九一

 遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵だんしゃく家の鷹匠たかじょうなり。町の人綽名あだなして鳥御前とりごぜんという。早池峯、六角牛の木や石や、すべてその形状と在処ありどころとを知れり。年取りてのち茸採きのことりにとて一人のつれとともに出でたり。この連の男というは水練の名人にて、わらつちとを持ちて水の中に入り、草鞋わらじを作りて出てくるという評判の人なり。さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山むけえやまという山より、綾織あやおり村の続石つづきいしとて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山のより四五けんばかりなる時刻なり。ふと大なる岩のかげあかき顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢であいたり。彼らは鳥御前の近づくを見て、手をひろげて押し戻すようなる手つきをなし制止したれども、それにもかまわず行きたるに女は男の胸にすがるようにしたり。事のさまより真の人間にてはあるまじと思いながら、鳥御前はひょうきんな人なればたわむれてらんとて腰なる切刃きりはを抜き、打ちかかるようにしたれば、その色赭き男は足をげてりたるかと思いしが、たちまちに前後を知らず。連なる男はこれをさがしまわりて谷底に気絶してあるを見つけ、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までに更になきことなり。おのれはこのために死ぬかも知れず、ほかの者には誰にもいうなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。家の者あまりにその死にようの不思議なればとて、山臥やまぶしのケンコウ院というに相談せしに、その答えには、山の神たちの遊べるところを邪魔したる故、そのたたりをうけて死したるなりといえり。この人は伊能先生なども知合しりあいなりき。今より十余年前の事なり。

九二

 昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早池峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下りふもと近くなるころ、たけの高き男の下より急ぎ足に昇りくるに逢えり。色は黒くまなこはきらきらとして、肩には麻かと思わるる古き浅葱色あさぎいろ風呂敷ふろしきにて小さき包を負いたり。恐ろしかりしかども子供の中の一人、どこへ行くかと此方より声を掛けたるに、小国おぐにさ行くと答う。この路は小国へ越ゆべき方角にはあらざれば、立ちとまり不審するほどに、行き過ぐると思うまもなく、はや見えずなりたり。山男よと口々に言いてみなみな遁げ帰りたりといえり。

九三

 これは和野の人菊池菊蔵という者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より来たる者なり。この妻親里へ行きたる間に、糸蔵という五六歳の男の病気になりたれば、昼過ひるすぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり。名に負う六角牛の峯続きなれば山路は樹深く、ことに遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウドになりて両方はそばなり。日影はこの岨に隠れてあたりやや薄暗くなりたるころ、後の方より菊蔵と呼ぶ者あるに振り返りて見れば、がけの上より下をのぞくものあり。顔は赭く眼の光りかがやけること前の話のごとし。お前の子はもう死んで居るぞという。この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはっと思いたりしが、はやその姿は見えず。急ぎ夜の中に妻をともないて帰りたれば、果して子は死してありき。四五年前のことなり。
ウドとは両側高く切込みたる路のことなり。東海道の諸国にてウタウ坂・謡坂などいうはすべてかくのごとき小さき切通しのことならん。

九四

 この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、振舞ふるまわれたる残りのもちふところに入れて、愛宕山のふもとの林を過ぎしに、象坪ぞうつぼの藤七という大酒呑おおざけのみにて彼と仲善なかよしの友に行き逢えり。そこは林の中なれど少しく芝原しばはらあるところなり。藤七はにこにことしてその芝原をゆびさし、ここで相撲すもうを取らぬかという。菊蔵これを諾し、二人草原にてしばらく遊びしが、この藤七いかにも弱く軽く自由にかかえては投げらるるゆえ、面白きままに三番まで取りたり。藤七が曰く、今日はとてもかなわず、さあ行くべしとて別れたり。四五けんも行きてのち心づきたるにかの餅見えず。相撲場に戻りて探したれどなし。始めて狐ならんかと思いたれど、外聞を恥じて人にもいわざりしが、四五日ののち酒屋にて藤七に逢いその話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしものをと言いて、いよいよ狐と相撲を取りしこと露顕したり。されど菊蔵はなお他の人々には包み隠してありしが、昨年の正月の休みに人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれもじつはとこの話を白状し、大いに笑われたり。
○象坪は地名にしてかつ藤七の名字なり。象坪という地名のこと『石神問答いしがみもんどう』の中にてこれを研究したり。

