六一

 同じ人六角牛に入りて白き鹿しかえり。白鹿はくろくかみなりというつたえあれば、もしきずつけて殺すことあたわずば、必ずたたりあるべしと思案しあんせしが、名誉めいよ猟人かりうどなれば世間せけんあざけりをいとい、思い切りてこれをつに、手応てごたえはあれども鹿少しも動かず。この時もいたく胸騒むなさわぎして、平生へいぜい魔除まよけとして危急ききゅうの時のために用意したる黄金おうごんたまを取り出し、これによもぎを巻きつけて打ち放したれど、鹿はなお動かず、あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中にくらせる者が、石と鹿とを見誤みあやまるべくもあらず、全く魔障ましょう仕業しわざなりけりと、この時ばかりは猟をめばやと思いたりきという。

六二

 また同じ人、ある山中さんちゅうにて小屋こやを作るいとまなくて、とある大木の下に寄り、魔除まよけのサンズなわをおのれと木のめぐりに三囲みめぐり引きめぐらし、鉄砲をたてかかえてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心づけば、大なる僧形そうぎょうの者赤きころもはねのように羽ばたきして、その木の梢におおいかかりたり。すわやと銃を打ち放せばやがてまた羽ばたきして中空なかぞらを飛びかえりたり。この時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかかる不思議にい、そのたびごとに鉄砲をめんと心に誓い、氏神うじがみ願掛がんがけなどすれど、やがて再び思い返して、年取るまで猟人かりうどの業をつることあたわずとよく人に語りたり。

六三

 小国おぐにの三浦某というは村一の金持かねもちなり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍ろどんなりき。この妻ある日かどまえを流るる小さき川に沿いてふきりに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒きもんの家あり。いぶかしけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲きにわとり多く遊べり。その庭をうらの方へまわれば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎うまやありて馬多くおれども、一向に人はおらず。ついに玄関よりあがりたるに、その次の間には朱と黒との膳椀ぜんわんをあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ひばちありて鉄瓶てつびんの湯のたぎれるを見たり。されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、して家に帰りたり。この事を人に語れどもまことと思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらばきたなしと人にしかられんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネをはかうつわとなしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまでちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げしよしをば語りぬ。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議ふしぎなる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器じゅうき家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人にさずけんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。
○このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水をみ物を洗うため家ごとに設けたるところなり。
ケセネは米ひえその他の穀物こくもつをいう。キツはその穀物をるる箱なり。大小種々のキツあり。

六四

 金沢村かねさわむら白望しろみふもと、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前この村より栃内村の山崎なるなにがしかかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当りぬ。家のありさま、牛馬雞の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶てつびんの湯たぎりて、今まさに茶をんとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるようにも思われたり。茫然ぼうぜんとして後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国おぐにの村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きてまこととする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨイガなるべし、行きて膳椀の類を持ちたり長者にならんとて、婿殿むこどのを先に立てて人あまたこれを求めに山の奥に入り、ここに門ありきというところに来たれども、眼にかかるものもなくむなしく帰り来たりぬ。その婿もついに金持になりたりということを聞かず。
○上閉伊郡金沢村。

六五

 早池峯はやちね御影石みかげいしの山なり。この山の小国にきたるかわ安倍ヶ城あべがじょうという岩あり。けわしきがけの中ほどにありて、人などはとても行きうべきところにあらず。ここには今でも安倍貞任あべのさだとうの母住めりと言い伝う。あめるべき夕方など、岩屋いわやとびらとざす音聞ゆという。小国、附馬牛つくもうしの人々は、安倍ヶ城のじょうの音がする、明日あすは雨ならんなどいう。

六六

 同じ山の附馬牛よりの登り口にもまた安倍屋敷あべやしきという巌窟あり。とにかく早池峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小国より登る山口にも八幡太郎はちまんたろう家来けらい討死うちじにしたるを埋めたりという塚三つばかりあり。

六七

 安倍貞任に関する伝説はこのほかにも多し。土淵村と昔は橋野はしのといいし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広くたいらなる原あり。そのあたりの地名に貞任というところあり。沼ありて貞任が馬をひやせしところなりという。貞任が陣屋じんやかまえしあととも言い伝う。景色けしきよきところにて東海岸よく見ゆ。

