冬が来た時、わたくしは偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
 父はかねてから腎臓じんぞうを病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこのやまいは慢性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現に父は養生のおかげ一つで、今日こんにちまでどうかこうかしのいで来たように客が来ると吹聴ふいちょうしていた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしているはずみに突然眩暈めまいがして引ッ繰り返った。家内かないのものは軽症の脳溢血のういっけつと思い違えて、すぐその手当をした。あとで医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
 冬休みが来るにはまだ少しがあった。私は学期の終りまで待っていても差支さしつかえあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさをめた私は、とうとう帰る決心をした。国から旅費を送らせる手数てかずと時間を省くため、私は暇乞いとまごいかたがた先生の所へ行って、るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
 先生は少し風邪かぜの気味で、座敷へ出るのが臆劫おっくうだといって、私をその書斎に通した。書斎の硝子戸ガラスどから冬にってまれに見るような懐かしいやわらかな日光が机掛つくえかけの上にしていた。先生はこの日あたりのへやの中へ大きな火鉢を置いて、五徳ごとくの上に懸けた金盥かなだらいから立ちあが湯気ゆげで、呼吸いきの苦しくなるのを防いでいた。
「大病はいが、ちょっとした風邪かぜなどはかえっていやなものですね」といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。
 先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平まっぴらです。先生だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよくわかります」
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病にかかりたいと思ってる」
 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」
 先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥ちゃだんすか何かの抽出ひきだしから出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧ていねいに重ねて、「そりゃご心配ですね」といった。
何遍なんべんも卒倒したんですか」と先生が聞いた。
「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
 先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。
「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。
「そうさね。私が代られれば代ってあげてもいが。――嘔気はきけはあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、大方おおかたないんでしょう」
「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。
 私はその晩の汽車で東京を立った。


 父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、とこの上に胡坐あぐらをかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこうじっとしている。なにもう起きてもいのさ」といった。しかしその翌日よくじつからは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は不承無性ふしょうぶしょう太織ふとおりの蒲団ふとんを畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」といった。わたくしには父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。
 私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母ちちははの顔を見る自由のかない男であった。妹は他国へとついだ。これも急場の間に合うように、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹きょうだい三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業をほうり出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山ぎょうさんな手紙を書くものだからいけない」
 父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていたとこを上げさせて、いつものような元気を示した。
「あんまり軽はずみをしてまた逆回ぶりかえすといけませんよ」
 私のこの注意を父は愉快そうにしかしきわめて軽く受けた。
「なに大丈夫、これでいつものように要心ようじんさえしていれば」
 実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈めまいも感じなかった。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを気に留めなかった。
 私は先生に手紙を書いて恩借おんしゃくの礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈も嘔気はきけも皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪ふうじゃについても一言いちごんの見舞をけ加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
 私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生のうわさなどをしながら、はるかに先生の書斎を想像した。
「こんど東京へ行くときには椎茸しいたけでも持って行ってお上げ」
「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
うまくはないが、別にきらいな人もないだろう」
 私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
 先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。
 第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しかもらっていない。その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私あてで書いた大変長いものである。
 父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外そとへは出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣きづかって、私が引き添うようにそばに付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。


 わたくしは退屈な父の相手としてよく将碁盤しょうぎばんに向かった。二人とも無精な性質たちなので、炬燵こたつにあたったまま、盤をやぐらの上へせて、こまを動かすたびに、わざわざ手を掛蒲団かけぶとんの下から出すような事をした。時々持駒もちごまくして、次の勝負の来るまで双方とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から見付みつけ出して、火箸ひばしはさみ上げるという滑稽こっけいもあった。
だと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤はいね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
 父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、この隠居いんきょじみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日がつにれて、若い私の気力はそのくらいな刺戟しげきで満足できなくなった。私はきん香車きょうしゃを握ったこぶしを頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
 私は東京の事を考えた。そうしてみなぎる心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動こどうを聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。
 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど大人おとなしい男であった。ひとに認められるという点からいえばどっちもれいであった。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊興のために往来ゆききをしたおぼえのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりにひややか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなかに先生の力がい込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。
 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐ちんぷになって来た。これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや歓待もてなされるのに、その峠を定規通ていきどおり通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にもわからない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者じゅしゃの家へ切支丹キリシタンにおいを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼にまった。私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
 父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠くから相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められなかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。
 私は自分のめた出立しゅったつの日を動かさなかった。


 東京へ帰ってみると、松飾まつかざりはいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
 わたくし早速さっそく先生のうちへ金を返しに行った。例の椎茸しいたけもついでに持って行った。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。鄭寧ていねいに礼を述べた奥さんは、次のへ立つ時、その折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の御菓子おかし」と聞いた。奥さんは懇意になると、こんなところにきわめて淡泊たんぱく小供こどもらしい心を見せた。
 二人とも父の病気について、色々掛念けねんの問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった。
「なるほど容体ようだいを聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」
 先生は腎臓じんぞうやまいについて私の知らない事を多く知っていた。
「自分で病気にかかっていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある士官しかんは、とうとうそれでやられたが、全くうそのような死に方をしたんですよ。何しろそばに寝ていた細君さいくんが看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいといって、細君を起したぎり、あくる朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから」
 今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。
「私のおやじもそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」
「医者は何というのです」
「医者は到底とても治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
「それじゃいでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
 私はやや安心した。私の変化をじっと見ていた先生は、それからこう付け足した。
「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしてももろいものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えておいでですか」
「いくら丈夫の私でも、満更まんざら考えない事もありません」
 先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思うに死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にもわからないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のおかげですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
 その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、あとは何らのこだわりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾度いくたびか手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。