九五

 松崎の菊池某という今年四十三四の男、庭作りの上手じょうずにて、山に入り草花を掘りてはわが庭に移し植え、形の面白き岩などは重きをいとわず家ににない帰るを常とせり。或る日少し気分重ければ家を出でて山に遊びしに、今までついに見たることなき美しき大岩を見つけたり。平生へいぜいの道楽なればこれを持ち帰らんと思い、持ち上げんとせしが非常に重し。あたかも人の立ちたる形してたけもやがて人ほどあり。されどほしさのあまりこれを負い、我慢して十間ばかり歩みしが、気の遠くなるくらい重ければ怪しみをなし、みちかたわらにこれを立て少しくもたれかかるようにしたるに、そのまま石とともにすっと空中にのぼり行く心地ここちしたり。雲より上になりたるように思いしがじつに明るく清きところにて、あたりにいろいろの花咲き、しかも何処いずこともなく大勢の人声聞えたり。されど石はなおますますのぼり行き、ついには昇り切りたるか、何事も覚えぬようになりたり。その後時過ぎて心づきたる時は、やはり以前のごとく不思議の石にもたれたるままにてありき。この石を家の内へ持ち込みてはいかなることあらんもはかりがたしと、恐ろしくなりて遁げ帰りぬ。この石は今も同じところにあり。おりおりはこれを見て再びほしくなることありといえり。

九六

 遠野の町に芳公馬鹿よしこうばかとて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。この男の癖は路上にて木の切れちりなどを拾い、これをひねりてつくづくと見つめまたはこれをぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことしておりおりこれを嗅ぐなり。この男往来をあるきながら急に立ちどまり、石などを拾い上げてこれをあたりの人家に打ちつけ、けたたましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすればその晩か次の日か物を投げつけられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度となくあれば、のちにはその家々も注意して予防をなすといえども、ついに火事をまぬかれたる家は一軒もなしといえり。

九七

 飯豊いいでの菊池松之丞まつのじょうという人傷寒しょうかんを病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺ぼだいじなるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に前下まえさがりに行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われずこころよし。寺の門に近づくに人群集せり。何故なにゆえならんといぶかりつつ門を入れば、くれない芥子けしの花咲き満ち、見渡すかぎりも知らず。いよいよ心持よし。この花の間にくなりし父立てり。お前もきたのかという。これに何か返事をしながらなお行くに、以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。この時門の辺にて騒しくわが名をぶ者ありて、うるさきこと限りなけれど、よんどころなければ心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。親族の者寄りつどい水など打ちそそぎてかしたるなり。

九八

 路の傍に山の神、田の神、さえの神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。また早池峯山・六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し。

九九

 土淵村の助役北川清という人の家は字火石ひいしにあり。代々の山臥やまぶしにて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿むこに行きたるが、先年の大海嘯おおつなみに遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子とともにもとの屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道もなみの打つなぎさなり。霧のきたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、遥々はるばる船越ふなこし村の方へ行く崎のほこらあるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛かわいくはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元あしもとを見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦おうらへ行く道の山陰やまかげめぐり見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中みちなかに立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しくわずらいたりといえり。

一〇〇

 船越の漁夫何某。ある日仲間の者とともに吉利吉里きりきりより帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢う。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺にべき道理なければ、必定ひつじょう化物ばけものならんと思い定め、やにわに魚切庖丁うおきりぼうちょうを持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てて死したり。しばらくの間は正体を現わさざれば流石さすがに心に懸り、あとの事をつれの者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者におびやかされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。さてはと合点がてんして再び以前の場所へ引き返してみれば、山にて殺したりし女は連の者が見ておる中についに一匹のきつねとなりたりといえり。夢の野山を行くにこの獣の身をやとうことありと見ゆ。

