その図は、西洋の火焙ひあぶりか何かの光景らしかった。
 三本並んだ太い生木なまきの柱の中央に、白髪、白髯はくぜんの神々しい老人が、高々とくくり付けられている。その右に、せこけた蒼白い若者……又、老人の左側には、花輪を戴いた乱髪の女性が、それぞれに丸裸体まるはだかのまま縛り付けられて、足の下に積み上げられた薪から燃え上る焔と煙に、むせび狂っている。
 そのむごたらしい光景を額面の向って右の方から、黄金色の輿こしに乗った貴族らしい夫婦が、美々しく装うた眷族けんぞくや、臣下らしいものに取巻かれつつも如何いかにも興味深そうに悠然と眺めているのであるが、これに反して、その反対側の左の端には、焔と煙の中から顔を出している母親を慕う一人の小児が、両手を差し伸べて泣き狂うている。それを父親らしい壮漢と、祖父らしい老翁が抱きすくめて、大きなてのひらで小児の口を押えながら、貴人達を恐るるかのように振り返っている表情が、それぞれに生き生きと描きあらわしてある。
 又、その中央の広場の真中には、赤い三角型の頭巾ずきんを冠って、黒い長い外套を羽織った鼻の高い老婆がタッタ一人、撞木杖しゅもくづえを突いて立ちとどまっているが、如何にも手柄顔に火刑柱ひあぶりばしらの三人の苦悶を、貴人に指し示しつつ、まばらな歯を一パイに剥き出してニタニタと笑っている……という場面で、見ているうちにだんだんと真に迫って来る薄気味の悪い画面であった。
「これは何の絵ですか」
 私はその画面を指さして振り返った。若林博士は最前からそうして来た通りに、両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。
「それは欧洲の中世期に行われました迷信の図で、風俗から見るとフランスあたりかと思われます。精神病者を魔者にかれたものとして、片端かたっぱしからき殺している光景を描きあらわしたもので、中央にりまする、赤頭巾に黒外套の老婆が、その頃の医師、兼祈祷師、兼卜筮者うらないしゃであった巫女婆みこばばあです。昔は狂人をこんな風に残酷に取扱っていたという参考資料として正木先生が柳河やながわ骨董店こっとうてんから買って来られたというお話です。筆者はレムブラントだという人がこの頃、二三出て来たようですが、もしそうであればこの絵は、美術品としても容易ならぬ貴重品でありますが……」
「……ハア……焚き殺すのがその頃の治療法だったのですね」
「さようさよう。精神病という捉えどころのない病気には用いる薬がありませんので、むしろ徹底した治療法というべきでしょう」
 私は笑いも泣きも出来ない気持ちになった。
 そう云って私を見下した若林博士の青白い瞳の中に、学術のためとあれば今にも私を引っ捉えて、黒焼きにしかねない冷酷さがこもっていたので……。私は平手で顔を撫でまわしながら挨拶みたように云った。
「今の世の中に生れた狂人は幸福ですね」
 すると又も、若林博士の左の頬に、微笑みたようなものが現われて、すぐに又消え失せて行った。
「……いや……必ずしもそうでないのです。或はと思いに焚き殺された昔の精神病者の方が幸福であったかも知れません」
 私は又も余計な事を云った事を後悔しいしい肩をすぼめた。そういう若林博士の気味のわるい視線を避けつつ、ハンカチで顔を拭いたが、その時に、ゆくりなくも、正面左手の壁にかかっている大きな、黒い木枠の写真が眼についた。
 それは額の禿げ上った、胡麻塩髯ごましおひげを長々と垂らした、福々しい六十恰好の老紳士の紋服姿で、いかにも温厚な、好人物らしい微笑を満面にたたえている。私はその写真に気が付いた最初に、これが正木博士ではないかと思って、わざわざその真正面に行って、正しく向い合ってみたが、どうも違うような気がするので、又も若林博士を振り返った。
「この写真はどなたですか」
 若林博士の顔は、私がこう尋ねると同時に、いちじるしく柔らいだように見えた。何故だかわからないけれども、今までにない満足らしい輝やきを見せつつ、ゆっくりと頭を下げた。
「……ハイ……その写真ですか。ハイ……それは斎藤寿八先生です。最前も、ちょっとお話をしました通り、正木先生の前にこの精神病科の教室を受持っておられましたお方で、私どもの恩師です」
 そう云ううちに若林博士は軽い、感傷的な歎息ためいきをしたが、やがてその長大な顔に、深い感銘の色をあらわしつつ、悠々と私の方に近付いて来た。
「……やっとお眼に止まりましたね」
「……エッ……」
 と私は驚きながら若林博士の顔を見上げた。そう云う若林博士の言葉の意味がわからなかったので……。しかし若林博士は構わずに、なおも悠々と私に接近すると、上半身を心持ち前に傾けながら、私の顔と写真を見比べて、一層真剣な、叮嚀な口調で言葉を続けた。
「この写真がやっとお眼に止まりました事を申上げているので御座います。何故かと申しますとこの写真こそは、貴方の過去の御生涯と、最も深い関係を結んでいるものに相違ないので御座いますから……」
 こう云われると同時に私はハッと気が付いた。この部屋に這入って来た最初の目的を、いつの間にか忘れていた事を思い出したのであった。そうして、それと同時に何かしら軽い、けれども深い胸の動悸を、心の奥底に感じさせられたのであった。
 けれども又、それと同時に、まだ何一つ思い出したような気がしない、自分の頭の中の状態を考えまわすと、何となく安心したような、又は失望したような気持になって、ほっと一つ肩をゆすり上げた。そうして心持ち俛首うなだれながら若林博士の言葉に耳を傾けた。
「……あなたの中に潜伏しております過去の御記憶は、最前から、極めて微妙に眼醒めかけているように思われるのです。貴方が只今、あの、ドグラ・マグラの原稿からこの狂人焚殺ふんさつの絵を見ておいでになるうちに、眼ざめかけて来ました貴方御自身の潜在意識が、只今、貴方を導いて、この写真の前に連れて来たものとしか思われないのです。何故かと申しますと、の狂人焚殺の名画と、この斎藤先生の御肖像をここに並べて掲げた人は、ほかでも御座いませぬ。あなたの精神意識の実験者、正木先生だからで御座います。……正木先生はあの狂人焚殺の絵に描いてあるような残酷非道な精神病者の取扱い方が、二十世紀の今日に於ても、公然の秘密として、到る処に行われている事実に憤慨されまして、生涯を精神病の研究に捧ぐる決心をされたのですから……。そうして斎藤先生の御指導と御援助の下にトウトウその目的を達しられたのですから……」
「狂人焚殺……狂人の虐殺が今でも行われているのですか」
 と私は独言ひとりごとのようにつぶやいた。又も底知れぬ恐怖にとらわれつつ……。しかし若林博士は平気でうなずいた。
「……行われております。遺憾なく昔の通りに行われております。否。き殺す以上の残虐が、世界中、到る処の精神病院で、堂々と行われているので御座います。今日只今でも……」
「……そ……それはあんまり……」
 と云いさして私は言葉をみ込んだ。あんまり非道ひどい云い方だと思ったので……。しかし若林博士は動じなかった。私と肩を並べて、狂人焚殺の油絵と、斎藤博士の写真を見比べながら冷然とした口調で私に云い聞かせた。
「あんまりではありませぬ。儼然げんぜんたる事実に相違ないのです。その事実は追々おいおいと、おわかりになる事と思いますが、正木先生は、そうした虐待を受けている憐れな狂人の大衆を救うべく、非常な苦心をされました結果、遂に精神科学に関する空前の新学説をてられる事になったのです。その驚異的な新学説の原理原則と申しますのは、前にもちょっとお話しました通り、極めてわかり易い、女子供にでも理解され得るような、興味深い、卑近な種類のもので……その学説の原理を実際に証明すべく『狂人解放』の実験を初められた訳です……が……しかも、その実験は、もはや、ほかならぬ貴方御自身の御提供によって、申分もうしぶんなく完成されておりますので……あとに残っている仕事と申しますのは唯一つ、貴方が昔の御記憶を回復されまして、その実験の報告書類に、署名さるるばかりの段取りとなっておるので御座います」
