三十八

 荻生さんが和尚おしょうさんを訪ねて次のような話をした。
「どうも困りますんですがな」
 と荻生さんが例の人のいい調子で、さも心配だという顔をすると、
「それは困りますな」
 と和尚さんも言った。
「どうも思うようにいかんもんですから、ついそういうことになるんでしょうけれど……」
「校長からお聞きですか」
「いいえ、校長からじかに聞いたというわけでもないんですけれど……借金もできたようですし、それに清三君が宿直室にいると、女がぞろぞろやって来るんだッて言いますからねえ」
「いったい、あそこは風儀が悪いところですからなア」
「ずいぶんおもしろいんですッて……清三君一人でいると、学校の裏の垣根のところから、声をかけたり、わざと土塊つちくれをほうり込んだりするんですッて。そうして誰もいないと、庭から回ってはいって来るんだそうです」
「そして、その中に誰か相手ができてるんですか」
「よくわかりませんけれど、できてるんだそうです」
「どうせ、機織はたおりかなんかなんでしょう?」
「え」
「困るですな。そういう女に関係をつけては」
 と和尚さんも嘆じた。
 しばらくしてから、
「早くかみさんを持たせたら、どうでしょう」
「この間も行田に行きましたから、ついでに寄ったんですが、お袋さんもそう言っていました」
「加藤君のシスターはもらえないのですか」
「先生がいやだッて言うんです……」
「だッて、前にラブしていたんじゃないですか」
「どうですか、清三君、よく話さんですけれど、加藤君と何か仲たがいかなんかしたらしいですな」
「そんなことはないでしょう」
「いや、あるらしいです」
 と荻生さんはちょっととぎれて、「この間も言ってましたよ、僕はこういう運命ならしかたがない。一生独身で子供を相手にして暮らしても遺憾いかんがないッて言ってましたよ」
「独身もいいが――そんなことをしてはしかたがない」
「ほんとうですとも」
 と荻生さんは友だち思いの心配そうに、「校長が可愛がってくれてるからいいですけれど、郡視学の耳にでもはいるとたいへんですからな。それに狭い田舎いなかですから、すぐぱッとしてしまいますから……今度来たら、それとなく言っていただきたいものですが……」
「それは言いましょう」
 と和尚さんは言った。
「それに、清三君はからだが弱いですからな……」
 と荻生さんはやがて言葉をついだ。
「やっぱり胃病ですか」
「え、相変わらず甘いものばかり食っているんですから。甘いものと、音楽と、絵の写生しゃせいとこの三つが僕のさびしい生活の慰藉いしゃだなどと前から言っていましたが、このごろじゃ――この夏の試験を失敗してからは、集めた譜はれの奥に入れてしまって、唱歌の時間きりオルガンもらさなくなりましたから」
「よほど失望したんですね」
「え……それは熱心でしたから、試験前の二月ばかりというものは、そのことばかり言ってましたから」
「つまり今度のことなどもそれから来てるんですな」と和尚さんは考えて、「ほんとうに気の毒ですな。ずいぶんさびしい生活ですものなア。それにまじめな性分しょうぶんだけ、いっそうつらいでしょうから」
「私みたいにのんきだといいんですけれど……」
「ほんとうに、君とは違いますね」
 と和尚さんは笑った。

       三十九

 清三の借金はなかなか多かった。この二月ばかり、自炊をする元気もなく、三度々々小川屋から弁当を運ばせたので、その勘定かんじょうは七八円までにのぼった。酒屋に三円、菓子屋に三円、荒物屋に五円、前からそのままにしてある米屋に三円、そのほか同僚から一円二円と借りたものもすくなくなかった。荻生さんにも四円ほど借りたままになっていた。
 中田に通うころに和尚さんに融通ゆうずうしてもらった二円も返さなかった。
 金の価値のとうと田舎いなかでは、何よりも先にこれから信用がくずれて行った。

       四十

 ところがどうした動機か、清三は急にまじめになった。もちろん校長からこんこんと説かれたこともあった。和尚さんからもそれとなく忠告された。けれどもそのためばかりではなかった。
 頭が急に新しくなったような気がした。自己のふまじめであったのがいまさらのように感じられてきた。落ちて行く深い谷から一刻も早く浮かびあがらなければならぬと思った。
 失望と空虚くうきょとさびしい生活とから起こった身体からだ不摂生ふせっせい、このごろでは何をする元気もなく、散歩にも出ず、雑誌も読まず、同僚との話もせず、毎日の授業もおつとめだからしかたがなしにやるというふうに、蒼白あおじろい不健康な顔ばかりしていた。どことなく体がけだるく、時々熱があるのではないかと思われることなどもあった。持病の胃はますますつのって、口の中はつねにかわいた。――ふまじめな生活がこの不健康な肉体を通じて痛切なる悔恨かいこんをともなって来た。弱かったがしかし清かった一二年前の生活が眼の前に浮かんで通った。
「絶望と悲哀と寂※せきばく[#「宀/日/六」、211-12]とに堪へ得られるやうなまことなる生活を送れ」
「絶望と悲哀と寂※[#「宀/日/六」、211-13]とに堪へ得らるるごとき勇者たれ」
「運命に従ふものを勇者といふ」
「弱かりしかな、ふまじめなりしかな、幼稚なりしかな、空想児くうそうじなりしかな、今日よりぞわれ勇者たらん、今日よりぞわれ、わが以前の生活に帰らん」
「第一、からだを重んぜざるべからず」
「第二、責任を重んぜざるべからず」
「第三、われに母あり」
 かれは「われに母あり」と書いて、筆を持ったまま顔をあげた。胸が迫ってきて、蒼白い頬に涙がほろほろと流れた。
 かれは中田に通い始めるころから、日記をつけることを廃した。めったなことを書いておいて、万一他人に見らるる恐れがないではないと思ったからである。かれは柳行李やなぎごうりをあけて、そのころの日記を出して見た。九月二十四日――秋季皇霊祭。その文字に朱で圏点けんてんが打ってあった。その次の土曜日の条に、大高島から向こう岸の土手に渡る記事が書いてあった。日記はたえだえながらも、その年の十月の末ころまでつづいていた。利根川の暮秋ぼしゅうのさまや落葉や木枯のことも書いてある。十月の二十三日の条に「この日、雨寒し――」と書いてあった、あとは白紙になっている。その時、「日記なんてつまらんものだ。やはり他人に見せるという色気があるんだ。自分のやったことや心持ちが十分に書けぬくらいならよすほうがいい。自分の心の大部分を占めてる女のことを一行も書くことのできぬような日記ならだんぜんよしてしまうほうがいい」こう思って筆をたったのを覚えている。その間の一年と二三か月の月日のことを清三は考えずにはおられなかった。その間はかれにとっては暗黒な時代でもあり、また複雑した世相せそうにふれた時代でもあった。事件や心持ちを十分に書けぬような日記ならよすほうがいいと言ったが、それと反対に日記に書けぬようなことはせぬというところに、日記を書くということのまことの意味があるのではないかとかれは考えた。
 かれはふたたび日記を書くべく罫紙けいしを五六十枚ほど手ずからじて、その第一ページに、前の三か条をれいれいしくかがげた。
 明治三十六年十一月十五日
 かれはこう書き出した。