一〇一

 旅人豊間根とよまね村を過ぎ、夜け疲れたれば、知音ちいんの者の家に灯火の見ゆるをさいわいに、入りて休息せんとせしに、よき時に来合きあわせたり、今夕死人あり、留守るすの者なくていかにせんかと思いしところなり、しばらくの間頼むといいて主人は人をびに行きたり。迷惑千万めいわくせんばんなる話なれど是非もなく、囲炉裡いろりの側にて煙草タバコを吸いてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見ればとこの上にむくむくと起き直る。胆潰きもつぶれたれど心をしずめ静かにあたりを見廻みまわすに、流しもとの水口の穴より狐のごとき物あり、つらをさし入れてしきりに死人の方を見つめていたり。さてこそと身をひそひそかに家の外に出で、背戸せとの方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ後足あとあし爪立つまたてていたり。有合ありあわせたる棒をもてこれを打ち殺したり。
○下閉伊郡豊間根村大字豊間根。

一〇二

 正月十五日の晩を小正月こしょうがつという。よいのほどは子供ら福の神と称して四五人群を作り、袋を持ちて人の家に行き、あけの方から福の神が舞い込んだととなえて餅をもらう習慣あり。宵を過ぐればこの晩に限り人々決して戸の外に出づることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でて遊ぶとい伝えてあればなり。山口の字丸古立まるこだちにおまさという今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。いかなるわけにてか唯一人にて福の神に出で、ところどころをあるきて遅くなり、さびしき路を帰りしに、向うの方よりたけの高き男来てすれちがいたり。顔はすてきに赤く眼はかがやけり。袋を捨てて遁げ帰り大いに煩いたりといえり。

一〇三

 小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいう。童子をあまた引き連れてくるといえり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊そりっこあそびをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりという者は少なし。

一〇四

 小正月の晩には行事はなはだ多し。月見つきみというは六つの胡桃くるみを十二に割り一時いっときの火にくべて一時にこれを引き上げ、一列にして右より正月二月と数うるに、満月の夜晴なるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月にはすぐに黒くなり、風ある月にはフーフーと音をたてて火がふるうなり。何遍繰り返しても同じことなり。村中いずれの家にても同じ結果を得るは妙なり。翌日はこの事を語り合い、例えば八月の十五夜風とあらば、そのとしの稲の苅入かりいれを急ぐなり。
○五穀の占、月の占多少のヴァリエテをもって諸国に行なわる。陰陽道おんようどうに出でしものならん。

一〇五

 また世中見よなかみというは、同じく小正月の晩に、いろいろの米にて餅をこしらえて鏡となし、同種の米をぜんの上にたいらに敷き、鏡餅かがみもちをその上に伏せ、なべかぶせ置きて翌朝これを見るなり。餅につきたる米粒こめつぶの多きものその年は豊作なりとして、早中晩の種類を択び定むるなり。

一〇六

 海岸の山田にては蜃気楼しんきろう年々見ゆ。常に外国の景色なりという。見馴みなれぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年ごとに家の形などいささかも違うことなしといえり。

一〇七

 上郷村に河ぷちのうちという家あり。早瀬川の岸にあり。この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾いてありしに、見馴れぬ男来たり、木の葉とか何とかを娘にくれたり。たけ高く面しゅのようなる人なり。娘はこの日よりうらないの術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりといえり。

一〇八

 山の神の乗り移りたりとて占をなす人は所々にあり。附馬牛つくもうし村にもあり。本業は木挽こびきなり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神よりその術を得たりしのちは、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。その占いの法は世間の者とは全く異なり。何の書物をも見ず、頼みにきたる人と世間話をなし、その中にふと立ちて常居じょういなかをあちこちとあるき出すと思うほどに、その人の顔は少しも見ずして心に浮びたることをいうなり。当らずということなし。例えばお前のウチの板敷いたじきを取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡または刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が焼くるとかいうなり。帰りて掘りて見るに必ずあり。かかる例は指を屈するにえず。

