三五 薬局


 正木に来てからのお民の主治医は竜一の父だった。
 薬は三日に一度貰うことになっていたが、その使いをするのは、いつも次郎の役目だった。それが次郎にとって何よりの楽しみだった。薬局にはたいてい春子がいた。――親孝行の名において、しかも竜一をおとりに使う面倒もなく、極めて自然に「姉ちゃん」の顔が見られ、声が聞かれる。何という恵まれた機会を次郎は持ったことであろう。
 最初の一回だけは、彼は薬局の窓口から薬壜くすりびん薬袋くすりぶくろとを差出した。すると、美しい眼がすぐ窓口から次郎をのぞいた。そして、
「あら、次郎ちゃんじゃない? こちらにおはいり。」
 次郎は、むろん躊躇しなかった。そして第二回目からは、案内も乞わないで、さっさと薬局の中に這入りこんだ。たまには足音を忍ばせて春子を驚かしたりすることもあった。
 調剤の時には、春子はいつも真っ白な上被うわぎをかけ、うぶ毛のはえた柔かな腕を、あらわに出していた。次郎にはその姿が非常に清らかなもののように思われた。彼は春子が仕事をしている間は、自分からはめったに話しかけなかった。そして、ガラスや金属のふれあうひそかな音に耳をすましながら、一心に彼女の手つきを見つめた。
 春子は、ガラスの目盛をすかして見たりしながら、よく次郎に母の容態ようたいをたずねた。そんなときには、次郎はいかにも心配らしく、かなり大ぎょうな調子で、自分の直接知っていることや、祖母たちの話していることを伝えた。そして、春子が眉根をよせたり、眼を見張ったり、「まあ、まあ」と叫んだり、或いは笑顔になったりする表情を、自分自身に対する深い同情のしるしとして受取り、甘い気分になってそれに陶酔とうすいするのであった。
 彼が薬局に来ているのを知ると、竜一がすぐ飛んで来て、彼をほかの部屋に誘い出そうとした。次郎は、しかし、それをあまり喜ばなかった。そして、心の中で、自分の来ていることが竜一に知れなければいい、などと思ったりすることがあった。で、学校などで、竜一に、今度はいつ来るかときかれても、あいまいな返事をすることが多かった。
 しかし、竜一の存在は、彼にとっていつも邪魔であるとは限らなかった。ほかに薬を貰いに来ている人がないと、竜一はきまって自分と次郎とのために、春子におやつをねだり、それを二階の子供部屋で一緒に食べるのだった。春子も手があいているかぎり、必ず二人の相手をした。次郎にとってはおやつも嬉しかったが、春子に相手になって貰うことが、それ以上に嬉しかった。もしおやつも春子も一緒であれば、それが最上だったことはいうまでもない。
 しかし、あまり永く次郎が遊んでいるのを、春子は決して許さなかった。薬壜を渡されてから、三十分以上も次郎がぐずぐずしていると、春子はきまって言った。
「お母さんが待っていらっしゃるわ。もう帰らないと。」
 次郎は、そう言われないうちに立ち上りたいとは、いつも思っていた。しかし思っているだけで、それに成功したことは一度だってなかった。彼は最後の十分間ほどを、いつもはらはらしながら過した。そして春子のその言葉を聞くたびにいつも後悔した。しかし、一旦、そう言われると、彼はもうぐずぐずはしなかった。いかにも「うっかりしていた」というような顔つきをして思い切りよく立ち上った。この時の彼の「さようなら」は、決して元気のない声ではなかった。
 次郎は脊は低かったが、同じ年配のどの少年にも負けないほど、足の速い子であった。ことに竜一の家で三十分以上も遊んだ場合には、おどろくほどの速さで帰って行った。一方は櫨並木なみき、一方は芦のしげった大川の土堤を、短距離競走でもやっているかのように走って行く彼の姿を、村人たちはしばしば見るのであった。それは、「お使に行っても決して道草を食わない子だ。」という正木の家でのこのごろの定評を裏切るのは、彼としてあまり好ましいことではなかったからである。
 ところで、こうした定評などにかまっていられない、一つの重大な、彼にとっては恐らく最も不幸だと思われる事件が、彼に近づいて来た。それは春子の身上に関することであった。
 暑中休暇が始まるのもあと二三日という、ある日の朝、竜一は学校で次郎の顔を見ると、いかにも得意らしく言った。
「僕、休みになったら、すぐ東京見物に行くよ。次郎ちゃんは東京に行ったことある?」
 次郎は侮辱されたような気がして、ちょっと不愉快だった。しかし、怒る気にはなれなかった。それに好奇心も手伝って、もっと委しい話をきかないわけにはいかなかった。
「いいなあ。東京に親類があるんかい。」
「ううん。まだ親類はないんだけれど、すぐ親類が出来るんだい。」
 次郎にはわけがわからなかった。彼は竜一の顔を問いかえすように見たが、竜一はにやにや笑っているだけだった。
「誰がつれて行くんだい。」
 そうたずねた次郎の心には、もし竜一の父だと、その留守中、母の病気は誰がてくれるだろうか、というかすかな心配があった。
「大てい母さんだろうと思うけれど、はっきり決ってないや。僕は父さんの方がいいんだがなあ。」
「でも病人をほったらかしちゃいけないんだろう。」
「だから、父さんはどうしても行けないんだってさ。でも、姉ちゃんは、母さんがついて行く方が好きなんだよ。」
「姉ちゃんも行くんかい。」
 次郎は、薬局から当分春子の姿が消えるんだと思うと、急に淋しい気がした。
「姉ちゃんが行くんだよ。だから僕らもついて行くんだよ。」
 次郎の頭には、竜一が「すぐ親類が出来る」と言った言葉が、電光のように閃いた。そして、急に竜一の顔がにくらしくなり、もう相手になって話したくないような気にさえなった。しかし、一方では、いつまでも竜一にくっついて、どんづまりまできいてみないではいられないような気もした。
「いつ帰るんだい。」
「学校が始まるまでに帰るよ。」
「母さんもかい。」
「うむ、だって僕一人では帰れないんだもの。」
「姉ちゃんは?」
 次郎は何でもないことをきいているように見せかけようとして、竜一と肩を組んだが、その声は変に口の中でねばっていた。
「姉ちゃんも一緒に帰るよ。」
 次郎はほっとした。同時に、竜一の肩にかけていた彼の腕が少しゆるんだ。しかし、竜一はつづけて言った。
「だけど、またすぐ東京に行くんだろう。東京にお嫁入りするんだから。」
 次郎は、木の枝から果物をもいだ瞬間、足をふみはずして落っこちたような気がした。
 まもなく始業の鐘が鳴った。次郎は教室に這入っても春子のことばかり考え続けた。竜一の言ったことは、まるで出たらめのような気もした。しかし、それにも拘らず、春子が遠くに消えていくたよりなさが、一秒一秒と彼の胸の奥にしみていくのだった。春子のお嫁入り、それは次郎にとって少しも悲しいことではない。彼は、村の娘たちの嫁入姿をこれまで何度も見たのであるが、そんな時に春子の場合を想像しても、それは美しいまぼろしでこそあれ、決して苦痛とは感じられなかった。また春子の相手が、何処の誰であろうと、それも次郎にとって、ほとんど問題ではない。その人物を想像してそれに対して、敵意を持つというような気には少しもなれないのである。彼には、ただ春子が薬局から姿を消すのがたまらなく淋しい。それもこの近在にでもいて貰えばまだいい。夏休み中だけで帰って来るのなら、辛抱も出来る。しかし、竜一の言うのが本当なら、彼女は遠い東京に去るのである。もう一度帰って来るにしても、結局は永久にこの村から姿を消すのである。あれほど自分を可愛がっておきながら、どうしてそんな遠いところに行く気になれたのだろう。自分が幼いころからほしいと思っていた「姉」、やっと平気で「姉ちゃん」と呼びうるようになったその「姉」が、どうしてこんなに無造作むぞうさに自分から離れて行くのだろう。
