君は漁夫たちとひざをならべて、同じ握り飯を口に運びながら、心だけはまるで異邦人のように隔たってこんなことを思い出す。なんという真剣なそして険しい漁夫の生活だろう。人間というものは、生きるためには、いやでも死のそば近くまで行かなければならないのだ。いわば捨て身になって、こっちから死に近づいて、死の油断を見すまして、のように生の一片をひったくって逃げて来なければならないのだ。死は知らんふりをしてそれを見やっている。人間は奪い取って来た生をたしなみながらけれども、ほどなくその生はまた尽きて行く。そうするとまた死の目の色を見すまして、死のほうにぬすみ足で近寄って行く。ある者は死があまり無頓着むとんじゃくそうに見えるので、つい気を許して少し大胆に高慢にふるまおうとする。と鬼一口だ。もうその人は地の上にはいない。ある者は年とともにいくじがなくなって行って、死の姿がいよいよ恐ろしく目に映り始める。そしてそれに近寄る冒険を躊躇ちゅうちょする。そうすると死はやおら物憂ものうげな腰を上げて、そろそろとその人に近寄って来る。ガラガラへびに見こまれた小鳥のように、その人は逃げも得しないですくんでしまう。次の瞬間にその人はもう地の上にはいない。人の生きて行く姿はそんなふうにも思いなされる。実にはかないともなんとも言いようがない。その中にも漁夫の生活の激しさは格別だ。彼らは死に対してけんかをしかけんばかりの切羽せっぱつまった心持ちで出かけて行く。陸の上ではなんと言っても偽善も弥縫びほうもある程度までは通用する。ある意味では必要であるとさえも考えられる。海の上ではそんな事は薬のしにしたくもない。真裸な実力と天運ばかりがすべての漁夫の頼みどころだ。その生活はほんとに悲壮だ。彼らがそれを意識せず、生きるという事はすべてこうしたものだとあきらめをつけて、疑いもせず、不平も言わず、自分のために、自分の養わなければならない親や妻や子のために、毎日毎日板子一枚の下は地獄のような境界に身をげ出して、と骨身を惜しまず働く姿はほんとうに悲壮だ。そしてみじめだ。なんだって人間というものはこんな苦労をして生きて行かなければならないのだろう。
 世の中には、ことに君が少年時代を過ごした都会という所には、毎日毎日安逸な生を食傷するほどむさぼって一生夢のように送っている人もある。都会とは言うまい。だんだんとさびれて行くこの岩内の小さな町にも、二三百万円の富を祖先から受けいで、小樽おたるには立派な別宅を構えてそこにめかけを住まわせ、自分は東京のある高等な学校をともかくも卒業して、話でもさせればそんなに愚鈍にも見えないくせに、一年じゅうこれと言ってする仕事もなく、退屈をまぎらすための行楽に身を任せて、それでも使い切れない精力の余剰を、富者の贅沢ぜいたくの一つである癇癪かんしゃくに漏らしているのがある。君はその男をよく知っている。小学校時代には教室まで一つだったのだ。それが十年かそこらの年月の間に、二人の生活は恐ろしくかけ隔たってしまったのだ。君はそんな人たちを一度でもうらやましいと思った事はない。その人たちの生活の内容のむなしさを想像する充分の力を君は持っている。そして彼らが彼らの導くような生活をするのは道理があると合点がゆく。金があって才能が平凡だったら勢いああしてわずかに生の倦怠けんたいからのがれるほかはあるまいとひそかに同情さえされぬではない。その人たちが生に飽満して暮らすのはそれでいい。しかし君の周囲にいる人たちがなぜあんな恐ろしい生死の境の中に生きる事を僥倖ぎょうこうしなければならない運命にあるのだろう。なぜ彼らはそんな境遇――死ぬ瞬間まで一分のすきを見せずに身構えていなければならないような境遇にいながら、なぜ生きようとしなければならないのだろう。これは君に不思議ななぞのようなここちを起こさせる。ほんとうに生は死よりも不思議だ。
 その人たちは他人眼よそめにはどうしても不幸な人たちと言わなければならない。しかし君自身の不幸に比べてみると、はるかに幸福だと君は思い入るのだ。彼らにはとにかくそういう生活をする事がそのまま生きる事なのだ。彼らはきれいとあきらめをつけて、そういう生活の中に頭からはまり込んでいる。少しも疑ってはいない。それなのに君は絶えずいらいらして、目前の生活を疑い、それに安住する事ができないでいる。君は喜んで君の両親のために、君の家の苦しい生活のために、君のがんじょうな力強い肉体と精力とを提供している。君の父上のかりそめの風邪かぜがなおって、しばらくぶりでいっしょにりょうに出て、夕方になって家に帰って来てから、一家がむつまじく台のまわりを囲んで、暗い五しょくの電燈の下ではしを取り上げる時、父上が珍しく木彫のような固い顔に微笑をたたえて、
「今夜ははあがうめえぞ」
と言って、飯茶わんをちょっと押しいただくように目八分に持ち上げるのを見る時なぞは、君はなんと言っても心から幸福を感ぜずにはいられない。君は目前の生活を決して悔やんでいるわけではないのだ。それにも係わらず、君は何かにつけてすぐ暗い心になってしまう。
「絵がかきたい」
 君は寝ても起きても祈りのようにこの一つの望みを胸の奥深く大事にかきいだいているのだ。その望みをふり捨ててしまえる事なら世の中は簡単なのだ。
 恋――互いに思い合った恋と言ってもこれほどの執着はあり得まいと君自身の心をあわれみ悲しみながらつくづくと思う事がある。君の厚い胸の奥からは深いため息が漏れる。
 雨の日などに土間にすわりこんで、兄上や妹さんなぞといっしょに、配縄はいなわの繕いをしたりしていると、どうかした拍子にみんなが仕事に夢中になって、むつまじくかわしていた世間話すら途絶えさして、黙りこんで手先ばかりをせわしく働かすような時がある。こういう瞬間に、君は我れにもなく手を休めて、茫然ぼうぜんと夢でも見るように、君の見ておいた山の景色を思い出している事がある。この山とあの山とのへだたりの感じは、さかいの線をこういう曲線で力強くかきさえすれば、きっといいに違いない、そんな事を一心に思い込んでしまう。そしてはさみを持った手の先で、ひとりでに、想像した曲線をひざの上に幾度もかいては消し、かいては消ししている。
 またある時は沖に出て配縄をたぐり上げるだいじなせわしい時に、君は板子の上にすわって、二本ならべて立てられたビールびんの間から縄をたぐり込んで、りあげられた明鯛すけそうがびんにせかれるために、針のえんを離れて胴の間にぴちぴちはねながら落ちて行くのをじっと見やっている。そしてクリムソンレーキを水に薄く溶かしたよりもっと鮮明な光を持ったうろこの色に吸いつけられて、思わずと手の働きをやめてしまう。
