一四 ちび


 次郎は、学校に通い出してから、木登りが達者になり、石投げが上手になった。水泳にかけてはまるで河童同様であった。蜻蛉釣りや、鮒釣りや、どじょうすくいに行くと、いつも仲間より獲物が多かった。そして真冬のほかは、大てい跣足のまま、何処へでも飛びあるいた。彼は学校に通ったために、文明人になるよりも、かえって自然人になるかのように思われた。
 復習などは、ほとんど彼の念頭になかった。彼の教科書は、手垢で真っ黒になっており、頁がところどころちぎれたりしていたが、それは彼の勉強の結果ではなくて、学校の往き帰りに、意味もなく放り投げたり、なぐり合いに使ったりするからであった。
 もし、母がおりおり恭一のぴんとした教科書と、彼のくちゃくちゃの教科書とを、彼の目の前にならべて、彼にきびしい訓戒を加えることがなかったら、彼はもっといろいろのことに、彼の教科書を利用したかも知れなかった。
 それでも、彼の成績は決して悪い方ではなかった。五十幾人かの組で、彼はいつも五番以下には下らなかった。もし研一という、図抜けて優秀な子供さえいなかったら、彼が一番になるのも大してむずかしいことではなかったであろう。
 もっとも、操行は大てい乙で、一度などは丙をつけられたこともあった。その時には、さすがの彼も、気がひけたとみえて、通信薄のその部分を指先でがして、家に持って帰ったのだった。
 それを見て、腹を立てたのは、母よりも、むしろ父であった。父はいきなり持っていた煙管きせるで次郎の頭をひどくなぐりつけた。
 お浜は通信簿が渡される日には、きまって卵焼をこさえて、次郎を校番室に迎えた。しかし、そのおりの、彼女の顔付は、いつも、あまり愉快そうではなかった。
「恭ちゃんはいつも一番なのに、次郎ちゃんはどうしたんです。」
 これが、次郎が卵焼を食べ終ったあと、きまってお浜の口をもれる小言であった。
 この小言は、ふだんにもしばしば校番室で繰り返された。次郎は、最初のうちはすまないような気もしていたが、たび重なるにつれて、次第にうるさくなって来た。そして彼が校番室に出入することも、そのためにだんだん少くなっていった。
 もっとも、彼が校番室に遠ざかるようになったのは、決してそれだけの理由からではなかった。今では、彼は全く色合の異った三つの世界をもっている。その第一は、母や祖母の気持で生み出される世界、その第二は、お浜や父や正木一家に取り巻かれている世界、そして、その第三は、彼が、入学以来、彼自身の力で開拓して来た仲間の世界である。この第三の世界は、新鮮で、自由で、いつも彼を夢中にさせた。彼が第二の世界を十分に愛しつつも、第三の世界のために、より多くの時間をくようになったのに、不思議はなかった。
 とも角も、彼はこうして二年に進み、三年に進んだ。
 彼の生活は日一日と多忙になった。そして多忙になればなるほど、彼の幸福な時間はそれだけ拡がっていった。時としては、拡がりすぎてかえって彼を不幸にすることすらあった。というのは、何処の家庭でも、子供が学校道具を持ったまま、暗くなるまで遊び暮して家に帰って来た場合、夕飯を食べさせないくらいのことはするのだから。
 ところで、彼が三年に進級すると同時に、彼がせっかく二年越しで開拓して来た自由の天地に、大きなひびの入る事情が生じた。それは弟の俊三が一年に入学したことである。
 お民は、俊三の入学式をすまして帰って来ると、すぐ恭一と次郎を呼んで、昔、毛利元就もうりもとなりが子供たちに矢を折らしたという逸話を、如何にも勿体もったいらしく話して聞かした。そして、
「明日からは、三人そろって学校に行くんですよ、俊三ははじめてだから、二人でよく気をつけてね。」と念を押した。
 次郎にとっては、しかし、それはどうでもいい話であった。彼は、俊三の世話を焼くのは恭一の役目だ、と思ったのである。
(それにしても、僕が学校にあがった頃は、どんなだったかしら。どうも僕には、恭ちゃんに世話を焼いてもらった覚えなんかないのだが。)
 彼は、ぽかんとして窓の外を眺めながら、そんなことを考えていた。するとお民が言った。
「次郎、お前はよそ見ばかりしているが、お母さんの言うことがわかったのかい。お前こそすぐの兄さんだから、今度は恭一よりお前の方が気をつけてやるんですよ。」
 次郎は変な気がした。何が「今度は」だと思った。「すぐの兄さん」だから一体どうだというんだ、とも思った。彼は、この頃、母の言うことがとかく理窟にあわないような気がして、以前のように聞き流しにばかりはしておれなくなっていたのである。
「それに恭一は、もう五年だし、随分おそくまで学校でお勉強があるんです。だから、帰りに俊三をつれて来るのは、次郎の役目なんだよ。」
 お民の言うことはいよいよ変だった。次郎は、これはうっかりしては居れない、と思った。
「僕だって俊ちゃんよりおそいや、俊ちゃんは午までですむんだから。」
 咄嗟とっさにいい口実が次郎の口をついて出た。そして、案外母もぼんやりだな、と内心で彼は思った。
「そりゃ解ってるさ。だから、なるだけ直吉を迎えにやることにしているんだよ。」
 次郎は「なるだけ」が少々気に食わなかったが、それならまず我慢が出来る、と思った。しかし、そのあとがいけなかった。
「だけど、直吉も忙しいんだからね。もしか迎えに行けなかったら、お前がつれて帰るんですよ。俊三はお前のお勉強がすむまで、校番室に待たして置くように、お浜にも話してあるんだから。」
 次郎は、それですっかりぺしゃんこになった。
 むろん彼は、母の矛盾に気がつかないことはなかった。
(僕が校番室に出入すると、あんなにやかましく言うくせに。)
 彼はそう考えたが、それを口に出して言おうとはしなかった。言えば藪蛇やぶへびだと思った。
 で、とうとう次郎は、翌日から、俊三の学校通いのお伴をすることになってしまった。手があいておれば迎えに来るはずの直吉は、ただの一度も来なかった。