 彼の心には、お浜に別れた時のかすかな記憶があらたに甦って来た。その時のこまかな事実は、もう大てい忘れているが、言いようのない淋しさのために、地の底にでも吸いこまれるように感じたことは、今でもはっきり覚えている。その感じが再び彼の胸にうずきはじめた。むろんその頃とは年齢もちがうし、お浜と春子との彼に対する関係が同じでないことぐらいは、よくわかっている。春子はただ友達の姉というに過ぎない。薬を貰いに行くたびにどんなに親しみをましていようとも、お浜に期待したものを春子にも期待していいとは決して思わない。道理の上では、それは十分納得のいくことである。しかし、それにもかかわらず、春子に対する彼の気持の上での期待は、お浜に対するのとあまり変らない。否、それが当面の生々しい問題であるだけに、遠い過去のそれよりも一層痛切であるとさえいえる。お浜はいわばもう絵に描いた乳母である。それがものを言わないのは淋しい。しかし、その淋しさは諦めのつく淋しさである。思い出してその絵を見る時だけの淋しさである。忘れていることも出来る淋しさである。期待と名のつくほどのものが彼の心に動くには、お浜は、あまりにも古い絵になり過ぎている。だが春子はまだ決して絵ではない。彼女のいかなる部分も生きて動いている。眼が笑い、唇がものを言い、髪が揺れ、白い指が薬壜をふっている。しかも、次郎にとっては、喜び以外の何者でもない唯ひとりの「姉」である。かりに彼女とお浜とが、同時に次郎の生活に飛びこんで来て、彼に対する愛情の競争をやるとしたら、多分「姉」は「乳母」に勝をゆずらなければならないであろう。しかし、「姉」が生きた人間で、「乳母」が絵でしかない場合、次郎でなくとも、「姉」を失うことこそ、より大きな不幸と感ずるであろう。
 授業はひるですんだ。その間に何度も鐘が鳴って、彼は教室を出たり這入ったりした。しかし彼が学校に居ることをはっきり意識したのは、ほとんど鐘が鳴り出す瞬間だけであった。それほど彼の心は春子のことに集中していたのである。
 集中したといっても、何かを頭の中で工夫していたのではなかった。彼はただ美しい「姉」の姿を追った。それが汽車に乗って遠くに運ばれて行くのを見た。地図で想像する東京の近くまで来ると「姉」の顔も、列車も、一つの点に消えうせた。あとは、何もかもがらんとしていた。それは光でもない、闇でもない、灰色の音のない世界であった。その灰色の世界には、いつの間にか再び「姉」の顔が浮かび出した。そしてまた東京の方に消えた。彼の頭の中には、何度も何度もそれがくりかえされた。教室では先生の指図さしずに応じて、本を開いたり、鉛筆を動かしたりはした。しかしそれは全く機械的だった。運動場ではボール投もやり、角力もとった。しかし、彼は何度もボールを取り落し、角力ではすぐ押し出された。
「次郎ちゃんは、今日は真面目にやらないんだから、駄目だい。」
 仲間たちは、何度もそんな不平を言った。次郎は、しかし、力のない微笑をもらすだけだった。
 彼は竜一ともほとんど口をきかなかった。しかし、いよいよ最後の授業が終って教室を出ると、彼はすぐ竜一をつかまえて言った。
「一緒に君んとこへ行ってもいい?」
 竜一はむろん喜んだ。二人はすぐ並んで歩き出したが、校門を出ると、次郎は急に立ちどまって何か考えるようなふうだった。
「どうしたい。早く行こうや。」
 竜一がうながした。すると次郎は、
「君、さきに帰っとれよ。僕すぐ行くから」
 彼は午飯のことを思い出したのだった。午退けのために弁当を持って来ていないのに、竜一の家に行くのが気まずかったのである。
「どうしてだい。」
「どうしてでもいいから、さきに帰っとれよ。」
 彼はそう言って、さっさと門内に這入ってしまった。竜一は不平そうな顔をして、しばらく彼を見ていたが、仕方なしに、他の仲間たちと一緒に帰って行った。
 次郎はしばらく、教員室に最も遠い校舎の角の、日陰になったところに、一人でぽつねんと立っていた。そして掃除当番のがたぴしさせる音が少ししずまったころ、再び校門を出た。
 強い日照の路を、彼はかなりゆっくり歩いた。そして竜一の家についてからも、しばらく内の様子をうかがってから、敷居をまたいだ。敷居をまたぐと、すぐ左側は薬局の窓だったが、中はしいんとしていた。彼はいつものように自分勝手に上りこむ気になれず、いかにも遠慮深そうに、「竜ちゃあん。」と呼んでみた。どこからも返事がない。遠くの方から、食器のふれるような音が、かすかに聞えて来る。彼はもう一度呼んでみる勇気が出なくて、そのまま上り框に腰をおろした。
 彼は少しつかれていた。戸外のぎらぎらした光線が、汗ばんだ彼の顔を褐色に光らせていた。彼は気が遠くなるような、息がはずむような変な気がした。
「あら、次郎ちゃんじゃない? 今日はお薬の日だったの?」
 だしぬけに春子の声がうしろにきこえた。次郎はうろたえて立ち上りながら、
「ううん、竜ちゃんは?」
「竜一? いるわ。たった今学校から帰って、ご飯たべたところなの。次郎ちゃんも学校のお帰り? ご飯まだでしょう?」
「うん、僕たべたくないや。」
「どうかしたの?」
「ううん。」
 次郎は首をふった。春子はちょっと変な顔をして彼を見つめたが、
「じゃ二階に上ってらっしゃい。すぐ竜ちゃんを呼んで来てあげるわ。」
 春子はそう言って奥へ行った。次郎には彼女がいつもよりよそよそしいように思われて仕方がなかった。来なければよかったというような気もした。しかし、そのまま帰るのも工合がわるくて、またぽつねんと立ったまま戸外をながめていた。
 竜一が間もなく走って来た。二人はすぐ二階にあがった。次郎はつとめていつもの通りに振舞おうとしたが、やはり気が落ちつかなくて、二人の遊びはしばしば間がぬけた。春子が二階に上って来たのは、それから三十分も経ってからであった。
 彼女は、父が病家から持って帰ったらしいお菓子の紙包を、二人の前にひらきながら、
「ほんとに次郎ちゃん、今日はどうしたの。学校の帰りにより道なんかして。」
「…………」
「何かまたいたずらをしたんじゃない?」
「ううん。」
「お母さんが心配なさるわよ。」
「…………」
「おかしいわね。默ってばかりいて。」
「…………」
「ほんとに、どうしたのよっ。」
 春子は、めすらしく真剣に怒っているような声を出した。すると次郎は、それとはまるで無関係のように、真面目な顔をして、だしぬけにたずねた。
「姉ちゃんは、東京に行くの?」
「あらっ。」
 春子の顔は、瞬間に真赧まっかになった。そしてすぐ竜一の方を見ながら、
「竜ちゃん、もう喋ったのね。いいわ、もうこれからなんにも上げないから。」
 春子は菓子の包みをひったくるようにして、さっさと下に降りて行ってしまった。
 竜一と次郎とは、ぽかんとして顔を見合わせた。しかし次の瞬間には、次郎はもうそわそわし出した。彼は、幾日かの後に失わるべき春子が、すでに彼から全く姿を消してしまったように思った。そして何よりも彼をうろたえさせたのは、春子を怒らしてしまったことであった。
 竜一は、しかし、憤慨した。
「馬鹿にしてらあ。東京に行くの大喜びのくせに。……お菓子くれなきゃ、くれないでいいや。僕とって来るから。」
 そう言って竜一はすぐ下に行った。
 次郎はいよいようろたえた。彼は竜一が菓子をもって再びやって来るのを待っている気がしなかった。で、自分もすぐ下におりて、足音を忍ばせながら、大急ぎで外に出てしまった。
