冬の朝なれば
ヨルダンの川も薄く氷りたる
可し
われは白き毛布に包まれて我が
寝室の内にあり
基督に洗礼を施すヨハネの心を
ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を
我はわがこころの中に求めむとす
冬の朝なれば
街より
つつましくからころと下駄の音も響くなり
大きなる自然こそはわが全身の所有なれ
しづかに運る天行のごとく
われも歩む可し
するどきモツカの香りは
よみがへりたる精霊の如く眼をみはり
いづこよりか室の内にしのび入る
われは此の時
むしろ数理学者の冷静をもて
世人の
形くる社会の波動にあやしき因律のめぐるを知る
起きよ我が愛人よ
冬の朝なれば
郊外の家にも
鵯は
夙に来鳴く可し
わが愛人は今くろき眼を
開きたらむ
をさな児のごとく手を伸ばし
朝の光りを喜び
小鳥の声を笑ふならむ
かく思ふとき
我は堪へがたき力の為めに動かされ
白き毛布を打ちて
愛の
頌歌をうたふなり
冬の朝なれば
こころいそいそと励み
また高くさけび
清らかにしてつよき生活をおもふ
青き
琥珀の空に
見えざる金粉ぞただよふなる
ポインタアの吠ゆる声とほく
来れば
ものを求むる我が習癖はふるひ立ち
たちまちに又わが愛人を恋ふるなり
冬の朝なれば
ヨルダンの川に氷を
噛まむ
大正元・一一
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あたたかいガスだんろの火は
ほのかな音を立て
しめきつた書斎の電燈は
しづかに、やや疲れ気味の二人を照す
宵からの曇り空が雪にかはり
さつき
牕から見れば
もう一面に白かつたが
ただ音もなく降りつもる雪の重さを
地上と屋根と二人のこころとに感じ
むしろ楽みを包んで軟かいその重さに
世界は息をひそめて子供心の眼をみはる
「これみや、もうこんなに積つたぜ」
と、にじんだ声が遠くに聞え
やがてぽんぽんと下駄の歯をはたく音
あとはだんまりの夜も十一時となれば
話の種さへ切れ
紅茶もものうく
ただ二人手をとつて
声の無い此の世の中の深い心に耳を傾け
流れわたる時間の姿をみつめ
ほんのり汗ばんだ顔は安らかさに満ちて
ありとある人の感情をも
容易くうけいれようとする
又ぽんぽんぽんとはたく音の後から
車らしい何かの響き――
「ああ、御覧なさい、あの雪」
と、私が言へば
答へる人は忽ち童話の中に生き始め
かすかに口を開いて
雪をよろこぶ
雪も深夜をよろこんで
数限りもなく降りつもる
あたたかい雪
しんしんと身に迫つて重たい雪が――
大正二・二
[#改ページ]
遊びぢやない
暇つぶしぢやない
あなたが私に会ひに来る
――画もかかず、本も読まず、仕事もせず――
そして二日でも、三日でも
笑ひ、戯れ、飛びはね、又抱き
さんざ時間をちぢめ
数日を一瞬に果す
ああ、けれども
それは遊びぢやない
暇つぶしぢやない
充ちあふれた我等の余儀ない命である
生である
力である
浪費に過ぎ過多に走るものの様に見える
八月の自然の豊富さを
あの山の奥に花さき朽ちる草草や
声を発する日の光や
無限に動く雲のむれや
ありあまる
雷霆や
雨や水や
緑や赤や青や黄や
世界にふき出る勢力を
無駄づかひと
何うして言へよう
あなたは私に躍り
私はあなたにうたひ
刻刻の生を一ぱいに歩むのだ
本を
抛つ刹那の私と
本を開く刹那の私と
私の量は
同じだ
空疎な精励と
空疎な遊惰とを
私に関して聯想してはいけない
愛する心のはちきれた時
あなたは私に会ひに来る
すべてを棄て、すべてをのり超え
すべてをふみにじり
又嬉嬉として
大正二・二
[#改ページ]
世界がわかわかしい緑になつて
青い雨がまた降つて来ます
この雨の音が
むらがり起る生物のいのちのあらわれとなつて
いつも私を
堪らなくおびやかすのです
そして私のいきり立つ魂は
私を乗り超え私を
脱れて
づんづんと私を作つてゆくのです
いま死んで いま生れるのです
二時が三時になり
青葉のさきから又も若葉の
萌え出すやうに
今日もこの魂の加速度を
自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
そして極度の静寂をたもつて
ぢつと坐つてゐました
自然と涙が流れ
抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
あなたは本当に私の半身です
あなたが一番たしかに私の信を握り
あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
私にはあなたがある
あなたがある
私はかなり惨酷に人間の孤独を味つて来たのです
おそろしい
自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
私の
生を根から見てくれるのは
私を全部に解してくれるのは
ただあなたです
私は自分のゆく道の
開路者です
私の正しさは草木の正しさです
ああ あなたは
其を生きた眼で見てくれるのです
もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
あなたは海水の流動する力をもつてゐます
あなたが私にある事は
微笑が私にある事です
あなたによつて私の
生は複雑になり 豊富になります
そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
私は今生きてゐる社会で
もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました
もう共に手を取る友達はありません
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
私はこの孤独を悲しまなくなりました
此は自然であり 又必然であるのですから
そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
けれども