 次郎の自由な天地は、それ以来ほとんど台なしになってしまった。彼は時間どおりに家を出て、時間どおりに家に帰ることを余儀なくされた。そして、家に帰ると、すぐ復習をさせられたり、用を言いつかったりした。お民としては思う壺で、いつも機嫌がよかった。しかし母の機嫌がよければよいほど、次郎の心は憂欝になっていった。
 それに、このことは、次郎に、もう一つ、ちがった意味で大きな苦痛を与えた。というのは、彼は元来だったのである。体質なのか、食物のためなのか、或いは根性が強過ぎるためなのか、里子時代から、どうも彼の身長は思わしくのびなかった。学校に通い出してからは、肉付や血色はめきめきとよくなっていったが、身長だけは、同年輩のどの子供よりも低くて、体操ではいつもびりにならばされた。
 恭一をなかにして兄弟三人がならぶと、まるで聖徳太子の画像を見るようだと、みんなが笑ったものだが、実際今では、次郎の身長は俊三と三分とちがっていないのである。
 むろん二人の着物は、同じ長さにたれた。しかも大ていは同じ柄の飛白かすりであった。だから、二人は着物を取りちがえては、よく喧嘩をした。もっとも、喧嘩をしても、母や祖母は少しも困らなかった。というのは、汚れやほころびの多い方を次郎のだときめてしまえば、それで簡単に片がついたからである。
 むろん、この決定には、しばしば誤りがあった。しかし、誤りがあっても、そう決めて置く方が簡単であり、次郎のいましめにもなると、二人は考えていたのである。
 着物の方は何とか諦めがつくとしても、毎日学校の往き帰りに、俊三と並んで歩かねばならないことは、次郎にとって、何としても我慢の出来ないことであった。実を言うと、彼はかなり以前から、自分のちびなことに気がついて、内心それを苦にしていた。それも、俊三と一緒でない場合にはさほどでもなかったが、この頃のように、いつも二人で並んで歩かなければならなくなると、まるでさらし物同然で、何だか身がすくむような気がするのである。しかも、村の小母さんたちは、彼のそんな気持などにはまるで無頓着に、
「まあ、お仲のいいこと。……そうして一緒に歩いておいでだと、どちらが兄さんだか、見分けがつかないようですわ。」
 などと言う。次郎にしてみると、これほどの侮辱はない。こんなことで兄弟がむつまじくなんかなれるものか、思う。
 彼は出来るだけ頭を真っ直にし、足を爪立てるようにして歩くことにつとめた。そして、硝子戸のある家の前を通る時には、いつも自分の影を覗いてみた。しかし、そんなことで、彼の自信が保てるわけのものではむろんなかった。
 で、結局彼は、出来るだけ俊三と離れて歩くことに決めた。これがまた一通りの苦心ではなかった。俊三は、そとでは妙に卑怯な性質で、いつも次郎にくっついて歩きたがった。それを次郎が嫌って無理に二、三間離れると、彼はすぐ地団駄じだんだをふんで泣き出した。
 最初の一週間ほどは、それでも、次郎は母の言いつけをどうなり実行した。しかし、硝子戸にうつる自分の姿は、いつも皮肉に彼自身をあざけった。しかも、その間に、彼の「第三の世界」は、こばみがたい魅力をもって、たえす彼を手招きしていたのである。
 彼は、とうとう、ある日学校の帰りに、地団駄ふんで泣いている俊三を放ったらかして、仲間の二三人と何処かに遊びに行ってしまった。
(父さんは、こんなことで、僕の頭を煙管でなぐりつけたりはしない。)
 彼は、遊びのあい間あい間に、そんなことを考えた。それでも、彼は、自分の家に帰るのが気まずかったとみえて、その日から、また正木の家に行って、しばらくそこから学校に通うことにした。

一五 地鶏じどり


 ある日、次郎は、正木の家の庭石にただ一人腰を下して、一心に築山の方を見つめていた。
 築山のあたりには、鶏が六七羽、さっきからしきりに土をかいてはをあさっている。雄が二羽まじっているが、そのうちの一羽は、もうこの家に三四年も飼われている白色レグホンで、次郎の眼にもなじみがある。もう一羽はそれよりずっと若い、やっと一年ぐらいの地鶏である。その汚れのない黄褐色の羽毛が、ふっくらと体を包んで、いかにも元気らしく見える。
 ところで、この地鶏は、ぽつんと一羽、淋しそうに群を離れて立っている。おりおり頸をすっと伸ばして周囲を見まわし、それからそろそろと牝鶏の群に近づいて行くのであるが、すぐ老レグホンのために逐われてしまう。逐われる前に、ちょっと頸毛を逆立ててはみる。しかしどうも思い切って戦って見る決心がつかないらしい。
 が、そんなことを何度も繰り返しているうちに、地鶏の頸毛の立ち工合が、次第に勢いよくなって来た。次郎はそのたびに息をはずませては、もどかしがった。
 彼は、ふと、喜太郎の肉を噛み切った時のことを思い起した。そして、思い切ってやりさえすれば、わけはないのに、と思った。
 が、同時に、彼の心には、恭一や俊三と喧嘩をする時のことが浮かんで来て、腹が立った。
「次郎、お前は兄さんに手向かいをする気かい。」
 彼は母や祖母にいつもそう言われるので、つい手を引っこめてしまう。では、俊三になら遠慮なくかかっていけるかというと、そうもいかない。
「次郎、そんな小さな弟を相手に何です。負けておやりなさい。」
 と来る。どちらにしても次郎には都合がわるい。そして、何よりも次郎の癪に障るのは、彼が叱られて手を引っこめた瞬間に、きまって相手が一つか二つなぐりどくをして引きあげることである。祖母は、わざわざその撲りどくがすむのを待って、双方を引分けることにしているらしい。しかもぬけぬけと、
「もういい、もうそれで我慢しておやり。」
 などと言う。そんな時の次郎の無念さといったらない。彼は、自分の眼が、熔鉱炉ようこうろのように熱くなり、涙が氷のように瞼にしみるのを覚えるのである。
(一人では学校にも行けない俊三ではないか。喜太郎の前では、口一つきけない恭一ではないか。僕は何でこの二人に負けてばかりいなければならないのだ。)