 正木の家に帰ると急に空腹を感じて、しきりに飯をかきこんだ。そして誰もたずねもしないのに掃除当番でおそくなったのだ、と何遍も言訳をした。むろんそれにしては時間がおくれ過ぎていたが、別に誰も怪しむものはなかった。
 翌日は薬を貰いに行く日だった。次郎は何となく行きづらいような、それでいて早く行ってみたいような気がした。薬局の外には、六七人の人が待っていたが、彼が敷居をまたぐ音がすると、すぐ窓から春子の眼がのぞいた。そして、
「次郎ちゃん? ここでも二階ででもいいから、しばらく待っててね。今日は、ほら、こんなに沢山待っていらっしゃるから。」
 次郎はほっとした。そしてすぐ薬局の中に這入って、例のとおり春子の調剤の手つきを見まもった。
「次郎ちゃんは、昨日默って帰っちゃったのね。あたしが怒ったからでしょう。堪忍してね。」
 春子は微笑しながら言った。しかし東京行きのことは、みんなの調剤が終るまで一言も言わなかった。そして次郎が薬壜を受取って、部屋を出ようとすると、
「あたしがお薬をこさえてあげるの、これでおしまいよ。」
 と言った。その声は少しさびしかった。次郎はふりかえって、じっと春子の顔を見た。春子も彼を見つめた。
「いつ東京にたつの?」
「五六日してからだわ。でも、今夜あたしの代りをする人が来るんだから、明日からはその人にやっていただくの。」
 次郎は默って歩き出した。すると春子は、
「ちょっと待っててね。」
 そう言って奥に走って行った。そして紙に包んだものをもって帰って来ると、
「今日は竜ちゃんがいないから、これ、帰ってから食べてちょうだいね。」
 次郎は泣きたくなった。彼はほとんど無意識に紙包を受取ると、默って外に出た。
 午後の日は暑かった。彼は大川の土堤に来ると、斜面の櫨の木の陰にねころんだ。そして紙包から菓子を出して、むしゃむしゃたべながら、青空の中に春子の顔を描いていた。

三六 火傷


 村の夏祭が近づいて、大川端で行われる花火の噂が村人の口に上るころになると、子供たちも薬屋から硝石と硫黄とを買って来て、それに木炭の粉末をまぜて火薬を造り、毎晩小さな台花火だいはなびなどをあげて、楽しむのだった。彼らは「しだれ桜」だとか、「小米の花」だとか「飛雀とびすずめ」だとか、そういった台花火のいろいろの名称を知っていたが、むろん彼らにそんな巧妙なものが出来ようはずはなかった。彼らはただ小さな竹筒に手製の火薬をつめ、それをいくつも竿に結びつけて水際に立て、下から順々に火を点じてさえいけば、それで満足したのである。もし、一筋の糸が張ってあり、それを伝って一つの花火が突進し、それを導火にして、一番下の竹筒が火を吹きはじめ、あとは次第に上に燃え移るように口火がつながっており、それに最上端の花火が廻転する仕掛にでもなっていれば、それは彼らの工夫としては、最上のものであった。中には、火薬の中に鉄粉をまぜて、青い花火を出して見せようと試みる者もあったが、それに成功するものは極めてまれであった。
「次郎ちゃん、買って来たよ。」
 ある日、次郎が例のとおり病室の次の間で、憂欝な顔をして机の前に坐っていると、誠吉が縁側から這いあがって来て、こっそり耳うちした。それは春子が東京に去ってから数日後のことであった。
 彼は相変らず、「いじらしい子」ではありたかった。しかし、春子が去ったあと、彼が心にもない善行をつづけていくには、彼の心はあまりにも淋しかった。それでなくてさえ、花火の誘惑は、このごろ日ごとに彼の心を刺戟して、もうじっとしては居れなくなっていた。で、今日はとうとう誠吉に例の貯金の中から銅貨を何枚か渡して、誰にも秘密に、硝石と硫黄とを少しばかり買って来てもらったのである。
 彼は誠吉を手真似で制しておいて、そっと病室の方をのぞいてみた。母はしずかに眼をとじている。敷布の上をはっていた蠅が、彼女の額に飛びうつったが、彼女はかすかに眉をよせただけである。蠅はすぐまたどこかへ飛んでいってしまった。祖母も茣蓙をしいて向うむきにねている。夜中に眼をさますことが多いので、午後になると、大ていぐっすり昼寝をする習慣になっている。ことに次郎が近くにいると、祖母は安心してねるのである。
 次郎は、お祖母さんが眠っている時に出て行くのは悪いような気がして、ちょっとためらった。しかし、正木の家では、花火は危険だからと言って、なるだけ子供たちには作らせないことにしている。お祖母さんが目を覚ましている時だと、何とか口実を作らなければならないが、それも面倒だ。眠っている間に火薬の調合だけでもすましておく方が都合がよい。そう思って彼はすぐ立ち上った。そして、誠吉を顎でしゃくって先に行かせ、その後から、足音を立てないように、縁側を降りると、いっさんに築山のかげに走って行った。
 そこには、もう蝋鉢と擂古木すりこぎと消炭の壺とが、誠吉によって用意されていた。二人は先ず硝石しょうせきを擂り、次に硫黄を擂った。擂られた硝石と硫黄とはべつべつの紙に包まれて、大事に石の上に置かれた。最後に消炭を擂るのだったが、それは分量が多いだけに骨が折れた。二人は代る代る擂古木をまわした。一人が擂古木をまわしている時には、もう一人は鉢が動かないようにそのふちをおさえていた。消炭は、指先で揉んでも、少しもざらざらした感じがしないまでに擂らなければならなかった。そのために、二人は、汗がしばしば顎をつたって鉢の中にしたたり落ちたほど、一所懸命になって擂古木をまわした。
 消炭が十分擂れたところで、硫黄と硝石との粉が、適当の割合に、鉢の中に加えられた。あとはよくまぜれば、よかったのである。しかしよくまぜるには、やはり擂古木で擂る方が一番よかった。
 で、次郎が先ず擂った。次に誠吉が擂った。次郎は、両手で鉢をおさえ、出来るだけ顔を鉢に接近さして中をのぞきながら、
「もういい、もういいよ。」と言った。
 その時誠吉がすぐ手を休めさえすれば、何事もなくてすんだかも知れなかった。しかし誠吉はおまけのつもりで、しかも最後だというのでうんと力を入れて、急速度に擂古木をまわした。
 とたんに火薬は一度に爆発した。音は高くはなかった。それはぼっとした夢のような音だった。しかし、鉢の縁とすれすれに顔を近づけていた次郎は、その音にはじかれたように、草の上に突っ伏してしまった。
「次郎ちゃん、次郎ちゃん。」
 誠吉の緊張した、しかし、人をはばかるような声が、次郎の耳元できこえた。次郎は気を失っていたわけではなかった。しかし、その声をきくまでは、彼は泥水の底に沈んでいるような気がしていた。
 起きあがって眼を開けると、まつ毛がじかじかした。顔がほてって、皮膚が変に硬ばっていた。彼は誠吉を見ながら、心配そうに訊ねた。
「僕の顔、どうかなってる?」
「まっ白だい。煙がくっついているんだろう。」
 次郎はそっと手で顔をさわってみた。ぬるぬるしたものがくっついているような気がする。さほどひどくはないが、ぴりぴりした痛みを覚える。
「早く水で洗っておいでよ。」
 誠吉が言った。
 次郎は離室や座敷の方をそっとのぞいてから、池の水を両手ですくって、顔にもっていった。が、それと同時に彼は悲鳴に似た声をあげ、再び築山のかげに走って来た。彼の顔は、ところどころまぐろの刺身のように真赤だった。誠吉は眼を皿のようにして立ちすくんだ。
 次郎は草の上に仰向けに寝ころんで、ふうふう息をした。顔全体から炎が吹き出しているような感じだが、どうすることも出来ない。彼はただ手足をばたばたさして苦痛をこらえた。誠吉は全身をぶるぶるふるわせながら、しばらくそれを見ていたが、急に声を立てて泣き出した。そしていっさんにどこかに走って行った。
