二六 没落


「貴方、どうなさるおつもり? 恭一も、折角ああして中学校にはいる準備をしていますのに。」
「中学校ぐらい、どうにかなるさ。」
「どうにかなるとおっしゃったって、四里もある道を通学させるわけにはいきませんわ。どうせ寄宿舎とか下宿とかいうことになるんでしょう?」
「そりゃ、そうさ。」
「そうなれば、今のままでは、とてもやっていけませんわ。いよいよ土地が売れたら、小作米だって、ぐっとるでしょう?」
「減るどころじゃない。全くなくなるさ。」
「全く? じゃ残らず売っておしまいになりますの?」
「五段や六段残したって仕様がないし、先方でも、出来るだけまとまった方がいいって言うからね。」
「まあ! それでは仏様に対して申訳ありませんわ。」
「そりゃおれも申訳ないと思ってる。しかし、こうなれば仕方がないさ。」
「仕方がないではすみませんわ。……あたし、正木の父に相談してみましょうかしら。」
「長鹿言え。……おれの不始末は、おれが何とかする。」
「だって、一粒の飯米もはいらなくて、これからどうなさるおつもりですの。」
「食うだけは、おれの俸給で、当分何とかなるだろう。」
「俸給ですって! これまでろくに見せても下さらなかったくせに。」
「これからは、みんなお前に渡すよ。」
「みんなって、いかほどですの。」
「お前、主人の俸給も知らないのか。」
「そりゃ存じませんわ。これまで何度おたずねしても、俸給なんかどうでもいいじゃないかって、いつも相手にしてくださらなかったんですもの。」
「そうだったかな。しかし、これからは、大いに俸給を当てにしてもらうことにするよ。」
「すると、いかほどですの?」
「大たい、米代ぐらいはあるだろう。」
「はっきりおっしゃって下すっても、いいじゃありませんか。あたし、これからの心組もあるんですから。」
「そう心組にするほどのものではないよ。……そのうち俸給袋を見ればわかる。」
「まあ! 心細いこと。とにかく、恭一の学費までは出ませんわね。」
「そりゃ無論出ない。しかし土地を全部売ると、いくらか浮きが出るはずだから、当分のところ何とかなるだろう。」
「そのあとは、どうなさるおつもり?」
「町に出て、小店でも出そうかと思っている。」
「えっ?」
「何だ、変な顔をするじゃないか。」
「だって……だって……あたしには、とてもそんなこと出来ませんわ。それに、正木の父が聞いたら、何と思うでしょう。」
「仕方がないと思うだろう。」
「貴方!」
「なんだ。」
「子供たちの行末も、ちっとはお考え下さいまし、後生ですから。」
「考えているから、商売でもやろうと言ってるんじゃないか。」
「商売なんて、そんな……」
「商売が子供たちのためにならない、とでも言うのかい。」
「知れてるじゃありませんか。……子供たちは、石に噛りついても、学問で身を立てさせたいと思っていますのに。」
「だから、商売で儲けて、大学へでも何処へでも、はいれるようにしたらいいじゃないか。」
「人間は、卑しくなってしまっては、学問も何もあったものではありませんわ。」
「なあるほど、お前はそんなふうに考えていたのか。……だが、もうそんな時代おくれの考え方はよした方がいいぜ。これからの世のなかは、まかり間違えば、子供を丁稚奉公でっちぼうこうにでも出すぐらいの考えでいなくちゃあ……」
「まあ情けない!」
「大学を出たって、丁稚奉公をしないとは限らないんだ。」
「まさか、そんなことが……」
「あるとも、だが、今のお前の頭じゃ、何を言ったって解るまい。」
「…………」お民は横を向いた。
「怒るのはよせ。大事な場合だ。……とにかく、商売でもやるより仕方がなくなったんだから、その覚悟でいてくれ。」
「…………」
「不賛成か。困ったな。……だが、実をいうと、もう何もかも、そのつもりで運んでいるんだがな。」
「すると、この家も引払って、町に引越すんですか。」
「そうだ。いずれ家も売る事にしているんだから。」
「えっ!」
「実は、家だけはそうもなるまいと考えてたんだが、商売をやるとなると、その資本が要るんでね。」
「貴方、大丈夫? やけくそにおなりになったんではありません?」
「そうでもないさ。」
「それで、お母さんには、もうお話しなすったの。」
「いいや、まだ話さん。お母さんはどうせ反対するだろうからな。」
「あたし、何だか恐くなりましたわ。」
「実はおれも少し恐い。しかし、このままでこの村にいたんでは、どうにもならんからな。」
 俊亮とお民とは、子供たちが寝床につくのを待って、ひそひそとそんな話をはじめた。寝間はすぐ次の部屋だったが、次郎はまだ寝ついていなかったので、ついそれを聞いてしまった。そして、父が太っ腹過ぎて困るとか、お祖父さんが死んだら、あとが大変だとか、そういった話を、これまでにちょいちょい耳にはさんでいたので、彼はそれと結びつけて、今夜の二人の話をおぼろげながら理解した。
 彼は、しかし、父が商売人になるのを、大して悪いことだとは思わなかった。そして、この村の荒物屋や、薬屋などの様子を思い浮かべて、頭の中で、自分をそれらの店の小僧に仕立ててみたりした。朝から晩まで父と一緒に仂ける、――そう考えると、彼はむしろ嬉しいような気にさえなった。
 だが、彼の眼には、間もなく竜一と春子の姿がちらつき出した。
(町に行ってしまうと、もうめったに二人には逢えない。)
 そう思うと、彼は滅入めいるように淋しかった。――父と一緒に仂く方がいいのか、毎日竜一の家で遊ぶ方がいいのか。――彼はそんなことを考えて、俊亮とお民が寝たあとでも、永いこと眠れなかった。