 私は又も呆然となった。いた口がふさがらないまま、並んで立っている若林博士の横顔を見上げた。そういう私が、何とも形容の出来ない厳粛な、恐ろしい因縁にとらわれつつ、この部屋の中に引寄せられて来て、その因縁を作った二つの額縁に向い合わせられたまま、動く事が出来ないように仕向けられているような気がしたので……。しかし若林博士は依然として、そうした私の気持ちに無関係のままスラスラと言葉を続けた。
「……で御座いますからして、斎藤先生と正木先生と、あの狂人焚殺の因果関係をお話し致しますと、そのお話が一々、貴方の過去の御経歴に触れて来るので御座います。すなわち正木先生が、解放治療場に於て、貴方を精神科学の実験にかけるために、どれ程の周到な準備を整えてこの九大に来られたか……この実験に関する準備と研究のために、どのような恐ろしい苦心と努力を払って来られたか……」
「エッ。エッ。僕を実験するために、そんなに恐ろしい準備……」
「そうです、正木先生は実に二十余年の長い時日を、この実験の準備のために費されたので御座います」
「……二十年……」
 こう叫びかけた私の声は、まだ声にならないうちに、一種の唸り声みたようなものになって、咽喉のどの奥に引返した。その正木博士の二十年間の苦心が、そのまま私の頸筋くびに捲き付いて来るような気がしたので……。
 すると今度は若林博士もそうした、私の気持ちを察したらしく又もゆっくりとうなずいた。
「そうです。正木先生は、まだ貴方が、お生れにならない以前から、貴方のためにこの実験を準備して来られたのです」
「……まだ生れない僕のために……」
「さよう。こう申しますと、わざわざ奇矯な云い廻しを致しているように思われるかも知れませぬが、決してそのような訳では御座いませぬ。正木先生はたしかに、貴方がまだお生れにならないズット以前から、貴方の今日ある事を予期しておられたのです。貴方が只今にも、過去の御記憶を回復されましたのちに……否……たとい過去の御記憶を思い出されませずとも、これから私が提供致します事実によって、単に貴方御自身のお名前を推定されましただけでもよろしい。その上で前後の事実を照合てらしあわされましたならば、私の申します事が、決して誇張でありませぬ事実を、御首肯ごしゅこう出来る事と信じます。……又……そう致しますのが、貴方御自身のお名前をホントウに思い出して頂く、最上の、最後の手段ではないかと、私は信じている次第で御座いますが……」
 若林博士は、こう説明しつつ大卓子テーブルの前に引返して、ストーブに面した小型な廻転椅子を指しつつ私を振り返った。私はその命令に従って手術を受ける患者のように、恐る恐るその椅子に近付くと、オズオズ腰をおろすには卸したが、しかし腰をかけているような気持ちはチットモしなかった。余りの気味悪さと不思議さに息苦しくなった胸を押えて、唾液つばを呑込み呑込みしているばかりであった。
 その間に若林博士はグルリと大卓子をまわって、私の向側の大きな廻転椅子の上に座った。最前あの七号室で見た通りの恰好に、小さくなって曲り込んだのであったが、今度は外套を脱いでいるためにモーニング姿の両手と両脚が、あらわに細長く折れ曲っている間へ、長い頸部くびと、細長い胴体とがグズグズと縮み込んで行くのがよく見えた。そうしてそのまん中に、顔だけがもとの通りの大きさでわっているので、全体の感じが何となく妖怪じみてしまった。たとえば大きな、蒼白い人間の顔を持った大蜘蛛ぐもが、その背後の大暖炉の中からタッタ今、私を餌食えさにすべく、モーニングコートを着てい出して来たような感じに変ってしまったのであった。
 私はそれを見ると、自ずと廻転椅子の上に居住居いずまいを正した。するとその大蜘蛛の若林博士は、悠々と長い手をさし伸ばして、最前から大卓子の真中に置いたままになっている書類の綴込みのようなものを引寄せて、膝の下でソッとごみを払いながら、小さな咳払いを一つ二つした。
「……ところでその正木先生が、生涯をして完成されました、その実験の前後に関するお話を致しますについては、誠に恐縮で御座いますが、かく申す私の事を引合いに出させて頂かなければなりませぬので……と申します理由は、ほかでも御座いませぬ。正木先生と私とは元来、同郷の千葉県出身で御座いまして、この大学の前身でありました京都帝国大学、福岡医科大学と申しましたのが、明治三十六年に福岡の県立病院を改造して新設されました当初に、第一回の入学生として机を並べましたものです。そうして同じく明治四十年に、同時に卒業致しましたのですから、申さば同窓の同輩とも申すべき間柄だったので御座います。しかも、今日まで二人とも独身生活を続けまして、学術研究の一方に生涯を打ち込んでおりますところまで、そっくりそのまま、似通っているので御座いましたが……しかしその正木先生の頭脳の非凡さと、その資産の莫大さとの二つの点に到っては、トテモ私どもの思い及ぶところでは御座いませんでした。取りあえず学問の方だけで申しましても、その頃の私どもの研究というものは、只今のように外国の書物が自由自在に得られませぬために、あらゆる苦心を致しましたものです。学校の図書館の本を借りて来て、昼夜兼行で筆写したりなぞしておりましたのに、正木先生だけはタッタ一人、すこぶる呑気な状態で自費で外国から取寄せられた書物でも、一度眼を通したら、あとは惜し気もなく他人ひとに貸してやったりしておられたものでした。そうして御自身は道楽半分ともいうべき古生物の化石を探しまわったり、医学とは何の関係もない、神社仏閣の縁起を調べてわったりしておられたような事でした。……もっともこうした正木先生の化石集めや、神社仏閣の縁起調べは、その当時から、決して無意義な道楽ではありませんでした。……『狂人解放治療』の実験と、重大な関係を持っている計劃的な仕事であった。……という事が、二十年後の今日に到って、やっと私にだけ解かりかけて参りましたので、今更のように正木先生の頭脳の卓抜、深遠さに驚目駭心きょうもくがいしんさせられているような次第で御座います。いずれに致しても、そのような訳で、正木先生はその当時から、一風変った人物として、学生教授間の注目を惹いておられた次第ですが、しかも、そのように偉大な正木先生の頭脳を真先に認められましたのがここに掲げてありますこの写真の主、斎藤寿八先生と申しても過言では御座いませんでした。
 ……と申しますのは斯様かような次第で御座います。元来この斎藤先生と申しますのは、この大学の創立当初から勤続しておられたお方で、現在、この部屋に在ります標本の大部分を、独力で集められた程の、非常に篤学な方で御座いましたが、殊に非常な熱弁家で、余談ではありますが、こんな逸話が残っている位であります。かつて、当大学創立の三週年記念祝賀会が、大講堂で行われました際に、学生を代表された正木先生が、こんな演説をされた事があります。
「近頃当大学の学生や、諸先生が、よく花柳かりゅうちまたに出入したり、賭博にふけったりされる噂が、新聞でタタカレているようであるが、これは決して問題にするには当らないと思う。そもそも学生、学者たるものの第一番の罪悪は、酒色に耽る事でもなければ、花札をもてあそぶことでもない。学士になるか博士になるかすると、それっきり忘れたように学術の研究をやめてしまう事である。これは日本の学界の一大弊害と思う」