 間もなくお延が子供たちと一緒に走って来たが、次郎の顔を見ると、
「あれえっ。」
 と、けたたましい叫び声をあげた。
 つづいて雇人たちがどやどやとやって来た。すこしおくれて謙蔵が来た。最後にお祖父さんが来た。そしてお祖母さんは、離室はなれの縁から、
「どうしたのだえ。どうしたのだえ。」
 と、もどかしそうに何度も叫んだ。
 しばらくはただ騒がしかった。次郎はその間じゅう、眼をつぶってうめいていた。彼の苦痛は実際ひどかった。が、彼はうめきながらも、みんなの驚きや、心配や、同情の程度をひそかに測定することを忘れなかった。そして、彼のむごたらしい面相と、苦痛を訴えるうめき声とによって、彼の悪行――少くとも大きな過失に対する非難は、とっくに帳消しにされてしまっているらしいのを知って、内心ほっとした。実際彼には、言訳をするだけの心のゆとりがなかった。また言訳をしようとしても、証拠があまりに歴然としていて、全くその余地が残されていなかった。そんな場合に、彼が自分の過失からうけた災害が、みんなの同情をひくほど大きかったということは、彼にとって何という仕合わせなことであったろう。
 彼はみんなにいたわられ、慰められながら、母屋の方に運ばれた。そして取りあえず卵の白身を顔一ぱいに塗られ、その上に紙を張られた。その時になって彼自身も気がついたことだが、手頸から親指にかけても、かなり大きく皮膚がただれていた。そこにも卵の白身が塗られた。
 それから一時間あまりもたって、竜一の父が来た。そして今度は変な匂いのする黄いろいものをべたべたと塗りつけ、眼と口だけを残して、ほとんど頭全部に繃帯をかけた。彼は繃帯をかけながら言った。
「ほんの上皮だけだから大したことはない。しかし、笑ったり泣いたりして、顔をゆがめちゃいかん。」
 そのくせ、彼自身はそう言いながら笑っていた。
 次郎は、寝ているには及ばない、と言われた。しかし起きれば母の部屋に顔を出さないわけにはいかない。それは気づまりで、彼はもう大して痛みを感じなくなってからも、じっと寝ていた。いろんな人が彼をのぞきに来たが、誰も彼も、
「案外大したことでなくてよかった。」とか「もう痛みはとれたのか。」とか、そういった同情的な言葉だけを残して行った。
 誠吉はお延にひどく叱られたらしい。彼も実は、右手の小指から手首にかけて、細長く火ぶくれがしていたが、それを誰にもかくしていた。夜になって、こっそり次郎にだけそれを打ちあけ、枕元にあった黄いろい薬を少し貰って塗りつけながら、彼は母に叱られた話をした。
「お祖父さんに叱られやしない!」
 次郎は、祖父にだけまだ言葉をかけてもらえないでいるのが、非常に気がかりだった。
「ううん、何にも言わないよ。」
 誠吉は無造作に答えた。しかし次郎は、そう無造作に言われると、かえって胸が重たくなった。彼は、祖父の自分に対する愛がこのごろ衰えたとは決して思っていない。だが、その愛には何かおかしがたいものがあって、うっかり飛びついて行けないような気がする。牛肉一件以来彼はそうした気持になっているのである。その意味で、祖父に愛されていることは、彼にとって一つの重荷でさえあると言える。しかし、それだからといって、彼は祖父の愛から逃げ出したい気持には少しもなれない。何といっても、祖父は正木の家では他の誰よりも大きな魅力を持っている。もし祖父の彼に対する愛が少しでも冷めかかったと知ったら、彼は恐らく、春子に別れた時とは全くちがった、あるどす黒い絶望を感じたかも知れない。それほどの祖父でありながら、いざ自分から近づいて行こうとすると、何となく気おくれがする。それはちょうど大海の真青な波に心をひかれながら、思いきって飛びこめないのと同じ気持である。で、彼はいつも遠くから、祖父の本当の気持をそれとなく探ろうとする。ことに今日のようなことがあると、それが一層ひどい。そして、うまくそれが探れないと、彼の気持はみじめなほど憂鬱になって行くのである。
 翌日は、彼はもう我慢にも寝ていられなかった。そして起きあがると、お祖父さんの目につくようなところを何度も行ったり来たりして、何とか言葉をかけて貰うのを待っていた。しかしお祖父さんは、いつもちらりと彼の方を見るだけで、容易に口を利こうとはしなかった。次郎は、あとでは、口を利いてさえ貰えばそれがどんな烈しい叱言であってもいいような気にさえなった。しかし、お祖父さんの口は依然として固かった。
 次郎は絶望に似たものを感じながら、母の病室に行った。彼は、そこでは、最初から母の叱言こごとを予期していた。ところが、母はただまじまじと彼の繃帯でくるんだ顔を見つめるだけだった。そして、かすかな溜息をもらすと、すぐ眼をそらしてしまった。
「お坐り。」
 お祖母さんがやさしく声をかけてくれた。彼はやっと救われたような気になって、彼女の横に坐った。
「そのぐらいですんだからいいようなものの、眼でもつぶれてごらん。それこそ大変だったよ。これからはもう花火なんかこさえるんじゃないよ。」
 次郎はおとなしくうなずいた。
「お祖父さんにはもうあやまって来たのかい。」
 次郎ははっとした。彼は、これまでみんなが彼に同情的な言葉ばかりかけてくれていたため、自分の方から誰にもあやまって出なくてもいいような気になってしまっていた。しかしお祖母さんにそう言われてみると、やはり自分の方からあやまって出るのが本当だ。お祖父さんが口を利いてくれないのも、或いは自分があやまって出ないためではなかろうか。そう思って彼はお祖母さんの顔を覗きながら答えた。
「ううん。」
 お祖母さんは、しかし、それっきり默ってしまった。そしてお民と眼を見合わせた。お民はお祖母さんからすぐ視線を転じて次郎を見たが、やはり口を利かなかった。
 次郎はすぐ一切を悟った。
(みんなは自分がお祖父さんにあやまって出るのを待っているのだ。それは彼らの間に、もうすっかり話し合いが出来ているらしい。)
 そう気がつくと、彼はすぐ立ち上った。むろん彼はこれまで、叱言を言われない先に自分から進んで誰にも謝罪をした経験がなかった。だから、ちょっと勝手がちがうような感じだった。しかし彼は、もう一刻もぐずぐずしている時ではないように思ったのである。
 お祖父さんは、座敷の縁で、謙蔵を相手に何か話していた。次郎は思いきってそばに行き、窮屈そうに坐った。そして何にも言わないで手をついて、お辞儀をした、すると、お祖父さんはすぐ言った。
「ほう、あやまりに来たのか、それでいい、それでいい、それでいい気持になったじゃろう。どうじゃ。」
 次郎の眼からは、ぽたぽたと涙が縁板にこぼれた。
「泣くことはない。泣くと、繃帯がぬれるぞ。それに、顔がゆがんでしまったらどうする。はっはっはっ。」
 お祖父さんの笑声につれて、謙蔵も笑った。次郎は、しかし、いつまでもうつむいて、鼻をすすっていた。

三七 母の顔


 真夏に、顔全体を繃帯で巻き立てているのは、かなりつらいことであった。また、そのためにかえって化膿かのうしたりする恐れもあったので、二三日もたっと、薬だけが紙にのばして貼られることになった。
 繃帯をかけない次郎の顔は、まことに見苦しかった。自身鏡をのぞいて見て、ぞっとしたほどであった。黄いろい薬の間から、ところどころに赤黒い肉がのぞいていて、眉のところがのっぺりしている。彼はおりおりこの村に物貰いにやって来るらい病患者の顔を思い出した。そして、どんなに暑苦しくても繃帯を巻いている方がいいとさえ思った。