二七 長持


 俊亮は、それ以来、土曜日曜にかけて帰って来るごとに、必ず一度は二階に上って、箪笥や長持の中を覗いた。そして、いつもその中から、刀剣類や、軸物じくものや、小箱などを、いくつかずつ取出して風呂敷に包んだ。
 次郎には、それが何を意味するかが、すぐわかった。彼は、そんな時には、いつもそ知らぬ顔をして俊亮のそばにくっついていた。次郎にくっついていられることは、俊亮にとっては、少なからず迷惑であった。しかし、彼は強いて次郎を追払おうとはしなかった。だんだん度重なるにつれて、却って品物の説明などして聞かせることもあった。そして、いつの間にか、風呂敷に包まれなかった品物をもとのところに納めるのが、次郎の役目のようになってしまった。
 これまで、茶棚や、戸棚や、火鉢の抽斗ひきだしぐらいより覗いたことのなかった次郎は、長持や、箪笥の奥から、桐箱などに納められた珍しい品物が、いくつも出て来るのを見て、全く別の世界を見るような気がした。彼は、ともすると、暗い長持ながもちの底を覗きこんで、亡くなったお祖父さん、そのまたお祖父さんというふうに、遠い昔のことなど考えてみた。そして何とはなしに、家の深さというものが、次第に彼の心にしみて来た。そのために、彼はこれまでとは幾分ちがった眼で家の中のあらゆるものを見まわすようになった。
 が、同時に彼は、美しいつばをはめた刀や、蒔絵まきえの箱や、金襴きんらん表装ひょうそうした軸物などが、つぎつぎに長持の底から消えていくのを、淋しく思わないではいられなかった。俊亮は、むろん彼に何も話して聞かせなかったし、彼もまた訊ねてみようともしなかったが、風呂敷に包まれた品物が、その度ごとに、俊亮の自転車にわえつけられて、人目に立たぬように何処かに持ち出されるのを、彼はよく知っていたのである。
 風呂敷包が出来あがる頃には、大てい、お民が足音を忍ばせるようにして、二階に上って来た。そしてその包みの中を一応あらためてから、きまって右手を襟につっこんで、軽い吐息をもらした。
「貴方、その品だけは、もっとあとになすったら、どう?」
 彼女は時おり、力のない声で、そんなことを言った。しかし、俊亮の答は、いつもきまっていた。
おそかれ早かれ、一度は始末するんだ。」
 次郎は、そんな時には、不思議に母に味方がしてみたくなった。そして、長持に突っこんだ顔を、そっと父の方にねじ向けるのだった。
 しかし、彼の視線しせんがまだ父の顔に届かないうちに、それを途中でさえぎるのは、母の鋭い声だった。
「次郎、もういいから、お前は階下したに行っといで。」
 そう言われると、次郎の母に味方したいと思った感情は、一時にけし飛んだ。同時に、長持の中の品物なんかどうだっていい、という気になった。そして、あとに残るのは、父に対する親しみの感情だった。
 だが、こうした秘密な売立うりたても、そう永くは続かなかった。
 ある日次郎は、父が小用か何かに立ったあと、一人で長持の前に坐って、長い刀を、おずおず半分ばかり引きぬいて、その鏡のような刃に見入っていると、うしろに足音がした。何だか父の足音とはちがうと思って、ひょいと振り向くと、そこにはお祖母さんが立っていた。次郎はびっくりして刀をぱちんとさやに収めた。そして、あたりに散らかっている品物を、急いで木箱に収めにかかった。彼は、お祖母さんには万事秘密だということを、はっきり言い聞かされていたわけではなかったが、何とはなしに、秘密にしなければならないような気がしていたのである。
「次郎!」
 と、お祖母さんの声は、物凄いふるえを帯びていた。
「お前は一たい、そこで何をしているのだい。」
 次郎はちらりとお祖母さんの顔を見た。すると、その顔は、蛙が喉をわくわくさせている時のような顔に見えた。
 彼はどうしていいのか解らなかった。で、坐ったまま、視線をあちらこちらにそらした。半ば引き出されたままの箪笥の抽斗や、蓋をあけた長持や、木箱や、金蒔絵や、青い紐などが、雑然と彼の眼に映った。彼はますますうろたえた。
「いつの間に、お前はこんなことを覚えたのだい。」
 そう言って、お祖母さんは、二三歩彼に近づいて来た。次郎は押されるように、窓ぎわににじり寄った。
「次郎!」
 お祖母さんのいきりたった声が、次郎の膝の関節をぴくりとさせた。もしその時、お祖母さんのうしろに、厳粛な、それでいて、どこかに笑いを含んだ父の顔が見出されなかったら、次郎は、あるいは二階の窓から、逃げ出そうと試みたかも知れない。
「次郎のいたずらじゃありません。」
 俊亮は、散らかった木箱をまたぎながら、そう言って、次郎のすぐそばに、どっしりと坐りこんだ。
 次郎は一先ずほっとした。しかし、父と祖母との間に何事か起りそうな気がして、何となく不安だった。
 お祖母さんは、まだ胡散臭うさんくさそうに、次郎の顔と、散らかった品物とを見くらべていたが、ふと思いついたように、長持のそばに寄って行って、その中を覗きこんだ。そして、しばらくは頻りに小首をかしげていたが、そのまま箪笥の方に歩いて行って、開いている抽斗は無論のこと、袋戸棚から小抽斗に至るまで、引っかきまわした。
 俊亮は、その間、默然と坐って腕組みをしていた。
「俊亮や――」
 お祖母さんは、べたりと俊亮の前に坐ると、下からその顔を覗きこむようにした。
「相すみません。」