 これらの場合と我れに返った瞬間ほど君をみじめにするものはない。居眠りしたのを見つけられでもしたように、君はと恥ずかしそうにあたりを見回して見る。ある時は兄上や妹さんが、暗まって行く夕方の光に、なお気ぜわしく目をなわによせて、とほつれを解いたり、切れ目をつないだりしている。ある時は漁夫たちが、寒さに手を海老えびのように赤くへし曲げながら、息せき切って配縄はいなわをたくし上げている。君は子供のように思わず耳もとまで赤面する。
「なんというのない二重生活だ。おれはいったいおれに与えられた運命の生活に男らしく服従する覚悟でいるんじゃないか。それだのにまだちっぽけな才能に未練を残して、柄にもない野心を捨てかねていると見える。おれはどっちの生活にも真剣にはなれないのだ。おれの絵に対する熱心だけから言うと、絵かきになるためには充分すぎるほどなのだが、それだけの才能があるかどうかという事になると判断のしようが無くなる。もちろんおれに絵のかき方を教えてくれた人もなければ、おれの絵を見てくれる人もない。岩内の町でのたった一人の話し相手のKは、おれの絵を見るたびごとに感心してくれる。そしてどんな苦しみを経ても絵かきになれと勧めてくれる。しかしKは第一おれの友だちだし、第二に絵がおれ以上にわかるとは思われぬ。Kの言葉はいつでもおれを励ましむちうってくれる。しかしおれはいつでもそのあとに、うぬぼれさせられているのではないかという疑いを持たずにはいない。どうすればこの二重生活を突き抜ける事ができるのだろう。生まれから言っても、今までの運命から言っても、おれは漁夫で一生を終えるのが相当しているらしい。Kもあの気むずかしい父のもとで調剤師で一生を送る決心を悲しくもしてしまったらしい。おれから見るとKこそは立派な文学者になれそうな男だけれども、Kは誇張なく自分の運命をあきらめている。悲しくもあきらめている。待てよ、悲しいというのはほんとうはKの事ではない。そう思っているおれ自身の事だ。おれはほんとうに悲しい男だ。親父おやじにも済まない。兄や妹にも済まない。この一生をどんなふうに過ごしたらおれはほんとうにおれらしい生き方ができるのだろう」
 そこに居ならんだ漁夫たちの間に、と男らしいがんじょうなあぐらを組みながら、君は彼らとは全く異邦の人のようなさびしい心持ちになって、こんなことを思いつづける。
 やがて漁夫たちはそこらを片付けてやおら立ち上がると、胴の間に降り積んだ雪を摘まんで、手のひらでこすり合わせて、指に粘りついた飯粒を落とした。そして配縄はいなわの引き上げにかかった。
 西にうすずきだすと日あしはどんどん歩みを早める。おまけに上のほうからたるみなく吹き落として来る風に、海面は妙に弾力を持ったぎ方をして、その上をあられまじりの粉雪がさーっと来ては過ぎ、過ぎては来る。君たちは手袋を脱ぎ去った手をまっかにしながら、氷点以下の水でぬれた配縄をその一端からたぐり上げ始める。三間四間置きぐらいに、目の下二尺もあるようなたらがぴちぴちはねながら引き上げられて来る。
 三十町に余るくらいな配縄をすっかりたくしこんでしまうころには、海の上は少し墨汁ぼくじゅうを加えた牛乳のように暮れ残って、そこらにながめやられる漁船のあるものは、帆を張り上げて港を目ざしていたり、あるものはさびしい掛け声をなお海の上に響かせて、せわしく配縄はいなわを上げているのもある。夕暮れに海上に点々と浮かんだ小船を見渡すのは悲しいものだ。そこには人間の生活がそのはかない末梢まっしょうをさびしくさらしているのだ。
 君たちの船は、海風がぎて陸風に変わらないうちにと帆を立て、を押して陸地を目がける。晴れては曇る雪時雨ゆきしぐれの間に、岩内いわないの後ろにそびえる山々が、高いのから先に、水平線上に現われ出る。船歌をうたいつれながら、漁夫たちは見慣れた山々の頂をつなぎ合わせて、港のありかをそれとおぼろげながら見定める。そこには妻や母や娘らが、寒い浜風に吹きさらされながら、うわさとりどりにみぎわに立って君たちの帰りを待ちわびているのだ。
 これも牛乳のような色の寒い夕靄ゆうもやに包まれた雷電峠の突角がいかつく大きく見えだすと、防波堤の突先とっさきにある灯台のが明滅して船路を照らし始める。毎日の事ではあるけれども、それを見ると、君と言わず人々の胸の中には、きょうもまず命は無事だったという底深い喜びがひとりでにわき出して来て、陸に対する不思議なノスタルジヤが感ぜられる。漁夫たちの船歌は一段と勇ましくなって、君の父上は船のともに漁獲を知らせる旗を揚げる。その旗がばたばたと風にあおられて音を立てる――その音がいい。
 だんだん間近になった岩内の町は、黄色い街灯ののほかには、まだ灯火もともさずに黒くさびしく横たわっている。雪のむら消えた砂浜には、けさと同様に女たちがかしこここにいくつかの固い群れになって、石ころのようにと立っている。白波がかすかな潮の香と音とをたてて、その足もとに行っては消え、行っては消えするのが見え渡る。
 帆がおろされた。船は海岸近くの波に激しく動揺しながら、艫を海岸のほうに向けかえてだんだんとみぎわに近寄って行く。海産物会社の印袢天しるしばんてんを着たり、犬の皮か何かを裏につけた外套がいとうを深々と羽織ったりした男たちが、右往左往に走りまわるそのあたりを目がけて、君の兄上が手慣れた艫綱ともづなを投げると、それがすぐ幾十人もの男女の手で引っぱられる。船はしきりと上下するへさきに波のしぶきを食いながら、どんどん砂浜に近寄って、やがて疲れ切った魚のように黒く横たわって動かなくなる。
 漁夫たちはかじや帆の始末を簡単にしてしまうと、ふなべりを伝わって陸におどり上がる。海産物製造会社の人夫たちは、漁夫たちと入れ替わって、船の中にましらのように飛び込んで行く。そしてまだ死に切らないたらの尾をつかんで、こいしのように砂の上にほうり出す。浜に待ち構えている男たちは、目にもとまらない早わざで数を数えながら、魚をもっこの中にたたき込む。漁夫たちは吉例のように会社の数取かずとり人に対して何かと故障を言いたててわめく。一日としていた浜も、このしばらくの間だけは、さすがににぎやかな気分になる。景気にまき込まれて、女たちのる者まで男といっしょになってけんか腰に物を言いつのる。
 しかしこのはなばなしいにぎわいも長い間ではない。命をなげ出さんばかりの険しい一日の労働の結果は、わずか十数分の間でたわいもなく会社の人たちに処分されてしまうのだ。君が君の妹を女たちの群れの中から見つけ出して、せわしく目を見かわし、言葉をかわす暇もなく、浜の上には乱暴に踏み荒された砂と、海藻かいそうと小魚とが砂まみれになって残っているばかりだ。そして会社の人夫たちはあとをも見ずにまた他の漁船のほうへ走って行く。
 こうして岩内じゅうの漁夫たちが一生懸命に捕獲して来た魚はまたたくうちにさらわれてしまって、墨のように煙突から煙を吐く怪物のような会社の製造所へと運ばれて行く。