六八

 土淵村には安倍氏という家ありて貞任が末なりという。昔は栄えたる家なり。今も屋敷やしきの周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍与右衛門よえもん、今も村にては二三等の物持ものもちにて、村会議員なり。安倍の子孫はこのほかにも多し。盛岡の安倍館あべだての附近にもあり。厨川くりやがわしゃくに近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬川こがらせがわ河隈かわくまたての址あり。八幡沢はちまんざたてという。八幡太郎が陣屋というものこれなり。これより遠野の町へのみちにはまた八幡山という山ありて、その山の八幡沢の館の方に向かえる峯にもまた一つの館址たてあとあり。貞任が陣屋なりという。二つの館の間二十余町を隔つ。矢戦やいくさをしたりという言い伝えありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。この間に似田貝にたかいという部落あり。戦の当時このあたりはあししげりて土かたまらず、ユキユキと動揺せり。或る時八幡太郎ここを通りしに、敵味方てきみかたいずれの兵糧ひょうりょうにや、かゆを多く置きてあるを見て、これはた粥かといいしより村の名となる。似田貝の村の外を流るる小川を鳴川なるかわという。これを隔てて足洗川村あしらがむらあり。鳴川にて義家よしいえが足を洗いしより村の名となるという。
ニタカイアイヌ語のニタトすなわち湿地より出しなるべし。地形よく合えり。西の国々にてはニタともヌタともいう皆これなり。下閉伊郡小川村にも二田貝という字あり。

六九

 今の土淵村には大同だいどうという家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞おおほらまんのじょうという。この人の養母名はおひで、八十をえて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木にとまれる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛してよるになれば厩舎うまやに行きてね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬をれ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首にすがりて泣きいたりしを、父はこれをにくみて斧をもってうしろより馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天にのぼり去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。もとにて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎ざいけごんじゅうろうという人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の行方ゆくえを知らず。すえにて作りし妹神の像はいま附馬牛村にありといえり。

七〇

 同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマのある家には必ず伴ないています神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみある家もあり。また家によりて神の像も同じからず。山口の大同にあるオクナイサマは木像なり。山口の辷石はねいしたにえという人の家なるは掛軸かけじくなり。田圃たんぼのうちにいませるはまた木像なり。飯豊いいでの大同にもオシラサマはなけれどオクナイサマのみはいませりという。

七一

 この話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とはさまかわり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝うることはあれども、互いに厳重なる秘密を守り、その作法さほうにつきては親にも子にもいささかたりとも知らしめず。また寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家ざいけの者のみのあつまりなり。その人の数も多からず。辷石はねいしたにえという婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏あみだぶつ斎日さいにちには、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて祈祷きとうす。魔法まじないをくする故に、郷党に対して一種の権威あり。

七二

 栃内とちない村の字琴畑ことばたは深山の沢にあり。家の数は五軒ばかり、小烏瀬こがらせ川の支流の水上みなかみなり。これより栃内の民居まで二里をへだつ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像ざぞうあり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中にありしが、今はあまざらしなり。これをカクラサマという。村の子供これを玩物もてあそびものにし、引き出して川へ投げ入れまた路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬようになれり。あるいは子供をしかり戒めてこれを制止する者あれば、かえりてたたりを受け病むことありといえり。
○神体仏像子供と遊ぶを好みこれを制止するを怒りたもうことほかにも例多し。遠江小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)、駿河安倍郡豊田村曲金の軍陣坊社の神(『新風土記』)、または信濃筑摩郡射手の弥陀堂みだどうの木仏(『信濃奇勝録』)などこれなり。

七三

 カクラサマの木像は遠野郷のうちに数多あまたあり。栃内の字西内にしないにもあり。山口分の大洞おおほらというところにもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人のこれを信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳頭いしょうかしらかざりのありさまも不分明なり。

七四

 栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。いずれのカクラサマも木の半身像にてなたの荒削あらけずりの無恰好ぶかっこうなるものなり。されど人の顔なりということだけはかるなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したもうべき場所の名なりしが、その地につねいます神をかくとなうることとなれり。

七五

 離森はなれもりの長者屋敷にはこの数年前まで燐寸マッチ軸木じくぎ工場こうばありたり。その小屋の戸口によるになれば女の伺い寄りて人を見てげたげたと笑う者ありて、淋しさに堪えざる故、ついに工場を大字山口に移したり。その後また同じ山中に枕木まくらぎ伐出きりだしのために小屋をかけたる者ありしが、夕方になると人夫の者いずれへか迷い行き、帰りてのち茫然ぼうぜんとしてあることしばしばなり。かかる人夫四五人もありてその後も絶えず何方いずかたへか出でて行くことありき。この者どもが後に言うを聞けば、女がきて何処どこへか連れだすなり。帰りてのちは二日も三日も物を覚えずといえり。

七六

 長者屋敷は昔時長者の住みたりしあとなりとて、そのあたりにも糠森ぬかもりという山あり。長者の家の糠を捨てたるがなれるなりという。この山中にはいつのうつありて、その下に黄金を埋めてありとて、今もそのうつぎの有処ありかを求めあるく者稀々まれまれにあり。この長者は昔の金山師なりしならんか、このあたりには鉄を吹きたるかすあり。恩徳おんどく金山きんざんもこれより山続きにて遠からず。
○諸国のヌカスクモ塚には多くはこれと同じき長者伝説を伴なえり。また黄金埋蔵の伝説も諸国に限りなく多くあり。

