二十
男生徒女生徒
打ち混ぜて三十名ばかり、田の間の細い
路をぞろぞろと通る。学校を出る時は、「亀よ亀さんよ」をいっせいにうたってきたが、それにもあきて、今ではてんでに勝手な
真似をして歩いた。何かべちゃべちゃしゃべっている女生徒もあれば、後ろをふり返って
赤目をしてみせている男生徒もある。赤いマンマという花をつまんで列におくれるものもあれば、
蜻蛉を追いかけて畑の中にはいって行くものもある。尋常二年級と三年級、九歳から十歳までのいたずら盛り、総じて無邪気に甘えるような挙動を、清三は自己の物思いの
慰藉としてつねにかわいがったので、「先生――林先生」と生徒は顔を見てよくそのあとを追った。
学校から村を抜けて、
発戸に出る。
青縞を織る
機の音がそこにもここにも聞こえる。色の白い若い先生をわざわざ窓から首を出して見る
機織女もある。清三は袴を着けて
麦稈帽子をかぶって先に立つと、関さんは例の詰襟の汚れた白い夏服を着て生徒に交って歩いた。女教師もその後ろからハンケチで汗を拭き拭きついてきた。秋はなかば過ぎてもまだ暑かった。発戸の村はずれの八幡宮に来ると、生徒はばらばらとかけ出してその裏の土手にはせのぼった。先に登ったものは、手をあげて高く叫んだ。ぞろぞろとついて登って行って手をあげているさまが、秋の晴れた日の空気をとおしてまばらな松の間から見えた。その松原からは利根川の広い流れが絵をひろげたように美しく見渡された。
弥勒の先生たちはよく生徒を運動にここへつれて来た。生徒が砂地の上で
相撲をとったり、
叢の中で
阜斯を追ったり、
汀へ行って浅瀬でぼちゃぼちゃしたりしている間を、先生たちは涼しい松原の陰で、気のおけない話をしたり、新刊の雑誌を読んだり、
仰向けに草原の中に寝ころんだりした。平凡なる利根川の長い土手、その中でここ十町ばかりの間は、松原があって景色が眼覚めるばかり美しかった。ひょろ松もあれば小松もある。松の下は海辺にでも見るようなきれいな砂で、ところどころ小高い丘と丘との間には、青い草を
下草にした絵のような松の影があった。夏はそこに色のこいなでしこが咲いた。白い帆がそのすぐ前を通って行った。
清三はここへ来ると、いつも生徒を相手にして遊んだ。
鬼事の群れに交って、女の生徒につかまえられて、前掛けで眼かくしをさせられることもある。また生徒を集めていっしょになって唱歌をうたうことなどもあった。こうしている間はかれには不平も不安もなかった。自己の不運を嘆くという心も起こらなかった。無邪気な子供と同じ心になって遊ぶのがつねである。しかし今日はどうしてかそうした快活な心になれなかった。無邪気に遊び回る子供を見ても心が沈んだ。こうして幼い生徒にはかなき
慰藉を求めている自分が情けない。かれは松の陰に腰をかけてようようとして流れ去る
大河に眺めいった。
一日、学校の帰りを一人さびしく歩いた。空は晴れて、夕暮れの空気の
影濃かに、野には
薄の白い穂が風になびいた。ふと、
路の
角に来ると、大きな包みを
背負って、古びた紺の
脚絆に、
埃で白くなった
草鞋をはいて、さもつかれはてたというふうの旅人が、ひょっくり向こうの路から出て来て、「羽生の町へはまだよほどありますか」と問うた。
「もう、じきです、向こうに見える森がそうです」
旅人はかれと並んで歩きながら、なおいろいろなことをきいた。これから川越を通って八王子のほうへ行くのだという。なんでも遠いところから商売をしながらやって来たものらしい。そのことばには東北地方の
訛があった。
「この近所に森という
在郷がありますか」
「知りませんな」
「では
高木というところは」
「聞いたようですけど……」
やはりよくは知らなかった。旅人は今夜は羽生の町の梅沢という
旅店にとまるという。清三は町にはいるところで、旅店へ行く路を教えてやって、
田圃の横路を右に別れた。見ていると、旅人はさながら疲れた鳥がねぐらを求めるように、てくてくと歩いて町へはいって行った。
何故ともなく
他郷という感が激しく胸をついて起こった。かれも旅人、われも同じく他郷の人! こう思うと、涙がホロホロと
頬をつたって落ちた。
二十一
秋は日に日に深くなった。寺の
境にひょろ長い
榛の林があって、その向こうの野の黄いろく熟した稲には、夕日が一しきり明るくさした。
鴻の巣に通う県道には、
薄暮に近く、
空車の通る音がガラガラといつも高く聞こえる。そのころ機動演習にやって来た歩兵の群れや砲車の列や騎馬の列がぞろぞろと通った。林の
角に歩兵が
散兵線を
布いていると思うと、バリバリと小銃の音が
凄まじく聞こえる。寺でも、
