「どうしたね? けふは又妙にふさいでゐるぢやないか?」
 その火事のあつた翌日です。僕は巻煙草を啣へながら、僕の客間の椅子に腰をおろした学生のラツプにかう言ひました。実際又ラツプは右の脚の上へ左の脚をのせたまま、腐つた嘴も見えないほど、ぼんやり床の上ばかり見てゐたのです。
「ラツプ君、どうしたねと言へば。」
「いや、何、つまらないことなのですよ。――」
 ラツプはやつと頭を挙げ、悲しい鼻声を出しました。
「僕はけふ窓の外を見ながら、『おや虫取り菫が咲いた』と何気なしに呟いたのです。すると僕の妹は急に顔色を変へたと思ふと、『どうせわたしは虫取り菫よ』と当り散らすぢやありませんか? おまけに又僕のおふくろも大の妹贔屓ですから、やはり僕に食つてかかるのです。」
「虫取り菫が咲いたと云ふことはどうして妹さんには不快なのだね?」
「さあ、多分雄の河童を掴まへると云ふ意味にでもとつたのでせう。そこへおふくろと仲悪い叔母も喧嘩の仲間入りをしたのですから、愈大騒動になつてしまひました。しかも年中酔つ払つてゐるおやぢはこの喧嘩を聞きつけると、誰彼の差別なしに殴り出したのです。それだけでも始末のつかない所へ僕の弟はその間におふくろの財布を盗むが早いか、キネマか何かを見に行つてしまひました。僕は……ほんたうに僕はもう、……」
 ラツプは両手に顔を埋め、何も言はずに泣いてしまひました。僕の同情したのは勿論です。同時に又家族制度に対する詩人のトツクの軽蔑を思ひ出したのも勿論です。僕はラツプの肩を叩き、一生懸命に慰めました。
「そんなことはどこでもあり勝ちだよ。まあ勇気を出し給へ。」
「しかし……しかし嘴でも腐つてゐなければ、……」
「それはあきらめる外はないさ。さあ、トツク君の家へでも行かう。」
「トツクさんは僕を軽蔑してゐます。僕はトツクさんのやうに大胆に家族を捨てることが出来ませんから。」
「ぢやクラバツク君の家へ行かう。」
 僕はあの音楽会以来、クラバツクとも友だちになつてゐましたから、兎に角この大音楽家の家へラツプをつれ出すことにしました。クラバツクはトツクに比べれば、遥かに贅沢に暮らしてゐます。と云ふのは資本家のゲエルのやうに暮らしてゐると云ふ意味ではありません。唯いろいろの骨董を、――タナグラの人形やペルシアの陶器を部屋一ぱいに並べた中にトルコ風の長椅子を据ゑ、クラバツク自身の肖像画の下にいつも子供たちと遊んでゐるのです。が、けふはどうしたのか両腕を胸へ組んだまま、苦い顔をして坐つてゐました。のみならずその又足もとには紙屑が一面に散らばつてゐました。ラツプも詩人のトツクと一しよに度たびクラバツクには会つてゐる筈です。しかしこの容子に恐れたと見え、けふは丁寧にお辞宜をしたなり、黙つて部屋の隅に腰をおろしました。
「どうしたね? クラバツク君。」
 僕はほとんど挨拶の代りにかう大音楽家へ問かけました。
「どうするものか? 批評家の阿呆め! 僕の抒情詩はトツクの抒情詩と比べものにならないと言やがるんだ。」
「しかし君は音楽家だし、……」
「それだけならば我慢も出来る。僕はロツクに比べれば、音楽家の名に価しないと言やがるぢやないか?」
 ロツクと云ふのはクラバツクと度たび比べられる音楽家です。が、生憎超人倶楽部の会員になつてゐない関係上、僕は一度も話したことはありません。尤も嘴の反り上つた、一癖あるらしい顔だけは度たび写真でも見かけてゐました。
「ロツクも天才には違ひない。しかしロツクの音楽は君の音楽に溢れてゐる近代的情熱を持つてゐない。」
「君はほんたうにさう思ふか?」
「さう思ふとも。」
 するとクラバツクは立ち上るが早いか、タナグラの人形をひつ掴み、いきなり床の上に叩きつけました。ラツプは余程驚いたと見え、何か声を挙げて逃げようとしました。が、クラバツクはラツプや僕にちよつと「驚くな」と云ふ手真似をした上、今度は冷やかにかう言ふのです。
「それは君も亦俗人のやうに耳を持つてゐないからだ。僕はロツクを恐れてゐる。……」
「君が? 謙遜家を気どるのはやめ給へ。」
「誰が謙遜家を気どるものか? 第一君たちに気どつて見せる位ならば、批評家たちの前に気どつて見せてゐる。僕は――クラバツクは天才だ。その点ではロツクを恐れてゐない。」
「では何を恐れてゐるのだ?」
「何か正体の知れないものを、――言はばロツクを支配してゐる星を。」
「どうも僕には腑に落ちないがね。」
「ではかう言へばわかるだらう。ロツクは僕の影響を受けない。が、僕はいつの間にかロツクの影響を受けてしまふのだ。」
「それは君の感受性の……。」
「まあ、聞き給へ。感受性などの問題ではない。ロツクはいつも安んじてあいつだけに出来る仕事をしてゐる。しかし僕はら々々するのだ。それはロツクの目から見れば、或は一歩の差かも知れない。けれども僕には十マイルも違ふのだ。」
「しかし先生の英雄曲は……」
 クラバツクは細い目を一層細め、忌々しさうにラツプを睨みつけました。
「黙り給へ。君などに何がわかる? 僕はロツクを知つてゐるのだ。ロツクに平身低頭する犬どもよりもロツクを知つてゐるのだ。」
「まあ少し静かにし給へ。」
「若し静かにしてゐられるならば、……僕はいつもかう思つてゐる。――僕等の知らない何ものかは僕を、――クラバツクを嘲る為にロツクを僕の前に立たせたのだ。哲学者のマツグはかう云ふことを何も彼も承知してゐる。いつもあの色硝子のランタアンの下に古ぼけた本ばかり読んでゐる癖に。」
「どうして?」
「この近頃マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ本を見給へ。――」
 クラバツクは僕に一冊の本を渡す――と云ふよりも投げつけました。それから又腕を組んだまま、突けんどんにかう言ひ放ちました。
「ぢやけふは失敬しよう。」
 僕は悄気返しよげかへつたラツプと一しよにもう一度往来へ出ることにしました。人通りの多い往来は不相変毛生欅ぶなの並み木のかげにいろいろの店を並べてゐます。僕等は何と云ふこともなしに黙つて歩いて行きました。するとそこへ通りかかつたのは髪の長い詩人のトツクです。トツクは僕等の顔を見ると、腹の袋から半巾ハンケチを出し、何度も額を拭ひました。
