同じ人六角牛に入りて白き
鹿に
逢えり。
白鹿は
神なりという
言い
伝えあれば、もし
傷つけて殺すこと
能わずば、必ず
祟あるべしと
思案せしが、
名誉の
猟人なれば
世間の
嘲りをいとい、思い切りてこれを
撃つに、
手応えはあれども鹿少しも動かず。この時もいたく
胸騒ぎして、
平生魔除けとして
危急の時のために用意したる
黄金の
丸を取り出し、これに
蓬を巻きつけて打ち放したれど、鹿はなお動かず、あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に
暮せる者が、石と鹿とを
見誤るべくもあらず、全く
魔障の
仕業なりけりと、この時ばかりは猟を
止めばやと思いたりきという。
また同じ人、ある
夜山中にて
小屋を作るいとまなくて、とある大木の下に寄り、
魔除けのサンズ
縄をおのれと木のめぐりに
三囲引きめぐらし、鉄砲を
竪に
抱えてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心づけば、大なる
僧形の者赤き
衣を
羽のように羽ばたきして、その木の梢に
蔽いかかりたり。すわやと銃を打ち放せばやがてまた羽ばたきして
中空を飛びかえりたり。この時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかかる不思議に
遭い、そのたびごとに鉄砲を
止めんと心に誓い、
氏神に
願掛けなどすれど、やがて再び思い返して、年取るまで
猟人の業を
棄つること
能わずとよく人に語りたり。
小国の三浦某というは村一の
金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく
魯鈍なりき。この妻ある日
門の
前を流るる小さき川に沿いて
蕗を
採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き
門の家あり。
訝しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き
鶏多く遊べり。その庭を
裏の方へ
廻れば、牛小屋ありて牛多くおり、
馬舎ありて馬多くおれども、一向に人はおらず。ついに玄関より
上りたるに、その次の間には朱と黒との
膳椀をあまた取り出したり。奥の座敷には
火鉢ありて
鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、
駆け
出して家に帰りたり。この事を人に語れども
実と思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらば
汚しと人に
叱られんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネを
量る
器となしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで
経ちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げし
由をば語りぬ。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の
不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の
什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に
授けんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。
○このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水を汲み物を洗うため家ごとに設けたるところなり。
○ケセネは米稗その他の穀物をいう。キツはその穀物を容るる箱なり。大小種々のキツあり。
金沢村は
白望の
麓、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前この村より栃内村の山崎なる
某かかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当りぬ。家のありさま、牛馬雞の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に
鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を
煮んとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるようにも思われたり。
茫然として後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してついに
小国の村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて
実とする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨイガなるべし、行きて膳椀の類を持ち
来たり長者にならんとて、
婿殿を先に立てて人あまたこれを求めに山の奥に入り、ここに門ありきというところに来たれども、眼にかかるものもなく
空しく帰り来たりぬ。その婿もついに金持になりたりということを聞かず。
○上閉伊郡金沢村。
早池峯は
御影石の山なり。この山の小国に
向きたる
側に
安倍ヶ城という岩あり。
険しき
崖の中ほどにありて、人などはとても行きうべきところにあらず。ここには今でも
安倍貞任の母住めりと言い伝う。
雨の
降るべき夕方など、
岩屋の
扉を
鎖す音聞ゆという。小国、
附馬牛の人々は、安倍ヶ城の
錠の音がする、
明日は雨ならんなどいう。
同じ山の附馬牛よりの登り口にもまた
安倍屋敷という巌窟あり。とにかく早池峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小国より登る山口にも
八幡太郎の
家来の
討死したるを埋めたりという塚三つばかりあり。
安倍貞任に関する伝説はこのほかにも多し。土淵村と昔は
橋野といいし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広く