 俊亮は、しずかにそう言って、やはり腕組みをつづけていた。
 次郎は、一心に、父の様子を見守った。彼はこれまで、父に対してだけは、心からしみじみとした感じになれたのであるが、こうして祖母の前にかしこまりながら、しかも、どこかにゆとりのある態度で坐っている父の様子を見ると、悲しいような、嬉しいような、何とも言えない感じになっていくのだった。
「こないだから、すこし可笑おかしいとは思っていましたが、……ま……まさか、一周忌もすまないうちに、こ……こんな……」
 お祖母さんは、俊亮の前に突っ伏して、声をとぎらした。
「次郎、お前は階下したで遊んでおいで。」
 俊亮は、やはり腕組みをしたまま、わずかに顔を次郎の方にふり向けて言った。
 次郎はすぐ階下に降りたが、何だか気がかりで、梯子段の近くをうろうろしていた。そのうちにお民が二階にあがって行った。三人の話し声はいつまでも続いた。次郎は、祖母と母の泣き声にまじって、おりおり聞える父の簡単な、落着いた言葉に耳をそばだてたが、何を言っているのかは、少しもわからなかった。

二八 売立


 大っぴらな売立が始ったのは、それから間もなくであった。
 ある日、朝早くから、洋服を着た人や、角帯を締めた人たちが、五六人やって来て、目ぼしい品物をすっかり座敷に並べて、大声で叫んだり、小さな紙片に何か書いて、ボール箱の中に投げこんだりした。村じゅうの人たちが、庭一ぱいに集まって来て、それを見物した。中には、洋服や角帯の人たちと一緒になって、紙片を投げこむ者もあった。
 人だかりの割に、変にぎごちない空気が、全体を支配した。めったに誰も笑わなかった。角帯の人たちは、おりおり下卑げびたことを言って、みんなを笑わせようとしたが、村人たちは顔を見合わせて、かえってにがい顔をした。女の人もかなり来ていたが、中には、そっと眼頭をおさえている者すらあった。ただ俊亮だけが、いつも微笑を含んでいた。
 次郎は、そうした人達の表情を、ほとんど一つも見逃がさないで見ていた。俊亮のほかに、家の者でその場に顔を出していたのは、次郎だけだった。彼は、しばしば茶の間から、母に呼びつけられて、
「子供の見るものではない。」
 と叱られたが、どんなに叱られても、彼は、また、いつの間にか座敷にやって来ていた。
 彼の心をひかれた品物が誰の手に渡るのか、そして、その人がどんな顔付をして、品物を受取るのか、それが、無性に見たくて仕方がなかったのである。
 売立が始まってから、二時間もたった頃、竜一の父が診察着のままで、あたふたとやって来た。そして、俊亮に何かこそこそと耳打ちした。しかし俊亮は、
「御好意は有難う。だが、いずれ一度は始末をつけなければならんのでね。……いや、全くどちらにも相談なしさ。」
 竜一の父は、軽くうなずいた。そして、すぐ角帯や洋服の間に割りこんで行って、どの品にも札を入れた。
 眼ぼしい品がつぎつぎに彼の手に渡された。角帯や、洋服は、変な眼付をしておたがいに顔を見合わせた。次郎は、それが何を意味するのか、ちっとも解らなかった。彼はただ、いい品物がたくさん竜一の家にいくのだと思うと、いくらか安心した。
 売立は夜の十時頃までつづいて、眼ぼしい品は大てい片づいた。残ったのは、虫の食った挟箱はさみばこや、手文庫、軸の曲った燭台しょくだい、古風な長提灯ながちょうちん、色のせたかみしもといったような、いかにもがらくたという感じのするものばかりであった。
 みんなが引上げたあと、俊亮と竜一の父とは、座敷に残って、何かひそひそと話し出した。俊亮は、次郎が、まだ、残っていたがらくたを眺めながら立っているのを見て、
「何だ、お前まだ起きていたのか。馬鹿だな。早く寝るんだ。」
 と、いつになく、きびしい顔をして叱った。
 次郎が、茶の間に這入って驚いたことは、いつの間に来たのか、正木のお祖父さんが、白いひげをしごきながら、端然たんぜんと坐っていることであった。お祖父さんの前には、お民とお祖母さんとが、悄然しょうぜんと首を垂れていた。次郎は、正木のお祖父さんの顔を見ると、急に、今まで売立を見ていたのが、何か非常に悪いことのように感じられだした。で、後の方から、いそいでお辞儀をして、すぐ寝間に行こうとした。するとお祖父さんは、
「次郎は相変らず元気じゃな。」
 と、彼の方をふり向きながら、眼元に微笑をたたえて言った。
「ええ、ええ、もう元気すぎて、さきざきどうなるものでございますやら。うちがこんなになるのも平気だと見えまして、一日じゅう、ああして売立を見物しているのでございますよ。」
 お祖母さんは、そう言って、いかにもわざとらしい、ふかい吐息をついた。
「ほほう、見ていましたか。……どうじゃな、次郎、面白かったのか。」
「面白くなんかありません!」
 次郎は憤然ふんぜんとして答えた。
「面白くない?……ふむ。」
 と、正木のお祖父さんは、静かに眼をつぶって、また顎鬚あごひげをしごいた。
「でも、見るものではないって、あれほどあたしが言うのに、よく一日見て居れたものだね。」
 お民が白い眼をして言った。
「僕、刀やなんかが、誰んとこにいくか、見てたんだい。」
 次郎の言った意味は、誰にもはっきりしなかった。三人は言いあわしたように、次郎の顔を見つめた。
「でも、竜ちゃんとこに沢山いったから、いいや。」
 正木のお祖父さんは、ほっと吐息をもらした。それから静かに手招てまねきして、
「次郎、ここにお坐り。」
 次郎が気味わるそうに坐ると、
