「優しいなかに強みのある、気軽に見えてもどこにか落着のある、
馴々しくて犯し
易からぬ品のいい、いかなることにもいざとなれば驚くに足らぬという身に
応のあるといったような風の
婦人、かく
嬌瞋を発してはきっといいことはあるまい、今この
婦人に
邪慳にされては木から落ちた猿同然じゃと、おっかなびっくりで、おずおず控えていたが、いや案ずるより
産が安い。
(
貴僧、さぞおかしかったでござんしょうね、)と自分でも思い出したように快く
微笑みながら、
(しようがないのでございますよ。)
以前と変らず心安くなった、帯も早やしめたので、
(それでは
家へ帰りましょう。)と
米磨桶を
小腋にして、
草履を
引かけてつと
崖へ
上った。
(お
危うござんすから。)
(いえ、もうだいぶ勝手が分っております。)
ずッと
心得た
意じゃったが、さて
上る時見ると思いの
外上までは大層高い。
やがてまた例の木の丸太を渡るのじゃが、さっきもいった通り草のなかに横倒れになっている木地がこうちょうど
鱗のようで、
譬にもよくいうが松の木は
蝮に似ているで。
殊に崖を、上の方へ、いい
塩梅に
蜿った様子が、とんだものに持って来いなり、およそこのくらいな
胴中の長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月あかりに
歴然とそれ。
山路の時を思い出すと我ながら足が
竦む。
婦人は深切に
後を
気遣うては気を付けてくれる。
(それをお渡りなさいます時、下を見てはなりません。ちょうどちゅうとでよッぽど谷が深いのでございますから、目が
廻うと悪うござんす。)
(はい。)
愚図愚図してはいられぬから、
我身を笑いつけて、まず乗った。
引かかるよう、
刻が入れてあるのじゃから、気さえ
確なら
足駄でも
歩行かれる。
それがさ、一件じゃから
耐らぬて、乗るとこうぐらぐらして柔かにずるずると
這いそうじゃから、わっというと
引跨いで腰をどさり。
(ああ、
意気地はございませんねえ。足駄では無理でございましょう、これとお
穿き
換えなさいまし、あれさ、ちゃんということを
肯くんですよ。)
私はそのさっきから
何んとなくこの
婦人に
畏敬の念が生じて善か悪か、どの道命令されるように心得たから、いわるるままに草履を穿いた。
するとお聞きなさい、
婦人は足駄を穿きながら手を取ってくれます。
たちまち身が軽くなったように覚えて、
訳なく
後に従って、ひょいとあの
孤家の
背戸の
端へ出た。
出会頭に声を
懸けたものがある。
(やあ、大分手間が取れると思ったに、ご
坊様旧の体で帰らっしゃったの。)
(何をいうんだね、
小父様家の番はどうおしだ。)
(もういい時分じゃ、また
私も
余り
遅うなっては道が困るで、そろそろ青を引出して
支度しておこうと思うてよ。)
(それはお
待遠でござんした。)
(何さ、行ってみさっしゃいご
亭主は無事じゃ、いやなかなか
私が手には
口説落されなんだ、ははははは。)と意味もないことを
大笑して、
親仁は
厩の方へてくてくと行った。
白痴はおなじ処になお形を存している、
海月も日にあたらねば解けぬとみえる。」
「ヒイイン! しっ、どうどうどうと背戸を
廻る
鰭爪の音が
縁へ
響いて
親仁は一頭の馬を門前へ引き出した。
轡頭を取って立ちはだかり、
(嬢様そんならこのままで
私参りやする、はい、ご
坊様にたくさんご
馳走して上げなされ。)
婦人は
炉縁に
行燈を
引附け、
俯向いて
鍋の下を
燻していたが、
振仰ぎ、鉄の
火箸を持った手を
膝に置いて、
(ご苦労でござんす。)
(いんえご
懇には及びましねえ。しっ!)と
荒縄の
綱を引く。青で
蘆毛、
裸馬で
逞しいが、
鬣の薄い
牡じゃわい。
その馬がさ、私も別に馬は珍しゅうもないが、
白痴殿の
背後に
畏って
手持不沙汰じゃから今引いて行こうとする時縁側へひらりと出て、
(その馬はどこへ。)
(おお、
諏訪の湖の
辺まで馬市へ出しやすのじゃ、これから
明朝お坊様が
歩行かっしゃる山路を越えて行きやす。)
(もし、それへ乗って今からお
遁げ遊ばすお
意ではないかい。)
婦人は
慌だしく遮って声を懸けた。
(いえ、もったいない、
修行の身が馬で足休めをしましょうなぞとは存じませぬ。)
(何でも人間を乗っけられそうな馬じゃあござらぬ。お坊様は命拾いをなされたのじゃで、
大人しゅうして嬢様の
袖の中で、今夜は助けて
貰わっしゃい。さようならちょっくら行って参りますよ。)
(あい。)
(
畜生。)といったが馬は出ないわ。びくびくと
蠢いて見える
大な
鼻面をこちらへ
捻じ向けてしきりに
私等が居る方を見る様子。
(どうどうどう、畜生これあだけた
獣じゃ、やい!)