平なる原あり。そのあたりの地名に貞任というところあり。沼ありて貞任が馬を
冷せしところなりという。貞任が
陣屋を
構えし
址とも言い伝う。
景色よきところにて東海岸よく見ゆ。
土淵村には安倍氏という家ありて貞任が末なりという。昔は栄えたる家なり。今も
屋敷の周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍
与右衛門、今も村にては二三等の
物持ちにて、村会議員なり。安倍の子孫はこのほかにも多し。盛岡の
安倍館の附近にもあり。
厨川の
柵に近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、
小烏瀬川の
河隈に
館の址あり。
八幡沢の
館という。八幡太郎が陣屋というものこれなり。これより遠野の町への
路にはまた八幡山という山ありて、その山の八幡沢の館の方に向かえる峯にもまた一つの
館址あり。貞任が陣屋なりという。二つの館の間二十余町を隔つ。
矢戦をしたりという言い伝えありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。この間に
似田貝という部落あり。戦の当時このあたりは
蘆しげりて土
固まらず、ユキユキと動揺せり。或る時八幡太郎ここを通りしに、
敵味方いずれの
兵糧にや、
粥を多く置きてあるを見て、これは
煮た粥かといいしより村の名となる。似田貝の村の外を流るる小川を
鳴川という。これを隔てて
足洗川村あり。鳴川にて
義家が足を洗いしより村の名となるという。
○ニタカイはアイヌ語のニタトすなわち湿地より出しなるべし。地形よく合えり。西の国々にてはニタともヌタともいう皆これなり。下閉伊郡小川村にも二田貝という字あり。
今の土淵村には
大同という家二軒あり。山口の大同は当主を
大洞万之丞という。この人の養母名はおひで、八十を
超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に
止れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して
夜になれば
厩舎に行きて
寝ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を
連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に
縋りて泣きいたりしを、父はこれを
悪みて斧をもって
後より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に
昇り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。
本にて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の
在家権十郎という人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の
行方を知らず。
末にて作りし妹神の像は
今附馬牛村にありといえり。
同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマのある家には必ず伴ないて
在す神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみある家もあり。また家によりて神の像も同じからず。山口の大同にあるオクナイサマは木像なり。山口の
辷石たにえという人の家なるは
掛軸なり。
田圃のうちにいませるはまた木像なり。
飯豊の大同にもオシラサマはなけれどオクナイサマのみはいませりという。
この話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは
様かわり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝うることはあれども、互いに厳重なる秘密を守り、その
作法につきては親にも子にもいささかたりとも知らしめず。また寺とも僧とも少しも関係はなくて、
在家の者のみの
集まりなり。その人の数も多からず。
辷石たにえという婦人などは同じ仲間なり。
阿弥陀仏の
斎日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて
祈祷す。魔法まじないを
善くする故に、郷党に対して一種の権威あり。
栃内村の字
琴畑は深山の沢にあり。家の数は五軒ばかり、
小烏瀬川の支流の
水上なり。これより栃内の民居まで二里を
隔つ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の
座像あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中にありしが、今は
雨ざらしなり。これをカクラサマという。村の子供これを
玩物にし、引き出して川へ投げ入れまた路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬようになれり。
或いは子供を
叱り戒めてこれを制止する者あれば、かえりて
祟を受け病むことありといえり。
○神体仏像子供と遊ぶを好みこれを制止するを怒りたもうことほかにも例多し。遠江小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)、駿河安倍郡豊田村曲金の軍陣坊社の神(『新風土記』)、または信濃筑摩郡射手の弥陀堂の木仏(『信濃奇勝録』)などこれなり。
カクラサマの木像は遠野郷のうちに
数多あり。栃内の字
西内にもあり。山口分の
大洞というところにもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人のこれを信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、
衣裳頭の
飾のありさまも不分明なり。
栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。いずれのカクラサマも木の半身像にてなたの
荒削りの
無恰好なるものなり。されど人の顔なりということだけは
分かるなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したもうべき場所の名なりしが、その地に
常います神をかく
唱うることとなれり。
離森の長者屋敷にはこの数年前まで
燐寸の
軸木の
工場ありたり。その小屋の戸口に
夜になれば女の伺い寄りて人を見てげたげたと笑う者ありて、淋しさに堪えざる故、ついに工場を大字山口に移したり。その後また同じ山中に
枕木伐出しのために小屋をかけたる者ありしが、夕方になると人夫の者いずれへか迷い行き、帰りてのち
茫然としてあることしばしばなり。かかる人夫四五人もありてその後も絶えず
何方へか出でて行くことありき。この者どもが後に言うを聞けば、女がきて
何処へか連れだすなり。帰りてのちは二日も三日も物を覚えずといえり。
長者屋敷は昔時長者の住みたりし
址なりとて、そのあたりにも
糠森という山あり。長者の家の糠を捨てたるがなれるなりという。この山中には
五つ
葉のうつ
木ありて、その下に黄金を埋めてありとて、今もそのうつぎの
有処を求めあるく者
稀々にあり。この長者は昔の金山師なりしならんか、このあたりには鉄を吹きたる
滓あり。
恩徳の
金山もこれより山続きにて遠からず。
○諸国のヌカ塚スクモ塚には多くはこれと同じき長者伝説を伴なえり。また黄金埋蔵の伝説も諸国に限りなく多くあり。
山口の
田尻長三郎というは土淵村一番の
物持なり。当主なる老人の話に、この人四十あまりのころ、おひで老人の
息子亡くなりて葬式の夜、人々念仏を終りおのおの帰り行きし
跡に、自分のみは
話好きなれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の
雨落ちの石を枕にして
仰臥したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるようなり。月のある夜なればその光にて見るに、
膝を立て口を開きてあり。この人大胆者にて足にて
揺かして見たれど少しも身じろぎせず。道を
妨げて
外にせん
方もなければ、ついにこれを
跨ぎて家に帰りたり。次の朝行きて見ればもちろんその
跡方もなく、また誰も
外にこれを見たりという人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形と
在りどころとは昨夜の
見覚えの通りなり。この人の曰く、手をかけて見たらばよかりしに、
半ば恐ろしければただ足にて
触れたるのみなりし故、さらに何もののわざとも思いつかずと。
同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁にて生存す。かつて夜遊びに出でて遅くかえり来たりしに、主人の家の門は
大槌往還に向いて立てるが、この門の前にて浜の方よりくる人に逢えり。
雪合羽を着たり。近づきて立ちとまる故、長蔵も怪しみてこれを見たるに、往還を隔てて向側なる畠地の方へすっと
反れて行きたり。かしこには
垣根ありしはずなるにと思いて、よく見れば垣根は
正しくあり。急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、のちになりて聞けば、これと同じ時刻に
新張村の何某という者、浜よりの帰り
途に馬より落ちて死したりとのことなり。
この長蔵の父をもまた長蔵という。代々田尻家の奉公人にて、その妻とともに仕えてありき。若きころ夜遊びに出で、まだ
宵のうちに帰り来たり、
門の
口より入りしに、
洞前に立てる人影あり。
懐手をして
筒袖の袖口を垂れ、顔は
茫としてよく見えず。妻は名をおつねといえり。おつねのところへ来たるヨバヒトではないかと思い、つかつかと近よりしに、奥の方へは
遁げずして、かえって右手の玄関の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、なお進みたるに、懐手のまま
後ずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたるところより、すっと内に
入りたり。されど長蔵はなお不思議とも思わず、その戸の
隙に手を差し入れて中を探らんとせしに、中の
障子は
正しく
閉してあり。ここに始めて恐ろしくなり、少し引き下らんとして上を見れば、今の男玄関の
雲壁にひたとつきて我を見下すごとく、その首は低く
垂れてわが頭に触るるばかりにて、その眼の球は尺余も、抜け出でてあるように思われたりという。この時はただ恐ろしかりしのみにて何事の前兆にてもあらざりき。
○ヨバヒトは呼ばい人なるべし。女に思いを運ぶ人をかくいう。
○雲壁はなげしの外側の壁なり。
右の話をよく
呑みこむためには、田尻氏の家のさまを図にする必要あり。遠野一郷の家の建てかたはいずれもこれと大同小異なり。
門はこの家のは
北向きなれど、通例は東向きなり。右の図にて
厩舎のあるあたりにあるなり。門のことを
城前という。
屋敷のめぐりは畠にて、
囲墻を設けず。主人の寝室とウチとの間に小さく暗き室あり。これを
座頭部屋という。昔は家に宴会あれば必ず座頭を
喚びたり。これを待たせ置く部屋なり。
○この地方を旅行して最も心とまるは家の形の何れもかぎの手なることなり。この家などそのよき例なり。
栃内の字
野崎に前川万吉という人あり。二三年前に三十余にて亡くなりたり。この人も死ぬる二三年前に夜遊びに出でて帰りしに、
門の
口より
廻り
縁に沿いてその
角まで来たるとき、六月の月夜のことなり、
何心なく
雲壁を見れば、ひたとこれにつきて寝たる男あり。色の
蒼ざめたる顔なりき。大いに驚きて病みたりしがこれも何の前兆にてもあらざりき。田尻氏の息子丸吉この人と懇親にてこれを聞きたり。
これは田尻丸吉という人が自ら
遭いたることなり。少年の頃ある夜
常居より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、
座敷との境に人立てり。
幽かに茫としてはあれど、衣類の
縞も眼鼻もよく見え、髪をば
垂れたり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当り、戸のさんにも
触りたり。されどわが手は見えずして、その上に影のように
重なりて人の形あり。その顔のところへ手を
遣ればまた手の上に顔見ゆ。