 夕焼けもなく日はと暮れて、雪は紫に、は光なくただ赤くばかり見える初夜になる。君たちはけさのとおりに幾かたまりの黒い影になって、疲れ切った五体をめいめいの家路に運んで行く。寒気のために五臓まで締めつけられたような君たちは口をきくのさえ物惰ものうくてできない。女たちがはしゃいだ調子で、その日のうちに陸の上で起こったいろいろな出来事――いろいろな出来事と言っても、きわだって珍しい事やおもしろい事は一つもない――を話し立てるのを、押し黙ったままで聞きながら歩く。しかしそれがなんという快さだろう。
 しかし君の家が近くなるにつれて妙に君の心を脅かし始めるものがある。それは近年引き続いて君の家に起こった種々な不幸がさせるわざだ。長わずらいの後に夫に先立った君の母上に始まって、君の家族の周囲には妙に死というものが執念しゅうねくつきまつわっているように見えた。君の兄上の初生児も取られていた。汗水が凝り固まってできたような銀行の貯金は、その銀行が不景気のあおりを食って破産したために、水のあわになってしまった。命とかけがえの漁場が、間違った防波堤の設計のために、全然役に立たなくなったのは前にも言ったとおりだ。こらえしょうのない人々の寄り集まりなら、身代が朽ち木のようにがっくりと折れ倒れるのはありがちと言わなければならない。ただ君の家では父上といい、兄上といい、根性こんじょうぽねの強い正直な人たちだったので、すべての激しい運命を真正面から受け取って、骨身を惜しまず働いていたから、曲がったなりにも今日今日を事欠かずに過ごしているのだ。しかし君の家を襲ったような運命の圧迫はそこいらじゅうに起こっていた。軒を並べて住みなしていると、どこの家にもそれ相当な生計が立てられているようだけれども、一軒一軒に立ち入ってみると、このごろの岩内の町には鼻をくしなければならないような事がそこいらじゅうにまくしあがっていた。ある家は目に立って零落していた。あらしに吹きちぎられた屋根板が、いつまでもそのままで雨の漏れるに任せた所も少なくない。目鼻立ちのそろった年ごろの娘が、嫁入ったといううわさもなく姿を消してしまう家もあった。立派に家框いえがまちが立ち直ったと思うとその家は代が替わったりしていた。そろそろと地の中に引きこまれて行くような薄気味の悪い零落の兆候が町全体にどことなく漂っているのだ。
 人々は暗々裏にそれに脅かされている。いつどんな事がまくし上がるかもしれない――そういう不安は絶えず君たちの心を重苦しく押しつけた。家から火事を出すとか、家から出さないまでも類焼の災難にあうとか、持ち船が沈んでしまうとか、働き盛りの兄上が死病に取りつかれるとか、にしん群来くきはずれるとか、ワク船が流されるとか、いろいろに想像されるこれらの不幸の一つだけに出くわしても、君の家にとっては、足腰の立たない打撃となるのだ。疲れた五体を家路に運びながら、そしてばかに建物の大きな割合に、それにふさわない暗いでそこと知られる柾葺まさぶきの君の生まれた家屋を目の前に見やりながら、君の心は運命に対する疑いのために妙におくれがちになる。
 それでも敷居しきいをまたぐと土間のすみのかまどには火が暖かい光を放って水飴みずあめのようにやわらかくしないながら燃えている。どこからどこまでまっ黒にすすけながら、だだっ広い囲炉裏のと片付けてあって、居心よさそうにしつらえてある。あによめや妹の心づくしを君はすぐ感じてうれしく思いながら、持って帰った漁具――寒さのために凍り果てて、触れ合えば石のように音を立てる――をそれぞれの所に始末すると、これもからからと音を立てるほど凍り果てた仕事着を一枚一枚脱いで、かまどのあたりに掛けつらねて、ふだん着に着かえる。一日の寒気に凍え切った肉体はすぐ熱を吹き出して、顔などはのぼせ上がるほどぽかぽかして来る。ふだん着の軽い暖かさ、一わんの熱湯の味のよさ。
 小気味のよいほどしたたか夕餉ゆうげを食った漁夫たちが、
「親方さんお休み」
挨拶あいさつしてぞろぞろ出て行ったあとには、水入らずの家族五人が、囲炉裏の火にまっかに顔を照らし合いながらさし向かいになる。戸外ではさらさらと音を立ててあられまじりの雪が降りつづけている。七時というのにもうその界隈かいわいは夜ふけ同様だ。どこの家もとして赤子の泣く声が時おり聞こえるばかりだ。ただ遠くの遊郭のほうから、朝寝のできる人たちが寄り集まっているらしい酔狂のさざめきだけがとぎれとぎれに風に送られて伝わって来る。
「おらはあ寝まるぞ」
 わずかな晩酌ばんしゃくに昼間の疲労を存分に発して、目をにした君の父上が、まず囲炉裏のそばに床をとらして横になる。やがて兄上とあによめとが次の部屋へやに退くと、囲炉裏のそばには、君と君の妹だけが残るのだ。
 時が静かにさびしく、しかしむつまじくじりじりと過ぎて行く。
「寝ずに」
 針の手をやめて、君の妹はおとなしく顔を上げながら君に言う。
「先に寝れ、いいから」
 あぐらのひざの上にスケッチ帳を広げて、と見こう見している君は、振り向きもせずに、にそう答える。
「朝げにまた眠いとってこづき起こされべえに」片頬かたほおみをたたえて妹は君にいたずららしい目を向ける。
「なんの」
「なんのでねえよ、そんだもの見こくってなんのたしになるべえさ。みんなよって笑っとるでねえか、やまさ[#「仝」の「工」に代えて「サ」、屋号を示す記号、75-9]あんさんこと暇さえあれば見ったくもない絵べえかいて、なんするだべって」
 君は思わず顔をあげる。
「だれが言った」
「だれって‥‥みんな言ってるだよ」
「お前もか」
「私は言わねえ」
「そうだべさ。それならそれでいいでねえか。わけのわかんねえやつさなんとでも言わせておけばいいだ。これを見たか」
「見たよ。‥‥荘園しょうえんの裏から見た所だなあそれは。山はわし気に入ったども、雲が黒すぎるでねえか」
「さし出口はおけやい」
 そして君たち二人は顔を見合って溶けるようにみかわす。寒さはしんしんと背骨までとおって、戸外には風の落ちた空を黙って雪が降り積んでいるらしい。
 今度は君が発意する。
「おい寝べえ」
あんさん先に寝なよ」
「お前寝べし‥‥あしたまた一番に起きるだから‥‥戸締まりはおらがするに」
 二人はわざと意趣いしゅに争ってから、妹はとうとう先に寝る事にする。君はなお半時間ほどスケッチに見入っていたが、寒さにこらえ切れなくなってやがて身を起こすと、藁草履わらぞうりを引っかけて土間に降り立ち、かまどの火もとを充分に見届け、漁具の整頓せいとんを一わたり注意し、入り口の戸に錠前をおろし、雪の吹きこまぬよう窓のすきまをと閉じ、そしてまた囲炉裏座に帰って見ると、ちょろちょろと燃えかすれた根粗朶ねそだの火におぼろに照らされて、君の父上と妹とが炉縁ろぶちの二方に寝くるまっているのが物さびしくながめられる。一日一日生命の力から遠ざかって行く老人と、若々しい生命の力に悩まされているとさえ見える妹の寝顔は、明滅する炎の前に幻のような不思議な姿を描き出す。この老人の老い先をどんな運命が待っているのだろう。この処女おとめの行く末をどんな運命が待っているのだろう。未来はすべて暗い。そこではどんな事でも起こりうる。君は二人の寝顔を見つめながらつくづくとそう思った。そう思うにつけて、その人たちの行く末については、素直な心でさちあれかしと祈るほかはなかった。人の力というものがこんな厳粛な瞬間にはいちばんたよりなく思われる。