右左にして綱を引張ったが、
脚から根をつけたごとくにぬっくと立っていてびくともせぬ。
親仁大いに
苛立って、
叩いたり、
打ったり、馬の胴体について二三度ぐるぐると廻ったが少しも歩かぬ。肩でぶッつかるようにして
横腹へ
体をあてた時、ようよう前足を上げたばかりまた
四脚を
突張り抜く。
(嬢様嬢様。)
と
親仁が
喚くと、
婦人はちょっと立って白い
爪さきをちょろちょろと
真黒に
煤けた太い柱を
楯に取って、馬の目の届かぬほどに小隠れた。
その内腰に
挟んだ、
煮染めたような、なえなえの
手拭を抜いて
克明に刻んだ額の
皺の汗を
拭いて、
親仁はこれでよしという
気組、再び前へ廻ったが、
旧によって
貧乏動もしないので、綱に両手をかけて足を
揃えて
反返るようにして、うむと
総身に力を入れた。とたんにどうじゃい。
凄じく
嘶いて前足を両方
中空へ
翻したから、小さな
親仁は仰向けに
引くりかえった、ずどんどう、月夜に砂煙がぱっと立つ。
白痴にもこれは
可笑しかったろう、この時ばかりじゃ、
真直に首を
据えて厚い
唇をばくりと開けた、
大粒な歯を
露出して、あの宙へ下げている手を風で
煽るように、はらりはらり。
(世話が焼けることねえ、)
婦人は投げるようにいって
草履を
突かけて土間へついと出る。
(嬢様
勘違いさっしゃるな、これはお前様ではないぞ、何でもはじめからそこなお坊様に目をつけたっけよ、畜生
俗縁があるだッぺいわさ。)
俗縁は
驚いたい。
すると婦人が、
(
貴僧ここへいらっしゃる
路で誰にかお
逢いなさりはしませんか。)」
「(はい、
辻の手前で富山の
反魂丹売に逢いましたが、一足先にやっぱりこの路へ入りました。)
(ああ、そう。)と会心の
笑を
洩して
婦人は
蘆毛の方を見た、およそ
耐らなく
可笑しいといったはしたない
風采で。
極めて
与し
易う見えたので、
(もしや
此家へ参りませなんだでございましょうか。)
(いいえ、存じません。)という時たちまち犯すべからざる者になったから、
私は口をつぐむと、
婦人は、
匙を投げて
衣の
塵を払うている馬の前足の下に小さな
親仁を見向いて、
(しょうがないねえ、)といいながら、かなぐるようにして、その細帯を解きかけた、
片端が土へ引こうとするのを、
掻取ってちょいと
猶予う。
(ああ、ああ。)と
濁った声を出して
白痴が
件のひょろりとした手を
差向けたので、
婦人は解いたのを渡してやると、
風呂敷を
寛げたような、
他愛のない、力のない、
膝の上へわがねて
宝物を守護するようじゃ。
婦人は
衣紋を抱き合せ、乳の下でおさえながら
静に土間を出て馬の
傍へつつと寄った。
私はただ
呆気に取られて見ていると、
爪立をして伸び上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度
鬣を
撫でたが。
大きな
鼻頭の正面にすっくりと立った。
丈もすらすらと急に高くなったように見えた、
婦人は目を
据え、口を結び、
眉を開いて
恍惚となった
有様、
愛嬌も
嬌態も、世話らしい
打解けた風はとみに
失せて、神か、
魔かと思われる。
その時裏の山、向うの
峰、左右前後にすくすくとあるのが、一ツ一ツ
嘴を向け、
頭を
擡げて、この
一落の別天地、
親仁を
下手に控え、馬に面して
彳んだ月下の美女の姿を
差覗くがごとく、
陰々として
深山の気が
籠って来た。
生ぬるい風のような
気勢がすると思うと、左の肩から
片膚を脱いだが、右の手を
脱して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着ていたその
単衣を
円げて持ち、
霞も
絡わぬ姿になった。
馬は
背、腹の皮を
弛めて汗もしとどに流れんばかり、
突張った脚もなよなよとして
身震をしたが、
鼻面を地につけて
一掴の
白泡を
吹出したと思うと前足を折ろうとする。
