九
その夜は役場にとまった。校長を訪ねたが不在であった。かれは日記帳に、「あゝわれつひに堪へんや、あゝわれつひに田舎の一教師に埋れんとするか。明日! 明日は万事定まるべし。村会の夜の集合! 噫! 一語以て後日に寄す」と書いた。なおくわしくその心持ちを書こうと思ったが、とうてい十分に書き現わし得ようとも思えぬので、記憶にとどめておくことにした。
翌日、朝九時に学校に行ってみた。けれどその平田というのがまだいたので、一まず役場に引き返した。一時間ばかりしてまた出かけた。
今度はもうその教員はいなかった。授業はすでに始まっていた。生徒を教える教員の声が各教場からはっきりと聞こえて来る。女教員のさえた声も聞こえた。清三の胸はなんとなくおどった、教員室にはいると、校長は卓に向かって、何か書類の調物をしていたが、
「さアはいりたまえ」と言って清三のはいって来るのを待って、そばにある椅子をすすめた。
「お気の毒でした。ようやくすっかり決まりました。なかなかめんどうでしてな……昨夜の相談でもいろいろの話が出ましてな」こう言って笑って、「どうも村が小さくって、それでやかましい学務委員がいるから困りますよ」
校長は言葉をついで、
「それで家のほうはどうするつもりです? 毎日行田から通うというわけにもいくまい。まア、当分は学校に泊まっていてもいいけれど……考えがありますか」
「どこか寄宿するよいところがございますまいか」とこれをきっかけに清三が問うた。
「どうも田舎だから、格好なところがなくって……」
「ここでなくっても、少しは遠くってもいいんですけれど……」
「そうですな……一つ考えてみましょう。どこかあるかもしれません」
二時間すんだところで、清三は同僚になるべき人々に紹介された。関という準教員は、にこにこと気がおけぬようなところがあった。大島という校長次席は四十五六ぐらいの年かっこうで、頭はもうだいぶ白く、ちょっと見ると窮屈そうな人であるが、笑うと、顔にやさしい表情が出て、初等教育にはさもさも熟達しているように見えた。「はあ、この方が林さん、私は大島と申します。何分よろしく」と言った言葉の調子にも世なれたところがあった。次に狩野という顔に疣のある訓導と杉田という肥った師範校出とが紹介された。師範校出はなんだかそッ気ないような挨拶をした、女教員は下を向いてにこにこしていた。
次の時間の授業の始まる前に、校長は生徒を第一教室に集めた。かれは卓のところに立って、新しい教員を生徒に紹介した。
「今度、林先生とおっしゃる新しい先生がおいでになりまして、皆さんの授業をなさることになりました。新しい先生は行田のお方で、中学のほうを勉強していらしって、よくおできになる先生でございますから、皆さんもよく言うことを聞いて勉強するようにしなければなりません」
校長のわきに立って、少しうつむきかげんに、顔を赤くしている新しい先生は、なんとなく困ったような恥ずかしそうな様子に生徒には見えた。生徒は黙って校長の言葉を聞いた。
次の時間には、その新しい先生の姿は、第三教室の卓の前にあらわれた。そこには高等一年生の十二三歳の児童がずらりと前に並んで、何かしきりにがやがや言っていたが、先生がはいって来ると、いずれも眼をそのほうに向けて黙ってしまった。
新しい教師は卓の前に来て椅子に腰を掛けたが、その顔は赤かった。読本を一冊持って来たが、卓の上に顔をたれたまま、しばしの間は、その教科書の頁をひるがえして見ていた。
後ろのほうでささやく声がおりおりした。
教室の硝子戸は埃にまみれて灰色に汚なくよごれているが、そこはちょうど日影が黄いろくさして、戸外では雀が百囀をしている。通りを荷車のきしる音がガタガタ聞こえた。
隣の教室からは、女教員の細くとがった声が聞こえ出した。
しばらくして思い切ったというように、新しい教師は顔をあげた。髪の延びた、額の広い眉のこいその顔には一種の努力が見えた。
「第何課からですか」
こう言った声は広い教室にひろがって聞こえた。
「第何課からですか」とくり返して言って、「どこまで教わりましたか」
こう言った時には、もう赤かった顔の色がさめていた。
答えがあっちこっちから雑然として起こった。清三は生徒の示した読本の頁をひろげた。もうこの時は初めて教場に立った苦痛がよほど薄らいでいた。どうせ教えずにはすまされぬ身である。どうせ自分のベストをつくすよりほかにしかたがないのである。人がなんと言おうが、どう思おうが、そんなことに頓着していられる場合でない。こう思ったかれの心は軽くなった。
「それでは始めますから」
新しい教師は第六課を読み始めた。
生徒は早いしかしなめらかな流るるような声を聞いた。前の老朽教師の低い蜂のうなるような活気のない声にくらべては、たいへんな違いである。しかしその声はとかく早過ぎて生徒の耳にとまらぬところが多かった。生徒は本よりも先生の顔ばかり見ていた。
「どうです、これでわかりますか」
「いま少しゆっくり読んでください」
いろいろな声があっちこっちから起こった。二度目には、つとめてゆっくりした調子で読んだ。
「どうです、このくらいならわかりますか」
にこにこと笑顔を見せて、なれなれしげにかれは言った。
「先生、あとのはよくわかりました」
「いま少し早くってもようございます」
などと生徒は言った。
「今までは先生にいく度読んでもらいました。二度ですか。三度ですか?」
「二度」
「二度です」
という声がそこにもここにも起こった。
「それじゃこれでいいですな」と清三は生徒の存外無邪気な調子に元気づいて、「でも、初めのが早過ぎましたからいま一度読んであげましょう、よく聞いておいでなさい」
今度のはいっそうはっきりしていた。早くもおそくもなかった。