「人を恨むんじゃないぞ。買って下さる方は、みんな親切な方じゃ。……なあに、要らないものを売って、要るものに代えるんだから、ちっとも構わん。いいかの、次郎。」
 次郎は、そう言っているお祖父さんを、妙に淋しく感じた。彼は默っていた。すると、お祖父さんは、また言った。
「刀が欲しいのか。刀なら、このお祖父さんのうちに行けば沢山ある。」
「僕、欲しくなんかないけれど、僕、なんだかいやだったよ。」
 次郎は、自分の気持を言いあらわす言葉に困って、やっとそれだけを言った。
「いやなのに、見ていたのかい。」
 お民がすぐ問いかえした。
「恭一なんか、いやがって覗こうともしなかったのにね。」
 と、お祖母さんが、それにつけ足した。
 正木のお祖父さんは、にがりきって、また顎鬚をしごいた。
 そこへ俊亮と竜一の父とが、晴れやかな笑い声を立てながら、這入って来た。俊亮は、正木老人を見ると、急にあわてて、
「やっ、これは……」
 と、いかにも恐縮したらしく、その前に坐って両手をついた。
 次郎の眼には、父のそうした姿勢が全く珍しかった。彼は、ゴム人形の膝を無理に曲げて坐らしたときの恰好を心に思い浮かべて、可笑しくなった。
「もうすっかりすみましたかな。」
 老人は、いかにも物静かに言って、俊亮と竜一の父とを見くらべた。
「全く面目次第もないことで……」
 と、俊亮はその丸っこい膝を何度も両手でさすった。
「いや、どうも、実は私も今日はじめて、承りまして、おどろいているような次第で……」
 と、竜一の父は、俊亮の助太刀すけだちでもしているかのような口調くちょうだった。
「皆さんにご心配をかけます。」と、老人は丁寧に頭を下げた。それから、しばらく何か思案しあんしていたが、急に俊亮を見て、
「ふいと思いついたことじゃが、次郎をしばらくわしの方に預からして貰えませんかな。」
 みんながてんでに顔を見合わせた。次郎は先ず母を見た。次に父を見た。それから祖母をちらっと横目で見て、視線しせんを正木のお祖父さんに移した。
「次郎、どうじゃ、当分わしの方から学校に通うては。」
「……………」
 次郎は返事をする代りに、再び父の顔を見た。
「いや、よく解りました。どうかお願いします。」
 と、俊亮は、ちらっと次郎を見ながら言った。みんなは変におし默っていた。
 もう随分おそかったが、正木の老人は、その晩のうちに次郎を連れて帰ることにした。次郎は、何のために自分が正木の家に預けられるのか解らなかった。しかし、彼は、それを決して不愉快には思わなかった。むしろ、何もかも忘れて、いそいそと出て行った。ただ真っ暗な路を、村はずれまで歩いて来た時に、彼は、ふと、竜一と春子とのことを思い出して、急に泣きたいような淋しさを覚えた。
 その後、彼の足の下で、ぴたぴたと鳴る草履の音が、いやに耳につき出して、彼の気持はいつまでも落ちつかなかった。

二九 北極星


「星がきれいだのう。」
 正木の老人は、ゆったりと歩を運びながら、独言ひとりごとのように言った。秋近い空はすみずみまで晴れて、ぎ切った夜の海のように拡がった稲田の中に、道がしろじろとかわいていた。
 次郎は空を見上げただけで、返事をしなかった。彼は、正木のお祖父さんに十分な懐しみを感じ、二人きりで夜道を歩くのをほこらしいとさえ思いながらも、ふだん正木の家に行く時のように、朗らかにはなれなかった。彼は、まだ、老人の気持を計りかねていたのである。
(なぜだしぬけに、僕を預るなんて言い出したんだろう。)
 この疑問は、一足ごとに深まっていった。竜一や春子に遠ざかる淋しさが、それにからみついた。そして家の没落ということが、次第にはっきりした意味を持って、彼の胸にせまって来るのだった。
 彼の眼のまえには、売立の光景がまざまざと浮かんで来た。散らかった品物の間から、いろんな表情をした人たちの顔が現れて来る。そして、時おり、微笑を含んだ父の顔が糸の切れた風船玉のように、彼の鼻先に近づいて来る。彼は、父の微笑の中に、ついさっきまで気づかなかった、ある淋しい影を見出した。そして、彼の気持は、いよいよ滅入るばかりだった。
「次郎、あれが北極星じゃ。」
 正木の老人は、ふいに道の曲り角で立ち止まって、遠い空を指さした。
 次郎は、指さされた方に眼をやったが、どれが北極星だが、すこしも見当がつかなかった。彼の眼には、まだ父の顔がぼんやりと残っていて、その顔の中に、星がまばらに光っていた。
「学校で教わらなかったかの?」
「ううん。」
「ほうら、あそこに、柄杓ひしゃく恰好かっこうに並んだ星が、七つ見えるだろう。わかるな。あれを北斗七星というのじゃ。」
 次郎は、やっと自分にかえって、老人の説明をききながら、一つ一つ指さされた星を探していった。そして最後に、やっとのこと、北極星を見出すことが出来たが、その光が案外弱いものだったので、彼は何だかつまらなく感じた。
「海では、あの星が方角の目じるしになるのじゃ。あれだけは、いつも動かないからの。」
 老人はそう言って歩き出した。次郎はこれまで星が動くとか、動かないとかいうことについて、全く考えたこともなかったので、老人の言うことを、ちょっと珍しく思った。
「外の星はみんな動いています?」
「ああ、大てい動いている。あの七つの星も、北極星のまわりを、いつもぐるぐる廻っているのじゃ。一時間もたつと、それがよくわかる。」
