一〇 お使い


 大晦日に近いある日のことだった。
「でも、使に行く者がありませんわ。直吉も今日は町に買物に出ていますし。」と、お民はいかにも忙しそうに、立ったままで言った。
「お糸婆さんがいるだろう。」と、俊亮は長火鉢に頬杖をついて、お民を見上げた。
「こんな時に婆さんの手をぬかれたんでは、やり切れませんわ。どうせ正木へは、二三日中に、歳暮せいぼのものを届けることにしていますから、その折、一緒でもよかありませんか。」
 正木というのはお民の実家の姓である。
「だが、これは別だよ。先方からもなるだけ早く届けてもらいたいって、言って来ているんだから。」
「そう早く腐るものではないでしょう。」
「腐りはせんさ、鮭の燻製くんせいだもの。しかし、正木の方でも正月の御馳走の心組があるだろうし、それに、先方へ礼状を出してもらう都合もあるんだから、一日も早い方がいいよ。」
「貴方は妙なところに性急せっかちね、ふだんは、のんきな癖に。」
「お前はそのあべこべかな。」
「まあ! すぐそれですもの。」
「とにかく、誰か使いに行って貰いたいと思うね。」
「誰もいませんのよ、今日は。」
 お民は突っけんどんにそう言って部屋を出ようとした。俊亮は、しかし、相変らず悠然と構えて、
「恭一では駄目だろうか。もうこの位の使いは、やらしてみるのもいいんだが。」
「でも、あれは気が弱くて、まだ正木へ一人でなんか行ったことありませんわ。それに、どうせお祖母さんのお許しが出ませんよ。」
「困るなあ、いつまでもそんなに甘やかしていたんじゃ。……いっそ次郎なら行けるかも知れんね。」
「まさか、なんぼあの子が意地っ張りでも。」
「いいや、あいつなら行けるかも知れんぞ。……そうだ、あれをやろう。しかし、道を知るまいな。」
「道なら、この夏からもう五六度もつれて行きましたから、大ていは解っていると思いますわ。……でも、あんまりじゃありません。恭一と二人でなら、とにかくですけれど。」
「そうだな、二人づれだとお祖母さんにも不服はないだろう。」
「さあ、それはお訊ねしてみませんと……」
「ともかくも、二人をここに呼んでみい。駄目なら駄目でいいから。」
 お民はしぶしぶ出て行った。そして間もなく二人をつれて来て、火鉢の前に坐らせた。
「恭一、お前、正木のお祖父さんとこまで、使いに行って来い。」
「…………」
 恭一は、何のことだかせないと言ったような顔をして、父を見た。
「駄目か、一人がいやなら次郎をつれて行ってもいいが……」
「…………」
 恭一はやはり返事をしないで、今度は母の顔を見た。
「二人でもいやかね。正木のお祖父さんが喜ぶんだがな。」
「…………」
 恭一は眼を伏せて、母によりそった。
「やっぱり駄目か。次郎、どうだい、お前は。」
 次郎はそれまでに何度も恭一の顔をのぞいていたが、「行こうや、恭ちゃん。」と少しはしゃぎ加減に言った。
 恭一は、横目でちょっと次郎の顔を見たきり、やはり、返事をしない。
「恭一がいやなら、次郎一人で行け。どうだい。」と、俊亮は少し笑いを含んで、そそのかすように言った。
 さすがに次郎も、それにはすぐ返事が出来なかった。そして、しばらくは、わざとらしく首をひねっていたが、いかにも歎息するように、
「僕、道を間違えるといけないからなあ、橋んとこまでなら知ってるんだけれど。」
「橋んとこまで知っているなら、あれからすぐじゃあないか。」
「すぐかなあ。」と、まだ不安らしい。
「橋を渡ったら、土堤を右に行くんだ。それから一軒家のてまえで土堤を下ると、あとは真直まっすぐだ。」
「ああ、わかった。僕行こうか知らん。」
「行くか。偉い偉い。もし泊りたけりゃ泊って来てもかまわんぞ。」
 次郎は立ち上って帯をしめ直すと、もう出て行きそうにした。俊亮はその様子を面白そうに眺め入って肝腎かんじんの用事をいいつけるのをうっかりしていた。
「次郎、お前、ほんとに大丈夫かい。」とさすがにお民も気づかわしそうだった。
「僕、平気だい。」と次郎は、すっかり得意になって、室を出かかった。
「まあ、次郎、お父さんの御用事も聞かないで行くのかい。……貴方、どうなすったの、御用事は。」
「おっと、そうだ。次郎、ちょっと待て、これを持って行くんだ。手紙が這入っているから、なんにも言わんでいい。風呂敷ごと誰かに渡すんだ。いいか。」
 次郎は包みを渡されると、それを振廻すようにしてさっさと土間に下りた。お民は、やはり気がかりだったと見えて、恭一の手を引きながら、門口まで出て、何かと注意した。しかし次郎はそれにはろくに返事もしなかった。
 正木の家までは、ざっと小一里もあった。
 次郎が家を出たのは、二時をちょっと過ぎたばかりだったが、冬空が曇っていたせいか、すぐにも日が暮れそうで、いやに淋しかった。刈田には、まだところどころに案山子かかしが残っていた。その徳利で作ったのっぺらぼうの白い頭が、風にゆらめいているのも、あまりいい気持ではなかった。狐が出ると聞かされていた団栗どんぐり林から、だしぬけに黒犬が飛び出した時には、思わず足がすくんでしまった。
 途中に部落が二つあったが、見知らぬ子供たちが、遊びをやめて、じろじろと自分を見るので、次郎はいじめられるのではないかと、びくびくした。彼にとっては、たしかに雑嚢事件以来の緊張した時間だった。やっと正木の家のすぐ手前の曲り角まで来ると、彼はほっとして、思い出したように袖口で鼻汁をこすった。そして、彼の足どりが急にゆったりとなった。
 次郎は、正木の家が何とはなしに好きである。今日、たった一人でやって来る気になったのも、一つはそのためだった。