 と喝破された時には、満堂の学生教授の顔色が一変してしまったものでした。ところが、その中にタッタ一人斎藤先生が、自席から立上って熱狂的な拍手を送って、ブラボーを叫ばれました姿を、只今でも私はハッキリと印象しておりますので、この一事だけでもその性格の一端をうかがうのに十分で御座いましょう。
 ……しかし先生が当大学に奉職をされました当初のうちは、まだ、九大に精神病科なぞいう分科もありませず、斎藤先生は学内で、唯一人の精神病の専攻家として、助教授格で、僅かな講座を受持っておられました位のことでしたので、この点に就いては大分、御不平らしく見えておりました。いつもお気に入りの正木先生と、その頃から御指導を仰いでおりました私との二人をつかまえては、現代の唯物科学万能主義を罵倒したり、国体の将来を憂えたりしておられたものですが、そのような場合に私はどのような受け答えを致してよいのか解らなかったにも拘わらず、正木先生はいつも奇想天外式な逆襲をして、斎藤先生を閉口させておられたもので……その中でも特に私の記憶に残っておりますのはかような言葉で御座いました。
「……ソ――ラ、又、先生一流の愚痴の紋切型が初まった。安月給取りの蓄音器じゃあるまいし、もうソロソロ蝋管ろうかんを取り換えちゃどうです。今の人間は、みんな西洋崇拝で、一人残らず唯物科学の中毒にかかっているのですから、先生の愚痴を注射した位ではナカナカ癒りませんよ。……まあまあ、そんなにヤキモキなさらずに、今から二十年ほど待っていらっしゃい。二十年経つうちには、もしかするとこの日本に一人のスバラシイ精神病患者が現われるかも知れないのです。……そうするとその患者は、自分の発病の原因と、その精神異常が回復して来た経過とを、自分自身に詳細に記録、発表して全世界の学者を驚倒させると同時に、今日まで人類が総がかりで作り上げて来た宗教、道徳、芸術、法律、科学なぞいうものは勿論のこと、自然主義、虚無主義、無政府主義、その他のアラユル唯物的な文化思想を粉微塵こなみじんに踏み潰して、その代りに人間の魂をドン底まで赤裸々に解放した、痛快この上なしの精神文化をこの地上にタタキ出すべく、そのキチガイが騒ぎ初めるのです。……そのキチガイ先生の騒ぎが、マンマと首尾よく成功したあかつきには、先生のお望み通りに精神科学が、この地上に於ける最高の学問となって来るのです。同時にこの大学みたように精神病科を継子ままこ扱いにする学校は、全然無価値なものになってしまうのです。……ですから、それを楽しみにして、精々せいぜい長生をして待っていらっしゃい。学者に停年はありませんからね」
 といったような事だったと記憶しておりますが、これには流石さすがの斎藤先生もあきれておられましたようで……一緒に聞いておりました私も、少なからず驚かされた事でした。第一、こんな予言者めいた事を、正木先生が果して本気で云っておられるのか、どうかすら判然致しませんでしたので……正木先生がこの時、既に、自分自身で、そのような精神病者を作り出して、学界を驚ろかそうと計劃しておられた……なぞいうような事が、その時代にどうして想像出来ましょう。……のみならず正木先生が、かような突拍子もない事を云って人を驚かされる事は、その頃から決して珍らしい事ではありませんでしたので、斎藤先生も私も、この事に就いては格別に不審を起した事もなく、深く突込んで質問した事なぞもありませんでした。
 ……ところが間もなく、斯様かような斎藤先生の御不満が、正木先生の天才的頭脳と相俟あいまって、当時の大学部内に、異常な波瀾を捲き起す機会が参りました。それは、ちょうど、私共が当大学を卒業致します時で、正木先生が卒業論文として『胎児の夢』と題する怪研究を発表されたのに、たんを発したので御座いました」
「……胎児……胎児が夢を見るのですか」
 と私は突然に頓狂な声を出した。それ程にという言葉が、異様な響きを私の耳に与えたのであった……が……しかし若林博士は矢張やはりチットモ驚かなかった。私が驚くのが如何にも当然という風にうなずいた。手にした書類を一枚一枚、念入りに繰り拡げては、青白い眼で覗き込みながら……。
「……さようで……その『胎児の夢』と申します論文の内容も、追付おっつけお眼に触れる事と存じますが、単にその標題を見ましただけでも尋常一様の論文でない事がわかります。普通人が見る、普通の夢でさえも、今日までその正体が判然わかっておりませぬのに、して今から二十年も昔にさかのぼった……貴方がお生れになるか、ならない頃に、学術研究の論文として斯様な標題が選まれたのですからね。……のみならず正木先生の頭脳が尋常でない事は、ねてから定評がありましたので、この論文の標題は忽ち、学内一般の評判になりまして、ドンナ内容だろうと眼をみはらぬ者はないくらいで御座いました。
 ……ところがサテこの論文が、当時の規定に従って、学内全教授の審査を受ける段取りになりますと、その文体からして全然、従来の型を破ったもので、教授の諸先生を唖然たらしむるものがありました。……と申しますのは、元来、正木先生は語学の天分にも十二分に恵まれておられましたので、英独仏の三箇国語で書かれたものは、専門外の難解な文学書類でも平気で読破して行かれるというのが、学生仲間の評判になっていた程です。……ですから卒業論文なぞも無論、その頃まで学術用語と称せられていた独逸ドイツ語で書かれている事と期待されておりましたのに、案に相違して、その頃まではまだ普及されていなかった言文一致体の、しかも、俗語や方言まじりで書いてあるのでした。その上にその主張してある主旨というものが又、極端に常軌を逸しておりまして、その標題と同様に、人を愚弄ぐろうしているかの如く見えましたので、流石さすがに当時の新知識を網羅した新大学の諸教授も、ことごとく面喰らわされてしまいました。その中でも八釜やかまし屋をもって鳴る某教授の如きは憤激の余りに……
「……こんな不真面目な論文を吾々に読ませる学長からして間違っている。正木の奴は自分のアタマに慢心しておるから、こんなものを平気で提出するのだ。当大学第一回の卒業論文銓衡せんこうの神聖をけがす者は、この正木という青二才にほかならない。こんな学生は将来の見せしめのために放校してやるがいい」
 と敦圉いきまいているという風評が、学生仲間に伝わった位でありました。むろんこれは事実であったろうと思いますが……。
 ……斯様かような事情で、卒業論文銓衡の教授会議に対しては、学内一般の緊張した耳目が集中していたのでありますが、サテ、愈々いよいよ当日となりますと果して各教授とも略々ほぼ、同意見で、放校はともかくもとして、この論文を卒業論文としてパスさせる事だけは即決否決という形勢になりました。するとその時に、当時の最年少者として席末に控えておられました斎藤先生が、突然に立上られまして、今でも評判に残っておりますほどの有名な反対意見を吐かれました。
「……暫く待って頂きたい。席末から甚だ僭越と思うけれども、学術のためには止むを得ないと思うから敢えて発言するのであるが、私は諸君と全然正反対の意見を、この論文に対して持っている者である。その理由を次に述べる。
 ……第一にこの論文を批難する諸君は、文章がたいを成しておらぬ。規定に合っていない。……と主張されているようであるが、これは殆んど議論にならない議論で、特に弁護の必要はないと思う。ただ学術論文というものは『どうぞ卒業させて下さい』とか『博士にして下さい』とかいって御役所に差出す願書なぞとは全然、性質の違ったものである。規定された書式とか、文体とかいうものはどこにもない……という一言を添えておけば十分であると思う。