       四十一

「過去は死したる過去としてほうむらしめよ」
「われをしてわが日々のライフの友たる少年と少女とを愛せしめよ」
「生活の資本は健康と金銭とを要す」
「われをして清き生活をいとなましめよ」
 こういう短い句は日記の中にたえず書かれた。
 またある日はこういうことを書いた。
「野心を捨てて平和に両親の老後を養い得ればこれ余の成功にあらずや、母はわれとともに住まんことを予想しつつあり」
 またある時は次のようなことを書いた。
「親しかりし昔の友、われより捨て去りしは愚かなりき。じょううすかりき。われをしてふたたびその暖かき昔の友情を復活せしめよ。しょせん、境遇は境遇なり、運命は運命なり、かれらをうらやみて捨て去りしわれの小なりしことよ。喜ぶべきかな友情の復活! 一昨日小畑よりけたる手紙あり。今日また加藤より情に満たされたる便りあり。小畑は自分の読み古したる植物の書籍近きに送らんといふ。うれし」
 校長も同僚も清三の態度のにわかに変わったのを見た。清三は一昨年あたり熱心に集めた動植物の標本の整理に取りかかった。野からって来て紙に張ったままそのままにしてあったのを一つ一つ誰にもわかるように分類してみた。今年の夏休暇なつやすみに三日ほど秩父ちちぶ三峰みつみねに関さんと遊びに行った時採集して来たものの中にはめずらしいものがあった。関さんは文部もんぶの中学教員検定試験を受ける準備として、しきりに動植物を研究していた。その旅でも実際について関さんはしきりに清三にその趣味を鼓吹こすいした。
 小畑からやがてその教科書類が到着した。この秋まで音楽に熱心であった心はだんだんその方面に移っていった。わからぬところは関さんに聞いた。
 村の百姓たちはふたたび若い学校の先生の散歩姿を野道に見るようになった。写生しているそのまわりに子供たちがをかいていることもある。かれは弥勒野みろくのの初冬の林や野を絵はがきにして、小畑や加藤に送った。
 三たびこのさびしい田舎いなかに寒い西風の吹き荒れる年の暮れが来た。前の竹藪たけやぶには薄い夕日がさして、あおじやつぐみの鳴き声が垣に近く聞こえる。二十二日ごろから、日課点の調べが忙しかった。旧の正月に羽生はにゅうで挙行せられる成績品展覧会に出品する準備もそれそうおうに整頓しておかなければならなかった。図画、臨本模写りんぽんもしゃ考案画こうあんが写生画しゃせいが模様画もようが、それに綴り方に作文、昆虫標本、植物標本などもあった。それを生徒の多くの作品の中から選ぶのはひととおりの労力ではなかった。どうか来年は好成績をはくしたいものだと校長は言った。
 それにどうしてか、このごろはよく風邪かぜをひいた。散歩したとては、咳嗽せきが出たり、湯にはいったとては熱が出たりした。煙草を飲むと、どうも頭の工合ぐあいが悪い。今までに覚えたことのない軽い一種の眩惑めまいを感じる。「君、どうかしたんじゃありませんか、医師いしゃに見てもらうほうがいいですぜ」と関さんは二十四日の授業を終わって別れようとする時に言った。
 荻生さんを羽生に訪問した時には、そう大して苦しくもなかった。けれど成願寺に行って久しぶりで和尚さんに会って話そうと思った希望は警察署の前まで来て中止すべく余儀なくされた。熱も少なくとも三十八度五分ぐらいはある。それに咳嗽せきが出る。ちょうどそこに行田に戻り車がうろうろしていたので、やすく賃銭ちんせんをねぎって乗った。寒いみちを日のれにようやく家に着いた。
 年の暮れを一室ひとまこもって寝て送った。母親は心配して、いろいろ慰めてくれた。さいわいにして熱はれた。大晦日おおみそかにはちょうど昨日帰ったという加藤の家を音信おとずるることができた。郁治は清三のやせた顔と蒼白い皮膚ひふとを見た。話しぶりもどことなく消極的になったのを感じた。なんぞと言うとすぐ衝突して議論をしたり、大晦日の夜を感激してあかつきの三時まで町中や公園を話し歩いたりした三年前にくらべると、こうも変わるものかと思われた。二人はこのごろ東京の新聞ではやる宝探たからさがしや玄米一升の米粒こめつぶ調べの話などをした。万朝報まんちょうほうの宝を小石川の久世山に予科の学生が掘りに行ってさがし当てたことをおもしろく話した。続いて、日露談判の交渉がむずかしいということが話題にのぼった。「どうも、東京では近来よほど殺気さっき立っている。新聞の調子を見てもわかるが、どこかこういつもに違ってまじめなところがある。いよいよ戦端せんたんが開けるかもしれない」と郁治は言った。清三もこのごろでは新聞紙上で、この国家の大問題を熱心に見ていた。「そんな大きな戦争を始めてどうするんだろう」といつも思っていた。二人はその問題についていろいろ話した。陸軍では勝算があるが、海軍では噸数とんすうがロシアのほうがまさっていて、それに戦闘艦せんとうかんが多いなどと郁治は話した。
 元日の朝、とこ花瓶かびんにかれはめずらしく花をけた。早咲きの椿つばきはわずかに赤く花を見せたばかりで、厚いこい緑の葉は、黄いろい寒菊かんぎくの小さいのとおもむきに富んだ対照をなした。べつにつるうめもどきの赤い実の鈴生すずなりになったのをしていると、母親は「私、この梅もどきッていう花大好きさ、この花を見るとお正月が来たような気がする」こう言って通った。父親は今朝猫の額のような畠のかどで、霜解しもどけの土をザグザグ踏みながら、白い手を泥だらけにして、しきりに何かしていたが、やがてようやく芽を出し始めた福寿草ふくじゅそうを鉢に植えて床の間に飾った。朝日の影が薄く障子しょうじにさした。親子は三人楽しそうに並んで雑煮ぞうにを祝った。
 清三の日記は次のごとく書かれた。
明治三十七年
一月一日――新しき生命と革新とを与ふべく、新しく苦心と成功と喜びと悲しみとをくだすべく新年は来たれり。若き新年は向上の好機なり。願はくば清く楽しき生活をいとなましめよ。