その時、
頤の下へ手をかけて、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を
蔽うが否や、
兎は
躍って、
仰向けざまに身を
翻し、
妖気を
籠めて
朦朧とした月あかりに、前足の間に
膚が
挟ったと思うと、
衣を脱して
掻取りながら下腹をつと
潜って横に抜けて出た。
親仁は
差心得たものと見える、この
機かけに
手綱を引いたから、馬はすたすたと
健脚を
山路に上げた、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん、――見る
間に眼界を遠ざかる。
婦人は早や
衣服を
引かけて
縁側へ入って来て、
突然帯を取ろうとすると、
白痴は
惜しそうに押えて放さず、手を上げて、
婦人の胸を
圧えようとした。
邪慳に払い
退けて、きっと
睨んで見せると、そのままがっくりと
頭を垂れた、すべての光景は
行燈の火も
幽に
幻のように見えたが、炉にくべた
柴がひらひらと
炎先を立てたので、
婦人はつと走って入る。空の月のうらを行くと思うあたり
遥に
馬子歌が聞えたて。」
「さて、それからご飯の時じゃ、
膳には
山家の
香の物、
生姜の
漬けたのと、わかめを
茹でたの、塩漬の名も知らぬ
蕈の
味噌汁、いやなかなか
人参と
干瓢どころではござらぬ。
品物は
侘しいが、なかなかのお手料理、
餓えてはいるし、
冥加至極なお給仕、盆を膝に構えてその上に
肱をついて、
頬を支えながら、
嬉しそうに見ていたわ。
縁側に居た
白痴は
誰も
取合ぬ
徒然に
堪えられなくなったものか、ぐたぐたと
膝行出して、
婦人の
傍へその
便々たる腹を持って来たが、
崩れたように
胡坐して、しきりにこう我が膳を
視めて、
指をした。
(うううう、うううう。)
(何でございますね、あとでお
食んなさい、お客様じゃあありませんか。)
白痴は情ない顔をして口を
曲めながら
頭を
掉った。
(
厭? しょうがありませんね、それじゃご
一所に召しあがれ。
貴僧、ご
免を
蒙りますよ。)
私は思わず
箸を置いて、
(さあどうぞお構いなく、とんだご
雑作を頂きます。)
(いえ、何の
貴僧。お前さん
後ほどに私と一所にお食べなさればいいのに。困った人でございますよ。)とそらさぬ
愛想、手早くおなじような膳を
拵えてならべて出した。
飯のつけようも
効々しい
女房ぶり、しかも何となく
奥床しい、上品な、
高家の風がある。
白痴はどんよりした目をあげて膳の上を
睨めていたが、
(あれを、ああ、ああ、あれ。)といってきょろきょろと
四辺を
眗す。
婦人はじっと
瞻って、
(まあ、いいじゃないか。そんなものはいつでも食られます、今夜はお客様がありますよ。)
(うむ、いや、いや。)と肩腹を
揺ったが、べそを
掻いて泣出しそう。
婦人は
困じ果てたらしい、
傍のものの気の毒さ。
(嬢様、何か存じませんが、おっしゃる通りになすったがよいではござりませんか。
私にお
気遣はかえって心苦しゅうござります。)と
慇懃にいうた。
婦人はまたもう一度、
(厭かい、これでは悪いのかい。)
白痴が泣出しそうにすると、さも
怨めしげに
流眄に見ながら、こわれごわれになった
戸棚の中から、
鉢に入ったのを取り出して手早く
白痴の膳につけた。
(はい。)と
故とらしく、すねたようにいって
笑顔造。
はてさて
迷惑な、こりゃ目の前で
黄色蛇の
旨煮か、
腹籠の猿の
蒸焼か、災難が軽うても、
赤蛙の
干物を大口にしゃぶるであろうと、そっと見ていると、片手に
椀を持ちながら
掴出したのは
老沢庵。
それもさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたろうという
握太なのを
横銜えにしてやらかすのじゃ。
婦人はよくよくあしらいかねたか、
盗むように