庫裡と本堂に兵士が七八人も来て泊まった。裏の林には馬が二三十頭もつながれて、それに飲ませる水を入れた四斗桶がいくつとなく本堂の前の庭に並べられる。サアベルの音、
靴の音、馬のいななく声、にわかにあたりは騒々しくなった。夜は町の豪家の
門に何中隊本部と書いた
寒冷紗の
布が白く闇に見えて、士官や曹長が剣を鳴らして出たりはいったりした。
それが一日二日で通過してしまうと、町はしんとしてもとの
静謐にかえった。清三は二三日前の土曜日に例のごとく行田に行ったが、帰って来て、日記に、「母はつとめて言はねど、父君のさてはなんとか働きたまはば、わが一家は平和ならましを。この思ひ、いつも
帰行の時に思ひ浮かばざることなし」と書いた。
怠けがちに日を送って、母親にのみ苦労をかける父親がかれにははがゆくってしかたがなかった。かれは病身でそして思いやりの深い母親に同情した。
顳顬に
即効紙をはって、
夜更けまで賃仕事にいそしむ母親の
繰り
言を聞くと、いかなる犠牲も
堪えなければならぬといつも思う。時には、父親に
内所で、財布の底をはたいて小遣いを置いて来ることなどもある。それを父親は母親から引き出してつかった。
二三日前に帰った時にも、あっちこっちに一円二円と
細かい不義理ができて困っているという話を母親から聞いた。
「行田文学」は四号で
廃刊するという話があった、石川はせっかく始めたことゆえ、一二年は続けたいが、どうも費用がかさんで、印刷所に借金ができるようでも困るからという。郁治はどうせそんな
片々たるものを出したって、要するに道楽に過ぎんのだからやめてしまうほうが結局いいしかただと賛成する。清三はせっかく四号までだしたのだから、いま少し熱心に会員を
募ったり寄付をしてもらったりしたならば、続刊の計画がたつだろうと言ってみたがだめだった。日曜日には荻生君が熊谷から来るのを待ち受けて、いっしょに羽生へ帰って来た。荻生さんは心配のなさそうな顔をしておもしろい話をしながら歩いた。途中で、テバナをかんで見せた。それがいかにも巧みなので、清三は
体をくずして笑った。清三は荻生さんの無邪気でのんきなのがうらやましかった。
朝霧の深い朝もあった。野は秋ようやく
逝かんとしてまた暑きこと一二日、柿赤く、
蜜柑青しと、日記に書いた日もあった。
秋雨はしだいに冷やかに、
漆のあかく色づいたのが裏の林に見えて、前の
銀杏の実は葉とともにしきりに落ちた。
掃いても掃いても黄いろい銀杏の葉は散って積もる。清三は幼いころ故郷の寺で、遊び仲間の子供たちといっしょに、風の吹いた朝を待ちつけて、銀杏の実を拾ったことを思い出した。それがまだ昨日のように思われる。そこに現に子供の群れの中に自分もいっしょになって銀杏を拾っているような気もする。月日がいつの間にかたって、こうして昔のことを考える身となったことが不思議にさえ思われた。このごろは学校でオルガンに新曲を合わせてみることに興味をもって、琴の六段や長唄の
賤機などをやってみることがある。
鉄幹の「残照」は変ロ調の4/4
[#「4/4」は分数]でよく調子に合った。遅くまでかかって熱心に唱歌の楽譜を
浄写した。
月の初めに、俸給の一部をさいて、枕時計を買ったので、このごろは朝はきまって七時には眼がさめる。それに、時を
刻むセコンドの音がたえず聞こえて、なんだかそれが
伴侶のように思われる。一人で帰って来ても、時計が待っている。夜
更けに目がさめてもチクタクやっている。物を思う心のリズムにも調子を合わせてくれるような気がする。かれは小畑にやる
端書に枕時計の絵をかいて、「この時計をわが友ともわが妻とも思ひなしつつ、この秋を
寺籠りするさびしの友を思へ」と言ってやった。学校からの帰途には、路傍の
尾花に夕日が力弱くさして、
蓼の花の白い小川に色ある雲がうつった。かれは
独歩の「むさし野」の印象をさらに新しく胸に感ぜざるを得なかった。寺の前の
不動堂の高い縁側には
子傅の老婆がいつも三四人
集って、手拍子をとって子守唄を歌っている。そのころ裏の林は夕日にかがやいて、その最後の
余照は山門の裏の
白壁の塀にあきらかに照った。
荻生さんはいつもやって来た。いっしょに町に出て、しるこを食うことなどもあった。「それは僕だってのんきにばかりしているわけではありませんさ。けれどいくら考えたってしかたがないですもの、成るようにしきゃならないんですもの」荻生さんは清三のつねに沈みがちなのを見て、こんなことを言った。荻生さんは清三のつねに悲しそうな顔をしているのを心配した。