 ……次にはこの論文の内容であるが、これもまた、諸君が攻撃されるような不真面目なものでは絶対にないのである。この論文の価値が認められないのは、現代の医学者が、余りに唯物的な肉体の研究にのみとらわれて、人間の精神というものを科学的に観察する学術……すなわち精神科学に対する知識が欠けているからである。この論文に発表されているような根本的な精神、もしくは生命、もしくは遺伝の研究方法を発見すべく、全世界の精神科学者が、如何に焦慮し、苦心しているかという事実を諸君が御存じない。そのためにこの論文の真価値が理解されないものである事を、私は専門の名誉にかけて主張する者である。
 ……すなわちこの論文は、人間が、母の胎内に居る十箇月の間に一つの想像を超絶した夢を見ている。それは胎児自身が主役となって演出するところの『万有進化の実況』とも題すべき数億年、乃至ないし数十億年の長時間にわたる連続活動写真のようなもので、既に化石となっている有史以前の異様奇怪を極めた動植物や、又は、そんな動植物を惨死滅亡させた天変地妖の、形容を絶する偉観、壮観までも、一違わぬ実感を以て、さながらに描きあらわすのみならず、引続いては、その天変地妖の中から生み出された原始人類、すなわち胎児自身の遠い先祖たちから、現在の両親に到る迄の代々の人間が、その深刻な生存競争のためにどのような悪業を積み重ねて来たか。どんなに残忍非道な所業を繰返しつつ、他人の耳目をくらまして来たか……そうしてそのような因果に因果を重ねた心理状態を、ドンナ風にして胎児自身に遺伝して来たかというような事実を、胎児自身の直接の主観として、詳細、明白に描きあらわすところの、驚駭きょうがいと、戦慄とを極めた大悪夢である事が、人間の肉体、および、精神の解剖的観察によって、直接、間接に推定され得る……と主張している。ただし、それは胎児自身が記録した事実でもなければ、大人の記録に残っている事でもないので、いわば一つの推測に過ぎない。だから学術上の価値は認められない。卒業論文としての点数もゼロである……という事に諸君の御意見は一致しているようである。
 ……これは一応、御尤ごもっとも千万のように聞こえるが……しかし……私は失礼ながら、ここで一つ諸君にお尋ねしたい事がある。それは諸君が中学時代に於て、必ず一度は眼を通されたであろう『世界歴史』というものを諸君はドウ思って読んで来られたかという事である。……そもそも世界歴史というものは、人類生活の過去に属する部分の記録で、これを個人にとってみると、自分自身の過去の経歴に関する記憶と同様のものである……くらいの事は、今更、諸君の前で説明するさえ失礼な位に、わかり切った事であろう。いやしくも過去を持たない人間でない限り、否定し得ないところであろう。
 ……ところでもしそうとすれば、その歴史的の記録が残っていない、所謂いわゆる、有史以前の人類が、その宗教に、その芸術に、その社会組織に、如何なる夢を描きあらわしておったか。如何なる夢を見つつ自分達の歴史を記録し得るまでに進化して来たかという事を、現在の世界に残っている各種の遺跡に照し合わせて推測するところの学術……たとえば文化人類学、先史考古学、原始考古学なぞいう学問は学術上無価値のものといえようか。科学的の研究でないといえようか。……いわんや人類出現以前の地球の生活として記録されている地質の変遷や、古生物の盛衰興亡は、誰が見て来て、誰が記録しておいたものであろうか。現在の地球表面上に残る各種の遺跡によって、そんな事実を推定して行く地質学者や、古生物学者は皆、想像のみを事とするお伽話とぎばなしの作者といえようか。科学者でないといえようか。
 ……すなわち、この論文『胎児の夢』の一篇は、吾々の頭脳の記録に残っていない、みごもり時代の吾々の夢の内容を、吾々成人の肉体、および、精神の到る処に残存し、充満している無量無数の遺跡によって推定するという、最も嶄新ざんしんな学術の芽生えでなければならぬ。最尖鋭、徹底した空前の新研究でなければならぬ。……のみならずこの論文中に含まれている人間の精神の組み立てに関する解剖的な説明の如きは、実に破天荒なこころみで、全世界の精神科学者が絶対不可能事と認めながらも、明け暮れ翹望ぎょうぼうし、渇望して止まなかった精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞというものを包含している事が明らかに認められるので、本篇の主題たる『胎児の夢』の研究がモウ一歩進展して、この方面にまで分科して来たならば、恐らく将来の人類文化に大革命が与えられはしまいかと思われる位である。すくなくとも従来の精神科学が問題にして来た幽霊現象とか、メスメリズム、透視術、読心術なぞとは全く違った純科学的な研究態度をもって、精神科学の進むべき大道を切り開いているものである事を、私は特に、今一度、私の専門の立場から、強く裏書きしておく者である。
 ……私は確信する、この『胎児の夢』の一篇は元来、一学生の卒業論文として提出されているのであるが、実は、現在ありふれている、所謂、博士論文なぞとは到底、比較にならない程の高級、且つ深遠な科学的価値を有する発表である。無論、今期、当大学第一回の卒業論文中の第一位に推して、当学部の誇りとすべきもので、これを無価値だなぞと批評する学者は、新しい学術が如何にして生まれて来たか……偉大な真理が、その発表の当初に於て、如何に空想の産物視せられて来たかという、歴史上の事実を知らない人々でなければならぬ」
 ……云々といったような主旨であったと、後に斎藤先生が私に話しておられました。
 ……ところで斎藤先生の斯様かような主張が、ほかの諸教授たちの反感を買ったのは無論の事でありました。斎藤先生はたちまちのうちに満座の諸教授の論難攻撃の焦点に立たれたのでありますが、しかし先生は一歩も退かずに、該博がいはく深遠なる議論を以て、一々相手の攻撃を逆襲、粉砕して行かれましたので、午後の三時から始まった会議が、日が暮れても片付きませぬ。何をいうにも新興医学部の最高の使命と名誉とを中心とする、必死の論争なのですから、真に血湧き肉躍るものがありましたでしょう。止むを得ず、他の論文の銓衡せんこうを全部、翌日に廻わして、ラムプをけて議論を続行しました結果、やっと午後九時に到って一同が完全に沈黙させられてしまいました。その時に、のちに名総長とうたわれました盛山学部長が裁決をしまして、この『胎児の夢』の一篇を、一個の学術研究論文と認める旨を宣言しまして、やっとこの日の会議を終る事になりました。そうしてその翌日と、その翌々日と三日がかりで全部十六通の論文を銓衡致しました結果、正木先生の『胎児の夢』が斎藤先生の御主張通りに、卒業論文中の第一位に推さるる事になったのであります。
 ……が……こうして評判に評判を重ねた、医学部の卒業式の当日になりますと、意外にも、恩賜おんしの銀時計を拝受すべき当の本人の正木医学士が、いつの間にか行衛ゆくえ不明になっている事が発見されまして、又も、人々を驚かしました」
「ホウ。卒業式の当日に行衛不明……どうしてでしょう」
 私が思わずこう口走ると、同時に若林博士は、何故かしらフッと口をつぐんだ。あたかも何かしら重大な事を言い出す前のように、私の顔を凝視していたが、やがて、又、今までよりも一層慎しやかに口をひらいた。