 正木のお祖父さんは、維新までは、さる小大名の槍の指南をしていたそうだが、廃藩後、すぐろう屋をはじめて、今ではこの近在での大旦那である。上品で、鷹揚おうようで、慈悲深いので誰にも好かれている。それに、お祖母さんが信心深くて、一度も人に嫌な顔を見せたことがないというので有名である。次郎は、いつとはなしに、この二人を、自分の家の人たちとはまるでべつの世界の人間のように思いこんでいるのである。
 なお、この家には、伯母夫婦――伯母はお民の姉で、それに婿むこ養子がしてあった――に、子供六人、それに十人内外の雇人が、いつもいた。人数が多いせいか、非常に賑やかで、食事時など、幾分混雑もしたが、かえってその中に、のんびりした自由な気分が漂っていた。子供たちにも、一体に野性を帯びた朗らかさがあって、次郎はこの家に来ると、彼らを相手に、のびのびとした遊びが出来るのであった。
(みんなで泊っていけって言うか知らん。)
 そんなことを考えながら、彼は正木の門口を這入った。
 土間は餅搗もちつきで大賑わいだった。彼は男たちや女たちの間をくぐりぬけて、やっと上りがまちまで行ったが、餅搗でみんな興奮していたせいか、誰も彼が来たことに気がつかなかった。従兄弟いとこたちは、お祖母さんと一緒に、板の間でやんやんとはしゃぎながら、小餅を丸めている。お祖父さんと伯母さん夫婦は、奥にでもいるのか、姿が見えない。
 次郎は鮭包みを下げたまま、しばらく混雑の中にしょんぼりと立っていた。しかし、いつまで待っても、誰も言葉をかけてくれそうにない。
 心に描いて来たものが、すっかりけし飛んでしまった。彼はたまらなくなって、わっと泣き出した。
「おや。」
「まあ。」
 みんなが一せいに仕事をやめて、次郎の方を見た。
「次郎じゃないか。いつ来たんだね。」
 と、お祖母さんが、手についた粉を払いながら、立って来た。同時に、従兄弟たちも振向いて、みんな呆れたような顔をしている。
 次郎は泣きつづけた。
「まさか一人で来たんじゃあるまいね。母さんと一緒かい。」
 次郎はやはり泣くだけである。
「まあどうしたんだね、この子は。……おや、包みなんか下げて……何を持って来たのかい。」
 次郎は泣きながら、包みを差出した。お祖母さんはそれを受取りながら、
「泣かないで言ってごらん。一人で来たのかい……え?」
 次郎はやっとうなずいたが、泣声は前より一層高くなった。お祖母さんは包みを解きながら、
「ほんとに、どうしたというんだろうね。……おや、手紙がはいってるね。まあ、お前を一人でお使いによこしたのかい。かわいそうに。」
 そこで次郎の泣き声は、また一しきり高くなった。
「もう泣くんじゃありません。さあお上り。今日は餅搗だから、面白いことがあるよ。でも一人でよく来られたね。道を間違えはしなかったかい。」
 次郎は泣きじゃくりながら、お祖母さんに手を引かれて、やっと板の間に上った。
 お祖母さんは、それから、大急ぎで、次郎のため黄粉餅きなこもちを作った。そして、いつになく不機嫌な顔をして、土間の男衆に言った。
「誰かすぐに本田の家に行って、次郎は無事に着いたから安心なさいって、そう言って来ておくれ。今夜はこちらに泊めて置くからってね。……ほんとにこんな子供を一人でよこして置いて、着いたか着かないかも気にかけないなんて、まるで親とは思えやしない。」
 次郎は、ひどく父が非難されているように思って、少し気がかりだった。しかし、餅搗の賑やかさが、間もなく彼にすべてを忘れさせた。そして、従兄弟たちと一緒に、夢中になって小餅を丸め始めた。

一一 蝋小屋


 その日、次郎はむろん正木の家に泊った。そして翌日は朝から蝋小屋の中で、従兄弟達と角力すもうをとったり、隠れんぼをしたりして遊んだ。
 年末のせいで、蝋めは一そうしか立っていなかったが、はぜの実を蒸す匂いは、いつものように、温かく小屋の中に流れていた。炉の中に惜しげもなく投げこまれた蝋糟ろうかすが、ごうごうと音を立てて、焔をあげているのも景気がよかった。
 次郎はこの家に来ると、妙に甘い空気に包まれる。
 そのせいか、ほんのちょっとした事にも、すぐ泣き出してしまう。従兄弟たちは別に意地悪をするわけでもないが、子供同士のことで、たまには口喧嘩をしたり、ぶっつかったりすることもある。そんな時に、きまって泣き出すのは、次郎の方である。それは、彼の実家でのふだんの様子を知っている者には、実際不思議なくらいだった。
 この日も、彼と同い年の辰男を相手に、炉の前に積んであった蝋糟の中で角力をとっているうちに、つい泣き出してしまった。それを年上の従兄弟たちがなだめて、やっと機嫌を直させたところへ、ひょっくり思いがけない人が這入って来た。お浜であった。
「まあ、坊ちゃん、しばらく。」
 次郎はちょっとの間、ぽかんとしてお浜の顔を見ていたが、きまり悪そうに俯向うつむいて、くるりと背を向けた。
「おや、どうなすったの。」
 お浜は、次郎の前にまわって、中腰になりながら、彼の顔をのぞきこんだ。
「まあ、泣いてたようなお顔ね。」
 そう言って、彼女は次郎を抱きすくめるようにしながら、炉の前の蓆に腰をおろした。従兄弟たちは、しばらく二人の様子を珍しそうに見ていたが、間もなく、ぞろぞろと小屋を出て、何処かへ行ってしまった。
「ねえ、次郎ちゃん、あれからどうしてたの。」
 と、彼女の言葉は、二人きりになると、少しぞんざいになった。
「病気しなくって? 何だか少し痩せたようね。私、次郎ちゃんのこと、一日だって忘れたことないのよ。でも、お母さんのお許しがあるまでは、次郎ちゃんところへは伺わない約束なんですの。それでね、いつもこちらにお伺いしては、次郎ちゃんのことをお聞きしていましたのよ。でも、今日はよかったわね、お逢い出来て。……昨日いらしたってね。」