後の月は明るかった。裏の林に野分の渡るのを聞きながら、庫裡の八畳の縁側に、和尚さんと酒を飲んだ。夜はもう寒かった。
轡虫の声もかれがれに、寒そうにコオロギが鳴いていた。
秋は日に日に寒くなった。行田からは
袷と足袋とを届けて来る。
二十二
小畑から来た手紙の一。
今日、ある人(しひて名を除く)から聞けば、君と加藤の姉との間には多少の意義があるとのことに候ふが、それはほんたうか如何、お知らせくだされたく候。
先日、加藤に会ひし時、それとなく聞きしに、そんなことは知らぬと申し候。けれどこれは兄が知らぬからとて、事実無根とは断言出来難しなど笑ひ申し候。君にも似合はぬ仕事かな。ある事はありてよし、なきことはなくてよし。一臂の力を借さぬでもないのに、なんとか返事ありたく候。
加藤の浮かれ加減はお話にもならず、手紙が浦和から来たとて、その一節を写してみてくれろといふ始末、存外熱くなりておれることと存じ候。
秋寒し、近況如何。
手紙の二。
お返事難有う。
そんなことをしていられるかどうか考えてみよとのご反問の手厳しさ。君の心はよくわかった。
けれど、「あんなおしゃらくは嫌ひだ」は少しひどすぎたりと思ふ。あの背の高い後ろ姿のいいところが気に入る人もあるよ。またあの背の高いお嫌ひな人が君でなくってはならなかったらどうする。
「嫌ひだ」と言うたからとて、さうかほんたうに嫌ひだったのかと新事実を発見したほどに思ふやうな僕にては無之候。かう申せばまた誤解呼はりをするかもしれねど、簡単に誤解呼はりをする以上の事実があるのを僕は確かな人から聞いたの故だめに候。
この次の日曜には、行田からいま一息車を飛ばしてやって来たまへ。この間、白滝の君に会ったら、「林さん、お変りなくって?」と聞いていた。また例の蕎麦屋でビールでも飲んで語らうぢゃないか。小島からこの間便りがあった。このごろに杉山がまた東京の早稲田に出て行くさうだ。歌を難有う。思はんやさはいへそぞろむさし野に七里を北へ下野の山、七里を北といへば足利ではないか。君の故郷ぢゃないか。いつか聞いた君のフアストラヴの追憶ではないか。
手紙の三。
君の胸には何かがあるやうだ。少なくともこの間の返事で僕はさう解釈した。解釈したのが悪いと言はれてもこれもしかたがなしと存じ候。
加藤このごろ別号をつくりたりと申し居り候。未央生の号を書きていまだ君のあたりを驚かさず候ふや。未央と申せば、すでにご存じならん。未央は美穂に通ずるは言ふまでもなきことに候。「予にして加藤の二妹のいづれを取らんやといへば、むしろしげ子を。温順にして情に富めるしげ子を」をさなき教へ子を恋人にする小学教師のことなど思ひ出して微笑み申し候。また君の相変らぬ小さき矜持をも思ひ出し候。
手紙の四。
久しぶりで快談一日、昨年の冬ごろのことを思ひ出し候。
あの日は遅くなりしことと存じ候。君の心のなかばをばわれ解したりと言ひてもよかるべしと存じ候。恋――それのみがライフにあらず。真に然り、真に然り、君の苦衷察するにあまりあり。君のごとき志を抱いて、世に出でし最初の秋をかくさびしく暮らすを思へば、われらは不平など言ひてはをられぬはずに候。
手紙の五。(はがき)
運命一たび君を屈せしむ。なんぞ君の永久に屈することあらん。君の必ずふるって立つの時あるを信じて疑はず。
意気の子の一人さびしの夜の秋木犀の香りしめりがちなる
これらの手紙をそろえて机の上においた。そして清三は考えた。自分の書いてやった返事と、その返事の友の心にひき起こしたこととを細かに引きくらべて考えてみた。さらに自己のまことの心とその手紙の上にあらわれた状態とのいかに離れているかを思った。美穂子のことからひいて雪子しげ子のことを頭に浮かべた。
表面にあらわれたことだけで世の中は簡単に解釈されていく。打ち明けて心の底を語らなければ、――いや心の底をくわしく語っても、他人はその真相を容易に解さない。親しい友だちでもそうである。かれは痛切に
孤独を感じた。誰も知ってくれるもののない心の寂しさをひしと覚えた。
凩が裏の林をドッと
鳴らした。
二十三
天長節には学校で式があった。学務委員やら村長やら土地の有志者やら生徒の父兄やらがぞろぞろ来た。勅語の箱を
卓の上に飾って、菊の花の白いのと黄いろいのとを
瓶にさしてそのそばに置いた。女生徒の中にはメリンスの新しい晴れ衣を着て、
海老茶色の
袴をはいたのもちらほら見えた。
紋付きを着た男の生徒もあった。オルガンの音につれて、「君が代」と「今日のよき日」をうたう声が講堂の破れた
硝子をもれて聞こえた。それがすむと、先生たちが出口に立って紙に包んだ菓子を生徒に一人一人わけてやる。生徒はにこにこして、お