 君はスケッチ帳をまくらもとに引きよせて、あかじみた床の中にそのままもぐり込みながら、氷のような布団ふとんの冷たさがからだのぬくみで暖まるまで、まじまじと目を見開いて、君の妹の寝顔を、あわれみとも愛ともつかぬ涙ぐましい心持ちでながめつづける。それは君が妹に対して幼少の時から何かのおりに必ずいだくなつかしい感情だった。
 それもやがて疲労の夢が押し包む。
 今岩内の町に目ざめているものは、おそらく朝寝坊のできる富んだなまけ者と、灯台守とうだいもりと犬ぐらいのものだろう。夜は寒くさびしくふけて行く。


 君、君はこんな私の自分勝手な想像を、私が文学者であるという事から許してくれるだろうか。私の想像はあとからあとからと引き続いてわいて来る。それがあたっていようがあたっていまいが、君は私がこうして筆取るそのもくろみに悪意のない事だけは信じてくれるだろう。そして無邪気な微笑をもって、私の唯一の生命である空想が勝手次第に育って行くのを見守っていてくれるだろう。私はそれをたよってさらに書き続けて行く。
 にしんの漁期――それは北方に住む人の胸にのみと感ぜられるなつかしい季節の一つだ。この季節になると長く地の上を領していた冬が老いる。――北風も、雪も、囲炉裏も、綿入れも、雪鞋つまごも、等しく老いる。一片の雲のたたずまいにも、自然のもくろみと予言とを人一倍鋭敏に見て取る漁夫たちの目には、朝夕の空の模様が春めいて来た事をまざまざと思わせる。北西の風が東に回るにつれて、単色に堅く凍りついていた雲が、蒸されるようにもやもやとくずれ出して、淡いながら暖かい色の晴れ雲に変わって行く。朝から風もなく晴れ渡った午後なぞに波打ちぎわに出て見ると、やや緑色を帯びた青空のはるか遠くの地平線高く、幔幕まんまくを真一文字に張ったような雪雲の堆積たいせきに日がさして、まんべんなくばら色に輝いている。なんという美妙な美しい色だ。冬はあすこまで遠のいて行ったのだ。そう思うと、不幸を突き抜けて幸福に出あった人のみが感ずる、あの過去に対する寛大な思い出が、ゆるやかに浜に立つ人の胸に流れこむ。五か月の長い厳冬を牛のように忍耐強く辛抱しぬいた北人の心に、もう少しでひねくれた根性にさえなり兼ねた北人の心に、春の約束がほのぼのと恵み深く響き始める。
 朝晩のみ方はたいして冬と変わりはない。ぬれた金物がべたべたとのりのように指先に粘りつく事は珍しくない。けれども日が高くなると、さすがにどこか寒さにがいる。浜べは急に景気づいて、納屋の中からは大釜おおがま締框しめわくがかつぎ出され、ホック船やワク船をのようにおおうていたむしろが取りのけられ、旅烏たびがらすといっしょに集まって来た漁夫たちが、あやを織るように雪の解けた砂浜を行き違って目まぐるしい活気を見せ始める。
 たらの漁獲がひとまず終わって、にしん先駆はしりもまだ群来くけて来ない。海に出て働く人たちはこの間に少しの息をつく暇を見いだすのだ。冬の間から一心にねらっていたこの暇に、君はある日朝からふいと家を出る。もちろんふところの中には手慣れたスケッチ帳と一本の鉛筆とを潜まして。
 家を出ると往来には漁夫たちや、女(女労働者)や、海産物の仲買いといったような人々がにぎやかに浮き浮きして行ったり来たりしている。根雪が氷のようにいわになって、その上を雪解けの水が、一冬の塵埃じんあいに染まって、泥炭地でいたんちのわき水のような色でどぶどぶと漂っている。馬橇ばそりに材木のように大きな生々しいまき積み載せて、その悪路を引っぱって来た一人の年配な内儀かみさんは、君を認めると、引き綱をゆるめて腰を延ばしながら、戯れた調子で大きな声をかける。
「はれあんさんもう浜さいくだね」
「うんにゃ」
「浜でねえ? たらまた山かい。魚を商売にするふとが暇さえあれば山さ突っぱしるだから怪体けたいだあてばさ。いい人でもいるだんべさ。は、は、は、‥‥。うんすらいてこすに、一押し手を貸すもんだよ」
「口はばったい事べ言うと鰊様にしんさま群来くけてはくんねえぞ。おかしな婆様ばさまよなあお前も」
「婆様だ!? 人聞ふとぎきの悪い事べ言わねえもんだ。人様ふとさまが笑うでねえか」
 実際この内儀さんのはしゃいだ雑言ぞうごんには往来の人たちがおもしろがって笑っている。君は当惑して、そりの後ろに回って三四間ぐんぐん押してやらなければならなかった。
「そだ。そだ。あんさんいい力だ。浜まで押してくれたらおらお前にれこすに」
 君はあきれて橇から離れて逃げるように行く手を急ぐ。おもしろがって二人の問答を聞いていた群集は思わず一度にと笑いくずれる。人々のその高笑いの声にまじって、内儀さんがまただれかに話しかける大声がのびやかに聞こえて来る。
「春が来るのだ」
 君は何につけても好意に満ちた心持ちでこの人たちを思いやる。
 やがて漁師町をつきぬけて、この市街では目ぬきな町筋に出ると、冬じゅうあき屋になっていた西洋風の二階建ての雨戸が繰りあけられて、札幌さっぽろのある大きなデパートメント・ストアの臨時出店が開かれようとしている。藁屑わらくずや新聞紙のはみ出た大きな木箱が幾個か店先にほうり出されて、広告のけばけばしい色旗が、活動小屋の前のように立てならべてある。そして気のきいた手代が十人近くもいそがしそうに働いている。君はこの大きな臨時の店が、岩内じゅうの小売り商人にどれほどの打撃であるかを考えながら、自分たちの漁獲が、資本のないために、ほかの土地から投資された海産物製造会社によって捨て値で買い取られる無念さをも思わないではいられなかった。「大きな手にはつかまれる」‥‥そう思いながら君はその店のかどを曲がって割合にさびれた横町にそれた。
 その横町を一町も行かない所に一軒の薬種店があって、それにつづいて小さな調剤所がしつらえてあった。君はそこのガラス窓から中をのぞいて見る。ずらっとならべた薬種びんの下の調剤卓の前に、もたれのないきの事務椅子じむいすに腰かけて、黒い事務マントを羽織った悒鬱ゆううつそうな小柄な若い男が、一心に小形の書物に読みふけっている。それはKと言って、君が岩内の町に持っているただ一人の心の友だ。君はくすんだガラス板に指先を持って行ってほとほととたたく。Kは機敏に書物から目をあげてこちらを振りかえる。そして驚いたように座を立って来てガラス障子をあける。
「どこに」
 君は黙ったまま懐中からスケッチ帳を取り出して見せる。そして二人は互いに理解するようにほほえみかわす。