(母や祖母の小言が何だ。兄に手向かいするのが悪いなら、俊三が僕に手向かいするのを、なぜとめない。弟に負けてやるのが本当なら、恭一が僕を撲るのをなぜ叱らない。二人の言うことはいつもとんちんかんだ。それに二人は僕が損をしてさえいれば、いつもにこにこしている。僕が僕の好きなことをした時に、二人が嬉しそうな顔をしたことなんか、一度だってありゃしない。そして何かと言えば「うじより育ち」と言う。何のことだかわかりゃしない。大方乳母ばあやを悪く言うつもりなんだろうが、乳母やは誰よりも正直だ。僕の好きなことは乳母やも好きだし、乳母やの好きなことは僕も好きだ。学校で一番になることだって、僕は決して嫌いではない。ただ面倒くさいだけなんだ。――一たい二人は僕をどうしようというのだろう。僕が家にいると、二口目には、この子さえいなかったら苦労はないが、と言う。だから僕はなるだけ家にはいないことにしているんだ。すると、今度は、なぜそんなに老人に心配をかけるのかとか、親の心がまだわからないのかとか、まるで、お寺の地獄の画に描いてある青鬼のような顔をして、呶鳴どなりつける。心配なんかせんでおけばいいじゃないか。一たい祖母や母が僕のために何を心配するというのだ。二人の気持は大てい僕にわかっている。わかっているから、僕はなるべく家にいない工面をしているのではないか。)
(学校の先生が修身で話してきかせることなんかも、半分は嘘らしい。第一、親の恩は海よりも深しなんて言うが、そんなことは、父にはあてはまるかも知れんが、母にはちっともあてはまらない。それに先生は、乳母やのようないい人のことを、ちっとも話してくれないのが不思議だ。学校で毎日毎日乳母やの顔を見ているくせに。)
 こんなことを考えながら、次郎はいつの間にか、視線を自分の足先に落していた。
 と、築山の方から、急に烈しい羽ばたきの音が聞え出した。見ると、地鶏が、いつの間にかレグホンに向かって決死の闘いをいどんでいる。燃えるような鶏冠とさかの周囲に、地鶏は黄の、レグホンは白の、頸毛の円を描いて、三四寸の距離に相対峙あいたいじしている。
 向日葵ひまわり白蓮びゃくれんとが、血を含んで陽の中にふるえているようだ。
 とうとう蹴合った。つづけざまに二回。しかし、二回とも地鶏の歩が悪かった。次郎は思わず腰をうかして「畜生!」と叫んだ。
 地鶏は、しかし、逃げようとはしなかった。やや間をおいて、白と黄の羽根が、三たび地上尺余の空に相った。今度は互角である。
 つづいて、四回、五回、六回と、蹴合けあいは相変らず互角に進んだ。
 次郎は、息をとめ、拳を握りしめ、首を前につき出して、それを見まもった。
 闘いは次第に乱れて来た。最初まったく同時であった両者の跳躍が、いつの間にか交互になった。そしてお互にくちばしで敵の鶏冠を噛むことに努力しはじめた。
 こうなると、若さが万事を決定する。レグホンの古びきった血液は、強烈な本能の匂いをかしこんだ地鶏の血液に比して、はるかに循環がにぶい。彼の打撃はしばしば的をはずれた。地鶏が打撃を二度加える間に、彼は一度しか加えることが出来なくなった。そして、どうかすると、ひょろひょろと相手の股の下をくぐって、その打撃を避けた。
 老雄の自信はついにくだけた。
 彼は、黒ずんだ鶏冠に鮮血をにじませ、嘴を大きくあけたまま、ふらふらと築山の奥に逃げこんだ。
 若い地鶏は、勝にじょうじてそのあとを追ったが、やがて、築山の頂に立って大きな羽ばたきをした。そして牝鶏の群を見おろしながら、たかだかと喉笛のどぶえを鳴らした。
 次郎はほっとして、立ち上った。
 そして大きく背伸びをしてから、そろそろと築山の陰にまわって見た。老英雄は、夢にも予期しなかったわかい反逆者のために、そのながい間の支配権を奪われて、ひっそりと垣根に身をよせている。
 築山の上では、地鶏がもう一度勝鬨かちどきをあげた。それから、土を掻いて、くっくっと牝鶏を呼んだ。
 次郎は急に勇壮な気持になった。彼の体内には、冷たい血と熱い血とが力強く交流した。つづいて影のようなほほえみが、彼の顔を横ぎった。
 その夕方、彼は誰の迎えも受けないで、急に正木の祖父母に挨拶して、一人で自分の家に帰ったのである。

一六 土橋


 次郎は、それ以来、学校の往復に俊三のお伴をすることを、断じて肯んじなかった。
 そのことについて母が何と言おうと、彼はろくに返事もしなかった。朝になると、わざとのように、みんなのいるまえを通って、一人でさっさと学校に行った。帰りには、きまって道草を食った。ただ以前とちがったところは、夕飯の時間までには、不思議なほどきちんと帰って来ることだった。
 しかも彼は、母や祖母に尻尾をおさえられるようなことをめったにしなくなった。彼は、父の前では相当喋りもし笑いもしたが、一たいに家庭では沈默がちであった。恭一や俊三に対してすら、自分の方から口を利くようなことはほとんどなかった。そして何かしら、すべてに自信あるもののごとく振舞った。それがお祖母さんの眼にはいよいよ憎らしく見えたのである。
 お民は、さすがに、お祖母さんよりもいくらか物を深く考えた。しかし、考えれば考えるほど、次郎をどうあしらっていいのか、さっぱり見当がつかなくなって来た。そして、おりおり俊亮にしみじみと相談を持ちかけるのだった。
「今のままでいいんだよ。お前たちは、どうもあれをうたぐり過ぎていかん。」
 俊亮の返事はいつもこうだった。しかし、彼とても、次郎のほんとうの気持がわかっているわけではなかった。
 次郎の眼には、正木の家で見た若い地鶏が、いつもちらついていた。しかし彼は、機会を選ぶことを決して忘れなかった。めったなことで兄弟喧嘩をはじめて、また父に煙管でなぐられたりしてはつまらない、と思ったのである。その代り、これなら大丈夫だと思う機会さえ見つかれば、母や祖母がどんなに圧迫しようと、今度こそは死物狂いでやってみよう、という決心がついていた。
 ところで、そうなると、思うような機会はなかなかやって来ない。それに、誰もが、このごろの彼に対して、以前とはちがって警戒の眼を見張っている。恭一や俊三は、お祖母さんの差金さしがねもあって、めったに彼のそばによりつかない。みんなが遠巻きにして彼を見まもっているといったふうである。彼は多少手持無沙汰でもあり、癪でもあった。しかし、それならそれでいい、とも思った。そして相変らずむっつりしていた。
