その時の
私はすでに大学生であった。始めて先生の
宅へ来た
頃から見るとずっと成人した気でいた。奥さんとも
大分懇意になった
後であった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。
差向いで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。
先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し
経ってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。
先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と
密切の関係をもっている私より
外に敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常に
惜しい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を
利いては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが
謙遜過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている
誰彼を
捉えて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて
云々してみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、
解らなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。
私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」
「あの人は
駄目ですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり
下らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが
解らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」
奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方がむしろ
真面目だった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
奥さんは急に薄赤い顔をした。
奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「本当いうと
合の
子なんですよ」といった。奥さんの父親はたしか
鳥取かどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった
時分の
市ヶ谷で生れた女なので、奥さんは冗談半分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの
新潟県人であった。だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、
艶めかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと
慎んでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう
艶っぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に
描き得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって
見惨なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。
私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、
先刻いった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
ただ一つ私の記憶に残っている事がある。
或る時
花時分に私は先生といっしょに
上野へ行った。そうしてそこで美しい
一対の
男女を見た。彼らは
睦まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を
峙だてている人が沢山あった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
「仲が
好さそうですね」と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の
外に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をした事がありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。
「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、
冷評しましたね。あの
冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が
交っていましょう」
「そんな
風に聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。
解っていますか」
私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。
我々は群集の中にいた。群集はいずれも
嬉しそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」と
私がその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に
上る
楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質を
異にしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」
先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味は
朦朧としてよく
解らなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと
判然いって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに
真実を話している気でいた。ところが実際は、あなたを
焦慮していたのだ。私は悪い事をした」
先生と私とは博物館の裏から
鶯渓の方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の
隙間から広い庭の一部に茂る
熊笹が
幽邃に見えた。
「君は私がなぜ
毎月雑司ヶ谷の墓地に
埋っている友人の墓へ参るのか知っていますか」
先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
「また悪い事をいった。
焦慮せるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで
止めましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
私には先生の話がますます
解らなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。
年の若い
私はややともすると
一図になりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもただ
独りを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり
逆上ちゃいけません」と先生がいった。
「
覚めた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は
肯がってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると
厭になります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた
椿の花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく
眺める癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
その時
生垣の向うで金魚売りらしい声がした。その
外には何の聞こえるものもなかった。大通りから二
丁も深く折れ込んだ
小路は
存外静かであった。
家の中はいつもの通りひっそりしていた。私は次の
間に奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を
呪うより
外に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に
怖くなったんです」
私はもう少し先まで同じ道を
辿って行きたかった。すると
襖の陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の
間へ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には
解らなかった。それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が
欺かれた返報に、残酷な
復讐をするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の
膝の前に
跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を
載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を
斥けたいと思うのです。私は今より一層
淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と
己れとに
充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。
その
後私は奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
奥さんの様子は満足とも不満足とも
極めようがなかった。私はそれほど近く奥さんに接触する機会がなかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生のいる席でなければ私と奥さんとは
滅多に顔を合せなかったから。
私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は
坐って考える
質の人であった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った
石造家屋の
輪廓とは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれどもその思想家の
纏め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。
これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の
峯のようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを
蔽い
被せた。そうしてなぜそれが恐ろしいか私にも
解らなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を
震わせた。
私は先生のこの人生観の基点に、
或る強烈な恋愛事件を仮定してみた。(無論先生と奥さんとの間に起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが
手掛りにもなった。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな
厭世に近い覚悟が出ようはずがなかった。「かつてはその人の前に
跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を
載せさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の
誰彼について用いられるべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
雑司ヶ谷にある
誰だか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のできない私は、先生の頭の中にある
生命の断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある
生命の扉を開ける
鍵にはならなかった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。
そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。その
頃は日の
詰って行くせわしない秋に、誰も注意を
惹かれる
肌寒の季節であった。先生の
附近で盗難に
罹ったものが三、四日続いて出た。盗難はいずれも宵の口であった。大したものを持って行かれた
家はほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。奥さんは気味をわるくした。そこへ先生がある晩家を
空けなければならない事情ができてきた。先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は
外の二、三名と共に、ある所でその友人に
飯を食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。私はすぐ引き受けた。
私の行ったのはまだ
灯の
点くか点かない暮れ方であったが、
几帳面な先生はもう
宅にいなかった。「時間に
後れると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。
書斎には
洋机と
椅子の
外に、沢山の書物が美しい
背皮を並べて、
硝子越に
電燈の光で照らされていた。奥さんは火鉢の前に敷いた
座蒲団の上へ私を
坐らせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」と断って出て行った。私はちょうど主人の帰りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。私は
畏まったまま
烟草を飲んでいた。奥さんが茶の間で何か
下女に話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った
角にあるので、
棟の位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを
領していた。ひとしきりで奥さんの話し声が
已むと、
後はしんとした。私は泥棒を待ち受けるような心持で、
凝としながら気をどこかに配った。
三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私に向けた。そうして客に来た人のように
鹿爪らしく控えている私をおかしそうに見た。
「それじゃ窮屈でしょう」
「いえ、窮屈じゃありません」
「でも退屈でしょう」
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」
奥さんは手に
紅茶茶碗を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから番をするには
好くありませんね」と私がいった。
「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て
頂戴。ご
退屈だろうと思って、お茶を入れて持って来たんですが、茶の間で
宜しければあちらで上げますから」
私は奥さんの
後に
尾いて書斎を出た。茶の間には
綺麗な
長火鉢に
鉄瓶が鳴っていた。私はそこで茶と菓子のご
馳走になった。奥さんは
寝られないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へお
出掛けになるんですか」
「いいえ
滅多に出た事はありません。
近頃は段々人の顔を見るのが
嫌いになるようです」
こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという
風も見えなかったので、私はつい大胆になった。
「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」
「いいえ私も嫌われている一人なんです」
「そりゃ
嘘です」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
「なぜ」
「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
「あなたは学問をする
方だけあって、なかなかお
上手ね。
空っぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと
同なじ理屈で」
「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。
空の
盃でよくああ飽きずに
献酬ができると思いますわ」
奥さんの言葉は少し
手痛かった。しかしその言葉の
耳障からいうと、決して猛烈なものではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを
見出すほどに奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
私はまだその
後にいうべき事をもっていた。けれども奥さんから
徒らに議論を仕掛ける男のように取られては困ると思って遠慮した。奥さんは飲み干した
紅茶茶碗の底を
覗いて黙っている私を
外らさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の
数を聞いた。奥さんの態度は私に
媚びるというほどではなかったけれども、
先刻の強い言葉を
力めて打ち消そうとする
愛嬌に
充ちていた。
私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。
「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、
叱り付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再びいった。
二人はそれを
緒口にまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした。
「奥さん、
先刻の続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんには
空な理屈と聞こえるかも知れませんが、私はそんな
上の
空でいってる事じゃないんだから」
「じゃおっしゃい」
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより
外に仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は
真面目ですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」
「何もそんな事を開き直って聞かなくっても
好いじゃありませんか」
「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
「まあそうよ」
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、
己惚になるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
「その信念が先生の心に
好く映るはずだと私は思いますが」
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより
近頃では人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の
一人として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
奥さんの嫌われているという意味がやっと私に
呑み込めた。
私は奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の
刺戟を与えた。それで奥さんはその
頃流行り始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。
私は女というものに深い
交際をした経験のない
迂闊な青年であった。男としての私は、異性に対する本能から、
憧憬の目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の雲を
眺めるような心持で、ただ
漠然と夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に臨んでかえって変な
反撥力を感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。普通
男女の間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さんの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその
間始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる
源因がちゃんと
解るべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に
辛いんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで
何遍あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」
私は黙っていた。奥さんも言葉を
途切らした。
下女部屋にいる下女はことりとも音をさせなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいった。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
奥さんは火鉢の灰を
掻き
馴らした。それから
水注の水を
鉄瓶に
注した。鉄瓶は
忽ち鳴りを沈めた。
「私はとうとう
辛防し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
奥さんは眼の
中に涙をいっぱい
溜めた。
始め
私は理解のある
女性として奥さんに対していた。私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の
心臓を動かし始めた。自分と夫の間には何の
蟠まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を
開けて
見極めようとすると、やはり
何にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。
奥さんは最初世の中を見る先生の眼が
厭世的だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、かえってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで
厭になったのだろうと推測していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度はどこまでも
良人らしかった。親切で優しかった。疑いの
塊りをその日その日の
情合で包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう
人世観とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって
頂戴」
私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。
「私には
解りません」
奥さんは予期の
外れた時に見る
憐れな表情をその
咄嗟に現わした。私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生は
嘘を
吐かない
方でしょう」
奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
「先生がああいう
風になった
源因についてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」
「どんな事ですか」
奥さんはいい渋って
膝の上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうと
叱られるから。叱られないところだけよ」
私は緊張して
唾液を
呑み込んだ。
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の
好いお友達が一人あったのよ。その
方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
奥さんは私の耳に
私語くような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから
後なんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、
雑司ヶ谷にあるのは」
「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくって
堪らないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」
私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。
私は私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私によって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと事の
大根を
攫んでいなかった。奥さんの不安も実はそこに
漂う薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも
悉皆は私に話す事ができなかった。したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、
覚束ない私の判断に
縋り付こうとした。
十時
頃になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前に
坐っている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして
格子を開ける先生をほとんど
出合い
頭に迎えた。私は取り残されながら、
後から奥さんに
尾いて行った。
下女だけは
仮寝でもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のうちに
溜った涙の光と、それから黒い
眉毛の根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深く
眺めた。もしそれが
詐りでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは
感傷を
玩ぶためにとくに私を相手に
拵えた、
徒らな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないんで
張合が抜けやしませんか」といった。
帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を
潰させて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥さんはそういいながら、
先刻出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを
袂へ入れて、人通りの少ない
夜寒の
小路を曲折して
賑やかな町の方へ急いだ。
私はその晩の事を記憶のうちから
抽き抜いてここへ
詳しく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を
貰って帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。私はその
翌日午飯を食いに学校から帰ってきて、
昨夜机の上に
載せて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った
鳶色のカステラを出して
頬張った。そうしてそれを食う時に、
必竟この菓子を私にくれた二人の
男女は、幸福な
一対として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の
宅へ
出はいりをするついでに、衣服の
洗い
張りや
仕立て
方などを奥さんに頼んだ。それまで
繻絆というものを着た事のない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって
退屈凌ぎになって、
結句身体の薬だぐらいの事をいっていた。
「こりゃ
手織りね。こんな
地の
好い着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い
悪いのよそりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お
蔭で針を二本折りましたわ」
こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に
面倒くさいという顔をしなかった。