 その年の六月に卒業するはずのわたくしは、ぜひともこの論文を成規通せいきどおり四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸をうたぐった。ほかのものはよほど前から材料をあつめたり、ノートをめたりして、余所目よそめにもいそがしそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうしてたちまち動けなくなった。今まで大きな問題をくうえがいて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた私は、頭をおさえて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思想を系統的にまとめる手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。
 私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生はいでしょうといった。狼狽ろうばいした気味の私は、早速さっそく先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与えてくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかし先生はこの点についてごうも私を指導する任に当ろうとしなかった。
近頃ちかごろはあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好いでしょう」
 先生は一時非常の読書家であったが、そのどういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。私は論文をよそにして、そぞろに口を開いた。
「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」
「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから……」
「それから、まだあるんですか」
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い込んだのです」
 先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の苦味くみを帯びていなかっただけに、私にはそれほどの手応てごたえもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。
 それからの私はほとんど論文にたたられた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。私は一年ぜんに卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。そのうちの一人いちにん締切しめきりの日に車で事務所へけつけてようやく間に合わせたといった。他の一人は五時を十五分ほどおくらして持って行ったため、あやうね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったといった。私は不安を感ずると共に度胸をえた。毎日机の前で精根のつづく限り働いた。でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻みまわした。私の眼は好事家こうずか骨董こっとうでも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
 梅が咲くにつけて寒い風は段々むきを南へえて行った。それが一仕切ひとしきりつと、桜のうわさがちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文にむちうたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居をまたがなかった。


 わたくしの自由になったのは、八重桜やえざくらの散った枝にいつしか青い葉がかすむように伸び始める初夏の季節であった。私はかごを抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目ひとめに見渡しながら、自由に羽搏はばたきをした。私はすぐ先生のうちへ行った。枳殻からたちの垣が黒ずんだ枝の上に、もえるような芽を吹いていたり、柘榴ざくろの枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るような珍しさを覚えた。
 先生はうれしそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といった。私は「おかげでようやく済みました。もう何にもする事はありません」といった。
 実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに結了けつりょうして、これから先は威張って遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足をもっていた。私は先生の前で、しきりにその内容を喋々ちょうちょうした。先生はいつもの調子で、「なるほど」とか、「そうですか」とかいってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。私は物足りないというよりも、いささか拍子抜けの気味であった。それでもその日私の気力は、因循いんじゅんらしく見える先生の態度に逆襲を試みるほどに生々いきいきしていた。私は青く蘇生よみがえろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。
「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変い心持です」
「どこへ」
 私はどこでも構わなかった。ただ先生をれて郊外へ出たかった。
 一時間ののち、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所をあてもなく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉をぎ取って芝笛しばぶえを鳴らした。ある鹿児島人かごしまじんを友達にもって、その人の真似まねをしつつ自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。
 やがて若葉にざされたように蓊欝こんもりした小高い一構ひとかまえの下に細いみちひらけた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだらだらのぼりになっている入口をながめて、「はいってみようか」といった。私はすぐ「植木屋ですね」と答えた。
 植込うえこみの中をひとうねりして奥へのぼると左側にうちがあった。明け放った障子しょうじの内はがらんとして人の影も見えなかった。ただ軒先のきさきに据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。
「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」
「構わないでしょう」
 二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。躑躅つつじが燃えるように咲き乱れていた。先生はそのうちで樺色かばいろたけの高いのを指して、「これは霧島きりしまでしょう」といった。
 芍薬しゃくやく十坪とつぼあまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった。この芍薬ばたけそばにある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た。私はその余ったはじの方に腰をおろして烟草タバコを吹かした。先生はあおとおるような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよくながめると、一々違っていた。同じかえででも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉苗のいただきに投げかぶせてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。


 わたくしはすぐその帽子を取り上げた。所々ところどころに着いている赤土をつめはじきながら先生を呼んだ。
「先生帽子が落ちました」
「ありがとう」
 身体からだを半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた。
「突然だが、君のうちには財産がよっぽどあるんですか」
「あるというほどありゃしません」
「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
「どのくらいって、山と田地でんぢが少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」
 先生が私のいえの経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。私の方はまだ先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして遊んでいられるかをうたぐった。その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。しかし私はそんな露骨あらわな問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。若葉の色で疲れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」
「私は財産家と見えますか」
 先生は平生からむしろ質素な服装なりをしていた。それに家内かない小人数こにんずであった。したがって住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私の眼にさえ明らかであった。要するに先生の暮しは贅沢ぜいたくといえないまでも、あたじけなく切り詰めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」と私がいった。
「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きなうちでも造るさ」
 この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐あぐらをかいていたが、こういい終ると、竹のつえの先で地面の上へ円のようなものをき始めた。それが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直まっすぐに立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
 先生の言葉は半分ひとごとのようであった。それですぐあといて行き損なった私は、つい黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのである。すると先生がまた問題をよそへ移した。
「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
 私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる為替かわせと共に来る簡単な手紙は、例の通り父の手蹟しゅせきであったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。その上書体も確かであった。この種の病人に見るふるえが少しも筆のはこびを乱していなかった。
「何ともいって来ませんが、もういんでしょう」
ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
「そうですか」
 私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。