「やあ、暫らく会はなかつたね。僕はけふは久しぶりにクラバツクを尋ねようと思ふのだが、……」
 僕はこの芸術家たちを喧嘩させては悪いと思ひ、クラバツクの如何にも不機嫌だつたことを婉曲にトツクに話しました。
「さうか。ぢややめにしよう。何しろクラバツクは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱つてゐるのだ。」
「どうだね、僕等と一しよに散歩をしては?」
「いや、けふはやめにしよう。おや!」
 トツクはかう叫ぶが早いか、しつかり僕の腕を掴みました。しかもいつか体中に冷や汗を流してゐるのです。
「どうしたのだ?」
「どうしたのです?」
「何、あの自動車の窓の中から緑いろの猿が一匹首を出したやうに見えたのだよ。」
 僕は多少心配になり、兎に角あの医者のチヤツクに診察して貰ふやうに勧めました。しかしトツクは何と言つても、承知する気色さへ見せません。のみならず何か疑はしさうに僕等の顔を見比べながら、こんなことさへ言ひ出すのです。
「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきつと忘れずにゐてくれ給へ。――ではさやうなら。チヤツクなどは真平御免だ。」
 僕等はぼんやり佇んだまま、トツクの後ろ姿を見送つてゐました。僕等は――いや、「僕等は」ではありません。学生のラツプはいつの間にか往来のまん中に脚をひろげ、しつきりない自動車や人通りを股目金に覗いてゐるのです。僕はこの河童も発狂したかと思ひ、驚いてラツプを引き起しました。
「常談ぢやない。何をしてゐる?」
 しかしラツプは目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。
「いえ、余り憂鬱ですから、逆まに世の中を眺めて見たのです。けれどもやはり同じことですね。」


 これは哲学者のマツグの書いた「阿呆の言葉」の中の何章かです。――
          ×
 阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じてゐる。
          ×
 我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり嫉妬したりしない為もないことはない。
          ×
 最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもその又習慣を少しも破らないやうに暮らすことである。
          ×
 我々の最も誇りたいものは我々の持つてゐないものだけである。
          ×
 何びとも偶像を破壊することに異存を持つてゐるものはない。同時に又何びとも偶像になることに異存を持つてゐるものはない。しかし偶像の台座の上に安んじて坐つてゐられるものは最も神々に恵まれたもの、――阿呆か、悪人か、英雄かである。(クラバツクはこの章の上へ爪の痕をつけてゐました。)
          ×
 我々の生活に必要な思想は三千年前に尽きたかも知れない。我々は唯古い薪に新らしい炎を加へるだけであらう。
          ×
 我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としてゐる。
          ×
 幸福は苦痛を伴ひ、平和は倦怠を伴ふとすれば、――?
          ×
 自己を弁護することは他人を弁護することよりも困難である。疑ふものは弁護士を見よ。
          ×
 矜誇、愛慾、疑惑――あらゆる罪は三千年来、この三者から発してゐる。同時に又恐らくはあらゆる徳も。
          ×
 物質的欲望を減ずることは必しも平和をもたらさない。我々は平和を得る為には精神的欲望も減じなければならぬ。(クラバツクはこの章の上にも爪の痕を残してゐました。)
          ×
 我々は人間よりも不幸である。人間は河童ほど進化してゐない。(僕はこの章を読んだ時思はず笑つてしまひました。)
          ×
 成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すことである。畢竟我々の生活はかう云ふ循環論法を脱することは出来ない。――即ち不合理に終始してゐる。
          ×
 ボオドレエルは白痴になつた後、彼の人生観をたつた一語に、――女陰の一語に表白した。しかし彼自身を語るものは必しもかう言つたことではない。寧ろ彼の天才に、――彼の生活を維持するに足る詩的天才に信頼した為に胃袋の一語を忘れたことである。(この章にもやはりクラバツクの爪の痕は残つてゐました。)
          ×
 若し理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴオルテエルの幸福に一生を了つたのは即ち人間の河童よりも進化してゐないことを示すものである。


 或割り合に寒い午後です。僕は「阿呆の言葉」も読み飽きましたから、哲学者のマツグを尋ねに出かけました。すると或寂しい町の角に蚊のやうに痩せた河童が一匹、ぼんやり壁によりかかつてゐました。しかもそれは紛れもない、いつか僕の万年筆を盗んで行つた河童なのです。僕はしめたと思ひましたから、丁度そこへ通りかかつた、逞しい巡査を呼びとめました。
「ちよつとあの河童を取り調べて下さい。あの河童は丁度一月ばかり前にわたしの万年筆を盗んだのですから。」
 巡査は右手の棒をあげ、(この国の巡査は剣の代りに水松いちゐの棒を持つてゐるのです。)「おい、君」とその河童へ声をかけました。僕は或はその河童は逃げ出しはしないかと思つてゐました。が、存外落ち着き払つて巡査の前へ歩み寄りました。のみならず腕を組んだまま、如何にも傲然と僕の顔や巡査の顔をじろじろ見てゐるのです。しかし巡査は怒りもせず、腹の袋から手帳を出して早速尋問にとりかかりました。
「お前の名は?」
「グルツク。」
「職業は?」
「つひ二三日前までは郵便配達夫をしてゐました。」
