右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読み
耽りたり。少し変人という方なりき。
狐と親しくなりて家を富ます術を得んと思い立ち、まず庭の中に
稲荷の
祠を
建て、自身京に
上りて正一位の神階を
請けて帰り、それよりは日々一枚の
油揚を欠かすことなく、手ずから社頭に
供えて拝をなせしに、のちには狐
馴れて近づけども
遁げず。手を延ばしてその首を
抑えなどしたりという。村にありし薬師の
堂守は、わが仏様は何ものをも
供えざれども、孫左衛門の神様よりは
御利益ありと、たびたび笑いごとにしたりとなり。
佐々木氏の
曾祖母年よりて死去せし時、
棺に取り
納め親族の者集まりきてその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。
喪の間は火の
気を
絶やすことを
忌むがところの
風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる
囲炉裡の
両側に
坐り、
母人は
旁に
炭籠を置き、おりおり炭を
継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音してくる者あるを見れば、
亡くなりし老女なり。
平生腰かがみて
衣物の
裾の引きずるを、三角に取り上げて前に縫いつけてありしが、まざまざとその通りにて、
縞目にも
見覚えあり。あなやと思う間もなく、二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて
炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。母人は
気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打ち
臥したる座敷の方へ近より行くと思うほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に
睡を
覚しただ打ち驚くばかりなりしといえり。
○マーテルリンクの『侵入者』を想い起こさしむ。
同じ人の二七日の
逮夜に、知音の者集まりて、夜
更くるまで念仏を
唱え立ち帰らんとする時、
門口の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。そのうしろ
付正しく
亡くなりし人の通りなりき。これは
数多の人見たる
故に誰も疑わず。いかなる
執着のありしにや、ついに知る人はなかりしなり。
村々の旧家を
大同というは、大同元年に
甲斐国より移り来たる家なればかくいうとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに
非ざるか。
○大同は大洞かも知れず、洞とは東北にて家門または族ということなり。『常陸国志』に例あり、ホラマエという語のちに見ゆ。
大同の祖先たちが、始めてこの地方に到着せしは、あたかも
歳の
暮にて、春のいそぎの
門松を、まだ
片方はえ立てぬうちに
早元日になりたればとて、今もこの家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるままにて、
標縄を引き渡すとのことなり。
柏崎の
田圃のうちと称する阿倍氏はことに聞えたる旧家なり。この家の先代に彫刻に
巧なる人ありて、遠野一郷の神仏の像にはこの人の作りたる者多し。
早池峯より出でて東北の方
宮古の海に流れ入る川を
閉伊川という。その流域はすなわち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は
池の
端という家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の
原台の
淵というあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を
托す。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を
叩けば
宛名の人いで
来べしとなり。この人
請け合いはしたれども
路々心に掛りてとつおいつせしに、一人の
六部に行き
逢えり。この手紙を開きよみて
曰く、これを持ち行かば
汝の身に大なる
災あるべし。書き
換えて取らすべしとて更に別の手紙を与えたり。これを持ちて沼に行き教えのごとく手を叩きしに、果して若き女いでて手紙を受け取り、その礼なりとてきわめて小さき
石臼をくれたり。米を一粒入れて
回せば下より黄金
出づ。この
宝物の力にてその家やや富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに自ら回りて、ついには朝ごとに主人がこの石臼に供えたりし水の、小さき
窪みの中に
溜りてありし中へ
滑り入りて見えずなりたり。その水溜りはのちに小さき池になりて、今も家の
旁にあり。家の名を池の端というもその
為なりという。
○この話に似たる物語西洋にもあり、偶合にや。
始めて早池峯に
山路をつけたるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時は遠野の南部家
入部の後のことなり。その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしと。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に
仮小屋を作りておりしころ、
或る日
炉の上に
餅をならべ焼きながら食いおりしに、小屋の外を通る者ありて
頻に中を
窺うさまなり。よく見れば大なる坊主なり。やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、ついにこらえ
兼ねて手をさし延べて取りて食う。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与えしに、
嬉しげになお食いたり。餅
皆になりたれば帰りぬ。次の日もまた来るならんと思い、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のようになれり。案のごとくその坊主きょうもきて、餅を取りて食うこと昨日のごとし。餅