 東京に行っている竜一から、ある日絵はがきが来た。それには、春子からも「お土産を待っていらっしゃい」と書きそえてあった。次郎は非常に喜んだ。しかし、すぐ自分の顔の見苦しさを思った。そして、二人が帰って来るまでに、あたりまえの顔になれるだろうかと心配した。
 夏休みもあと十日ほどになったころには、薬を塗らなければならない部分は、鼻がしらと頬の一部だけになった。しかし、治った部分も、赤く、てかてか光っていて、当分は普通の色にもどりそうになかった。次郎自身には、薬を塗っている時よりも、かえって無気味にさえ思えた。
 彼の火傷やけどが治って行くのとは反対に、お民の病気は次第に重くなって行った。喀血かっけつがないので急激な変化は見せなかったが、暑気がひどくこたえたらしく、衰弱が日ましに加わって行くのが誰の眼にも見えた。
 俊亮は、これまで大てい一週に一度は顔を見せていた。しかしどういうわけか、恭一や俊三をつれて来ることはめったになかった。夏休みになったら、すぐにもつれて来てゆっくりさせるのだろうと、次郎も期待し、正木一家でもそう噂していたが、やっと二人が父につれられて来たのは、次郎が火傷をしてから五六日もたった頃であった。
 次郎の火傷が三人を驚かしたことはいうまでもない。しかし、俊亮は正木一家から一通り説明をきくと、
「いやどうも、いつまでっても仕様のない奴で。ご心配をおかけして申訳ありません。」と言ったきり、すぐ話をお民の病状にうつしてしまった。お民の話になると、みんなの調子ががらりと変った。半ば笑いながら火傷の話をしていたみんなの様子が急に沈んで行った。そばで聞いていた次郎は何だか置きざりにされたような気がした。そこで彼は恭一と俊三とを別のところにつれて行って、しきりに火傷の話をした。
 次郎はそれから二人を母の病室につれて行ったが、お民は、二人の顔を見ると、力のない微笑をもらしたきりだった。三人は手持無沙汰でしばらくそこに坐っていた。するとお祖母さんが、
「あちらで遊んでおいで、騒がないでね。」
 そう言われると、次郎はすぐ二人を庭につれ出した。
 そして自分の火傷をした現場を二人に説明した。
 俊亮は二人を残してその日のうちに帰った。帰りがけに彼は次郎を呼んで言った。
「お母さんに見えるところで、兄弟喧嘩をするんじゃないぞ。」
 次郎は、自分はどうせ喧嘩をするものだときめてかかっているような父の口吻こうふんが、ちょっと不平だった。そして、
(母さんに見えるところでなくったって、喧嘩なんかするもんか。父さんは、このごろ自分がどんなだかちっとも知らないんだ。)
 と思った。
 火傷のことは、俊亮はもう何とも言わなかった。次郎は安心したような、物足りないような気持で、父に別れた。
 火傷をしたあと、母の薬を貰いに行く役目は、従兄弟たちが代ってやってくれた。春子にあえる楽しみもないし、かりにあえても、彼女に見苦しい顔を見られたくなかったのだから、次郎としては大助かりだった。それに、恭一や俊三がやって来てからは、うまい口実が出来たような気がして、めったに病室にも落ちつかなかった。彼は誠吉と一緒に二人を近くの溜池につれ出してよく鮒を釣った。
 四五日して、珍しく本田のお祖母さんがやって来た。今度は火傷のことが大ぎょうに問題にされた。彼女は、お民の病気よりその方の話により多くの興味を覚えるらしかった。彼女は幾度も幾度も、
「親不孝の天罰というものでございます。」と言った。そして次郎に対して、
「お母さんの病気が重くなるのも無理はないよ。それでお前は看病をしている気なのかい。」
 と、いかにも、みんなの前で自分が責任を以て次郎を戒めている、といったような調子で言った。次郎はその時そっぽを向いていた。すると、本田のお祖母さんは、正木の老人の方を向いて訴えるように言った。
「ほんとに、どう致したらよいものでございますやら。すぐにも私の方に引取らなくてもよろしゅうございましょうか。」
 誰も、しかし、真面目になって受け答えするものがなかった。次郎にもよくその場の空気が呑みこめた。だから、彼はあまり腹もたてず、かえって、それ見ろ、といったような気にさえなるのだった。
 本田のお祖母さんが来たのは、午少し前だったが、三時ごろまで病室に坐りこんで、正木のお祖母さんを相手に、病人を預けておく言訳やら感謝やらを、くどくどと述べたてた。むろんその間には、次郎のこともしばしば話の種になった。そして、彼女はとりわけ調子を強めてこんなことを言った。
「お民さんにせよ、次郎にせよ、遠く離れていますとよけいに気にかかるものでございまして、わたくし、このごろ毎晩のように二人の夢を見るのでございます。」
 次郎たちは、次の間からそれを聞いていた。
 しかし、三時をうつと、彼女は急にそわそわし出した。そしていかにも言いにくそうに、
「わたくし、一晩ぐらいは看病もいたさなければなりませんが、今日は俊亮もちょっと遠方に出ていますし、店の方が小僧任せにしてありますので、日が暮れないうちにお暇いたしたいと存じます。まことに勝手でございますが……」
 お民も、正木のお祖母さんも、ほっとしたらしかった。しかし、本田のお祖母さんはすぐには立ち上らなかった。そして、次の間にいた子供たちの方に眼をやりながら、言った。
「ああして大勢ご厄介になっているのも、かえって病人の邪魔になるばかりでございましょうから、一先ず、わたくし、つれて帰りたいと存じます。次郎も、もし火傷の薬さえきまって居りましたら、一緒でもよろしゅうございますが……」
 次郎は、それで自分も一緒に行くことになりはしないか、などと心配する必要はすこしもなかった。しかし、恭一や俊三に帰ってしまわれるのは、いやだった。まだ一度だって喧嘩もしていないし、それに、恭一には、中学校の入学の参考になることを、これからもっと聞きたいと思っている。第一、母さんの病気が重いのに、帰ってしまうのはよくないことだ。今は休みなんだから。――彼はそんなことを考えて病室の様子をうかがっていた。
「邪魔なんてことはちっともございません。お民も毎日三人のそろった顔が見られるのが楽しみのようでございますから。」
「それはさようでございましょうとも。でも、私どもといたしましては、病人をお預けしたうえに、みんなで押しかけて参っているようで、まことに面目がございませんし、やはり行ったり来たりということにさせていただきたいと存じて居ります。」
「そんなことは、こちらでは何とも思うものはございませんが……」
「そりゃもう、こちら様のお気持はよくわかって居りますし、いつも俊亮ともそう申しているのでございます。でも、やはり世間の眼もありますので……」
「世間など、どうでもよいではございませんか。それを言えば、第一、病人をお預りすることからして間違っていましょうから。」
 正木のお祖母さんは、別に皮肉を言うつもりではなかった。しかし、それは本村のお祖母さんにとっては、何よりも痛い言葉だった。正木のお祖母さんも、言ってしまってから、はっとしたらしかった。
 いやな沈默がつづいた。庭では蝉がじいじい鳴いていた。
「恭一、――俊三、――」と、お民は次の間の方に顔を向けて二人を呼んだ。二人がやって来ると、力のない声で、
「お祖母さんがお帰りだから、今日はお前たち一緒にお帰り。またすぐ来ていいんだから。」
 そう言って彼女は眼をとじた。眉根にはかすかな皺がよっていた。
 本田のお祖母さんは、不機嫌な顔を強いて柔らげながら、丁寧に正木のお祖母さんに挨拶した。お民にも何かと親切そうな言葉をたてつづけに言った。そして二人の孫をうながして立ち上った。