「君はきょうは出られまい」
 君は東京の遊学時代を記念するために、だいじにとっておいた書生の言葉を使えるのが、この友だちに会う時の一つの楽しみだった。
「だめだ。このごろは漁夫で岩内の人数が急にふえたせいかせわしい。しかし今はまだ寒いだろう。手が自由に動くまい」
「なに、絵はかけずとも山を見ていればそれでいいだ。久しく出て見ないから」
「僕は今これを読んでいたが(と言ってKはミケランジェロの書簡集を君の目の前にさし出して見せた)すばらしいもんだ。こうしていてはいけないような気がするよ。だけどもとても及びもつかない。いいかげんな芸術家というものになって納まっているより、この薄暗い薬局で、黙りこくって一生を送るほうがやはり僕には似合わしいようだ」
 そう言って君の友は、悒鬱ゆううつな小柄な顔をひときわ悒鬱にした。君は励ます言葉も慰める言葉も知らなかった。そして心とがめするもののようにスケッチ帳をふところに納めてしまった。
「じゃ行って来るよ」
「そうかい。そんなら帰りには寄って話して行きたまえ」
 この言葉を取りかわして、君はその薄よごれたガラス窓から離れる。
 南へ南へと道を取って行くと、節婦橋という小さな木橋があって、そこから先にはもう家並みは続いていない。溝泥どぶどろをこね返したような雪道はだんだんきれいになって行って、地面に近い所が水になってしまった積雪の中に、君の古い兵隊長靴へいたいながぐつはややともするとと踏み込んだ。
 雪におおわれた野は雷電峠のふもとのほうへ爪先上つまさきあがりに広がって、おりから晴れ気味になった雲間を漏れる日の光が、地面の陰ひなたを銀とあいとでといろどっている。寒い空気の中に、雪の照り返しがと顔をほてらせるほど強くさして来る。君の顔は見る見る雪焼けがしてまっかに汗ばんで来た。今までがんじょうにかぶっていた頭巾ずきんをはねのけると、眼界は急にはるばると広がって見える。
 なんという広大なおごそかな景色だ。胆振いぶりの分水嶺から分かれて西南をさす一連の山波が、地平から力強く伸び上がってだんだん高くなりながら、岩内の南方へ走って来ると、そこに図らずも陸の果てがあったので、突然水ぎわに走りよった奔馬が、そろえた前脚まえあしを踏み立てて、思わず平頸ひらくびを高くそびやかしたように、山は急にそそり立って、沸騰せんばかりに天を摩している。今にもすさまじい響きを立ててくずれ落ちそうに見えながら、何百万年か何千万年か、昔のままの姿でそそり立っている。そして今はただ一色の白さに雪でおおわれている。そして雲が空を動くたびごとに、山は居住まいを直したかのように姿を変える。君は久しぶりで近々とその山をながめるともう有頂天になった。そして余の事はきれいに忘れてしまう。
 君はただいちずにに本道から道のない積雪の中に足を踏み入れる。行く手に黒ずんで見えるにれの切り株の所まで腰から下まで雪にまみれてたどり着くと、君はそれに兵隊長靴へいたいながぐつを打ちつけて足の雪を払い落としながらたたずむ。そして目をえてもう一度雪野の果てにそびえ立つ雷電峠を物珍しくながめて魅入られたように茫然ぼうぜんとなってしまう。幾度見てもあきる事のない山のたたずまいが、この前見た時と相違のあるはずはないのに、全くちがった表情をもって君の目に映って来る。この前見に来た時は、それは厳冬の一日のことだった。やはりきょうと同じ所に立って、凍える手に鉛筆を運ぶ事もできず、黙ったまま立って見ていたのだったが、その時の山は地面から静々と盛り上がって、雪雲に閉ざされた空をかとつかんでいるように見えた。その感じは恐ろしく執念深く力強いものだった。君はその前に立って押しられるような威圧を感じた。きょう見る山はもっと素直な大きさと豊かさとをもって静かに君をかきいだくように見えた。ふだん自分の心持ちがだれからも理解されないで、一種の変屈人のように人々から取り扱われていた君には、この自然が君に対して求めて来る親しみはとしたものだった。君はまたさらに目をあげて、なつかしい友に向かうようにしみじみと山の姿をながめやった。
 ちょうど親しい心と心とが出あった時に、互いに感ぜられるようなあたたかい涙ぐましさが、君の雄々しい胸の中にわき上がって来た。自然は生きている。そして人間以上に強く高い感情を持っている。君には同じ人間の語る言葉だが英語はわからない。自然の語る言葉は英語よりもはるかに君にはわかりいい。ある時には君が使っている日本語そのものよりももっと感情の表現の豊かな平明な言葉で自然が君に話しかける。君はこの涙ぐましい心持ちを描いてみようとした。
 そして懐中からいつものスケッチ帳を取り出して切り株の上に置いた。開かれた手帖と山とをに見やりながら、君は丹念に鉛筆を削り上げた。そして粗末な画学紙の上には、たくましく荒くれた君の手に似合わない繊細な線が描かれ始めた。
 ちょうど人の肖像をかこうとする画家が、その人の耳目鼻口をそれぞれ綿密に観察するように、君は山の一つのしわ一つのひだにも君だけが理解すると思える意味を見いだそうと努めた。実際君の目には山のすべての面は、そのまますべての表情だった。日光と雲との明暗キャロスキュロにいろどられた雪の重なりには、熱愛をもって見きわめようと努める人々にのみ説き明かされるたっといなぞが潜めてあった。君は一つのなぞを解き得たと思うごとに、小おどりしたいほどの喜びを感じた。君の周囲には今はもう生活の苦情もなかった。世間に対する不安も不幸もなかった。自分自身に対するおくれがちな疑いもなかった。子供のような快活な無邪気な一本気な心‥‥君のくちびるからは知らず知らず軽い口笛が漏れて、君の手はおどるように調子を取って、紙の上を走ったり、山の大きさや角度を計ったりした。
 そうして幾時間が過ぎたろう。君の前には「時」というものさえなかった。やがて一つのスケッチができあがって、軽い満足のため息とともに、働かし続けていた手をとめて、片手にスケッチ帳を取り上げて目の前にえた時、君は軽い疲労――軽いと言っても、君が船の中で働く時の半日分の労働の結果よりは軽くない――を感じながら、きょうが仕事のよい収穫であれかしと祈った。画学紙の上には、吹き変わる風のために乱れがちな雲の間に、その頂を見せたり隠したりしながら、まっ白にそそり立つ峠の姿と、その手前の広い雪の野のここかしこにむら立つ針葉樹の木立ちや、薄く炊煙を地になびかしてところどころに立つみじめな農家、これらの間を鋭い刃物で断ち割ったような深い峡間はざま、それらが特種な深い感じをもって特種な筆触で描かれている。君はややしばらくそれを見やってほほえましく思う。久しぶりで自分の隠れた力が、哀れな道具立てによってではあるが、とにかく形を取って生まれ出たと思うとうれしいのだ。