「正木先生が何故なにゆえに、かかる光栄ある機会を前にして、行衛不明になられたかという真個ほんとの原因に就ては今日まで、何人なんぴとも考え及んだ者が在るまいと思います。無論、私にもその真相は解かっていないので御座いますが、しかしその正木先生の行衛不明事件と、今申上げました『胎児の夢』の論文との間に、何等かの因果関係が潜んでいるらしい推測が可能であることは疑をれないようであります。……換言致しますれば、正木先生は、御自分の書かれた卒業論文『胎児の夢』の主人公に脅やかされて行衛をくらまされたものではないかと考えられるので御座います」
「……胎児の夢の主人公……胎児におびやかされて……何だか僕にはよく解りませんが……」
「イヤ。今のうちは、ハッキリとお解りにならぬ方がよろしいと思いますが」
 と若林博士は私をなだめるように椅子の中から右手を上げた。そうして例の異様な微笑を左の眼の下に痙攣ひきつらせながら、依然として謹厳な口調で言葉を続けた。
「……今のうちは、お解りにならぬ方が宜しいと思います。こう申上げては失礼ですが、いずれ貴方が、御自身の過去の記憶を、残りなく回復されました暁には、その『胎児の夢』と題する恐怖映画の主人公が何人なんぴとであるかというような裏面の消息を、明らかにお察しになる事と存じますから、その時の御参考のために、特にこの際御注意を促しておきます次第で御座います。……ところで、て、その当学部第一回の卒業式が、正木先生の御欠席のままで終了致しますと、その翌日になって盛山学部長の手許に、正木先生からの書信が参りましたが、その中には斯様かような意味の抱負が述べてありましたそうです。
 ――自分は胎児の夢の一篇を理解してくれる人間が、現代の科学界に存在していようとは思わなかった。恐らく、そんな人間は一人も居ないであろう事を確信しつつ、落第を覚悟して提出したものであったが、意外千万にも、それが学部長閣下と、斎藤先生に推薦されたという事を聞いて、長嘆これを久しうした。あの論文の価値が、こんなに易々やすやすと看破されるようでは、まだまだ私の研究が浅薄であったに違いない。こんな事では吾が福岡大学の名誉を不朽に伝える事は出来ないと思った。
――私は閣下と斎藤先生に合わせる面目がないから姿を隠す。恩賜の時計は御迷惑ながら、当分お手許に御保管願いたい。この次にはキット、何人なんぴとにも理解されないほどの大研究を遂げて、この御恩報じをするつもりであるから――
 云々というのでした。盛山学部長はこの手紙を斎藤先生に見せて「どこまでも人を喰った男だ」と云って大笑いをされたという事ですが……。
 ……ところで正木先生は、それから丸八年の間、欧洲各地を巡遊して、墺、独、仏、三箇国の名誉ある学位を取られたのですが、そのうちに大正四年になって、コッソリと帰朝されますと、今度は宿所やどを定めずに漂浪生活を初められました。全国各地の精神病院を訪問したり、各地方の精神病者の血統に関する伝記、伝説、記録、系図等を探って、研究材料を集められる傍ら『キチガイ地獄外道祭文げどうさいもん』と題する小冊子を、一般民衆に配布して廻られたのです」
「……キチガイ地獄……外道祭文……それはドンナ事が書いてあるのですか」
「……その内容は只今お眼にかけますが、やはり前の胎児の夢と同様、未だ曾て発表された事のない恐ろしい事実が書いてあるので御座います。要約つづめて申しますと、その祭文の中には、前にもちょっと申しました現代社会に於ける精神病者虐待の実情と、監獄以上に恐ろしい精神病院のインチキ治療の内幕ないまくが曝露してありますので……言葉を換えて申しますれば、現代文化の裏面に横たわる戦慄すべき『狂人の暗黒時代』の内容を俗謡化した一種の建白書、もしくは宣言書とでも申しましょうか。正木先生はこれを政府当局、その他、各官衙かんがや学校へあまねく配布されたばかりでなく、自分自身で木魚をたたいて、その祭文歌を唄いながら、その祭文歌を印刷したパンフレットを民衆に頒布はんぷしてわられたのです」
「……自分自身で……木魚をたたいて……」
「さようさよう……ずいぶん常軌を逸したお話ですが、しかし正木先生にとっては、それが極めて真剣なお仕事だったらしいのです……のみならず正木先生のそうした御事業に就いては、恩師の斎藤先生も、かげひなたに正木先生と連絡を取って、御自分の地位と名誉を投げ出す覚悟で声援をしておられた形跡があります。しかし、遺憾ながらその祭文歌の内容が、あまりに露骨な事実の摘発で、考えように依っては非常識なものに見えましたためか、真剣になって共鳴する者が無かったらしく、とうとう世間から黙殺されてしまいましたのは返す返すもお気の毒な次第で御座いました。……もっとも、その祭文歌の中に摘発してあります精神病院の精神病者に対する虐待の事実なぞが、一般社会に重大視される事になりますと、現代の精神病院は一つ残らず破毀はきされて、世界中に精神異状者の氾濫が起るかも知れない事実が想像され得るのでありますが、しかし正木先生は、左様な結果なぞは少しも問題にしてはおられなかったようで、唯、将来御自分の手で開設されるであろう『狂人解放治療』の実験に対する準備事業の一つとして、斯様かような宣伝をされたものと考えられるので御座います」
「それじゃり……」
 と云いさした私は、思わずドキンとして座り直さずにはおられなかった。そうして唾液つばみ込み嚥み込みつぶやいた。
「それじゃ……やっぱり……僕を実験にかける準備……」
「さようさよう……」
 と若林博士は猶予もなく引取ってうなずいた。
「前にも申しました通り、正木先生の頭脳は、吾々の測り知り得る範囲を遥かに超越しているのでありますが、しかし、正木博士のそうした突飛とっぴな、大袈裟おおげさな行動の中に、解放治療の開設に関する何等かの準備的な御苦心が含まれている事は、いなまれない事実と考えられます。これからお話致します正木先生の変幻出没的な御行動の一つ一つにも皆、そうした意味が含まれておりますようで、言葉を換えて申しますと、正木先生の後半の御生涯は、その一挙手一投足までも、貴方を中心として動いておられたものとしか考えられないので御座います」
 若林博士はコンナ風に云いまわしつつ、その青冷めたい、力ない視線をフッと私の顔に向けた。そうして私がモウ一度座り直さずにはおられなくなるまで、私の顔を凝視していたが、そのうちに私が身動きは愚か、返事の言葉すら出なくなっている様子を見ると、又、気をかえるようにハンカチを取出して、小さな咳払せきばらいをしつつ、スラスラと話を進めた。
「……しかるに去る大正十三年の三月の末の事で御座います。忘れもしませぬ二十六日の午後一時頃の事でした。卒業されてから十八年の長い間、全く消息を絶っておられた正木先生が、思いがけなく当大学、法医学部の私の居室へやをノックされましたのには、流石さすがの私もビックリ致しました。まるで幽霊にでも出会ったような気持ちで、何はともあれ無事を祝し合った訳でしたが、それにしても、どうしてコンナに突然に帰って来られたのかとお尋ねしますと、正木先生は昔にかわらぬ磊落らいらくな態度で、頭を掻き掻きこんなお話をされました。
「イヤ。その事だよ。実は面目ない話だがね。二三週間ぜん門司もじ駅の改札口で、今まで持っていた金側きんがわ時計を掏摸すりにしてられてしまったのだ。モバド会社の特製で時価千円位のモノだったが惜しい事をしたよ。そこでヒョイッと思い出して、十八年前にお預けにしておいた銀時計がもし在るならばと思って貰いに来た訳だがね。……ところでそのついでに、何か一つ諸君をアッといわせるような手土産をと思ったが、格別かんばしいものも思い当らないので、そのまま門司の伊勢源いせげん旅館の二階に滞在して、詰らない論文みたようなものを全速力で書き上げて来た。そこでまずこれを新総長にお眼にかけようと思って、斎藤先生に紹介してもらいに行ったら、それはこっちから紹介してもいいが、役目柄、学部長の若林君の手を経て提出した方がよかろうと云われたから、こっちへ担ぎ込んで来た訳だ。面倒だろうがどうか一つ宜しく頼む」