 実をいうと、本田のお祖母さんは、恭一や俊三に病気をうつされるのが恐かったのである。それをていよくごまかそうとして、妙な羽目になったので、病室を出てからも、正木一家の人達に対して、よけいなあいそを言わなければならなかった。そんなわけで、彼女はいよいよ正木の家を辞するまでには、大方小半時もかかった。
 次郎は見おくっても出なかった。彼は畳の上にねそべって、母の青い顔を見つめていた。すると、母の眼尻から、彼の全く予期しなかったものが、ぼろぼろとこぼれ落ちた。それは不思議なかがやきをもって彼の心にせまった。
「母さん、どうしたの?」
 次郎は、はね起きて母の枕元によって行った。母は、しかし、もうその時には、うるんだ眼に、微笑をたたえて、次郎を見ていた。そして、
「次郎だけは、いつもあたしのそばにいて貰えるわね。」
 次郎は、彼の五六歳ごろから見なれて来た母の顔を、もうどこにも見出すことが出来なかった。そこには全くちがった母の顔があった。そしてその顔から、お浜にも、春子にも、正木のお祖母さんにも見出せなかったある深い光が、泉の底の月光のように、静かにふるえて流れ出しているのを、次郎は感ずることが出来たのである。

三八 再会


 九月の新学期が始まるころには、次郎の眉も可笑しくないほどに伸びていた。皮膚の色はまだまだらだったが、人に気味悪がられるほどではなかった。次郎はむろん学校に行くつもりでいた。しかし、お民の病気は、すでにその頃は危篤に近い状態だったので、引きつづき休む方がよかろうということになった。
 次郎は、実は一日も早く竜一に会ってみたかった。会って東京の様子もきき、また春子がいよいよ本式に上京するのはいつ頃になるのか、それも知りたかった。で、彼は、学校は三十分もかからないところだし、出来れば一寸でも出てみたい、と思わないではなかった。しかし、お民はこの数日、次郎の姿が見えないと、不思議なほど寂しがった。そして彼に薬をのませて貰ったり、手を握っていて貰ったりするのを、何よりの楽しみにしているらしかった。飲みたくない薬でも、次郎の手からだと、喜んで口にするというふうだった。
 次郎にしても、母のその気持には、こみあげて来るような喜びを感じた。彼は、母を看護することによって、彼がかつて知らなかった純な感情を昧うことが出来た。彼の行為は、少くとも母の枕頭でだけは、偽りも細工もない、ひたむきなものになっていた。で、竜一に会ってみたいという気持も、彼を何時間も病室から引きはなしておこうとするまでには強く仂かなかった。
 お民は、いよいよいけなくなる四五日前、枕元に坐っていた次郎の顔をまじまじと見ていたが、その眼を正木のお祖母さんの方に向けて言った。
「お浜の居どころはわかりましたか知ら。」
 次郎は、このごろ、お浜のことはほとんど忘れていた。彼には「お浜」という言葉が、全く耳新しくさえ響いた。それに、彼の記憶に残っている限りでは、母とお浜とは、仲のいい間柄ではなかった。だから、母のその言葉を聞いた時には、彼は喜ぶというよりもむしろ不思議に思ったくらいであった。お祖母さんは答えた。
「ああ、そうそう、まだお前には言わなかったのかね。何でも、駐在所の方に頼んで調べて貰ったので、よくわかったんだそうだよ。やっぱり今でも炭坑で仂いているんだとさ。」
「では、呼んで貰いましょうか知ら。」
「そうかい、是非会いたけりゃ、すぐにでも呼べるんだがね。でも、お前大丈夫かい。ひさびさで会って、気が立ったりしては、病気に悪いんだがね。」
 実は、お浜には二三日前に、すでに正木の老人から手紙が出してあり、まさかの時には電報を打つから、すぐ来るようにと、必要な旅費まで送ってあるのだった。お祖母さんはそれをお民にかくしていたのである。
「大丈夫ですわ。」
 お民はにっこり笑って、また次郎を見た。
 電報がすぐ打たれた。次郎はそれから妙に浮き浮きしだした。しかし、それは嬉しくてたまらないからではなかった。嬉しいには嬉しいが、その奥に不安とも、好奇心ともつかぬ、えたいの知れないものが動いていた。彼は自分の落着かない気持を自覚して、それを母に見せまいとつとめたが、彼の動作はいつもそれを裏切った。彼は用もないのに、部屋を出たり入ったりした。薬の時間でもないのに、ひょいと薬壜くすりびんをとり上げ、その目盛をすかして見たり、栓をぬいてみたりした。また、ぽかんとして庭を見つめていて、急に気がついたように母の顔をのぞいたりした。お民は彼のそんな様子を見ながら、いつも微笑していたが、彼はその微笑にでっくわすと、よけいにそわそわした。
 お浜は、電報を受取ってすぐたちさえすれば、翌日の夕方までには着くはすであった。次郎はお祖母さんの言葉でそれを知っていた。しかし彼は、その時刻になっても病室に落ちついていて、お浜のつく時間なんか忘れているかのように見えた。そのくせ、彼の言ったり、したりすることは、とんちかんなことが多かった。彼の頭の中は、もうお浜で一ぱいであった。眼の前にお浜の顔が始終現れたり消えたりした。それはさほど鮮明ではなかったが、かえってそのために、彼はまぼろしの中に吸いこまれるような気持だった。
「次郎ちゃんの乳母やが来たよう。」
 誠吉が跣足で庭をまわって来て、そう言うと、またすぐ走って行った。
 次郎は思わず立ち上りそうにしたが、強いて自分を落ちつけた。
「早く迎えておいでよ。」
 祖母と母とがほとんど同時に言った。次郎はそれですぐ立ち上ったが、さほどせきこんでいるふうには見えなかった。それでも、母屋に行くまでの彼の足が宙に浮いていたことは、彼自身が一番よく知っていた。
 お浜はもう茶の間に坐って、正木の老人とお延を相手に話していた。誠吉やそのほかの従兄弟たちは、土間に立って、珍しそうにその様子を眺めていた。次郎がはいって行くと、お浜は持っていた団扇を畳に置いて、中腰になりながら、
「まあ。」と叫んだ。その叫声には、ほとんど喜びの調子はこもっていなかった。それは異様なものを見た驚きの叫びだった。次郎の火傷のあとのまだらな皮膚の色が、彼女をびっくりさせたのである。
 お延がそれに気がついてすぐ説明し出した。説明をききながらも、お浜は何度も次郎の顔に目を見張った。次郎はお祖父さんのそばに坐って、まぶしそうにその視線をよけていた。
 説明を聞き終ると、お浜は眉根をよせて次郎の方に膝をのり出しながら、
「以前からおいたでしたが、今でも相変らずね。でも、大したことにならないで、ようございましたわ。」
 彼女は、次郎と自分との間に二三尺の距離があるのがもどかしそうであった。次郎は、しかし、お客にでも行ったように行儀よく坐って、固くなっていた。彼のこの時の気持は実に変てこだった。彼の前に坐って物を言っているのは、なるほど三年前に別れた乳母やにはちがいない。しかし、同時に全く別人のような気もする。それはちょうど、着なれた着物を一度しまいこんで、久方ぶりにまた取り出して着る時のような感じである。
 お浜は、たてつづけにいろんなことを彼にたずねた。彼は、しかし、ただ「うん」とか「ううん」とかいう簡単な返事をするだけであった。その簡単な返事ですら、いつものように自然には出なかった。時とすると、はじめて人に対するような、ていねいな返事をしそうになることさえあった。
「お民も待ちかねているようだから、では、ちょいと顔を見せておいてくれ。次郎、お前乳母やを母さんのところへつれておいで。」
 お祖父さんは、ひととおり二人の問答がすんだところで、言った。二人はすぐ立ちあがった。