読める人に手を上げさせて、前の列にいる色の白い可愛い子に読ませてみたり何かした。読めるのもあれば読めぬのもあった。清三は文章の中からむずかしい文字を拾って、それを黒板に書いて、順々に覚えさせていくようにした。ことにむずかしい字には圏点をつけてそのそばに片仮名でルビをふってみせた。卓の前に初めて立った時の苦痛はいつかぬぐうがごとく消えて、自分ながらやりさえすればやれるものだという快感が胸にあふれた。やがて時間が来てベルが鳴った。
昼飯は小川屋から運んで来てくれた。正午の休みに生徒らはみんな運動場に出て遊んだ。ぶらんこに乗るものもあれば、鬼事をするものもある。女生徒は男生徒とはおのずから別に組をつくって、綾を取ったり、お手玉をもてあそんだりしている。運動場をふちどって、白楊の緑葉がまばらに並んでいるが、その間からは広い青い野が見えた。
清三は廊下の柱によりかかって、無心に戯れ遊ぶ生徒らにみとれていた。そこにやって来たのは、関という教員であった。
やさしい眼色と、にこにこした円満な顔には、初めて会った時から、人のよさそうなという感を清三の胸に起こさせた。この人には隔てをおかずに話ができるという気もした。
「どうでした、一時間おすみになりましたか」
「え……」
「どうも初めてというものは、工合いの悪いものでしてな……私などもつい三月ほど前にここに来たのですが、始めは弱りましたよ」
「どうもなれないものですから」
この同情を清三もうれしく思った。
「私の前に勤めていた方はどういう方でした」
「あの方はもう年を取ったからやめさせるという噂が前からあったんです。今泉の人で、ずいぶん古くから教員はやっているんだそうですが……やはり若いものがずんずん出て来るものだから……それに教員をやめても困るッていう人ではありませんから」
「家には財産があるんですか」
「財産ということもありますまいが、子息が荒物屋の店をしておりますから」
「そうですか」
こんな普通な会話もこの若い二人を近づける動機とはなった。二人はベルの鳴るまでそこに立って話した。
午後には理科と習字とを教えた。
夜は宿直室に泊まった。宿直室は六畳で、その隣に小使室があった。小使室には大きな囲爐裏に火がかっかっと起こって、自在鍵につるした鉄瓶はつねに煮えくりかえっていた。その向こうは流し元で、手桶のそばに茶碗や箸が置いてあった。棚には桶と摺り鉢が伏せてあった。
その夜は大島訓導の宿直で、いろいろ打ち解けて話をした。かれは栃木県のもので、久しく宇都宮に教鞭をとっていたが、一昨年埼玉県に来るようになって、ちょっと浦和にいて、それからここに赴任したという。家は大越在で、十五歳になる娘と九歳になる男の児がある。初めて会った時と打ち解けて話し合った時と感じはまるで違っていた。大島先生は一合の晩酌に真赤になって、教育上の経験やら若い者のためになるような話やらを得意になってして聞かせた。
湯屋が通りにあった。細い煙筒から煙が青く黒くあがっているのを見たことがある。格子戸が男湯と女湯とにわかれて、はいるとそこに番台があった。湯気の白くいっぱいにこもった中に、箱洋燈がボンヤリと暗くついていて、筧から落ちる上がり水の音が高く聞こえた。湯殿は掃除が行き届かぬので、気味悪くヌラヌラと滑る。清三は湯につかりながら、自分の新しい生活を思い浮かべた。
十
ある朝、授業を始める前に、清三は卓の前に立って、まじめな調子で生徒に言った。
「今日は皆さんにおめでたいことを一つお知らせ致します。皇太子妃殿下節子姫には去る二十九日、新たに親王殿下をやすやすとご分娩あそばされました。これは皆さんも新聞紙上でお父様やお母様からすでにお聞きなされたことと存じます。皇室の御栄えあらせらるることは、われわれ国民にとってまことに喜びにたえませんことで、千秋万歳、皆さんの毎日お歌いになる君が代の唱歌にもさざれ石の巌となりて苔のむすまでと申してございます通りであります。しかるに、一昨日その親王殿下のご命名式がございまして、迪宮殿下裕仁親王と名告らせらるるということがご発表になりました」
こう言って、かれは後ろ向きになって、チョオクを取って、黒板に迪宮裕仁親王という六字を大きく書いてみせた。
十一
「どうぞ一つ名誉賛成員になっていただきたいと存じます……。それに、何か原稿を。どんなに短いものでも結構ですから」
清三はこう言って、前にすわっている成願寺の方丈さんの顔を見た。かねて聞いていたよりも風采のあがらぬ人だとかれは思った。新体詩、小説、その名は東京の文壇にもかなり聞こえている。清三はかつてその詩集を愛読したこともある。雑誌にのった小説を読んだこともある。一昨年ここの住職になるについても、やむを得ぬ先住からの縁故があったからで、羽生町で屈指な名刹とはいいながら、こうした田舎寺には惜しいということもうわさにも聞いていた。それが、こうした背の低い小づくりな弱々しそうな人だとは夢にも思いがけなかった。
かれは土曜日の家への帰りがけに、羽生の郵便局に荻生秀之助を訪ねたが、秀之助がちょうど成願寺の山形古城を知っていると言うので、それでつれだって訪問した。
「それはおもしろいですな……それはおもしろいですな」
こうくり返して主僧は言った。「行田文学」についての話が三人の間に語られた。
「むろん、ご尽力しましょうとも……何か、まア、初めには詩でもあげましょう。東京の原にもそう言ってやりましょう……」
主僧はこう言って軽く挨拶した。
「どうぞなにぶん……」
清三は頼んだ。
「荻生君もお仲間ですか」
「いいえ、私には……文学などわかりゃしませんから」と荻生さんはどこか町家の子息といったようなふうで笑って頭をかいた。中学にいるころから、石川や加藤や清三などとは違って、文学だの宗教だのということにはあまりたずさわらなかった。したがって空想的なところはなかった。中学を出るとすぐ、前から手伝っていた郵便局に勤めて、不平も不満足もなく世の中に出て行った。