時儀をしてそれを受け取った。ていねいに
懐にしまうものもあれば、紙をあげて見るものもある。中には門のところでもうむしゃむしゃ食っている行儀のわるい子もあった。あとで教員
連は村長や学務委員といっしょに広い講堂にテーブルを集めて、役場から持って来た白の
晒布をその上に敷いて、人数だけの椅子をそのまわりに寄せた。餅菓子と煎餅とが菊の
花瓶の間に並べられる。小使は大きな
薬罐に茶を入れて持って来て、めいめいに配った茶碗についで回った。
大君のめでたい誕生日は、
茶話会では収まらなかった。小川屋に行って、ビールでも飲もうという話は誰からともなく出た。やがて教員たちはぞろぞろと田圃の中の料理屋に出かける。一番あとから校長が行った。小川屋の娘はきれいに髪を
結って、見違えるように美しい顔をして、有り合わせの玉子焼きか何かでお
膳を運んだ。一人前五十銭の会費に、有志からの寄付が五六円あった。それでビールは景気よく抜かれる。村長と校長とは愉快そうに今年の豊作などを話していると、若い連中は若い連中で検定試験や講習会の話などをした。大島さんがコップにビールをつごうとすると、女教員は手で
蓋をしてコップをわきにやった。「一杯ぐらい、女だって飲めなくては不自由ですな」と大島さんは元気に笑った。西日が暖かに縁側にさして、狭い庭には大輪の菊が白く黄いろく咲いていた。畑も田ももうたいてい収穫がすんで、向こうのまばらな森の陰からは
枯草を
燃やす
煙がところどころにあがった。そばの街道を
喇叭の音がして、例の
大越がよいの乗合馬車が通った。
その夜は学校にとまった。翌日は午後から雨になった。黄いろく色づき始めた野の
楢林から
雨滴れがぽたぽた落ちる。寺に帰ってみると、障子がすっかりはりかえられて、
室が明るくなっている。荻生さんが天長節の午後から来て、半日かかってせっせとはって行ったという。その友情に感激して、その後会った時に礼を言うと、「あまり黒くなっていたから……」と荻生さんはべつになんとも思っていない。「君は僕の留守に掃除はしてくれる、ご馳走は買っておいてくれる、障子ははりかえてくれる。まるで僕の細君みたようだね」と清三は笑った。和尚さんも、「荻生君はほんとうにこまめで親切でやさしい。女だと、それはいい細君になるんだッたが惜しいことをしました」こういってやっぱり笑った。
晴れた日には、農家の広場に
唐箕が
忙わしく回った。野からは刈り稲を
満載した車がいく台となくやって来る。寒くならないうちに
晩稲の
収穫をすましてしまいたい、
蕎麦も取ってしまいたい、麦も
蒔いてしまいたい。百姓はこう思ってみな一生懸命に働いた。十月の末から十一月の初めにかけては、もう関東平野に特色の
木枯がそろそろたち始めた。朝ごとの霜は
藁葺の屋根を白くした。
寺の
庫裡の入り口の広場にも
小作米がだんだん持ち込まれる。豊年でもなんとか理屈をつけてはかりを負けてもらう算段に
腐心するのが小作人の習いであった。それにいつも夕暮れの
忙わしい時分を
選んで馬に積んだり車に載せたりして運んで来た。和尚さんは入り口に出て挨拶して、まず
さしで、俵から米を抜いて、それを明るい
戸外に出して調べてみる。どうもこんな米ではしかたがないとか、あそこはこんな悪い米ができるはずがないがとかいろいろな苦情を持ち出すと、小作人は小作人で、それ相応な申しわけをして、どうやらこうやら押しつけて帰って行く。豆を作ったものは豆を持って来る。
蕎麦をつくったものは蕎麦粉を納めに来る。「来年は一つりっぱにつくってみますから、どうか今年はこれで
勘弁していただきたい。」誰もみんなそんなことを言った。
「どうも小作人などというものはしかたがないものですな」と
和尚さんは清三に言った。
収穫がすむと、町も村もなんとなくにぎやかに豊かになった。料理屋に三味線の音が夜更けまで聞こえ、
市日には呉服屋唐物屋の店に赤い
蹴出しの娘をつれた百姓なども見えた。学校の宿直室に先生のとまっているのを知って、あんころ餅を重箱にいっぱい持って来てくれるのもあれば、
鶏を一羽料理して持って来てくれるものもある。寺では
夷講に新蕎麦をかみさんが手ずから打って、酒を一本つけてくれた。
木枯の吹き荒れた夜の朝は、
楢や栗の葉が本堂の前のそこここに吹きためられている。
銀杏の葉はすっかり落ちつくして、
鐘楼の影がなんとなくさびしく見える。十一月の末には
手水鉢に薄氷が張った。
行田の友だちも少なからず変わったのを清三はこのごろ発見した。石川は雑誌をやめてから、文学にだんだん遠ざかって、訪問しても病気で会われないこともある。