一〇九

 盆のころには雨風祭とてわらにて人よりも大なる人形にんぎょうを作り、道のちまたに送り行きて立つ。紙にて顔をえがうりにて陰陽の形を作り添えなどす。虫祭の藁人形にはかかることはなくその形も小さし。雨風祭の折は一部落の中にて頭屋とうやえらび定め、里人さとびと集まりて酒を飲みてのち、一同笛太鼓ふえたいこにてこれを道の辻まで送り行くなり。笛の中にはきりの木にて作りたるホラなどあり。これを高く吹く。さてその折の歌は「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」という。
○『東国輿地よち勝覧』によれば韓国にても厲壇れいだんを必ず城の北方に作ること見ゆ。ともに玄武神の信仰より来たれるなるべし。

一一〇

 ゴンゲサマというは、神楽舞かぐらまいの組ごとに一つずつ備われる木彫きぼりの像にして、獅子頭ししがしらとよく似て少しくことなれり。甚だ御利生ごりしょうのあるものなり。新張にいばりの八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村字五日市いつかいちの神楽組のゴンゲサマと、かつて途中にて争いをなせしことあり。新張のゴンゲサマ負けて片耳かたみみを失いたりとて今もなし。毎年村々を舞いてあるく故、これを見知らぬ者なし。ゴンゲサマの霊験れいげんはことに火伏ひぶせにあり。右の八幡の神楽組かつて附馬牛村に行きて日暮ひぐれ宿を取り兼ねしに、ある貧しき者の家にてこころよくこれをめて、五升ますを伏せてその上にゴンゲサマをえ置き、人々はしたりしに、夜中にがつがつと物をむ音のするに驚きて起きてみれば、軒端のきばたに火の燃えつきてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上り飛び上りして火をい消してありしなりと。子どもの頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を噛みてもらうことあり。

一一一

 山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡ひわたり、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野れんだいのという地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るのならいありき。老人はいたずらに死んでしまうこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口をぬらしたり。そのために今も山口土淵辺にてはあしたに野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。
ダンノハナは壇の塙なるべし。すなわち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭るための塚なりと信ず。蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』中にいえり。

一一二

 ダンノハナは昔たてのありし時代に囚人をりし場所なるべしという。地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンノハナは大洞おおほらへ越ゆる丘の上にて館址たてあとよりの続きなり。蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東はすなわちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷という。此所には蝦夷屋敷えぞやしきという四角にへこみたるところ多くあり。そのあときわめて明白なり。あまた石器を出す。石器土器の出るところ山口に二ヶ所あり。他の一は小字こあざをホウリョウという。ここの土器と蓮台野の土器とは様式全然ことなり。後者のは技巧いささかもなく、ホウリョウのは模様もようなどもたくみなり。埴輪はにわもここより出づ。また石斧石刀の類も出づ。蓮台野には蝦夷銭えぞせんとて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。これには単純なる渦紋うずもんなどの模様あり。字ホウリョウには丸玉・管玉くだたまも出づ。ここの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料いろいろなり。ホウリョウの方は何の跡ということもなく、狭き一町歩いっちょうぶほどの場所なり。星谷は底のかた今は田となれり。蝦夷屋敷はこの両側に連なりてありしなりという。このあたりに掘ればたたりありという場所二ヶ所ほどあり。
ほかの村々にても二所の地形および関係これに似たりという。
○星谷という地名も諸国にあり星を祭りしところなり。
ホウリョウ権現は遠野をはじめ奥羽一円に祀らるる神なり。蛇の神なりという。名義を知らず。