△「新年にいとしを床の青磁せいじの花瓶に母が好みの蔓梅つるうめもどき」△小畑に手紙出す、これより勉強して二年三年ののち、検定試験を受けんとす、科目は植物に志すよし言ひやる。△風邪心地やうやくすぐれたれば、明日あたりは野外写生せんとて画板がばんなどつくろふ。
二日――「たたずの門」のあたりに写生すべき所ありたれど、風吹きて終日寒ければやむ。△きく子が数へし玄米一合の粒数つぶかず七二五六。
三日――昨夜入浴せしため感冒ふたたびもとにもどる。△休暇中に野外写生ののぞゆ。
四日――万朝報まんちょうほうの米調べ発表。玄米一升七三二五〇粒。△今年は倹約せんと思ふ。財嚢ざいのうのつねにきょなるは心を温めしむる現象にあらず。しょせん生活に必要なるだけの金は必要なり。
五日――年賀の礼今年は欠く。
六日――牧野雪子(雪子は昨年の暮れ前橋の判事と結婚せり)より美しき絵葉書の年賀状たる。△腫物はれもの再発す。
七日――病後療養と腫物のため帰校をのばす。△紅葉秋濤こうようしゅうとうちょ「寒牡丹」読みかけてやめる。
罪悪が発端ほったんなり。△中学世界買って来てよむ。△加藤帰京す。
八日――健康を得たし、健康を得たし、健康を得たし。
九日――「寒牡丹」読みて夜にはいって読了す。罪悪に伴なふ悲劇中の苦悶、女主人公ルイザの熱誠なる執着、四百ページ大団円だいだんえんはラブの成功に終はる。△煙草は感冒かぜの影響にて、にわかにその量を減じ、あらば吸ひ、なくば吸はぬといふやうになりたり。長くこの方法が惰性となればよけれどいかにや。明日はまた利根河畔の人となるべし。△日露の危機、外交より戦期にうつらんとすと新聞紙しきりに言ふ。吾人の最も好まぬ戦争はついにさくべからざるか。
 さびしい寒い宿直室の生活はやがてまた始まった。昨年の十一月から節約に節約を加えて、借金の返却を心がけたので、財嚢ざいのうはつねにつねに冷やかであった。胃が悪く気分がすぐれぬので、つとめて運動をしようと思って、生徒を相手に校庭でよくテニスをやった。かれの蒼白あおじろい髪のえたすらりとやせた姿はいつも夕暮れの空気の中にあざやかに見えた。かれは土曜日の日記の中に、「平日の課業を正直にすませ、満足に事務を取り、温かき晩餐ばんさんののち、その日の新聞をよみ終はりて、さて一日の反省になんらもだゆることなく、安息すべき明日の日曜を思へば、テニスの運動の影響とて、右手の筋肉のふでとるにふるへるのほかたえて平和ならざるなし」と書いた。また「Mの都合あれば帰宅したけれど思いとまる。節約の結果三銭のきざ煙草たばこ四日をたもつ」と書いた。しかしかれは夜眠られなくって困った。眠ったと思うとすぐ夢におそわれる。たいていは恐ろしい人に追いかけられるとか刀で斬られるとかする夢で、眼がさめると、ぐっしょり寝汗をかいている。心持ちの悪いことはたとえようがなかった。
 中学校々友会の会報が年二季に来た。同窓の友の消息がおぼろ気ながらこれによって知られる。アメリカに行ったものもあれば、北海道に行ったものもある。今季こんきの会報には寄宿舎生徒松本なにがしがみずから棄てて自殺した顛末てんまつが書いてあった。深夜、ピストルの音がして人々が驚いてはせ寄ったことがくわしく記してあった。かれは今まで思ったことのない「死」について考えた。夜はその夢を見た。寄宿舎の窓に灯が明るくついて、人がガヤガヤしている。ピストルが続けざまに鳴った。自殺した男が窓から飛んで来た。
 朝ごとの霜は白かった。夜半のみぞれで竹の葉が真白になっていることもあった。ラッケットをさばいて校庭に立っているかれのやせぎすな姿を人々はつねに見た。解けやらぬ小川の氷の上にあおじが飛び、空しい枝の桑畠にはつぐみが鳴き、はんの根の枯草からは水鶏くいなが羽音高く驚き立った。ならや栗の葉はまったく落ちつくして、草の枯れた利根川の土手はただ一帯に代赭色たいしゃいろに塗られて見えた。田には大根の葉がひたと捨てられてあった。
 月の中ごろに、母親から来た小荷物には、毛糸のシャツがはいっていた。手紙には「寒さ激しく御座候あいだあまり寒き時は湯をやすみ、風ひかぬやう御用心くだされたく候、朝夕よきことしきことにつけお前一人便りに御座候間御身大切に御守おまも被下度くだされたくそうろう」と書いてあった。このごろは母を思うの情がいっそうせつになって、土曜日に帰るみちでも、稚児ちごを背に負った親子三人づれの零落した姿などを見ては涙をこぼした。母親もこのごろ清三のきわだってやさしくなったのを喜んだが、しかしまた心配にならぬでもなかった。にわかに気の弱くなったのは病気のためではないかと思った。清三が行くと、賃仕事を午後から休んで、白玉のしる粉などをこしらえてもてなした。寝汗が出るということを聞いて、「お前、ほんとうにお医者いしゃにかかって見てもらわなくっていいのかね」と顔に心配の色を見せて言った。
 時には荻生さんを羽生から誘って来て、宿直室に一夜泊まらせることなどもあった。荻生さんはこのごろ話のある養子の口のことを語って、「その家は君、相応に財産があるんですって、いまに、りっぱな旦那になったら、たんとご馳走をしますよ。君ぐらい一人置いてあげてもいい」などと戯談じょうだんを言って快活に笑った。荻生さんは床にはいると、すぐいびきをたてて安らかに熟睡じゅくすいした。こうして安らかに世を送り得る人を清三はうらやましく思った。
 関さんはなどを枯れ草の中に見いだして教えてくれた。寒い冬の中にもきわだって暖かい春のような日があった。野は平らかに、静かに、広く、さびしく、しかも心地よく刈り取られて、はんのひょろ長いむなしい幹が青い空におすように見られた。かれは午前七時にはかならず起きて、燃ゆるような朝日の影の霜けぶりの上に昇るのを見ながら、いつも深呼吸を四五十度やるのを例にしていた。「どうして、こう気分がすぐれないんだろう。どうかしなくってはしかたがない」などと時にはみずから励ました。しかしやっぱり胃腸の工合ぐあいはよくなかった。寝汗も出た。