噂では近ごろは料理屋に行って、女を相手に酒を飲むという。この前の土曜日に、清三は郁治と石川と沢田とに誘われて、このごろ興行している東京の役者の出る芝居に行ったが、友の調子もいちじるしくさばけて、春あたりはあえて言わなかった
戯談などをも人の前で平気で言うようになった。郁治の調子もなんとなくくだけて見えた。清三ははしゃぐ友だちの群れの中で、さびしい心で黙って舞台を見守った。
二幕目が終わると、
「僕は帰るよ」
こう言ってかれは立ち上った。
「帰る?」
みんなは驚いて清三の顔を見た。
戯談かと思ったが、その顔には笑いの影は認められなかった。
「どうかしたのか」
郁治はこうたずねた。
「うむ、少し気分が悪いから」
友だちはそこそこに帰って行く清三の後ろ姿を
怪訝そうに見送った。後ろで石川の笑う声がした。清三は不愉快な気がした。
戸外に出るとほっとした。
それでも郁治とは往来したが、もう以前のようではなかった。
一夜、清三は石川に手紙を書いた。初めはまじめに書いてみたが、あまり
余裕がないのを自分で感じて、わざと
律語に書き直してみた。
意気を血を、叫ぶ声先づ消えて、
さてはまた、野に霜結んで枯るるごと、
卿等の声はまた立たず。
何んぞや一婦の痴に酔ひて、
俗の香巷に狂ふ。
あゝ止みなんか、また前日の意気なきや。
終に止みなんか、卿等の痴態!
さて最後に
咄! という字を、一字書いて、封筒に入れてみたが、これでは友に警告するのになんだかはなはだふまじめになるような気がする。いろいろ考えたすえ、「こんなことはつまらぬ、言ってやったってしかたがない」と思って破って捨てた。
初冬の暖かい日はしだいに少なくなって、野には寒い寒い西風が吹き立った。
日向の学校の
硝子にこの間まで
蠅がぶんぶん飛んでいたが、それももう見えなくなった。田の刈ったあとの氷が午後まで残っていることもある。黄いろく
紅く色づいた
楢や
榛や栗の林も連日の西風にその葉ががらがらと散って、里の子供が野の中で、それを集めて
焚火などをしているのをよく見かける。大越街道を羽生の町へはいろうとするあたりからは、日光の山々を盟主にした
野州の連山がことにはっきりと手にとるように見えるが、かれはいつもそこに来ると足をたたずめて立ちつくした。かれの故郷なる足利町は、その
波濤のように起伏した
皺の多い山の
麓にあった。
一日、かれはその故郷の山にすでに雪の白く来たのを見た。
和尚さんも長い夜を退屈がって、よく本堂にやって来て話した。夜など茶をいれましたからと小僧を迎えによこすこともある。
庫裡の奥の六畳、その間には、長火鉢に
鉄瓶が煮えたって、明るい
竹筒台の五分心の
洋燈のもとに、かみさんが裁縫をひろげていると、和尚さんは小さい机をそのそばに持って来て、新刊の雑誌などを見ている。さびしい寺とは思えぬほどその一
間は明るかった。
茶請は塩
煎餅か法事でもらったアンビ餅で、文壇のことやそのころの作者
気質や雑誌記者の話などがいつもきまって出たが、ある夜、ふと話が旅行のことに移って行った。和尚さんはかつて行っていた
伊勢の話を得意になって話し出した。主僧は早稲田を出てから
半歳ばかりして、伊勢の
一身田の専修寺の中学校に英語国語の教師として雇われて二年ほどいた。伊勢の
大廟から二見の浦、宇治橋の下で橋の上から
参詣人の投げる
銭を網で受ける話や、あいの山で昔女がへらで
銭を受けとめた話などをして聞かせた。
朝熊山の眺望、ことに
全渓みな
梅で白いという月ヶ瀬の話などが清三のあくがれやすい心をひいた。それから京都奈良の話もその心をひき寄せるに十分であった。和尚さんの行った時は、ちょうど四月の休暇のころで、
祇園嵐山の桜は
盛りであった。
「行違ふ舞子の顔やおぼろ月」という
紅葉山人の句を引いて、
新京極から三条の橋の上の夜のにぎわいをおもしろく語った。その時は和尚さんもうかれ心になって
雪駄を買って、チャラチャラ音をさせて、明るいにぎやかな春の町を歩いたという。奈良では大仏、若草山、世界にめずらしいブロンズの仏像、二千年昔の寺院などいうのをくまなく見た。清三の孤独なさびしい心はこれを聞いて、まだ見ぬところまだ見ぬ
山水まだ見ぬ風俗にあくがれざるを得なかった。「一生のうち一度は行ってみたい」こう思ってかれは自己のおぼつかない前途を見た。
年の暮れはしだいに近寄って来た。行田の母からは、今年の暮れはあっちこっちの
借銭が多いから、どうか今から心がけて、金をむやみに使ってくれぬようにと言ってよこした。蒲団が薄いので、
蝦のようにかがめて寝る足は
終夜暖まらない。