一一三

 和野にジョウヅカ森というところあり。象を埋めし場所なりといえり。此所だけには地震なしとて、近辺にては地震の折はジョウヅカ森へ遁げよと昔より言い伝えたり。これは確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀あり。塚の上には石あり。これを掘ればたたりありという。
ジョウズカは定塚、庄塚または塩塚などとかきて諸国にあまたあり。これも境の神を祀りしところにて地獄のショウツカ奪衣婆だつえばの話などと関係あること『石神問答』につまびらかにせり。また象坪などの象頭神とも関係あれば象の伝説はよしなきにあらず、塚を森ということも東国の風なり。

一一四

 山口のダンノハナは今は共同墓地なり。岡の頂上にうつ木をえめぐらしその口は東方に向かいて門口もんぐちめきたるところあり。その中ほどに大なる青石あり。かつて一たびその下を掘りたる者ありしが、何ものをも発見せず。のち再びこれを試みし者は大なるかめあるを見たり。村の老人たち大いにしかりければ、またもとのままになし置きたり。たての主の墓なるべしという。此所に近き館の名はボンシャサの館という。いくつかの山を掘り割りて水を引き、三重四重に堀を取りめぐらせり。寺屋敷・砥石森といしもりなどいう地名あり。井の跡とて石垣いしがき残れり。山口孫左衛門の祖先ここに住めりという。『遠野古事記とおのこじき』につまびらかなり。

一一五

 御伽話おとぎばなしのことを昔々むかしむかしという。ヤマハハの話最も多くあり。ヤマハハは山姥やまうばのことなるべし。その一つ二つを次に記すべし。

一一六

 昔々あるところにトトとガガとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰がきても戸を明けるなと戒しめ、かぎを掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみていたりしに、真昼間まひるまに戸を叩きてここを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破けやぶるぞとおどゆえに、是非なく戸を明けたれば入りきたるはヤマハハなり。炉の横座よこざみはたかりて火にあたり、飯をたきて食わせよという。その言葉に従いぜんを支度してヤマハハに食わせ、その間に家を遁げ出したるに、ヤマハハは飯を食い終りて娘を追い来たり、おいおいにそのあいだ近く今にもせなに手のるるばかりになりし時、山のかげにてしばを苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、かくしてくれよと頼み、苅り置きたる柴の中に隠れたり。ヤマハハ尋ね来たりて、どこに隠れたかと柴のたばをのけんとして柴をかかえたるまま山よりすべり落ちたり。そのひまにここをのがれてまたかやを苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅り置きたる萱の中に隠れたり。ヤマハハはまた尋ね来たりて、どこに隠れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱えたるまま山より滑り落ちたり。その隙にまたここを遁れ出でて大きなる沼の岸に出でたり。これよりは行くべきかたもなければ、沼の岸の大木の梢にのぼりいたり。ヤマハハはどけえ行ったとてがすものかとて、沼の水に娘の影のうつれるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。この間に再び此所を走り出で、一つの笹小屋ささごやのあるを見つけ、中に入りて見れば若き女いたり。此にも同じことを告げて石の唐櫃からうどのありし中へ隠してもらいたるところへ、ヤマハハまた飛び来たり娘のありかを問えども隠して知らずと答えたれば、いんね来ぬはずはない、人くさい香がするものという。それは今すずめあぶって食ったゆえなるべしと言えば、ヤマハハも納得なっとくしてそんなら少しん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言いて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。家の女はこれにかぎおろし、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハハに連れて来られたる者なればともどもにこれを殺して里へ帰らんとて、きりあかく焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハハはかくとも知らず、ただ二十日鼠はつかねずみがきたと言えり。それより湯を煮立にたてて焼錐やききりの穴よりそそぎ込みて、ついにそのヤマハハを殺し二人ともに親々の家に帰りたり。昔々の話の終りはいずれもコレデドンドハレという語をもって結ぶなり。