 次郎は俯向うつむいたまま、かすかにうなずいた。
「でも、お一人でいらしたっていうじゃないの? 随分ひどいわねえ。母さんのお言いつけ?」
「ううん。」
「では、お祖母さん?」
「ううん。」
「では、どなた。」
「父ちゃんだい。」
「お父さん? まあ。お父さんまで、そんなことを次郎ちゃんにお言いつけになるの? はっきり嫌だとおっしゃればいいのに。お父さんだって誰だって、構うもんですか。」
「だって、僕……」
「だってじゃありませんよ。次郎ちゃんは、いつもびくびくしてるから駄目ですわ。」
「だって、恭ちゃんが返事しないんだもの。」
「恭ちゃんにも行けっておっしゃったの?」
「うん、はじめは恭ちゃんに行けって言ったの。でも恭ちゃんが默ってるから、僕来ちゃったんだい。」
「恭ちゃんがいやなら、次郎ちゃんはなおいやでしょう。小っちゃいんですもの。」
「だって僕、父ちゃんが好きだい。」
「そう? お父さんお好き?」
「大好きだい。うちで一等好きだい。」
「そんなにお父さんは次郎ちゃんを可愛いがって?」
「ああ、ちっとも叱らないよ。」
「そりゃいいわね。……でも、昨日は一人で怖かったでしょう。」
 次郎は急に肩をそびやかして、
「ううん、ちっとも怖くなんかないよ。」
「まあお偉い。」
「だって僕、ここに来たいと思ったんだもの。」
「そう? ここのおうち、そんなにお好き?」
「うちなんかより、うんと好きだい、誰も叱らないんだもの。」
「でも、辰男さんと喧嘩なさるんじゃありません?」
「ううん、角力とるんだい。恭ちゃんや俊ちゃんとは喧嘩するんだけど。」
「いつも負けやしません? 恭ちゃんや俊ちゃんに。」
「…………」
「まけるんでしょう?」
「誰も見てないとこだと、僕きっと勝つよ。」
 お浜は暗い顔をして唇を噛んだ。
「僕、乳母やの家に行っちゃいけないの? 乳母やのうち、一等好きなんだがなあ。」
 お浜は次郎の肩にかけていた手をぐっと引きしめて、ぼろぼろと涙をこぼしながら、
「駄目、今は駄目なの。……でも来年は次郎ちゃんも学校でしょう。そしたら、毎日逢えるんですよ。だから、……」
 次郎はその言葉を聞くと、突っ放すようにお浜の手を押しのけて、立ち上った。そして、さぐるような視線を彼女に投げた。彼は、ふと、毎日学校に通っている、恭一のことを思い出したのである。
 お浜は、次郎がなんでそんな真似をするのか解らなかった。で、すこし変に思いながら、手をさし伸べてもう一度彼を引きよせようとした。しかし次郎は、人に慣れない小猫のように、眼だけをお浜に据えて、じりじりとあとじさりした。
「どうなすったの、次郎ちゃん。学校がおいや?」
 お浜はそう言って立ち上ると、無理に次郎をつかまえた。そして再び蓆の上に坐って、彼を自分の膝に腰かけさせた。
「ねえ、次郎ちゃん。」
 と、次郎の耳に口をよせて、
「学校に行かないじゃ、偉くなれませんのよ。なあに、勉強だって何だって、恭ちゃんなんかに負けるもんですか。……恭ちゃんはね、そりゃ学校では泣虫なのよ。あんな泣虫、乳母やは大きらい。次郎ちゃんはきっと泣かないでしょうね。だって、学校では乳母やがついてて上げるんですもの。」
 お浜の膝の上でぐずついた次郎の尻が、それでやっと落ちついた。
 二人は、それからも永いこと炉の前を動かなかった。蒸桶から吹き出す湯気は、濃い蝋のにおいをかしこんで、真赤にほてった二人の顔を、おりおり包んだ。
 二人は身も心もあたたかだった。
 ひる飯には、正木のお祖母さんが気をきかして、お浜を子供たちと一緒のちゃぶ台に坐らせた。お浜はみんなのお給仕をしながら、たえず次郎に気を配って、彼のこぼした御飯粒を拾ってやっては、それを自分の口に入れた。
 お副食かずは干鱈と昆布の煮〆だったが、お浜はそれには箸をつけないで沢庵たくあんばかりかじっていた。そして、次郎の皿が大方空になったころ、そっと自分の皿を、次郎の前に押しやった。
「ううん、それは、乳母やのだい。」
 次郎はそう言って、皿を押し返した。お浜は顔をあからめて、あたりを見まわしたが、誰もそれに気づいた様子がなかったので、ほっとした。そして今度は急いで自分の皿から、お副食を半分ほど次郎のに分けてやった。
 すると今度は次郎がまごついた。こんな特別な心づかいを平気で受けるようには、彼の心はこのごろ少しも慣らされていなかったのである。彼は盗むように、お浜と従兄弟たちの顔を見た。そしてお浜が与えたものに箸をつけるのを躊躇ちゅうちょした。
「坊ちゃんは何時お帰り? 今日? 明日?」
 お浜は、みんなの気をそらすつもりで、そんなことを言ってみた。しかし、気をそらす必要のあった者は、お浜自身と次郎との外には誰もいなかった。従兄弟たちはお浜が
自分のお副食を次郎の皿にわけてやったのを見ながら、ほとんどそれを気にとめていないようなふうであった。
「僕、もっと泊っていきたいんだがなあ。」
 そう言って、次郎はきまり悪そうに、皿に箸を突っこんだ。
「お正月まで泊っておいでよ。ね、いいだろう。」と、久男が言った。――久男は、一番年上の従兄弟である。
「でも、お正月はおうちでなさるものよ。」
 と、お浜はいそいで久男の言葉を打消し、何かちょっと考えるふうであった。
「どこだって同じだい。ねえ、お祖母さん、次郎ちゃんはお正月まで泊ってもいいだろう。」
「そうねえ……」
 と、お祖母さんは、隣のちゃぶ台から、なま返事をした。
「なんでしたら、私、おいとまする時に、途中までお送りしましょうかしら。」
 お浜は箸を持った手を膝の上に置きながら、改まって言った。すると、茶の間で一人だけ別の膳についていたお祖父さんが、
「なあに、構うことはない。本田の方から誰か迎えをよこすまでは、幾晩でも泊めて置くがよい。」