宅に言ってやったところでだめなのは知れているし、でき合いを買う余裕もないので、どうかして今年の冬はこれで間に合わせるつもりで、足のほうに着物や羽織や
袴をかけたが、日ごとにつのる
夜寒をしのぐことができなかった。やむなくかれは米ずしから
四布蒲団を一枚借りることにした。その日の日記に、かれは「今夜よりやうやく暖かに寝ることを得」と書いた。
行田から羽生に通う路は、吹きさらしの平野のならい、顔も向けられないほど西風が激しく吹きすさんだ。日曜日の日の暮れぐれに行田から帰って来ると、秩父の連山の上に富士が
淡墨色にはっきりと出ていて、夕日が寒く平野に照っていた。途中で日がまったく暮れて、さびしい
田圃道を一人てくてくと歩いて来ると、ふとすれ
違った人が、
「
赤城山なア、山火事だんべい」
と言って通った。
ふり返ると、暗い闇を通して、そこあたりと覚しきところにはたして
火光があざやかに照って見えた。山火事! 赤城の山火事! 関東平野に寒い寒い冬が来たという
徴であった。
今年の
冬籠りのさびしさを思いながら清三は歩いた。
二十四
「林さん、……
貴郎は
家の兄と美穂子さんのこと知ってて?」
雪子は笑いながらこうきいた。
「少しは知っています」
清三はやや顔を赤くして、雪子の顔を見た。
「このごろのこともご存じ?」
「このごろッて……この冬休みになってからですか」
「ええ」
雪子は笑ってみせた。
「知りません」
「そう……」
とまた笑って口をつぐんでしまった。
昨日、冬期休暇になったので、清三は新しい年を迎えるべく羽生から行田の家に来た。美穂子が三四日前に、浦和から帰って来ているということをも聞いた。今朝加藤の家を訪問したが、郁治は出ていなかった。すぐ帰りかけたのを母親と雪子が、「もう帰るでしょうから」とたって
[#「たって」は底本では「てたって」]とめた。
清三は、くわしく聞きたかったが、しかしその勇気はなかった。胸がただおどった。
雪子が笑っているので、
「いったいどうしたんです?」
「どうしたっていうこともないんですけど……」
やっぱり笑っていた。やがて、
「変なことおうかがいするようですけど……
貴郎は兄と北川さんとのことで、何か思っていらっしゃることはなくって?」
「いいえ」
「じゃ、
貴郎、二人の中にはいってどうかしたッていうようなことはなくって」
「知りません」
「そう」
雪子はまた黙ってしまった。
しばらくしてから、
「私、小畑さんから変なこと言われたから、……」
「変なことッて? どんなことです」
「なんでもありませんけどもね」
話が
謎のようでいっさい
要領を得なかった。
午後、とにかく北川に行ってみようと思って沼の
縁を通っていると、向こうから郁治がやって来た。
「やあ!」
「どこに行った?」
「北川へちょっと」
「僕も今行こうと思っていた」と清三はわざと快活に、「Art 先生帰っているッていうじゃないか」
「うむ」
二人はしばし
黙って歩いた。
「いったいどうしたんだ?」
しばらくして清三がきいた。
「何が?」
「しらばっくれてるねえ、君は? 僕はちゃんと聞いて知ってるよ」
「何を?」
「大いに発展したッていうじゃないか」
「誰が話した?」
「ちゃんと知ってるさ!」
「誰も知ってるものはないはずだがな」と言って考えて、「ほんとうに誰が話した?」
「ちゃんと材料は上がってるさ」
「誰だろうな!」
「あててみたまえ」
少し考えて、
「わからん」
「小畑が君、君のシスタアに何か言ったことがあるかえ? 僕のことで」
「ああ、
妹がしゃべッたんだな、
彼奴、ばかな奴だな!」
「まア、そんなことはいいから、僕のいうことを返事しまたえ」
「何を」
「小畑が君のシスタアに何か言ったかッていうことだよ」
「知らんよ」
「知らんことはないよ、僕が君と Art の関係について、中にはいってるとかどうしたとか言ったことがあるそうだね」
「うむ、そういえばある」と郁治は思い出したというふうで、「君が北川によく行くのはどうかしたんじゃないかなんて言ったことがある」
「君のシスタアについても何か先生言いやしなかったか」
「
戯談は言ったかもしらんが、くわしくはよく知らん」
二人は黙って歩いた。
二十五
郁治と美穂子との「新しき発展」について、清三はいろいろとくわしく聞いた。雪子から美穂子にやる手紙の中に郁治が長い手紙を入れてやったのは一月ほど前であった。やがて郁治にあてて長い返事が来た。その返事をかれはその夜とある料理屋で酒を飲みながら清三に示した。その手紙には甘い恋の言葉がところどころにあった。郁治の手紙を寄宿舎の暗い