一一七

 昔々これもあるところにトトとガガと、娘の嫁に行く支度を買いに町へ出で行くとて戸をとざし、誰がきても明けるなよ、はアと答えたれば出でたり。昼のころヤマハハ来たりて娘を取りて食い、娘の皮をかぶり娘になりておる。夕方二人の親帰りて、おりこひめこ居たかと門の口より呼べば、あ、いたます、早かったなしと答え、二親ふたおやは買い来たりしいろいろの支度の物を見せて娘のよろこぶ顔を見たり。次の日の明けたる時、家の鶏ばたきして、糠屋ぬかやすみ見ろじゃ、けけろとく。はてつねに変りたる鶏の啼きようかなと二親ふたおやは思いたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハハのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするときまた鶏啼く。その声は、おりこひめこを載せなえでヤマハハのせた、けけろときこゆ。これを繰り返して歌いしかば、二親も始めて心づき、ヤマハハを馬より引きおろして殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまたりたり。
○糠屋は物おきなり。

一一八

 紅皿欠皿べにざらかけざらの話も遠野郷におこなわる。ただ欠皿の方はその名をヌカボという。ヌカボは空穂うつぼのことなり。継母ままははにくまれたれど神のめぐみありて、ついに長者の妻となるという話なり。エピソードにはいろいろの美しき絵様えようあり。おりあらば詳しく書き記すべし。

一一九

 遠野郷の獅子踊ししおどりに古くより用いたる歌の曲あり。村により人によりて少しずつの相異あれど、自分の聞きたるは次のごとし。百年あまり以前の筆写なり。
○獅子踊はさまでこの地方に古きものにあらず。中代これを輸入せしものなることを人よく知れり。