 正木のお祖父さんにしては、かなり烈しい語気だった。白髯はくぜんの間からのぞいている頬が、いつもより赤味を帯びて光っていた。
 お祖父さんにそう言われると、お祖母さんもすぐその気になったらしく、
「そう急いで送って行くこともあるまいよ。よかったら、お浜もゆっくり泊っていったらどうだね。次郎と一緒に寝るのも久しぶりだろう。」
「でも、そんなことをいたしましたら、それこそ本田の奥様が、……」
「なあに、お民の方はこちらに任してお置きよ。今度来たら、お祖父さんからも、よく話して下さるはずだから。」
 お浜はわくわくするほど嬉しかった。彼女は、次郎の耳許に口をよせて囁くように言った。
「乳母やも泊っていきましょうね。」
 次郎は俯向いて、お椀の中に残った飯を、箸の先でいじるだけで、返事をしなかった。次郎がこんなにはにかんだ様子をするのは、全く珍しいことだった。

一二 押入


 その夜は、次郎にとっても、お浜にとっても、まるで思いがけない一夜であった。そして翌朝になると、便所に行くにも、顔を洗うにも、二人は必ず一緒だった。お浜が土間の掃除をはじめると、次郎も何処からかほうきを持って来て手伝った。
「まるで鶏の親子みたいだね。」とお祖母さんが笑った。
 午過ぎに、本田から歳暮のものを持って直吉がやって来た。お浜は、彼に顔を見られないうちに、そっと裏口から抜けて帰ろうと思ったが、次郎がいつも尻にくっついているので、それが出来なかった。
「おや、お浜さんも来ていたのかい。」と、直吉は台所に腰をおろして、にやりとした。
「ああ、ちょいとこちらに用があってね、でも坊ちゃんにお逢い出来るなんて、夢にも思っていなかったのよ。」と、お浜は土間に立って、次郎に袖を握られながら、言訳らしく答えた。
「今日来たのかい。」
「実は昨日来たんだけどね、皆さんで是非泊っていけっておっしゃるものだから、ついゆっくりしちゃったのさ。……でも、奥さんには内証にしておくれよ。」
「ああ、いいとも。」
 直吉の返事は、無造作過ぎて、何だか頼りなかった。
 しかしお浜は、どうせ何処からか知れるだろう、という気もしたので、それ以上たっては頼みこまなかった。
「直さんは、すぐかえるんだろう。」
「帰るとも、ゆっくりなんかしちゃ居れないや。」
「では、坊ちゃんも今日はお帰りになった方がいいんだから、一緒にお連れしておくれよ。お一人じゃ、何ぼ何でも、おかわいそうだから。」
「俺もそのつもりさ。奥さんにそう言いつかって来ているし、それにあのお祖母さんが、恐ろしくやかましいことを言ってるんでね。」
「坊ちゃんのことでかい。」
「そうだよ。歳暮くれの忙しいのに、二日も三日も子供をお邪魔さして置いたんでは、先方様に、義理が立たないとか言ってね。」
「へええ、いやに義理を気にするんだね。」
「なあに、次郎ちゃんがこちらで可愛がられていると思うと、妙にけるんだよ。」
「まさか、お祖母さんが妬くってこともあるまいけれど……」
「いいや、本当に妬けるらしいよ。正木の家では子供を甘やかし過ぎていけないって、飯どきにさえなりゃ、そればかり言っているんだからね。」
「ご自分こそ、恭ちゃんをあんなに甘やかしているくせに。」
「全くさ。それにお祖母さんは、次郎ちゃんにこちらでいろいろしゃべられるのが、何より恐いらしいよ。あの子は全く嘘つきだから、何を言うか知れやしないって、一人でやきもきしているんだ。」
「まあ、呆れっちまうね。……ところで旦那様は一体どうなんだい。やっぱり坊ちゃんをいびるんじゃない?」
「そんなことあるもんか、旦那に限って。」
「でも、坊ちゃんを一人でお使いによこしたのは、旦那様だっていうじゃないの。」
「それはそうらしいね。でも、いびる気なんかまるっきりないよ。第一、お祖母さんや、奥さんとは人柄がちがってらあ。」
「どうちがってるの。」
「どうって……とにかく次郎ちゃんを心から可愛いがっているんだからね。」
「ほんとうかい。」
「ほんとうだとも。そりゃ可愛いがるよ。しかし、可愛いがっても甘やかさないところが、流石は旦那さ。」
「そうだと、私も安心だけれど……」
 お浜は幾分物足りなさを感じながらも、流石に嬉しそうだった。そして、もっと直吉にいろいろ訊いてみたいこともあったので、一緒に連立って帰ることにした。
 ところで、二人が正木に挨拶をすまして、いざ帰ろうとすると、かんじんの次郎の姿が何時の間にか見えなくなっていた。
「次郎ちゃん!」
「坊ちゃん!」
 と、直吉とお浜とが、代る代る呼び立てた。その声に驚いたような顔をして、正木の子供たちが、ぞろぞろと蝋小屋から出て来たが、次郎の姿はその中にまじっていなかった。
 しばらくの間は、お浜と直吉だけが、其処此処と探しまわっていた。
 しかしいくら探しても見つからないので、捜索は次第に大袈裟になっていった。いつも子供たちが隠れん坊をして遊ぶ米倉や、はぜの実倉は無論のこと、納屋や、便所や、床の下まで、総がかりでしらべた。隣近所にも無論たずねてみた。しかし次郎の行方は皆目かいもくわからなかった。
 みんなはさがしあぐんで、だんだんと土間に突っ立ったり、かまどの前にしゃがんだりしはじめた。大して心配なことはあるまい、という気持が、大抵の人の顔に現れていた。
 その間を、お浜だけが、何度も裏口を出たり這入ったりして、落ちつかなかった。背戸せどには大きな溜池があって、蓮の枯葉が、師走の風にふるえていた。お浜は、ちょっと不吉なことを想像した。しかし、それを、口に出してまで言おうとはしなかった。
「次郎ちゃんのことだから、出しぬいて、一人で先に帰ったのかも知れない。」と、直吉が、竈の前で煙草をくわえながら言った。