       四十二

 ある暖かい日曜に、関さんとつれだって、羽生の原という医師いしゃのもとにてもらいに出かけた。町の横町に、黒い冠木かぶきの門があって、庭の松がこい緑を見せた。白い敷布をかけた寝台ねだい診察室しんさつしつにあって、それにとなった薬局には、午前十時ごろの暖かい冬の日影のとおった硝子がらすの向こうに、いろいろの薬剤を盛った小さい大きいびんたなの上に並べてあるのが見えた。医師は三十七八の髪を長くしたていねいな腰の低い人で、聴診器を耳に当てて、まず胸から腹のあたりを見た。次に、肌をぬがせて背中のあたりを見て、コツコツと軽くたたいた。
「やはり、胃腸が悪いんでしょうな」
 こう言って型のごとき薬を医師はくれた。
 春のような日であった。連日の好晴こうせいに、霜解しもどけのみちもおおかた乾いて、街道にはところどころ白いほこりも見えた。かすみにつつまれて、いただきの雪がおぼろげに見える両毛りょうもうの山々を後ろにして、二人は話しながらゆるやかに歩いた。野のかどに背を後ろに日和ひなたぼっこをして、ブンブン糸繰いとくぐるまをくっている猫背の婆さんもあった。名代なだいの角の饂飩屋うどんやには二三人客が腰をかけて、そばの大釜からは湯気が白く立っていた。野には、日当ひあたりのいい所には草がすでにもえて、なずなど青々としている。関さんはところどころで、足をとめて、そろそろ芽を出し始めた草をとった。そしてそれを清三に見せた。風呂敷にも包まずに持っている清三の水薬の瓶には、野の暖かい日影がさしとおった。

       四十三

「先生」
 とやさしい声がした。
 障子をあけると、廂髪ひさしがみって、ちょっと見ぬ間に非常に大人びた女生徒の田原ひでがにこにこと笑って立っていた。昨年の卒業生で、できのいいので評判であったが、卒業すると、すぐ浦和の師範学校に行った。高等二年生の時から清三が手がけて教えたので、ことにかれをなつかしがっている。高等四年のころに、新体詩などを作ったり和文を書いたりして清三に見せた。うちはちょっとした農家で、散歩の折りに清三が寄ってみたこともあった。あまり可愛がるので、「林先生は田原さんばかり贔屓ひいきにしている」などと生徒から言われたこともあった。丸顔の色の白い田舎いなかにはめずらしいハイカラな子で、音楽が好きで、清三の教えた新体詩をオルガンに合わせてよく歌った。師範学校の寄宿舎からも、つねに自然の、運命の、熱情のと手紙をよこした。教え子の一人よりなつかしき先生へと書いて来たこともあった。時には、詩をくださいなどと言って来ることもあった。
「田原さん!」
 清三は立ち上がった。
「どうしたんです?」
 続いてたずねた。
「今日用事があって、うちに参りましたから、ちょっとおうかがいしましたの」
 言葉から様子からこうも変わるものかと思うほど大人おとなびてハイカラになったのを清三は見た。
「先生、ご病気だって聞きましたから」
「誰に?」
「関先生に――」
「関さんにどこで会ったんです?」
「村のかどでちょっと――」
「なアにたいしたことはないんですよ」と笑って、「例の胃腸です――あまり甘いものをい過ぎるものだから」
 ひで子は笑った。
 先生と生徒とは日曜日の午後の明るい室に相対してしばし語った。寄宿舎の話などが出た。今年卒業するはずの行田の美穂子の話も出た。いぜんとして昔の親しみは残っているが、女には娘になったへだてがどことなく出ているし、男には生徒としてよりも娘という感じがいつものへだてのない会話をさまたげた。机の上には半分ほど飲んだ水薬のびんが夕日に明るく見えていた。清三は今朝友から送って来た「音楽の友」という雑誌をひろげてひで子に見せた。口絵には紀元二百年ごろの楽聖がくせいセント、セリシアの像が出ていた。オルガンの妙音から出た花と天使エンジェルの幻影とを楽聖はじっと見ている。清三はこの人はローマの貴族に生まれて、熱心なるエホバの信者で、オルガンの創造者であるということを話して聞かせた。美容花びようはなのごとくであったということをも語った。
 オルガンの音がやがて聞こえ出した。小使が行ってみると、若い先生が指を動かしてしきりに音を立てているかたわらに、海老茶えびちゃはかまけたひで子は笑顔えがおをふくんで立った。
 校庭は静かであった。午後の日影に雀がチャチャと鳴きしきった。テニスコートの線があきらかに残っていて、宿直室の長い縁側の隅にラケットやボールやネットが置いてあるのが見える。庭の一隅かたすみには教授用の草木が植えられてあった。
 ひで子を送って清三はそこに出て来た。
 薔薇ばらの新芽が出ているのが目についた。清三はこれをひで子に示して、
「もう芽が出ましたね、早いもんだ、もうじき春ですな」
「ほんとうに早いこと!」
 とひで子はその一葉をつまみ取った。
 やがて校外のみちを急いで帰って行く海老茶袴の姿が見えた。