「よろしい。そこでこの人の申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んで行つたと云ふことだがね。」
「ええ、一月ばかり前に盗みました。」
「何の為に?」
「子供の玩具にしようと思つたのです。」
「その子供は?」
 巡査は始めて相手の河童へ鋭い目を注ぎました。
「一週間前に死んでしまひました。」
「死亡証明書を持つてゐるかね?」
 痩せた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出しました。巡査はその紙へ目を通すと、急ににやにや笑ひながら、相手の肩を叩きました。
「よろしい。どうも御苦労だつたね。」
 僕は呆気にとられたまま、巡査の顔を眺めてゐました。しかもそのうちに痩せた河童は何かぶつぶつ呟きながら、僕等を後ろにして行つてしまふのです。僕はやつと気をとり直し、かう巡査に尋ねて見ました。
「どうしてあの河童を掴まへないのです?」
「あの河童は無罪ですよ。」
「しかし僕の万年筆を盗んだのは……」
「子供の玩具にする為だつたのでせう。けれどもその子供は死んでゐるのです。若し何か御不審だつたら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。」
 巡査はかう言ひすてたなり、さつさとどこかへ行つてしまひました。僕は仕かたがありませんから、「刑法千二百八十五条」を口の中に繰り返し、マツグの家へ急いで行きました。哲学者のマツグは客好きです。現にけふも薄暗い部屋には裁判官のペツプや医者のチヤツクや硝子会社の社長のゲエルなどが集り、七色の色硝子のランタアンの下に煙草の煙を立ち昇らせてゐました。そこに裁判官のペツプが来てゐたのは何よりも僕には好都合です。僕は椅子にかけるが早いか、刑法第千二百八十五条を検べる代りに早速ペツプへ問ひかけました。
「ペツプ君、甚だ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?」
 ペツプは金口の煙草の煙をまづ悠々と吹き上げてから、如何にもつまらなさうに返事をしました。
「罰しますとも。死刑さへ行はれる位ですからね。」
「しかし僕は一月ばかり前に、……」
 僕は委細を話した後、例の刑法千二百八十五条のことを尋ねて見ました。
「ふむ、それはかう云ふのです。――『如何なる犯罪を行ひたりといへども、がい犯罪を行はしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず』つまりあなたの場合で言へば、その河童は嘗ては親だつたのですが、今はもう親ではありませんから、犯罪も自然と消滅するのです。」
「それはどうも不合理ですね。」
「常談を言つてはいけません。河童も親河童も同一に見るのこそ不合理です。さうさう、日本の法律では同一に見ることになつてゐるのですね。それはどうも我々には滑稽です。ふふふふふ、ふふふふふ。」
 ペツプは巻煙草を抛り出しながら、気のない薄笑ひを洩らしてゐました。そこへ口を出したのは法律には縁の遠いチヤツクです。チヤツクはちよつと鼻眼金を直し、かう僕に質問しました。
「日本にも死刑はありますか?」
「ありますとも。日本では絞罪です。」
 僕は冷然と構えこんだペツプに多少反感を感じてゐましたから、この機会に皮肉を浴せてやりました。
「この国の死刑は日本よりも文明的に出来てゐるでせうね?」
「それは勿論文明的です。」
 ペツプはやはり落ち着いてゐました。
「この国では絞罪などは用ひません。稀には電気を用ひることもあります。しかし大抵は電気も用ひません。唯その犯罪の名を言つて聞かせるだけです。」
「それだけで河童は死ぬのですか?」
「死にますとも。我々河童の神経作用はあなたがたのよりも微妙ですからね。」
「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使ふのがあります。――」
 社長のゲエルは色硝子の光に顔中紫に染りながら、人懐つこい笑顔をして見せました。
「わたしはこの間も或社会主義者に『貴様は盗人だ』と言はれた為に心臓痲痺を起しかかつたものです。」
「それは案外多いやうですね。わたしの知つてゐた或弁護士などはやはりその為に死んでしまつたのですからね。」
 僕はかう口を入れた河童、――哲学者のマツグをふりかへりました。マツグはやはりいつものやうに皮肉な微笑を浮かべたまま、誰の顔も見ずにしやべつてゐるのです。
「その河童は誰かに蛙だと言はれ、――勿論あなたも御承知でせう、この国で蛙だと言はれるのは人非人と云ふ意味になること位は。――己は蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考へてゐるうちにとうとう死んでしまつたものです。」
「それはつまり自殺ですね。」
「尤もその河童を蛙だと言つたやつは殺すつもりで言つたのですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺と云ふ……」
 丁度マツグがかう云つた時です。突然その部屋の壁の向うに、――確かに詩人のトツクの家に鋭いピストルの音が一発、空気を反ね返へすやうに響き渡りました。


 僕等はトツクの家へ駈けつけました。トツクは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物の鉢植ゑの中に仰向けになつて倒れてゐました。その又側には雌の河童が一匹、トツクの胸に顔を埋め、大声を挙げて泣いてゐました。僕は雌の河童を抱き起しながら、(一体僕はぬらぬらする河童の皮膚に手を触れることを余り好んではゐないのですが。)「どうしたのです?」と尋ねました。
「どうしたのだか、わかりません。唯何か書いてゐたと思ふと、いきなりピストルで頭を打つたのです。ああ、わたしはどうしませう? qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r」(これは河童の泣き声です。)
「何しろトツク君は我儘だつたからね。」