「そう言えばお前さん達がそこで話しているうちに、一人で表の方へお出でなすったようだよ。」
 と、姉さんかぶりのおんなが、すべての謎はそれで解けてしまうかのような顔をして言った。
 今まで茶の間に坐ったまま、默ってみんなの言うことを聞いていた正木のお祖父さんは、
「ともかくも、直吉は一応帰って見るがいい。こちらはこちらで、心あたりをさがして置くからな。だが、見つかっても、見つからんでも、日暮までにはおたがいに知らせあうことにして置かんと困る。――お浜は、よかったらもう一晩泊ったらどうかの。」
 お浜はちょっと思案していたが、
「私もすぐ帰らしていただきましょう。すこし思い当ることもありますから。」
「まさかお前のところに逃げて行ったんではあるまい。」
「私もまさかとは思いますが……」
 そう言いながら、お浜は直吉と一緒に、そそくさと暇を告げた。
 その後、捜索そうさくは三方で行われたが、どちらからもいい報告はなかった。日が暮れると間もなく、お浜が再び正木の家にやって来た。本田からは、九時頃になって、俊亮と、お民と、お祖母さんとが、揃ってやって来た。お民は這入って来るとすぐ、白い眼をして、じろりとお浜を見た。お祖母さんは、
「あんな小さい子を一人で使いに出したりするものですから、とうとうこんな事になりまして。……第一こちら様に相済まないことだし、それに世間様にも恥ずかしい。」と言った。
 俊亮は、いつもに似ぬ沈痛な顔をして、默って正木の老人の前にかしこまった。
 そのあと、彼らが何を話合い、どんな手段を講じたか。それは彼らに任しておいて、私は、読者と共に、早速次郎のあとをつけてみることにしたい。

     *

 実を言うと、次郎はみんなが心配するほど危険な場所に行っていたわけではなかったのである。
 彼は、門口かどぐちを出ると母屋と土蔵との間の、かびくさい路地に這入って、暫くそこにたたずんだ。それから路を更に奥にぬけて、庭の築山のかげに出た。彼はそこで、永いこと寒い風にさらされながら、座敷の様子を窺っていたが、全く人の気配がないと見て、思い切って縁側から上って行った。そして、次の間の、客用の夜具を入れてある押入をあけて、すばやくその中にもぐりこんでしまった。
 絹夜具の膚触はだざわりが、いやに冷たくて気味が悪かった。おまけに、ひびの切れた手足がそれに擦れるたびにばりばりと異様な音を立てるので、彼はびくびくした。
 夜具にくるまりながら、内からそっとふすまを締めるのは、次郎にとって、かなり骨の折れることだった。が、どうなりそれをやりおおせると、彼はなるだけ体を動かさない工夫をして、遠くの物音に聴耳ききみみを立てた。おりおり男衆の騒いでいるらしい声がきこえて来た。しかし何を言っているのかは、まるでわからなかった。
 眼が、闇に慣れるにつれて、襖の隙間すきまから洩れる光線が、仕切棚の裏にぼんやり扇形の模様を投げているのが見えだした。彼は一心にそれを見詰めて、その中に日の丸や、青い波や、瓢箪ひょうたんや、竜や、そのほか彼がこれまでに扇面で見たことのあるいろいろの画を想像してみた。
 そのうちに、お浜や直吉の顔も浮かんで来た。同時に、彼がかつて直吉の肩車に乗って、その耳朶に爪を突き立てた折のことが、はっきり思い出された。
(直吉はいつも自分を迎えに来るからきらいだ。それさえなけれは嫌いではないんだが。……今日はもう帰ったか知らん。――でも、乳母やまでが一緒に帰ってしまったんではつまらない。)
 そんなことを考えているうちに、夜具がいつの間にかぽかぽかと温まって来た。次郎は、その中で体がふんわりと宙に浮き上るような気持になった。そして、間もなく彼はぐっすりと眠ってしまったのである。
 幾時間かの後、彼が眼をさました時には、扇形の光線など、もうどこにも見えなかった。彼は真っ暗な中で、自分が何処に寝ているかさえ、全く見当がつかなかった。寝返りを打った拍子に、足が襖に当って、ぱたりと音を立てたが、それでも彼は、自分のいる場所を急には思い出せなかった。
 ところで、彼が眼をさましたのは、実のところ、ぐずぐずして居れない自然の要求が、彼の下腹部にかなり鋭く迫っていたからであった。で、彼は、自分が今何処に寝ているかを、一刻も早く知る必要があった。
 彼は暗闇の中で幾度も体をひねった。それから、そっと手を伸ばしてあたりを探ってみた。すると、その手にれて、絹夜具がばりばりと音を立てた。その瞬間、彼の記憶が、はっきりとよみがえって来たのである。
 しかし、記憶が蘇ってからの彼は、いよいよみじめだった。出るにも出られない。かといって、下腹部の刺激は刻一刻烈しくなるばかりである。彼は、いっそ思い切って、かつて俊三の横腹に試みた経験を、もう一度繰り返してみようかと思ったりした。しかし、それには夜具が上等過ぎて都合が悪い。しかも、此処は正木のお祖父さんの家だ。そう考えると、思い切ってやってみる気にはなれない。――次郎だって、やはり人間の子である。そう何時も良心が眠ってばかりはいない。
 彼は歯を食いしばり、小さな頭を火の玉のようにして、「自然の要求」と「良心の命令」との間に苦悶くもんした。――一分、二分。――だが、幸いにして、解決は早くついた。
(何だ、つまらない。直吉はもうとっくにかえったはずじゃないか。)
 そう気がつくと、彼は急にはね起きて、襖をがらりと開けた。
 ぬりつぶしたような闇だ。
 彼は両手を前に伸ばして、縁側だと思う方向に、そろそろと歩きだした。寒い。そして下腹部の要求はいよいよきびしい。
 と、何につまずいたか、彼の体は急に前にのめって、闇を泳いだ。同時に彼は、物の破壊するすさまじい音を彼の耳許で聞いた。そして、いばらの中にでも突き倒されたような痛みを覚えて、思わず悲鳴をあげた。