 いつまでも動かない星、――それが、ふと、ある力をもって、次郎の心を支配しはじめた。彼は歩きながら、ちょいちょい空を仰いで、北極星を見失うまいとつとめた。そして、これまでに経験したことのない、ある深い感じにうたれた。「永遠」というものが、ほのかに彼の心に芽を出しかけたのである。
 彼は、本田のお祖父さんの臨終のおりに、ちょっとそれに似た感じを抱いたことを、記憶している。しかし、それはほんの瞬間で、しかもその時の感じは、お祖母さんのいきさつのために、ひどくにごらされていた。今夜の感じには、それとは比べものにならない、澄みきった厳粛さがあった。
 しかし一方では、彼の草履の音が、ぴたぴたと音を立てて、たえす、彼の耳に、彼自身の運命を囁いているかのようであった。
(恭ちゃんや俊ちゃんは、何があっても、平気で家に落ちついていられるのに、自分だけが、なぜ乳母やの家かち本田の家へ、本田の家から正木の家へと、移って歩かねばならないのだろう。一たい、何処が自分の本当の家なのだ。)
(父さんはこれから、何処へ行くのだろう、そして何をするのだろう。乳母やとは、あれっきり、一度も逢ったことがないが、父さんにもこれっきり、逢えなくなるのではなかろうか。)
 そうした疑問が、次から次へと、彼の頭の中を往来した。むろん、永遠とか、運命とかいうようなことを、はっきりと意識する力は、まだ少年次郎にはなかった。ただ、彼には、ふだんとちがった、厳粛な淋しさがあった。そして、星の光と草履の音との交錯こうさくする中を、默りこくって老人のあとについて歩いた。
「眠たいかの。」
「…………」
といけない。手をつないでやろう。」
 次郎の手を握った老人の掌は、しなびていた。しかし、その皮膚の底から、柔かに伝わって来るあたたか味にふれると、彼はしみじみとした喜びを感じた。そして、急に明るい気分になって訊ねた。
「僕、お祖父さんとこに、いつまでいるの?」
「いつまででもいい。」
「いつまででも?」
 そう言った次郎の心には、再び不安と喜びとがもつれあっていた。
「早く帰りたいかの。」
「ううん。」
 次郎は首を横に振った。しかし、思い切って振れないものが、何か胸の底に沈んでいた。
「帰りたくなったら、いつでも帰っていい。だが…」
 と、老人はしばらく考えてから、
「お前の家には、誰もいなくなるかも知れない。」
 この言葉は次郎の胸におもおもしく響いた。動かぬ星と草履の音とが、ひえびえと彼の心を支配した。彼は泣きたくなった。
「しかし、心配することはない。人間というものは、心が大切じゃ。心さえ真っ直にして居れば、家なんかどうにでもなる。」
 次郎には、その意味がよく呑み込めなかった。そして彼の前には、再び父の淋しい顔があらわれた。
(お祖父さんは、父さんの心が真っ直でない、と言うのだろうか。いや、そんなわけはない。父さんほど真っ直な人はないはずだ。これまでだって、僕が悪くない時に、僕を叱ったことなんか一度だってないんだから。)
 が、次郎は、その時、ふと、父が非常に酒好きなことを思い出した。

 父は一人で飲むだけでなく、よくいろんな人を呼んで来ては、相手をさせるのだったが、ある晩の如きは、近在の仲間と言われた五六人の若い者を呼んで来て、次郎にお酌をさせながら、晩くまで飲んだ。何でも喧嘩の仲直りらしかったが、次第に酒がまわるにつれて、ほんの一寸した言葉のゆきちがいから、また喧嘩になってしまった。最初に啖呵たんかを切り出したのは眉の濃い、眼玉のどんよりした、獅子っ鼻の大男だった。彼は子供のころ、饅頭まんじゅうの売子をしていたため、「饅頭虎」と綽名あだなされていた。彼が食ってかかった相手は、「指無しのごん」だった。小指を一本切り落されていたので、そういう綽名がついていたが、青い顔の、見るからに辛辣しんらつそうな、痩ぎすの男だった。
「旦那をおいて、貴様のその言い草は何てこった。」
 といったようなことから始まって、口論は次第に烈しくなった。饅頭虎が、咄々とうとつしゃがれ声で物を言うのに対して、指無しの権は、ねっちりした、しかし、突き刺すような皮肉な言葉をつかった。父は、はじめのうちは、默って二人の口論を聴いていた。しかし、それが次第に険悪になって、今にも立ち廻りが始まりそうになると、急にいずまいを正して、
「虎! ……権!」とつづけざまに大喝だいかつした。そして、いきなり両肌をぬいで、
「それほど喧嘩がしたけりゃ、斬り合うなり、突き合なり、勝手にするがいい。だが、おれも一旦仲にはいったからには、おれの眼玉の黒いうちは困る。先ずおれの方を片づけてからにして貰おうかな。」
 そう言って、父は自分の胸を拳でぽんと叩いた。二人は父にそうどなられると、すぐべたりと坐って、平身低頭した。
 次郎は、父のすぐ横に坐って、その光景を見ていたが、一面恐怖を感ずると共に、父の英雄的な態度に対して身ぶるいするような感激を覚えた。そして、彼自身が仲間と喧嘩をする場合の、すばしこい、思い切った遣口やりくちが、こうしたことに影響されていなかったとは、決していえなかったのである。

     *

 だが、正木の老人と手をつないで、静かな星空の下を、今こうして歩いていると、そんな思い出が、何となくつまらないことのように思えてならなかった。
(父さんは、あんなことを真面目な気持でやったのだろうか。第一、あんな人たちと酒を飲んだりするのは、いいことだろうか。もしかすると、あんなことのために、家がだんだん貧乏になってしまったのかも知れない。)