 硝子会社の社長のゲエルは悲しさうに頭を振りながら、裁判官のペツプにかう言ひました。しかしペツプは何も言はずに金口の巻煙草に火をつけてゐました。すると今まで跪いて、トツクの創口きずぐちなどを調べてゐたチヤツクは如何にも医者らしい態度をしたまま、僕等五人に宣言しました。(実は一人と四匹とです。)
「もう駄目です。トツク君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱になり易かつたのです。」
「何か書いてゐたと云ふことですが。」
 哲学者のマツグは弁解するやうにかう独り語を洩らしながら、机の上の紙をとり上げました。僕等は皆頸をのばし、(尤も僕だけは例外です。)幅の広いマツグの肩越しに一枚の紙を覗きこみました。
「いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。
 岩むらはこごしく、やま水は清く、
 薬草の花はにほへる谷へ。」
 マツグは僕等をふり返りながら、微苦笑と一しよにかう言ひました。
「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃へうせつですよ。するとトツク君の自殺したのは詩人としても疲れてゐたのですね。」
 そこへ偶然自動車を乗りつけたのはあの音楽家のクラバツクです。クラバツクはかう云ふ光景を見ると、暫く戸口に佇んでゐました。が、僕等の前へ歩み寄ると、怒鳴りつけるやうにマツグに話しかけました。
「それはトツクの遺言状ですか?」
「いや、最後に書いてゐた詩です。」
「詩?」
 やはり少しも騒がないマツグは髪を逆立てたクラバツクにトツクの詩稿を渡しました。クラバツクはあたりには目もやらずに熱心にその詩稿を読み出しました。しかもマツグの言葉には殆ど返事さへしないのです。
「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」
「いざ、立ちて、……僕も亦いつ死ぬかわかりません。……娑婆界を隔つる谷へ。……」
「しかしあなたはトツク君とはやはり親友の一人だつたのでせう?」
「親友? トツクはいつも孤独だつたのです。……娑婆界を隔つる谷へ、……唯トツクは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
「不幸にも?」
「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
 僕は未だに泣き声を絶たない雌の河童に同情しましたから、そつと肩を抱へるやうにし、部屋の隅の長椅子へつれて行きました。そこには二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らずに笑つてゐるのです。僕は雌の河童の代りに子供の河童をあやしてやりました。するといつか僕の目にも涙のたまるのを感じました。僕が河童の国に住んでゐるうちに涙と云ふものをこぼしたのは前にも後にもこの時だけです。
「しかしかう云ふ我儘な河童と一しよになつた家族は気の毒ですね。」
「何しろあとのことも考へないのですから。」
 裁判官のペツプは不相変、新しい巻煙草に火をつけながら、資本家のゲエルに返事をしてゐました。すると僕等を驚かせたのは音楽家のクラバツクのおほ声です。クラバツクは詩稿を握つたまま、誰にともなしに呼びかけました。
「しめた! すばらしい葬送曲が出来るぞ。」
 クラバツクは細い目を赫やかせたまま、ちよつとマツグの手を握ると、いきなり戸口へ飛んで行きました。勿論もうこの時には隣近所の河童が大勢、トツクの家の戸口に集まり、珍らしさうに家の中を覗いてゐるのです。しかしクラバツクはこの河童たちを遮二無二左右へ押しのけるが早いか、ひらりと自動車へ飛び乗りました。同時に又自動車は爆音を立てて忽ちどこかへ行つてしまひました。
「こら、こら、さう覗いてはいかん。」
 裁判官のペツプは巡査の代りに大勢の河童を押し出した後、トツクの家の戸をしめてしまひました。部屋の中はそのせゐか急にひつそりなつたものです。僕等はかう云ふ静かさの中に――高山植物の花の香に交つたトツクの血の匂の中に後始末のことなどを相談しました。しかしあの哲学者のマツグだけはトツクの死骸を眺めたまま、ぼんやり何か考へてゐます。僕はマツグの肩を叩き、「何を考へてゐるのです?」と尋ねました。
「河童の生活と云ふものをね。」
「河童の生活がどうなのです?」
「我々河童は何と云つても、河童の生活を完うする為には、……」
 マツグは多少はづかしさうにかう小声でつけ加へました。
「兎に角我々河童以外の何ものかの力を信ずることですね。」


 僕に宗教と云ふものを思ひ出させたのはかう云ふマツグの言葉です。僕は勿論物質主義者ですから、真面目に宗教を考へたことは一度もなかつたのに違ひありません。が、この時はトツクの死に或感動を受けてゐた為に一体河童の宗教は何であるかと考へ出したのです。僕は早速学生のラツプにこの問題を尋ねて見ました。
「それは基督教、仏教、モハメツト教、拝火教なども行はれてゐます。まづ一番勢力のあるものは何と言つても近代教でせう。生活教とも言ひますがね。」(「生活教」と云ふ訳語は当つてゐないかも知れません。この原語は Quemoocha です。cha は英吉利語の ism と云ふ意味に当るでせう。quemoo の原形 quemal の訳は単に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり、酒を飲んだり、交合を行つたり」する意味です。)
「ぢやこの国にも教会だの寺院だのはある訣なのだね?」
「常談を言つてはいけません。近代教の大寺院などはこの国第一の大建築ですよ。どうです、ちよつと見物に行つては?」
 或生温い曇天の午後、ラツプは得々と僕と一しよにこの大寺院へ出かけました。成程それはニコライ堂の十倍もある大建築です。のみならずあらゆる建築様式を一つに組み上げた大建築です。僕はこの大寺院の前に立ち、高い塔や円屋根を眺めた時、何か無気味にさへ感じました。実際それ等は天に向つて伸びた無数の触手のやうに見えたものです。僕等は玄関の前に佇んだまま、(その又玄関に比べて見ても、どの位僕等は小さかつたでせう!)暫らくこの建築よりも寧ろ途方もない怪物に近い稀代の大寺院を見上げてゐました。