 梅の実が色づくころになった。
 彼は、例によって、学校の帰りに五六人の仲間と墓地で戦争ごっこをはじめていた。そこへ、おくれて馳せつけた仲間の一人が、次郎の顔を見ると、大ぎょうに叫んだ。
「恭ちゃんが、いじめられているようっ。」
 次郎は別に驚いた様子もなく答えた。
「放っとけよ。つまんない。」
 彼は、恭一がおりおり友達にいじめられるのを知っていた。それを彼は別に気味がいいとも思わなかったし、かといって、同情もしていなかった。つまらない、というのが、実際、彼のありのままの気持だった。
「でも、橋の上だよ、危いぜ。」
「恭ちゃんはすぐ泣くんだから、危いことなんかあるもんか。」
 彼は、持っていた棒切れを墓石の上にのせ、射撃をする真似をしながら、そう言って取りあわなかった。
「でも行ってみよう。面白いや。」
 戦争ごっこの仲間の一人が言った。二三人がすぐそれに賛成した。
「誰だい、いじめているのは。」
 次郎は、相変らず射撃の真似をしながら、落ちついて訊ねた。
「二人だよ?」
「二人?」
 次郎は射撃の真似をやめて、ふり向いた。
「そうだい、だから恭ちゃん、かわいそうだい。」
「おい、みんな行こう。」
 次郎は何と思ったか、今度は自分から、みんなの先頭に立って走り出した。
 村はずれから学校に通ずる道路の中程に、土橋がかかっている。その橋の上に、恭一をはさんで、前後に二人の子供が立っていた。次郎の一隊は、橋の五六間手前まで行くと、言い合わしたように立止まって、そこから三人の様子を眺めた。
 恭一は泣いていた。彼をいじめていた二人は、ふりかえってしばらく次郎たちの一隊を見ていたが、自分たちより年下のものばかりだと見て、安心したように、また恭一の方に向き直った。
「女好きの馬鹿!」
 そう言って、一人が恭一の額を指先で押した。
 すると、もう一人が、うしろから彼の肩をつかんでゆすぶった。次郎は、これは大したいじめ方ではないと思った。
 が、この時、橋のむこう半丁ばかりのところに、一人の女の子が、しょんぼりと立っているのが、ふと次郎の眼にとまった。真智子まちこである。本田の筋向いの前川という素封家そほうかの娘で、学校に通い出す頃から、恭一とは大の仲よしであった。学校も同級なため、二人は友達にはばかりながらも、よくつれ立って往復することがある。次郎は彼女が恭一とばかり仲よくするのが癪で、ろくに口をいたこともなかったが、内心では、彼女が非常に好きだった。時たま、彼女の澄んだ黒い眼で見つめられたりすると、つい顔をあからめて、うつむいたりすることもあった。
 彼は、恭一がいじめられているわけが、すぐ解った。そして、真智子の前で恥をかいている恭一の顔を、じっと見つめていたいような衝動しょうどうにかられた。しかし、いじめている二人に対しては、決して好感が持てなかった。ことに、真智子のしょんぼりした姿が、どうしても彼を落ちつかせなかった。彼は次第に何とかしなければならないような気がしだして来た。
 ここでも若い地鶏が彼の眼の前にちらついた。彼は、やにわに橋の上に走って行って、恭一の前に立っている子供を押しのけながら言った。
「恭ちゃん帰ろう。」
 押しのけられた子供は、しかし、振り向くと同時に、思うさま次郎の頬っぺたを撲りつけた。
 次郎は一寸たじろいた。が、次の瞬間には、彼はもう相手の腰にしがみついた。
 横綱とふんどしかつぎの角力が狭い橋の上ではじまった。
「ほうりこめ! ほうりこめ!」
 恭一のうしろにいた子供が叫んだ。しかし次郎は、どんなに振りまわされても、相手の帯を握った手を放そうとしなかった。
 とうとう二人がかりで、次郎をおさえにかかった。次郎は、乾いた土のうえに、仰向けに倒された。土埃で白ちゃけた頭が、橋のふちから突き出している。一間下は、うすみどりの水草を浮かしたほりである。しかし次郎は、その間にも、相手の着物の裾を握ることを忘れていなかった。二人は少しもてあました。そして次郎の指を、一本一本こじ起こしにかかった。
 と、次郎は、やにわに両足で土を蹴って、自分の上半身を、わざと橋の縁からつき出した。
 重心は失われた。次郎の体は、さかさに落ちて行った。着物の裾を握られた二人が、そのあとにつづいた。水草とひしの新芽とが、散々にみだれて、しぶきをあげ、渦を巻いた。
 橋の上では恭一と真智子と次郎の仲間たちとが、一列に並んで、青い顔をして下をのぞいた。
 三人共すぐ浮き上った。最初に岸にはい上ったのは次郎であった。着物の裾がぴったりと足に巻きついて、しずくを垂らしている。彼は、顔にくっついた水草を払いのけながら、あとからはい上って来る二人を、用心深く立って見ていた。
 すぶ濡れになった三人は、芦の若芽の中で、しばらくにらみあっていたが、もうどちらも手を出そうとはしなかった。
「覚えてろ。」
 相手の一人がそう言って土堤どてを上った。もう一人は默ってそのあとにいた。次郎は二人を見送ったあとで、裸になって一人で着物をしぼりはじめた。
「みんなで搾ろうや。」
 仲間たちがぞろぞろと岸に下りて来た。恭一と真智子は、しょんぼりと道に立っていた。
 次郎は、搾った着物を帯でくくって肩にかつぐと、裸のまま、みんなの先頭に立って、軍歌をうたいながらかえって行った。
 彼は、真智子もこの一隊の後尾に加わっているのを知って、たまらなく愉快だった。恭一と喧嘩をしてみようなどという気は、その時には、彼の心のどの隅にも残っていなかった。
 恭一は、もう彼の相手ではないような気がしていたのである。

     *

 その晩は、真智子の母が訪ねて来て、みんなとおそくまで話しこんだ。真智子も無論一緒について来ていた。話は今日の出来事で持ちきりだった。真智子の母は、何度も次郎の頭をなでては、彼の勇気をほめそやした。次郎はぼうっとなってしまった。
 お糸婆さんは、
「お体は小さいけれど、きもっ玉の大きいところは、お父さんにそっくりです。」と言った。
 次郎は体の小さいことなんか言わなくてもすむことだと思った。しかし、いつものようには腹が立たなかった。お民は、