 次郎が、父に対してこんなふうな考え方をするのは、これが初めてであった。これまでにも、父が酒を飲むのを、多少うるさいとは思っていたが、その善悪などを、本気で考えてみたことは全くなかった。むしろ、父のすることなら、何でもいいことのように思えて、母に叱られながらも父のそばにくっついて、よくお酌をしたりしたものである。で、彼は、考えてはならないことを考えたような気がして、何となく父にすまなく思った。しかし、一度きざした考えは容易に消えなかった。父を大事に思えば思うほど、いよいよそのことが気になって来た。
「次郎は何になるつもりじゃ。」
 正木のお祖父さんが、ふと、そんなことを訊ねた。
 次郎はお祖父さんも、自分と同じように、父のことを考えているような気でいたのに、ふいにそう訊ねられたので、変な気がした。それに彼は、さきざき何になるなどということを、これまで一度だって考えたことがなかった。彼の友達の中には、よく大将になるとか、大臣になるとか言って、得意になっている者もあったが、彼としては、そんなことを考えるよりも、彼に親切な人が誰だかを知ることの方が、よほど大切だったのである。
「返事をせんところをみると、まだ何も考えていないのじゃな。」
 老人は非難するように言った。
「お祖父さんは、小さい時に、何になろうと考えたの?」
「うむ……」
 老人は逆襲ぎゃくしゅうされてちょっと返事に困ったふうであったが、
「お祖父さんの子供の頃は、親のあとをぐ気でいればよかったのじゃ。」
「今はいけないの?」
「いけないこともないが……」
 と、また老人は返事に困った。
「僕の父さんは役人でしょう。」
「うむ……」
 老人はますます窮した。
「僕、役人になってもいいんだが、父さんは、すぐ役人をよすんじゃありません?」
「父さんがよしたら、お前もよすかの?」
「僕、父さんと、なるたけ一緒の方がいいや。」
「ふむ。」
 正木の老人は、闇をすかしてそっと次郎を見おろしたが、そのまま默って歩を運んだ。
「お祖父さん。――」と、次郎は急に改まった調子で、
「ねえ、お祖父さん、父さんは心が真っ直なんでしょう?」
 老人は、次郎が何を言い出すのかと思って、ちょっと思案した。が、すぐ、
「そりゃ真っ直じゃとも、どうしてそんなことをきくかの。」
「父さん酒飲むの、悪かありません?」
「うむ、……そりゃ、酒はのんでも、心が真っ直ならいいだろう。」
 次郎は満足しなかった。しかし、それ以上、強いて訊ねてみたい気もしなかった。そして暫くは、二人の足音だけが、闇に響いた。
「次郎――」
 正木の老人は、村の入口に来たころに、やっと再び口をひらいた。
「世の中で一番偉い人はな、お前の父さんのように、どんな人でも可愛がってやれる人じゃ。父さんが、今日、いろんなものを売ったのも、困っている人たちを、これまでに沢山助けたため、金が足りなくなって来たからじゃ。お前、父さんのように偉い人になれるかの。嫌いな人が沢山あったりしては駄目じゃが。」
 次郎の頭には、すぐ祖母と母との顔が浮かんで来た。そして老人の言葉を、自分に対する訓戒と考える前に、父と彼ら二人とを心の中で比べていた。
「母さんも、お祖母さんも、だから偉くないや。」
 次郎は吐き出すように言った。
「そうか。……では次郎はどうじゃ?」
「僕も偉くないや。」
 次郎の答は、老人の予期に反して、極めて率直だった。
「偉くなりたくないかの?」
「なりたいけれど、僕……」
「駄目かな。」
「だって、僕……乳母やと一緒だといいんだがなあ。きっと偉くなれるんだけれど……。」
 老人はぴたりと歩みをとめた。そして次郎の両手を握って、彼を自分の方に引きよせながら、闇をすかして、その顔を覗きこんだ。
「お前は、まだ乳母やのことが忘れられないのか。」
 老人の声はふるえていた。次郎は叱られていると思って、握られた手を、無理に引っこめようとした。
「叱っているんじゃない。乳母やに逢いたけりゃ、このお祖父さんが今に逢わしてやる。だから、きっと偉くなるんじゃぞ。」
 次郎はしゃくり上げそうになるのを、じっとこらえてうなずいた。
 二人が、正木の家の門口に近づいたころ、北方の空を二つに割って、斜に大きな星が流れた。
「あっ。」
 次郎は、声をあげてそれを仰いだが、その光が空に吸いこまれると、彼の眼は、いつの間にか北極星を凝視ぎょうししていた。
 しかし、彼が「永遠」と「運命」と「愛」とを、はっきり結びつけて考えうるまでには、彼は、まだこれから、いろいろの経験をなめなければならないであろう。

三〇 十五夜


 次郎が正木の家に預けられてから、十四五日の間は、ほとんど一日おきぐらいに、お民が訪ねて来た。もっとも、それは次郎の顔を見たいためではなかった。彼女がやって来るのは、いつも次郎が学校に出たあとだったし、たまたま顔をあわせることがあっても、
「おとなしくするんだよ。」と、通り一遍の、冷やかな注意を与えるぐらいで、大ていは、正木の老夫婦と、ひそひそと相談ごとをすますと、すぐ大急ぎで帰って行くのだった。
 次郎は、しかし、別にそれを気にもとめなかった。この家の賑やかな空気が、もう十分に、彼の心を幸福にしてしまっていたのである。
 だが、ある日、本田の一家が、打ちそろって正木を訪ねて来た時には、彼もさすがにはっとした。もう夕飯に近い時刻だったが、彼らが門口を這入ると、急に家じゅうが忙しそうになった。台所からは、黒塗のお膳が、いくつもいくつも座敷に運ばれた。座敷の次の間には、長方形のちゃぶ台が二つ続きに据えられて、そこにもいろいろの御馳走が並べられた。次郎は、それが何を意味するかを、すぐ悟った。