一 まゐり来てこの橋を見申みもうせや、いかなもをざはみそめたやら、わだるがくかいざるもの
一 此御馬場このおんばばを見申せや、杉原七里大門すぎはらななりおおもんまで
一 まゐり来てこのもんを見申せや、ひの木さわらで門立かどたてゝ、これ目出めでたい白かねの門
一 もんの戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい
       ○
一 まゐり来てこの御本堂を見申せや、いかな大工だいくは建てたやら
一 建てた御人おひとは御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺なり
一 小島ではひの木さわらで門立かどたてゝ、是ぞ目出たい白金しろかねの門
一 白金の門戸びらおすひらき見申せや、あらのせだい
一 八つむねぢくりにひわだぶきの、かみにおひたるから松
一 から松のみぎり左にくいぢみ、汲めどもめどもつきひざるもの
一 あさ日さすよう日かゞやく大寺おおてら也、さくら色のちごは百人
一 天からおづるちよ硯水すずりみず、まつて立たれる
一 まゐり来てこの御台所みだいどころ見申せや、めがまを釜に釜は十六
一 十六の釜で御代ごよたく時は、四十八の馬で朝草
一 その馬で朝草にききやう小萱こがやを苅りまぜて、花でかゞやく馬屋なり
一 かゞやく中のかげこまは、せたいあがれをがきする
       ○
一 此庭に歌のぞうじはありと聞く、あしびながらも心はづかし
一 われ/\はきによならひしけふあすぶ、そつ事ごめんなり
一 しやうぢ申せやかぎりなし、一礼申して立てや友だつ
一 まゐり来てこのますを見申せや、四方四角桝形の庭也
一 まゐり来て此宿やどを見申せや、人のなさげの宿ともうす
一 まいり来て此お町を見申せや、竪町たてまち十五里横七里、△△出羽にまよおな友たつ
○出羽の字もじつは不明なり。
一 まゐり来てこのけんだんさまを見申せや、御町間中おんまちまなかにはたを立前たてまえ
一 まいは立町油町たてまちあぶらまち
一 けんだん殿は二かい座敷に昼寝すて、ぜにを枕に金の手遊てあそび
一 参り来てこの御ふだ見申せば、おすがいろぢきあるまじき札
一 高きところしろと申し、ひくき処は城下しょうかと申す也
一 まゐり来てこの橋を見申せば、こがねつじに白金のはし
一 まゐり来てこの御堂おどう見申せや、四方四面くさび一本
一 おうぎとりすゞ取り、かみさ参らばりそうある物
○すゞは数珠じゅず、りそうは利生か。
一 こりばすらに小金こがねのたる木に、水のせがくるぐしになみたち
○こりばすら文字不分明。
一 此庭に歌のじょうずはありと聞く、歌へながらも心はづかし
一 おんげんべりこおらいべり、山と花ござの御庭へさらゝすかれ
○雲繝縁、高麗縁なり。
一 まぎゑの台に玉のさかすきよりすゑて、是の御庭へ直し置く
一 十七はちやうすひやけ御手おてにもぢをすやくまわしや御庭かゝやく
一 この御酒ごしゅ一つ引受ひきうけたもるなら、命長くじめうさかよる
一 さかなにはたいもすゞきもござれども、おどにきこいしからのかるうめ
一 しようぢ申や限なし、一礼申て立や友たつ、みやこ
一 仲だぢ入れよや仲入れろ、仲たづなけれや庭はすんげない※(二の字点、1-2-22)
一 すかの子は生れておりれや山めぐる、我等もまわる庭めぐる※(二の字点、1-2-22)
○すかの子は鹿の子なり。遠野の獅子踊の面は鹿のようなり。
一 これの御庭におい柱の立つときは、ちのみがき若くなるもの※(二の字点、1-2-22)
○ちのみがきは鹿の角磨つのみがきなるべし。
一 松島の松をそだてゝ見どすれば、松にからするちたのえせもの※(二の字点、1-2-22)
○ちたはつた
一 松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぶろりふぐれる※(二の字点、1-2-22)
一 京で九貫のから絵のびよぼ、三よへにさらりたてまはす
○びよぼは屏風びょうぶなり。三よへは三四重か、この歌最もおもしろし。
一 仲たぢ入れろや仲入れろ、仲立なけれや庭すんげなえ※(二の字点、1-2-22)
○めず※(二の字点、1-2-22)ぐりは鹿の妻択つまえらびなるべし。
一 鹿の子は生れおりれや山廻る、我らもめぐる庭を廻るな※(二の字点、1-2-22)
一 女鹿めじかたづねていかんとして白山はくさんの御山かすみかゝる※(二の字点、1-2-22)
○して、字はしめてとあり。不明
一 うるすやな風はかすみを吹き払て、今こそ女鹿あけてたちねる※(二の字点、1-2-22)
○うるすやなはうれしやななり。
一 何と女鹿はかくれてもひと村すゝきあけてたつねる※(二の字点、1-2-22)
一 ささのこのはの女鹿子めじしは、何とかくてもおひき出さる
一 女鹿大鹿ふりを見ろ、鹿の心みやこなるもの※(二の字点、1-2-22)
一 奥のみ山の大鹿はことすはじめておどりできそろそろ※(二の字点、1-2-22)
一 女鹿とらてあうがれて心ぢくすくをろ鹿かな※(二の字点、1-2-22)
一 松島の松をそだてゝ見とすれば松にからまるちたのえせもの※(二の字点、1-2-22)
一 松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぞろりふぐれる※(二の字点、1-2-22)
一 沖のとちゅうの浜す鳥、ゆらりこがれるそろりたつ物※(二の字点、1-2-22)
一 なげくさを如何いかな御人おひと御出おいであつた、出た御人は心ありがたい
一 この如何いかな大工は御しあた、四つかどて宝遊ばし※(二の字点、1-2-22)
一 この御酒を如何な御酒だとおぼす、おどに聞いしが※(二の字点、1-2-22)菊の酒※(二の字点、1-2-22)
一 此銭このぜにを如何な銭たと思し召す、伊勢お八まち銭熊野参くまのまいりつかひあまりか※(二の字点、1-2-22)
一 此紙を如何な紙と思し召す、はりまだんぜかかしま紙か、おりめにそたひ遊はし
播磨檀紙はりまだんしにや。
一 あふぎのお所いぢくなり、あふぎの御所三内の宮、内てすめるはかなめなり※(二の字点、1-2-22)、おりめにそたかさなる
○いぢくなりはいずこなるなり。三内の字不明。かりにかくよめり。
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遠野郷本書関係略図