「この子の乱暴にも困りますわ。」と言った。
 しかし、喜太郎の膝に噛りついた時とは、母の様子がまるでちがっていることは、次郎にもよくわかった。
 ただ彼が物足りなく思ったのは、一座の中に父がいなかったことと、真智子が相変らず恭一にばかり親しんでいることであった。

一七 そろばん


「人間というものはね、嘘をつくのが一番いけないことです。嘘をつくのは泥棒をするのとおんなじですよ。ですから、知っているなら知っていると、誰からでも早くおっしゃい。ぐずぐずしてはいけません。早く言いさえすれば、きっとお祖父さんも許して下さるでしょう。」
 お民は、子供たち三人を行儀よく前に坐らして、まるで裁判官のような厳粛さをもって、取調べを開始した。言葉つきまでが、今日はいやに丁寧である。次郎はばかばかしくって仕方がなかった。
 本田のお祖父さんは、昔、お城の勘定方かんじょうがたに勤めていただけあって、算盤そろばんが大得意である。今もその当時使った象牙ぞうげの玉の算盤を、離室の違棚ちがいだなに置いて、おりおりそれを取り出しては、必要もないのにぱちぱちとやり出す。離室に刀掛も飾ってあったが、お祖父さんにとっては刀よりも算盤の方に思い出が多かったし、自然その方に親しみもあった。かといって、お祖父さんに商人らしいところがあるのかというと、そうではない。人柄はあくまでも士族なのである。若い頃は、恐らく、物静かな、事務に堪能たんのうな、上役にとって何かと重宝ちょうほうがられた侍の一人であったろう、と思われる。
 ところで、このお祖父さんの算盤に対する愛着は、年をとるにつれて、だんだんと神経的になっていった。算盤をはじき終ると、右の手のひらでジャッジャッと玉を左右に撫でてから、大事にふたをかぶせ、それをそうっと違棚にのせる習慣であった。そして、もしその算盤が自分の置いた位置から少しでも動いていると、誰かがきっと叱られなければならなかった。お祖父さんに言わせると、蓋をとって、玉の様子を見れば、人がさわったかどうかがすぐわかる、と言うのである。
 この大事な算盤のけたが、いつの間にか一本折れていた。これはまさしく本田一家にとっての大事件でなければならない。お民が厳粛になるのも無理はなかったのである。
 しかし、次郎にとっては、これほどばかばかしいことはなかった。第一、彼は、このごろ離室なんか覗いたこともないし、また覗こうと思ったことすらない。
(それに、算盤が一体何だ。そんなものに触ってみたところで、面白くも何ともありゃしないじゃないか。)
 そう考えると、彼は真面目に母の前にかしこまっているのでさえ無駄なような気がして、一刻も早く仲間のところへ飛び出して行きたかった。
「お祖父さんは、お前たち三人のうちにちがいない、とおっしゃるんですよ。私もそう思います。放りなげでもしなければ、あんなになるわけがないのだからね。」
 そう言って、お民はじろりと次郎を見た。
 次郎は平気だった。しかし、もうその時には随分退屈しているところだったので、眼を天井にそらしたり、膝をもじもじさせたりして落ちつかなかった。
 お民はむろん次郎のそうした様子を見のがさなかった。
「次郎、お前、知ってるでしょう。」
 次郎はにやにやして母の顔を見た。
「ね、そうでしょう。」
 お民はいやにやさしい声をして、たたみかけた。
「僕、お祖父さんの算盤なんか見たこともないや。」
 と、次郎は、わざとらしく天井を見ながら答えた。
「見たこともない? お祖父さんのあの算盤を? おとぼけでないよ。」
「ほんとうだい。」
 次郎は少し躍起やっきとなった。
「そんなはずはありません。お前、そんな嘘をつくところをみると……」
 お民は言いかけてちょっと躊躇した。次郎が恭一のカバンを便所に放りこんだ時のことを考えると、高飛車に出ても駄目だと思ったからである。
 しばらく沈默がつづいた。次郎は、つぎの言葉を催促するかのように、皮肉な眼をして母の顔を見まもっていた。
 お民は大きく溜息をついた。そしてしばらくなにか考えていたが、
「母さんがいいお話をしてあげるから、三人とも、よくお聴き、昔、アメリカというところにね……」
 と、彼女は、ワシントンが少年時代にあやまって大切な木を切り倒したという物語を、出来るだけ感激的な言葉を使って、話し出した。それは恭一と次郎にとっては、もう決して新しい物語ではなかった。次郎は、話っぷりは学校の先生の方がうまいな、と思って聴いていた。
「大きくなって偉くなる人は、みんな子供の時、この通りに正直だよ。解ったかい。」
 話はそれで終った。次郎は、先生もそんなことを言ったが、たったそれっぱかしじゃなかったと思った。が、同時に、彼の頭に、ふと妙な考えがひらめいた。
(自分でやったことをやったと言うのは、当りまえのことじゃないか。その当りまえのことがそんなに偉いなら、やらないことをやったと言ったら、どうだろう。それこそもっと偉いことになりはしないかしら。)
 次郎の心では、算盤をこわしたのは、恭一か俊三かに違いないと睨んでいた。その罪を自分でるのはばかばかしいことではある。しかし彼の胸には、こないだの橋の上での事件以来、一種の功名心が芽を出している。それに、このごろ、妙に恭一が哀れっぽく見えて、彼のためなら、罪を被てやってもいいような気もする。
(もし俊三だったら――)
 そうも考えて見た。すると、あまりいい気持はしなかった。しかし、ワシントン以上の偉い行いをしてみようという野心も、何となく捨てかねた。それに、第一、彼は、いつまでもこうして母の前に坐らされているのに、もうしびれを切らしていたのである。で、彼は、つい、
「僕、こわしたんだい。」
 と、大して緊張もせずに、言ってしまった。
「そうだろう。ちゃんとお母さんにはわかっていたんだよ。」
 お民の口調くちょうは案外やさしかった。
「それでどうして壊したんだね。」
 お民は取調べを進めた。次郎は、しかし、その返事にはこまった。実は、彼もそこまでは考えていなかったのである。
「早くおっしゃい。お祖父さんが怒っていらっしゃるんだよ。」