 しかしながら狐疑こぎは待ちかまえていたように、君が満足の心を充分味わう暇もなく、足もとから押し寄せて来て君を不安にする。君は自分にへつらうものに対して警戒の眼を向ける人のように、自分の満足の心持ちをきびしく調べてかかろうとする。そして今かき上げた絵を容赦なく山の姿とくらべ始める。
 自分が満足だと思ったところはどこにあるのだろう。それはいわば自然の影絵に過ぎないではないか。向こうに見える山はそのまま寛大と希望とを象徴するような一つの生きた塊的マッスであるのに、君のスケッチ帳に縮め込まれた同じものの姿は、なんの表情も持たない線と面との集まりとより君の目には見えない。
 この悲しい事実を発見すると君は躍起となって次のページをまくる。そして自分の心持ちをひときわ謙遜けんそんな、そして執着の強いものにし、粘り強い根気でどうかして山をそのまま君の画帖がじょうの中に生かし込もうとする、新たな努力が始まると、君はまたすべての事を忘れ果てて一心不乱に仕事の中に魂を打ち込んで行く。そして君が昼弁当を食う事も忘れて、四枚も五枚ものスケッチを作った時には、もうだいぶ日は傾いている。
 しかしとてもそこを立ち去る事はできないほど、自然は絶えず美しくよみがえって行く。朝の山には朝の命が、昼の山には昼の命があった。夕方の山にはまたしめやかな夕方の山の命がある。山の姿は、その線と陰日向かげひなたとばかりでなく、色彩にかけても、日が西に回るとすばらしい魔術のような不思議を現わした。峠のある部分は鋼鉄のように寒くかたく、また他の部分は気化した色素のように透明で消えうせそうだ。夕方に近づくにつれて、やや煙り始めた空気の中に、声も立てずに粛然とそびえているその姿には、くんでもくんでも尽きない平明な神秘が宿っている。見ると山の八合目と覚しい空高く、小さな黒い点が静かに動いて輪を描いている。それは一羽の大鷲おおわしに違いない。目を定めてよく見ると、長く伸ばした両の翼を微塵みじんも動かさずに、からだ全体をやや斜めにして、大きな水のうずに乗った枯れ葉のように、その鷲は静かに伸びやかに輪を造っている。山が物言わんばかりに生きてると見える君の目には、この生物はかえって死物のように思いなされる。ましてや平原のところどころに散在する百姓家などは、山が人に与える生命の感じにくらべれば、みじめな幾個かの無機物に過ぎない。
 昼は真冬からは著しく延びてはいるけれども、もう夕暮れの色はどんどん催して来た。それとともに肌身はだみに寒さも加わって来た。落日にいろどられて光を呼吸するように見えた雲も、煙のような白と淡藍うすあいとの陰日向を見せて、雲とともに大空の半分を領していた山も、見る見る寒い色に堅くあせて行った。そしてもやとも言うべき薄いまくが君と自然との間を隔てはじめた。
 君は思わずため息をついた。言い解きがたい暗愁――それは若い人が恋人を思う時に、その恋が幸福であるにもかかわらず、胸の奥に感ぜられるような――が不思議に君を涙ぐましくした。君は鼻をすすりながら、と音を立ててスケッチ帳を閉じて、鉛筆といっしょにそれをふところに納めた。てた手はふところの中のぬくみをなつかしく感じた。弁当は食う気がしないで、切り株の上からそのまま取って腰にぶらさげた。半日立ち尽くした足は、動かそうとすると電気をかけられたようにしびれていた。ようようの事で君は雪の中から爪先つまさきをぬいて一歩一歩本道のほうへ帰って行った。はるか向こうを見ると山から木材や薪炭しんたんを積みおろして来た馬橇ばそりがちらほらと動いていて、馬の首につけられた鈴の音がさえた響きをたててかすかに聞こえて来る。それは漂浪の人がはるかに故郷の空を望んだ時のようななつかしい感じを与える。その消え入るような、さびしい、さえた音がことになつかしい。不思議な誘惑の世界から突然現世に帰った人のように、君の心はまだ夢ごこちで、芸術の世界と現実の世界との淡々しい境界線をたどっているのだ。そして君は歩きつづける。
 いつのまにか君は町に帰って例の調剤所の小さな部屋へやで、友だちのKと向き合っている。Kは君のスケッチ帳を興奮した目つきでかしこここ見返している。

「寒かったろう」
とKが言う。君はまだほんとうに自分に帰り切らないような顔つきで、
「うむ。‥‥寒くはなかった。‥‥その線の鈍っているのは寒かったからではないんだ」
と答える。
「鈍っていはしない。君がすっかり何もかも忘れてしまって、駆けまわるように鉛筆をつかった様子がよく見えるよ。きょうのはみんな非常に僕の気に入ったよ。君も少しは満足したろう」
「実際の山の形にくらべて見たまえ。‥‥僕は親父おやじにも兄貴にもすまない」
と君は急いで言いわけをする。
「なんで?」
 Kはけげんそうにスケッチ帳から目を上げて君の顔をしげしげと見守る。
 君の心の中にはにが灰汁あくじるのようなものがわき出て来るのだ。漁にこそ出ないが、ほんとうを言うと、漁夫の家には一日として安閑としていい日とてはないのだ。きょうも、君が一日を絵に暮らしていた間に、君の家では家じゅうでいそがしく働いていたのに違いないのだ。建網たてあみに損じの有る無し、網をおろす場所の海底の模様、大釜おおがまえるべき位置、桟橋さんばしの改造、薪炭しんたんの買い入れ、米塩の運搬、仲買い人との契約、肥料会社との交渉‥‥そのほか鰊漁にしんりょうの始まる前に漁場の持ち主がしておかなければならない事は有り余るほどあるのだ。
 君は自分が絵に親しむ事を道楽だとは思っていない。いないどころか、君にとってはそれは、生活よりもさらに厳粛な仕事であるのだ。しかし自然と抱き合い、自然を絵の上に生かすという事は、君の住む所では君一人だけが知っている喜びであり悲しみであるのだ。ほかの人たちは――君の父上でも、兄妹きょうだいでも、隣近所の人でも――ただ不思議な子供じみた戯れとよりそれを見ていないのだ。君の考えどおりをその人たちの頭の中にができるように打ちこむというのは思いも及ばぬ事だ。
 君は理屈ではなんら恥ずべき事がないと思っている。しかし実際では決してそうは行かない。芸術の神聖を信じ、芸術が実生活の上に玉座を占むべきものであるのを疑わない君も、その事がらが君自身に関係して来ると、思わず知らず足もとがぐらついて来るのだ。
「おれが芸術家でありうる自信さえできれば、おれは一刻の躊躇ちゅうちょもなく実生活を踏みにじっても、親しいものを犠牲にしても、歩み出す方向に歩み出すのだが‥‥家の者どもの実生活の真剣さを見ると、おれは自分の天才をそうやすやすと信ずる事ができなくなってしまうんだ。おれのようなものをかいていながら彼らに芸術家顔をする事が恐ろしいばかりでなく、僭越せんえつな事に考えられる。おれはこんな自分が恨めしい、そして恐ろしい。みんなはあれほど心から満足して今日今日を暮らしているのに、おれだけはまるで陰謀でもたくらんでいるように始終暗い心をしていなければならないのだ。どうすればこの苦しさこのさびしさから救われるのだろう」