私を見てさっと顔を
赭らめて初心らしい、そんな
質ではあるまいに、
羞かしげに
膝なる
手拭の
端を口にあてた。
なるほどこの少年はこれであろう、
身体は沢庵色にふとっている。やがてわけもなく
餌食を
平らげて湯ともいわず、ふッふッと
大儀そうに
呼吸を向うへ
吐くわさ。
(何でございますか、私は胸に
支えましたようで、ちっとも欲しくございませんから、また
後ほどに頂きましょう、)
と
婦人自分は箸も取らずに二ツの膳を片づけてな。」
「しばらくしょんぼりしていたっけ。
(
貴僧、さぞお
疲労、すぐにお休ませ申しましょうか。)
(
難有う存じます、まだちっとも眠くはござりません、さっき体を洗いましたので
草臥もすっかり
復りました。)
(あの流れはどんな病にでもよく利きます、
私が苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が
朽れましても、半日あすこにつかっておりますと、水々しくなるのでございますよ。もっともあのこれから冬になりまして山がまるで氷ってしまい、川も
崕も残らず雪になりましても、
貴僧が行水を遊ばしたあすこばかりは水が
隠れません、そうしていきりが立ちます。
鉄砲疵のございます猿だの、
貴僧、足を折った
五位鷺、
種々なものが
浴みに参りますからその
足跡で
崕の路が出来ますくらい、きっとそれが利いたのでございましょう。
そんなにございませんければこうやってお話をなすって下さいまし、
寂しくってなりません、
本当にお
愧しゅうございますが、こんな山の中に
引籠っておりますと、ものをいうことも忘れましたようで、心細いのでございますよ。
貴僧、それでもお眠ければご
遠慮なさいますなえ。別にお
寝室と申してもございませんがその代り
蚊は一ツも居ませんよ、
町方ではね、
上の
洞の者は、里へ泊りに来た時
蚊帳を
釣って寝かそうとすると、どうして入るのか解らないので、
梯子を貸せいと
喚いたと申して
嬲るのでございます。
たんと
朝寐を遊ばしても
鐘は聞えず、
鶏も鳴きません、犬だっておりませんからお
心安うござんしょう。
この人も生れ落ちるとこの山で育ったので、何にも存じません代り、気のいい人でちっともお
心置はないのでござんす。
それでも
風俗のかわった方がいらっしゃいますと、大事にしてお
辞儀をすることだけは知ってでございますが、まだご
挨拶をいたしませんね。この
頃は体がだるいと見えてお
惰けさんになんなすったよ。いいえ、まるで
愚なのではございません、何でもちゃんと
心得ております。
さあ、ご坊様にご挨拶をなすって下さい。まあ、お辞儀をお忘れかい。)と親しげに身を寄せて、顔を差し
覗いて、いそいそしていうと、
白痴はふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたようにがっくり一礼。
(はい、)といって
私も何か胸が
迫って
頭を下げた。
そのままその
俯向いた
拍子に筋が抜けたらしい、横に流れようとするのを、
婦人は優しゅう
扶け起して、
(おお、よくしたねえ。)
天晴といいたそうな
顔色で、
(
貴僧、申せば何でも出来ましょうと思いますけれども、この人の病ばかりはお医者の手でもあの水でも
復りませなんだ、両足が立ちませんのでございますから、何を覚えさしましても役には立ちません。それにご覧なさいまし、お辞儀一ツいたしますさえ、あの通り
大儀らしい。
ものを教えますと覚えますのにさぞ骨が折れて
切のうござんしょう、体を苦しませるだけだと存じて何にもさせないで置きますから、だんだん、手を動かす
働も、ものをいうことも忘れました。それでもあの、
謡が
唄えますわ。二ツ三ツ今でも知っておりますよ。さあお客様に一ツお聞かせなさいましなね。)
白痴は
婦人を見て、また
私が顔をじろじろ見て、
人見知をするといった形で首を振った。」