主僧の室は十畳の一間で、天井は高かった。前には伽羅や松や躑躅や木犀などの点綴された庭がひろげられてあって、それに接して、本堂に通ずる廊下が長く続いた。瓦屋根と本堂の離れの六畳の障子の黒くなったのが見えた。書箱には洋書がいっぱい入れられてある。
主僧はめずらしく調子づいて話した。今の文壇のふまじめと党閥の弊とを説いて、「とても東京にいても勉強などはできない。田園生活などという声の聞こえるのももっともなことです」などと言った。風采はあがらぬが、言葉に一種の熱があって、若い人たちの胸をそそった。
詩の話から小説の話、戯曲の話、それが容易につきようとはしなかった。明星派の詩歌の話も出た。主僧もやはり晶子の歌を賞揚していた。「そうですとも、言葉などをあまりやかましく言う必要はないです、新しい思想を盛るにはやはり新しい文字の排列も必要ですとも……」こう言って林の説に同意した。
ふと理想ということが話題にのぼったが、これが出ると主僧の顔はにわかに生々した色をつけてきた。主僧の早稲田に通って勉強した時代は紅葉露伴の時代であった。いわゆる「文学界」の感情派の人々とも往来した。ハイネの詩を愛読する大学生とも親しかった。麻布の曹洞宗の大学林から早稲田の自由な文学社会にはいったかれには、冬枯れの山から緑葉の野に出たような気がした。今ではそれがこうした生活に逆戻りしたくらいであるから、よほど鎮静はしているが、それでもどうかすると昔の熱情がほとばしった。
「人間は理想がなくってはだめです。宗教のほうでもこの理想を非常に重く見ている。同化する、惑溺するということは理想がないからです。美しい恋を望む心、それはやはり理想ですからな、……普通の人間のように愛情に盲従したくないというところに力がある。それは仏も如是一心と言って霊肉の一致は説いていますが、どうせ自然の力には従わなければならないのはわかっていますが――そこに理想があって物にあこがれるところがあるのが人間として意味がある」
持ち前の猫背をいよいよ猫背にして、蒼い顔にやや紅を潮した熱心な主僧の態度と言葉とに清三はそのまま引き入れられるような気がした。その言葉はヒシヒシと胸にこたえた。かつて書籍で読み詩で読んだ思想と憧憬、それはまだ空想であった。自己のまわりを見回しても、そんなことを口にするものは一人もなかった。養蚕の話でなければ金もうけの話、月給の多いすくないという話、世間の人は多くパンの話で生きている。理想などということを言い出すと、まだ世間を知らぬ乳臭児のように一言のもとに言い消される。
主僧の言葉の中に、「成功不成功は人格の上になんの価値もない。人は多くそうした標準で価値をつけるが、私はそういう標準よりも理想や趣味の標準で価値をつけるのがほんとうだと思う。乞食にも立派な人格があるかもしれぬ」という意味があった。清三には自己の寂しい生活に対して非常に有力な慰藉者を得たように思われた。
主客の間には陶器の手爐りが二つ置かれて、菓子器には金米糖[#ルビの「こんぺいとう」は底本では「こんいぺとう」]が入れられてあった。主僧とは正反対に体格のがっしりした色の黒い細君が注いで行った茶は冷たくなったまま黄いろくにごっていた。
一時間ののちには、二人の友だちは本堂から山門に通ずる長い舗石道を歩いていた。鐘楼のそばに扉を閉め切った不動堂があって、その高い縁では、額髪を手拭いでまいた子守りが二三人遊んでいる。大きい銀杏の木が五六本、その幹と幹との間にこれから織ろうとする青縞のはたをかけて、二十五六の櫛巻きの細君が、しきりにそれを綜ていた。
「おもしろい人だねえ」
清三は友をかえりみて言った。
「あれでなかなかいい人ですよ」
「僕はこんな田舎にあんな人がいようとは思わなかった。田舎寺には惜しいッていう話は聞いていたが、ほんとうにそうだねえ。……」
「話対手がなくって困るッて言っていましたねえ」
「それはそうだろうねえ君、田舎には百姓や町人しかいやしないから」
二人は山門を過ぎて、榛の木の並んだ道を街道に出た。街道の片側には汚ない溝があって、歩くと蛙がいく疋となくくさむらから水の中に飛び込んだ。水には黒い青い苔やら藻やらが浮いていた。
大和障子をなかばあけて、色の白い娘が横顔を見せて、青縞をチャンカラチャンカラ織っていた。
その前を通る時、
「あのお寺の本堂に室がないだろうか?」
こう清三はきいた。
「ありますよ。六畳が」
と友はふり返った。
「どうだろうねえ、君。あそこでおいてくれないかしらん」
「おいてくれるでしょう……この間まで巡査が借りて自炊をしていましたよ」
「もうその巡査はいないのかねえ」
「この間岩瀬へ転任になって行ったッて聞きました」
「一つ、君は懇意だから、頼んでみてくれませんか、自炊でもなんでもして、食事のほうは世話をかけずに、室さえ貸してもらえばいいが……」
「それはいい考えですねえ」と荻生君も賛成した。「ここからなら弥勒にも二里に近いし……土曜日に行田へ帰るにもあまり遠くないし……」
「それにいろいろ教えてももらえるしねえ、君。弥勒あたりのくだらんところに下宿するよりいくらいいかしれない」
「ほんとうですねえ、私も話相手ができていい」
荻生さんが来週の月曜日までに聞いておいてやるということに決まって、二人の友だちは分署の角で別れた。
十二