尽きてのちその白石をも同じように口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。のちに谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといえり。
○北上川の中古の大洪水に白髪水というがあり、白髪の姥を欺き餅に似たる焼石を食わせし祟なりという。この話によく似たり。
鶏頭山は早池峯の前面に立てる
峻峯なり。
麓の里にてはまた
前薬師ともいう。
天狗住めりとて、早池峯に登る者も決してこの山は
掛けず。山口のハネトという家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。きわめて無法者にて、
鉞にて草を
苅り
鎌にて土を掘るなど、若き時は乱暴の
振舞のみ多かりし人なり。或る時人と
賭をして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、その岩の上に大男三人いたり。前にあまたの金銀をひろげたり。この男の近よるを見て、
気色ばみて振り返る、その眼の光きわめて恐ろし。早池峯に登りたるが
途に迷いて来たるなりと言えば、
然らば送りて
遣るべしとて
先に立ち、
麓近きところまで来たり、眼を
塞げと言うままに、暫時そこに立ちている間に、たちまち異人は見えずなりたりという。
小国村の何某という男、或る日早池峯に竹を
伐りに行きしに、
地竹のおびただしく茂りたる中に、大なる男一人寝ていたるを見たり。地竹にて編みたる三尺ばかりの
草履を
脱ぎてあり。
仰に
臥して大なる
鼾をかきてありき。
○下閉伊郡小国村大字小国。
○地竹は深山に生ずる低き竹なり。
遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。
千晩ヶ
岳は山中に
沼あり。この谷は物すごく
腥き
臭のするところにて、この山に入り帰りたる者はまことに
少なし。昔何の
隼人という猟師あり。その子孫今もあり。白き鹿を見てこれを追いこの谷に千晩こもりたれば山の名とす。その白鹿撃たれて遁げ、次の山まで行きて
片肢折れたり。その山を今
片羽山という。さてまた前なる山へきてついに死したり。その地を
死助という。
死助権現とて
祀れるはこの白鹿なりという。
○宛然として古風土記をよむがごとし。
白望の山に行きて
泊れば、深夜にあたりの
薄明るくなることあり。秋のころ
茸を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。また谷のあなたにて大木を
伐り倒す音、歌の声など
聞ゆることあり。この山の大さは
測るべからず。五月に
萱を苅りに行くとき、遠く望めば
桐の花の咲き
満ちたる山あり。あたかも
紫の雲のたなびけるがごとし。されどもついにそのあたりに近づくこと
能わず。かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の
樋と金の
杓とを見たり。持ち帰らんとするにきわめて重く、
鎌にて
片端を
削り取らんとしたれどそれもかなわず。また
来んと思いて樹の皮を白くし
栞としたりしが、次の日人々とともに行きてこれを求めたれど、ついにその木のありかをも見出しえずしてやみたり。
白望の山続きに
離森というところあり。その
小字に長者屋敷というは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。或る夜その小屋の
垂菰をかかげて、内を
窺う者を見たり。髪を長く二つに分けて
垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。
佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて
宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るように思われたり。待てちゃアと二声ばかり
呼ばわりたるを聞けりとぞ。
猿の
経立、
御犬の経立は恐ろしきものなり。
御犬とは
狼のことなり。山口の村に近き
二ツ
石山は岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、
処々の岩の上に御犬うずくまりてあり。やがて首を
下より
押しあぐるようにしてかわるがわる
吠えたり。正面より見れば
生まれ
立ての馬の子ほどに見ゆ。
後から見れば
存外小さしといえり。御犬のうなる声ほど
物凄く恐ろしきものはなし。
境木峠と
和山峠との間にて、昔は
駄賃馬を
追う者、しばしば狼に逢いたりき。
馬方らは夜行には、たいてい十人ばかりも
群をなし、その一人が
牽く馬は
一端綱とてたいてい五六七
匹までなれば、常に四五十匹の馬の数なり。ある時二三百ばかりの狼追い来たり、その足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、そのめぐりに火を焼きてこれを防ぎたり。されどなおその火を躍り越えて入り来るにより、ついには馬の
綱を
解きこれを
張り
回らせしに、
穽などなりとや思いけん、それよりのちは中に飛び入らず。遠くより
取り
囲みて夜の
明るまで吠えてありきとぞ。
小友村の旧家の主人にて今も生存せる
某爺という人、町より帰りに
頻に御犬の
吠ゆるを聞きて、酒に酔いたればおのれもまたその声をまねたりしに、狼も吠えながら
跡より来るようなり。恐ろしくなりて急ぎ家に帰り入り、門の戸を
堅く
鎖して
打ち
潜みたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる声やまず。
夜明けて見れば、馬屋の
土台の下を掘り
穿ちて中に入り、馬の七頭ありしをことごとく食い殺していたり。この家はそのころより産やや傾きたりとのことなり。
佐々木君幼きころ、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて
間もなきにや、そこよりはまだ
湯気立てり。祖父の曰く、これは狼が食いたるなり。この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見ておるに相違なければ、取ることができぬといえり。
草の長さ三寸あれば狼は身を隠すといえり。
草木の色の移り行くにつれて、狼の毛の色も