       四十四

 日露開戦、八日の旅順と九日の仁川じんせんとは急雷のように人々の耳を驚かした。紀元節の日には校門には日章旗にっしょうきが立てられ、講堂からはオルガンが聞こえた。
 東京の騒ぎは日ごとの新聞紙上に見えるように思われた。一月ひとつき以前から政治界の雲行きのすみやかなのは、田舎いなかで見ていても気がもめた。召集令はすでにくだった。村役場の兵事係りが夜に日をついで、その命令を各戸に伝達すると、二十四時間にその管下に集まらなければならない壮丁そうていたちは、父母妻子に別れを告げる暇もなく、あるは夕暮れの田舎道に、あるは停車場までの乗合馬車に、あるは楢林ならばやしの間の野の路に、一包みの荷物をかかえて急いで国事こくじにおもむく姿がぞくぞくとして見られた。南埼玉みなみさいたまの一郡から徴集されたものが三百余名、そのころはまだ東武線ができぬころなので、信越線の吹上駅ふきあげえき鴻巣駅こうのすえき桶川駅おけがわえき、奥羽線の栗橋駅、蓮田駅はすだえき久喜駅くきえきなどがその集まるおもなる停車場であった。
 交通のしょうに当たった町々では、いち早く国旗を立ててこの兵士たちを見送った。停車場の柵内さくないには町長だの兵事係りだの学校生徒だの親類友だちだのが集まって、汽車の出るたびごとに万歳を歓呼かんこしてその行をさかんにした。清三は行田から弥勒みろくに帰る途中、そうした壮丁に幾人いくたりもでっくわした。
 旅順りょじゅん仁川じんせんの海戦があってから、静かな田舎いなかでもその話がいたるところでくり返された。町から町へ、村から村へ配達する新聞屋の鈴の音は忙しげに聞こえた。新聞紙上には二号活字がれいれいしくかかげられて、いろいろの計画やら、風説やらがしるされてある。十二日は朝から曇った寒い日であったが、予想のごとく、敵の浦塩艦隊うらじおかんたい津軽海峡つがるかいきょう襲来しゅうらいして、商船奈古浦丸なこのうらまる轟沈ごうちんしたという知らせが来た。その津軽海峡の艫作崎へなしざきというのはどこに当たるか、それをたしかめるため、校長は教授用の大きな大日本地図を教員室にかけた。老訓導も関さんも女教師もみなそこに集まった。
「ははア、こんなところですかな」
 と老訓導は言った。
 清三は浦塩うらじおから一直線にやって来た敵の艦隊と轟沈ごうちんされたわが商船とを想像して、久しくその掛け図の前に立っていた。
 湯屋でも、理髪舗とこやでも、戦争の話の出ぬところはなかった。憎いロシアだ、こらしてやれというじじいもあれば、そうした大国を敵としてはたして勝利を得らるるかどうかと心配する老人もあった。子供らは旗をこしらえて戦争の真似まねをした。けれどがいして田舎は平和で、夜はいつものごとく竹藪たけやぶの外に藁屋わらやあかりの光がもれた。ちょうど旧暦の正月なので、街道の家々からは、酒にって笑う声や歌う声もした。
 このごろかれは朝は六時半に起床し、夜は九時に寝た。正月の餅と饂飩うどんとに胃腸をこわすのを恐れたが、しかしたいしたこともなくてすぎた。節約に節約を加えた経済法はだんだん成功して負債ふさいもすくなくなり、校長の斡旋あっせんで始めた頼母子講たのもしこうにも毎月五十銭をかけることもできるようになった。午後の二時ごろにはいつも新聞が来た。戦争の始まってから、互いにかわった新聞を一つずつ取って交換して見ようという約束ができた。国民に万朝報に東京日日に時事、それに前の理髪舗とこやから報知を持って来た。
 この多くの新聞を読むことと、日記をつけることと、運動をすることと、節倹をすることと、風を引かぬようにつとむることと、煙草たばこをやめることと、土曜日の帰宅を待つことと、それくらいがこのごろの仕事で、ほかにこれといって変わったこともなかった。しかし煙草と菓子とをやめるは容易ではなかった。気分がよかったり胃がよかったりすると、机のまわりに餅菓子のからの竹皮や、日の出の袋などがころがった。
 写生にはだいぶ熱中した。天気のよい暖かい日には、画板がばんと絵の具とをたずさえてよく野に出かけた。稲木いなぎはんの林、掘切ほっきり枯葦かれあし、それに雪の野を描いたのもあった。ある日学校の付近の紅梅をえがいてみたが、色彩がまずいので、花が桃かなんぞのように見えた、嫁菜よめなよもぎ、なずななどの緑をも写した。
 月の末に、小畑から手紙が届いた。少しく病をえて、この春休みを故郷に送るべく決心した。久しぶりで一度会いたい。こちらから出かけて行くから、日取りを知らせてよこせとのことであった。旅順における第一回の閉塞へいそくの記事が新聞紙上に載せられてある日であった。清三は喜んで返事を出した。金曜日には行くという返事が折りかえして来る。清三は荻生さんにも来遊をうながした。その前夜は月が明るかった。かれはそれに対して、久しぶりで友のことを思った。