昨日の午後、月給が半月分渡った。清三の財布は銀貨や銅貨でガチャガチャしていた。古いとじの切れたよごれた財布! 今までこの財布にこんなに多く金のはいったことはなかった。それに、とにかく自分で働いて初めて取ったのだと思うと、なんとなく違った意味がある。母親が勝手に立とうとするのを呼びとめて、懐から財布を出して、かれはそこに紙幣と銀貨とを三円八十銭並べた。母親はさもさも喜ばしさにたえぬように息子の顔を見ていたが、「お前がこうして働いて取ってくれるようになったかと思うとほんとうにうれしい」としんから言った。息子は残りの半分はいま四五日たつとおりるはずであるということを語って、「どうも田舎はそれだから困るよ。なんでも三度四度ぐらいにおりることもあるんだッて……けちけちしてるから」
母親はその金をさも尊そうに押しいただくまねをして、立って神棚に供えた。神棚には躑躅と山吹とが小さい花瓶に生けて上げられてあった。清三は後ろ向きになった母親の小さい丸髷にこのごろ白髪の多くなったのを見て、そのやさしい心のいかに生活の嵐に吹きすさまれているかを考えて同情した。こればかりの金にすらこうして喜ぶのが親の心である。かれは中学からすぐ東京に出て行く友だちの噂を聞くたびにもやした羨望の情と、こうした貧しい生活をしている親の慈愛に対する子の境遇とを考えずにはいられなかった。
その土曜日は愉快に過ぎた。母親は自分で出かけて清三の好きな田舎饅頭を買ってきて茶を煎れてくれた。母親の小皺の多いにこにこした顔と息子の青白い弱々しい淋しい笑顔とは久しく長火鉢に相対してすわった。
清三は来週から先方のつごうさえよければ羽生の成願寺に下宿したいという話を持ち出して、若い学問のある方丈さんのことや、やさしい荻生君のことなどを話して聞かした。母親はそれまでには夜具や着物を洗濯してやりたい、それに袷を一枚こしらえたいなどと言った。父親の商売の不景気なことも続いて語った。清三のおさないころの富裕な家庭の話も出た。
夜は菓子を買って郁治の家に行った。雪子がにこにこと笑って迎えた。書斎での話は容易につきようともしなかった。同じことをくり返して語っても、それが同じこととは思えぬほど二人は親しかった。相対して互いに顔を見合わせているということが二人にとってこのうえもない愉快である。「行田文学」の話も出れば山形古城の話も出る。そこに郁治の父親がおりよく昨日帰ってきていたとて出てきて、「林さん、どうです、……学校のほうはうまくいきますか」などと言った。
「あそこの学校は軋轢がなくっていいでしょう。校長は二十七年の卒業生だが、わりあいにあれで話がわかっている男でしてな……村の受けもいいです」
郡視学はこんなことを語って聞かせた。
雪子が茶をさしにきた時、袂から絵葉書を出して、「浦和の美穂子さんから今、私のところにこんな手紙が来てよ」と二人に示した。美穂子はかの Art の君である。雪子はまだ兄の心の秘密を知らなかった。
絵葉書は女学世界についていた「初夏」という題で、新緑の陰にハイカラの女が細い流行の小傘をたずさえて立っていた。文句はべつに変わったこともなかった。
――雪子さんお変わりございませんか。ここに参ってからもう二月になりました。寄宿の生活――それはほかからは想像ができないくらいでございます、この春、ごいっしょに楽しく遊んだことなどをおりおり考えることが、ございますよ。ご無沙汰のおわびまでに……美穂子
清三はその葉書を畳の上において、
「今度は貴嬢も浦和にいらっしゃるんでしょう?」
「私などだめ」
と雪子は笑った。
その笑顔を清三は帰路の闇の中に思い出した。相対していたのはわずかの間であった。その横顔を洋燈が照らした。つねに似ず美しいと思った。ツンとすましたようなところがあるのをいつも不愉快に思っていたが、今宵はそれがかえって品があるかのように見えた。美穂子の顔が続いて眼前を通る。雪子の顔と美穂子の顔が重なって一つになる……。田の畦に蛙の声がして、町の病院の二階の灯が窓からもれた。
* * * * *
町の裏に小さな寺があった。門をはいると、庫裡の藁葺屋根と風雨にさらされた黒い窓障子が見えた。本堂の如来様は黒く光って、木魚が赤いメリンスの敷き物の上にのせてある。その裏にある墓地には、竹藪が隣の地面を仕切って、墓石にはなめくじのはったあとがありありと残っていた。その多い墓石の中に清三の弟の墓があった。弟は一昨年の春十五歳で死んだ。その病は長かった。しだいにやせ衰えて顔は日に日に蒼白くなった。医師は診断書に肺結核と書いたが、父母はそんな病気が家の血統にあるわけがないと言って、その医師の診断書を信じなかった。清三は時々その幼い弟のことを思い起こすことがある。死んだ時の悲哀――それよりも、今生きていてくれたなら、話相手になって、どんなにうれしかったろうと思う。そのたびごとにかれは花をたずさえて墓参りをした。
日曜日の朝、かれは樒と山吹とを持って出かけた。庫裡で手桶を借りて、水をくんで、手ずから下げて裏へ回った。墓石はまだ建ててなく、風雨にさらされて黒くなった墓標が土饅頭の上にさびしく立っている。父母も久しくお参りをせぬとみえて、花立ては割れていた。水を入れてもかいがなかった。
清三の姿は久しくその前に立っていた。もう五月の新緑があたりをあざやかにして、老鶯の声が竹藪の中に聞こえた。
午後からは、印刷所に行ったり石川を訪問したりした。今日、弥勒に帰らぬと、明日は少なくも朝の四時に家を出なければ授業時間に間に合わぬと知ってはいるが、どうも帰るのがいやで――親しい友人と物語る楽しみを捨ててろくろく話す人もないところに帰って行くのがいやで、われしらず時間を過ごしてしまった。
夕飯を食ってから、湯に出かけたが、帰りにふたたび郁治を訪ねて、あきらかな夕暮れの野を散歩した。