 お民の声は鋭くなった。しかし見たこともない算盤について、とっさに適当な返事を見出すことは、さすがの次郎にも出来ないことであった。
 と、いきなり次郎の頬っぺたにお民の手が飛んで来た。
「やっと正直に答えたかと思うと、まだお前はかくす気なんだね。何という煮え切らない子なんだろう。……ワシントンはね、……」
 お民は声をふるわせた。そして、両手で次郎の襟をつかんで、めちゃくちゃにゆすぶった。
 次郎はゆすぶられながら、からびた眼を据えて、一心にお民の顔を見つめていたが、
「ほんとうは、僕こわしたんじゃないよ。」
 それを聞くと、お民は絶望的な叫び声をあげて、急に手を放した。そしてしばらく青い顔をして大きな息をしていたが、
「もう……もう……お前だけは私の手におえません!」
 彼女の眼からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
 恭一は心配そうに母の顔を見まもった。俊三はいつもに似ずおずおずして次郎の顔ばかり見ていた。次郎はぷいと立ち上って、一人でさっさと室を出て行ってしまった。

     *

 その日は土曜で、俊亮が帰って来る日だった。お民と次郎は、めいめいに違った気持で彼の帰りを待っていた。
 次郎は薪小屋に一人ぽつねんと腰をおろして考えこんでいた。そこへ、お糸婆さんと直吉とが、代る代るやって来ては、お父さんのお帰りまでに、早く何もかも白状した方がいい、といったようなことをくどくどと説いた。もうみんなも、次郎を算盤の破壊者と決めてしまっているらしかった。
 次郎は彼らに一言も返事をしなかった。そして、父が帰って来て母から今日の話を聞いたら、きっと自分でこの小屋にやって来るに違いない。その時何と言おうか、と考えていた。
(何で俺は罪を被る気になったんだろう。)
 彼はその折の気持が、さっぱり解らはくなっていた。そして、いつもの押し強さも、皮肉な気分もすっかり抜けてしまった。彼は自分で自分を哀れっぽいもののようにすら感じた。涙がひとりでに出た。――彼がこんな弱々しい感じになったのはめずらしいことである。
 ふと、小屋の戸口にことことと音がした。彼は、またかと思って見向きもしなかった。誰も這入って来ない。しばらくたつと、また同じような音がする。何だか子供の足音らしい。彼は不思議に思って、その方に眼をやった。すると半ば開いた戸口に、俊三が立っている。
(畜生!)
 彼は、思わず心の中で叫んで、唇をかんだ。
 しかし何だか俊三の様子が変である。右手の食指しょくしを口に突っこみ、ややうつ向き加減に戸によりかかって、体をゆすぶっている。ふだん次郎の眼にうつる俊三とはまるでちがう。
 次郎は一心に彼を見つめた。俊三は上眼をつかって、おりおり盗むように次郎を見たが、二人の視線が出っくわすと、彼はくるりとうしろ向きになって、戸によりかかるのだった。
 かなり永い時間がたった。
 そのうち次郎は、俊三にきけば、算盤のことがきっとはっきりするにちがいない、ひょっとすると壊したのは彼だかも知れない、と思った。
「俊ちゃん、何してる?」
 彼はやさしくたずねてみた。
「うん……」
 俊三はわけのわからぬ返事をしながら、敷居をまたいで中に這入ったが、まだ背中を戸によせかけたままで、もじもじしている。
 次郎は立ち上って、自分から俊三のそばに行った。
「算盛こわしたのは俊ちゃんじゃない?」
「…………」
 俊三はうつ向いたまま、下駄で土間の土をこすった。
「僕、誰にも言わないから、言ってよ。」
「あのね……」
「うむ。」
「僕、こわしたの。」
 次郎はしめたと思った。しかし彼は興奮しなかった。
「どうしてこわしたの?」
 彼はいやに落ちついてたずねた。そしてさっき自分が母に訊ねられた通りのことを言っているのに気がついて、変な気がした。
「転がしてたら、石の上に落っこちたの。」
「縁側から?」
「そう。」
「お祖父さんの算盤って、大きいかい?」
「ううん、このぐらい。」
 俊三は両手を七八寸の距離に拡げてみせた。次郎は、いつの間にか、俊三が憎めなくなっていた。
「俊ちゃん、もうあっちに行っといで。僕、誰にも言わないから。」
 俊三は、ほっとしたような、心配なような顔つきをして、母屋の方に去った。
 そのあと、次郎の心には、そろそろとある不思議な力がよみがえって来た。むろん、彼に、十字架を負う心構えが出来上ったというのではない。彼はまだそれほどに俊三を愛していないし、また、愛しうる道理もなかった。俊三に対して、彼が感じたものは、ただ、かすかな燐憫れんびんの情に過ぎなかったのである。しかし、このかすかな憐憫の情は、これまでいつも俊三と対等の地位にいた彼を、急に一段高いところに引きあげた。それが彼の心にゆとりを与えた。同時に、彼の持ち前の皮肉な興味が、むくむくと頭をもたげた。自分でやったことをやらないと頑張って、母を手こずらせるのも面白いが、やらないことをやったと言い切って、母がどんな顔をするかを見るのも愉快だ、と彼は思った。いわば、冤罪者えんざいしゃが、獄舎の中で、裁判官を冷笑しながら感ずるような冷たい喜びが、彼の心の隅で芽を出して来たのである。
 彼はもう誰も怖くはなかった。父に煙管でなぐられることを想像してみたが、それさえ大したことではないように思えた。むしろ彼は、これからの成り行きを人ごとのように眺める気にさえなった。そして、今度母に詰問された場合、筋道の通った、尤もらしい答弁をするために、彼はもう一度薪の上に腰掛けて考えはじめた。
 もうその時には日が暮れかかっていた。小屋は次第に暗くなって来た。そろそろ夕飯時である。しかし、お糸婆さんも、直吉も、それっきりやって来ない。このまま放って置かれるんではないかと思うと、さすがにいやな気がする。かといって、こちらからのこのこ出て行く気には、なおさらなれない。
(父さんはもう帰ったか知らん。帰ったとすればこの話を聞いて、どう考えているだろう。父さんまでが、もし知らん顔をして、このまま何時までも僕を放っとくとすると、――)