       四十五

 小畑は昔にくらべていちじるしく肥えていた。薄いひげなどをやして頭をきれいに分けた。高等師範の制服がよく似合って見える。以前の快活な調子で「こういう生活もおもしろいなア」などと言った。
 荻生さんは清三と小畑と教員たちとが、ボールを取って校庭に立ったのを縁側からおりる低い階段の上に腰かけて見ていた。小畑のたまはよく飛んだ。引きかえて、清三の球には力がなかった。二三度勝負しょうぶがあった。清三のひたいには汗が流れた。心臓の鼓動こどうも高かった。
 苦しそうに呼吸いきをつくのを見て、
「君はどうかしたのか」
 こう言って、小畑は清三の血色の悪い顔を見た。
からだが少し悪いもんだから」
「どうしたんだ?」
「持病の胃腸さ、たいしたことはないんだけれど……」
「大事にしないといかんよ」
 小畑はふたたび友の顔を見た。
 三人は快活に話した。清三が出して見せる写生を一枚ごとに手に取って批評した。荻生さんの軽い駄洒落だじゃれもおりおりは交った。そこに関さんがやって来て、昆虫採集の話や植物採集の話が出る。三峰みつみねで採集したものなどを出して見せる。小畑は学校にあるめずらしい標本や昨年の秋に採集に出かけた時のことなどを話して聞かせる、にぎやかな声がいつもはしんとした宿直室に満ちわたった。
 夕飯ゆうめしは小川屋に行って食った。雨気あまけを帯びた夕日がぱッと障子しょうじを明るく照らして、酒を飲まぬ荻生さんの顔も赤い。小畑は美穂子や雪子のことはなるたけ口にのぼさぬようにした。かれは談笑の間にもいちじるしく清三の活気がなくなったのを見た。
 荻生さんは清三のいない時に、
「あれでも去年はなかなか盛んだったんですからな」
 こう言って、女が学校にやって来たことなどを小畑に話して聞かせた。小畑は少なからず驚かされた。
 夜は小川屋から一組の蒲団ふとんを運んで来た。まだ寒いので、荻生さんは小使部屋に行ってはよく火を火鉢に入れて持って来た。菓子もつき、湯茶もつき、話もつきてようやく寝ようとしたのは十一時過ぎであった。便所に出て行った小畑は帰って来て、「雨が降ってるねえ」と声低く言った。
「雨!」
 と明日あす朝早く帰るはずの荻生さんは困ったような声を立てた。
明日あしたは土曜、明後日あさっては日曜だ。行田には今週は帰らんつもりだから、雨は降ったッてかまいやしない。君も、明日あした一日遊んで行くサ。めったに三人こうしていっしょになることはありゃしない」と清三はこう荻生さんに言ったが、戸外にようやく音を立て始めた点滴てんてきを聞いて、「愉快だなア! こうしたわれわれの会合の背景が雨になったのはじつに愉快だ。今夜はしめやかに昔を語れッて、天が雨を降らしてくれたようなものだ!」
 きょうおおいに起こって来たというふうである。小畑の胸にもかれの胸にも中学校時代のことがむらむらと思い出された。清三は帰りがおそくなるといつもこうして一枚の蒲団ふとんの中にはいって、熊谷の小畑の書斎に泊まるのがつねであった。顔と顔とを合わせて、眠くなってどっちか一方「うんうん」と受け身になるまで話をするのが例であった。
「あのころが思い出されるねえ」
 と小畑は寝ながら言った。
 荻生さんが一番先に鼾声いびきをたてた。「もう、寝ちゃった! 早いなア」と小畑が言った。その小畑もやがて疲れて熟睡じゅくすいしてしまった。清三は眼がさめて、どうしても眠られない。戸外にはサッと降って通る雨の音が聞こえる。いろいろな感があとからあとから胸をついてきて、胸がいっぱいになる。こうしたやさしい友もある世の中に長く生きたいという思いがみなぎりわたったが、それとともに、涙がその蒼白あおじろい頬をほろほろと伝って流れた。中田の女のことも続いて思い出された。長い土手を夕日を帯びてたどって行く自分の姿がまるでほかの人であるかのようにあざやかに見えた。涙が寝衣ねまきそでで拭いても拭いても出た。
 翌朝あくるあさ、小畑は言った。
昨夜ゆうべ、君はあれからまた起きたね」
「どうも眠られなくってしかたがないから、起きて新聞を読んだ」
「何かごそごそ音がするから、目をあいてみると、君はランプのそばで起きている。君の顔が白くはっきりときわだっていたのが今でも見える」こう言って清三の顔を見て、「夜、寝られないかえ?」
「どうも寝られんで困る」
「やはり神経衰弱だねえ」
 土曜日は半日授業があった。荻生さんは朝早く雨をついて帰った。小畑は校長や清三の授業ぶりを参観したり、教員室で関さんの集めた標本を見たり、時間ごとに教員につれられてぞろぞろと教場から出て来る生徒の群れを見たりしていた。女教員は黄いろい声を立てて生徒を叱った。竹藪たけやぶの中には椿つばきが紅く咲いて、そのふちにあるさかりをすぎた梅の花は雨にぬれて泣くように見えた。清三ははかまをはいて、やせはてたからだ蒼白あおじろい顔とを教室のテーブルの前に浮き出すように見せて、高等二年生に地理を教えていた。午後からは、二人はまた宿直室で話した。三時には馬車が喇叭らっぱを鳴らして羽生から来たが、御者ぎょしゃは今朝荻生さんに頼んでやった豚肉の新聞包みを小使部屋にほうり込むようにして置いて行った。包みの中にはねぎと手紙とが添えてあった。手紙には明日みょうにち午後から羽生に来い。待っている! と書いてあった。
 雨は終日しゅうじつやまなかった。こわ田舎いなかの豚肉も二人をあわく酔わせるには十分であった。二人は高等師範のことやら、旧友のことやら、戦争のことやらをあかず語った。
「今年はだめだが、来年は一つぜひ検定けんていを受けてみたいんだが」
 と清三は言った。
 日曜日には馬車に乗って羽生に出かけた。旅順が陥落かんらくしたという評判が盛んであった。まだそんなに早く取れるはずがないという人々もあった。街道を鈴を鳴らして走って行く号外売ごうがいうりもあった。荻生さんは、銀行の二階を借りて二人を迎えた。ご馳走にはいり鳥と鶏肉けいにくしる豚鍋ぶたなべ鹿子餅かのこもち
「今日はなんだか飯のほうが副食物のようだね」と清三は笑った。
 清三のいないところで、小畑は荻生さんに、
「林君、どうかしてますね、からだがどうもほんとうじゃないようですね?」
「僕もじつは心配してるんですがね」
「何か悪い病気じゃないだろうか」
「さア――」
「今のうちにすすめて根本から療治させるほうがいいですぜ。手おくれになってはしかたがないから」
「ほんとうですよ」
「持病の胃が悪いんだなんて言ってるけれど――ほんとうにそうかしらん」
「町の医師いしゃは腸が悪いんだッて言うんですけれど」
「しっかりした医師に見せたほうがいいと思うね」
「ほんとうですよ」
 翌日の朝、銀行の二階で三人はわかれた。小畑は清三に言った。
「ほんとうに身体からだをたいせつにしたまえ」