 大人たちは座敷で、子供たちは次の間で、正木と本田の両家が打ちそろって、食事をはじめたのは、夕暮近いころであった。座敷の方は、正木のお祖父さんと、俊亮の二人が、何のこだわりもなさそうに高話たかばなしをするだけで、ほかの人たちは、いやに沈んだ顔をしていた。次の間は、これに反して、おそろしく賑やかだった。ただ、次郎だけは、いつも座敷の方の様子に気をとられていた。彼は、食うだけのものは、誰にも劣らず食ったが、みんなと一緒になってはしゃぐ気には、どうしてもなれなかった。
 食事がすんで、お膳が下げられると、大人も子供も座敷に集まって、菱の実をかじった。尤も俊亮の前だけには、正木のお祖母さんの気づきで、小さなお盆に、かん徳利と、盃と、塩からのはいった小皿とが残して置かれた。しかし、俊亮は、一二度お祖母さんにお酌をして貰ったきり、ほとんど盃を手にしなかった。次郎は、何度も自分でついでやりたいと思ったが、きまりが悪くてとうとう手を出さなかった。
 二升ほどもあった菱の実は、三四十分もたつと、うず高い殻の山になっていた。
「もう菱も、そろそろ出なくなります頃ね。」
 お民は、淋しそうに、菱の殻に眼をやりながら、言った。
「これだけでもらせるのは、やっとだったよ。……でも、恭一や俊三が、これからはめったに食べられないだろうと思ってね。」と、正木のお祖母さんも、何だか心細そうであった。
 すると俊亮が笑いながら、
「なあに、菱なら町の方がかえって多いくらいでしょう。毎晩、近在の娘たちが、何十人と売りに出るんですから。」
「ほう、それは……」と、正木のお祖父さんが、俊亮を見て何か言おうとした。
 すると、本田のお祖母さんが、
「俊亮、お前何をお言いだね。せっかくこちらのお祖母さんが、ああして気をつかっていて下さるのに。」
「いや、こいつは大しくじり。わっはっはっ。」
 俊亮はわざとらしく笑いながら頭をかいた。しかし誰も笑わなかった。みんな妙に顔をゆがめて、本田のお祖母さんから、眼をそらした。
 子供たちは、菱の実がなくなると、すぐ縁側に出て腕角力うでずもうをはじめていたが、次郎は、その方に心をひかれながらも、大人たちの席から、遠く離れようとはしなかった。彼は、畳と縁との間の敷居に尻を落ちつけて、庭の方に向きながら、耳の神経を絶えずうしろの方に使っていた。
 庭の隅に一本のえのきの大木があった。その枝の間を、まんまるい月がそろそろと昇りはじめた。初秋の風が、しのびやかに葉末をわたるごとに、露がこぼれ落ちそうだった。次郎はいつとはなしに、それにも眼をひかれていた。彼の心は子供たちの騒ぎと、うしろの話し声と、美しい月の光との間にはさまれて、しょんぼりと淋しかった。
 話は、いつの間にか、ひそひそした声になっていた。それが、ややもすると、子供たちの騒ぎにまぎれそうであったが、次郎の耳の神経は、そうなると、かえって鋭く仂いた。話は彼自身に関することであった。
お民――「一人だけ、わけへだてをされたように思って、ひがんでも困りますので、やはり一緒につれて行く方が、いいのではないかと思いますの。」
正木の祖父――「ふむ……」
正木の祖母――「それは、何といってもね。……でも、本人さえこちらにいる気になれば、その心配もなかりそうに思うのだがね。」
正木の祖父――「本人は大丈夫じゃ。元来あれは、ここが好きなのじゃからな。」
本田の祖母――「まあ、さようでございましょうか。それにしましても、今度の場合は、本人にとくときいてみませんと、……」
 本田のお祖母さんの声だけが、わざとのように高い。
正木の祖父――「それは、わしの方で、もうきいておきました。」
本田の祖母――「やはり、こちら様にご厄介になりたいと、そうはっきり申すのでございましょうか。」
正木の祖父――「左様。はっきり、そう言って居ります。」
本田の祖母――「まあ、まあ、厚かましい。……そして、何でございましょうか、本人に何か考えでも……」
正木の祖父――「本人には、考えというほどのこともありますまい。何しろ、まだ子供のことでしてな。」
本田の祖母――「でも、訳もなしに、こちら様にご迷惑をおかけ致しましては、私共といたしまして……」
正木の祖父――「いや、わけはあります。つまりその……いつかもお宅で申しました通り、わしが当分預かってみたいのでしてな。はっはっはっ。……それとも、わしの考え通りにはさせんとおっしゃるかな。」
 正木のお祖父さんの声も、次第に高くなって来た。
本田の祖母――「いいえ、滅相めっそうな。わたくし、そんなつもりで申しているのではございません。それはもう、貴方様のお手許でしつけていただけば、何よりでございましょうとも。でも、私の方から申しますと、あれも同じ孫でございますし、一人残して置いて、変にひがみましてもと存じましたものですから、ついその。ほ、ほ、ほ。……お民さん、どうだね、せっかくああおっしゃって下さるんだから……」
お民――「ええ、でも、今度は、あたし、ほんとにあの子にすまない気がしてならないんですの。永いこと里子にやったり、置きざりにしたりしたんでは、一生親とは思われないんじゃないかしら、などと考えたりしまして……」
 お民の声は、いつになく、しんみりしていた。
 次郎は、思わずうしろをふり向いた。すると、ぱったりと俊亮の眼に出っくわした。俊亮は、さっきから彼を見ていたものらしい。