 大寺院の内部も亦広大です。そのコリント風の円柱の立つた中には参詣人が何人も歩いてゐました。しかしそれ等は僕等のやうに非常に小さく見えたものです。そのうちに僕等は腰の曲つた一匹の河童に出合ひました。するとラツプはこの河童にちよつと頭を下げた上、丁寧にかう話しかけました。
「長老、御達者なのは何よりもです。」
 相手の河童もお時宜をした後、やはり丁寧に返事をしました。
「これはラツプさんですか? あなたも不相変、――(と言ひかけながら、ちよつと言葉をつがなかつたのはラツプの嘴の腐つてゐるのにやつと気がついた為だつたでせう。)――ああ、兎に角御丈夫らしいやうですね。が、けふはどうして又……」
「けふはこの方のお伴をして来たのです。この方は多分御承知の通り、――」
 それからラツプは滔々と僕のことを話しました。どうも又それはこの大寺院へラツプが滅多に来ないことの弁解にもなつてゐたらしいのです。
「就いてはどうかこの方の御案内を願ひたいと思ふのですが。」
 長老は大様に微笑しながら、まづ僕に挨拶をし、静かに正面の祭壇を指さしました。
「御案内と申しても、何も御役に立つことは出来ません。我々信徒の礼拝するのは正面の祭壇にある『生命の樹』です。『生命の樹』には御覧の通り、金と緑とのがなつてゐます。あの金の果を『善の果』と云ひ、あの緑の果を『悪の果』と云ひます。……」
 僕はかう云ふ説明のうちにもう退屈を感じ出しました。それは折角の長老の言葉も古い比喩のやうに聞えたからです。僕は勿論熱心に聞いてゐる容子を装つてゐました。が、時々は大寺院の内部へそつと目をやるのを忘れずにゐました。
 コリント風の柱、ゴシク風の穹窿、アラビアじみた市松模様の床、セセツシヨン紛ひの祈祷机、――かう云ふものの作つてゐる調和は妙に野蛮な美を具へてゐました。しかし僕の目を惹いたのは何よりも両側のがんの中にある大理石の半身像です。僕は何かそれ等の像を見知つてゐるやうに思ひました。それも亦不思議ではありません。あの腰の曲つた河童は「生命の樹」の説明を了ると、今度は僕やラツプと一しよに右側の龕の前へ歩み寄り、その龕の中の半身像にかう云ふ説明を加へ出しました。
「これは我々の聖徒の一人、――あらゆるものに反逆した聖徒ストリントベリイです。この聖徒はさんざん苦しんだ揚句、スウエデンボルグの哲学の為に救はれたやうに言はれてゐます。が、実は救はれなかつたのです。この聖徒は唯我々のやうに生活教を信じてゐました。――と云ふよりも信じる外はなかつたのでせう。この聖徒の我々に残した『伝説』と云ふ本を読んで御覧なさい。この聖徒も自殺未遂者だつたことは聖徒自身告白してゐます。」
 僕はちよつと憂鬱になり、次の龕へ目をやりました。次の龕にある半身像は口髭の太い独逸人です。
「これはツアラトストラの詩人ニイチエです。その聖徒は聖徒自身の造つた超人に救ひを求めました。が、やはり救はれずに気違ひになつてしまつたのです。若し気違ひにならなかつたとすれば、或は聖徒の数へはひることも出来なかつたかも知れません。……」
 長老はちよつと黙つた後、第三の龕の前へ案内しました。
「三番目にあるのはトルストイです。この聖徒は誰よりも苦行をしました。それは元来貴族だつた為に好奇心の多い公衆に苦しみを見せることを嫌つたからです。この聖徒は事実上信ぜられない基督を信じようと努力しました。いや、信じてゐるやうにさへ公言したこともあつたのです。しかしとうとう晩年には悲壮な譃つきだつたことに堪へられないやうになりました。この聖徒も時々書斎の梁に恐怖を感じたのは有名です。けれども聖徒の数にははひつてゐる位ですから、勿論自殺したのではありません。」
 第四の龕の中の半身像は我々日本人の一人です。僕はこの日本人の顔を見た時、さすがに懐しさを感じました。
「これは国木田独歩です。轢死する人足の心もちをはつきり知つてゐた詩人です。しかしそれ以上の説明はあなたには不必要に違ひありません。では五番目の龕の中を御覧下さい。――」
「これはワグネルではありませんか?」
「さうです。国王の友だちだつた革命家です。聖徒ワグネルは晩年には食前の祈祷さへしてゐました。しかし勿論基督教よりも生活教の信徒の一人だつたのです。ワグネルの残した手紙によれば、娑婆苦は何度この聖徒を死の前に駆りやつたかわかりません。」
 僕等はもうその時には第六の龕の前に立つてゐました。
「これは聖徒ストリントベリイの友だちです。子供の大勢ある細君の代りに十三四のタイテイの女を娶つた商売人上りの仏蘭西の画家です。この聖徒は太い血管の中に水夫の血を流してゐました。が、唇を御覧なさい。砒素か何かの痕が残つてゐます。第七の龕の中にあるのは……もうあなたはお疲れでせう。ではどうかこちらへお出で下さい。」
 僕は実際疲れてゐましたから、ラツプと一しよに長老に従ひ、香の匂のする廊下伝ひに或部屋へはひりました。その又小さい部屋の隅には黒いヴエヌスの像の下に山葡萄が一ふさ献じてあるのです。僕は何の装飾もない僧房を想像してゐただけにちよつと意外に感じました。すると長老は僕の容子にかう云ふ気もちを感じたと見え、僕等に椅子を薦める前に半ば気の毒さうに説明しました。
「どうか我々の宗教の生活教であることを忘れずに下さい。我々の神、――『生命の樹』の教へは『旺盛に生きよ』と云ふのですから。……ラツプさん、あなたはこのかたに我々の聖書を御覧に入れましたか?」
「いえ、……実はわたし自身も殆ど読んだことはないのです。」
 ラツプは頭の皿を掻きながら、正直にかう返事をしました。が、長老は不相変静かに微笑して話しつづけました。
「それではおわかりなりますまい。我々の神は一日のうちにこの世界を造りました。(『生命の樹』は樹と云ふものの、成し能はないことはないのです。)のみならず雌の河童を造りました。すると雌の河童は退屈の余り、雄の河童を求めました。我々の神はこの歎きを憐み、雌の河童の脳髄を取り、雄の河童を造りました。我々の神はこの二匹の河童に『食へよ、交合せよ、旺盛に生きよ』と云ふ祝福を与へました。………」