       四十六

 戦争はだんだん歩を進めて来た。定州ていしゅう騎兵きへい衝突しょうとつ、軍事公債応募者の好況、わが艦隊の浦塩うらじお攻撃、旅順口外こうがいの激戦、臨時議会の開院、第二回閉塞運動、広瀬中佐の壮烈なる戦死、第一軍の出発につれて第二軍の編制、国民は今はまじめに戦争の意味と結果とを自覚し始めた。野はだんだん暖かくなって、菜の花が咲き、すみれが咲き、蒲公英たんぽぽが咲き、桃の花が咲き、桜が咲いた。号外の来るたびに、田舎町の軒には日章旗が立てられ、停車場には万歳が唱えられ、畠の中の藁屋わらやの付近からも、手製の小さい国旗を振って子供の戦争ごっこしているのが見えた。学校では学年末の日課採点にわしく、続いて簡易な試験が始まり、それがすむと、卒業証書授与式じゅよしきが行なわれた。郡長はテーブルの前に立って、卒業生のために祝辞しゅくじを述べたが、その中には軍国多事のことが縷々るるとしてかれた。「皆さんは記念とすべきこの明治三十七年に卒業せられたのであります。日本の歴史の中で一番まじめな時、一番大事な時、こういう時に卒業せられたということは忘れてはなりません。皆さんは第二の日本国民として十分なる覚悟をしなければなりません」平凡なる郡長の言葉にも、時世じせいの言わせる一種の強味と憧憬しょうけいとがあらわれて、く人の心を動かした。
 写生帳にはびんの梅花、水仙、学校の門、大越おおごえの桜などがあった。沈丁花じんちょうげの花はややたくみにできたが、葉の陰影かげにはいつも失敗した。それから緋縅蝶ひおどしちょう紋白蝶もんしろちょうなども採集した。小畑が送ってくれた丘博士訳おかはかせやくの進化論講話が机の上に置かれて、その中ごろにすみれの花が枝折しおりの代わりにはさまれてあった。菓子は好物のうぐいす餅、さい独活うどにみつばにくわい、ものは京菜の新漬け。生徒は草餅や牡丹餅ぼたもちをよく持って来てくれた。
 利根川の土手にはさまざまの花があった。ある日清三は関さんと大越から発戸ほっとまでの間を歩いた。清三は一々花の名を手帳につけた。――みつまた、たびらこ、じごくのかまのふた、ほとけのざ、すずめのえんどう、からすのえんどう、のみのふすま、すみれ、たちつぼすみれ、さんしきすみれ、げんげ、たんぽぽ、いぬがらし、こけりんどう、はこべ、あかじくはこべ、かきどうし、さぎごげ、ふき、なずな、ながばぐさ、しゃくなげ、つばき、こごめざくら、もも、ひぼけ、ひなぎく、へびいちご、おにたびらこ、ははこ、きつねのぼたん、そらまめ。

       四十七

 新たにつくった学校の花壇にもいろいろの草花が集められた。農家の垣には梨の花と八重桜、畠には豌豆えんどう蚕豆そらまめ麦笛むぎぶえを鳴らす音が時々聞こえて、つばめが街道を斜めにるように飛びちがった。あり、蜂、油虫、夜は名の知れぬ虫がしきりにズイズイと鳴き、蛙の声はわくようにした。
 あけび、ぐみ、さぎごけ、きんぽうげ、じゅうにひとえ、たけにぐさ、きじむしろ、なんてんはぎなどを野からとって来て花壇に移した。やがて山吹が散ると、芍薬しゃくやく牡丹ぼたん、つつじなどが咲き始めた。
 この春をかれはまったく花に熱中して暮らした。新緑をとおした日の光が洪水こうずいのように一室にみなぎりわたった。かれはそこで田原秀子にやる手紙を書き、めずらしいいろいろの花を封じ込めてやった。ひで子からも少なくとも一週に一度はかならず返事が来た。歌が書いてあったり、新体詩が書いてあったりした。わが愛するなつかしの教え子とこっちから書いてやると、あっちからは、恋しきなつかしき先生まいると書いてよこした。