 次郎は、そう考えて、胸のに冷たいものを感じた。そして、次の瞬間には、その冷たいものが、石のように凝結ぎょうけつして、彼をいよいよ頑固にした。
(二日でも三日でも、僕はこうしているのだ。僕はちっとも困りゃしない。)
 しかし、それから小半時もたって、あたりが真っ暗になると、流石に彼も辛抱しきれなくなった。やはり家の様子が知りたかった。
 彼はとうとう思いきって小屋を出て、そっと茶の間の縁側にしのび寄った。茶の間には、あかあかと燈がともっていた。
「それで恭一にも、俊三にも、よくきいてみたのか。」
 父の声である。
「いいえ、べつべつにきいてみたわけではありませんけど、……」
「それがいけない。三人一緒だと、どうしたって次郎の歩が悪くなるにきまっている。」
「貴方は、まあ! みんなで次郎に罪を押しつけたとでも思ってらっしゃるの。」
「口では押しつけなくても、心で押しつけたことになる。」
「では私、もう何も申上げませんわ。どうせ私には、次郎を育てる力なんかありませんから。」
「そう怒ってしまっては、話が出来ん。」
「怒りたくもなろうじゃありませんか。次郎が正直に白状したのまで、私が押しつけてさせたようにお取りですもの。」
「次郎は、しかし、すぐそれを取消したんだろう?」
「それがあれの手に負えないところなんですよ。」
「しかし、それがあれの正直なところなのかも知れない。」
「貴方、本気で言ってらっしゃるの。」
「本気さ。あれは強情な代りに、一旦白状したら、めったにそれを取消すようなことはしない子だ。それを取消したところをみると、取消しの方が本当かも知れない。」
「おやおや、貴方は、あの子を人の罪まで被るような、そんな偉い子だと思ってらっしゃるの。」
「実は、その点が俺に少ししかねるところなんだ。」
「それご覧なさい。」
「一たいどんなはずみで、白状したんだい?」
「それは、私、ワシントンの話を持ち出しましたの。」
「うむ。」
「そしたら急にそわそわし出したものですから、そこをうまく畳みかけてきいてみたんですの。」
 お民は、少しうわずった調子で、得意そうに言った。
「なるほど。……うむ。……」
 俊亮はしきりに考えているらしかった。しばらく沈默がつづいたあとで、お民が言った。
「ですから、本気で教えてやりさえすれば、いくらかは違ってくると思いますけれど……」
「そうかね。……それで、あいつまだ小屋の中にいるのかい。」
「ええ、いるだろうと思いますけれど……」
「とにかくおれが行ってみる。」
 俊亮の影法師かけぼうしが動いた。
 次郎は、父におくれないように、急いで薪小屋にもどって、じっと息をこらしていた。
「次郎、馬鹿な真似はよせ。」
 俊亮は小屋に這入ると、いきなり提灯を彼の前にさしつけて、そう言ったが、その声は叱っているようには思えなかった。
「算盤のこわれたのは、どうだっていい。お祖父さんには父さんからあやまっとくから。……だが、こわしたと言ったり、こわさないと言ったりするのは卑怯だぞ。」
 次郎は、父に卑怯だと思われたくなかった。卑怯だと思われないためには、やはり罪を被る方がいいと思った。
「僕、こわしたんだい。」
 彼は、はっきりそう答えて、父の顔色をうかがった。
 すると、俊亮は、提灯の灯に照らされた次郎の顔を、穴のあくほど見つめながら、
「父さんに嘘は言わないだろうな。」
 次郎は何だか気味悪くなった。
「父さんは嘘をつく子は嫌いだ。……だが、まあいい、父さんはお前の言うことを信用しよう。しかし、飯も食わないで、こんな所にかくれているのは、よくないぞ。さあ父さんと一緒に、あちらに行くんだ。」
 次郎は、そう言われると急に涙がこみあげて来た。
「馬鹿! 今頃になって泣く奴があるか。」
 次郎は、しかし、泣きやまなかった。俊亮は永いこと默ってそれを見つめていた。

一八 菓子折


 算盤事件は、とうとう誰にも本当のことが解らずじまいになった。
 俊亮とお民とは、それについて、まるで正反対の推測をして、次郎の子供らしくないのに心を痛めた。
 次郎と俊三とは、その後、口にこそ出さなかったが、顔を見合わせさえすれば、すぐ算盤のことを思い浮かべるのだった。次郎の立場は、むろんそのためにいつも有利になった。
 次郎は、いつかは思い切り戦ってみようと思っていた恭一と俊三とが、妙なはずみから、まるで敵手でなくなってしまったので、いささか拍子ぬけの気持だった。しかし彼は、決してそれを残念だとは思わなかった。それどころか、二人を相手に、いくらかでも仲よく遊べることは、彼の家庭における生活を、今までよりもずっと楽しいものにした。
 恭一は、雑誌や、お伽噺とぎばなしの本などをお祖母さんに買って貰って、それを読むのが好きであったが、自分の読みふるしたものを、ちょいちょい次郎に与えた。それが次郎を喜ばしたのはいうまでもない。
 彼ははじめのうちは、挿画さしえだけにしか興味を持たなかったが、次第に中味にも親しむようになり、時には、恭一と二人で寝ころびながら、お互に自分の読んだものを話しあうようなことがあった。その間に彼は、恭一のこまかな気分にふれて、いろいろのいい影響をうけた。
 彼と俊三との間は、それほどにしんみりしたものにはなれなかったが、庭や畑に出ると、二人はいつも仲よく遊んだ。俊三が、このごろ次郎に対して、ほとんど我儘を言わなくなったことが、いつも次郎を満足させた。そして、彼が外を飛び歩くことも、そのためにいくぶん少なくなって来た。
 お民は、次郎のそうした変化を、内心喜んだ。彼女は、自分の教育の力が、やっとこのごろ次郎にも及んで来たのだと思ったのである。そこで、彼女は、この機を逸してはならないと考えて、何かと次郎に接近しようと努めた。これは次郎にとってはまことにうるさいことであった。しかし、この頃では、以前ほど叱言こごとも言わないし、時としては、思いがけない賞め言葉を頂戴したりするので、次郎の母に対する感じも、いくらかずつ変って来た。