 次郎は、うろたえて眼をそらすと、すぐ立ち上って一人で庭に下りた。素足すあしでふむ飛石がひえびえと露にぬれていた。
「次郎ちゃん、どこへ行く?」
 他の子供たちがをやめて、つぎつぎに飛石をつたって、彼のあとを逐った。次郎は、池にかけてある石橋の上まで来ると、立ち止まって、うしろをふり向いた。
綺麗きれいだぜ、月が。」
 彼は水を指さしてそう言ったが、眼は庭木をすかして座敷の方を見ていた。座敷では、四人がまだ額を集めて話しこんでいる。
 子供たちは、それから、池に小石を投げたり、樹をゆすぶったり、唱歌をうたったりして、遊んだ。次郎もいつの間にか、彼らと一緒になってはしゃぎ出した。そうなると、もう飛石も地べたもなかった。彼らは跣足はだしでめちゃくちゃに走りまわった。
「次郎! 次郎!」
 二三十分もたったころ、俊亮の声が縁側からきこえた。そのまるまるした体が、室内の燈火を背にうけて、黒々と立っている。次郎は、飛石に足のうらをこすりこすり父のそばに行った。父は縁側に腰をおろしながら言った。
「どうだい、父さんたちは、もう明日からみんな町の方に行くんだが、お前も一緒に行きたいか。それとも、ここにいたいのか。お前のすきなようにしていいんだから、思うとおりに言ってごらん。」
 座敷の方から、みんなの視線が、一せいに次郎に注がれた。次郎は返事に困った。
 彼は、これまで、どうせ自分はこちらに残されるものだと決めていたし、またその方を喜んでもいたのであるが、いざとなると、変に物淋しい気持が、胸の奥からこみあげて来る。それは、父に対する愛着からだとばかりはいえない。みんなが打ち揃って出て行くのに、自分だけあとに残されるということが、予期しなかったいやな気持に、彼を誘いこんでいくのである。それに、さっきのしんみりした母の言葉が、妙に彼の頭にこびりついて、彼の心を一層悲しくさせた。出来るなら、一緒について行きたい、とも思う。
 しかし、魅力みりょくは何といっても正木の家にある。ついては行きたいが、いざ正木を離れると思うと、温かいふとんの中から急に冷たい畳の上に放り出されるような気がする。せめて本田のお祖母さんさえいなけれは、と思うが、現にその蛇のような眼が、自分を見つめている。やっぱり、ついて行くのはいやだ。
「どうだい、一緒に行くか。」
「…………」
「やっぱり、ここにいたいのか。」
「…………」
「どうした? 默ってちゃわからんが。」
「…………」
「母さんは、お前をつれて行きたいって言うんだ。」
 次郎は、伏せていた眼を、ちょっとあげて父を見た。しかし、返事はしない。
「ところで、お祖父さんは、お前をこちらにおきたい、とおっしゃるんだ。」
 次郎は、正木の老人の方をちらりと見た。が、またすぐ眼を伏せてしまった。
「困ったな。そうぐずぐずじゃあ。……だが、まあいい。今夜は、みんなこちらに泊るんだから、明日の朝までによく考えておくんだ。いいか、お前の好きなようにしていいんだからな。」
 俊亮は、そう言って縁側を去ろうとした。すると、次郎が、
「父さんは、どっちがいい?」
 俊亮は、予期しなかった問に、ちょっとまごついた。そして、しばらく次郎の眼を見つめていたが、
「父さんか。父さんはどうでもいい。次郎の好きなようにするのが一番いいと思っているんだ。」
 次郎は、首をかしげて、右手の指先で、縁板をこすりはじめた。十秒あまりの沈默がつづいた。蚊が一疋、弱々しい声を立てて、次郎の耳元で鳴いた。次郎は、手をふってそれを追ったが、すぐまたその手で、縁板をこすりはじめた。
「次郎や――」と、その時、本田のお祖母さんが、少し膝を乗り出して、声をかけた。
「私も、お母さんと同じ考えなんだよ。そりゃあ、もう、こちら様のご親切は、よくわかっていますが、何といっても、兄弟三人そろっていて貰う方が、私も気が安まるのでね。一人残して置いたんでは、夜もおちおち眠れまいと思うのだよ。」
 みんなの次郎を見ていた眼が、気まずそうに畳の上に落ちた。次郎は、じろりと本田のお祖母さんを見たが、すぐその眼で俊亮を見あげながら、きっぱりと言った。
「父さん、僕、ここに残るよ。」
 誰も、しばらくは、一語も発しなかった。俊亮も、少しあきれたように、次郎の顔を見ていたが急にわれにかえって、
「そうか。うむ。それでいい。それでいいんだ。……なあに、町までは、たった四里しかないんだから、わけはない。土曜から泊りに行くんだな。」
 正木のお祖父さんは、その場の気まずい空気をふり払うように、つと立って縁に出た。
「おお、いい月じゃ、お茶でも入れかえて貰おうかな。」
 正木のお祖母さんは、顔を畳にすりつけるようにして、座敷から空をのぞいていたが、
「そうそう。今夜は、ちょうど十五夜でございましたよ。」
「あら。すると次郎の誕生日ですわ。あたし、かまけていてすっかり忘れていましたの。」
 と、お民がいそいそと立ち上って、月を見た。すると、本田のお祖母さんが、
「私、気づかないでもなかったんだがね。こちら様で、そんなことを言い出すものでもないと思って。」
 それでまた、あたりが変に気まずくなった。次郎は、しかし、もうその時にはそこにはいなかった。彼は、彼が物ごころづいて以来、しばしば聞かされてきた、「八月十五夜」が、ちょうど今夜だということなど、まるで思いつきもしないで、遠慮深そうにしている恭一や俊三を尻目にかけながら、わが物顔に庭をあちらこちらと飛びまわっていた。