常居に帰りて人々に話し、
行灯を持ち行きて見たれば、すでに何ものもあらざりき。この人は近代的の人にて
怜悧なる人なり。また虚言をなす人にもあらず。
山口の大同、
大洞万之丞の家の建てざまは少しく
外の家とはかわれり。その図次のページに出す。玄関は
巽の方に向かえり。きわめて古き家なり。この家には出して見れば
祟ありとて開かざる古文書の
葛籠一つあり。
佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。この人の青年のころといえば、
嘉永の頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた来住してありき。
釜石にも山田にも西洋館あり。
船越の半島の突端にも西洋人の住みしことあり。
耶蘇教は密々に行われ、遠野郷にてもこれを奉じて
磔になりたる者あり。浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合いては
嘗め合う者なりなどいうことを、今でも話にする老人あり。海岸地方には
合の
子なかなか多かりしということなり。
土淵村の
柏崎にては両親とも
正しく日本人にして
白子二人ある家あり。髪も肌も眼も西洋人の通りなり。今は二十六七ぐらいなるべし。家にて農業を
営む。語音も土地の人とは同じからず、声細くして
鋭し。
土淵村の中央にて役場小学校などのあるところを字
本宿という。此所に
豆腐屋を業とする政という者、今三十六七なるべし。この人の父大病にて死なんとするころ、この村と
小烏瀬川を隔てたる字
下栃内に
普請ありて、地固めの
堂突をなすところへ、夕方に政の父ひとり来たりて人々に
挨拶し、おれも堂突をなすべしとて暫時仲間に入りて仕事をなし、やや暗くなりて皆とともに帰りたり。あとにて人々あの人は大病のはずなるにと少し不思議に思いしが、後に聞けばその日亡くなりたりとのことなり。人々悔みに行き今日のことを語りしが、その時刻はあたかも病人が息を引き取らんとするころなりき。
人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人
大煩いして命の境に臨みしころ、ある日ふと
菩提寺に訪い来たれり。
和尚鄭重にあしらい茶などすすめたり。
世間話をしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに
遣りしに、門を出でて家の方に向い、町の
角を廻りて見えずなれり。その道にてこの人に逢いたる人まだほかにもあり。誰にもよく挨拶して
常の
体なりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき
様態にてはあらざりしなり。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶椀を置きしところを改めしに、
畳の
敷合わせへ皆こぼしてありたり。
これも似たる話なり。土淵村大字土淵の
常堅寺は
曹洞宗にて、遠野郷十二ヶ寺の
触頭なり。或る日の夕方に村人何某という者、
本宿より来る路にて何某という老人にあえり。この老人はかねて大病をして居る者なれば、いつのまによくなりしやと問うに、二三日気分も
宜しければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりし
故出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の
外にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日
失せたり。
山口より柏崎へ行くには
愛宕山の
裾を
廻るなり。
田圃に続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より
雑木の林となる。愛宕山の
頂には小さき
祠ありて、
参詣の路は林の中にあり。
登口に
鳥居立ち、二三十本の杉の古木あり。その
旁にはまた一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言い伝うるところなり。
和野の何某という若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より
降り来る
丈高き人あり。誰ならんと思い林の樹木越しにその人の顔のところを目がけて歩み寄りしに、道の
角にてはたと行き逢いぬ。先方は思い掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顔は非常に赤く、眼は
耀きてかついかにも驚きたる顔なり。山の神なりと知りて
後をも見ずに柏崎の村に走りつきたり。
○遠野郷には山神塔多く立てり、そのところはかつて山神に逢いまたは山神の祟を受けたる場所にて神をなだむるために建てたる石なり。
松崎村に
天狗森という山あり。その麓なる
桑畠にて村の若者何某という者、働きていたりしに、
頻に
睡くなりたれば、しばらく畠の
畔に腰掛けて
居眠りせんとせしに、きわめて大なる男の顔は
真赤なるが出で来たれり。若者は気軽にて
平生相撲などの好きなる男なれば、この
見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すようなるを
面悪く思い、思わず立ち上りてお前はどこから来たかと問うに、何の答えもせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思い、
力自慢のまま飛びかかり手を掛けたりと思うや否や、かえりて自分の方が飛ばされて気を失いたり。夕方に正気づきてみれば無論その大男はおらず。家に帰りてのち人にこの事を話したり。その秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢とともに馬を
曳きて
萩を苅りに行き、さて帰らんとするころになりてこの男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死していたりという。今より二三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多くいるということは昔より人の知るところなり。