私にあなたが無いとしたら――
ああ それは想像も出来ません
想像するのも愚かです
私にはあなたがある
あなたがある
そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
私は人から離れて孤独になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた
気息に接します
ヒユウマニテイの中に活躍します
すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
あなたは私の為めに生れたのだ
私にはあなたがある
あなたがある あなたがある
大正二・三
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僕はあなたをおもふたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり あなたがある
自分はこれに尽きてゐる
僕のいのちと あなたのいのちとが
よれ合ひ もつれ合ひ とけ合ひ
渾沌としたはじめにかへる
すべての差別見は僕等の間に価値を失ふ
僕等にとつては
凡てが絶対だ
そこには世にいふ男女の戦がない
信仰と
敬虔と恋愛と自由とがある
そして大変な力と権威とがある
人間の一端と他端との融合だ
僕は丁度自然を信じ切る心安さで
僕等のいのちを信じてゐる
そして世間といふものを
蹂躪してゐる
頑固な俗情に打ち勝つてゐる
二人ははるかに
其処をのり超えてゐる
僕は自分の痛さがあなたの痛さである事を感じる
僕は自分のこころよさがあなたのこころよさである事を感じる
自分を
恃むやうにあなたをたのむ
自分が伸びてゆくのはあなたが育つてゆく事だとおもつてゐる
僕はいくら早足に歩いてもあなたを置き去りにする事はないと信じ 安心してゐる
僕が活力にみちてる様に
あなたは若若しさにかがやいてゐる
あなたは火だ
あなたは僕に古くなればなるほど新しさを感じさせる
僕にとつてあなたは新奇の無尽蔵だ
凡ての枝葉を取り去つた現実のかたまりだ
あなたのせつぷんは僕にうるほひを与へ
あなたの抱擁は僕に
極甚の滋味を与へる
あなたの冷たい手足
あなたの重たく まろいからだ
あなたの燐光のやうな皮膚
その四肢胴体をつらぬく生きものの力
此等はみな僕の最良のいのちの
糧となるものだ
あなたは僕をたのみ
あなたは僕に生きる
それがすべてあなた自身を生かす事だ
僕等はいのちを惜しむ
僕等は休む事をしない
僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない
伸びないでは
大きくなりきらないでは
深くなり通さないでは
――何といふ光だ 何といふ喜だ
大正二・一二
[#改ページ]
底の知れない肉体の慾は
あげ潮どきのおそろしいちから――
なほも燃え立つ汗ばんだ火に
火竜はてんてんと躍る
ふりしきる雪は深夜に
婚姻飛揚の
宴をあげ
寂寞とした空中の歓喜をさけぶ
われらは世にも美しい力にくだかれ
このとき
深密のながれに身をひたして
いきり立つ
薔薇いろの
靄に息づき
因陀羅網の
珠玉に照りかへして
われらのいのちを無尽に鋳る
冬に
潜む揺籃の魔力と
冬にめぐむ
下萌の生熱と――
すべての内に燃えるものは「時」の脈搏と共に脈うち
われらの全身に
恍惚の電流をひびかす
われらの皮膚はすさまじくめざめ
われらの内臓は生存の喜にのたうち
毛髪は
蛍光を発し
指は独自の生命を得て五体に
匍ひまつはり
道を蔵した渾沌のまことの世界は
たちまちわれらの上にその姿をあらはす
光にみち
幸にみち
あらゆる差別は一音にめぐり
毒薬と甘露とは其の
筺を同じくし
堪へがたい
疼痛は身をよぢらしめ
極甚の法悦は不可思議の迷路を輝かす
われらは雪にあたたかく埋もれ
天然の
素中にとろけて
果てしのない地上の愛をむさぼり
はるかにわれらの
生を
讃めたたへる
大正三・二
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暴風をくらつた土砂ぶりの中を
ぬれ鼠になつて
買つた米が一升
二十四銭五厘だ
くさやの
干ものを五枚
沢庵を一本
生姜の
赤漬
玉子は
鳥屋から
海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
薩摩あげ
かつをの
塩辛
湯をたぎらして
餓鬼道のやうに
喰ふ我等の晩餐
ふきつのる嵐は
瓦にぶつけて
家鳴震動のけたたましく
われらの食慾は頑健にすすみ
ものを喰らひて
己が血となす本能の力に迫られ
やがて飽満の恍惚に入れば
われら静かに手を取つて
心にかぎりなき喜を叫び
かつ祈る
日常の
瑣事にいのちあれ
生活のくまぐまに
緻密なる光彩あれ
われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
われらつねにみちよ
われらの晩餐は
嵐よりも烈しい力を帯び
われらの食後の倦怠は
不思議な肉慾をめざましめて
豪雨の中に燃えあがる
われらの五体を讃嘆せしめる
まづしいわれらの晩餐はこれだ
大正三・四
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をんなは多淫
われも多淫
飽かずわれらは
愛慾に光る
縦横
無礙の淫心
夏の夜の
むんむんと蒸しあがる
瑠璃黒漆の大気に
魚鳥と化して躍る
つくるなし
われら共に超凡
すでに尋常規矩の網目を破る
われらが力のみなもとは
常に創世期の混沌に発し
歴史はその果実に生きて
その時
劫を滅す
されば
人間世界の成壌は
われら現前の一点にあつまり
われらの大は無辺際に充ちる
淫心は胸をついて
われらを憤らしめ
万物を拝せしめ
肉身を飛ばしめ
われら大声を放つて
無二の栄光に浴す
をんなは多淫
われも多淫
淫をふかめて往くところを知らず
万物をここに持す
われらますます多淫
地熱のごとし
烈烈――
大正三・八
[#改ページ]