 というお話です。そこで……申すまでもなく保管してありました時計は、すぐに下附される事になりましたが、その時に正木博士が提出されました論文こそ、ダーウィンの『種の起源』や、アインスタインの『相対性原理』と同様……否、それ以上に世界の学界を震駭しんがいさせるであろうと斎藤先生が予言されました『脳髄論』であったのです」
「……脳髄論……」
「さよう。脳髄論と名づくる三万字ばかりの論文でしたが、その内容は、最前お話いたしました『胎児の夢』とは正反対に、厳粛、荘重を極めたもので、意味の取り違えを防ぐために、独逸ドイツ語と、羅甸ラテン語の二種類で書かれておりますが、これを文献も何も無い宿屋の二階で僅々きんきん二三週間の間に書き上げられた正木先生の頭脳と、精力からして既に非凡以上と申さねばなりますまい。……しかも正木先生はこの論文によって、今日まで何人なんぴとも説明し得ず、立証も実験もし得なかった脳髄の不可思議な機能を鏡にかけて見るように明白にされたのです。そうして同時に今日まで、精神病学界の疑問とされておった幾多の奇怪現象を、極めて簡明直截に説明してしまわれたのです。……ですから専門の関係上、この論文を一番最初に見られた斎藤先生は、無論、非常に驚かれまして、それから約一年ばかりの間寝食を忘れてこの論文を研究されたのですが、やっと昨年……大正十四年の二月の末に、と通りの審査、考究を終られますと、その翌日の早朝に、現、松原総長を自宅に訪問されまして、
「……私は今日限り、九大精神病科の教授の椅子を引退しまして、後任に正木君を推薦致したいと思います。もし他の大学に同君を取られるようなことがありますと、この大学の恥辱になると思いますから……」
 と暗涙を浮めて懇願されました。しかし正木先生はそれっきり宿所も告げずに、又も行衛ゆくえくらましてしまわれた折柄ですし、殊に斎藤先生の御人格に今更に深く敬服しました現、松原総長は、き込んでおられる斎藤先生を押しなだめて、留任を希望する一方に、この論文を学位論文として、正木先生に学位を授くる事に内定した……という事が、やはり学界の美談として伝えられております。もっともこの事は、誰かの口から洩れたと見えまして、新聞に掲載されたそうですが……私はツイ、うっかりしてその記事を見ませんでしたけれども……」
 若林博士はここまで物語って来ると、その時の思い出に打たれたらしく、いかにも感動したようにヒッソリと眼を閉じた。私も敬慕の念に満たされつつ斎藤博士の肖像を仰いだが、そう思って見たせいか、神様のような気高い姿に見えたので、思わず軽いため息をさせられながらつぶやいた。
「それじゃこの斎藤先生は、正木先生に後を譲るために、お亡くなりになったようなものですね」
 若林博士は、こういった私の質問が耳に這入ると一層深く感動したらしく、眼を閉じたままの眉の間のしわが一層深くなった。そうして今にも咳が飛出しそうな長い、太い溜息をいたが、やがて静かに眼を開くと、その青白い視線を、私の視線と意味あり気に合わせつつ、すこしばかり語気を強めた。
「その通りです。あの斎藤先生は、正木先生が学位を受けられてから間もない、昨年……大正十四年の十月十九日に、突然に亡くなられたのです。しかも変死をされたのです」
「……エ……変死……」
 と私は空虚うつろな声を出した。話の模様があんまり唐突とっぴに変化したのに面喰いながら若林博士の蒼白い顔と、額縁の中の斎藤博士の微笑とをかわる交る見比べた。そんなにまで人格の高い立派な人が、何で変死なんかしたんだろうと疑いながら……。
 しかし若林博士は、そうした私の疑いを押し付けるかのように静かに私の顔を見据えた。又もすこしばかり語気を強めた。
「……そうです。斎藤先生は変死をされたのです。斎藤先生は昨、大正十四年の十月十八日……すなわち変死される前の日の午後五時頃に、平生いつもの通り仕事を片附けて、医局の連中に二三の用務を頼んで、この部屋を出られたのですが、それっきり筥崎はこざき網屋町あみやちょうの自宅には帰られませんでした。そうしてそのあくる朝早く、筥崎水族館裏手の海岸に溺死体となって浮き上っておられたのです。発見者は水族館の掃除女でしたが、急報によって警察当局や、私共が駈け付けまして調査致しました結果、多量に飲酒しておられた事が判明致しましたので、多分、自宅へお帰りになる途中で、誰か極めて懇意な人に出会って、久方振りに脱線された結果、帰り道を間違えて、あすこの石垣の上から落ちられたものであろう……という事になっております。……もっともあの辺は、行って御覧になればわかりますが、街外れ特有の一面の塵芥捨場ごみすてばと、草原くさはらと、畠続きの大学裏で、よほどの泥酔者でなければ迷い込む気づかいの無い処です。……ですから、むろん他殺の疑いも充分にかけて、所持品等も遺憾なく調査してみましたが、紛失したものは一つも在りませんでした。……又、遺族の方々や、友人たちのお話を綜合してみますと、斎藤先生が外で酒杯さかずきを手にされるのは、学内でも極めて懇意な、気心のわかった連中から誘われた場合に限っているので、そうした相手の顔は一人残らず判明している位である。それ以外にタッタ一人でお酒を飲まれるのは自宅の晩酌以外に絶対に無いと云ってもいい。……のみならず、そんな風に外で深酔いをされた場合には、いつでも誰か、お相手の中の一人が、自宅まで送り付けて来るのが慣例のようになっているので、今度ばかりは全く不思議な例外としか考えられない……といったようなお話もありましたので、その意味でも色々な場合を想像して、充分に研究を遂げてみましたが、何しろ先生が海に落ちておられた附近は千代町ちよまち方向から長く続いた防波堤になっておりますので、どこからどんな風に歩いて来られて、どこで踏外ふみはずして海へ落ちられたものか、足跡一つ発見出来ませぬ。同伴者の在る無しは勿論のこと、仮りに他殺としましても犯人の手がかりが全然掴めないのです……。
 ……一方に、只今お話し致しましたような斎藤先生の御人格から考えましても、他人のうらみを受けられるような事は、まず無いとしか考えられませぬので、結局、やはり過失であろうという事になってしまいました。斎藤先生は滅多に酒を用いられぬ代りに、酔うと前後を忘れられるのが唯一つの欠点であったのですが、実に惜しい人を死なしたものです」
「……その一緒にお酒を飲んだ人は、まだ判明わからないのですか」
「……左様……今だに判明致しませぬが、これは余程デリケートな良心を持った人でなければ、名乗って出られますまい」
「……でも……でも……名乗って出ないと一生涯、息苦しい思いをしなければならないでしょう」
「近頃の人達の常識から申しますと、そんなにまで良心的に物事を考える必要がないらしいのです。……たとい名乗って出たにしたところが、斎藤先生が墓の下から蘇生して来られる訳ではなし、ただ、自分一人が不愉快な汚名の下に、何かの制裁を受けるだけの事に過ぎないのだから、結局、社会の損害を増す意味になる……といったような考え方をしているのじゃないでしょうか……否。むしろ今頃はモウとっくの昔に忘れてしまっているかも知れないのですが……」
「……でも卑怯じゃないですか。それは……」
「……申すまでもない事です」
「……第一、忘れられる事でしょうか……そんな事が……」
「……さあ……そのような問題は、故、正木先生の所謂いわゆる『記憶と良心』の関係に属する、面白い研究事項ではないかと考えられるのですが……」
