――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

あれが阿多多羅山あたたらやま
あの光るのが阿武隈川。

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹せんたんを魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうにとらへがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫さかぐら
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国きたぐにの木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

大正一二・三

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ああ、あなたがそんなにおびえるのは
今のあれを見たのですね。
まるで通り魔のやうに、
この深山のまきの林をとどろかして、
この深い寂寞じやくまくの境にあんな雪崩なだれをまき起して、
今はもうどこかへ往つてしまつた
あの狂奔する牛の群を。

今日はもう止しませう、
画きかけてゐたあの穂高の三角の屋根に
もうテル ヴエルトの雲が出ました
槍の氷を溶かして来る
あのセルリヤンの梓川あづさがは
もう山山がかぶさりました。
谷の白楊はくようが遠く風になびいてゐます。
今日はもう画くのを止して
この人跡たえた神苑をけがさぬほどに
又好きな焚火たきびをしませう。
天然がきれいに掃き清めたこのこけの上に
あなたもしづかにおすわりなさい。

あなたがそんなにおびえるのは
どつと逃げる牝牛の群を追ひかけて
ものおそろしくも息せき切つた、
血まみれの、若い、あの変貌した牡牛をみたからですね。
けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を
いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう。
もつと多くの事をこの身に知つて、
いつかは静かな愛にほほゑみながら――

大正一四・六

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工場の泥を凍らせてはいけない。
智恵子よ、
夕方の台所が如何に淋しからうとも、
石炭は焚かうね。
寝部屋の毛布が薄ければ、
上に坐蒲団をのせようとも、
夜明けの寒さに、
工場の泥を凍らせてはいけない。
私は冬の寝ずの番、
水銀柱の斥候ものみを放つて、
あの北風に逆襲しよう。
少しばかり正月が淋しからうとも、
智恵子よ、
石炭は焚かうね。

大正一五・二

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たらひの中でぴしやりとはねる音がする。
夜が更けると小刀の刃がえる。
木を削るのは冬の夜の北風の為事しごとである。
煖炉に入れる石炭が無くなつても、
なまづよ、
お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
檜の木片こつぱは私の眷族けんぞく
智恵子は貧におどろかない。
鯰よ、
お前のひれに剣があり、
お前の尻尾に触角があり、
お前のあぎとに黒金の覆輪があり、
さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、
何と面白い私の為事への挨拶であらう。
風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。
智恵子は寝た。
私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、
研水とみづを新しくして
更に鋭い明日の小刀を瀏瀏りゆうりゆうと研ぐ。

大正一五・二


私達の最後が餓死であらうといふ予言は、
しとしとと雪の上に降るみぞれまじりの夜の雨の言つた事です。
智恵子は人並はづれた覚悟のよい女だけれど
まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持つてゐます。
私達はすつかり黙つてもう一度雨をきかうと耳をすましました。
少し風が出たと見えて薔薇ばらの枝が窓硝子に爪を立てます。

大正一五・三

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をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽せいれつな生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。

昭和二・一

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智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山あたたらやまの山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。

昭和三・五

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――私は口をむすんで粘土をいぢる。
――智恵子はトンカラはたを織る。
――鼠は床にこぼれた南京ナンキン豆を取りに来る。
――それを雀が横取りする。
――カマキリは物干し綱に鎌を研ぐ。
――蠅とり蜘蛛ぐもは三段飛。
――かけた手拭はひとりでじやれる。
――郵便物ががちやりと落ちる。
――時計はひるね。
――鉄瓶てつびんもひるね。
――芙蓉ふようの葉は舌を垂らす。
――づしんと小さな地震。
油蝉を伴奏にして
この一群の同棲同類の頭の上から
子午線上の大火団がまつさかさまにがつと照らす。

昭和三・八

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納税告知書の赤い手触りがたもとにある、
やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。

売る事の理不尽、あがなひ得るものは所有し得る者、
所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。

両立しない造形の秘技と貨幣の強引、
両立しない創造の喜と不耕貪食どんしよくにがさ。

がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片こつぱ
ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。

昭和六・三

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足もとから鳥がたつ
自分の妻が狂気する
自分の着物がぼろになる
照尺距離三千メートル
ああこの鉄砲は長すぎる

昭和一〇・一

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狂つた智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴さつきばれの風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣ゆかたが松にかくれ又あらはれ
白い砂には松露がある
わたしは松露をひろひながら
ゆつくり智恵子のあとをおふ
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ

昭和一〇・四

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人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さなあしあとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

昭和一二・7

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智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことをる。

智恵子は現身うつしみのわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。

昭和一二・七

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二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほくなびいて波うち
すすきぼうぼうと人をうづめる
半ば狂へる妻は草をいて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭どうこくする
――わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
のがれるみち無き魂との別離
その不可抗の予感
――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙つて妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返つて
わたくしにすが
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
げきとして二人をつつむこの天地と一つになつた。

昭和一三・六

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水墨の横ものを描きをへて
その乾くのを待ちながら立つてみて居る
上高地から見た前穂高の岩の幔幕まんまく
墨のにじんだ明神だけのピラミツド
作品は時空を滅する
私の顔に天上から霧がふきつけ
私の精神にいささかの条件反射のあともない
乾いた唐紙からかみはたちまち風にふかれて
このお化屋敷の板の間に波をうつ
私はそれを巻いて小包につくらうとする
一切の苦難は心にめざめ
一切の悲歎は身うちにかへる
智恵子狂ひて既に六年
生活の試練鬢髪びんぱつ為に白い
私は手を休めて荷造りの新聞に見入る
そこにあるのは写真であつた
そそり立つ廬山ろざんに向つて無言に並ぶ野砲の列

昭和一三・八

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