 僕は長老の言葉のうちに詩人のトツクを思ひ出しました。詩人のトツクは不幸にも僕のやうに無神論者です。僕は河童ではありませんから、生活教を知らなかつたのも無理はありません。けれども河童の国に生まれたトツクは勿論「生命の樹」を知つてゐた筈です。僕はこの教へに従はなかつたトツクの最後を憐みましたから、長老の言葉を遮るやうにトツクのことを話し出しました。
「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」
 長老は僕の話を聞き、深い息を洩らしました。
「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけです。(尤もあなたがたはその外に遺伝をお数へなさるでせう。)トツクさんは不幸にも信仰をお持ちにならなかつたのです。」
「トツク君はあなたを羨んでゐたでせう。いや、僕も羨んでゐます。ラツプ君などは年も若いし、……」
「僕も嘴さへちやんとしてゐれば或は楽天的だつたかも知れません。」
 長老は僕等にかう言はれると、もう一度深い息を洩らしました。しかもその目は涙ぐんだまま、ぢつと黒いヴエヌスを見つめてゐるのです。
「わたしも実は、――これはわたしの秘密ですから、どうか誰にも仰有らずに下さい。――わたしも実は我々の神を信ずる訣に行かないのです。しかしいつかわたしの祈祷は、――」
 丁度長老のかう言つた時です。突然部屋の戸があいたと思ふと、大きい雌の河童が一匹、いきなり長老へ飛びかかりました。僕等がこの雌の河童を抱きとめようとしたのは勿論です。が、雌の河童は咄嗟の間に床の上へ長老を投げ倒しました。
「この爺め! けふも又わたしの財布から一杯やる金を盗んで行つたな!」
 十分ばかりたつた後、僕等は実際逃げ出さないばかりに長老夫婦をあとに残し、大寺院の玄関を下りて行きました。
「あれではあの長老も『生命の樹』を信じない筈ですね。」
 暫く黙つて歩いた後、ラツプは僕にかう言ひました。が、僕は返事をするよりも思はず大寺院を振り返りました。大寺院はどんより曇つた空にやはり高い塔や円屋根を無数の触手のやうに伸ばしてゐます。何か沙漠の空に見える蜃気楼の無気味さを漂はせたまま。……


 それから彼是一週間の後、僕はふと医者のチヤツクに珍らしい話を聞きました。と云ふのはあのトツクの家に幽霊の出ると云ふ話なのです。その頃にはもう雌の河童はどこか外へ行つてしまひ、僕等の友だちの詩人の家も写真師のステユデイオに変つてゐました。何でもチヤツクの話によれば、このステユデイオでは写真をとると、トツクの姿もいつの間にか必ず朦朧と客の後ろに映つてゐるとか云ふことです。尤もチヤツクは物質主義者ですから、死後の生命などを信じてゐません。現にその話をした時にも悪意のある微笑を浮べながら、「やはり霊魂と云ふものも物質的存在と見えますね」などと註釈めいたことをつけ加へてゐました。僕も幽霊を信じないことはチヤツクと余り変りません。けれども詩人のトツクには親しみを感じてゐましたから、早速本屋の店へ駈けつけ、トツクの幽霊に関する記事やトツクの幽霊の写真の出てゐる新聞や雑誌を買つて来ました。成程それ等の写真を見ると、どこかトツクらしい河童が一匹、老若男女の河童の後ろにぼんやりと姿を現してゐました。しかし僕を驚かせたのはトツクの幽霊の写真よりもトツクの幽霊に関する記事、――殊にトツクの幽霊に関する心霊学協会の報告です。僕は可也逐語的にその報告を訳して置きましたから、下に大略を掲げることにしませう。但し括弧の中にあるのは僕自身の加へた註釈なのです。――
   詩人トツク君の幽霊に関する報告。(心霊学協会雑誌第八千二百七十四号所載)
 わが心霊学協会は先般自殺したる詩人トツク君の旧居にして現在は××写真師のステユデイオなる□□街第二百五十一号に臨時調査会を開催せり。列席せる会員は下の如し。(氏名を略す。)
 我等十七名の会員は心霊学協会々長ペツク氏と共に九月十七日午前十時三十分、我等の最も信頼するメデイアム、ホツプ夫人を同伴し、該ステユデイオの一室に参集せり。ホツプ夫人は該ステユデイオに入るや、既に心霊的空気を感じ、全身に痙攣を催しつつ、嘔吐すること数回に及べり。夫人の語る所によれば、こは詩人トツク君の強烈なる煙草を愛したる結果、その心霊的空気も亦ニコテインを含有する為なりと云ふ。
 我等会員はホツプ夫人と共に円卓をめぐりて黙坐したり。夫人は三分二十五秒の後、極めて急劇なる夢遊状態に陥り、且詩人トツク君の心霊の憑依ひよういする所となれり。我等会員は年齢順に従ひ、夫人に憑依せるトツク君の心霊と左の如き問答を開始したり。
 問 君は何故に幽霊に出づるか?
 答 死後の名声を知らんが為なり。
 問 君――或は心霊諸君は死後も尚名声を欲するや?
 答 少くとも予は欲せざる能はず。然れども予の邂逅したる日本の一詩人の如きは死後の名声を軽蔑し居たり。
 問 君はその詩人の姓名を知れりや?
 答 予は不幸にも忘れたり。唯彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。
 問 その詩は如何?
 答「古池や蛙飛びこむ水の音」。
 問 君はその詩を佳作なりとすや?
 答 予は必しも悪作なりと做さず。唯「蛙」を「河童」とせん乎、更に光彩陸離たるべし。
 問 然らばその理由は如何?
 答 我等河童は如何なる芸術にも河童を求むること痛切なればなり。
 会長ペツク氏はこの時に当り、我等十七名の会員にこは心霊学協会の臨時調査会にして合評会にあらざるを注意したり。
 問 心霊諸君の生活は如何?
 答 諸君の生活と異ること無し。
 問 然らば君は君自身の自殺せしを後悔するや?
 答 必しも後悔せず。予は心霊的生活に倦まば、更にピストルを取りてすべし。
 問 するは容易なりや否や?
 トツク君の心霊はこの問に答ふるに更に問を以てしたり。こはトツク君を知れるものにはすこぶる自然なる応酬なるべし。
 答 自殺するは容易なりや否や?
 問 諸君の生命は永遠なりや?
 答 我等の生命に関しては諸説紛々として信ずべからず。幸ひに我等の間にも基督教、仏教、モハメツト教、拝火教等の諸宗あることを忘るる勿れ。
 問 君自身の信ずる所は?