季節ごとに変りて行くものなり。
和野の佐々木嘉兵衛、或る年
境木越の
大谷地へ狩にゆきたり。
死助の方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り尽し山もあらわなり。
向うの峯より何百とも知れぬ狼此方へ
群れて走りくるを見て恐ろしさに堪えず、樹の
梢に
上りてありしに、その樹の下を
夥しき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。そのころより遠野郷には狼甚だ少なくなれりとのことなり。
六角牛山の
麓にオバヤ、板小屋などいうところあり。広き
萱山なり。村々より
苅りに行く。ある年の秋
飯豊村の者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち帰りしに、その日より狼の
飯豊衆の馬を
襲うことやまず。
外の村々の人馬にはいささかも害をなさず。飯豊衆相談して狼狩をなす。その中には
相撲を取り
平生力自慢の者あり。さて野に
出でて見るに、
雄の狼は遠くにおりて
来たらず。
雌狼一つ鉄という男に飛びかかりたるを、ワッポロを脱ぎて
腕に巻き、やにわにその狼の口の中に突き込みしに、狼これを
噛む。なお強く突き入れながら人を
喚ぶに、誰も誰も
怖れて近よらず。その間に鉄の腕は狼の腹まで
入り、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を
噛み
砕きたり。狼はその場にて死したれども、鉄も
担がれて帰り
程なく死したり。
○ワッポロは上羽織のことなり。
一昨年の『遠野新聞』にもこの記事を載せたり。
上郷村の熊という男、友人とともに雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、
手分してその跡を
覔め、自分は峯の方を行きしに、とある岩の
陰より大なる熊此方を見る。
矢頃あまりに近かりしかば、銃をすてて熊に
抱えつき雪の上を
転びて、谷へ下る。
連の男これを救わんと思えども力及ばず。やがて谷川に落ち入りて、人の熊
下になり水に沈みたりしかば、その
隙に獣の熊を打ち取りぬ。水にも
溺れず、
爪の傷は数ヶ所受けたれども命に
障ることはなかりき。
六角牛の峯続きにて、
橋野という村の上なる山に
金坑あり。この鉱山のために炭を焼きて生計とする者、これも笛の
上手にて、ある日
昼の
間小屋におり、
仰向に
寝転びて笛を吹きてありしに、小屋の口なる
垂菰をかかぐる者あり。驚きて見れば猿の
経立なり。恐ろしくて起き直りたれば、おもむろに
彼方へ走り行きぬ。
○上閉伊郡栗橋村大字橋野。
猿の
経立はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。
松脂を毛に
塗り砂をその上につけておる故、
毛皮は
鎧のごとく鉄砲の
弾も
通らず。
栃内村の
林崎に住む何某という男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、これを
真の鹿なりと思いしか、
地竹を手にて
分けながら、大なる口をあけ嶺の方より
下り来たれり。
胆潰れて笛を吹きやめたれば、やがて
反れて谷の方へ走り行きたり。
○オキとは鹿笛のことなり。
この地方にて子供をおどす
言葉に、六角牛の猿の経立が来るぞということ常の事なり。この山には猿多し。
緒挊の
滝を見に行けば、
崖の樹の
梢にあまたおり、人を見れば
遁げながら木の
実などを
擲ちて行くなり。
仙人峠にもあまた猿おりて行人に
戯れ石を打ちつけなどす。
仙人峠は登り十五里
降り十五里あり。その中ほどに仙人の像を祀りたる堂あり。この堂の
壁には旅人がこの山中にて遭いたる不思議の出来事を書き
識すこと昔よりの
習なり。例えば、我は越後の者なるが、何月何日の夜、この
山路にて若き女の髪を
垂れたるに逢えり。こちらを見てにこと笑いたりという
類なり。またこの所にて猿に
悪戯をせられたりとか、三人の盗賊に逢えりというようなる事をも
記せり。
○この一里も小道なり。
死助の山にカッコ花あり。遠野郷にても珍しという花なり。五月
閑古鳥の
啼くころ、女や子どもこれを
採りに山へ行く。
酢の中に
漬けて置けば
紫色になる。
酸漿の
実のように吹きて遊ぶなり。この花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。
山にはさまざまの鳥
住めど、最も
寂しき声の鳥はオット鳥なり。夏の
夜中に
啼く。浜の
大槌より
駄賃附の者など峠を越え来たれば、
遥に谷底にてその声を聞くといえり。昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子と
親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで
探しあるきしが、これを見つくることをえずして、ついにこの鳥になりたりという。オットーン、オットーンというは
夫のことなり。末の方かすれてあわれなる
鳴声なり。
馬追鳥は
時鳥に似て
少し大きく、
羽の色は赤に茶を
帯び、肩には馬の
綱のようなる
縞あり。胸のあたりにクツゴコ(口籠)のようなるかたあり。これも
或る長者が家の奉公人、山へ馬を
放しに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがついにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野におる馬を追う声なり。年により馬追鳥
里にきて啼くことあるは
飢饉の前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。
○クツゴコは馬の口に嵌める網の袋なり。
郭公と
時鳥とは昔ありし
姉妹なり。郭公は姉なるがある時
芋を掘りて焼き、そのまわりの
堅きところを自ら食い、中の
軟かなるところを妹に与えたりしを、妹は姉の食う
分は一層
旨かるべしと想いて、
庖丁にてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところということなり。妹さてはよきところをのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりという。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。