 病室に行く途中、お浜は次郎のかたいだくようにして歩いた。
「すいぶんお脊が伸びましたわね。」
 次郎は、急に以前の気持がしみ出て来るような気がした。そして、自分の方から何か口を利いてみたいと思ったが、急にはうまい言葉が見つからなかった。
 病室にはいると、お浜はお祖母さんには挨拶もしないで、いきなり病人の枕元まくらもとに坐った。やはり次郎の肩に手をかけたままだったので、次郎も一緒に坐らなければならなかった。彼女は坐ったきりうつむいてしまって一言も言わなかった。次郎は彼女の膝にぽたぽたと涙が落ちるのを見た。
「まあ、よく来てくれたね。」
 お祖母さんの方からそう挨拶されて、お浜は、急いで涙をはらいながら、笑顔を作った。そして、
「ほんとに申訳もないご無沙汰をいたしまして。……ご病気のことなど、ちっとも存じませんものですから。」
 二人の間には、それからしばらくいろいろのことが話された。お民もちょいちょいそれに口を出した。話は大ていお互いのその後のことについてであった。次郎はそれによって、弥作爺さんが死んだこと、お兼がもう奉公に出て、いくらかの金をみつぐこと、お鶴が学校で優等賞を貰ったことなどを知った。次郎は、古い校舎の片隅の校番室の様子を思い出しながら、それをきいた。本田の引越しの理由や、次郎とお民が正木に来ているいきさつなどは、ごくあいまいにしか話されなかった。お祖母さんは、
「子供がだんだん大きくなって、中学にはいるようになると、何かにつけ町に住む方が都合がよさそうだよ。」
 とか、
「次郎は、お前の手をはなれてから、半分はここで育ったようなものだから、お祖父さんが手放そうとなさらないのでね。」
 とか、
「お民の病気には、何といっても田舎の空気がいいのだよ。」とか言って、すべてをぼかしてしまっていた。しかしお浜には何もかも推察がついたらしく、彼女はおりおり溜息をついて、次郎の顔を見た。次郎はそのたびに、何か知ら窮屈きうくつな感じがした。
 双方の話が一段落ついたころに、お民はふとお浜の方に顔をむけ、しみじみとした調子で言った。
「お浜や、わたしお前に会えて、すっかり安心したよ。」
「まあ勿体ない――。」と、お浜はもうあとの言葉が出なかった。お民はしばらくしてから、
「次郎も大きくなったでしょう。」
「ええ、ええ。さっきもびっくりしたところでございます。」
「あたし、この子にも、お前にも、ほんとうにすまなかったと思うの。」
「まあ、何をおっしゃいます。」
「子供って、ただ可愛がってやりさえすればいいのね。」
 お浜には、お民の言っている深い意味がわからなかった。しかし、気持だけはよく通じた。
「あたし、それがこのごろやっとわかって来たような気がするの。だけど、わかったころには、もう別れなければならないでしょう。」
「まあ、奥様――」
「あたし、死ぬのはもう恐くも何ともないの。だけど、この子にいやな思いばかりさせて、このままになるのかと思うと……」
「そんなことあるものでございますか。」
「あたし、このごろ、いつもこの子に心の中であやまっているのよ。」
「まあ、――まあ、――」
 次郎は、もうその時には、うつむいて涙をぽたぽた落していた。
「でもね、この子もどうやらあたしの気持がわかってくれているようだわ。あたし、何となくそんな気がするの。それでいくらかあたしも安心が出来そうだわ。……でも、お前にも一度あやまっておかないと、気がすまなかったものだからね。」
「まあ、とんでもない。」と、お浜は袖口を眼にあてて、
「坊ちゃん……まあ何て坊ちゃんはお仕合せでしょう。お母さんにあんなに思っていただくんですもの。外に坊ちゃんを可愛がっていただく人が、だあれもいなくても、もうこれからは大丈夫ですわね。……たった一人ぽっちになっても、きっと、きっと坊ちゃんは誰よりも正直な、お偉い人になれるでしょう。」
 次郎はだしぬけにお浜の膝にしがみついて、顔をおしあてた。惑乱わくらん寂寥せきりょうとが、同時に彼の心をとらえていた。「ひとりぽっち」という言葉が異様に彼の胸に響いたのである。
 お民の眼からも涙が流れていた。
 お浜は、次郎の背をなでながら、
「でも一人ぽっちになんか、なりっこありませんわね。お父さんがいらっしゃるし、こちらのお祖父さんやお祖母さんもいらっしゃるんですから。それにあたしだって、遠くからいつも坊ちゃんのこと神様にお祈りしていますわ。」
「次郎や、――」と、お民はぬれた眼をしばだたいて、じっと何かを見つめながら、
「あたしは、乳母やよりもっと遠いところから、きっと次郎を見ててあげるわよ。だから、……だから、……腹が立ったり、……悲しかったりしても、……」
 そのさきは息がはずんで、誰にも聞きとれなかった。お祖母さんは、さっきから鼻をつまらせて二人の話をきいていたが、
「今日はもう話すの、およしよ。そう一ぺんに話して疲れるといけないから。」
「ええ、よしますわ。……ああ、あたし、これでせいせいしました。」
 そう言ってお民は眼をとじた。
 その晩は、むろん次郎とお浜とは同じ蚊帳の中に寝た。お浜は、暑いのに、夜どうし次郎の肩に自分の手をかけては、引きよせた。次郎は、自分の手先がお浜のたるんだ乳房にさわるごとに、はっとして寝がえりをうった。彼はよく眠れなかった。それはお浜に引きよせられるからばかりではなかった。このごろ彼の胸にはっきり映り出した母の澄みとおった愛と、ひさびさでよみがえった乳母の芳醇ほうじゅんな愛とが、彼の夢の中で烈しく熔けあっていたからである。

三九 母の臨終


 お浜に会ってからのお民は、不思議なほど静かに眠った。それは、興奮のあとの疲労というよりは、すべてを処理し終ったあとの安心から来る落ちつきであった。しかし、それと固時に、冷たい死は刻々に彼女に近づきつつあったのである。
 翌日は、医者の注意で、電報や使いが方々に飛ばされた。午すぎには、本田から俊亮が恭一と俊三とをつれてやって来た。その日は、しかし、幸いにして何事もなかった。お民は、眼をさましては周囲を見まわし、三人の子供が並んで坐っているのを見ては安心するらしかった。口はほとんど利かなかった。ただ俊亮に対して、
「こんなにたびたび店をおあけになっては、あとでおこまりではありません?」と言った。それをきくと俊亮は、周囲の静かな空気に不似合な声で、大きく笑った。それは誰の耳にもわざとらしく響いた。しかし、お民はそれに対してもさびしく笑ったきりだった。
 その後二日間は同じような容態ようだいがつづいた。そのうちに遠方の親類も来るものは大てい来た。広い正木の家も、さすがに、病室以外はそれらの人たちでごったがえしだった。謙蔵はふだんの無口にも似ず、ほとんど自分一人で、食事や夜具のことなどを、てきぱきと指図していた。次郎は食事のたびごとにその様子を見て、いつもの謙蔵とはちがった人のように感じた。彼にとって、謙蔵はもう決して不愉快な存在ではなかった。相変らず無愛想であったが、無愛想なままに次郎には何となく頼もしく思えた。
 母の枕元に坐って、その死を予想する次郎の気持には、恭一や俊三とは比較にならないほど深刻なものがあった。しかし一方では、彼は不思議なほど落ちついていた。それは永らく母の病床に附添って、そうした気持を毎日くりかえして来たせいもあったが、もっと大きな理由は、彼が母の心をしっかりと握りしめているような感じがしたからであった。母に別れるのはたまらなく悲しい。ことに、懺悔ざんげに似た心で彼に最後の愛を示してくれてからの母は、彼自身の魂そのものにすらなっている。それはもはや彼から引き放せないまでに固く結ばれているという感じそのものが、彼にある深い安心と落ちつきとを与えたのである。