城址はちょっと見てはそれと思えぬくらい昔のさまを失っていた。牛乳屋の小さい牧場には牛が五六頭モーモーと声を立てて鳴いていて、それに接した青縞機業会社の細長い建物からは、機を織る音にまじって女工のうたう声がはっきり聞こえる。夕日は昔大手の門のあったというあたりから、年々田に埋め立てられて、里川のように細くなった沼に画のようにあきらかに照りわたった。新たに芽を出した蘆荻や茅や蒲や、それにさびた水がいっぱいに満ちて、あるところは暗くあるところは明るかった。沼にかかった板橋を渡ると、細い田圃路がうねうねと野に通じて、車をひいて来る百姓の顔は夕日に赤くいろどられて見えた。
麦畑と桑畠、その間を縫うようにして二人は歩いた。話は話と続いて容易につきようとしなかった。路はいつか士族屋敷のあたりに出た。
家はところどころにあった。今日まで踏みとどまっている士族は少なかった。昔は家から家へと続いたものであるが、今は晨の星のように畠と畠の間に一軒二軒と残っている。昔ふうの黒いシタミや白い壁や大きい栗の木や柿の木や井字形の井戸側やまばらな生垣からは古い縁側に低い廂、文人画を張った襖などもあきらかに見すかされた。夏の日などそこを通ると、垣に目の覚めるようなあかい薔薇が咲いていることもあれば、新しい青簾が縁側にかけてあって、風鈴が涼しげに鳴っていることもある。秋の霧の深い朝には、桔※[#「槹」の「白」に代えて「自」、69-12]のギイと鳴る音がして茘子の黄いろいのが垣から口を開いている。琴の音などもおりおり聞こえた。
この士族屋敷にはやはりもとの士族が世におくれて住んでいた。役場に出ているものもあれば、小学校の先生をしているものもある。財産があって無為に月日を送っているものもあれば、小規模の養蚕などをやって暮らしているものもある。金貸しなどをしているものもあった。
士族屋敷の中での金持ちの家が一軒路のほとりにあった。珊瑚樹の垣は茂って、はっきりと中は見えないが、それでも白壁の土蔵と棟の高い家屋とはわかった。門から中を見ると、りっぱな玄関があって、小屋のそばに鶏が餌をひろっている。
二人はその垣に添って歩いた。
垣がつきると、水のみちた幅のせまい川が気持ちよく流れている。岸には楊がその葉を水面にひたして漣をつくっている。細い板橋が川の折れ曲がったところにかかっている。
美穂子の家はそこから近かった。
「行ってみようか。北川は今日はいるだろう」
清三はこう言って友を誘った。
その家は大きな田舎道をへだててひろい野に向かっていた。古びた黒い門があった。やっぱり廂の低い藁葺の家で、土台がいくらか曲がっている。庭には松だの、檜だの、椿だのが茂っていた。今年の一月から三月にかけて、若い人々はよくこの家に歌留多牌をとりにきたものである。美穂子の姉の伊与子、妹の貞子、それに国府という人の妹に友子といって美しい人がいた。それらの少女連と、郁治や清三や石川や沢田や美穂子の兄の北川などの若い人々が八畳の間にいっぱいになって、竹筒台の五分心の洋燈の光の下に頭を並べて、夢中になって歌留多牌を取ると、そばには半白の、品のいい、桑名訛のある美穂子の母親が眼鏡をかけて、高くとおった声で若い人々のためにあきずに歌留多牌を読んでくれた。茶の時には蜜柑と五目飯の生薑とが一座の眼をあざやかにした。帰りはいつも十一時を過ぎていた。さびしい士族屋敷の竹藪の陰の道を若い男と女とは笑いさざめいて帰った。
北川は湯に行ってるすであった。「まア、よくいらっしゃいましたな……今、もうじき帰って参りますから……」母親はこう言って、にこにこして二人を迎えた。郁治はその笑顔に美穂子の笑顔を思い出した。声もよく似ている。
二人は庭に面した北川の書斎に通された。父親はどこに行ったか姿は見えなかった。
母親はしばし二人の相手をした。
「林さんは弥勒のほうにお出になりましたッてな、まア結構でしたな……母さん、さぞおよろこびでしたろうな」
こんなことを言った。
浦和にいる美穂子のうわさも出た。
「女がそんなことをしたッてしかたがないッて父親は言いますけれどもな……当人がなかなか言うことを聞きませんでな……どうせ女のすることだから、ろくなことはできんのは知れてるですけど……」
「でもお変わりはないでしょう」
清三がこうきくと、
「え、もう……お転婆ばかりしているそうでな」と母親は笑った。
すぐ言葉をついで、今度は郁治に、
「雪さんどうしてござるな」
「相変わらずぶらぶらしています」
「ちと、遊びにおつかわし。貞も退屈しておりますで……」
それこれするうちに、北川は湯から帰って来た。背の高い頬骨の出た男で、手織りの綿衣に絣の羽織を着ていた。話のさなかにけたたましく声をたてて笑う癖がある。石川や清三などとは違って、文学に対してはあまり興味をもっていない。学校にいたころは、有名な運動家でベースボールなどにかけては級の中でかれに匹敵するものはなかった。軍人志願で、卒業するとすぐ熱心に勉強して、この四月の士官学校の試験に応じてみたが、数学と英語とで失敗した。けれどあまり失望もしておらなかった。九月の学期には、東京に出て、しかるべき学校にはいって、十分な準備をすると言っている。
三人は胸襟を開いて語り合った。けれどここで語る話と清三と郁治と話す話とは、大いに異なっていた。同じ親しさでも単に学友としての親しさであった。打ち解けて語ると言っても心の底を互いに披瀝するようなことはなかった。
ここでは、学校の話と将来の希望と受験の準備の話などが多く出た。北川は東京で受けた士官学校入学試験の話を二人にして聞かせた。「どうも試験に余裕がなくって困った。英語の書き取りなど一度しか読んでくれないんだから困るよ。それに試験の場所が大きく広すぎて、声が散ってよく聞きとれないんだから、ドマドマしてしまったよ。おまけに代数がばかにむずかしかった」
代数の二次方程式の問題をかれは手帳に書きつけてきた。それを机の抽斗しやら押入れの中やら文庫の中やらあっちこっちとさがし回って、ようやくさがし出して二人に見せる。なるほど問題はむずかしかった。数学に長じた郁治にもできなかった。