七七

 山口の田尻たじり長三郎というは土淵村一番の物持ものもちなり。当主なる老人の話に、この人四十あまりのころ、おひで老人の息子むすこくなりて葬式の夜、人々念仏を終りおのおの帰り行きしあとに、自分のみは話好はなしずきなれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落あまおちの石を枕にして仰臥ぎょうがしたる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるようなり。月のある夜なればその光にて見るに、ひざを立て口を開きてあり。この人大胆者にて足にてうごかして見たれど少しも身じろぎせず。道をさまたげてほかにせんかたもなければ、ついにこれをまたぎて家に帰りたり。次の朝行きて見ればもちろんその跡方あとかたもなく、また誰もほかにこれを見たりという人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形とりどころとは昨夜の見覚みおぼえの通りなり。この人の曰く、手をかけて見たらばよかりしに、なかば恐ろしければただ足にてれたるのみなりし故、さらに何もののわざとも思いつかずと。

七八

 同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁にて生存す。かつて夜遊びに出でて遅くかえり来たりしに、主人の家の門は大槌おおづち往還に向いて立てるが、この門の前にて浜の方よりくる人に逢えり。雪合羽ゆきがっぱを着たり。近づきて立ちとまる故、長蔵も怪しみてこれを見たるに、往還を隔てて向側なる畠地の方へすっとれて行きたり。かしこには垣根かきねありしはずなるにと思いて、よく見れば垣根はまさしくあり。急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、のちになりて聞けば、これと同じ時刻に新張村にいばりむらの何某という者、浜よりの帰りみちに馬より落ちて死したりとのことなり。

七九

 この長蔵の父をもまた長蔵という。代々田尻家の奉公人にて、その妻とともに仕えてありき。若きころ夜遊びに出で、まだよいのうちに帰り来たり、かどくちより入りしに、洞前ほらまえに立てる人影あり。懐手ふところでをして筒袖つつそでの袖口を垂れ、顔はぼうとしてよく見えず。妻は名をおつねといえり。おつねのところへ来たるヨバヒトではないかと思い、つかつかと近よりしに、奥の方へはげずして、かえって右手の玄関の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、なお進みたるに、懐手のままあとずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたるところより、すっと内にはいりたり。されど長蔵はなお不思議とも思わず、その戸のすきに手を差し入れて中を探らんとせしに、中の障子しょうじまさしくとざしてあり。ここに始めて恐ろしくなり、少し引き下らんとして上を見れば、今の男玄関の雲壁くもかべにひたとつきて我を見下すごとく、その首は低くれてわが頭に触るるばかりにて、その眼の球は尺余も、抜け出でてあるように思われたりという。この時はただ恐ろしかりしのみにて何事の前兆にてもあらざりき。
ヨバヒトは呼ばい人なるべし。女に思いを運ぶ人をかくいう。
○雲壁はなげしの外側の壁なり。
田尻家の平面図

八〇

 右の話をよくみこむためには、田尻氏の家のさまを図にする必要あり。遠野一郷の家の建てかたはいずれもこれと大同小異なり。
 門はこの家のは北向きたむきなれど、通例は東向きなり。右の図にて厩舎うまやのあるあたりにあるなり。門のことを城前じょうまえという。屋敷やしきのめぐりは畠にて、囲墻いしょうを設けず。主人の寝室とウチとの間に小さく暗き室あり。これを座頭部屋ざとうべやという。昔は家に宴会あれば必ず座頭をびたり。これを待たせ置く部屋なり。
○この地方を旅行して最も心とまるは家の形のいずれもかぎの手なることなり。この家などそのよき例なり。

八一

 栃内の字野崎のざきに前川万吉という人あり。二三年前に三十余にて亡くなりたり。この人も死ぬる二三年前に夜遊びに出でて帰りしに、かどくちよりまわえんに沿いてそのかどまで来たるとき、六月の月夜のことなり、何心なにごころなく雲壁くもかべを見れば、ひたとこれにつきて寝たる男あり。色のあおざめたる顔なりき。大いに驚きて病みたりしがこれも何の前兆にてもあらざりき。田尻氏の息子丸吉この人と懇親にてこれを聞きたり。
田尻家の常居の平面図

八二

 これは田尻丸吉という人が自らいたることなり。少年の頃ある夜常居じょういより立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷ざしきとの境に人立てり。かすかに茫としてはあれど、衣類のしまも眼鼻もよく見え、髪をばれたり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当り、戸のさんにもさわりたり。されどわが手は見えずして、その上に影のようにかさなりて人の形あり。その顔のところへ手をればまた手の上に顔見ゆ。常居じょういに帰りて人々に話し、行灯あんどんを持ち行きて見たれば、すでに何ものもあらざりき。この人は近代的の人にて怜悧れいりなる人なり。また虚言をなす人にもあらず。

