お前様それでも感心に
志が
堅固じゃから助かったようなものよ。
何と、おらが
曳いて行った馬を見さしったろう。それで、
孤家へ来さっしゃる
山路で
富山の
反魂丹売に
逢わしったというではないか、それみさっせい、あの
助平野郎、とうに馬になって、それ馬市で
銭になって、お
銭が、そうらこの鯉に化けた。大好物で晩飯の菜になさる、お嬢様を一体何じゃと思わっしゃるの)。」
[#「)。」」はママ]
私は思わず
遮った。
「お
上人?」
上人は
頷きながら
呟いて、
「いや、まず聞かっしゃい、かの
孤家の
婦人というは、
旧な、これも
私には何かの
縁があった、あの恐しい
魔処へ入ろうという
岐道の水が
溢れた往来で、百姓が教えて、あすこはその以前医者の家であったというたが、その家の嬢様じゃ。
何でも
飛騨一円当時変ったことも珍らしいこともなかったが、ただ取り
出でていう不思議はこの医者の
娘で、生まれると玉のよう。
母親殿は
頬板のふくれた、
眦の下った、鼻の低い、俗にさし
乳というあの毒々しい左右の胸の房を含んで、どうしてあれほど美しく育ったものだろうという。
昔から物語の本にもある、屋の
棟へ白羽の
征矢が立つか、さもなければ
狩倉の時
貴人のお目に
留って
御殿に
召出されるのは、あんなのじゃと
噂が高かった。
父親の医者というのは、
頬骨のとがった
髯の生えた、
見得坊で
傲慢、その
癖でもじゃ、もちろん
田舎には
刈入の時よく
稲の
穂が目に入ると、それから
煩う、
脂目、
赤目、
流行目が多いから、先生眼病の方は少し
遣ったが、内科と来てはからッぺた。外科なんと来た日にゃあ、
鬢附へ水を垂らしてひやりと
疵につけるくらいなところ。
鰯の
天窓も信心から、それでも命数の
尽きぬ
輩は本復するから、
外に
竹庵養仙木斎の居ない土地、相応に
繁盛した。
殊に娘が十六七、
女盛となって来た時分には、薬師様が人助けに先生様の
内へ生れてござったというて、
信心渇仰の
善男善女? 病男病女が我も我もと
詰め
懸ける。
それというのが、はじまりはかの嬢様が、それ、
馴染の病人には毎日顔を合せるところから
愛想の一つも、あなたお手が痛みますかい、どんなでございます、といって手先へ柔かな
掌が
障ると第一番に
次作兄いという若いのの(りょうまちす)が全快、お苦しそうなといって腹をさすってやると水あたりの
差込の
留まったのがある、
初手は若い男ばかりに利いたが、だんだん
老人にも及ぼして、後には
婦人の病人もこれで
復る、復らぬまでも
苦痛が薄らぐ、
根太の
膿を切って出すさえ、
錆びた小刀で
引裂く医者殿が腕前じゃ、病人は
七顛八倒して悲鳴を上げるのが、娘が来て背中へぴったりと胸をあてて肩を押えていると、
我慢が出来るといったようなわけであったそうな。
ひとしきりあの
藪の前にある
枇杷の古木へ
熊蜂が来て
恐しい大きな巣をかけた。
すると医者の
内弟子で薬局、
拭掃除もすれば
総菜畠の
芋も
掘る、近い所へは車夫も勤めた、
下男兼帯の熊蔵という、その
頃二十四五
歳、
稀塩散に
単舎利別を混ぜたのを
瓶に盗んで、
内が
吝嗇じゃから見附かると
叱られる、これを
股引や
袴と
一所に戸棚の上に
載せておいて、
隙さえあればちびりちびり飲んでた男が、庭
掃除をするといって、
件の蜂の巣を見つけたっけ。
縁側へやって来て、お嬢様面白いことをしてお目に
懸けましょう、
無躾でござりますが、
私のこの手を
握って下さりますと、あの蜂の中へ
突込んで、蜂を
掴んで見せましょう。お手が障った所だけは
螫しましても痛みませぬ、
竹箒で
引払いては八方へ散らばって体中に
集られてはそれは
凌げませぬ
即死でございますがと、
微笑んで控える手で無理に握ってもらい、つかつかと行くと、
凄じい虫の
唸、やがて取って返した左の手に熊蜂が七ツ八ツ、羽ばたきをするのがある、
脚を振うのがある、中には掴んだ指の
股へ
這出しているのがあった。
さあ、あの神様の手が障れば鉄砲玉でも通るまいと、
蜘蛛の巣のように評判が八方へ。
その
頃からいつとなく感得したものとみえて、
仔細あって、あの
白痴に身を任せて山に
籠ってからは神変不思議、年を
経るに従うて
神通自在じゃ。はじめは体を押つけたのが、足ばかりとなり、手さきとなり、
果は間を
隔てていても、道を迷うた旅人は嬢様が思うままはッという
呼吸で変ずるわ。
と
親仁がその時物語って、ご坊は、
孤家の
周囲で、猿を見たろう、
蟇を見たろう、
蝙蝠を見たであろう、
兎も蛇も皆嬢様に谷川の水を浴びせられて
畜生にされたる
輩!