北川は漢学には長じていた。父親は藩でも屈指の漢学者で、漢詩などをよく作った。今は町の役場に出るようになったのでよしたが、三年前までは、町や屋敷の子弟に四書五経の素読を教えたものである。午後三時ごろから日没前までの間、蜂のうなるような声はつねにこの家の垣からもれた。そのころ美穂子は赤いメリンスの帯をしめて、髪をお下げに結って、門の前で近所の友だちと遊んだ。清三はその時分から美穂子の眼の美しいのを知っていた。
郁治と清三が暇をつげたのは夜の九時過ぎであった。若い人々は話がないといっても話がある。二人はそこを出てしばしの間黙って歩いた。竹藪のガサガサする陰の道は暗かった。郁治の胸にも清三の胸にもこの際浦和の学校にいる美穂子のことがうかんだ。「あの時――郁治がそれと打ち明けた時、なぜ自分もラヴしているということを思いきって言わなかったろう」と清三は思った。けれど友の恋はまだ美穂子に通じてあるわけではない。恋された人の知らぬ前に恋した人の心を自分はその人から打ち明けられた。それだけかれは苦しかった。またそれだけかれはその問題につきつめていなかった。時には「まだ決まったというわけではない、ぶつかってみて、どうなることかわからない。……希望がすっかり破れてしまったというわけでもない……」などと思うこともある。友のために犠牲になるという気はむろんある。友の恋の成らんことを望む念もある。かれの性質からいっても、家庭の事情からいっても、現在の恋の状態からいっても、はげしく熱するにはまだだいぶ距離もあり余裕もあった。
しかしその夜は二人とも不思議に胸がおどっていた。黙って歩いていても、その心はいろいろなことを語っていた。野に出ようとすると、昨日の雨に路の悪くなっているところがあった。低い駒下駄はズブズブはいった。
「悪い路だね」
二人は互いにこう言いあった。しかし心では二人とも美穂子のことを考えていた。
郁治にしては、女に対する煩悶、それを残すところなくこの友に語りたいと思った。打ち明けて話したならいくらかこの胸が静まるだろうとも思った。しかしなぜかそれを打ち明けて語る気にはならなかった。
二人はやっぱり黙って歩いた。
城址の森が黒く見える。沼がところどころ闇の夜の星に光った。蘆や蒲がガサガサと夜風に動く。町の灯がそこにもここにも見える。
公園から町にはいった。もうそのころは二人は黙っていなかった。郁治は低い声で、得意の詩吟を始めた。心の感激の余波がそれにも残って聞かれる。別れの道の角に来ても、かれらはなんだかこのまま別れるのが物足らなかった。「僕の家に寄って茶でものんで行かんか」清三がこう誘うと、郁治はついて来た。
清三の母親は裁物板に向かってまだせっせっと賃仕事をしていた。茶を入れてもらってまた一時間ぐらい話した。語っても語ってもつきないのは若い人々の思いであった。十二時が鳴って、郁治が思いきって帰って行くのを清三はまた湯屋の角まで送る。町の大通りはもうしんとしていた。
翌日は母も清三も寝過ごしてしまった。時計は七時を過ぎていた。清三はあわてて茶漬をかっ込んで出かけた。いくら急いでも四里の長い長い路、弥勒に着いたころはもう十時をよほど過ぎた。学校の硝子窓には朝日がすでに長けて、校長の修身を教える声が高くあきらかにあたりに聞こえる。急いで行ってみると、受持ちの組では生徒がガヤガヤと騒いでいた。
十三
熊谷町にもかれの同窓の友はかなりにある。小畑というのと、桜井というのと、小島というのと――ことに小畑とはかれも郁治も人並みすぐれて交情がよかった。卒業して会われなくなってからは毎日のように互いに手紙の往復をして、戯談を言ったり議論をしたりした。月に一二度は清三はきっと出かけた。
行田町から熊谷町まで二里半、その路はきれいな豊富な水で満たされた用水の縁に沿ってはしった。田圃ごとに村があり、一村ごとに田圃が開けるというふうで、夏の日には家の前の広場で麦を打っている百姓家や、南瓜のみごとに熟している畑や、豪農の白壁の土蔵などが続いた。秋の晴れた日には、田圃から村に稲を満載した車がきしって、黄いろく熟した田には、頬かむりをした田舎娘が、鎌の手をとめて街道を通って行く旅人の群れをながめた。その街道にはいろいろなものが通る。熊谷行田間の乗合馬車、青縞屋の機回りの荷車、そのころ流行った豪家の旦那の自転車、それに俥にはさまざまの人が乗って通った。よぼよぼの老いた車夫が町に買い物に行った田舎の婆さんを二人乗りに乗せて重そうにひいて行くのもあれば、黒鴨仕立のりっぱな車に町の医者らしい鬚の紳士が威勢よく乗って走らせて行くのもある。田植時分には、雨がしょぼしょぼと降って、こねかえした田の泥濘の中にうつむいた饅頭笠がいくつとなく並んで見える。いい声でうたう田植唄も聞こえる。植え終わった田の緑は美しかった。田の畔、街道の両側の草の上には、おりおり植え残った苗の束などが捨ててあった。五月晴れには白い繭が村の人家の軒下や屋根の上などに干してあるのをつねに見かけた。
用水のそばに一軒涼しそうな休み茶屋があった。楡の大きな木がまるでかぶさるように繁って、店には土地でできる甜瓜が手桶の水の中につけられてある。平たい半切に心太も入れられてあった。暑い木陰のない路を歩いてきて、ここで汗になった詰襟の小倉の夏服をぬいで、瓜を食った時のうまかったことを清三は覚えている。その店の婆さんに娘が一人あって東京の赤坂に奉公に出ていることも知っている。
関東平野を環のようにめぐった山々のながめ――そのながめの美しいのも、忘れられぬ印象の一つであった。秋の末、木の葉がどこからともなく街道をころがって通るころから、春の霞の薄く被衣のようにかかる二三月のころまでの山々の美しさは特別であった。雪に光る日光の連山、羊の毛のように白く靡く浅間ヶ嶽の煙、赤城は近く、榛名は遠く、足利付近の連山の複雑した襞には夕日が絵のように美しく光線をみなぎらした。行田から熊谷に通う中学生の群れはこの間を笑ったり戯れたり走ったりして帰ってきた。