「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、もらうものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
 わたくしは先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣ことばづかいをするのが気にさわったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬか分らないものだからね」
 先生の口気こうきは珍しく苦々しかった。
「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
「君の兄弟きょうだいは何人でしたかね」と先生が聞いた。
 先生はその上に私の家族の人数にんずを聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父おじ叔母おばの様子を問いなどした。そうして最後にこういった。
「みんない人ですか」
「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵田舎者いなかものですから」
「田舎者はなぜ悪くないんですか」
 私はこの追窮ついきゅうに苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚しんせきなぞのうちに、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型いかたに入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
 先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。するとうしろの方で犬が急にえ出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。
 縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗のそばに、熊笹くまざさ三坪みつぼほど地を隠すように茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへとおぐらいの小供こどもけて来て犬をしかり付けた。小供は徽章きしょうの着いた黒い帽子をかぶったまま先生の前へまわって礼をした。
「叔父さん、はいって来る時、うちだれもいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、今日こんちはって、断ってはいって来るとかったのに」
 先生は苦笑した。懐中ふところから蟇口がまぐちを出して、五銭の白銅はくどうを小供の手に握らせた。
「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
 小供は怜悧りこうそうな眼にわらいをみなぎらして、首肯うなずいて見せた。
「今斥候長せっこうちょうになってるところなんだよ」
 小供はこう断って、躑躅つつじの間を下の方へ駈け下りて行った。犬も尻尾しっぽを高く巻いて小供の後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。


 先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産云々うんぬん掛念けねんはその時のわたくしには全くなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
 先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私にわからない事はなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
 犬と小供こどもが去ったあと、広い若葉の園は再びもとの静かさに帰った。そうして我々は沈黙にざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にあるは大概かえでであったが、その枝にしたたるように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日えんにちへでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想めいそうから呼息いきを吹き返した人のように立ち上がった。
「もう、そろそろ帰りましょう。大分だいぶ日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」
 先生の背中には、さっき縁台の上に仰向あおむきに寝たあとがいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。やにがこびり着いてやしませんか」
綺麗きれいに落ちました」
「この羽織はつい此間こないだこしらえたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、さいしかられるからね。有難う」
 二人はまただらだらざかの中途にあるうちの前へ来た。はいる時には誰もいる気色けしきの見えなかったえんに、おかみさんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお邪魔じゃまをしました」と挨拶あいさつした。お上さんは「いいえおかまい申しも致しませんで」と礼を返したあと先刻さっき小供にやった白銅はくどうの礼を述べた。
 門口かどぐちを出て二、三ちょう来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間はだれでもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で差支さしつかえありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
 先生は笑い出した。あたかも時機じきの過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといったふうに。
かねさ君。金を見ると、どんな君子くんしでもすぐ悪人になるのさ」
 私には先生の返事があまりに平凡過ぎてつまらなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少しおくれがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見たまえ」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
 待ち合わせるために振り向いてまった私の顔を見て、先生はこういった。


 その時のわたくしは腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態度に拘泥こだわる様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行くので、私は少し業腹ごうはらになった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。
「先生」
「何ですか」
「先生はさっき少し昂奮こうふんなさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを滅多めったに見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」
 先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応てごたえのあったようにも思った。またまとはずれたようにも感じた。仕方がないからあとはいわない事にした。すると先生がいきなり道のはじへ寄って行った。そうして綺麗きれいに刈り込んだ生垣いけがきの下で、すそをまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ失敬」
 先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段々にぎやかになった。今までちらほらと見えた広いはたけの斜面や平地ひらちが、全く眼にらないように左右の家並いえなみそろってきた。それでも所々ところどころ宅地の隅などに、豌豆えんどうつるを竹にからませたり、金網かなあみにわとりを囲い飼いにしたりするのが閑静にながめられた。市中から帰る駄馬だばが仕切りなくれ違って行った。こんなものに始終気をられがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ後戻あともどりをした時、私は実際それを忘れていた。
「私は先刻さっきそんなに昂奮したように見えたんですか」
「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際昂奮こうふんするんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
 先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力しゅうじゃくりょくをいまだかつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高いところに、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっとたてを突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。
「私はひとあざむかれたのです。しかも血のつづいた親戚しんせきのものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬやいなや許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供こどもの時から今日きょうまで背負しょわされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ復讐ふくしゅうをしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
 私は慰藉いしゃの言葉さえ口へ出せなかった。