洋燈の光のもとでくり返しくり返し読んだことなどが書いてある。お互いにまだ修業中であるから、おっしゃるとおり、社会に成功するまで、かたい交際を続けたいということも書いてある。これで見ると、郁治もそんなことを言ってやったものとみえる。清三はその長い手紙を細かく読むほどの余裕はなかった。かれは飛び飛びにそれを見たが、ところどころの甘い蜜のような言葉はかれの淋しい孤独の眼の前にさながらさまざまの色彩でできた
花環のようにちらついて見えた。酒に酔って得意になって、友のさびしい心をも知らずに、平気におのろけを言う郁治の態度が、憎くもあり腹立しくもあり気の毒にもなった。清三はただフンフンと言って聞いた。
「その代わり僕は僕のできる限りにおいて、君のために
尽力するさ!」
こんなことを
[#「 こんなことを」は底本では「こんなことを」]郁治はいく度も言った。
「小畑もそんなことを言っていたよ。僕だッて、君の
心地ぐらいは知っているさ」
こんなことをも言った。
郁治はまた石川のこのごろ
溺れている
加須の芸者の話をした。
「先生、このごろは非常に熱心だよ。君も知ってるだろうが、自転車を買ってね、
遠乗りをするんだとかなんとか言って、毎日のように出かけて行くよ。東京から来た
小蝶とかいう女で、写真を大事にして持っていたよ。金持ちの息子なんていうものの心はまるでわれわれとは違うねえ君。勉強なんぞしないでも、りっぱに一人前になっていかれるんだからねえ」
できるだけの力をつくすと言った言葉、その言葉の陰に雪子がいることを清三はあきらかに知っていた。けれどそれが清三にはあまりうれしくは思われなかった。つんとすました雪子の姿が眼の前を通ってそして消えた。かれはいまさらに美穂子の姿のいっそう強い影をその心に
印しているのを予想外に思った。こういう
道行きになるのはかれもかねてよく知っていたことである。ある時はそうなるのを友のために祈ったことすらある。けれど想像していた時と事実となった時との感ははなはだしく違った。
清三の心はさびしかった。自己の境遇が実際生活の上からも、恋愛の上からも、学問修業という上からも、ますます消極的に傾いてきて、たとえば柱と柱との間に小さく押しつけられてしまったような気がした。初めはどうしても酔わなかった酒が、あとになるとその反動で激しく発して来て、帰るころには、歌をうたったり詩を吟じたりして郁治を驚かした。
しかし一段落を告げたというような気がないでもなかった。恋を失ったのはつらいが、恋に自由を奪われなかったのはうれしいような気もする。今までの友だちに対しての心持ちも少しく離れて、かえって自己をあきらかに眼の前に見るように思った。
かれは
懐に金を七円持っていた。その中のいく分を父母の補助に出すつもりであったが、旅行をする気がないでもないので、わざとそれをしまっておいた。年の暮れももう近寄って来た。西風が毎日のように関東平野の小さな町に吹きあれた。
乾物屋の店には数の子が山のように積まれ、
肴屋には鮭が
板台の上にいくつとなく並べられた。
旧暦で正月をするのがこの近在の習慣なので、町はいつもに変わらずしんとして、赤い腰巻をした田舎娘も見えなかった。郡役所と警察署と小学校とそれにおもだった
富豪などの
注連飾りがただ目に立った。
六畳には
炬燵がしてあった。清三は多くそこに日を暮らした。雑誌を読んだり、小説を読んだり、時には心理学をひもといてみることなどもあった。そばでは母親が
賃仕事のあい間を見て清三の
綿衣を縫っていた。午後にはどうかすると町へ行って餅菓子を買って来て茶をいれてくれることなどもある。
一夜凩が吹き荒れて、雨に交って
霙が降った。父と母と清三とは
炬燵を取りまいて
戸外に荒るるすさまじい冬の音を聞いていたが、こうした時に起こりかけた一家の財政の話が
愚痴っぽい母親の口から出て、借金の多いことがいく度となくくり返された。
「どうも困るなア」
清三は
長大息を
吐いた。
「いま少し商売がうまく行くといいんだが、どうも不景気でなア。何をやったッてうまいことはありやしない」
父親はこう言った。
「ほんとうにお前には気の毒だけれど毎月いま少し手伝ってもらわなくっては――」母親は
息子の顔を見た。
「それは私は倹約をしているんですよ、これで……」と清三は言って、「煙草もろくろく吸わないぐらいにしているんですけれど……」
「お前にはほんとうに気の毒だけれど……」
「
父さんにもいま少しかせいでもらわなくっちゃ――」
清三は父に向かって言った。
父は黙っていた。
財政の内容を持ち出して、母親がくどくどとなお
語った。清三は母親に同情せざるを得なかった。かれは熱心に借金の