熊谷の町はやがてその瓦屋根や煙突や白壁造りの家などを広い野の末にあらわして来る。熊谷は行田とは比較にならぬほどにぎやかな町であった。家並みもそろっているし、富豪も多いし、人口は一万以上もあり、中学校、農学校、裁判所、税務管理局なども置かれた。汽車が停車場に着くごとに、行田地方と妻沼地方に行く乗合馬車がてんでに客を待ちうけて、町の広い大通りに喇叭の音をけたたましくみなぎらせてガラガラと通って行った。夜は商家に電気がついて、小間物屋、洋物店、呉服屋の店も晴々しく、料理店からは陽気な三味線の音がにぎやかに聞こえた。
町は清三にとって第二の故郷である。八歳の時に足利を出て、通りの郵便局の前の小路の奥に一家はその落魄の身を落ちつけた。その小路はかれにとっていろいろな追憶がある。そこには郵便局の小使や走り使いに人に頼まれる日傭取りなどが住んでいた。山形あたりに生まれてそこここと流れ渡ってきても故郷の言葉が失せないという元気なお婆さんもあった。八歳から十七歳まで――小学校から中学の二年まで、かれは六畳、八畳、三畳のその小さい家に住んでいた。小学校は町の裏通りにあった。明神の華表から右にはいって、溝板を踏み鳴らす細い小路を通って、駄菓子屋の角を左に、それから少し行くと、向こうに大きな二階造りの建物と鞦韆や木馬のある運動場が見えた。生徒の騒ぐ音がガヤガヤと聞こえた。
校長の肥った顔、校長次席のむずかしい顔、体操の先生のにこにこした顔などが今もありありと眼に見える。卒業式に晴衣を着飾ってくる女生徒の群れの中にもかれの好きな少女が三四人あった。紫の矢絣の衣服に海老茶の袴をはいてくる子が中でも一番眼に残っている。その子は町はずれの町から来た。農学校の校長の娘だということを聞いたことがある。清三が中学の一年にいる時一家は長野のほうに移転して行ってしまったので、そのあきらかな眸を町のいずこにも見いだすことができなくなったが、それでも今も時々思い出すことがある。一人は芸者屋の娘で、今は小滝といって、一昨年一本になって、町でも流行妓のうちに数えられてある。通りで盛装した座敷姿にでっくわすことなどあると、「失礼よ、林さん」などとあざやかに笑って挨拶して通って行く。中学卒業の祝いの宴会にもやって来て、いい声で歌をうたったり、三絃をひいたりした。小畑がそばにすわって「小滝は僕らの芸者だ。ナア小滝」などと言って、酔った顔をその前に押しつけるようにすると、「いやよ、小畑さん、貴郎は昔から私をいじめるのねえ、覚えていてよ」と打つ真似をした。そのとき、「貴様は同級生の中で、誰が一番好きだ」という問題がゆくりなく出た。小学校時分の同級生がだいぶそのまわりにたかっていた。と、小滝は少しも躊躇の色を示さずに、「それア誰だッてそうですわねえ、……むろん林さん!」と言った。小滝も酔っていた。喝采の声が嵐のように起こった。それからは、小畑や桜井や小島などに会うと、小滝の話がよく出る。しまいには「小滝君どうした。健在かね」などと書いた端書を送ってよこした。「小滝」という渾名をつけられてしまったのである。清三もまたおもしろ半分に、小滝を「しら滝」に改めて、それを別号にして、日記の上表紙に書いたり手紙に署したりした。「歌妓しら滝の歌」という五七調四行五節の新体詩を作って、わざと小畑のところに書いてやったりした。
時には清三もまじめに芸者というものを考えてみることもある。その時にはきっと自分と小滝とを引きつけて考えてみる。ロマンチックな一幕などを描いてみることもあった。時にはまた節操も肉体もみずから守ることのできない芸者の薄命な生活を想像して同情の涙を流すことなどもあった。清三には芸者などのことはまだわからなかった。
かれはまた熊谷から行田に移転した時のことをあきらかに記憶している。父親がよそから帰って来て、突然今夜引っ越しをするという。明日になすったらいいではありませんかと母親が言ったが、しかし昼間公然と移転して行かれぬわけがあった。熊谷における八年の生活は、すくなからざる借金をかれの家に残したばかりであった。父親は財布の銭――わずかに荷車二三台を頼む銭をちゃらちゃらと音させながら出て行くと、そのあとで母親と清三とは、近所に知れぬように二人きりで荷造りをした。長い行田街道には冬の月が照った。二台の車の影と親子四人の影とが淋しく黒く地上に印した。これが一家の零落した縮図かと思うと、清三はたまらなく悲しかった。その夜行田の新居にたどり着いたのは、もうかれこれ十二時に近かった。燈光もない暗い大和障子の前に立った時には、涙がホロホロとかれの頬をつたって流れた。
けれどいかようにしても暮らして行かるる世の中である。それからもう四年は経過した。そのせまい行田の家も、住みなれてはさしていぶせくも思わなかった。かれはおりおり行田の今の家と熊谷の家と足利の家とを思ってみることがある。
熊谷の家は今もある。老いた夫婦者が住まっている。よく行った松の湯は新しく普請をして見違えるようにりっぱになった。通りの荒物屋にはやはり愛嬌者のかみさんがすわって客に接している。種物屋の娘は廂髪などに結ってツンとすまして歩いて行く。薬種屋の隠居は相変わらず禿頭をふりたてて忰や小僧を叱っている。郵便局の為替受け口には、黒繻子とメリンスの腹合せの帯をしめた女が為替の下渡しを待ちかねて、たたきを下駄でコトコトいわせている。そのそばにおなじみの白犬が頭を地につけて眼を閉じて眠っている。郵便集配人がズックの行嚢をかついではいって来る。