       四十八

 このごろ移転問題が親子の間にくり返された。
 学校に自炊していては不自由でもあり不経済でもある。家のつごうからいってもべつに行田に住んでいなければならぬという理由もない。父の商売の得意先もこのごろでは熊谷くまがや妻沼めぬま方面よりむしろ加須かぞ大越おおごえ古河こがに多くなった。離れていて、土曜日に来るのを待つのもつらい。「それにお前も、もう年ごろだから、相応なのがあったら一人嫁をもらって、私にも安心させておくれよ」
 母はこう言って笑った。
 清三は以前のように反対しようともしなかった。昨年からくらべると、心もよほど折れてきた。たえず動揺した「東京へ」もだいぶ薄らいだ。ある時小畑へやる手紙に、「当年のしら滝は知らずしらずの間についに母をまもるの子たらんといたし居り候」と書いたこともある。
「羽生がいいよ……あまり田舎でもしかたがないし、羽生なら知ってる人も二三人はあるからね」
 母がこう言うと、
「そうだ、引っ越すなら、羽生がいい。得意先にもちょうどつごうがいい」
 父も同意する。
 そこには和尚さんもいれば、荻生さんもいる。学校にも一里半ぐらいしかないから、通うのにもそう難儀ではない。清三もこう思った。
 荻生さんにも頼んだ。ある日曜日を父親といっしょに羽生に出かけて行ってみたこともあった。その日は第二軍が遼東りょうとう半島に上陸した公報の来た日で、一週間ほど前の九連城戦捷きゅうれんじょうせんしょうとともに人々の心はまったくそれに奪われてしまった。街道にも町にも国旗がのきごとにたえず続いた。
「万歳、万歳!」
 突然町の横町からこおどりして飛んで出て来るものもあった。どこの家でもその話ばかりで持ち切って、借家しゃくやなどを教えてくれるものもなかった。
 ねぎ、しゅろ、ひるがお、ままこのしりぬぐいなどが咲き、梨、桃、梅の実は小指の頭ぐらいの大きさになる。ところどころに茶摘ちゃつみをする女の赤いたすきと白い手拭いとが見え、裸で茶を製している茶師ちゃしの唄が通りに聞こえた、志多見原したみはらにはいちやくそう、たかとうだいなどの花があった。やがて麦の根元ねもとばみ、菖蒲あやめつぼみは出で、かしの花は散り、にわやなぎの花は咲いた。かいこはすでに三眠さんみんを過ぎた。
 続いてしらん、ぎしぎし、たちあおい、かわほね、のいばら、つきみそう、てっせん、かなめ、せきちくなどが咲き、裏の畑の桐の花は高くかおった。かや、あし、まこも、すげなどの葉も茂って、剖葦よしきりはしきりに鳴く。
 金州きんしゅうの戦い、大連湾たいれんわんの占領――第三軍の編制、旅順の背面はいめん攻撃。
「敵も旅順は頑強がんきょうにやるつもりらしいですな。どうも海軍だけではだめのようですな」などと校長が言った。旅順の陥落かんらくについての日が同僚の間に予想される。あるいは六月の中ごろといい、あるいは七月の初めといい、あるいは八月にはどんなにおくれても取れるだろうと言った。やがて鶏一羽と鶏卵たまご十五個のかけをしようということになる。そして陥落の公報が達した日には、休日であろうがなんであろうが、職員一統学校に集まって大々的祝宴会を開こうと決議した。
 六月にはいると、麦は黄熟こうじゅくして刈り取られ、胡瓜きゅうりくきみじかきに花をもち、水草のあるところにはほたるやみを縫って飛んだ。ほそい、ゆきのした、のびる、どくだみ、かもじぐさ、なわしろいちご、つゆぐさなどが咲いた。雨は降っては晴れ、晴れてはまた降った。ある日、美穂子の兄からめずらしくはがきが届いた。かれは士官学校を志願したが、不合格で、今では一年志願兵になって、麻布あざぶ留守師団るすしだんにいた。「十中八九は戦地におもむく望みあり、幸いに祝せよ」と得意そうに書いてあった。それに限らず、かれは野から畠から町から鋤犁すきくわを捨て算盤そろばんを捨て筆を捨てて国事におもむく人々を見て、心を動かさざるを得なかった。海の外には同胞が汗を流し血を流して国のために戦っている。そこには新しい意味と新しい努力がある。平生へいぜい政見を異にした政治家も志を一にしてこうに奉じ、金を守るにもっぱらなる資本家も喜んで軍事公債に応じ、挙国一致、千載一遇せんざいいちぐうの壮挙は着々として実行されている。新聞紙上には日ごとに壮烈なる最後をとげた士官や、勇敢なる偉勲いくんを奏した一兵士の記事をもって満たされ、それにつづいて各地方の団隊の熱心なる忠君愛国の状態が見るように記されてある。「自分もからだが丈夫ならば――三年前の検査に種などという憐むべき資格でなかったならば、満洲の野に、わが同胞とともに、銃を取り剣をふるって、わずかながらも国家のためにつくすことができたであろうに」などと思うことも一度や二度ではなかった。かれはまた第二軍の写真班の一員として従軍した原杏花はらきょうかの従軍記のこのごろ「日露戦争実記」に出始めたのを喜んで読んだ。恋愛を書き、少女をえがき、空想を生命とした作者が、あるいは砲煙ほうえんのみなぎる野に、あるいは死屍ししの横たわれる塹壕ざんごうに、あるいは機関砲のすさまじく鳴る丘の上に、そのさまざまの感情と情景をじょした筆は、少なくともかれの想像をそこにつれて行くのに十分であった。三年前にイタリヤンストロウの意気な帽子をかぶって、羽生の寺の山門からはいって来たその人――酔って詩を吟じて、はては本堂の木魚もくぎょや鐘をたたいたその人が、第二軍の司令部に従属して、その混乱した戦争の巴渦うずまきの中にはいっているかと思うと、いっそうその記事がはっきりと眼にうつるような気がする。急行軍の砲車、軍司令官の戦場におもむく朝の行進、砲声を前景にした茶褐色ちゃかっしょくのはげた丘、その急忙きゅうぼうの中を、水筒を肩からかけ、ピストルを腰に巻いて、手帳と鉛筆とを手にして飛んで歩いている一文学者の姿をかれはうらやましく思った。
 ある日和尚おしょうさんに、
「原さんからもお便りがありますか」
 と聞くと、
「え、この間金州から絵葉書が来ました」
 と和尚さんは机の上から軍事郵便と赤い判の押してある一枚の絵ハガキを取って示した。それには同じく従軍した知名な画家が死屍ししのそばに菖蒲あやめが紫に咲いているところを描いていた。
「いい記念ですな」
「え、こういう花がたくさん戦場に咲いてるとみえますな」
「戦記にも書いてありましたよ」
 と清三は言った。