不得策なのを説いて、貧しければ貧しいように生活しなければならぬことを言った。最後にかれはしまっておいた金を三円出して渡した。
友だちを訪問しても、もう以前のようにおもしろくなかった。郁治はたえずやって来るが、こっちからはめったに出かけて行かない。会うとかならず美穂子の話が出る。それを聞くのが清三にはこの上なくつらかった。北川にも行ってみようとは時々思うが、なんだか
女々しいような気がしてよした。散歩もこのごろは野が寒く、それにあたりに見るものもなかった。かれは退屈すると一軒おいて隣の家に出かけて行って、日当たりのいい縁側に七
歳八
歳ぐらいの
娘の児を相手に、キシャゴ
弾きなどをして遊んだ。
髪の長い
眉の美しい
児がその中にあった。警察に転任して来た警部とかの娘で、まだ小学校へもあがらぬのに、いろはも数学もよく覚えていた。百人一首もとびとびに
暗誦して、恋歌などを無意味なかわいい声で歌って聞かせた。清三は一から十六までの数を加減して試みてみたが、たいていはまちがいなくすらすらと答えた。かれはセンチメンタルな心の調子で、この娘の
児のやがて生いたたん行く末を想像してみぬわけにはいかなかった。「幸あれよ。やさしき恋を得よ」こう思ったかれの胸には限りなき哀愁がみなぎりわたった。
熊谷に出かけた日は三十日で、西風が強く吹いた。小島も桜井も東京から帰っていた。小畑はことに熱心にかれを迎えた。けれどかれの心は昔のように快活にはなれなかった。旧友はみな清三の蒼い顔に沈んだ調子と消極的な言葉とをあやしみ見た。清三はまたいっそう快活になった友だちに対してなんだか肩身が
狭いような気がした。
熊谷の町はにぎやかであった。ここでは
注連飾りが町家の
軒ごとに立てられて、通りの
角には年の暮れの市が立った。
橙、
注連、
昆布、
蝦などが行き通う人々の
眼にあざやかに見える。どの店でも
弓張り
提灯をつけて、
肴屋には鮭、ごまめ、数の子、
唐物屋には毛糸、シャツ、ズボン下などが山のように並べられてある。夜は人がぞろぞろと通りをひやかして通った。
大晦日の朝、清三はさびしい心を抱いて、西風に吹かれながら、例の長い街道をてくてくと行田に帰った。いまさらに感ぜられるのは、境遇につれて変わり行く人々の感情であった。昨年の今ごろ、こうしたことがあろうとは夢にも思っておらなかった。親しい友だちの間柄がこういうふうに離れ離れになろうとは知らなかった。人は境遇の動物であるという言葉をかれはこのごろある本で読んだことがある。その時は、そんなことがあるものかとよそごとに思ってすてた。けれどそれは事実であった。
家に帰ってみると、借金取りはあっちこっちから来ていた。母親がいちいち頭を下げて、それに応対しているさまは見るにしのびない。父親は勘定が取れぬので、日の暮れるころ、しょぼしょぼとしおたれた姿で帰って来る。「あゝあゝ、しかたがねえ!」と
長大息をついて、予算の半分ほどもない財布を母に渡した。清三は見かねて、金をまた二円出した。
夜になってから、母親は
巾着の残りの銭をじゃらじゃら音をさせながら、
形ばかりの年越しをするために町に買い物に行った。のし餅を三枚、ゴマメを一袋、鮭を五切れ、それに明日の
煮染にする里芋を五合ほど風呂敷に包んで、重い重いと言ってやがて帰って来た。その間に父親は燈明を
神棚と台所と便所とにつけて、火鉢には火をかっかっと起こしておいた。やがて年越しの
膳はできる。
父親ははげた頭を下げて、しきりに神棚を拝んでいたが、やがて膳に向かって、「でも、まあ、こうして親子三人年越しのお膳に向かうのはめでたい」と言って、
箸を取った。豆腐汁に鮭、ゴマメは
生で二
疋ずつお膳につけた。一室は明るかった。
母親は今夜中に仕立ててしまわねばならぬ
裁縫物があるので、遅くまでせっせと針を動かしていた。清三はそのそばで年賀状を十五枚ほど書いたが、最後に毎日つける日記帳を出して、ペンで書き出した。
三十一日。
今歳もまた暮れ行く。
思ひに思ひ乱れてこの三十四年も暮れ行かんとす。
思ふまじとすれど思はるるは、この年の暮れなり。
かくて最後の決心はなりぬ。
無言、沈黙、実行。
われは運命に順ふの人ならざるべからず。とても、とても、かくてかかる世なれば、われはた多くは言はじ。
明星、新声来る。
ああ終に終に三十四年は過ぎ去りぬ。わが一生において多く忘るべからざる年なりしかな。
言はじ、言はじ、ただ思ひいたりし一つはこれよ、曰く、かかる世なり、一人言はで、一人思はむ。ああ。
かれは日記帳を閉じてそばにやって新着の明星を読み出した。