あわれあの時あの
婦人が、蟇に
絡られたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸われたのも、夜中に
魑魅魍魎に
魘われたのも、思い出して、
私はひしひしと胸に当った。
なお
親仁のいうよう。
今の
白痴も、
件の評判の高かった頃、医者の
内へ来た病人、その頃はまだ子供、
朴訥な父親が
附添い、髪の長い、兄貴がおぶって山から出て来た。脚に
難渋な
腫物があった、その
療治を頼んだので。
もとより
一室を借受けて、
逗留をしておったが、かほどの
悩は
大事じゃ、血も
大分に出さねばならぬ、
殊に子供、手を
下すには体に精分をつけてからと、まず一日に三ツずつ
鶏卵を飲まして、気休めに
膏薬を
貼っておく。
その膏薬を
剥がすにも親や兄、また
傍のものが手を懸けると、
堅くなって
硬ばったのが、めりめりと肉にくッついて取れる、ひいひいと泣くのじゃが、娘が手をかけてやれば
黙って
耐えた。
一体は医者殿、手のつけようがなくって身の
衰をいい立てに一日延ばしにしたのじゃが三日
経つと、兄を残して、
克明な
父親は股引の
膝でずって、あとさがりに玄関から土間へ、
草鞋を
穿いてまた
地に手をついて、次男坊の
生命の
扶かりまするように、ねえねえ、というて山へ帰った。
それでもなかなか
捗取らず、
七日も経ったので、
後に残って附添っていた
兄者人が、ちょうど刈入で、この節は手が八本も欲しいほど
忙しい、お天気模様も雨のよう、長雨にでもなりますと、
山畠にかけがえのない、稲が
腐っては、
餓死でござりまする、総領の
私は、一番の
働手、こうしてはおられませぬから、と
辞をいって、やれ泣くでねえぞ、としんみり子供にいい聞かせて病人を置いて行った。
後には子供一人、その時が、
戸長様の帳面前
年紀六ツ、親六十で
児が
二十なら
徴兵はお目こぼしと何を間違えたか届が五年遅うして本当は十一、それでも奥山で育ったから村の言葉も
碌には知らぬが、
怜悧な生れで
聞分があるから、三ツずつあいかわらず
鶏卵を吸わせられる
汁も、今に療治の時残らず血になって出ることと推量して、べそを
掻いても、兄者が泣くなといわしったと、耐えていた心の内。
娘の
情で内と一所に
膳を並べて食事をさせると、
沢庵の
切をくわえて
隅の方へ
引込むいじらしさ。
いよいよ
明日が手術という夜は、
皆寐静まってから、しくしく
蚊のように泣いているのを、
手水に起きた娘が見つけてあまり
不便さに抱いて寝てやった。
さて
治療となると例のごとく娘が
背後から抱いていたから、
脂汗を流しながら切れものが入るのを、感心にじっと耐えたのに、どこを切違えたか、それから流れ出した血が留まらず、見る見る内に色が変って、
危くなった。
医者も
蒼くなって、騒いだが、神の
扶けかようよう
生命は
取留まり、三日ばかりで血も留ったが、とうとう腰が抜けた、もとより
不具。
これが
引摺って、足を見ながら情なそうな顔をする。
蟋蟀が