 間もなく燈火がして来た。大勢の人声と足音とが、その光の中にうずを巻いた。

「あっ、次郎だ!」
「まあ、坊ちゃん!」
「これはいけない、早く、早く!」
「無理しちゃいかん、そっと抱えるんだ!」
「まあ!」
「まあ!」
 次郎は障子の骨を二三本ぶち抜いて、頭と両手をその向側に突き出していたのである。
「眼玉を突いてはいないでしょうか。」
「大丈夫、顔の方は大したこともなさそうだ。手首の方にちょっと大きな傷があるんだが。」
「でも、硝子ガラスのところでなくてよかったわ。」
「ともかく、誰か早くお医者を迎えて来なさい。」
 これは正木のお祖父さんの声であった。
 次郎は、手首と額とに、取りあえず白木綿を捲きつけられた。
「おや着物がぐしょぐしょになっていますが、どうなすったんでしょう。」
 お浜は彼を抱えて座敷の方に運びながら言った。
「そうかな、気がつかなかった。……大方倒れたはずみに発射したんだろう。」
 俊亮は、何でもなさそうに言って、笑いながら、次郎を見た。みんなも笑った。次郎はまだ泣いていた。
 ただお民だけが、きっとなって俊亮を睨んだ。
 それから次郎は、汚れた着物を辰男のと取りかえて貰って、しずかに蒲団に寝かされた。
 医者の見立てでは、手首の傷も大したことはなかった。ただ、障子の骨が突き刺さったのだから、傷あとは案外大きく残るかも知れないと言った。
 医者が帰ったのは、十二時ごろだった。
 俊亮は自分から泊っていくと言い出した。お浜はお民の顔色を窺っていたが、正木の老夫婦にすすめられて、これも泊ることにした。本田のお祖母さんは、「次郎を預けたまま帰ってしまってはすまないが、幾人も泊りこんではなおさらすまない。」といったような意味のことを、くどくどと繰返した。で、結局お民が一緒について帰ることになった。
 次郎は、傷が痛んで、よく眠れなかった。しかし、俊亮が自分と床をならべて寝ているうえに、お浜が夜どおし枕元に坐っていてくれたので、彼にとって、さほど不幸な晩であるとはいえなかった。

一三 窮鼠


 年が明けた。愛されるものにも、愛されないものにも、時間だけは平等に流れてゆく。
 菜種の花がちらほら咲きそめる頃には、次郎もいよいよ学校に通い出した。彼は学校に行くのが何よりの楽しみだった。で、毎朝恭一が、みんなに何かと世話を焼いてもらっている間に、さっさと一人で先に飛び出して行くのだった。
 教室は男女一しょだった。次郎は、一番前列の窓ぎわに、偶然にも、お鶴と席をならべることになった。お鶴の頬には、相変らず「お玉杓子」がくっついていた。もっとも、彼はお鶴の右側にいたので、しょっちゅうそれが眼につくわけではなかった。
 授業は初めのうち午前中ですんだ。授業がすむと、二人はすぐ校番室に行って、お浜がいつも用意しておいてくれる握飯と沢庵をたべた。握飯には、きまって胡麻塩ごましおがつけてあり、沢庵は麻縄のように硬かった。その前に坐ると、彼らの唾液は滾々こんこんと流れた。
 次郎はお浜の家で物を食べることをお民に固く禁じられていた。このことは入学の当日、お浜にもきびしく、言い渡されたことであった。しかし、お浜も次郎も、そんなことはまるで忘れてしまっているかのようであった。
「何も飯代をいただこうというのではないし。」
 これがお民から文句が出た時の用心に、お浜が考えておいた理窟であった。
 次郎の帰りが遅くなるので、とかく迷惑するのは直吉だった。
 次郎はすでに、本田と正木と学校との間を、一人で自由に往来することが出来たし、それに、時としては菜種畑の中に、小一時間も押しづよく隠れていたりするので、直吉は、迎えに来ても、捜しあぐんで、ひとりで帰ることが多かった。
 しかし、珍しいことには、次郎は、まだ一度も校番室に泊りこんだことがなかった。それは、お浜が、お民に対する意地から、日暮近くなると、進んで次郎を帰すことにつとめたからだった。次郎は、そんな場合、どうしても家に帰るのが嫌だと、きまって正木の家に行くことにした。そして一度正木の家に行くと、大てい五日や一週間は根がついて、そこから学校に通うのであった。正木では、初めのうちこそ心配もしたが、たび重なるにつれて、それを気にとめる者さえいなくなった。
「次郎のほんとのお家は、いったい何処どこだね。」
 飯時などに、時たま、お祖母さんがそんなことを言って笑ったりするので、みんなも次郎の来ているのに気がつき出すくらいであった。
 本田では、俊亮と、お民と、お祖母さんとが、まるでべつべつの気持で、いつもそれを問題にしていた。お民は、自分の感化がちっとも次郎に及ばないのをくやしがった。そしてその罪をいつもお浜にかぶせた。
 お祖母さんは、次郎の行末ゆくすえなどには、まるで無頓着だったが、口先だけでは、いつも、
「あの子にも困ったものだ。」
 と、いかにも歎息するらしく言い、そして、最後にはきまって、
「ああ何時も何時も、あちらにばかり入浸いりびたっているのを、私という老人もいながら、放っとくわけにもいくまいではないか。」と言った。
 俊亮は、二人が、めいめいに自分の立場だけからものを考えるのを、にがにがしく思った。そして、どうかすると、いっそ次郎を正木に預けてしまおうか、と考えたりした。
「なあに構うことはない。当分、次郎の好きなようにさしておくさ。」
 俊亮は、母や妻がやかましく言えば言うほど、のんきそうに構えて、そんなことを言った。そのくせ、土曜に帰宅してみて、次郎がいなかったりすると、すぐ、自分で正木に出かけて行って、彼をつれて帰るのだった。