小畑は郡役所に勤めている官吏の子息、小島は町で有名な大きな呉服屋の子息、桜井は行田の藩士で明治の初年にこの地に地所を買って移って来た金持ちの子息、そのほか造酒屋、米屋、紙屋、裁判所の判事などの子息たちに同窓の友がいくらもあった。そしてそれがたいていは小学校からのなじみなので、行田の友だちの群れよりもいっそうしたしいところがある。小畑の家は停車場の敷地に隣っていて、そこからは有名な熊谷堤の花が見える。桜井の家は蓮正寺の近所で、お詣りの鰐口の音が終日聞こえる。清三は熊谷に行くと、きっとこの二人を訪問した。どちらの家でも家の人々とも懇意になって、わがままも言えば気のおけない言葉もつかう。食事時分には黙っていても膳を出してくれるし、夜遅くなれば友だちといっしょに一つ蒲団にくるまって寝た。
「どうした、いやにしょげてるじゃないか」
「どうかしたか」
「まだ老い込むには早いぜ!」
「少しは何か調べたか」
「なんだか顔色が悪いぜ!」
熊谷にくると、こうした活気ある言葉をあっちこっちから浴びせかけられる。いきいきした友だちの顔色には中学校時代の面影がまだ残っていて、硝子窓の下や運動場や湯呑場などで話し合った符牒や言葉がたえず出る。
また次のような話もした。
「Lはどうした」
「まだいる! そうかまだいるか」
「仙骨は先生に熱中しているが、実におかしくって話にならん」
「先生、このごろ、鬚など生やして、ステッキなどついて歩いているナ」
「杉はすっかり色男になったねえ、君」
かたわらで聞いてはちょっとわからぬような話のしかたで、それでぐんぐん話はわかっていく。
熊谷の町が行田、羽生にくらべてにぎやかでもあり、商業も盛んであると同じように、ここには同窓の友で小学校の教師などになるものはまれであった。角帯をしめて、老舗の若旦那になってしまうもののほかは、多くはほかの高等学校の入学試験の準備に忙しかった。活気は若い人々の上に満ちていた。これに引きくらべて、清三は自分の意気地のないのをつねに感じた。熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒とだんだん活気がなくなっていくような気がして、帰りはいつもさびしい思いに包まれながらその長い街道を歩いた。
それに人の種類も顔色も語り合う話もみな違った。同じ金儲けの話にしても、弥勒あたりでは田舎者の吝嗇くさいことを言っている。小学校の校長さんといえば、よほど立身したように思っている。また校長みずからも鼻を高くしてその地位に満足している。清三は熊谷で会う友だちと行田で語る人々と弥勒で顔を合わせる同僚とをくらべてみぬわけにはいかなかった。かれは今の境遇を考えて、理想が現実に触れてしだいに崩れていく一種のさびしさとわびしさとを痛切に感じた。
ある日曜日の午前に、かれは小畑と桜井とつれだって、中学校に行ってみた。中学校は町のはずれにあった。二階造りの大きな建物で、木馬と金棒と鞦韆とがあった。運動場には小倉の詰襟の洋服を着た寄宿舎にいる生徒がところどころにちらほら歩いているばかり、どの教室もしんとしていた。湯呑所には例のむずかしい顔をした、かれらが「般若」という綽名を奉った小使がいた。舎監のネイ将軍もいた。当直番に当たった数学の教師もいた。二階の階段、長い廊下、教室の黒板、硝子窓から梢だけ見える梧桐、一つとして追懐の伴わないものはなかった。かれらはその時分のことを語りながらあっちこっちと歩いた。
当直室で一時間ほど話した。同級生のことを聞かれるままその知れる限りを三人は話した。東京に出たものが十人、国に残っているものが十五人、小学校教師になったものが八人、ほかの五人は不明であった。三人は講堂に行ってオルガンを鳴らしたり、運動場に出てボールを投げてみたりした。
別れる前に、三人は町の蕎麦屋にはいった。いつもよく行く青柳庵という家である。奥の一間はこざっぱりした小庭に向かって、楓の若葉は人の顔を青く見せた。ざるに生玉子、銚子を一本つけさせて、三人はさも楽しそうに飲食した。
「この間、小滝に会ったぜ!」小畑は清三の顔を見て、「先生、このごろなかなか流行るんだそうだ。土地の者では一番売れるんだろうよ。湯屋の路地を通ると、今、座敷に出るところかなんかで、にこにこしてやって来たッけ」
「林さんは? ッて聞かなかったか?」
かたわらから桜井が笑いながら言った。
清三も笑った。
「Yはどうしたねえ」
清三は続いて聞いた。
「相変わらずご熱心さ」
「もうエンゲージができたのか」
「当人同士はできてるんだろうけれど、家では両方ともむずかしいという話だ」
「おもしろいことになったものだねえ」と清三は考えて、「YはいったいVのラヴァだったんだろう。それがそういうふうになるとは実際運命というものはわからんねえ」
「Vはどうしたえ」と桜井が小畑に聞く。
「先生、足利に行った」
「会社にでも出たのか」
「なんでも機業会社とかなんとかいうところに出るようになったんだそうだ」
三人はお代わりの天ぷら蕎麦を命じた。
「Art の君はどうした?」
小畑がきいた。
「浦和にいるよ」
「それは知ってるさ。どうしたッて言うのはそういう意味じゃないんだ」
「うむ、そうか――」と清三はうなずいて、「まだ、もとの通りさ」
「加藤も臆病者だからなア」
と小畑も笑った。
一本の酒で、三人の顔は赤くなった。勘定は蟇口から銀貨や銅貨をじゃらつかせながら小畑がした。可愛い娘の子が釣銭と蕎麦湯と楊枝とを持って来た。
その日の午後四時過ぎには、清三は行田と羽生の間の田舎道を弥勒へと歩いていた。野は日に輝いて、向こうの村の若葉は美しくあざやかに光った。けれど心は寂しく暗かった。かれは希望に充されて通った熊谷街道と、さびしい心を抱いて帰って行く弥勒街道とをくらべてみた。若い元気のいい友だちがうらやましかった。