「それでは斎藤先生の死は、それだけの意味で、おしまいになったのですね」
「さよう。それだけの意味で終ったのです。まことに呆気あっけないものであったのですが、しかし、その結果から申しますと、誠に大きな意味を含む事になったのです。すなわち斎藤先生の死は、やがて正木先生が、当、九大精神病科の仕事を担任されて、この椅子に座られる直接の因縁となり、更に、貴方と、あの六号室の令嬢とを、この教室に結び付ける間接の因縁ともなったのです。さよう……ここでは仮りに因縁と申しておきましょう。しかしこの因縁が、果して人為のものか、それとも天意にでたものであるかは、やはり貴方が御自身の過去の御記憶を回復されましたのちでないと、確定的な推測が出来ませぬので……」
「アッ……そ……そんな事まで、僕の記憶の中に……」
「そうです。貴方の過去の御記憶の中には、そのような疑問の数々を解くのに必要な、大切な鍵までも含まれているのです」
 私は次から次に落ちかかって来る疑問の氷塊ひょうかいに、全身を埋め込まれるような気がした。思わず眼を閉じながら、頭を左右に振り動かしてみた。けれどもそこからは、何等の記憶も湧き出して来なかった。ただ、それに連れて眼の前に惨酷むごたらしい『狂人焚殺ふんさつ』の絵額や、ニコニコしている斎藤博士の肖像や、蒼白い、真面目な若林博士や、緑色に光る大卓子テーブルや、その上に欠伸あくびをし続けている赤い達磨だるまの灰落しまでもが、一つ一つに私の過去と、深い関係を持っているものであるかのように思われて来た。同時に、それにつれて、そんな因縁深い品物ばかりに取巻かれていながら、何一つとして思い出すことの出来ない私の頭のカラッポさを自覚させられて、シミジミと物悲しくなって来るばかりであった。
 私は一寸ちょっとの間、途方に暮れたような気持になって、眼ばかりパチパチさせていたようであったが、やがて又、フト思い出したように問うた。
「ハア。ではその行衛不明になられた正木先生は、どうしてこの大学に来られるようになったのですか」
「それは斯様かよう仔細わけです」
 と云ううちに若林博士は、出しかけていた時計を又ポケットの中に落し込んだ。弱々しい咳払いを一つして話を続けた。
「ちょうど斎藤先生の葬儀の式場に、正木先生がどこからともなく飄然ひょうぜんと参列しに来られたのです。多分、新聞の広告を見られたものと思われますが……それを松原総長が、葬式の済んだ後でつかまえまして、その場で斎藤先生の後任を押付けてしまったものです。これは非常な異式だったのですが、あれ程に人格の高かった斎藤先生の遺志を、外ならぬ総長が取次とりついだのですから、誰一人として総長の斯様かようり方を、異様に思う者はありませんでした。かえって感激の拍手を以て迎えられた位です。……その当時の新聞を御覧になれば、このかんの消息が詳しく素破抜すっぱぬいてありますが、その時に正木先生は、見窶みすぼらしい紋付もんつきはかまの姿で、教授連の拍手に取巻かれながら、頭を抱えて、こんな不平を云われたものです。
「弱ったなあ。僕はく迄も独力で研究したかったんだがなあ。大学の先生になると、好きな木魚が叩かれないし、チョンガレ節も唄えなくなるだろう。第一、持って生れた漂浪性が発揮出来ないからナア……」
 としょげ返って云われましたが、これを聞いた松原総長が……
「……今更、文句を云われても取返しが附きませんよ。これは斎藤先生の霊に招き寄せられた貴方の方が悪いのですからね……木魚ぐらいはイクラ叩かれても宜しいから、是非一つ成仏して頂きたい」
 と云われましたので、皆、場所柄を忘れて腹を抱えた事でした。
 ……正木先生は、それから間もなく当大学に就任して来られますと、今までキチガイ地獄のチョンガレ祭文さいもんの中で唄っておられた『狂人の解放治療』という実験を、実際に着手されまして、又も異常な反響を一般社会に喚起される事になったのです。同時にその実験を初められた事が機縁となりまして正木先生御自身と、貴方と、あの六号室の令嬢との、最近の運命的な御関係を結ばれる事にもなりましたのです。これも矢張やっぱり天意と申せば申されましょうが、……しかしいずれに致しましても斯様かように偉大な正木先生を、当大学に迎えて、思う存分に仕事をさせられたのは、やはり故斎藤先生の御遺徳に相違御座いません。正木先生もそのような意味からして、この肖像をここに掲げられたものに相違ないと考えられるのですが……」
 私は又も深く歎息して斎藤博士の肖像を仰がずにはいられなかった。これ程の人格者、斎藤博士と、これ程の偉人正木博士と、眼の前の若林博士と、あの六号室の美少女と、そうして白痴同様の私とを一つに繋ぎ合わせているという因縁の糸の不可思議さを考えずにはおられなかった。
 或る感銘深い静寂が、少時しばらくの間、部屋の中を流れた。けれども、それは間もなく、私が何の気もなく発した質問で破られた。
「……あッ……大正十五年の十月十九日……あの斎藤先生の写真の下に懸かっているカレンダーの日附は、斎藤先生が亡くなられてから、ちょうど丸一年目の日附ですね」
 私がこう云って振り返った……その瞬間に変化した若林博士の表情の恐ろしかった事……それは、ほんの一瞬間ではあったが……大きな、白い唇をピッタリと閉じて、あごをグッと突き出すと同時に、青白い瞳を一パイにき出して私をにらみ付けた。しかも、それが余りに突然であったために、私も思わず若林博士と同じ表情になって、睨み合ったような気がしたのであったが、そのうちに若林博士は次第に落付いて来たらしく、今度は如何にも満足にえないという風にひたいを輝やかして、幾度も幾度もうなずいた。
「……よくあれにお気が付かれましたね。あなたの過去の御記憶は、いよいよ鋭く眼ざめて参ります。もはや皮一重というところまで御回復になっておりますようで……。実は只今の御質問が出ると同時に、今度こそ貴方の過去の御記憶が、一時に目醒めて来はしまいか……そうしたらドンナ風に御介抱申上げようかと、ちょっと心配致しました次第で……。何をお隠し申しましょう。あのカレンダーは、今から約一箇月前の日附を示しているので御座います。今日は大正十五年の十一月二十日ですから……」
「それが……どうして、そのまんまになっているのですか」
 若林博士はこの時に、又も荘重にうなずいた。最前、六号室の少女の前で示した、神に祈るような態度で、かがんだ胸をグッと伸ばしつつ、両手をシッカリと握り合わした。
「その御不審が又、あなたの過去に関する大きな謎を解く鍵の一つとなっているので御座います。つまり正木先生は、あのカレンダーをあそこまで破って来られますと、あとを破ることを止められたのです」
「……そ……それは又なぜ……」
「正木先生は、あの翌日亡くなられたのです……しかも、ちょうど一年前に、斎藤先生が溺死を遂げられた、筥崎水族館裏の同じ処で、投身自殺をされたのです」
 ……青天の霹靂へきれき……とでも形容しようか。何とも云いようのない奇妙な驚きに打たれた私は、この時、何かしら一種の叫び声をあげたように思う。そうして、やっと気を落付けた時には、譫言うわごとのように口を動かしていたように思う。
「……正木先生が……自殺……」
 その声が自分の耳に這入ると私は又、自分の耳を疑った。正木先生のような偉大な、達人ともいうべき人が自殺する……そんな事が果して在り得ようか。
 そればかりでない。この精神病科教室の主任教授となった人が二人とも、ちょうど一年おきに、しかも場所まで同じ海岸の潮水に陥って変死する……そんな恐ろしい暗合が、果して在り得るものであろうか……と驚き迷い、呆れつつ若林博士の蒼白い顔を凝視した。