 ただ祖母に対してだけは、次郎は微塵みじんも好感が持てなかった。彼女は、お民とちがって、よく食物で次郎をいじめた。お民は、その点では、三人に対してつとめて公平を保とうとした。少なくとも、三人をならべておいて、あからさまに差別待遇をするようなことは決してなかった。ところが祖母は、そんなことは一向平気で、お民の留守のおりなどには、食卓の上で、わざとのように差別待遇をした。
「次郎、お前、どうしてお副菜かずを食べないのかい。」
「食べたくないよ。」
 次郎は決して、自分の皿の肴が、兄弟の誰のよりも小さいからだ、とは言わない。
可笑おかしいね。ご飯はそんなに食べてるくせに。」
 そう言われると、次郎は、それっきりご飯のお代りもしなくなる。
「おや、ご飯も、もうよしたのかい。」
「今日は、あんまり食べたくないよ。」
「お腹でも悪いのかい。」
「…………」
 次郎はちょっと返事に窮する。
「また、何かお気に障ったんだね。」
「そんなことないよ。」
 しかし、そっぽを向いた彼の顔付が、あきらかに彼の言葉を裏切っている。同時に、ちゃぶ台のまわりの沢山の眼が、皮肉に彼の横顔をのぞきこむ。
 こうなると、彼は決然として室を出て行くより、仕方がないのである。
「おや、おや。」
 と、うしろでは嘲るような声。つづいて、
「まあ、どこまでねじけたというんだろうね。」
 と、変な溜息まじりの声。
「放っときよ。ねじけるだけ、ねじけさしておくより仕方がないさ。」
 と、いかにも毒々しい声がきこえる。
 先ず、こういった調子である。
 また、兄弟三人が、珍しく仲よく遊んでいるのに、お祖母さんは、わざわざ恭一と俊三の二人だけを離室に呼んで、いろんな食物を与えたりすることもある。
 そんな時の次郎は、実際みじめだった。彼は、しかし、食べ物を欲しがっていると祖母に思われたくなかった。また、一人だけのけ者にされているのを気にしている、と思われるのも癪だった。で、彼は、つとめて平気をよそおうとして、非常に苦しんだ。それは、彼が負けぎらいな性質であるだけに、一層不愉快なことだった。いつも辛うじて自制はするものの、彼の腹の中では、真っ黒な炎がそのたびごとに濃くなって、いつ爆発するかわからなくなって来た。――およそ世の中のことは、慣れると大てい平気になるものだが、差別待遇だけは、そう簡単には片づかない。人間は、それに慣れれば慣れるほど、表面がますます冷たくなり、そして内部がそれに比例して熱くなるものである。
 ある日、次郎は、お祖母さんが小さな菓子折を持って離室に這入って行くのを見た。何処かの法事にでも行って来たらしく、紋付の羽織を引っかけていた。
 次郎は、今日もまた、恭一と俊三だけがそれを貰うのだと思うと、我慢が出来なくなった。で、お祖母さんの隙を見て、これまでめったに這入ったことのない離室に、こっそりしのびこんだ。
 菓子折は違棚の上にお祖父さんの算盤と並べてのせてあった。彼は、それをつかむと、いそいで裏の畑に出た。そこで彼は、紐を解いて中身を覗いてみたい衝動に駆られたが、すぐ思いかえして、それを放りなげ、下駄で散々にふみつけた。折箱の隅からは桃色の羊羹がぬるぬるとはみ出した。彼はお祖母さんの頭でもふみつけるような気がして、胸がすうっとなった。
 間もなくお祖母さんが騒ぎ出した。むろん、みんなもそれにつづいて騒いだ。「次郎!」「次郎!」と呼ぶ声が、あちらからも、こちらからも聞えた。しかし、次郎はもうその時には風呂小屋のそばの大きな銀杏いちょうの樹の上に登って、そこから下を見おろしていた。
 直吉の頓狂な叫び声で、みんなが畑に出て来た。ふみにじられた折箱を囲んで、さまざまの言葉が入り乱れた。
「まあ、何ということでしょう。」
 お民が青い顔をして言った。俊亮はみんなのうしろに立って、腕組をして考えこんでいた。
「あれ、あれ、勿体もったいもない。」
 お糸婆さんは、いかにも勿体なさそうに、そう言って、ぺちゃんこになった折箱を拾いあげた。しかし、どうにも始末に終えないとみて、お祖母さんの顔をうかがいながら、すぐまた地べたに放りなげた。
 みんなはあきらめて、ぞろぞろと母屋の方に帰りかけた。
「おやっ。」とお祖母さんが銀杏の根元に眼をやりながら叫んだ。次郎の下駄をそこに見つけたのである。次郎はしまったと思った。
「直吉、竹竿を持っておいで。」
 お祖母さんは、次郎を見上げて物凄い顔をした。さすがに次郎もうろたえた。彼は大急ぎで木から滑り降りて、庭の方に逃げ出した。
「直吉、表の方からまわって、次郎をつかまえておくれ、俊亮も、今度こそはしっかりしておくれよ。」
 そう言って、お祖母さんは自分で次郎のあとを追いかけた。次郎はすばしこく植込をぬけ、座敷の縁を上って、家の中に逃げこんだ。座敷と茶の間との間は仏間になっている。そこは、お燈明がともっていないと、昼間でも真っ暗である。次郎は、そこに飛びこむと、平蜘蛛ひらぐものように畳に体を伏せて息を殺した。
 抹香まっこうくさい空気が、しめっぽく彼の鼻を出はいりする。
「どこに失せおった。」
 お祖母さんは、はあはあ息をしながら仏間へ這入って来たが、すぐ、
「なむあみだぶ、なむあみだぶ。」
 と、念仏をとなえた。
 次郎は、なるだけ体を小さくするために、足を引っこめたが、それがついお祖母さんの足に引っかかった。お祖母さんは、枯木のように畳の上に倒れた。
「誰か来ておくれ!」
 お祖母さんは、今にも息の切れそうな声で叫んだ。次郎は、その間にはね起きて、毬のように座敷をぬけると、再び庭に飛び出した。
 しかし、そこには、俊亮が默然もくねんと腕組をして立っていた。次郎は、彼と眼を見あわせた瞬間に、急に身動きが出来なくなってしまった。
「次郎、父さんについて来い。」
 次郎は、おずおずと父のあとに従った。間もなく、二人は二階の暗い一室に向かいあって坐っていた。
 俊亮は、しかし、坐っているだけで一言も言葉を発しなかった。次郎は、はじめのうちは、もじもじと膝をを動かしていたが、とうとうたまらなくなって泣き出した。すると俊亮もそっと自分の眼をこすった。
 小一時間もたったあと、二人は二階から降りて来たが、俊亮の恐ろしく緊張した顔を見ると、お祖母さんもお民も、お互に顔を見合わせただけで、何も言わなかった。