 平常のこの考えがKと向かい合っても頭から離れないので、君は思わず「親父おやじにも兄貴にもすまない」と言ってしまったのだ。
「どうして?」と言ったKも、君もそのまま黙ってしまった。Kには、物を言われないでも、君の心はよくわかっていたし、君はまた君で、自分はきれいにあきらめながらどこまでも君を芸術の捧誓者ほうせいしゃたらしめたいと熱望する、Kのさびしい、自己を滅した、あたたかい心の働きをしっくりと感じていたからだ。
 君ら二人の目は悒鬱ゆううつな熱に輝きながら、互いにひとみを合わすのをはばかるように、やや燃えかすれたストーブの火をながめ入る。
 そうやって黙っているうちに君はたまらないほどさびしくなって来る。自分をあわれむともKを憐れむとも知れない哀情がこみ上げて、Kの手を取り上げてなでてみたい衝動を幾度も感じながら、女々めめしさを退けるようにむずかゆい手を腕の所で堅く組む。
 ふとすすけた天井からたれ下がった電球が光を放った。驚いて窓から見るともう往来はまっ暗になっている。冬の日のうすずき隠れる早さを今さらに君はしみじみと思った。掃除そうじの行き届かない電球はごみと手あかとでことさら暗かった。それが部屋へやの中をなお悒鬱ゆううつにして見せる。
「飯だぞ」
 Kの父の荒々しいかん走った声が店のほうからいかにもつっけんどんに聞こえて来る。ふだんから自分の一人むすこの悪友でもあるかのごとく思いなして、君が行くとかつてきげんのいい顔を見せた事のないその父らしい声だった。Kはちょっと反抗するような顔つきをしたが、陰性なその表情をますます陰性にしただけで、たてをつく様子もなく、父の心と君の心とをうかがうように声のするほうと君のほうとを等分に見る。
 君は長座をしたのがKの父の気にさわったのだと推すると座を立とうとした。しかしKはそういう心持ちに君をしたのを非常に物足らなく思ったらしく、君にもぜひ夕食をいっしょにしろと勧めてやまなかった。
「じゃ僕は昼の弁当を食わずにここに持ってるからここで食おうよ。遠慮なく済まして来たまえ」
と君は言わなければならなかった。
 Kは夕食を君に勧めながら、ほんとうはそれを両親に打ち出して言う事を非常に苦にしていたらしく、さればとてまずい心持ちで君をかえすのも堪えられないと思いなやんでいたらしかったので、君の言葉を聞くと活路を見いだしたように少し顔を晴れ晴れさせて調剤室を立って行った。それも思えば一家の貧窮がKの心にわたっただった。君はひとりになると、だんだん暗い心になりまさるばかりだった。
 それでも夕飯という声を聞き、戸のすきから漏れる焼きざかなのにおいをかぐと、君は急に空腹を感じだした。そして腰に結び下げた弁当包みを解いてストーブに寄り添いながら、椅子いすに腰かけたままのひざの上でそれを開いた。
 北海道には竹がないので、竹の皮の代わりにで包んだ大きな握り飯はててしまっている。春立はるだった時節とは言いながら一日寒空に、切り株の上にさらされていたので、飯粒は一粒一粒ぼろぼろに固くなって、持った手の中からこぼれ落ちる。試みに口に持って行ってみると米の持つうまみはすっかり奪われていて、無味な繊維ののような触覚だけが冷たく舌に伝わって来る。
 君の目からは突然、君自身にも思いもかけなかった熱い涙がほろほろとあふれ出た。とすわったままではいられないような寂寥せきりょうの念がまっ暗に胸中に広がった。
 君はそっと座を立った。そして弁当を元どおりに包んで腰にさげ、スケッチ帳をふところにねじこむと、こそこそと入り口に行って長靴ながぐつをはいた。靴の皮は夕方の寒さにこおって、鉄板のように堅く冷たかった。
 雪はりんのようなかすかな光を放って、まっ黒に暮れ果てた家々の屋根をおおうていた。さびしいこの横町は人の影も見せなかった。しばらく歩いて例のデパートメント・ストアの出店のかど近くに来ると、一人の男の子がスケート下駄げた(下駄の底にスケートの歯をすげたもの)をはいて、に凍った道の上をと音をさせながら走って来た。その子はスケートに夢中になって、君のそばをすりぬけても君には気がついていないらしい。
「氷の上がすべれだした時はほんとに夢中になるものだ」
 君は自分の遠い過去をのぞき込むようにさびしい心の中にもこう思う。何事を見るにつけても君の心は痛んだ。
 デパートメント・ストアのある本通りに出ると打って変わってにぎやかだった。電灯も急に明るくなったように両側の家を照らして、そこには店の者と購買者との影があやを織った。それは君にとっては、その場合の君にとっては、一つ一つ見知らぬものばかりのようだった。そこいらから起こる人声や荷橇にぞりの雑音などがと君の頭を針のように刺激する。見物の前に引き出された見世物小屋の野獣のようないらだたしさを感じて、君は眉根まゆねの所に電光のように起こる痙攣けいれんを小うるさく思いながら、むずかしい顔をしてとにぎやかな往来を突きぬけて漁師町りょうしまちのほうへ急ぐ。
 しかし君の家が見えだすと君の足はにゆるみがちになって、君の頭は知らず知らず、なお低くうなだれてしまった。そして君は疑わしそうな目を時々上げて、見知り越しの顔にでもあいはしないかと気づかった。しかしこの界隈かいわいはもう静まり返っていた。
「だめだ」
 突然君はこう小さく言って往来のまん中に立ちどまってしまった。そうして立ちすくんだその姿の首から肩、肩から背中に流れる線は、もしそこに見守る人がいたならば、思わずとして異常な憂愁と力とを感ずるに違いない不思議に強い表現を持っていた。
 しばらくくぎづけにされたように立ちすくんでいた君は、やがて自分自身をもぎ取るように決然と肩をそびやかして歩きだす。
 君は自分でもどこをどう歩いたかしらない。やがて君が自分に気がついて君自身を見いだした所は海産物製造会社の裏の険しいがけを登りつめた小山の上の平地だった。
 全く夜になってしまっていた。冬は老いて春は来ない――そのこわれ果てたような荒涼たる地の上高く、寒さをかすかな光にしたような雲のない空が、息もつかずに、凝然として延び広がっていた。いろいろな光度といろいろな光彩でちりばめられた無数の星々の間に、冬の空の誇りなる参宿オライオンが、微妙な傾斜をもって三つならんで、何かの凶徴のようにひときわと光っていた。星は語らない。ただはるかな山すそから、干潮になった無月の潮騒しおざいが、海妖かいようの単調な誘惑の歌のように、なまめかしくなでるように聞こえて来るばかりだ。風が落ちたので、凍りついたように寒く沈み切った空気は、この海のささやきのために鈍く震えている。