盛岡辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くという。
○この芋は馬鈴薯のことなり。
閉伊川の
流れには
淵多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近きところに、
川井という村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、
斧を水中に
取り
落したり。主人の物なれば淵に入りてこれを
探りしに、水の底に入るままに物音聞ゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘
機を織りていたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまわらんという時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我がこの
所にあることを人にいうな。その礼としてはその方
身上良くなり、奉公をせずともすむようにして
遣らんといいたり。そのためなるか否かは知らず、その後
胴引などいう
博奕に不思議に勝ち
続けて
金溜り、ほどなく奉公をやめ家に引き込みて
中ぐらいの農民になりたれど、この男は
疾くに物忘れして、この娘のいいしことも心づかずしてありしに、或る日同じ淵の
辺を
過ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思い出し、
伴なえる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその
噂は近郷に伝わりぬ。その頃より男は家産再び
傾き、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思いしにや、その淵に
何荷ともなく熱湯を
注ぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。
○下閉伊郡川井村大字川井、川井はもちろん川合の義なるべし。
川には
川童多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の
川端の
家にて、二代まで続けて川童の子を
孕みたる者あり。生れし子は
斬り
刻みて
一升樽に入れ、土中に
埋めたり。その
形きわめて醜怪なるものなりき。女の
婿の里は
新張村の何某とて、これも川端の家なり。その主人
人にその
始終を語れり。かの家の者一同ある日
畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の
汀に
踞りてにこにこと笑いてあり。次の日は
昼の休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者
夜々通うという
噂立ちたり。始めには婿が浜の方へ
駄賃附に行きたる
留守をのみ
窺いたりしが、のちには
婿と
寝たる
夜さえくるようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの
甲斐もなく、婿の母も行きて娘の
側に
寝たりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、或る者のいうには、
馬槽に水をたたえその中にて
産まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。その子は手に
水掻あり。この娘の母もまたかつて川童の子を産みしことありという。二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。この家も
如法の豪家にて何の某という士族なり。村会議員をしたることもあり。
上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を
産みたることあり。
確なる証とてはなけれど、
身内真赤にして口大きく、まことにいやな子なりき。
忌わしければ
棄てんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきという。
○道ちがえは道の二つに別かるるところすなわち追分なり。
川の岸の
砂の上には川童の
足跡というものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく
親指は離れて人間の手の
跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという。
小烏瀬川の
姥子淵の辺に、
新屋の
家という
家あり。ある日
淵へ馬を
冷しに行き、
馬曳の子は
外へ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて
厩の前に来たり、
馬槽に
覆われてありき。家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんか
宥さんかと評議せしが、結局
今後は村中の馬に
悪戯をせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて
相沢の滝の淵に住めりという。
○この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何の故にか。
外の地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は
面の
色赭きなり。佐々木氏の
曾祖母、
穉かりしころ友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある
胡桃の木の間より、
真赤なる顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。
和野村の
嘉兵衛爺、
雉子小屋に入りて雉子を待ちしに
狐しばしば出でて雉子を追う。あまり
憎ければこれを撃たんと思い
狙いたるに、狐は此方を向きて何ともなげなる顔してあり。さて
引金を引きたれども火
移らず。
胸騒ぎして銃を検せしに、
筒口より
手元のところまでいつのまにかことごとく土をつめてありたり。