 そうした周囲の空気の中で、次郎は、ぐいぐいと彼自身の新しい天地を開拓していった。彼は、本田と、正木と、学校との三カ所を中心に、沢山の遊び仲間をこさえた。そして、どの仲間でも、彼は彼の腕力と、気力と、智力とに相当した地位を占めることが出来た。
 体が小さいせいもあって、腕力では大したこともなかったが、気力と智力とにかけては、彼はたいていの子供にひけを取らなかった。時とすると、年上の子供たちまでを、自分の手下のようにして遊んでいることがあった。ことに彼が、喜太郎を喧嘩で負かしてからは、仲間に対する彼の勢力は、急に強くなった。
 喜太郎というのは、村で魚屋兼料理屋をしている庄八の長男で、次郎より二つも年上であった。背が馬鹿に高くて腕力があるうえに、父の庄八が、ちょっと睨みのきく親分株の男だったので、性来せいらい気の小さいわりに、横暴な振舞ふるまいが多かった。恭一などは、学校の往復に彼と一緒だと、いつもびくびくしていた。次郎も最初のうちは、むろん彼の言いなりになっていた。
 しかし、次郎の忍耐はそう永くはつづかなかった。
 或日、彼がいつもの通り、校番室でお鶴と握飯を食っているところへ、喜太郎がひょっくり窓から顔をのぞかせて、
「おれにも一つくれ。」
 と、その長い手を次郎の方に突き出したのである。
 次郎は、お鶴と顔を見合わせて、しばらく返事をしなかった。鉢には、まだ握飯が二つ残っていた。しかし、その一つは次郎にとって、他の一つはお鶴にとって、どうしてもなくてはならないものだったのである。
「おい、早くよこさんか。」
 喜太郎は、泳ぐように窓から体を乗り入れて言った。
 次郎と、お鶴は、思わず喜太郎の方に尻を向けて、握飯をかばうようにした。
「畜生、覚えていろ。」
 喜太郎は、そう言って、地べたに飛び下りたが、すぐその手で土塊つちくれをつかむと、それを部屋の中になげこんだ。土塊は天井にあたってばらはらに砕けた、そしてむざんにも握飯の表面をまだらにした。
 次郎の眼は異様に光った。彼はやにわに立ちあがって、窓から飛び下りると、うしろから喜太郎の腰のあたりに武者ぶりついた。
 しかし、腕力では、彼は喜太郎の相手ではなかった。次の瞬間には、彼は仰向けに地べたに倒されていた。しかも、彼の胸の上には、喜太郎の大きな膝頭が、丸太のようにのっかっており、両手は、地べたに食い入るように、おさえつけられていた。
 次郎は、足をばたばたさせたり、唾を吐きとばしたりしたが、何のききめもなかった。唾はかえって自分の顔に落ちて来るばかりであった。
 だんだんと息がつまって来る。あせればあせるほど、喜太郎の膝頭が胸をしめつける。次郎は泣き出したくなった。
 しかし、せっぱつまった瞬間に、皮肉な落ちつきを取りもどして、何かの計画を頭のなかから引き出して来るのが、次郎のいつものである。彼は四五秒ほど、じっと喜太郎の顔を見つめていた。それから、自分の胸の上に乗っかっている膝頭に、そろそろと視線を転じた。膝頭はまるく張り切って、陽に光っていた。自分の口との距離は、わすか一寸ほどである。
 とっさに彼の頭が上に動いた。顔の筋肉がブルドッグのように引きつった。同時に、まだ飯粒のくっついている彼の味噌っ歯が、喜太郎の膝頭の一角にずぶりとめりこんだ。
 喜太郎は、地の底をモーター・サイレンが走りまわるような悲鳴をあげながら、両手で虚空こくうを引っかきまわした。
 次郎は夢中だった。彼はただ、口の中がしょっぱくなるのを、かすかに感じただけだった。
 彼が自分にかえった時には、彼は、わいわい騒いでいる大勢の子供たちに取りかこまれて突っ立っていた。喜太郎は、地べたにしゃがんで、血だらけの膝頭を両手で押えながら、次郎の方を向いて、犬が鳴くようにわめいていた。
「どうしたんかっ、おい!」
 と、一人の先生が教室の窓から大声で叫んだ。同時に、お浜のいかにもきこんだらしい、かん高い声が近づいて来た。
 次郎は、自分のやったことが急に恐ろしくなった。そしてやにわに子供たちの間をくぐりぬけて、いっさんに校門の方に走って行った。
 彼は、しかし、校門を出ると、すぐ迷った。
(うちに帰ろうか。それとも正木に行こうか。)
 何しろ、血を見るような事件を起したのは、彼としても、全くはじめてである。いずれにしても、今度ばかりは無事にすみそうな気がしない。
 ふと、彼は、今日は父が帰宅する日だということを思い起した。
(そうだ、父さんならきっと何とかしてくれる。)
 そこで彼は、父が帰る時間まで、鎮守ちんじゅもりにかくれていることにした。
 しかし、杜にかくれてみても、彼の心は落ちつかなかった。不思議に今日は一人でいるのが怖い。村中の者が、今にも自分を取りかこみそうな気がする。喜太郎の父の庄八が、出刃でもぶらさげて来たら、どうしようかと思う。
(やっぱり、うちにかくれている方が安心だ。)
 そう思って、彼はあたりに気を配りながら杜をとび出した。

     *

 その日の夕方、次郎は、俊亮と、お民と、お浜の三人が茶の間で話しこんでいるのを、隣の部屋から立ちきしていた。
俊亮――「それで先生はどう言っているんだね。」
お民――「とにかく、庄八の方に、一刻も早くこちらから挨拶をした方がいい、とおっしゃるんです。」
俊亮――「挨拶には、もうお前が行ったんだろう。」
お民――「ええ、でもほんのおわびだけ……」
俊亮――「それでいいじゃないか。」
お民――「でも、向こうに傷を負わしたんですもの、何とか色をつけませんと、庄八も承知しないでしょう。」
俊亮――「庄八が承知しない? 先生がそう言ったかね。」
お民――「ええ。」
俊亮――「じゃ、俺はいよいよ不賛成だ。こちらが本当に悪けりゃ、庄八にだって誰にだって、いくらでもあやまるし、場合によっては、金も出さなきゃなるまいさ。しかし、何といっても、喜太郎の方が年上だからね。」