 君はその平地の上に立ってあたりを見回していた。君の心の中にはさきほどから恐ろしい企図たくらみが目ざめていたのだ。それはきょうに始まった事ではない。ともすれば君の油断を見すまして、泥沼どろぬまの中からと頭を出す水の精のように、その企図は心の底から現われ出るのだ。君はそれを極端に恐れもし、憎みもし、卑しみもした。男と生まれながら、そんな誘惑を感ずる事さえな事だと思った。しかしいったんその企図が頭をもたげたが最後、君は魅入られた者のように、もがき苦しみながらも、とそれを成就するためには、すべてを犠牲にしても悔いないような心になって行くのだ、その恐ろしい企図たくらみとは自殺する事なのだ。
 君の心は妙にと底冷えがしたようにとげとげしく澄み切って、君の目に映る外界の姿は突然全く表情を失ってしまって、固い、冷たい、無慈悲な物の積み重なりに過ぎなかった。無際限なただ一つの荒廃――その中に君だけが呼吸を続けている、それがたまらぬほどさびしく恐ろしい事に思いなされる荒廃が君の上下四方に広がっている。波の音も星のまたたきも、夢の中の出来事のように、君の知覚の遠い遠い末梢まっしょうに、感ぜられるともなく感ぜられるばかりだった。すべての現象がてんでんばらばらに互いの連絡なく散らばってしまった。その中で君の心だけが張りつめて死のほうへとじりじり深まって行こうとした。重錘おもりをかけて深い井戸に投げ込まれた灯明のように、深みに行くほど、君の心は光を増しながら、感じを強めながら、最後には死というその冷たい水の表面に消えてしまおうとしているのだ。
 君の頭がしびれて行くのか、世界がしびれて行くのか、ほんとうにわからなかった。恐ろしい境界に臨んでいるのだと幾度も自分をいましめながら、君は平気な気持ちでもないのんきな事を考えたりしていた。そして君は夜のふけて行くのも、寒さの募るのも忘れてしまって、そろそろと山鼻のほうへ歩いて行った。
 足の下遠く黒い岩浜が見えて波の遠音が響いて来る。
 ただ一飛びだ。それで煩悶はんもんも疑惑もきれいさっぱり帳消しになるのだ。
うちの者たちはほんとうに気が違ってしまったとでも思うだろう。‥‥頭が先にくだけるかしらん。足が先に折れるかしらん」
 君はまたたきもせずにがけの下をのぞきこみながら、他人の事でも考えるように、そう心の中でつぶやく。
 不思議なしびれはどんどん深まって行く。波の音なども少しずつになって、耳にはいったりはいらなかったりする。君の心はただいちずに、眠り足りない人が思わずまぶたをふさぐように、がけの底を目がけてまろび落ちようとする。あぶない‥‥あぶない‥‥他人の事のように思いながら、君の心は君の肉体をがけのきわからまっさかさまに突き落とそうとする。
 突然君ははね返されたように正気に帰って後ろに飛びすざった。耳をつんざくような鋭い音響が君の神経をわななかしたからだ。
 と驚いて今さらのように大きく目を見張った君の前には平地から突然下方に折れ曲がった崖のへりが、地球の傷口のように底深い口をあけている。そこに知らず知らず近づいて行きつつあった自分を省みて、君は本能的に身の毛をよだてながら正気になった。
 鋭い音響は目の下の海産物製造会社の汽笛だった。十二時の交代時間になっていたのだ。遠い山のほうからその汽笛の音はかすかに反響こだまになって、二重にも三重にも聞こえて来た。
 もう自然はもとの自然だった。いつのまにか元どおりな崩壊したようなさびしい表情に満たされてはてもなく君の周囲に広がっていた。君はそれを感ずると、ひたと底のない寂寥せきりょうの念に襲われだした。男らしい君の胸をと引きしめるようにして、熱い涙がとめどなく流れ始めた。君はただひとり真夜中の暗やみの中にすすり上げながら、まっ白に積んだ雪の上にうずくまってしまった、立ち続ける力さえ失ってしまって。


 君よ!!
 この上君の内部生活を忖度そんたくしたり揣摩しましたりするのは僕のなしうるところではない。それは不可能であるばかりでなく、君をけがすと同時に僕自身を涜す事だ。君の談話や手紙を総合した僕のこれまでの想像はあやまっていない事を僕に信ぜしめる。しかし僕はこの上の想像を避けよう。ともかく君はかかる内部の葛藤かっとうの激しさに堪えかねて、去年の十月にあのスケッチ帳と真率な手紙とを僕に送ってよこしたのだ。
 君よ。しかし僕は君のために何をなす事ができようぞ。君とお会いした時も、君のような人が――全然都会の臭味から免疫されて、過敏な神経や過量な人為的知見にわずらわされず、強健な意力と、強靱きょうじんな感情と、自然にはぐくまれた叡智えいちとをもって自然を端的に見る事のできる君のような土の子が――芸術の捧誓者ほうせいしゃとなってくれるのをどれほど望んだろう。けれども僕ののどまで出そうになる言葉をしいておさえて、すべてをなげうって芸術家になったらいいだろうとは君に勧めなかった。
 それを君に勧めるものは君自身ばかりだ。君がただひとりで忍ばなければならない煩悶はんもん――それは痛ましい陣痛の苦しみであるとは言え、それは君自身の苦しみ、君自身でいやさなければならぬ苦しみだ。
 地球の北端――そこでは人の生活が、荒くれた自然の威力に圧倒されて、痩地やせじにおとされた雑草の種のように弱々しく頭をもたげてい、人類の活動の中心からは見のがされるほど隔たった地球の北端の一つの地角に、今、一つのすぐれた魂は悩んでいるのだ。もし僕がこの小さな記録を公にしなかったならばだれもこのすぐれた魂の悩みを知るものはないだろう。それを思うとすべての現象は恐ろしい神秘に包まれて見える。いかなる結果をもたらすかもしれない恐ろしい原因は地球のどのすみっこにも隠されているのだ。人はおそれないではいられない。
 君が一人の漁夫として一生をすごすのがいいのか、一人の芸術家として終身働くのがいいのか、僕は知らない。それを軽々しく言うのはあまりに恐ろしい事だ。それは神から直接君に示されなければならない。僕はその時が君の上に一刻も早く来るのを祈るばかりだ。
 そして僕は、同時に、この地球の上のそこここに君と同じい疑いと悩みとを持って苦しんでいる人々の上に最上の道が開けよかしと祈るものだ。このせつなる祈りの心は君の身の上を知るようになってから僕の心の中にことに激しく強まった。
 ほんとうに地球は生きている。生きて呼吸している。この地球の生まんとする悩み、この地球の胸の中に隠れて生まれ出ようとするものの悩み――それを僕はしみじみと君によって感ずる事ができる。それはわきいでおどり上がる強い力の感じをもって僕を涙ぐませる。
 君よ! 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿つばきが咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り広げて吸い込んでいる。春が来るのだ。
 君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし‥‥僕はただそう心から祈る。
(一九一八年四月、大阪毎日新聞に一部所載)