 それに、彼の周囲に対する気持は、この二三日急角度に転回をはじめていた。彼はこれまで、お浜をのぞいては、ほとんどすべての人に対して、多少とも警戒して来た。俊亮や正木老夫婦に対してすら彼は心から素直にはなり得なかったのである。こうして彼は、自分を愛する者に対しても、愛しない者に対しても、常に何らかの技巧を用いた。技巧はいわば彼の本能というべきものになってしまっていたのである。ところがこの数日彼は全く技巧を忘れたかのようになっている。彼はもはや何人に対しても警戒していない。謙蔵に対してすらも、彼は何のこだわりもなく話しかけることが出来るのである。すべての人が、今や彼と彼の母にとって親しみ深い人のように思える。それはみんなの眼が母の寝顔に集中して、そのかすかな一つの動きにも一喜一憂しているからばかりではない。彼はかれ自身で知らない間に、彼自身の心から永い間の猜疑心さいぎしんをとりのぞいていたのである。そしてその奇蹟が、彼の生命の根である母の、真実のこもった、わずかの涙と言葉との結果でなかったと誰が言い得よう。
 お民の臨終は、俊亮たちが来てから四日目の午前九時ごろだった。それは極めてしずかな臨終だった。誰もさほどはげしい動揺を見せなかった。かすかなため息と、すすり泣きと、念仏の声とが、あるかなきかに吹き入って来る初秋の風の中に、しずかに漂った。
 臨終の少し前に、次郎たち兄弟は年の順に死水をとってやった。次郎は鳥の羽根を母の唇にあてながら、母がかすかにうなずくのを見るような気がした。彼は不思議に涙が出なかった。左右に、恭一と俊三とが、しきりに鼻をすすっている音を耳にしながら、彼はただ一心に母の顔を見つめていた。彼は母のすべてを深く心に刻みつけて置こうとするかのようであった。彼の両腕は棒のように彼の膝の上につっ張っていた。
 いよいよ臨終が宣言されて、周囲がざわめき出しても、彼はやはり石のように坐っていた。恭一と俊三とが両方から彼の顔をのぞいて立ち上ったのにも、彼は気がつかなかったらしい。
「次郎――」
 正木のお祖父さんが、うしろから、そっと彼の肩をたたいた。彼はやっと自分にかえって、眼を母の顔から放した。そして、その時はじめてすべてを諒解したかのように、彼の眼に涙がこみあげて来た。彼はいきなり畳の上につっ伏して声をあげた。
「次……次郎――」
 お祖父さんのふるえを帯びた声が、頭の上にきこえて、その手が再び彼の肩にさわった。
「坊ちゃん――。」
 悲鳴に似たお浜の声がつづいてきこえた。そしてその瞬間に、彼の顔はお浜の膝に、お浜の顔は彼の背中に、ふるえながらつっ伏していた。
 周囲から鳴咽おえつの声がくずれるようにきこえ出した。その声の中を、次郎はお浜に抱かれるようにして部屋を出た。
 死体は間もなく座敷にうつされた。次郎は、お浜や俊亮や正木の老夫婦に慰められて、やっと涙がとまると、むせるように線香の匂いのする母の枕元に、默々として坐りこんだ。そして帷子かたびらの紋附をさかさにかけられた母の死体を、一人でじっと見つめていた。彼には、ともするとそれがかすかに息をしているかのように見えた。しかし、弔問ちょうもん客が来て、その顔の覆いが取りのけられるごとに、彼の眼にまざまざとうつるものは、まぎれもなく、氷のような死顔であった。
 本田のお祖母さんは、やっと午後になってやって来た。そして死人の前に坐るなり、いかにも絶え入るような声で、いろいろとくどき立てた。臨終の間にあわなかった詫びが、先ず最初だった。それから、
「何という美しい仏様におなりだろう。」とか、
「子供を三人もこの老人に投げかけて、一人で先に行ったのがうらめしい。」
 とか、
「どうして世の中には、こうさかさま事が多いのだろう。」とか、いったようなことを、次第に芝居じみてわめき立てた。俊亮は、それを聞きながら、眼のやり場に困っていたが、とうとうたまりかねて、
「お母さん、――お母さん――」と声をかけた。それでもまだ彼女が死人のそばを離れそうにないので、彼はいきなり立上って、彼女の肩をゆすぶり、叱るように言った。
「そんなに泣かれては、仏が迷います。それより念仏でも唱えてやって下さい。」
 するとお祖母さんは、
「ほんとうに、まあ、老人甲斐もなく、取りみだして申訳もない。なむあみだぶ、なむあみだぶ。」と、けろりとした顔をして死人のそばを離れた。そしてそれからは、「なむあみだぶ」の連発だった。
 次郎はむろんお祖母さんの闖入ちんにゅうによって、ひどく気分をみだされた。しかし彼はもう、彼がこれまで彼女からうけていたような強い圧迫を感じなかった。「意地の悪い敵」としての彼女が、いつの間にか「みじめな、一人ぽっちの老婆」に変りかけていたのである。
 少し落ちついたころ、葬式をどこから出すかが問題になったが、町の方にはまだ大して近づきもないし、それに、本田の墓地がこちらにあるのに、わざわざ死体を町に運ぶまでもあるまいということになった。しかし、正木の家から葬式を出すのも変だというので、この近在では例のないことだったが、途中葬列を廃して、寺で告別式だけを行うことになった。この事についても、本田のお祖母さんは、しきりに世間体を気にしていたが、寺での告別式なら正木から葬式を出したことにはならないし、正木の家はただの病院だったと思えば何でもない、と言いきかされると、彼女はそれでやっと納得なっとくがいった、といったような顔をした。
 まだ暑い季節だったため、入棺はその晩のうちにすまされた。子供たちは、代る代る石で棺の蓋を打ちつけたが、次郎は、力をこめてそれを打ちおろす気には、どうしてもなれなかった。釘の頭に石がふれた瞬間、彼は全身が弾きかえされるような気がした。
 入棺が終ると、彼は、何もかも最後だという気がして、急に力がぬけた。彼はもう何も見たくなくなった。真暗なところに一人でいたいような気がした。で、そっと座を立って庭におりた。木立をくぐって築山のうしろまで行くと、そこから星空が広々と仰がれた。彼は、かつてお祖父さんに教わった北極星、――「いつまでも動かない星」――をその中に見出した。彼は一心にそれを見つめた。見つめているうちに、その光は次第にうるんだ母の眼の輝きに似て来た。そして母の顔全体が、いつの間にかその周囲にはっきりとあらわれた。お浜の顔がおりおりそれにかさなった。同時に、彼の頭の中には、校番室以来の彼の記憶が、つぎつぎに絵巻物のように繰りひろげられはじめた。
 だが、この時彼の心を支配したものは、悲しみでも憤りでもなかった。彼の心はふしぎに静かだった。
 彼は、「運命」によって影を与えられ、「愛」によって不死の水をそそがれ、そして「永遠」に向かって流れて行く人生のすがたを、彼の幼ない智恵の中に、そろそろと刻みはじめていたのである。

「次郎物語」は一先ずここで終る。しかし、次郎の一生がそれと同時に終りを告げたわけではむろんない。彼のほんとうの生活は、実はこれから始まるであろう。彼の家庭生活や学校生活はどう変って行くか。異性との交渉はどうなるか。そして、結局この大きな社会と彼はどう取っくみあって行くか。これらをくわしく物語りたいのは、筆者の心からの願いである。しかし、次郎は今母に死別したばかりである。彼のこれからの生活を知っているものは神様だけしかない。で、もし何年か、何十年かの後に、この物語を読んだ誰かが、幸にして次郎と相る機会を得、そして彼の生活に興味を覚えるとしたら、恐らくその人がこの物語のつづきを書いてくれるであろう。