八三

 山口の大同、大洞万之丞おおほらまんのじょうの家の建てざまは少しくほかの家とはかわれり。その図次のページに出す。玄関はたつみの方に向かえり。きわめて古き家なり。この家には出して見ればたたりありとて開かざる古文書の葛籠つづら一つあり。
大洞家の平面図

八四

 佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。この人の青年のころといえば、嘉永かえいの頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた来住してありき。釜石かまいしにも山田にも西洋館あり。船越ふなこしの半島の突端にも西洋人の住みしことあり。耶蘇ヤソ教は密々に行われ、遠野郷にてもこれを奉じてはりつけになりたる者あり。浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合いてはめ合う者なりなどいうことを、今でも話にする老人あり。海岸地方にはあいなかなか多かりしということなり。

八五

 土淵村の柏崎かしわざきにては両親ともまさしく日本人にして白子しらこ二人ある家あり。髪も肌も眼も西洋人の通りなり。今は二十六七ぐらいなるべし。家にて農業をいとなむ。語音も土地の人とは同じからず、声細くしてするどし。

八六

 土淵村の中央にて役場小学校などのあるところを字本宿もとじゅくという。此所に豆腐屋とうふやを業とする政という者、今三十六七なるべし。この人の父大病にて死なんとするころ、この村と小烏瀬こがらせ川を隔てたる字下栃内しもとちない普請ふしんありて、地固めの堂突どうづきをなすところへ、夕方に政の父ひとり来たりて人々に挨拶あいさつし、おれも堂突をなすべしとて暫時仲間に入りて仕事をなし、やや暗くなりて皆とともに帰りたり。あとにて人々あの人は大病のはずなるにと少し不思議に思いしが、後に聞けばその日亡くなりたりとのことなり。人々悔みに行き今日のことを語りしが、その時刻はあたかも病人が息を引き取らんとするころなりき。

八七

 人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩おおわずらいして命の境に臨みしころ、ある日ふと菩提寺ぼだいじに訪い来たれり。和尚おしょう鄭重ていちょうにあしらい茶などすすめたり。世間話せけんばなしをしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せにりしに、門を出でて家の方に向い、町のかどを廻りて見えずなれり。その道にてこの人に逢いたる人まだほかにもあり。誰にもよく挨拶してつねていなりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき様態ようだいにてはあらざりしなり。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶椀を置きしところを改めしに、たたみ敷合しきあわせへ皆こぼしてありたり。

八八

 これも似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺じょうけんじ曹洞宗そうとうしゅうにて、遠野郷十二ヶ寺の触頭ふれがしらなり。或る日の夕方に村人何某という者、本宿もとじゅくより来る路にて何某という老人にあえり。この老人はかねて大病をして居る者なれば、いつのまによくなりしやと問うに、二三日気分もよろしければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりしゆえ出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門のそとにて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日せたり。

八九

 山口より柏崎へ行くには愛宕山あたごやますそまわるなり。田圃たんぼに続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木ぞうきの林となる。愛宕山のいただきには小さきほこらありて、参詣さんけいの路は林の中にあり。登口のぼりくち鳥居とりい立ち、二三十本の杉の古木あり。そのかたわらにはまた一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言い伝うるところなり。和野わのの何某という若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上よりくだり来るたけ高き人あり。誰ならんと思い林の樹木越しにその人の顔のところを目がけて歩み寄りしに、道のかどにてはたと行き逢いぬ。先方は思い掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顔は非常に赤く、眼は耀かがやきてかついかにも驚きたる顔なり。山の神なりと知りてあとをも見ずに柏崎の村に走りつきたり。
○遠野郷には山神塔多く立てり、そのところはかつて山神に逢いまたは山神の祟を受けたる場所にて神をなだむるために建てたる石なり。

九十

 松崎村に天狗森てんぐもりという山あり。その麓なる桑畠くわばたけにて村の若者何某という者、働きていたりしに、しきりねむくなりたれば、しばらく畠のくろに腰掛けて居眠いねむりせんとせしに、きわめて大なる男の顔は真赤まっかなるが出で来たれり。若者は気軽にて平生へいぜ相撲すもうなどの好きなる男なれば、この見馴みなれぬ大男が立ちはだかりて上より見下すようなるを面悪つらにくく思い、思わず立ち上りてお前はどこから来たかと問うに、何の答えもせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思い、力自慢ちからじまんのまま飛びかかり手を掛けたりと思うや否や、かえりて自分の方が飛ばされて気を失いたり。夕方に正気づきてみれば無論その大男はおらず。家に帰りてのち人にこの事を話したり。その秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢とともに馬をきてはぎを苅りに行き、さて帰らんとするころになりてこの男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死していたりという。今より二三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多くいるということは昔より人の知るところなり。