 答 予は常に懐疑主義者なり。
 問 然れども君は少くとも心霊の存在を疑はざるべし?
 答 諸君の如く確信する能はず。
 問 君の交友の多少は如何?
 答 予の交友は古今東西に亘り、三百人を下らざるべし。その著名なるものを挙ぐれば、クライスト、マイレンデル、ワイニンゲル、……
 問 君の交友は自殺者のみなりや?
 答 必しも然りとせず。自殺を弁護せるモンテエニユの如きは予が畏友の一人なり。唯予は自殺せざりし厭世主義者、――シヨオペンハウエルの輩とは交際せず。
 問 シヨオペンハウエルは健在なりや?
 答 彼は目下心霊的厭世主義を樹立し、する可否を論じつつあり。然れどもコレラも黴菌病ばいきんびやうなりしを知り、頗る安堵せるものの如し。
 我等会員は相次いでナポレオン、孔子、ドストエフスキイ、ダアウイン、クレオパトラ、釈迦、デモステネス、ダンテ、千の利休等の心霊の消息を質問したり。然れどもトツク君は不幸にも詳細に答ふることを做さず、反つてトツク君自身に関する種々のゴシツプを質問したり。
 問 予の死後の名声は如何?
 答 或批評家は「群小詩人の一人」と言へり。
 問 彼は予が詩集を贈らざりしに怨恨を含める一人なるべし。予の全集は出版せられしや?
 答 君の全集は出版せられたれども、売行甚だ振はざるが如し。
 問 予の全集は三百年の後、――即ち著作権の失はれたる後、万人の購ふ所となるべし。予の同棲せる女友だちは如何?
 答 彼女は書肆ラツク君の夫人となれり。
 問 彼女は未だ不幸にもラツクの義眼なるを知らざるなるべし。予が子は如何?
 答 国立孤児院にありと聞けり。
 トツク君は暫く沈黙せる後、新たに質問を開始したり。
 問 予が家は如何?
 答 某写真師のステユデイオとなれり。
 問 予の机は如何になれるか?
 答 如何なれるかを知るものなし。
 問 予は予の机の抽斗に予の秘蔵せる一束の手紙を――然れどもこは幸ひにも多忙なる諸君の関する所にあらず。今やわが心霊界は徐に薄暮に沈まんとす。予は諸君と訣別すべし。さらば。諸君。さらば。わが善良なる諸君。
 ホツプ夫人は最後の言葉と共に再び急劇に覚醒したり。我等十七名の会員はこの問答の真なりしことを上天の神に誓つて保証せんとす。(尚又我等の信頼するホツプ夫人に対する報酬は嘗て夫人が女優たりし時の日当に従ひて支弁したり。)


 僕はかう云ふ記事を読んだ後、だんだんこの国にゐることも憂鬱になつて来ましたから、どうか我々人間の国へ帰ることにしたいと思ひました。しかしいくら探して歩いても、僕の落ちた穴は見つかりません。そのうちにあのバツグと云ふ漁師の河童の話には、何でもこの国の街はづれに或年をとつた河童が一匹、本を読んだり、笛を吹いたり、静かに暮らしてゐると云ふことです。僕はこの河童に尋ねて見れば、或はこの国を逃げ出す途もわかりはしないかと思ひましたから、早速街はづれへ出かけて行きました。しかしそこへ行つて見ると、如何にも小さい家の中に年をとつた河童どころか、頭の皿も固まらない、やつと十二三の河童が一匹、悠々と笛を吹いてゐました。僕は勿論間違つた家へはひつたではないかと思ひました。が、念の為に名をきいて見ると、やはりバツグの教へてくれた年よりの河童に違ひないのです。
「しかしあなたは子供のやうですが……」
「お前さんはまだ知らないのかい? わたしはどう云ふ運命か、母親の腹を出た時には白髪頭をしてゐたのだよ。それからだんだん年が若くなり、今ではこんな子供になつたのだよ。けれども年を勘定すれば、生まれる前を六十としても、彼是百十五六にはなるかも知れない。」
 僕は部屋の中を見まはしました。そこには僕の気のせゐか、質素な椅子やテエブルの間に何か清らかな幸福が漂つてゐるやうに見えるのです。
「あなたはどうもほかの河童よりも仕合せに暮らしてゐるやうですね?」
「さあ、それはさうかも知れない。わたしは若い時は年よりだつたし、年をとつた時は若いものになつてゐる。従つて年よりのやうに慾にも渇かず、若いもののやうに色にも溺れない。兎に角わたしの生涯はたとひ仕合せではないにもしろ、安らかだつたのには違ひあるまい。」
「成程それでは安らかでせう。」
「いや、まだそれだけでは安らかにはならない。わたしは体も丈夫だつたし、一生食ふに困らぬ位の財産を持つてゐたのだよ。しかし一番仕合せだつたのはやはり生まれて来た時に年よりだつたことだと思つてゐる。」
 僕は暫くこの河童と自殺したトツクの話だの毎日医者に見て貰つてゐるゲエルの話だのをしてゐました。が、なぜか年をとつた河童は余り僕の話などに興味のないやうな顔をしてゐました。
「ではあなたはほかの河童のやうに格別生きてゐることに執着を持つてはゐないのですね?」
 年をとつた河童は僕の顔を見ながら、静かにかう返事をしました。
「わたしもほかの河童のやうにこの国へ生まれて来るかどうか、一応父親に尋ねられてから母親の胎内を離れたのだよ。」
「しかし僕はふとした拍子に、この国へ転げ落ちてしまつたのです。どうか僕にこの国から出て行かれる路を教へて下さい。」
「出て行かれる路は一つしかない。」
「と云ふのは?」
「それはお前さんのここへ来た路だ。」
 僕はこの答を聞いた時になぜか身の毛がよだちました。
「その路が生憎見つからないのです。」
 年をとつた河童は水々しい目にぢつと僕の顔を見つめました。それからやつと体を起し、部屋の隅へ歩み寄ると、天井からそこに下つてゐた一本の綱を引きました。すると今まで気のつかなかつた天窓が一つ開きました。その又円い天窓の外には松や檜が枝を張つた向うに大空が青あをと晴れ渡つてゐます。いや、大きいやじりに似た槍ヶ岳の峯も聳えてゐます。僕は飛行機を見た子供のやうに実際飛び上つて喜びました。