 そうすると若林博士も今までになく、儼然げんぜんと姿勢を正して私を凝視し返した。又も、神様に祈るような敬虔な声を出した。
「……繰り返して申します。……正木先生は自殺されたのです。只今お話し致しましたような順序で二十年の長い間、準備に準備を重ねて、前代未聞の解放治療の大実験を向うにまわして悪戦苦闘して来られた正木先生は、ついに、その刀を打ち折り、その箭種やだね射尽いつくされたとでも申しましょうか……どうしても自殺されなければならぬ破目はめに陥って来られたのです。……と申しましただけでは、まだおわかりになりますまいから、今すこし具体的に申しますと、正木先生の独創にかかわ曠古こうこの精神科学の実験は、貴方とあの六号室の令嬢が、めいめいに御自分の過去の記憶を回復されまして、この病院を御退院になって、楽しい結婚生活に入られる事になって完成される手筈になっていたので御座いますが、それが或る思いもかけぬ悲劇的な出来事のために、途中で行き詰まりになりましたのです。……しかもその悲劇的な出来事が、果して正木先生の過失に属するものであったか、どうかというような事は誰一人、知っている者は居なかったのです。……けれどもその日が偶然にも、何かの天意であるかのように、斎藤先生の一週忌、正命日に当っておりましたために、一種の『無常』といったようなものを感じられたからでも御座いましょうか……正木先生は、その責任の全部を負われて、人間界を去られたのです。その実験の中心材料となられた貴方と、あの六号室の令嬢と、それ等に関する書類、事務、その他の一切を私に委託されて……」
「……そ……それでは……」
 と云いさして私は口籠くちごもった。形容の出来ない昂奮に全身が青褪あおざめたように感じつつかろうじて唇を動かした。
「……それじゃ……もしや僕が……正木先生の生命を呪ったのでは……」
「……イヤ。違います。その正反対です」
 と若林博士は儼乎げんこたる口調で云い切った。依然として私を凝視しつつ、頭をゆるやかに左右に振った。
「その反対です。正木先生は、当然あなたから御自分の運命をのろわれるのを覚悟されて、この研究に着手されたのです。……否……今一歩、突込んで申しますと、正木先生は、そうした結果になるように二十年前から覚悟をきめて、順序正しく仕事を運んで来られたのです。御自身に発見された曠古こうこの大学理の実験と、貴方の御運命とを完全に一致させるべく、動かすべからざる計劃を立てて、その研究を進めて来られたのです」
 それは私にとって一層の恐怖と、戦慄に値する説明であった。われ知らず息苦しくなって来る胸を押えつつ、吐き出すように問うた。
「……それは……ドンナ手順……」
「それはここに在ります書類を御覧になれば、お解かりになります」
 と云ううちに若林博士は、今まで話片手はなしかたてに眼を通していた書類の綴込みをパタンと閉じて、うやうやしく私の前に押し進めた。
 私も、それが何かしら重要な書類の集積に違いない事を察していたので、同じように鄭重ていちょうな態度で受取った。そうして、とりあえずパラパラと繰って内容をあらためてみたが、それは赤い表紙のパンフレットみたようなものを一番上にして、西洋大判罫紙けいしや、新聞の切抜を貼り付けた羅紗紙らしゃがみの綴じたものと一緒に、カンバス張りのボール紙に挟んだもので、表紙には何も書いてない。けれどもかなり重たいものなので、私はモウ一度パタリと表紙を閉じて、卓子テーブルの上に置き直した。
 その向うから若林博士は、その青白い瞳をピッタリと私の瞳の上に据えた。
「……それは申さば正木先生の遺稿とも申すべき貴重な書類で御座います。すなわち、只今までお話致しました正木先生の精神科学に関する御研究のうちでも、一番大切な精神解剖学、精神生理学、同病理学と、それからそのような御研究のエッセンスともいうべき心理遺伝学と、この四種類の原稿は、以前から手許に引取っておられました『脳髄論』の本文と一緒に、自殺の直前に焼棄ててしまわれましたので、現在、正木先生の御研究の内容をうかがうのに必要な文献としましては、わずかにソレだけしか残っていないのです。それを正木先生は、やはりその自決さるる直前に、その通りの順序に重ね合わせて行かれましたので、その書類の発表された年代順にはなっていないようでありますが、しかもその順序通りに読んで行きますと、正木先生の御研究の内容が、その研究を進めて行かれた順序通りに、容易たやすく、面白く理解されて行く仕掛になっているようで御座います。
 ……すなわち、その一番初めに綴込んであります赤い表紙のパンフレットは、正木先生が日本内地を遍歴される片手間に、到る処の大道で、人を集めて配布された『キチガイ地獄外道祭文げどうさいもん』と題しまする阿呆陀羅経あほだらきょうの歌で、現代に於ける精神病者虐待の実情を見て、これを救済すべく、精神病の研究を初められた、そのそもそもの動機が歌ってあるので御座います。
 ……それから次に羅紗紙らしゃがみの台紙に貼付けてありますのは、当地の新聞に掲載されました正木先生の談話を、御自身に保存しておかれた切抜記事で御座いますが、そのうちでも最初に『地球表面上は狂人の一大解放治療場』云々と題してありますのは、正木先生が、今申しました狂人救済の動機から、精神病の研究に着手された、その最初の研究的立場を、辛辣しんらつ諧謔かいぎゃくまじりに、新聞記者へ説明されましたもので『この地球表面上に棲息している人間の一人として精神異状者でないものはない』という精神病理学の根本原理が、極めて痛快、卒直に論証してあります。……又……その次に『脳髄は物を考える処にあらず』云々と題してありますのは、そうした原理に立脚された正木先生が、今日まで研究不可能と目されていた『脳髄』の真実の機能をドン底まで明らかにされると同時に、従来の科学が絶対に解決出来なかった精神病その他に関する心霊界の奇怪現象を一つ残らず、やすやすと解決して行かれた大論文『脳髄論』の内容を、面白おかしく新聞記者に説明されたもので御座います。
 ……それからその下の方の日本罫紙の綴じたのに、毛筆で書いてありますのは、その『脳髄論』の逆定理とも見るべき『胎児の夢』の論文で御座います。つまり自分を生んだ両親の心理生活を初めとして、先祖代々の様々の習慣とか、心理の集積とかいうものが、どうして胎児自身に伝わって来たかという『心理遺伝』の内容が明示してありますので、当大学第一回の卒業論文の銓衡せんこうに一大センセーションを捲き起したのは実に、この一篇に外ならないので御座います。……同時に正木先生が、あれ程の偉材を抱きながら、遂に自決さるるの止むなきに立到りました遠い原因もまた、実にこの一篇の中に胚胎していると申しましょうか……その次に在ります西洋大判罫紙フールスカップの走り書きは、その正木先生がそれ等の研究に、最後の結論を附けるべく書き残されました『解放治療の実験の結果報告』とも見るべき正木先生の遺言書です……ですから貴方は、それ等の書類を、その順序に御覧になりさえすれば、正木先生が精神科学の大道を開拓すべく、生涯をして研究して行かれた痛快な事蹟が、たやすく、順序正しくおわかりになるで御座いましょう。同時に、あなた御自身の御経歴を、裏面から支配して、今日の御運命に立ち到らせた、曠古こうこの大学理の流動、旋転が、一々大光明を発して、万華鏡まんげきょうの如く華やかに、グルリグルリと廻転しつつ、あなたの眼の前に……」
 私は若林博士の説明を、ここいらまでしか記憶していない。そんな説明を聞きながらも、何気なく一番初めの赤い表紙の小冊子を開いて、第一ページの標題から眼を通して行くうちに、いつの間にか本文に釣り込まれて、無我夢中に読み続けていたので……