お浜――「そうですとも、もともと悪いのは、何といっても喜太郎でございますよ。」
お民――「いったい、ほんとうのところはどうなんだい。随分次郎にもきいてみたんだけれど、はっきりしないところがあるんでね。」
お浜――「ええ、……それは、何でも、……お鶴にきくと、喜太郎が坊ちゃんに泥をぶっつけたのが、もとなんだそうでございますよ。」
お民――「だしぬけにかい。」
お浜――「ええ……」
お民――「理由もなしに?」
お浜――「ええ、何でも、校番室で坊ちゃんがお鶴と遊んでおいでのところへ、窓から泥を投げこんだらしゅうございます。」
 次郎は、握飯の話が出るかと思って、ひやひやしていたが、とうとう出なかった。自分もそのことを母に言わないでおいてよかった、と彼は思った。
お民――「校番室なんかで、お鶴と遊ばしたりするからいけないんだよ。」
俊亮――「とにかく、もうすんだことだ。」
お民――「でも庄八は、こちらから相当の挨拶をしなければ、今夜にも自分で出かけて来るとか言ってるそうです。」
俊亮――「来たっていいじゃないか。向こうからも一応は挨拶に来るのが当然だからね。」
お民――「でもそれじゃ、事が面倒ですわ。」
俊亮――「なあに、何でもないよ。俺がよく話してやる。」
お浜――「そりゃ旦那様におっしゃっていただけば、庄さんも納得するとは思いますが、何しろあれほどの傷ですし、やはり坊ちゃんのためには、一応はさっぱりなすった方が……」
俊亮――「次郎のためを思うから、俺はそんなことをしたくないんだ。お前たちは、相手の傷のことばかり気にしているが、次郎としては、命がけでやった反抗なんだ。自分よりも強い無法者に対しては、あれより外に手はなかろうじゃないか。あいつの折角の正しい勇気を、金まで出して、台なしにする必要が何処にあるんだ。」
 俊亮の語気は、いつもに似ず熱していた。次郎には、その意味がよく呑みこめなかった。しかし、自分のしたことを父が悪く思っていないことだけは、はっきりした。
お民――「そんなことをおっしゃったんでは、次郎は、この先いよいよ乱暴者になってしまいますわ。」
俊亮――「まさか、俺も、次郎の前でけしかけるようなことは言わんつもりだよ。あいつを闘犬に仕立てるつもりじゃないからな。」
お浜――「まあ。」
お民――「すぐ宅はあれなんだよ。冗談だか本気だかわかりゃしない。」
俊亮――「とにかく心配するなよ。」
お浜――「でも、坊ちゃんは、これから学校に行くのを嫌がりはなさいませんでしょうか。」
俊亮――「馬鹿な! 万一そんなだったら、庄八の家に小僧に出してやるまでさ。」
 お民もお浜もつい吹き出してしまった。しかし、その言葉は、陰で聞いていた次郎の胸には、ぴんと響くものがあった。
 次郎は、そのあと、父から一応の訓戒をうけて、九時ごろ寝た。――訓戒といっても、母のそれとはまるでちがっていた。
「正しいと思ったら、どんな強い者にも負けるな。しかし犬みたいに噛みつくのはもうこれからは止せ。」
 これが父の訓戒の要点であった。
 次郎は、庄八がいつやって来るかと、多少気にかかりながらも、寝床にはいると、間もなく眠ってしまった。
 それからどのくらいの時間がたったか、ふと、彼は茶の間から聞えて来る大きな声で目をさました。
「じゃ、何ですかい、小さい者が大きい者に向かってなら、どんな乱暴をしたって構わんとおっしゃるんですかい。」
「そうじゃないのさ。さっきからあれほど言っているのに、まだ解らんかね。」
「解りませんね。旦那のような学者のおっしゃるこたあ。」
「じゃ訊ねるが、もし次郎が噛みつかなかったとしたら、一体どうなっているんだい。」
「どうもなりゃしませんさ。」
「どうもならんことがあるものか。あいつは年じゅう喜太郎にいじめられ通しということになるだろう。傷がつかない程度にね。……一体、膝坊主を少しばかり噛み切られるのと、一生卑怯者にされるのと、どちらがみじめだか、よく考えてみてくれ。お前も親分と言われるほどの男だ、これぐらいの道理がわからんこともあるまい。」
 庄八は何か答えたらしかったが、急に声が低くなって、次郎にはよく聞き取れなかった。
「そりゃ、梅干ほどの肉がちぎれているとすると、親としては腹も立つだろう。俺も、次郎が犬みたいな真似をしたことを、決していいとは思わん。」
 また犬だ。次郎は口のあたりを手のひらでそっとなでてみた。
「そこで、実を言うと、俺も最初は、何とか挨拶に色をつけなきゃなるまいと思っていたところだ。が、だんだん話を聞いているうちに、お前の方で、こちらからそうした挨拶をしないと承知しない、とか言っていることがわかったんだ。……いや、それもいい。そういう要求も別に悪いとは言わん。しかし、万一にもそのことが、お前んとこの喜太郎にわかり、それから次郎にもわかったとしたら、いったいどうなるんだ。……ねえ庄八、お互に子供だけは、金でごまかせない男らしい人間に育て上げようじゃないか。」
「いや、よくわかりました。」
「そこでだ、お前に、もし金が要るんだったら、今度のことにからまないで、話してくれ。金は金、今度のことは今度のこと、そこをはっきりして、これからもつき合っていこうじゃないか。」
面目めんぼくございません。ついけちな考えを起しまして。」
「わかってくれてありがたい。……おい、お民、酒を一本つけておくれ。」
 次郎の緊張が急にゆるんだ。そして、明日からの毎日が、これまでよりも、ぐっと力強くなるような気がして、存分に手をのばした。同時に彼は、昨日までの父とはちがった感じのする父を、心に描きはじめた。彼は、親分という言葉の意味をはっきりとは知らなかったが、それが何となく、庄八によりも父にふさわしい言葉のように思えて来たのである。