「さあ、あすこから出て行くが好い。」
 年をとつた河童はかう言ひながら、さつきの綱を指さしました。今まで僕の綱と思つてゐたのは実は綱梯子に出来てゐたのです。
「ではあすこから出さして貰ひます。」
「唯わたしは前以て言ふがね。出て行つて後悔しないやうに。」
「大丈夫です。僕は後悔などはしません。」
 僕はかう返事をするが早いか、もう綱梯子を攀ぢ登つてゐました。年をとつた河童の頭の皿を遥か下に眺めながら。


 僕は河童の国から帰つて来た後、暫くは我々人間の皮膚の匂に閉口しました。我々人間に比べれば、河童は実に清潔なものです。のみならず我々人間の頭は河童ばかり見てゐた僕には如何にも気味の悪いものに見えました。これは或はあなたにはおわかりにならないかも知れません。しかし目や口は兎も角も、この鼻と云ふものは妙に恐しい気を起させるものです。僕は勿論出来るだけ、誰にも会はない算段をしました。が、我々人間にもいつか次第に慣れ出したと見え、半年ばかりたつうちにどこへでも出るやうになりました。唯それでも困つたことは何か話をしてゐるうちにうつかり河童の国の言葉を口に出してしまふことです。
「君はあしたは家にゐるかね?」
「Qua」
「何だつて?」
「いや、ゐると云ふことだよ。」
 大体かう云ふ調子だつたものです。
 しかし河童の国から帰つて来た後、丁度一年ほどたつた時、僕は或事業の失敗した為に…………
(S博士は彼がかう言つた時、「その話はおよしなさい」と注意をした。何でも博士の話によれば、彼はこの話をする度に看護人の手にも了へない位、乱暴になるとか云ふことである。)
 ではその話はやめませう。しかし或事業の失敗した為に僕は又河童の国へ帰りたいと思ひ出しました。さうです。「行きたい」のではありません。「帰りたい」と思ひ出したのです。河童の国は当時の僕には故郷のやうに感ぜられましたから。
 僕はそつと家を脱け出し、中央線の汽車へ乗らうとしました。そこを生憎あいにく巡査につかまり、とうとう病院へ入れられたのです。僕はこの病院へはひつた当座も河童の国のことを想ひつづけました。医者のチヤツクはどうしてゐるでせう? 哲学者のマツグも不相変七色の色硝子のランタアンの下に何か考へてゐるかも知れません。殊に僕の親友だつた、嘴の腐つた学生のラツプは、――或けふのやうに曇つた午後です。こんな追憶に耽つてゐた僕は思はず声を挙げようとしました。それはいつの間にはひつて来たか、バツグと云ふ漁師の河童が一匹、僕の前に佇みながら、何度も頭を下げてゐたからです。僕は心をとり直した後、――泣いたか笑つたかも覚えてゐません。が、兎に角久しぶりに河童の国の言葉を使ふことに感動してゐたことは確かです。
「おい、バツグ、どうして来た?」
「へい、お見舞ひに上つたのです。何でも御病気だとか云ふことですから。」
「どうしてそんなことを知つてゐる?」
「ラデイオのニウスで知つたのです。」
 バツグは得意さうに笑つてゐるのです。
「それにしてもよく来られたね?」
「何、造作はありません。東京の川や堀割りは河童には往来も同様ですから。」
 僕は河童も蛙のやうに水陸両棲の動物だつたことに今更のやうに気がつきました。
「しかしこの辺には川はないがね。」
「いえ、こちらへ上つたのは水道の鉄管を抜けて来たのです。それからちよつと消火栓をあけて…………」
「消火栓をあけて?」
「檀那はお忘れなすつたのですか? 河童にも機械屋のゐると云ふことを。」
 それから僕は二三日毎にいろいろの河童の訪問を受けました。僕の病はS博士によれば早発性痴呆症と云ふことです。しかしあの医者のチヤツクは(これは甚だあなたにも失礼に当るのに違ひありません。)僕は早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆症患者はS博士を始め、あなたがた自身だと言つてゐました。医者のチヤツクも来る位ですから、学生のラツプや哲学者のマツグの見舞ひに来たことは勿論です。が、あの漁師のバツグの外に昼間は誰も尋ねて来ません。殊に二三匹一しよに来るのは夜、――それも月のある夜です。僕はゆうべも月明りの中に硝子会社の社長のゲエルや哲学者のマツグと話をしました。のみならず音楽家のクラバツクにもヴアイオリンを一曲弾いて貰ひました。そら、向うの机の上に黒百合の花束がのつてゐるでせう? あれもゆうべクラバツクが土産に持つて来てくれたものです。…………
(僕は後を振り返つて見た。が、勿論机の上には花束も何ものつてゐなかつた。)
 それからこの本も哲学者のマツグがわざわざ持つて来てくれたものです。ちよつと最初の詩を読んで御覧なさい。いや、あなたは河童の国の言葉を御存知になる筈はありません。では代りに読んで見ませう。これは近頃出版になつたトツクの全集の一冊です。――
(彼は古い電話帳をひろげ、かう云ふ詩をおほ声に読みはじめた。)

――椰子の花や竹の中に
  仏陀はとうに眠つてゐる。

  路ばたに枯れた無花果と一しよに
  基督ももう死んだらしい。

  しかし我々は休まなければならぬ
  たとひ芝居の背景の前にも。

(その又背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴアスばかりだ。!)――

 けれども僕はこの詩人のやうに厭世的ではありません。河童たちの時々来てくれる限りは、――ああ、このことは忘れてゐました。あなたは僕の友だちだつた裁判官のペツプを覚えてゐるでせう。あの河童は職を失つた後、ほんたうに発狂してしまひました。何でも今は河童の国の精神病院にゐると云ふことです。僕はS博士さへ承知してくれれば、見舞ひに行つてやりたいのですがね…………  (昭和二・二・十一)